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八百年、誰にも見つけられない墓――チンギス・ハンを埋めた者たちが皆殺しにされた理由

世界の陸地の、だいたい四分の一。それが一人の男が生きているあいだに手に入れた面積だ。ユーラシアの東の端から西の果てまで、馬の脚が届く範囲はほぼ全部そいつのものになった。なのに、その男が今どこに埋まっているのかを、八百年経った今も地球上の誰一人として知らない。これ、冷静に考えるとめちゃくちゃ異常な話なんだよな。ピラミッドは残っている。始皇帝の陵は場所どころか大きさまで分かっている。

ツタンカーメンだって出てきた。ところがチンギス・ハンだけは、墓が「ない」。正確には、あるはずなのに誰も辿り着けない。しかもそれは偶然じゃなくて、本人と部下たちが全力でそう仕組んだ結果らしい、というのが話をさらに厄介にしている。

一二二七年八月、六盤山の陣中で倒れた老人

まず死のところから始めよう。時は一二二七年の夏。場所は現在の中国、寧夏と甘粛のあいだにそびえる六盤山のあたり。チンギス・ハンはこのとき六十代半ば、最後の遠征として西夏を潰しにかかっていた。西夏はかつてモンゴルに服属しながら、ホラズム遠征のときに援軍を出さなかった。その裏切りをこの老人は忘れていなかった。だから最後の戦争は、征服というより処刑に近い性格を帯びていた。

夏の暑さを避けて本営は六盤山に置かれていた。そこで、彼は倒れる。『元史』の記述をひとつずつ拾っていくと、八月十八日から二十五日にかけて高熱が続き、発症から八日で息を引き取ったことになる。つまり急死ではないが、長患いでもない。一週間ちょっとで、ユーラシアを丸ごと呑み込んだ男が消えた。

死の床でのやりとりは、複数の史料がだいたい同じ方向を向いている。彼は西夏の皇帝を必ず殺せと命じた。そして末子のトルイに、金を滅ぼすための具体的な戦略を口述した。宋の領内を借りて迂回し、背後から金を突く。この遺言は数年後にそのまま実行され、そして実際に金は滅びる。死にかけの老人が布団の中で描いた地図の通りに、東アジアの国が一つ消えたわけだ。

そしてもう一つ、彼は命じた。死を隠せ、と。遠征の途中で総司令官が死んだと知れれば軍は崩れる。西夏はまだ落ちていない。だから兵にも、敵にも、誰にも言うな。この「死の秘匿命令」こそが、後の八百年の謎の第一原因になる。史料が曖昧なのは、記録者が怠けたからじゃない。当時、本当に誰も詳しいことを知らされなかったからだ。

落馬か、矢か、姫か、疫病か――死因が四つも並ぶ異常

で、何で死んだのか。ここがまた面白い。候補が四つも五つもあって、どれも決定打を欠いている。

一番地味で一番有力なのが落馬説だ。死の前年の冬、野生馬の群れが近くを走り抜けたときに乗っていた馬が驚いて跳ね、老人は地面に叩きつけられた。内臓を痛め、高熱が出た。周囲は遠征の延期を進言したが、本人は「タングートに笑われる」と言って聞かなかった。この話はモンゴル側の伝承にも中国側の記録にも影を落としていて、要するに「もともと弱っていた」という土台になっている。

次が矢傷説。これはマルコ・ポーロが書き残したもので、西夏の城を攻めているときに膝に矢を受け、その傷が化膿して死んだという筋書きだ。ポーロがモンゴル宮廷に出入りしたのは死から半世紀以上あとだから、宮廷内で流通していた版のひとつを聞き書きした、と考えるのが妥当なところ。

三つ目が病死説。単純に、熱病、あるいはチフスや赤痢の類い。そして二〇二一年から二二年にかけて、オーストラリアとイタリアの研究チーム――アデレード大学のウェンペン・ユー、フリンダース大学の古病理学者フランチェスコ・ガラッシ、カターニア大学のエレナ・ヴァロット、そしてマチェイ・ヘンネベルク――が医学系の学術誌にこう書いた。あれはペストだったのではないか、と。彼らの論拠はこうだ。

『元史』が記す「八日で死んだ高熱」という経過は、チフスにしては腹痛や嘔吐の記述がなさすぎる。逆にペストの臨床像とはよく合う。しかも死の前年、モンゴル軍の中で疫病が大流行していて、耶律楚材という側近が大黄を使って数千人の兵を治療した記録が残っている。つまり陣中にはすでに病原体がいた。

ガラッシは、英雄には英雄らしい死に方を後世が与えたがるものだが、実際には平凡な感染症であることのほうが多い、という趣旨のことを言っている。身も蓋もないが、たぶん一番正しい。

