メアリー・セレスト号——温かい紅茶と無事な積荷を残し、乗員だけが消えた大西洋の幽霊船

1872年12月4日、大西洋上での奇妙な遭遇

その日、ジブラルタル海峡へ向けて航行していたカナダ船籍のブリガンティン船「デイ・グラツィア号」の船員たちは、奇妙な光景を目にした。アゾレス諸島とポルトガル本土の中間、北緯38度20分・西経17度15分の海上を、一隻の帆船が不規則に揺れながら漂っていたのだ。帆は半分だけ開かれ、あちこち破れて垂れ下がっている。信号を送っても応答はない。船長デイヴィッド・モアハウスは一等航海士オリヴァー・デヴォーと二等航海士ジョン・ライトを小舟でその船へ向かわせた。 甲板に降り立った二人が見たのは、誰もいない船だった。船名は「メアリー・セレスト号」。ニューヨークからイタリア・ジェノヴァへ向けて出航したはずのアメリカ船籍のブリガンティンである。

船倉には1.1メートルほど浸水していたが、沈没するほどではない。積荷である工業用アルコール1701樽はほとんど手つかずのまま残されていた。船室には船長一家の私物や、鞘に納められた剣までがそのまま置かれていた。だが、救命艇(ヨール)だけが忽然と消えていた。まるで誰かが意図的に、しかし急いで持ち去ったかのように。

船長一家、そして乗組員たちの横顔

船長ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス、37歳。マサチューセッツ州ウェアハムの出身で、船長一家に生まれ育った生粋の船乗りであり、誠実で敬虔な人物として知られていた。この航海の前、彼は自らの貯金を投じてメアリー・セレスト号の8分の1の所有権を買い取ったばかりだった。「船は美しい状態に仕上がっている。素晴らしい航海になることを願う」——出航直前、母への手紙にそう綴っている。 同乗していたのは妻サラ・エリザベス(旧姓コブ)と、2歳になる娘ソフィア・マチルダ。長男アーサーだけは学業のため祖母のもとに残された。

乗組員は一等航海士アルバート・リチャードソン(船主の姪の夫)、デンマーク系の二等航海士アンドリュー・ギリング、新婚だったばかりの司厨長エドワード・ヘッド、そしてドイツ人船員4人。全員が「評判の良い、一流の船乗りたち」として選抜されており、事件性を疑う動機はどこにも見当たらなかった。 1872年11月5日、船はニューヨークを出航。11月7日に本格的に大西洋へ乗り出す。航海日誌に残された最後の記録は11月25日午前8時、アゾレス諸島サンタマリア島付近の位置——発見された地点から実に約600キロも離れた場所だった。つまりこの船は少なくとも9日間、無人のまま漂流していたことになる。

ジブラルタルの法廷を揺るがした「殺人事件」疑惑

デイ・グラツィア号は両船をジブラルタルへ曳航し、12月17日から裁判所による審問が始まった。担当したのは検事総長フレデリック・ソリー=フラッド。「傲慢さと横柄さが知能に反比例する」とまで評された人物である彼は、この事件を単純な漂流事故ではなく凶悪犯罪と決めつけ、執拗な調査を進めた。 12月23日、船体検査官ジョン・オースティンが船首に「鋭利な刃物による切り傷」を発見したと報告。さらにブリッグス船長の剣に付着していたとされる染みが「血痕」だと騒がれ、海軍将校らも手すりや甲板の傷を「斧によるもの」と証言した。

フラッドは「船員たちが積荷のアルコールに酔って乱心し、船長一家と士官を惨殺、偽装工作として船首を傷つけたうえで逃走した」という猟奇的なシナリオを主張した。 しかし科学的検証の結果、「血痕」とされた染みは血液ではないことが判明。アメリカ海軍のシャフェルト大佐も、船首の傷は自然の波浪によるものであり人為的な破壊工作ではないと結論づけた。1873年2月25日、裁判所はメアリー・セレスト号を釈放。だが4月8日に下された救助報奨金の裁定はわずか1700ポンド——積荷と船体の合計価値の約5分の1という、当時の航海の危険度を考えれば異例に安い金額だった。

なぜ乗員は消えたのか——七つの仮説

事件発生から150年以上、研究者たちはあらゆる可能性を検討してきた。反乱・殺人説は動機が乏しく今日ではほぼ否定されている。海賊説は積荷・金品に一切手が付けられていない点で説得力を欠く。保険金詐欺説も一時疑われたが、船主ジェームズ・ウィンチェスターが強く反論している。竜巻(ウォータースパウト)説は突然の水柱が船を襲い浸水させ、沈没を恐れたブリッグスが避難を決断したとする説だ。海底地震説は海底のプレート活動が積荷のアルコール樽を揺らし、有毒なガスが発生してパニックを招いたとする説。

