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二千三百年、行方不明のまま――アレクサンドロス大王の遺体はどこへ消えたのか

紀元前三二三年の六月、バビロンの宮殿で三十二歳の男が死んだ。その男が世界の三分の一を持っていたことよりも、その後に起きたことのほうがずっと厄介だ。

遺体が、消えたのだ。

しかもいきなり消えたんじゃない。六百年以上、住所のはっきりした墓に安置され、ローマ皇帝が次々に参拝に来て、鼻を折られたり胸当てを盗まれたりしながら、ちゃんと「そこにある」ものとして扱われていた。それが三世紀の終わりあたりを境に、ぱたりと記録から落ちる。誰も壊したとも移したとも書き残していない。ただ、次の世代の人間がアレクサンドリアに来て墓を探したら、もう誰も場所を知らなかった。

これは、その六百年と、その後の千七百年の話だ。

三十二歳の夏、バビロンの寝室で何が起きていたのか

まず、始まりの場面から。

舞台はバビロン、ネブカドネザル二世が建てた古い宮殿。季節は初夏で、ユーフラテス流域の湿った熱気がべったり張りついている時期だ。アレクサンドロスはアラビア遠征の準備に入っていて、船を並べ、運河を見に行き、要するにまだ全然終わる気がなかった。次の獲物のことしか考えていない男の顔をしていたはずだ。

きっかけになったのは酒宴だった。テッサリアのラリサ出身、メディオスという男が開いた宴会。ディオドロスによれば、アレクサンドロスはそこで大きな鉢いっぱいのワインを一気にあおり、直後に激痛に襲われて叫んだという。ヘラクレスに捧げる杯だった、という書き方をしている史料もある。ここが毒殺説の永遠の出発点になる場面だ。

ただし、同じ死を書いているプルタルコスの筆致はもっと地味で、宴会のあとに熱が出て、それが十日以上ずるずる続き、最後は口も利けなくなった、という進み方をする。

エウメネスが管理していたとされる王室日誌、いわゆるエフェメリデスを根拠にした記述だと、熱の出方に特徴がある。最初は上がったり下がったりの間欠的なパターンで、病気の途中から下がらなくなって持続的な高熱に変わった。これがのちのち、医学者が病名を当てにいくときの一番おいしい手がかりになる。バビロンの天文日誌という、まったく別系統の粘土板の記録も、十二日から十四日ほどの発熱を経ての死という線で噛み合う。少なくとも「宴会の翌朝に急死した」という話ではない。じわじわ弱っていったのだ。

最期の何日かの光景は、伝わっている話のなかでいちばん絵になる。

もう声が出なくなった王のところへ、兵士たちが「一目だけでも」と押しかけた。追い返すわけにもいかず、寝台の脇を一列に通す形にした。歩兵たちが順番に部屋を通り抜けていく。王は目だけを動かして、一人ひとりに、頭をわずかに上げるか、まぶたを動かすかして応えた。言葉はもうない。何千人という男が、無言の王の前を無言で通り過ぎていく。

この場面が、後の千年ぶんの物語の情感をだいたい決めてしまったと言っていい。

そして例の一言だ。「王国は誰に」と聞かれた王が「トイ・クラティストーイ」、つまり「最も強き者に」と答えたという話。ディオドロスが書いている。

ただし現代の研究者がしつこく指摘するのは、ギリシャ語では「クラティストーイ」と「クラテロイ」の音が近いということだ。実際にはクラテロスという将軍の名前を言ったのに、周りが「最も強き者に」と聞き取った、あるいは聞き取ったふりをした可能性がある。もしそうなら、その後四十年続く後継者戦争は、瀕死の男の呂律の回らない一言をめぐる壮大な誤解ということになる。歴史のいちばん残酷な冗談だ。

六日間、腐らなかった――遺体防腐職人が到着したときの妙な話

ここからが怪談じみてくる。

プルタルコスが書き残しているのは、王が死んだあと、後継者たちが権力闘争でもめにもめて、遺体が何日も手つかずで放置されたという事実だ。バビロンの、六月の、猛烈に暑い室内である。普通なら数時間で状況は悲惨なことになる。

ところが、ようやくエジプトとカルデアの防腐職人たちが呼ばれて部屋に入ったとき、彼らは遺体に触れることをためらった。腐っていなかったからだ。膨れてもいない。変色もしていない。プルタルコスの表現を借りれば、遺体はまだ生きているように新鮮で清らかだった。職人たちは、この人はまだ神なのではないかと怯えて、しばらく手が出せなかったという。

古代人にとって、これはもう完全に神性の証明だった。アレクサンドロスは自分をゼウス・アンモンの子だと言い張っていた男である。死んでも腐らない、というのは、その主張に対する宇宙からの回答のように読める。実際、この一点だけで後のアレクサンドロス崇拝はかなりの燃料を得た。

現代の医者たちは、これを別の方向から見る。

ニュージーランドのオタゴ大学のキャサリン・ホールという臨床医が二〇一八年に出した論はいちばんスリリングで、彼女はアレクサンドロスがギラン・バレー症候群だったのではないかと言う。腸チフスなどの感染症のあとに免疫が暴走して、末梢神経をやられる病気だ。特徴は上行性麻痺で、足先から始まって上へ上へと麻痺が登っていく。意識は最後まで残ることがある。

これを当てはめるとどうなるか。麻痺が上がりきって呼吸筋が動かなくなり、脈も浅くなり、瞳孔の反応も鈍れば、古代の医学水準では死亡と判定される。しかし本人はまだ生きている。代謝が極端に落ちているから腐敗も始まらない。

つまり六日間腐らなかったのではなく、六日間まだ死んでいなかった、という読み方だ。

これが正しいなら、王の兵士たちが無言で寝台の脇を通り過ぎていったあの場面のあと、王は自分の死亡宣告を聞いていたことになる。ホール自身が「歴史上もっとも有名な誤った死亡宣告の症例かもしれない」と言っている。仮説であって証明ではないが、この一行を読んで背筋が寒くならない人はあまりいないと思う。