そして四つ目。オカルト方面で圧倒的に人気なのが、西夏の姫による暗殺説だ。名はグルベルジン・ゴア、「トカゲのように美しい女」という意味の名で呼ばれる。西夏王の妃、あるいは娘。国が滅ぼされたあと、戦利品としてチンギスの寝所に送り込まれた。そこで彼女は復讐を果たす。

版が二つあって、穏当なほうは、水浴びを口実に人払いをさせて刃物を持ち込み、事を終えたあとの老人を刺し、そのまま黄河に身を投げて死んだ、というもの。もう一つの版は、ちょっとここには詳しく書きにくいのだが、身体の中に金属を仕込んでいて、それが致命傷になったというものだ。

この話、注意しないといけないのは出所だ。同時代史料には影も形もない。出てくるのは十六世紀から十八世紀のモンゴル語年代記、つまり死から三百年から五百年も後の文献群だ。現代のモンゴル人研究者のあいだでは、後半の露骨な版はチンギスの血統に属さないオイラト系の勢力が、大ハーンの記憶を貶めるために流したプロパガンダだろう、という見方が強い。事実としてはほぼ却下されている。

それでも語り継がれるのは、単純に、話として強すぎるからなんだよな。滅ぼされた国の姫が、征服者を寝台の上で仕留める。これに勝てる筋書きはそうそうない。

遺体を運ぶ隊列は、出会った者を残らず斬った

さて、本題の埋葬だ。

老人が死んだのは中国の北西部。埋めるべき故郷はモンゴル高原の北東、ヘンティー山中。直線距離でも千数百キロある。夏である。腐敗する。それでも彼らは遺体をモンゴルまで運んだ。ここから先が、この話のタイトルになっている部分だ。

伝承はこう語る。棺を載せた車列は北へ向かって走り続けた。道中で行き会った人間は、老いも若きも、男も女も、その場で斬られた。羊飼いも、旅人も、たまたま丘の上にいた子どもも。動物すら見逃さなかった、と言い張る版もある。斬るときの決まり文句まで伝わっていて、マルコ・ポーロが書き留めたのはこうだ。「行け、あの世で我らが主君にお仕えせよ」。殺すのではなく、先に送って死後の従者にしてやるのだ、という理屈だ。

埋葬が終わると、穴を掘った奴隷たちが殺された。伝えられる数は二千。そしてその二千を殺した兵士たちも、別の部隊に殺された。さらにその部隊も――というふうに、秘密を知る者の層を順番に剥がして焼いていった。最終的に、墓の位置を知る人間はこの世からいなくなった。

いい話だ。恐ろしくて、整合的で、映画にしやすい。ただし、ここではっきり言っておかないといけない。この皆殺しの話は、同時代の史料には一行も出てこない。ポーロが書いているのは実は微妙にズレていて、彼が「二万人が殺された」と数字を挙げているのはチンギスの葬列ではなく、孫のモンケ・ハンの葬列についてなんだよな。それが伝言ゲームの過程でチンギスに接ぎ木された。

欧米のファクトチェック機関がこの話を検証したときの判定も「立証されず」だった。裏付ける同時代の証拠がどこにもない。

じゃあ全部デタラメかというと、そこも断言はできない。モンゴルの草原に墓を隠すという文化そのものは実在した。地上に何も建てない、目印を残さない、という埋葬習慣は考古学的にも確認されている。皆殺しは盛りすぎだとしても、「見た者を口封じする」程度のことがあった可能性は消えない。ここが厄介なところで、盛られた伝説の芯には、たいてい何かしら硬いものが入っている。

馬に踏ませ、木を植え、川を流す

隠蔽工作の話も具体的だ。まず、埋めたあとの地面を平らに戻す。掘り返した土の色の違いを消すために、千頭とも言われる馬の群れをその上に走らせた。蹄で踏み固め、草原の表面を均一にする。これが有名な「万馬踏平」のイメージだ。

その上に木を植えたという版もある。数年経てば林になり、周囲の森と見分けがつかなくなる。あるいは、埋葬地の上流でせき止めていた川の流れを解放し、墓の上を水が流れるようにした、という説。この「川を墓の上に流す」というモチーフは実は世界中にあって、シュメールのギルガメシュにも、西ゴートのアラリック王にも同じ話が付いている。ユーラシアの広い範囲で共有された、英雄の埋葬にまつわる定型なんだよな。

