奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

🍑 桃太郎伝説のモデル「温羅」――岡山・吉備津神社に伝わる鬼退治の真相

御竈殿(おくどでん)には、大きな釜が据えてある。釜の上には蒸籠がのっていて、湯気がいつも立ちのぼっている。場所は岡山市北区の吉備津神社。ここで長く続いてきた鳴釜神事は、釜から出る音の大小や長短を聞いて、その人の吉凶や禍福を占う儀式だ。

神事を執り行うのは、神官と阿曽女(あぞめ)の二人だ。阿曽女が釜に水を張って湯を沸かし、祈願した人の神札を竈の前に祀ったあと、神官が祝詞を奏上しはじめる。そのあいだ阿曽女は、蒸籠の中で、器に入れた玄米を振る。玄米を振るのは、阿曽女の役目。

すると釜から、鬼が唸るような音が鳴り響く。祝詞を読み終えるころには、その音もやんでいる。奉仕した神官も阿曽女も、釜がどう鳴ったかについては、答えを一言も口にしない。占いなのに、答えは聞けない。

神社の案内には、こう書かれている。どう聞こえたかは、祈願した本人が自分の心で受け取る決まりだ。この神事の始まりは、吉備津彦命が討った鬼の首を、御竈殿の釜の下に埋めたところにあると、縁起は語る。その鬼の名が、温羅だ。

温羅(うら)は、桃太郎に退治される鬼のもとになった人物だと伝わる。首を切られたあとも、温羅は地の底から唸り続け、その声がいまも釜の音になって響くのだと、土地では語られてきた。舞台は、吉備の国。

吉備の中山のふもとに建つ社

吉備津神社は、吉備の中山の北西のふもとに、北を向いて建つ。標高175メートルの中山は、古くから神の宿る山として拝まれ、いまも神社の背後にどっしりと座っている。祀られているのは大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)。温羅を討ったと伝わる、その人だ。

社伝によれば、命は中山のふもとの茅葺宮に住んだ。亡くなったのは281歳で、遺体は山頂に葬られたという。相殿には、命の后の百田弓矢比売命や、弟の若日子建吉備津日子命らも祀られている。創建には、仁徳天皇が建てたという説と、5代あとの子孫が社殿を造ったという説が並び、はっきりした年は分からない。おおらかな年数だ。

本殿と拝殿は、そろって国宝だ。いまの社殿は、足利義満が明徳元年、1390年に造営を始めたもので、御神体が遷されたのは応永32年、1425年になる。形は全国に一つしかない比翼入母屋造、通称吉備津造で、出雲大社や八坂神社の本殿に並ぶ規模だという。

本殿から南へ、廻廊が360メートルほど延びる。御竈殿は、北と南の随神門とともに、重要文化財に指定されている。古くは五つの社殿と72の末社が並んでいたといい、吉備国の総鎮守として、備中国の一宮に数えられてきた。かつての境内は、いまよりずっと広大。

吉備の国は、のちに備前、備中、備後の三つに分かれた。備前と備中は岡山県に、備後は広島県の東部にあたる。備中の一宮が、この吉備津神社だ。備前の一宮は岡山市にある吉備津彦神社で、備後の一宮も、同じ吉備津神社の名で呼ばれる。どの一宮にも、命が祀られている。

境内には、矢置岩という岩もある。吉備津彦命が矢を置いたと伝わる岩だ。鬼の首を埋めた御竈殿から、矢を置いた岩まで、境内を歩けば伝説の舞台を順にたどれる。吉備津駅から歩いて10分ほどの距離にあり、初夏には約1,500株のあじさいが境内を彩ると案内されている。

鳴釜神事は、いまも続く現役の祈祷だ。神社の案内では、毎週金曜日は神事が休みで、受付は午後2時までと書かれている。参拝できるのは、朝5時の開門から午後6時の閉門まで。古い伝説が、そのまま日付と時刻のある行事になっている。

身の丈一丈四尺の赤い髪の鬼

温羅は、百済から渡ってきた王子だという。身の丈は一丈四尺、およそ4メートルを超える巨体だった。両眼は虎や狼のようにぎらぎらと光り、髪も髭も燃え立つように赤い、異形の巨人として語られる。見た目からして、人間離れしていた。