死因の見立ては、二千年経っても全然まとまらない

死因については、大きく四つくらいの陣営がずっと殴り合っている。それぞれ独立に見ておいたほうがいい。

毒殺説はいちばん古い。古代の時点ですでに囁かれていた。

名指しされるのはアンティパトロス、その息子カッサンドロス、そして王に杯を渡したとされるイオラス。「アレクサンドロスの死と遺言の書」と呼ばれる、明らかに政治的意図で書かれた後代の文書には、アンティパトロスが「馬の蹄の中でしか運べないほど強力な」毒を用意したという、いかにも講談じみた描写がある。

近代になって毒物学の側から出てきたのが、ニュージーランドの毒物学者レオ・シェップによる白ヘレボルス説だ。バイケイソウの類で、古代ギリシャ人がちゃんと知っていて薬としても使っていた植物。少量なら症状がだらだら長引くので、十二日かけて死ぬというプロファイルに合う、という主張で、これは査読誌にも載っている。

逆に毒殺説を潰しにかかるのがロビン・レイン・フォックスあたりで、そもそも古代に手に入る毒で十二日間じわじわ殺せるものはほぼないし、そんな悠長な暗殺計画は成立しない、と切って捨てる。

腸チフス説は、一九九八年にメリーランド大学医学部が主催している歴史上の人物の死因検討会で採用された見立てだ。当時のバビロンでは普通に流行っていた病気で、悪寒、発汗、消耗、高熱という症状の並びが記録とよく合う。ただし決め手として持ち出されがちな「激しい腹痛」の記述は、史料的にかなり怪しいアレクサンドロス・ロマンス由来なので、そこを根拠にするのはずるい、という批判もある。

マラリア説を推すのはアンドリュー・チャグで、彼はアレクサンドロスが死の二週間ほど前にバビロン近郊の湿地帯を船で通っていることに注目する。熱帯熱マラリアなら、あの「最初は間欠的、途中から持続的」という熱型の変化がきれいに説明できる、という筋だ。

そしてギラン・バレー症候群説。これは死因というより死亡宣告のタイミングを問題にしている点で他と質が違う。腸チフスやカンピロバクター感染が引き金になり得るので、腸チフス説と排他ではなく合体もできる。

正直に言うと、決着はつかない。遺体がないからだ。骨がひとかけらでも出てくれば、少なくともいくつかの説は消せる。だが、その骨こそがこの話の行方不明物件なのである。

二年がかりで作られた「動く神殿」

さて、遺体は防腐処置を受け、黄金の棺に納められた。

ディオドロスによれば、それは体にぴったり合うように打ち出された金の棺で、遺体は香料に埋められた。金の蓋がかぶせられ、その上に紫の衣と王の武具が置かれた。E・A・ウォリス・バッジは十九世紀の終わりに、遺体は蜂蜜に浸されていたのではないかという説を出している。蜂蜜漬けというのは古代の遺体保存法として実例があるので、荒唐無稽ではない。

問題は運搬装置のほうだ。アリダイオスという人物が監督して、ほぼ二年かけて霊柩車を作った。二年である。ディオドロスの描写を追うと、これはもう車ではなく移動する神殿だ。

幅八キュビト、長さ十二キュビトの金の丸天井があり、表面には宝石をはめ込んだ鱗状の板が重なっている。これをイオニア式の黄金の柱が支える。柱の間には指の太さほどの縄で編んだ金の網が張られ、そこに四枚の絵画パネルが下がっている。一枚目は笏を持って玉座に座るアレクサンドロスと近衛兵、二枚目は戦象の部隊、三枚目は戦闘隊形の騎兵、四枚目は軍船。二パルモス幅の金の輪が山羊鹿の頭部から吊るされ、そこから花綱が垂れ、房の先には大きな鈴がついている。この鈴のせいで、行列が近づいてくるのが遠くから音で分かった。天蓋の四隅には黄金の勝利の女神像。

これを引くのが六十四頭のラバだ。四頭ずつ十六列。一頭一頭に金の冠と鈴がついている。車輪はペルシア式の四輪で、金メッキされていて、車軸には衝撃を吸収する仕組みが組み込まれていた。道が悪くても中の棺が揺れないようにするためだ。行列の前には道路工事の作業班が先行して、道をならしながら進んだ。

この物体がバビロンからシリアへ向かって、ゆっくり、鈴を鳴らしながら移動していく。沿道には人が押し寄せた。ディオドロスは、この行列そのものが見世物として人を集めた、と書いている。世界の半分を征服した男が、金と宝石でできた家に入って、鈴の音とともに帰っていくのだ。そりゃ見に行く。

シリアで待ち伏せていた男

行き先はマケドニア、あるいはアンモン神殿のあるシワ、というのが公式の話だった。ところがシリアで、この行列は横取りされる。

やったのはプトレマイオス。アレクサンドロスの幼なじみで、ボディーガードで、当時エジプトの太守におさまっていた男だ。彼は軍を率いてシリアで行列を出迎え、そのままエジプトへ方向転換させた。紀元前三二一年のことだ。強奪と言っていいが、プトレマイオス側の建前としては「王の遺志を尊重して神域に運ぶ」という体裁があった。

なぜそこまでして遺体が欲しかったのか。ここに、この話の一番おいしい部分がある。

予言者アリスタンドロスが、アレクサンドロスの遺体を収める土地は「永遠に幸福で不敗である」と告げていた、という伝承があるのだ。遺体は縁起物ではなく、統治の正統性そのものだった。アレクサンドロスを持っている者が、アレクサンドロスの後継者である。プトレマイオスはそれを完全に理解していた。