だから逆に、これがチンギス個人の実話である確率はかなり低い。

もっとも切ないのが、子ラクダの話だ。埋葬のとき、母ラクダの目の前でその子を殺し、一緒に埋めた。ラクダは記憶力がいい。翌年、遺族が母ラクダを連れて草原に放つと、母は迷わず一点を目指して歩き、そこで立ち止まって鳴いた。その場所が墓だった。つまり、遺族だけが墓を再訪できる仕組みが作られていた、という話だ。そして母ラクダが死んだ日、その仕組みは永久に失われた。

作り話くさいのは百も承知だが、この一点だけで八百年もつ強度がある。

『元朝秘史』は、肝心なところで黙り込む

ここで史料の話を丁寧にやっておきたい。この謎を考えるとき、手札は驚くほど少ない。

最重要は『元朝秘史』だ。モンゴル語の原題は「モンゴルの秘められた歴史」という意味で、成立年については一二二八年、一二四〇年、一二五二年など諸説あるが、一二四〇年成立とする見方が最も支持されている。ウイグル文字で書かれた原本は失われ、現在残っているのは明代に作られた、モンゴル語の音を一字ずつ漢字で写し、脇に中国語訳を付けた奇妙な形の写本だ。全十二巻、本編十巻に続集二巻。

日本では那珂通世が世界で初めてこれを外国語に訳し、一九〇七年に『成吉思汗実録』として世に出した。日本のモンゴル研究は、実はこの分野で最初から世界の先頭にいる。

で、その最重要史料がチンギスの死について何と書いているか。これがすごい。実質的に「亥の年、天に昇った」だけなんだよな。埋葬地も、儀式も、誰が運んだかも、何も書いていない。世界帝国の創業者の死が、一行で片付けられている。これは書き落としじゃない。書けなかったか、書くことを禁じられていたかのどちらかだ。

次が『集史』。イルハン国の宰相にして歴史家のラシード・ウッディーンが十四世紀初頭に編纂した、ペルシア語による人類史上初期の「世界史」だ。モンゴル王家の口伝に直接アクセスできた立場の人間が書いているぶん、情報量は多い。埋葬の秘匿や、聖なる山への埋葬という枠組みはここから多く来ている。

『元史』は明の初期、一三七〇年に編まれた元王朝の正史。ここに例の「起輦谷に葬る」という記述が出てくる。ところが、この谷が現在のどこなのか、誰も特定できていない。元代の歴代皇帝は全員この谷に葬られたことになっているのに、位置を記した文書が一枚も残っていない。国家事業として位置情報が抹消されている、と言ったほうが近い。

そしてマルコ・ポーロ。十三世紀末の『東方見聞録』で彼は、モンゴルの君主たちはアルタイと呼ばれる高い山に運ばれて葬られるのだ、と書いている。同時にはっきりこうも書いている。当時すでに、モンゴル人自身が正確な場所を知らなかった、と。死から七十年ほどで、身内すら見失っている。隠蔽は完璧に成功したわけだ。

十七世紀のモンゴル年代記になると、話はさらにねじれる。一六〇四年成立の『アルタン・トプチ』は、オルドスに祀られているのは遺体ではなく、ハンのシャツと天幕と靴だけだと記す。一六六二年の『エルデニ・イン・トプチ』にいたっては、棺が到着した時点で中身が空だった可能性まで示唆している。遺体はどこかで消えた、という含みだ。

八百年間、二百四十平方キロが封鎖されていた

場所の話に移ろう。最有力候補は、モンゴル国ヘンティー県のブルカン・カルドゥン山だ。標高二三六二メートル、ヘンティー山脈の最高峰で、三日月形の稜線を持つ。日本語ではブルカン山、ボルハン・ハルドンとも書かれる。

ここはチンギスにとって特別な山だった。『元朝秘史』にこの山の名は二十七回も出てくる。若き日、メルキト族に襲われて妻を奪われたとき、彼はこの山に逃げ込んで命を拾った。生き延びた彼は山を下りると、帽子を脱ぎ、帯を首にかけ、胸を打ちながら太陽に向かって九度ひざまずいた。そして誓う。ブルカン・カルドゥンは自分の命を救ってくれた。子々孫々にいたるまで、朝ごとに祀り、日ごとに祈る、と。

狩りの帰りにこの山の景色を見て「死んだらここに埋めてくれ」と言った、という伝承もある。埋葬地の第一候補になるのは、これ以上ないほど自然な流れだ。

そして実際、この山の一帯は封鎖された。イフ・ホリグ、「大禁忌地」と呼ばれる区域だ。面積は約二百四十平方キロ。立ち入りは死罪。唯一許される理由は、チンギスの血族を埋葬するときだけ。これを守らせるためにダルハトと呼ばれる部族が守衛として置かれ、その見返りに税と兵役を免除された。彼らは世代を継いでこの任務を実行し続けた。一二二七年から一九二四年まで、およそ七百年である。