足守川の西にある新山に、温羅は城を築いた。これが、いまの総社市にある鬼ノ城だ。山の上に立てこもり、近くを通る船や旅人を襲っては、金品を奪い、女や子どもまでさらったという。村々は恐怖のどん底。

困り果てた村人たちは、都へ窮状を訴え出た。朝廷としても、放ってはおけない。白羽の矢が立ったのが、弓の名手として名高い吉備津彦命だった。鬼退治の将軍に選ばれたのは、孝霊天皇の皇子で、のちに吉備の中山のふもとの社に、神として祀られる人物だった。

この鬼には、悪役とは別の顔もある。地元では温羅を、吉備冠者の名でも呼んできた。製鉄や造船の進んだ技を、朝鮮半島から吉備へ持ち込んだ恩人だと語る土地の声も、いまに伝わっている。悪鬼と恩人が、同じ名の上に重なっているのだ。

弓の名手が送り込まれた

吉備津彦命は、第7代孝霊天皇の皇子だ。日本書紀には、崇神天皇10年に西道、いまでいう山陽道へ送られた将軍の一人として出てくる。北陸へは大彦命、東海へは武渟川別、丹波へは丹波道主命が向かい、四人はあわせて四道将軍と呼ばれた。同じ母のきょうだいに、倭迹迹日百襲媛命がいる。倭迹迹日百襲媛命の墓と伝わるのは、奈良の箸墓古墳だ。

古事記の書き方は、少し違う。古事記では、孝霊天皇の時代に弟の若日子建吉備津日子命とともに送られ、吉備を平定したと書かれる。日本書紀にも古事記にも、温羅という名前は出てこない。鬼の話は、のちの縁起や土地の伝承が運んだ。

命の墓と伝わるのは、吉備の中山の山上にある中山茶臼山古墳だ。墳丘の長さは108メートルの前方後円墳で、宮内庁が大吉備津彦命の墓と定めている。討った側は山の上の古墳に、討たれた側は山のふもとの釜の下に、同じ吉備の中山を挟んで眠っている。山を挟んだ、奇妙な配置。

矢と岩が空でぶつかった場所

戦いは、矢と岩の撃ち合いから始まった。吉備津彦命が矢を一本ずつ射るたびに、温羅は大きな岩を投げて、矢を空中で撃ち落としていったという。当たれば終わる弓矢に、岩で応じる。相手は、人間の常識が通じない鬼だった。

矢と岩がぶつかって落ちた場所が、矢喰宮だ。いまは岡山市北区の高塚にあり、公園の中に鎮まる。公園には大小4つの巨石が置かれ、これが矢とぶつかった伝説の岩だと語られ、祭神は吉備津彦命になっている。のちに天神も祀られたため、矢喰天満宮の名もある。

矢喰宮は、岡山総社インターから車で1分ほどの距離にある。高速道路のすぐそばなのに、公園の中は静かだという。公園からは、鬼ノ城のある方角が見渡せる。伝説の舞台が、高速道路の脇にある。

命は陣を構え、楯を築いて備えたともいう。その跡と伝わるのが、倉敷市にある楯築遺跡だ。実物の楯築は、弥生時代後期の墳丘墓で、円い丘の両側に四角い突出部がつく独特の形をしている。同じころの墳丘墓では、全国でも最大級の大きさだ。

頂には、5つの巨石が立つ。埋葬の施設では、木棺の底に総重量32キロを超える水銀朱が、厚く敷きつめられていた。巨石を囲む弥生の有力者の墓が、吉備津彦命の築いた楯の跡として、鬼退治の物語にまで取り込まれたわけだ。国の史跡に指定されたのは、昭和56年、1981年のことだ。

一本ずつ射ても、勝負はつかない。そこで命は、二本の矢を同時に弓につがえて放った。二本のうち一本が、温羅の左の眼に突き刺さる。岩に撃ち落とされ続けた末に、弓の名手が選んだとっておきの一手が、二本の矢の同時撃ちだった。

流れた血は川になり、血吸川と呼ばれる。川があるのは、総社市の西阿曽のあたりだ。川底は赤みを帯びていて、鉄分を含んだ砂が錆びたせいだという説明もあり、伝説と理屈が同じ色を指している。どちらで見るかは、歩く人しだいだ。