そして測深棒の誤作動説は一等航海士デヴォーが提唱した説で、船内の測深装置が誤作動を起こし、実際以上の浸水があると誤認したブリッグスが避難を指示したというものだ。 そして最も有力視されているのがアルコール蒸気爆発説である。積荷の工業用アルコール樽の一部が漏れ、船倉内に可燃性ガスが充満。何らかの火花や熱源によって「圧力波」的な爆発が起き、炎自体は一瞬で消えて船員たちを恐怖に陥れたのではないかという仮説だ。2006年、化学者アンドレア・セラが英チャンネル5の実験企画で縮小模型を使い検証したところ、「壮絶な炎の波が走るが、その後ろの空気は比較的冷たく、すすもほとんど残らない」現象を再現することに成功した。

船体に爆発の痕跡がほとんど残らなかった理由と一致するとして、大きな支持を集めた。 いずれの説も、9日分の航行距離の空白と、なぜ全員が慌てて小船に乗り移ったのかという核心には完全には答えきれていない。

コナン・ドイルが生んだ「幽霊船伝説」

現在広く流布している「発見時、紅茶はまだ温かく、朝食が調理中のまま食卓に並んでいた」というドラマチックな逸話——実はこれ、史実ではない。1884年1月、シャーロック・ホームズの生みの親アーサー・コナン・ドイルが『コーンヒル・マガジン』誌に発表した短編「J・ハバクック・ジェフソンの証言」による創作である。ドイルは船名を「メアリー・セレスト号」ではなく「マリー・セレスト」と綴り、船長名も架空の「J・W・ティブス」に変え、人種差別的な狂信者による殺人という劇的な筋書きを作り上げた。

本人は「真面目に受け取られるとは思わなかった」と述べているが、この小説的脚色があまりに強烈だったため、今も多くの人が「マリー・セレスト」という誤った船名を史実だと信じ込んでいる。 その後も尾ひれは増え続けた。1904年の『チェンバーズ・ジャーナル』では巨大なタコが乗員を一人ずつ引きずり込んだという荒唐無稽な話が、1913年の『ストランド・マガジン』ではアベル・フォズダイクなる人物による「浮橋が崩壊して全員海に落ちた」という偽の生存者証言が掲載された。1920年代にはローレンス・J・キーティングによる、デイ・グラツィア号との共謀を疑わせる完全な捏造記事まで登場している。

オカルト方面では大西洋のバミューダトライアングルやアトランティス、宇宙人との関連づけまで語られるようになったが、実際の発見地点はバミューダトライアングルから遠く離れている。

その後の船の運命、そして「呪われた船」の噂

ジブラルタルでの「殺人事件」報道により評判を落としたメアリー・セレスト号は、その後どの港でも歓迎されず「誰も欲しがらない船」として埠頭で朽ち果てていった。1874年2月、当初の所有者たちは大損を覚悟でこの船を手放す。以後インド洋や西インド諸島の航路を転々とするが、常に赤字続き。1879年2月には3代目船長エドガー・タットヒルがセントヘレナ島で客死し、これが「呪われた船」という都市伝説をさらに強固なものにした。 そして1885年1月3日、4代目船長ギルマン・C・パーカーが、価値のない貨物を高価な商品と偽って保険金3万ドルをかけたうえで、ハイチ沖のロシュロワ礁にわざと座礁させるという保険金詐欺を実行、船は完全に破壊された。

詐欺は露見しパーカーは重罪(バラトリー=船舶詐欺罪、当時は死刑もありうる罪状)で起訴されたが、陪審は評決に至らず、示談によって刑を免れた。だがパーカーはその3か月後、貧困のうちに死去。共謀者の一人は発狂し、もう一人は自ら命を断ったと伝えられている。船の”呪い”は、最後の最後まで関係者を捉えて離さなかったというわけだ。 2001年8月、著名な探検家クライヴ・カッスラーの調査チームが座礁地点付近で残骸を発見したと発表し世界中で話題になったが、後の年輪年代測定によって、その木材はメアリー・セレスト号が破壊された1885年よりも後、1894年頃まで生育していた木から採られたものと判明し、別の難破船である可能性が高いことが分かっている。

メアリー・セレスト号事件がここまで長く愛される理由は、「日常」と「不在」のコントラストにある。船は沈んでいない。積荷も無事。食料もある。家族の私物すら残っている——つまり生活の痕跡はそのまま保存されているのに、そこにいるべき人間だけがきれいに抜き取られている。この静かな異常さは、派手な怪奇現象よりもむしろ想像力を刺激する。

近年はTikTokやYouTubeの「未解決ミステリー」系動画で繰り返し取り上げられ、アルコール蒸気爆発説という「科学的だが完全には証明できない」落としどころが、信じたい人にも懐疑派にも居心地よく消費されている。

発見日は四日か五日か

メアリー・セレスト号について、日本語記事では一八七二年十二月四日に発見されたとするものと、五日とするものがある。これは単純な誤記だけでなく、船が用いた航海日と陸上の暦、後世の記録の整理によって生じた差として説明される。日付だけを訂正して終えるより、どの資料の表記を採ったかを添える方がよい。