組織が七百年間、同じ土地を封鎖し続けた例が世界に他にあるだろうか。

一九二四年にモンゴル人民共和国が成立すると、封鎖は形を変えて続いた。ソビエトの影響下にある新政府は、この一帯を「高度制限地域」に指定し、周辺一万四百平方キロを立ち入り禁止にした。理由は聖地保護ではなく、逆だ。チンギス崇拝がモンゴル民族主義の火種になることを警戒したのである。皮肉なもので、社会主義体制の警戒心が、結果として聖地を八十年近く手つかずのまま冷凍保存した。

現在、この一帯はハン・ヘンティー厳重保護地域という一万二千平方キロの自然保護区の一部になっている。二〇一五年七月四日、ブルカン・カルドゥン山は「大ブルカン・カルドゥン山と周辺の神聖な景観」としてユネスコの世界文化遺産に登録された。登録面積は約四十四万ヘクタール、緩衝地帯は約二十七万ヘクタール。山には三つの主要なオボー、つまり石を積んだ祭壇があり、決められた巡拝路がある。

最も重要な「天のオボー」での祭祀は、限られた国家の要人とシャーマン、そして僧侶にしか許されない。国家儀礼として今も生きている山なんだよな。

日本隊、三つの川の計画

ここから探索隊の話に入る。まず日本だ。

一九九〇年、モンゴルで民主化革命が起きた年に、日本とモンゴルの合同調査隊が動き出した。プロジェクト名は「ゴルバン・ゴル」。モンゴル語で「三つの川」を意味する。オノン、ヘルレン、トーラ。チンギスが生まれ育ったヘンティーの地を流れる三本の川の名前だ。日本側を主導したのは東洋史・考古学の大御所、江上波夫。騎馬民族征服王朝説で知られる、あの江上である。資金は読売新聞が出した。

日本の新聞社が国家プロジェクト級の予算を組んで異国の聖地を掘る、という時代の空気がまだあった。

調査は数年にわたった。ヘリコプターを飛ばし、地中を音波で探る機材を持ち込み、草原の下を片端から覗いていった。成果は決して小さくない。彼らは千三百八十基にのぼる貴族級の墓と思われる地下構造を検出した。さらに、ヘルレン川上流のアウラガと呼ばれる地点で、モンゴル帝国初期の中枢施設を発見する。

後にここはチンギスの大オルド、つまり本営跡と考えられるようになり、宮殿址、霊廟とみられる建物、武器工房の跡までが確認された。この線を粘り強く掘り続けたのが新潟大学の白石典之で、彼は『チンギス=カンの考古学』を二〇〇一年に、『チンギス・ハンの墓はどこだ?』を二〇一〇年に、『モンゴル帝国誕生 チンギス・カンの都を掘る』を二〇一七年に出している。二〇〇三年にはモンゴル大統領から表彰も受けた。

しかし、肝心の墓は出なかった。そして一九九三年前後、調査は事実上終わる。理由は技術でも予算でもない。世論だ。モンゴル国内で猛烈な反発が起きた。日本人が我々の始祖の骨を掘り出そうとしている。いや、そもそも墓探しは口実で、本当の狙いは地下資源の調査ではないのか。そういう噂が広がった。バトシレートの近くまで迫っていた調査地点は閉鎖され、隊は引き揚げた。地面の下ではなく、地面の上の感情に負けたわけだ。

五十年かけて草原に戻ってきた男

次はアメリカ。モーリー・クラビッツという名前を覚えておいてほしい。シカゴの商品先物トレーダーで、弁護士資格も持っていた男だ。

彼がチンギス・ハンに取り憑かれたのは一九五〇年代、まだ兵役に就いていた頃だという。ドイツ駐留中に読んだ本が発火点だった。そこから彼は本業で稼ぎながら、モンゴル関係の文献と美術品を延々と買い集める。趣味の域をとうに超えたコレクションになった。そして商売から引退したあと、彼は本気で墓を探しに行く。少年時代の妄想を、六十を過ぎてから実行に移したわけだ。

二〇〇一年、彼はシカゴ大学の歴史家ジョン・ウッズを学術面の責任者に据え、アメリカとモンゴルの合同チームを編成する。狙いを付けたのは、ウランバートルの東北東およそ三百二十キロ、オノン川に近いバトシレート周辺。チンギスの生誕地と目される場所であり、一二〇六年に彼が全モンゴルの支配者を宣言したクリルタイの舞台にも近い。そこには「オグロチン・ヘレム」と呼ばれる、全長数キロにおよぶ謎の石壁があった。