現に、この横取りに激怒したペルディッカスがエジプトへ攻め込み、ナイル渡河でしくじって自軍の将校に殺される。遺体強奪は、後継者戦争の最初の大きな引き金の一つになった。金の箱に入った死体が、生きた人間を何千人も殺したわけだ。

メンフィス、そして「ソーマ」へ

遺体はまずメンフィスに置かれた。当時のエジプトの行政の中心地だ。

パウサニアスによれば、セラペウムの神託がアレクサンドリアへの移送を承認したという段取りで、紀元前四世紀の終わりから三世紀の初めにかけて、遺体は新首都アレクサンドリアへ移された。プトレマイオス二世フィラデルフォスの時代、紀元前二八〇年ごろには新しい安置先ができていて、紀元前二七四年には正式にアレクサンドリアに埋葬されたという線が有力だ。

そこが「ソーマ」と呼ばれる霊廟だ。ギリシャ語のソーマは体、セーマなら墓標。どっちで読むかは史料によってぶれる。場所は王宮区画のど真ん中、街の二本の大通りが交差するあたりと考えられている。プトレマイオス朝の歴代の王たちも同じ霊廟群に葬られていったので、そこはアレクサンドリアの心臓であり、王朝の正統性の物理的な担保だった。

そして紀元前八九年か九〇年ごろ、事件が起きる。プトレマイオス十世アレクサンドロス一世が、アレクサンドロスの黄金の棺を溶かしたのだ。ストラボンが書いている。金欠だったのだろう。代わりに用意されたのがガラス、あるいは水晶の棺だった。ストラボンによれば、プトレマイオス十世はこの罰当たりのせいで追放された。

ただ、この事件には副産物がある。中身が見えるようになったのだ。ガラスの棺に入った、防腐処置を受けたアレクサンドロスの顔。これ以降、ソーマ参拝は「話に聞く王を見る」から「王の顔を実際に見る」に変わった。ローマ人たちの行列が始まるのは、ちょうどこのあとである。

ローマの偉い人たちが、順番に拝みに来る

ここからしばらく、確認できる記録がずらりと並ぶ区間になる。この話が単なる伝説でないのは、この区間があるからだ。

ポンペイウスが来た、という話がある。カエサルは紀元前四八年、ポンペイウスを追ってエジプトに来たときにソーマを訪れている。カエサルにとってアレクサンドロスは若い頃からの目標物件で、自分が三十を過ぎてもまだ何も成していないと嘆いた相手だ。その男の遺体の前に立ったときに何を思ったかは、誰も書いていない。

いちばん有名なのはアウグストゥス、当時のオクタウィアヌスだ。紀元前三〇年、クレオパトラとアントニウスを片づけたあとで、彼はソーマに入った。

カッシウス・ディオの記述はやたら具体的で、オクタウィアヌスは遺体を見ただけでなく、実際に手を触れた。そのとき、鼻の一部が折れて欠けたという。金の冠を頭に置き、花を撒いて出てきた。世界の新しい主人が、世界の前の主人の顔を、うっかり壊したのである。

さらにこの直後、アレクサンドリア市民が「プトレマイオス家の王たちの遺体もご覧になりますか」と勧めたのに対して、オクタウィアヌスはこう言って断った。私は王を見に来たのであって、死体を見に来たのではない。

この一言だけで、当時のローマ人にとってアレクサンドロスがどういう存在だったかが分かる。他の王は死体、アレクサンドロスだけが王なのだ。

カリグラは、もっと即物的だった。スエトニウスによると、彼はソーマからアレクサンドロスの胸当てを持ち去って、自分で着た。皇帝が、六百年前の英雄の鎧を着てローマを歩き回るという絵面である。悪趣味というか、崇拝と略奪の区別がついていない。

セプティミウス・セウェルスは方向が逆で、一九九年にアレクサンドリアを訪れたとき、ソーマを封鎖した。誰も入れないようにしたのだ。理由については、秘伝の書物を中に納めて封じたという説明が伝わるが、要は見世物になりすぎていたのを止めたのだろう。

その息子カラカラは、父親の封印を破った。二一五年のことだ。

カラカラのアレクサンドロス崇拝は病的で、服装を真似し、一万六千人の兵士をとっくに廃れていたマケドニア式ファランクスに並べ直したりしていた。アレクサンドリアに来た彼は、棺の上に自分のチュニックと指輪とベルト、その他の宝物を置いていった。捧げ物である。ヨアンネス・アンティオケイアがこれを伝えている。

ちなみにこのカラカラのアレクサンドリア訪問は、遺体とは無関係のところで最悪の結末になる。アレクサンドリア市民が彼を風刺してからかったため、彼は激怒して出迎えの市民代表団を虐殺し、兵に数日の略奪を許した。アレクサンドロスを崇拝する男が、アレクサンドロスの街を血の海にした。この皮肉は当時から指摘されている。

そして、ここまでだ。カラカラの二一五年以降、アレクサンドロスの墓を見たと明記する信頼できる同時代の記録が、急速に細っていく。

そして記録が、ぱたりと止む

何が起きたのか。決定打はない。ただ、三世紀後半から五世紀にかけてのアレクサンドリアは、都市として殴られ続けている。候補になりうる出来事を順に見ていく。

まず二七〇年代。パルミラのゼノビアがエジプトを取り、それをアウレリアヌスが奪い返す過程で、アレクサンドリアの王宮区画ブルケイオンが徹底的に破壊された。ソーマがあったとされるのは、まさにその区画だ。都市の中心が丸ごと廃墟になった。カラカラの参拝からわずか六十年ほど後である。時期的な符合はかなり良い。

次が三六五年七月二十一日。クレタ島沖でマグニチュード八・五を超えると推定される海底地震が起き、東地中海に津波が来た。

アンミアヌス・マルケリヌスの記述が生々しい。海が引いて、海底が露出し、それから水が戻ってきて何千人も溺死させた。船が家の屋根の上に載り、アレクサンドリアでは三キロ内陸まで押し流された船があったという。この災厄の記念日は、六世紀の終わりになってもアレクサンドリアで「恐怖の日」として毎年悼まれていた。都市の低地部分はこれで壊滅した。