血吸川は、鬼ノ城のある鬼城山から流れ出る小さな沢だ。沢歩きを楽しむ人もいて、夏は蚊が多いため、涼しい季節のほうが歩きやすいらしい。谷あいなのに水音が明るく響く場所だという。血の川という名前から想像するより、ずっと穏やかな景色。

鳥に化け、魚に化けた鬼

片目を失った温羅は、雉に姿を変えて山へ逃げ込んだ。吉備津彦命は鷹になって、あとを追う。追い詰められた温羅が鯉に化けて川へ飛び込むと、命は鵜に姿を変えて水に潜り、とうとう温羅を捕らえた。

鯉に化けた温羅が捕らえられた場所には、鯉喰神社が建つ。所在地は倉敷市の矢部だ。鳥と魚が入れ替わりながら続いた追跡劇の幕切れが、そのまま社の名前になって、いまに伝わっている。

命は温羅の首をはね、串に刺して曝したと伝わり、備前の首村という地名は、その跡だと語られる。見せしめにされた首は、それでも鬼の声で唸り続けた。勝負はついたのに、話はここからが長い。

雉、鷹、鯉、鵜と、鳥と魚が入れ替わりに現れる。まるで忍術の勝負みたいだ。地名や社の名に、その追いかけっこが一つずつ刻まれていて、現地を歩いて順に回れる伝説になっている。

首は13年唸り続けた

首をはねても、それで終わりにはならなかった。切り落とされた温羅の首は、何年たっても大声で唸り続け、その声は近くの里まで鳴り響いてやまなかったという。気味が悪くて、誰も近づけない。

命は家来の犬飼武に命じて、首を犬に食わせた。肉がすっかり尽きて、骨だけの髑髏になってもなお、その髑髏は吠え止まなかったと縁起は伝えている。骨になっても、鬼は鬼だ。

次に命は、髑髏を釜殿の竈の下、八尺ほどの深さまで掘って埋めさせた。八尺は、およそ2メートル半だ。それでも唸り声はやまず、地の底からの声は13年ものあいだ、近隣の里々まで鳴り響いたと伝わる。

転機は、ある夜の夢だった。吉備津彦命の夢に、温羅の霊が現れる。霊は、阿曽郷の祝の娘で自分の妻でもある阿曽媛に、釜殿の神饌を炊かせるよう命に告げた。そうすれば釜は、幸いがあれば豊かに鳴り、災いがあれば荒々しく鳴ろうと約束したという。

命が言われたとおりにすると、唸り声はやんだ。釜は、吉凶を告げる道具に変わった。これが鳴釜神事の始まりだという。鬼の首を鎮めるための儀式が、そのまま未来を占う道具になったわけだ。

阿曽の里から来る女

阿曽媛は、温羅の妻だと伝わる。神事に仕える阿曽女は、代々、阿曽郷の娘が務めてきた。神社の案内では、鬼ノ城のふもとにある阿曽の里の娘が、その役を担ってきたと書かれている。夫の城の麓から来た女が、夫の首の上で釜を炊く。

阿曽郷は、いまの総社市阿曽の地域にあたる。阿曽という地名は、血吸川のほとりにも出てくる。温羅の眼から流れた血の川は、西阿曽のあたりを流れている。妻の里の地名と、夫の血の川が、同じ土地に重なっている。伝説は、土地の名で細かく縫い合わされているのだ。

平安の歌にも詠まれた釜

平安の世にも、この鬼の話は都に届いていた。後白河法皇が編んだ歌謡集『梁塵秘抄』に、吉備津宮を詠んだ歌が載っている。歌は、艮御崎は恐ろしやと歌い、この御崎は温羅の魂を指すと、吉備津では伝えられている。艮は、北東の鬼門の方角だ。

釜の音には、理屈のうえの説明もある。米と蒸気の温度差から生まれる、熱音響効果という現象だという。100ヘルツほどの低い振動が、1ミリほどの小さな穴を抜けるときに、高い音圧を伴って鳴り響く。家庭のガスコンロでも、同じ現象は再現できるそうだ。