壁の内側からは、身分の高い者のためとみられる未開封の墓が二十基以上見つかった。関係者の興奮は想像がつく。

ところが、ここで妙なことが続く。壁沿いには毒蛇が異常な密度で棲みついていて、作業員が次々に噛まれた。そして車が理由もなく斜面を転がり落ちる事故が起きた。一台や二台ではなかったと伝えられる。現地では当然、こう囁かれる。ハンが怒っている、と。

とどめは人間のほうから来た。二〇〇二年七月、モンゴルの元首相ダシーン・ビャンバスレンが現地を視察し、大統領宛ての公開書簡を出す。彼が並べた批判は具体的だった。聖なる地面の上を車が走り回っている。壁のすぐ近くに建物を建てている。人骨の扱いが雑である。そしてアメリカ側の投資家には、財宝目当ての商業的意図があるのではないか。彼の言葉として伝わっているのはこうだ。

我々の祖先の黄金の墓が乱されたことを遺憾に思う。この場所は死後の魂のために清浄に保たれるべきだ。

八月、地元当局は調査団に退去を命じた。ウッズは反論した。我々は正式な許可を得ているし、科学的手順を踏んでいる、遺骨の扱いについて謝ることは何もない、と。だがクラビッツは、これ以上争っても得るものはないと判断してその夏の作業を打ち切った。ウランバートルの商店主が取材にこう答えている。もし墓が暴かれたら、悪いことが自分と家族に付いてくる。これが特殊な迷信ではなく、街の普通の感覚だったということだ。

クラビッツはその後も諦めなかった。二〇〇六年には、ヘルレン川の合流点近くにある「バルーン・ブルチ」という古い地名に目を付け、ブルカン・カルドゥンから東へ約百キロのバヤンボラグ一帯で発掘を試みている。彼は二〇一二年に亡くなった。墓は見つけられなかった。半世紀以上を一つの穴に賭けて、外れたわけだ。それでも、この男の執念がなければ現代の探索史はずいぶん薄っぺらいものになっていた。

一万人が、パソコンの前で草原を睨んだ

三つ目は、まったく毛色の違うやり方だ。

アルバート・ユーミン・リン。カリフォルニア大学サンディエゴ校の材料科学者で、考古学の専門教育は受けていない。彼が二〇〇八年頃から立ち上げたのが「ハーンの谷」プロジェクトだった。発想が根本的に違う。掘らない。土に触らない。衛星画像、ドローン、地中レーダー、磁力探査、電磁誘導。非破壊のセンサーだけで、聖地を傷つけずに地下を読む。ナショナル ジオグラフィック協会が資金を付けた。

そして彼は、画像の判読を世界中の素人に投げた。ウェブ上に超高解像度の衛星画像をタイル状に切って並べ、誰でも「これは道」「これは川」「これは古そうな構造物」とタグを付けられるようにしたのだ。参加したボランティアは約一万人。投じられた労力は延べ三万時間、一人でやれば三年半かかる計算になる。彼らは八万四千枚を超える画像を睨み、二百三十万か所にタグを打った。対象面積はおよそ六千平方キロ。

リン本人の言葉が的確で、これは干し草の山から針を探す問題だが、その針がどんな形をしているのかすら分かっていない、というものだ。

タグの密度を統計的に処理して候補地を絞り込み、現地調査に回したのが約百か所。うち五十五か所が実際に考古学的な意味を持つ遺構だと確認された。青銅器時代の墳丘墓もいくつか出た。最初の半年ぶんのデータは二〇一四年末に学術誌で公開されている。ブルカン・カルドゥンの山頂近くでは、盛り土状の構造と、日常の生活には使われていない大規模な祭祀施設らしきものも見つかった。

屋根瓦、焼けた木材、馬の歯が、ちょうどチンギスの時代の層から大量に出てきた。

それでも、墓は出ていない。そしてリンは、この件で最も引用される一言を残している。これはもはや技術の壁ではない、モンゴルの人々が決めることだ。技術屋がそう言い切ったところに、この問題の本質が全部詰まっている。

ドローンが見つけた「二百五十メートルの盛り土」

四件目は少し灰色の話だ。フランスの考古学者ピエール・アンリ・ジスカールと、科学映像の専門家ラファエル・オートフォールが、二〇一五年から二〇一六年にかけてヘンティー山中でドローンを飛ばした。彼らはブルカン・カルドゥンの山頂部に、長さ二百五十メートルにおよぶ人工と思われる盛り土を確認したと述べている。しかもその構造は、モンゴル固有の墳墓というより、西安あたりの中国皇帝陵の造りに近いという。