そのうえアレクサンドリアは、この時代を通じてじわじわ沈んでいる。地盤沈下だ。クレオパトラの宮殿があったアンティロドス島も王宮区画の海岸部も、いま海の底にある。一九九二年からフランク・ゴディオが潜って調べているのは、その沈んだ街だ。ソーマの位置が海側に寄っていたなら、墓ごと沈んだ可能性は普通にある。

そして宗教の転換。三九一年、テオフィロスのもとでセラペイオンが破壊される。アレクサンドリアの異教神殿は使われなくなるか、転用されるか、壊されるかしていった。アレクサンドロスの霊廟は、はっきり異教の王の墓であり、しかもそこには神格化された王の遺体が安置されていた。キリスト教化した都市で、それが無事でいられる保証はどこにもない。キュリロスは、テオドシウス一世が墓を開けさせて略奪させたと記録している。

決定的なのは、四〇〇年ごろのヨハネス・クリュソストモスの一行だ。アレクサンドリアについて語りながら、彼はこう書く。彼の墓は、彼自身の民でさえ知らない。

つまり五世紀の頭には、地元の人間がもう場所を答えられなくなっていたのだ。カラカラが参拝してから、二百年経っていない。

中世のアラブ人たちは「見た」と書いているのだが

話をややこしくするのは、中世に入ってから見たと主張する人が何人も出てくることだ。

八〇三年生まれのイブン・アブド・アルハカム、八九六年生まれのマスウーディー、そして一四九四年生まれのレオ・アフリカヌス。彼らはみな、アレクサンドリアでアレクサンドロスの墓とされるものを見たと書いている。

レオ・アフリカヌスの描写はけっこう具体的で、礼拝堂のような造りの建物があり、そこには外から来た大勢の人間が押し寄せて、拝んで、寄進していったという。一六一〇年にはイギリス人のジョージ・サンディスが、同じくアレクサンドロスの墓と称される場所に案内されている。ただしサンディスの記述はレオの受け売りに見える、というのが研究者の一般的な評価だ。

ここが判断の難しいところで、彼らが本物を見たのか、観光名所化した偽物を見たのかを区別する材料がない。中世のアレクサンドリアには聖なる場所がいくらでもあって、そのうちどれかがアレクサンドロス名義で商売していた可能性は高い。逆に言えば、クリュソストモスの時代に一度失われた記憶が、数百年後に別のかたちで再発明されたと考えるのが素直だ。

二十世紀以降、百四十回を超える発掘申請の全滅

現代の話に入る。

エジプトの考古最高評議会は、十九世紀以降にアレクサンドロスの墓を探すために出された正式な調査申請が、百四十件を超えると認めている。百四十である。うち成功はゼロだ。

なぜこれほど難しいのか。答えははっきりしている。現代のアレクサンドリアが、古代のアレクサンドリアの真上に建っているからだ。人口数百万の都市の下に、ヘレニズム期の街が丸ごと埋まっている。しかもその上にはローマ期の層があり、イスラム期の層があり、近代の層がある。掘るには街を壊すしかない。だから海のほうから攻めるゴディオたちの水中考古学が、いま一番現実的な手段になっている。

十九世紀にいちばん筋の良い推定をしたのは、マフムード・エル・ファラキという天文学者だ。彼は古代アレクサンドリアの都市計画を復元し、大通りカノピカ通りと、彼がR5と呼んだ古代の街路の交差点あたりがソーマの位置だろうと考えた。タソス・ネルーツォス、ハインリヒ・キーペルト、エルンスト・フォン・ジークリンといった面々もこの線を支持している。交差点説はいまだに有力候補として生きている。

そして現在、いちばん地道に成果を出しているのがカリオペ・リムネオス・パパコスタというギリシャ人考古学者だ。彼女はアレクサンドリア中心部のシャララート庭園で長年掘り続けていて、二〇一九年にはアレクサンドロスを表現したとみられる大理石像を、二〇二三年にも小像を掘り出している。王宮区画に近づいている感触はある。ただし、まだ墓ではない。

シワ・オアシスの「見つけた」騒動

一九九五年、ギリシャの考古学者リアナ・スーヴァルツィが、リビア国境に近いシワ・オアシスでアレクサンドロスの墓を特定したと発表した。

世界中のメディアが飛びついた。シワはアレクサンドロス本人がアンモン神託を受けに行った場所で、しかも「そこに葬られたい」と望んでいたという伝承がある土地だ。物語としては完璧すぎるくらい完璧だった。

しかし発表の直後から、ギリシャ側の当局が冷や水を浴びせにかかる。当時のギリシャ文化省の事務総長ゲオルギオス・トマスは、遺構の様式がマケドニア式ではないこと、そして現場から出た石板の断片の読みがスーヴァルツィの主張する翻訳を支えていないことを指摘した。要するに、あの碑文はそう読めない、という否定だ。発掘は打ち切られ、彼女の主張は学界では受け入れられなかった。

面白いのは、この騒動が二〇二一年にもう一度小規模に再燃していることだ。エジプト側からシワ周辺での発見に関する話が出て、また少しざわついた。シワという場所は、この話題における永遠の再発火装置みたいなところがある。

ナビ・ダニエル・モスクの地下に、何かがある

アレクサンドリアで最も長く疑われている場所が、ナビ・ダニエル・モスクだ。エル・ファラキが推定した交差点にきわめて近い。

一八五〇年、アンブロワーズ・シリッツィという男が、このモスクの地下でアレクサンドロスのミイラを見た、と発表して騒ぎになった。ガラス越しに、頭に王冠を戴いた遺体が座っていた、というような話だった。真偽は確かめようがない。