音の良し悪しは、一般には、強く長く鳴るほどよいといわれる。統一した決まりはなく、音を聞いた人が、それぞれの心で判断するのが原則だ。古くは宮中でも、鳴釜の神事が行われたという話もある。

釜が鳴らなかった嫁入り前

江戸時代になると、この釜は小説の題材になった。上田秋成の『雨月物語』に収められた「吉備津の釜」だ。序は明和5年、1768年で、刊行は安永5年、1776年の4月になる。最初は剪枝畸人という名前で世に出たため、作者が秋成と分かったのは、秋成が亡くなったあとだったという。

雨月物語は全9編からなる。「吉備津の釜」は、その6番目に置かれた。前には白峯、菊花の約、浅茅が宿、夢応の鯉魚、仏法僧が並び、後ろには蛇性の婬、青頭巾、貧福論が続く。題名だけでも、妖しい空気が漂う。

筋書きは、こうだ。磯良という娘が、井沢正太郎のもとへ嫁ぐことになり、婚礼の前に、釜の音で吉凶を占う。牛が吼えるような音が出れば吉、何も鳴らなければ凶という決まりだ。釜は、鳴らなかった。

凶と出たのに、縁談は取りやめにならなかった。やがて夫の正太郎は袖という女と駆け落ちし、裏切られた磯良は、失意のうちに亡くなり、怨霊になって二人に迫る。袖も、怪しい死に方をした。

正太郎は陰陽師を頼り、42日の物忌みに入る。札を戸に貼って家にこもったが、最後の夜が明けてみると、正太郎の姿はどこにもなく、軒先には髻だけが残っていた。凄惨な結末。

作者は、吉備津神社の釜の音を、そのまま物語の引き金に据えた。題材に選ばれるほど、この釜の評判は江戸にまで届いていたわけだ。釜は、怪談の舞台になった。

桃太郎が合流したのは後の話

桃太郎の話は、室町の末から江戸の初めごろに、口づたえで生まれたといわれる。いまに残る最古の本は、享保8年、1723年に江戸の日本橋で出た赤本の『もゝ太郎』だ。江戸のころは、桃を食べた老夫婦が若返って子を産む筋が主流で、桃から生まれる型は19世紀に入ってから見える。それより前の元禄のころにも、『桃太郎昔語り』という本があったという。

温羅伝説を桃太郎の原話とみる説は、意外なほど新しい。昭和の初め、塑像家の難波金之助が、桃太郎は大吉備津彦命だと唱えたのが始まりだ。戦前は、愛知県や香川県を発祥とする説のほうが広く支持されていて、岡山の説は、そのあとを追う立場にあった。

岡山が桃太郎の本場として売り出されたのは、戦後の1960年代以降の話らしい。認定されたのは「桃太郎伝説の生まれたまち」で、吉備津神社や鬼ノ城、楯築遺跡も、その文化財に数えられている。2018年の認定だった。

犬と猿と雉の家来にも、下敷きがある。吉備津神社に伝わる縁起物では、吉備津彦命に三人の家来がいた。犬飼健命、楽々森彦命、留玉臣命という三人の家来が、桃太郎のお供の犬、猿、雉に重ねられてきたという。名前にも、犬の字が見える。

猿と雉と犬を従えたのは、鬼の来る鬼門の反対の裏鬼門に、申、酉、戌が当たるからだ、という読みもある。風水の考え方に合わせた、後づけの匂いもする。話は、よくできすぎている。

きびだんごの話も、時代を追って付いてきた。吉備津神社の門前では、江戸時代にはもう、きびだんごが売られていた記録がある。岡山の城下で、いまのような柔らかい求肥の箱詰めのきびだんごが売り出されたのは、幕末のころだと伝わる。名物の歴史も、意外に新しい。

桃太郎の名で全国へ広まったのは、明治の日清戦争のころだ。山陽鉄道で兵士が運ばれる流れに乗って、桃太郎の格好で売り込む菓子屋まで現れ、きびだんごは全国へ散らばった。明治20年、1887年には、尋常小学読本に今の形に近い桃太郎が載っている。教科書にも載った。1904年に一度は外されたが、1910年の改訂で戻ったという。