西夏や金を征服した男の墓が中国式に造られていたとしたら、話としては筋が通る。

ただし、この調査は正規の許可を取っていなかった。地元当局への通知もなかった。結果として学術論文は出ていない。データは宙に浮いたままだ。世界遺産の山頂に無断でドローンを上げた、という一点で、この成果は科学の土俵に上がれなくなった。惜しいと言えば惜しいし、当然の帰結だとも言える。

掘ると死ぬ、という話は誰が言い出したのか

呪いの話を整理しておこう。よく言われるのは、墓を暴くと世界に災いが降りかかる、というものだ。ティムールの墓を一九四一年に開けた翌日にドイツがソ連に侵攻した、という有名な逸話が引き合いに出されて、チンギスならもっとひどいことになると語られる。

冷静に言えば、この「呪い」は古い伝承としては存在しない。中世の史料に、チンギスの墓を暴くと祟る、と書いてあるわけではないんだよな。実際に流通しているのは、もっと生々しい現代の話の積み重ねだ。クラビッツの現場で毒蛇が出た。車が転がった。日本隊が撤退した。調査が政治問題化して潰れた。こうした具体的な失敗が連続すると、人は必ず「何かある」と感じる。

呪いは事後的に組み立てられる物語で、素材は実際の事故と挫折だ。

もう一つの層もある。モンゴルの伝統的な死生観では、遺体を掘り返すこと自体が魂を乱す行為だ。特にチンギスは単なる歴史上の人物ではなく、国家の始祖であり、天と交信する存在として祀られてきた。その眠りを妨げれば、罰が下るというより、共同体の秩序そのものが壊れる。だから「災いが起きる」は比喩ではなく、社会的な事実として機能する。実際、探索隊はほぼ例外なく世論に潰されてきた。

呪いは超自然の力ではなく、世論という形で毎回きっちり発動している。ある意味、これほど確実に効いている呪いも珍しい。

オルドスの八白室――そこに遺体はないと、皆が知っている

ここで話を南に振る。中国の内モンゴル自治区、オルドス市のエジン・ホロー旗に「成吉思汗陵」という立派な施設がある。青い屋根の巨大な建物が並び、観光客が絶えない。だがここは遺体の眠る墓ではない。関係者も研究者も、それを隠してすらいない。

もとになっているのは「八白室」、モンゴル語でナイマン・チャガン・オルドと呼ばれる祭祀施設だ。八つの白い天幕を意味する。中に納められているのは遺体ではなく、チンギスと妻ボルテ、他の后妃たち、そして聖なる馬にまつわる遺品と象徴物だ。衣冠塚、つまり遺品を祀る形式の廟である。もともとは遊牧民らしく移動する天幕群で、普段はばらばらに動き、年に一度、決まった日に一か所へ集まって大祭を行った。

守り伝えてきたのはダルハトと呼ばれる一族で、これはヘンティーの禁忌地を守った集団と同じ名で呼ばれる。彼らは代々、祭文を暗誦し、供物を捧げ、儀礼の作法を口伝で継承してきた。文字ではなく、口と身体で八百年運んできたわけだ。

この八白室は歴史の荒波をまともに食らっている。日中戦争のさなか、一九三九年に、日本軍の手に渡ることを恐れた中国側が霊柩を西へ移した。甘粛の興隆山へ、さらに戦後は青海のチベット仏教寺院へと避難させられ、故郷に戻ったのは一九五四年のことだ。その後、現在の場所に恒久的な建物が造られ、遊牧の天幕は固定された廟になった。

文化大革命の時期にも祭祀は打撃を受けたが、その後復活し、今も年に何度もの大祭が行われている。

面白いのは、この「遺体のない墓」が、遺体のある墓より遥かに強く機能していることだ。参拝者は本物がここにないことを知っている。それでも来る。祈る場所さえあれば、中身は要らないのかもしれない。逆に言えば、本物の墓が発見されたとき、この八百年続いた祭祀のほうが立場を失いかねない。八白室の存在は、墓探しに対する静かな抵抗としても効いている。

「見つけないでくれ」という感情

モンゴル国内の空気について、もう少し。モンゴル国立大学で考古学を率いたD・トゥメンは、モンゴル人は墓が見つかることを受け入れないだろう、それが我々の信仰だから、と述べている。人類学者のジャック・ウェザーフォードはもっと踏み込んで、我々は彼の墓を探すべきではない、それが敬意というものだ、と言っている。

アバディーン大学の考古学者ジョシュア・ライトは、現代の考古学は子孫共同体の意思を尊重するのが標準であり、あそこで誰も遺骨を掘り出したり展示したりすることを望んでいない、という現実的な指摘をしている。