一八七九年には、もっと引っかかる出来事が起きている。石工が作業中に、偶然、地下の丸天井のある空間を破ってしまった。中には花崗岩の構造物があったという。ところが、その入口はすぐに塞がれた。

一八八八年、トロイアを掘り当てたあのハインリヒ・シュリーマンが、ここを掘らせてくれと申し入れた。トロイアを見つけた男である。彼は許可を得られなかった。

ここは大事なところなので、はっきり書いておく。

ナビ・ダニエル・モスクは現役の礼拝施設だ。人が日々祈っている場所であり、地元にとっての生活の一部である。だからこそ、そこを掘るという話は、学術的な期待とは別の次元の話になる。無許可で入るとか、勝手に調べるとか、そういうのは論外だ。近年は非破壊の地中レーダー調査といった、建物を傷つけない手法の話が中心になっていて、その方向でしか進みようがないし、進むべきでもない。モスクの下にあるかもしれない、は、あくまで仮説として楽しむ範囲の話である。

二〇一四年、ギリシャが丸ごと熱狂したアンフィポリスの夏

そして、この話題の現代史における最大の祭りが、二〇一四年に起きる。

ギリシャ北部、マケドニア地方のアンフィポリス。カスタ古墳と呼ばれる巨大な墳丘の内部が、その夏に開かれた。

規模がとんでもなかった。周囲を囲む壁はほぼ円形で直径百五十八メートル、高さ三メートル、タソス島産の大理石で覆われている。墳丘の高さは約三十メートル、盛るのに使われた砂は二十五万立方メートル。紀元前四世紀のギリシャ世界で最大級の墓所である。

入口には高さ二メートルほどのスフィンクスが二体。奥に進むと、一・四メートルの台座の上に立つ二・二七メートルのカリアティード、つまり女性像の柱が二体、まぐさを支えている。片方の顔は驚くほど良く残っていた。さらに奥の部屋の床には、黒白灰黄青赤の小石を使ったモザイクがあり、そこにはハデスがペルセポネを馬車で連れ去る場面が描かれていた。白馬、翼のあるサンダルを履いたヘルメス、白い衣に赤い帯のペルセポネ。

発掘が進むにつれてギリシャ中が沸騰した。当時のギリシャは経済危機の真っただ中で、国民が国家的な誇りに飢えていた。そこへ「アレクサンドロス大王の墓かもしれない」である。テレビは連日中継し、政治家が現場に飛び、SNSは推測で埋まった。学者が慎重な言い回しをすると、それすら「何か隠している」と読まれる始末だった。あの夏のギリシャは、本当に一つの墓穴を全国民で覗き込んでいた。

結末は、期待とは違った。

埋葬室から出てきた人骨は五人分。六十歳以上の女性が一人、三十五歳から四十五歳の男性が二人、うち一人には治癒していない致命傷らしき傷があった。それと新生児が一人、火葬された骨片の人物が一人。アレクサンドロスは三十二歳で死に、エジプトに運ばれたことが記録上ほぼ確実なので、この構成は本人ではありえない。

発掘責任者のカテリニ・ペリステリらは、最終的にこの墓をヘファイスティオンの記念墓とする見解に落ち着いた。根拠は、建材に残っていた三つの碑文で、そこにはギリシャ語で「パレラボン」、つまり「私は受け取った」という語と、ヘファイスティオンのモノグラムが並んでいたという。

ヘファイスティオンはアレクサンドロスの生涯の相棒で、彼の死にアレクサンドロスが正気を失うほど取り乱し、莫大な費用の英雄祭祀を命じたことで知られる。その記念墓が国家事業として建てられたのなら、この規模も説明がつく。

異説も残っている。アレクサンドロスの母オリュンピアスの墓ではないかという声、そもそもこれこそがマケドニアが用意していたアレクサンドロス本人の墓であって、プトレマイオスに遺体を横取りされたので永遠に空席のまま別用途に転用された、という筋書き。この最後のやつは、証拠は薄いが物語としては抜群にうまい。設計者にアレクサンドロスの技師ディノクラテスの手を見る意見もある。

ヴェネツィアの聖マルコは、実はアレクサンドロスだった説

そして、いちばん突拍子もなくて、いちばん食いつきの良い説がこれだ。

アンドリュー・チャグが主張しているのは、ざっくりこうだ。四世紀末、アレクサンドリアがキリスト教化していく過程で、アレクサンドロスの霊廟を守るために、あるいは単に転用するために、中の遺体が「福音記者マルコの遺体」として看板を掛け替えられた。三九二年ごろには、その場所は教会になっていた。

そして八二八年、ヴェネツィアの商人たちがアレクサンドリアから聖マルコの遺骸を盗み出し、豚肉の下に隠して船に積み、ヴェネツィアへ運んだ。この盗難事件自体は、ヴェネツィアが誇る建国神話として実在する有名な話だ。サン・マルコ寺院は、そのために建てられた。

つまり、チャグの説が正しければ、アレクサンドロス大王はいまヴェネツィアのサン・マルコ寺院の主祭壇の下にいることになる。

これがただの思いつきで終わらないのは、チャグが物証らしきものを出してきたからだ。一九六〇年、サン・マルコ寺院で紀元前三世紀のマケドニア様式の石材の断片が見つかっていた。チャグは、この断片が大英博物館にあるネクタネボ二世の石棺に寸法まで一致して嵌まる、と示した。

このネクタネボ二世の石棺というのが、また妙な代物なのだ。

紀元前三四五年ごろ、エジプト最後の土着のファラオであるネクタネボ二世のために作られた礫岩の石棺で、しかし彼はペルシアに追われて逃げたので、この石棺は使われずに残った。それがアレクサンドリアに運ばれ、長いあいだアレクサンドロスの棺として崇められていた。発見場所はアッタリーン・モスクの中庭で、そこは以前は聖アタナシオス教会だった場所だ。石棺は底の近くに十二個の水抜き穴を開けられ、清めの水槽として使われていた。内側のエジプトの宗教図像は、水で削られて傷んでいる。