発見したのは、カナダ船籍のデイ・グラツィア号だった。乗員が移乗すると、メアリー・セレスト号に人影はなく、唯一の小艇は失われていた。船長ベンジャミン・ブリッグズ、その妻サラ、幼い娘ソフィア、七人の乗組員、計十人の行方は分からなかった。船は大破しておらず、食料と水も残っていたが、完全な無傷ではない。船倉には水が入り、ポンプの一基が分解され、航海計器や書類の一部もなくなっていた。

「温かい紅茶」「食べかけの朝食」「火にかかったままの料理」は、事件直後の証言で確定した情景ではない。無人船の不気味さを強めるため後世に加えられた典型的な飾りである。船内に生活用品が残っていたことと、食事が直前まで続いていたことを同一視できない。

航海日誌が示す最後の位置

最後の航海日誌は十一月二十五日朝、アゾレス諸島サンタマリア島付近を記録していた。Smithsonianが紹介する再調査では、石板の記録から同島を視認できる距離にいたとされる。十日後、船はそこから東へ約四百マイル離れた海上で見つかった。風と海流のデータによる復元では、無人でもその間を漂航し得たという。

この位置関係は、船長が陸地の見えるうちに退船を決めた可能性を支える。ただし、乗員がいつ小艇へ移ったかを目撃した人はいない。日誌の最終記入時刻と退船時刻を同じと断定することもできない。

積荷は工業用アルコール一七〇一樽で、大半は残っていた。後に空になっていた樽が複数確認されたことから、漏れた蒸気や爆発への恐れを原因とする説が生まれた。ただし船体に大きな爆発跡はなく、実際に爆発が起きた証拠もない。漏出への警戒から一時退船したという筋と、爆発で人が消えたという筋は分けて考える必要がある。

退船判断をめぐる現実的な仮説

Smithsonianが紹介したアン・マグレガーらの調査は、荒天、位置を正確につかめなかった可能性、ポンプの不調を組み合わせる。船は直前の航海で石炭を運び、大規模な修理も受けていた。石炭粉や工事の破片がポンプを妨げたなら、船長は船倉の水量を正確に測れず、沈没の危険を実際より大きく見積もったかもしれない。

小艇を船へつないだまま一時的に離れ、綱が切れたという仮説なら、航行可能な船と全員の失踪を同時に説明できる。だが、綱がどの状態だったか、乗員が小艇でどこまで進んだかを直接示す物証は残っていない。現実的であることと、証明済みであることは違う。

海賊説や反乱説には、価値ある積荷や私物が多く残り、激しい争いの痕跡が乏しいという難点がある。デイ・グラツィア号側の保険金目当てという疑いも、ジブラルタルの海事審判で追及されたが、殺害を示す証拠は確立しなかった。巨大生物、海底地震、超常現象は、十人の失踪を名づけ直すだけで、残された船の状態を具体的に説明しない。

コナン・ドイルが変えた船内

アーサー・コナン・ドイルは一八八四年、短編「J・ハバクック・ジェフソンの証言」を発表した。作品では船名を「マリー・セレスト」とし、乗船者や事件の筋を大きく作り替えた。小説が人気を得ると、船名の誤記や創作上の細部が実話紹介へ逆流した。

この影響は、事実と創作の境界を確認する好例である。事件から十二年後の小説は、失踪の一次資料ではない。しかし、なぜメアリー・セレスト号が単なる海難記録ではなく「幽霊船」の代表になったかを知る文化史料ではある。

米国海軍歴史遺産司令部の海軍省図書館には、メアリー・セレスト号に関する書簡や記事を収めた船舶ファイルがある。また、一九〇六年の米紙には、国務省の公式書簡を調べたジョン・ボール・オズボーンの記事が掲載され、ジブラルタルでの検査や米海軍士官の報告を紹介している。後世の一文要約より、こうした記録の系統へ戻ることで、消えた十人と、膨らみ続けた幽霊船像を分けて読める。

参照:Smithsonian “Abandoned Ship: The Mary Celeste” https://www.smithsonianmag.com/history/abandoned-ship-the-mary-celeste-174488104/

参照:Smithsonian “An Abandoned Merchant Ship Was Discovered Floating in the Atlantic in 1872” https://www.smithsonianmag.com/smart-news/an-abandoned-merchant-ship-was-discovered-floating-in-the-atlantic-1872-the-mystery-of-its-missing-crew-never-solved-180985547/

参照:Naval History and Heritage Command “ZC Ship Files L–M” https://www.history.navy.mil/research/library/z-files/zc-files/zc-ship-files-in-the-navy-department-library-l-m.html

参照:Library of Congress “Mystery of the Mary Celeste” (1906) https://tile.loc.gov/storage-services/service/ndnp/dlc/batch_dlc_toyfoxterrier_ver02/data/sn83045462/00280655697/1906052001/0491.pdf

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