これは学者の綺麗事ではない。二〇〇二年に元首相が調査を止め、一九九三年に日本隊が撤退し、今もブルカン・カルドゥンの立ち入りが厳しく制限されているという事実の積み重ねが、そのまま国の答えになっている。モンゴル政府は世界遺産としての保護と、国家儀礼としての祭祀と、自然保護区としての管理を三重にかけて、あの山を守っている。発掘の許可は、少なくとも今のところ、出る気配がない。

ネットは今日も、墓を掘っている

ネット上でこの話題が出るたびに、パターン化した議論が繰り返される。

最も多いのは、衛星とレーダーがここまで発達したのになぜ見つからないのか、という素朴な疑問だ。これには技術側から真っ当な反論がある。ヘンティーの山地は森と永久凍土に覆われ、地表の起伏も激しい。地中レーダーは条件が悪ければ数メートルも見通せない。しかも探す対象は、石室や封土を持つ中国式の陵墓ではなく、木の棺を土に埋めただけの、痕跡の乏しい構造かもしれない。ブロンズ像も石碑もない。

地下に「墓らしい形」がない可能性が高い以上、機械は何を探していいのか分からない。リンの「針の形が分からない」という言葉の意味はここにある。

次に多いのが、そもそもブルカン・カルドゥンじゃないのでは、という異説の応酬だ。中国側の一部では寧夏の六盤山付近に埋められたという説が根強く主張されるし、アルタイ山中説、モンゴル西部説、遺体はそもそも運ばれなかった説まである。

カザフスタンのウルタウ地方でジョチの廟とされる墓の人骨から、モンゴル帝国の拡大に関わる系統のY染色体が検出されたという報告もあり、長男の墓が確定すれば父の墓の探索範囲も絞れるのではないか、という議論も出ている。ただ年代が十三世紀後半に寄っていて、ジョチの没年とはややズレる。ここも決着していない。

三つ目は倫理の議論だ。掘るべきか掘らざるべきか。掘るべき派の言い分は、人類史上最大の帝国の創業者の埋葬形態が分かれば、モンゴル帝国研究は根本から書き換わる、というもの。掘るな派は、遺志と信仰と子孫の意思を挙げる。この対立、実は他の古代遺跡でも延々やられているテーマなんだが、チンギスの場合は「本人が明確に隠せと命じた」という一点が異様に重い。故人の遺志がここまではっきりしている例は、そう多くない。

そして四つ目、いちばん人気があるのが陰謀論だ。とっくに見つかっていて秘密にされている、という説。モンゴル政府が国益のために隠している、あるいは中国側が既に確保している、という筋書きが定期的に湧く。証拠はない。ただ、八百年隠し通した実績のある相手なので、「隠せるはずがない」と言い切れないのが面白いところなんだよな。

見つからない本当の理由は、地下ではなく地上にある

ここまでを踏まえて、この謎の構造をもう少し解剖しておきたい。

まず押さえるべきは、この「謎」が二種類の別々の問題を含んでいる、ということだ。一つは物理的な問題。ヘンティーのどこかにある地下構造を、現在の技術で発見できるか。もう一つは社会的な問題。発見が許されるか。前者はほぼ解決に近づいている。実のところ、非破壊探査を全面的に展開する許可さえ下りれば、有力候補地を数年で潰し切ることは可能だという見立てが探査側にはある。

八百年見つからない本当の理由は、地下ではなく地上にある。これが第一の結論だ。

第二に、伝説の生成メカニズムを考えたい。皆殺し、川の付け替え、馬の踏み固め、子ラクダ。この四点セットは実に美しく機能していて、それぞれが「なぜ見つからないか」への回答になっている。目撃者がいないから見つからない。地形が変わったから見つからない。目印がないから見つからない。そして唯一の手がかりだった生き物も死んだから見つからない。

つまりこれらは埋葬の記録ではなく、「見つからないという現実」に対して後から供給された説明群なんだよな。人間は説明のつかない空白に耐えられない。空白があると、そこに一番かっこいい物語を注ぎ込む。八百年かけて注がれ続けた結果が、あの完璧な隠蔽譚だ。

第三に、では史実として何が言えるのか。堅い線だけ拾うと、こうなる。チンギス・ハンは一二二七年八月に西夏遠征の陣中で死んだ。死は一定期間伏せられた。遺体はモンゴル高原に運ばれ、地上に構造物を残さない形式で埋葬された。埋葬地は意図的に秘匿され、その情報は早い段階で失われた。ヘンティーのブルカン・カルドゥン一帯は少なくとも数百年にわたり立ち入りが厳しく制限された。ここまでは、ほぼ揺るがない。