吉備津彦神社に伝わる別の筋書き

温羅の話には、別の版がある。吉備津神社の版のもとになる縁起は、『吉備津宮縁起』という。岡山市北区にある備前一宮の吉備津彦神社では、縁起の筋が違う。温羅は殺されずに吉備津彦命の家来となり、製塩や製鉄の技と武力で尽くしたという。吉備津神社の版とは、結末がまるで違う。

吉備津神社の版では4メートルを超える巨体なのに、吉備津彦神社の縁起では、温羅は2メートルを超える大男になる。同じ鬼でも、縁起によって背丈が半分になる。鬼の姿は、語り手しだいだ。

吉備津神社の版では、首が釜の下で唸る。吉備津彦神社の版では、鬼が家来になる。同じ鬼が、片方では血の川を流し、片方では国づくりを手伝う。ちなみにこちらの縁起では、犬は犬飼武、猿は楽々森彦、雉は留玉姫という名前で伝わっている。

鬼ノ城は鬼より新しい

鬼ノ城は、総社市の鬼城山にある古代の山城だ。所在地は総社市奥坂で、標高は397メートル。城壁は全長2.8キロに及び、その8割強は、幅7メートル、高さ6から7メートルの版築の土塁でできている。城というより、山を囲む長い壁。

調査は、1971年の踏査から始まった。1978年に、最初の学術調査が入る。1994年からは総社市教育委員会が、1999年からは岡山県教育委員会が、城内を本格的に調べている。1986年には、国の史跡に指定された。

西門は、本柱が一辺60センチ角という太さだ。門の奥には、4本柱の目隠し塀がつく。西門の北およそ60メートルの隅には、角楼と呼ばれる張り出しがある。水門は全部で6か所あり、どれも防御の正面に固まっている。城内には、食糧を蓄えた倉庫とみられる総柱の建物が5棟と、管理のための建物とみられる側柱の建物が2棟あった。

水門のひとつは、城壁のいちばん下の内側と外側に、幅1.5メートルの敷石が敷かれた珍しい造りだ。水の通り道を、石で固めていた。鬼の城と呼ばれるだけの、本格的な工事だ。

築かれたのは、考古学の調べでは7世紀後半だ。663年に倭が唐と新羅の連合軍に大敗した白村江の戦いのあと、西日本の各地で、国を守るための山城が築かれていった。鬼ノ城も、その流れの中にあると読まれている。国を守る砦だったという見方が、いまは有力だ。

ところが、この城は史書に載っていない。築城の年は、記録からは分からないままだ。吉備津彦命が送られたのは、日本書紀では崇神天皇の代の話として書かれ、7世紀後半の城とは時代が合わない。

城の名の鬼の字も、あとからあてたにすぎないという見方がある。城内からは鍛冶炉が12基見つかり、風を送る羽口や鉄滓、釘、槍鉋、砥石といった道具や鉄くずも出ている。鉄を打つ工房が、山の上にあったわけだ。鍛冶の道具のほかに、須恵器の硯や壺、製塩に使った土器、瓦塔なども出土している。

鉄と巨大古墳の国だった吉備

吉備は、巨大な古墳の国でもあった。造山古墳は、全国で4番目の規模を誇る前方後円墳だ。作山古墳も総社市にあり、どちらも5世紀の古墳で、吉備の中心にあたる吉備路のあたりに並んで築かれている。岡山県内では、造山古墳が一番、作山古墳が二番目に大きい。王国と呼びたくなる景色。

県の解説は、硬い花崗岩の地山を整えるだけで、膨大な鉄の農具や工具が消耗したと説く。温羅は、朝鮮半島から先進的な製鉄と造船の技をもたらした人物だ、という見方は根強い。朝廷が吉備を従えるとき、手ごわい在地の勢力を鬼と呼んで悪者に仕立て、征服を正当化したのだと読む人もいる。鬼退治は、征服の記憶になる。

温羅は吉備を豊かにした善い王で、鬼という名は勝者がつけたものだ、という声もある。そうなら、釜の唸りは、討たれた側の声になる。同じ釜の音が、読み方ひとつで、討たれた者の怨みにも、土地を見守る声にも聞こえる。

もっと踏み込んだ説もある。吉備津神社の本来の祭神は、温羅だったというものだ。釜の下に埋められた鬼が、実は社の本当の主だったという、大胆な筋書きになる。

タイトルとURLをコピーしました