これがイギリスに渡って一八〇三年に大英博物館の収蔵品になったとき、目録には「アレクサンドロス大王に関係するものと信じられている」と書かれていた。当時のヨーロッパ人は、本気でこれをアレクサンドロスの棺だと思っていたのだ。象形文字が解読されるのはこの後の話で、読めるようになってからネクタネボ二世のものだと判明した。

ここで一つ、面白い符合がある。アレクサンドロス伝説の古い系統の一つでは、ネクタネボ二世こそがアレクサンドロスの実の父親だ、という話になっている。魔術師ネクタネボがマケドニアに逃れ、オリュンピアスのもとに神を装って忍び込んだ、という筋書き。伝説の父親の石棺に、伝説の息子が入る。出来すぎている。出来すぎているからこそ、逆に「この伝説自体が、石棺の転用という事実から後付けで生まれたのでは」とも読める。

掲示板と考察界隈は、この件をどう扱っているか

ネット上でこの題材が語られるとき、だいたい三つの派閥に分かれる。

一つ目は「もう海の中だよ」派。地盤沈下と三六五年の津波を根拠に、王宮区画ごと沈んだのだから探しても無駄で、水中考古学が進むのを待つしかない、という現実派だ。この層は比較的落ち着いていて、ゴディオの調査の続報が出るたびに静かに盛り上がる。

二つ目は「モスクの下」派。ナビ・ダニエル・モスクの一八七九年の地下空間の話と、シュリーマンが断られた話が、この派の二大聖典になっている。この派は熱量が高い代わりに、しばしば「なぜ調べさせないのか」という方向に話が転がりやすい。

ここは注意が必要なところで、現役の宗教施設に対して外部の人間が調査を要求すること自体が無神経だという当たり前の感覚が、ネットの議論だとしばしば抜け落ちる。地中レーダーみたいな非破壊の方法があるという話に落ち着けば健全だが、そうならないスレッドも多い。

三つ目は「ヴェネツィア」派。これはインパクト勝負で、話として面白すぎるので定期的にバズる。ネクタネボ二世の石棺の写真と、サン・マルコ寺院の断片の一致という具体的な物証があるので、初見のインパクトが強烈だ。ただ、この説を熱心に語る人ほど、遺骸そのもののDNA鑑定や年代測定が一度も行われていないという肝心な点を飛ばしがちである。

そして二〇一四年のアンフィポリスは、ネット考察史における一つの教訓として定期的に蒸し返される。あのときの熱狂と、その後の静かな失望。大発見速報を鵜呑みにするなという実例として引かれることが多い。ギリシャ国内では今も、ヘファイスティオン説に納得していない人が一定数いて、定期的に議論が再燃する。

日本語圏だと、この題材はどちらかというと知る人ぞ知るに近い扱いだった。世界史の教科書はアレクサンドロスの死までで終わり、遺体のその後には一行も割かない。だから「実はローマ皇帝が観光に行ってたし、アウグストゥスは鼻を折った」という事実を知った瞬間の驚きが、けっこう大きい。この話が刺さる人は、たいていそこで刺さる。

冷や水を浴びせておく――反証と、分かっていないこと

盛り上がったところで、否定側の材料をきちんと並べておく。

まず、遺体が本当に六百年間ずっと同一のものだったのかが分からない。防腐処置をした遺体が、湿度の高い地中海沿岸の都市で、六百年もつのか。ミイラとして残るとしても、それが「見た目が生きているよう」であり続けたとは考えにくい。ガラスの棺に入れ替えた紀元前一世紀の時点で、中身が当初のままだった保証はない。途中でこっそり作り替えられていた可能性は、真面目に考えるべきだ。

次に、ローマ皇帝たちの参拝記録の史料的な質にはばらつきがある。カッシウス・ディオもスエトニウスも、伝聞や逸話を好んで拾う書き手だ。鼻が折れた話も、胸当ての話も、「そういう話が伝わっている」という水準を出ない。皇帝たちがソーマを訪れた事実そのものは疑いにくいが、細部の逸話は文学的な脚色を含んでいる前提で読むべきだ。

三つ目。ソーマの正確な位置は、実は一度も特定されていない。エル・ファラキの交差点説はよくできた推定だが、あくまで推定だ。古代の記述は「王宮区画にある」程度の粒度でしか位置を語っておらず、そこから先は復元図の上の話になる。掘る前に、どこを掘るかで既に賭けが始まっている。

四つ目、ヴェネツィア説の最大の弱点。サン・マルコ寺院の遺骸は、教会にとって聖遺物である。信仰の対象を掘り返して科学分析にかけるという発想は、当事者にとっては受け入れがたい提案だ。だから検証されない。検証されないから、この説は永久に「面白い仮説」の位置に留まる。

石棺の断片が一致するという話も、あの石棺がアレクサンドリアで長く尊崇されていたことは示しても、中にアレクサンドロスが入っていたことは示さない。転用された有名な石棺のかけらが、聖遺物と一緒に運ばれた、というだけでも説明はつく。

五つ目、シワ説。スーヴァルツィの碑文の読みが専門家に支持されなかった件は、この分野でよくある「読みたいように読んでしまう」典型例として扱われている。願望が先にあると、断片的な文字列がいくらでも都合よく読めてしまう。

そして最後に、いちばん大きな未確認点。破壊されたのか、埋もれているのか、沈んだのか、それすら分かっていない。三世紀後半の王宮区画破壊、三六五年の津波、四世紀末の異教施設の処分、そのどれか、あるいは全部が効いた可能性がある。いつ消えたかの候補は絞れているのに、どう消えたかが絞れていない。この状態が千六百年続いている。