逆に、二千人が殺されたとか、川を流したとか、姫に刺されたとかは、全部後代の付加物だ。面白い部分がことごとく後付けというのは切ないが、そういうものである。

第四に、モンゴル側の姿勢を「非科学的」と切り捨てるのは筋が悪い、という話をしておきたい。よその国の人間からすると、掘れば分かるのになぜ掘らせないんだ、と言いたくなる。だがモンゴルにとってチンギス・ハンは過去の人物ではない。社会主義時代に名前を口にすることすら憚られた七十年を経て、一九九〇年以降に国の中心へ戻ってきた、生きている象徴だ。紙幣にも空港名にもなっている。

その象徴の遺骨を外国の学術チームが掘り出して分析する、という絵面が持つ意味は、日本人が想像するよりずっと重い。しかも探索の歴史を振り返れば、日本隊には資源探査の疑いがかけられ、アメリカ隊には財宝目当てを疑われた。疑いが正しかったかどうかは別として、そう疑われるだけの構造が実際にあった。植民地的な考古学の記憶は、まだ全然過去になっていない。

第五に、それでも探索が止まらない理由。これは単純で、報酬が桁違いだからだ。もしブルカン・カルドゥンの盛り土が本当に墓で、その中から十三世紀の副葬品が出てきたら、モンゴル帝国の研究は一夜で書き換わる。何が副葬されたかで、当時の交易網の広がりも、儀礼の実態も、遊牧国家の国家観も分かる。遺骨があればDNAが取れる。

あの有名な「アジア人男性の一定割合がチンギスの子孫」という遺伝学の仮説すら、検証可能な問いになる。学術的に見て、これほど当たりの大きい籤は地球上にそう残っていない。だから、何度追い出されても人は戻ってくる。

第六に、この話が怪異譚として強い理由を考えたい。ふつう、怪談は「見てしまった者」の物語だ。だがチンギスの墓の話は、「見た者が一人残らず消された」という前提から始まる。語り手がいない怪談なんだよな。目撃証言はゼロで、痕跡もゼロ。にもかかわらず、話だけが八百年伝わっている。この構造自体が奇妙で、考えているうちに背筋が寒くなる。誰も見ていないのに、なぜ我々はこの話を知っているのか。

答えは、誰かが「見た者は殺された」と語り出したからだ。その最初の語り手は誰なのか。それこそが、この伝説の本当の空白だと思う。

第七に、時間の話をしたい。ダルハトの一族が七百年間、誰も入らない土地を守り続けたという事実は、墓そのものより不気味かもしれない。命じた人間はとうに死んでいる。監視する国家も何度も入れ替わった。それでも彼らは山の周りに立ち続けた。人間の組織が、報酬も罰則も曖昧になった後まで、口伝だけで七百年動き続ける。これは信仰というより、もう地形の一部みたいな現象だ。

オルドスの八白室で祭文を暗誦し続けたダルハトも同じで、彼らは書物ではなく身体で記憶を運んできた。墓が見つからないのは隠したからではなく、隠し続ける人間が絶えなかったからだ、と言ったほうが正確な気がする。

第八に、この先どうなるか。可能性は三つある。一つ、このまま何も起きない。モンゴル政府が方針を変えず、ブルカン・カルドゥンは世界遺産として保護され続け、次の百年も謎のまま。個人的にはこれが一番濃厚だと思う。二つ、非破壊探査に限定した公式調査が許可され、地下構造の存在だけが確認されて、開けないまま「たぶんここ」で確定する。科学的には勝ちで、ロマン的には引き分けだ。三つ、事故的な発見。

土木工事や自然災害、あるいは盗掘によって偶然出てしまうパターン。これが最悪で、しかも歴史上、名だたる遺跡の多くはこの形で世に出ている。守りたいなら、正規の調査を許可して先に押さえておくほうが安全だ、という逆説的な議論も現地にはある。

最後に、この話でいちばん好きなところを書いておく。チンギス・ハンは生涯で数え切れないほどの都市を焼き、地図を塗り替え、人口動態を変えた。徹底的に世界へ介入した男だ。その男が最後に選んだのが、跡形もなく消えることだった。石碑も、陵墓も、記念物も要らない。草原に戻って、馬に踏まれて、風景の一部になる。あれだけのことをやっておいて、自分の名前を刻んだ石を一つも残さなかった。

その徹底ぶりだけは、正直かっこいいと思う。

そして八百年経った今も、我々はその望みを叶えられずにいる。彼が消えようとすればするほど、我々は探す。探せば探すほど、彼の不在は大きくなる。世界最大の帝国を作った男の、いちばん成功した仕事は、たぶん自分を隠すことだったんだよな。今日もヘンティーの山には人が入れない。森の下に何があるのか、まだ誰も知らない。

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