なぜこの話は、二千三百年経っても人を掴んで離さないのか

最後に、この話の引力の正体を分解しておきたい。

一つは、消え方が異常だからだ。

普通、古代の遺物は「いつの間にか無くなっていた」ものだ。記録がないほうが自然で、あるほうが珍しい。ところがアレクサンドロスの墓は逆で、六百年ぶんの分厚い記録がある。皇帝が来た、鼻を折った、鎧を持ち去った、封印した、供物を置いた。ここまで克明に「あった」ことが分かっているのに、その先が真っ白なのだ。詳細な記録が途中でぶつりと切れる、この落差が気味悪い。文章が途中で終わっている本を読まされている感覚に近い。

二つ目は、探せる場所が分かっているのに、探せないという状況の焦れったさだ。

中央アジアの砂漠を当てもなくさまようような話ではない。アレクサンドリアの旧市街の、この交差点のあたり、というところまで絞れている。それでも掘れない。なぜなら、その上に生きている街があるからだ。人が住み、店が開き、モスクで祈りが捧げられている。過去を掘り起こすには現在をどかさなければならず、それはできない。この「あと数メートル下」という距離感が、たまらなくもどかしい。

三つ目は、遺体そのものが持っていた政治的な機能だ。

あの金の箱は、ただの棺ではなかった。それを持つ者が正統な後継者になれる、統治の免許証だった。だからプトレマイオスは奪い、ペルディッカスは死に、ローマの皇帝たちは順番に拝みに来た。オクタウィアヌスが「私は王を見に来た」と言い放ったとき、彼は自分がその系譜に連なる者だと宣言していたのだ。物体としての遺体が、権力の伝達装置として六百年機能し続けた。そんな死体は他にない。

四つ目は、ギラン・バレー症候群説が投げ込んだ、あの気味の悪い可能性だ。

もし彼が死亡宣告の時点でまだ生きていたなら、あの腐らなかった六日間は神秘でも奇跡でもなく、ただの生理現象だったことになる。そして同時に、それは歴史上もっとも豪華で、もっとも残酷な生き埋めの物語になる。神話が科学に置き換えられた結果、話がむしろ怖くなるという珍しいパターンだ。

五つ目、そしておそらく本質。この話には終わりがない。

遺体が見つかっていないから、否定もできない。アレクサンドロスはヴェネツィアにいる、と言われても、いや違う、と証明する手段がない。空白は、あらゆる仮説を等しく生かしておく。だからこの話題は永遠に更新され続ける。シワで何か出れば燃え、アンフィポリスで何か出れば燃え、シャララート庭園で像が一体出れば燃える。そして毎回、燃え尽きて空白に戻る。

三十二歳で死んだ男は、死んでから二千三百年間、ずっと誰かに探されている。生きているあいだの遠征は十年ちょっとで終わったのに、遺体の旅のほうがはるかに長い。バビロンからメンフィスへ、メンフィスからアレクサンドリアへ、そこから、どこへ行ったのか、まだ誰も知らない。

材料を組み直して、もう少し踏み込む

まず「記録が消えるとはどういうことか」を、もう一度冷静に見たい。

私たちはつい、墓が物理的に壊れたから記録が止まった、と考えがちだ。だが順序は逆かもしれない。記録が止まるのは、書く人がいなくなったときでもあるからだ。

三世紀後半から四世紀にかけてのアレクサンドリアは、書き手の顔ぶれがごっそり入れ替わっている。異教の教養人が都市の言論を握っていた時代から、キリスト教の聖職者が握る時代への移行だ。新しい書き手にとって、異教の王のミイラは、書き残す価値のある観光名所ではない。むしろ触れないほうがいい対象だった。

つまり、墓がまだ物理的に存在していたとしても、記録の側が先に沈黙した可能性がある。クリュソストモスの「彼の民でさえ知らない」という一行は、破壊の証明ではなく、無関心の証明かもしれないのだ。これは意外と大事な視点で、もし記録の沈黙が先だったなら、墓は思ったより遅くまで、誰にも気にされないまま残っていたことになる。廃墟の一角にある、名前を失った石室として。

次に、都市の地面の話を掘り下げたい。

アレクサンドリアという街が抱えている根本的な問題は、地盤が沈み続けていることだ。ナイル・デルタの西端に載った街で、下は堆積層である。三六五年の地震と津波は劇的な一撃だったが、本当に効いているのはじわじわ進む沈降のほうだ。ヘレニズム期の地表面は、場所によって現在の地表から数メートルから十数メートル下にある。しかも海に近い部分は完全に水没している。

ゴディオたちが海中で王宮区画の遺構を確認しているという事実は、逆に言えば「陸側で探しても手遅れな場所がある」ということでもある。ソーマが海寄りだったのか、内陸寄りだったのか。この一点で、捜索の希望はまるで変わる。エル・ファラキの交差点説が支持され続けているのは、あれが「まだ陸にある」場所を指しているから、という身も蓋もない理由もある気がする。人は探せる場所を探したがるのだ。

三つ目に、プトレマイオスの判断の巧みさを、もう少し評価しておきたい。

彼はアレクサンドロスの部下のなかで、たぶん一番冷静に「何が権力になるか」を見抜いていた。他の後継者たちが軍団と領土を奪い合っているあいだに、彼は死体を取りに行った。しかもそれをエジプトに置いた。

エジプトは、王が神になる文化を三千年やってきた土地である。神格化された王の遺体を都市の中心に据えて、その周りに王朝の霊廟を並べるという設計は、ギリシャ的でもエジプト的でもある絶妙な折衷だった。プトレマイオス朝がヘレニズム諸王朝のなかで最も長く生き延びたのは、この最初の一手と無関係ではないと思う。

そして、その最も長く生き延びた王朝の末期に、金欠の王が創業の神器である黄金の棺を溶かすというのは、王朝の凋落を象徴する場面としてよくできすぎている。ストラボンがそれを「だから追放された」と書いたのも、当時の人がその象徴性を感じ取っていた証拠だろう。

四つ目。アンフィポリスの騒動から学べることを、もう少し丁寧に取り出しておきたい。

あの二〇一四年の夏、何が起きていたかというと、考古学の発掘が「生中継されるコンテンツ」になったのだ。石を一つどけるたびに速報が出る。カリアティードの顔が出たときの、あの全国的な高揚。あれは学術の手続きとは相性が最悪だった。

発掘は本来、掘って、記録して、比較して、何年もかけて解釈を固める作業だ。ところが視聴者は「今日の結論」を求める。結果、現場は毎日結論めいたことを言わされ、慎重な言い回しは隠蔽と受け取られた。

最終的にヘファイスティオン記念墓という見解が出たとき、多くの人が失望した。だが、あれは失望するような結果ではない。紀元前四世紀のギリシャ世界最大級の墳墓で、ペルセポネ拉致のモザイクがあって、五人分の人骨があって、ヘファイスティオンのモノグラム付き碑文が三つある。単体で歴史的大発見だ。それが「アレクサンドロス本人じゃなかった」というだけで凡庸なニュースに格下げされる。この構造こそが、いちばん考えるべきところだと思う。ロマンが期待値を吊り上げすぎると、本物の成果まで割を食う。

五つ目に、ヴェネツィア説の扱い方について。

この説は、面白がるのは自由だが、二段階の飛躍を含んでいることを意識しておきたい。第一の飛躍は「アレクサンドロスの遺体が聖マルコの遺骸として再ブランド化された」という部分。第二の飛躍は「八二八年にヴェネツィア商人が盗んだのが、まさにその遺骸だった」という部分。

どちらも、それ単独ならありえない話ではない。古代末期の地中海世界では、異教の聖地がキリスト教の聖地に転換される例は山ほどあるし、聖遺物の来歴が途中で入れ替わるのも珍しくない。ただ、二つの飛躍を直列につなぐと、確からしさは掛け算で下がる。

石棺の断片の一致というチャグの物証は、確かに気持ちのいい発見だが、それが示すのは「アレクサンドリアで尊崇されていた石棺に関係する石材が、サン・マルコにある」までだ。そこから「中身も一緒に来た」までは、まだ橋が架かっていない。

とはいえ、この説の最大の価値は別のところにあると思っている。アレクサンドロスの遺体が「聖なるものの入れ物」として、宗教も文明も飛び越えて転用され続けたかもしれない、という発想そのものだ。実際、ネクタネボ二世の石棺は、ファラオの棺として作られ、アレクサンドロスの棺として崇められ、モスクで清めの水槽になり、最後は博物館の展示ケースに入っている。物には物の輪廻がある。

六つ目。この題材を扱うときの最低限の作法について、はっきり書いておく。

ナビ・ダニエル・モスクにしろ、サン・マルコ寺院にしろ、そこは今この瞬間も人が祈っている場所だ。歴史の謎に興奮するのはいいが、その興奮は「掘らせろ」という要求に化けてはいけない。過去に対する好奇心は、現在生きている人の信仰より優先されない。

これは道徳の話であると同時に、実務の話でもある。地元と喧嘩した調査は、絶対に続かないからだ。実際、アレクサンドリアでの調査が少しずつでも前に進んでいるのは、パパコスタのように何年もかけて地元と関係を作ってきた人がいるからで、外から来て一発掘って手柄にしようとした企画はことごとく潰れている。百四十件の申請が全滅した理由の何割かは、たぶんそこにある。

七つ目、これは個人的にいちばん引っかかっている点なのだが、「見つかったら困る」という力学が働いていないか、という疑いだ。

誤解しないでほしいが、陰謀論を言いたいわけじゃない。もっと平凡な話だ。アレクサンドロスの墓は、いま見つかっていない状態で膨大な文化的価値を生んでいる。本が書かれ、番組が作られ、観光の物語になり、国民的な期待が寄せられる。

もし本当に見つかって、中から傷んだ骨が数本出てきて、それで終わりだったら、その価値の大半は消える。空白は資産なのだ。探している人たちが不誠実だと言っているのではない。ただ、社会全体としては、答えが出ないほうが得をする構造になっている。この構造は、行方不明の遺物をめぐる話には大抵ついて回る。

八つ目。最後に、死因の話に戻りたい。

ギラン・バレー症候群説が本当に面白いのは、病名を当てたことではなくて、「死の定義」に手を突っ込んだことだ。

古代の医者は、呼吸と脈で死を判定した。それしか手がない。上行性麻痺で呼吸筋が止まり、循環が落ちれば、その基準では確実に死者になる。しかし脳はまだ働いているかもしれない。

この可能性を突きつけられると、あの有名な場面の意味が全部ひっくり返る。兵士たちが無言で寝台の脇を通り過ぎていったあの行進。あれは死の直前ではなく、死の宣告のあとだった可能性すらある。防腐職人が「まだ神なのでは」と怯えて手を出せなかったという逸話も、宗教的な畏怖ではなく、単に生体反応が残っていたことへの本能的な違和感だったのかもしれない。もしそうなら、彼らが躊躇したその数日間は、歴史上もっとも豪華な看取りだったとも言える。誰も看取っていると気づかないまま。

もちろん、これは証明できない。証明するには遺体が要る。そして遺体は、二千三百年前から行方不明のままだ。

結局のところ、この話が最後に残すのは一つの奇妙な事実だと思う。

世界を十年で作り変えた男について、私たちは戦場の陣形も、遠征のルートも、部下の名前も、死ぬ前の熱の出方まで知っている。知らないのは、その体がいまどこにあるかだけだ。

バビロンの宮殿で息を引き取ってから、金の車で二年かけて運ばれ、シリアで横取りされ、メンフィスに置かれ、アレクサンドリアに運ばれ、金の棺からガラスの棺に移され、鼻を折られ、鎧を剥がれ、封印され、また開けられ、そして、そこで記録が終わる。

続きを書ける人間は、まだ生まれていない。

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