土方歳三生存説――五稜郭に消えた男の伝説

蝦夷地の最期――箱館戦争と土方歳三の物語

天保六年(1835年)、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農の家に生まれた土方歳三は、幼少期から薬売りの行商を手伝いながら剣術に励み、天然理心流の門下となる。のちに幼馴染であった近藤勇とともに江戸で剣術道場「試衛館」に集い、文久三年(1863年)、将軍上洛警護のために結成された浪士組に加わって京へ上る。ここから新選組副長としての土方の人生が本格的に始まる。池田屋事件をはじめとする数々の激動を経て、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた後は、近藤とともに甲州、そして会津へと転戦した。慶応四年(1868年)、近藤勇が新政府軍に投降し、板橋で斬首されると、土方は盟友の死を乗り越え、旧幕府軍の指揮官として戦い続けることを選ぶ。

会津戦争の敗北後、土方は榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流し、蝦夷地(北海道)へと渡る。明治元年(1868年)十二月、五稜郭を含む箱館一帯を制圧した旧幕府軍は「蝦夷共和国」を樹立し、土方は陸軍奉行並という要職に就いた。しかし翌明治二年(1869年)四月、新政府軍が江差に上陸すると戦況は急速に悪化し、五月に入ると箱館総攻撃が開始される。 運命の日は明治二年五月十一日(新暦六月二十日)である。この日、新政府軍は箱館市中への一斉攻撃を開始し、旧幕府軍の弁天台場は孤立、五稜郭も包囲される危機に陥った。土方歳三は劣勢の味方を鼓舞するべく、少数の兵を率いて一本木関門付近まで馬を進め、陣頭に立って指揮を執ったとされる。

まさにその渦中で、腹部に銃弾を受けて落馬し、絶命したというのが最も広く知られる最期の様子である。享年三十五(満三十四歳)。旧幕府軍陸軍奉行助役であった大野右仲が駆けつけたときには、すでに息を引き取っていたと伝えられている。

通説として確認されている記録

史実として確認されているのは、土方が明治二年五月十一日の箱館総攻撃の最中に一本木関門付近で被弾し、戦死したという経緯である。これは複数の旧幕府軍関係者の証言によって裏付けられており、五稜郭が新政府軍に降伏開城したのはその六日後、五月十七日から十八日にかけてのことであった。土方の死後、従者であった市村鉄之助という少年が、土方の遺髪と写真を託され、幾多の危険をかいくぐって日野の佐藤彦五郎(土方の義兄)のもとへ届け届けたという逸話も広く知られている。この遺髪と写真は現在も日野市石田寺周辺に伝わる貴重な史料となっている。 一方で、土方の遺体そのものがどこに埋葬されたのかについては、確たる記録が残っていない。

戦闘の混乱のなかで五稜郭内の「一本松」付近に土饅頭として埋葬されたという説がある一方、遺体は密かに別の場所へ移されたとする説も併存しており、正確な埋葬地は現在に至るまで特定されていない。この「遺体の行方不明」という一点こそが、後年の生存説を生み出す最大の土壌となった。

異説――「土方歳三生存説」の詳細

遺体が確認されなかったという事実を起点に、「実は土方は戦場で死んでおらず、生き延びたのではないか」とする生存説が古くから囁かれてきた。この説の代表的な論拠の一つとして挙げられるのが、箱館戦争の様子を描いたとされる「箱館降伏図」という絵図である。この絵の中には、土方が戦死したとされる日から六日も経過しているはずの降伏の場面に、土方らしき人物の姿が描かれているとされ、これが「実は生きていたのではないか」という憶測を呼ぶ根拠として繰り返し引用されている。 さらに、生存説はしばしば大陸へと舞台を広げる。

函館から密かに脱出し、当時ロシア領となっていた沿海州方面へ落ち延びたとする「ロシア渡航説」、あるいは名前と身分を変えて満州・大陸方面へ渡り、実業家や軍事顧問として第二の人生を歩んだとする説など、様々なバリエーションが語り継がれてきた。北海道内では、戦後になっても「あの老人は若い頃、新選組にいたと語っていた」「名を変えて開拓地で余生を送ったらしい」といった類の目撃談・伝聞が各地の郷土史や聞き書きの中に散発的に記録されており、これらが生存説を補強する「傍証」として好事家の間で好んで取り上げられている。

また、明治・大正期以降、自らを土方歳三の隠し子や秘密裏の子孫であると称する人物が現れたという逸話も各地に伝わっており、真偽不明のまま口伝として広がっていった。

ネット・創作物における派生

土方歳三は新選組関連の人物の中でも群を抜いて創作意欲を刺激する存在であり、その「死に切れなかった男」というイメージは数多くの作品に反映されている。乙女ゲーム・アニメの『薄桜鬼』シリーズでは、土方は物語の中心人物の一人として、生死の境をまたぐドラマティックな展開の主役に据えられている。人気漫画・アニメ『銀魂』に登場する土方十四郎は、明らかに史実の土方歳三をモチーフとしたキャラクターであり、飄々としながらも凄みを秘めた人物造形がファンから絶大な支持を得ている。さらに『るろうに剣心』など幕末・明治を舞台にした作品群でも、土方(あるいはそれに準ずる人物像)は「時代に取り残されながらも生き延びた侍」の象徴として繰り返し描かれてきた。

ライトノベルやゲームのシナリオでは「実は五稜郭で死んでおらず、その後も陰で歴史を動かしていた」という設定がしばしば採用され、生存説はもはや歴史の一挿話を超えて、一つの創作ジャンルとして定着している感すらある。

掲示板・ブログでの考察の様子

新選組ファンが集う掲示板やブログでは、この生存説は定期的に盛り上がる鉄板の話題である。「箱館降伏図の土方らしき人物は、後世の絵師が英雄を惜しんで書き加えた可能性が高いのでは」「大野右仲の証言が一番信頼できる一次証言だと思う、あれを覆すには相当の証拠が要る」といった史料批判的な意見が交わされる一方、「遺体が見つかってない以上、可能性はゼロじゃない」「北海道の開拓地に残る伝承、地元の人しか知らない話だからこそ逆にリアリティがある」というロマンを重視する声も根強い。

個人ブログの記事には「生存説を検証してみた」という定番の切り口が多く見られ、コメント欄では「そう信じたい気持ちはわかるけど史実は史実として受け止めたい」「浪漫を否定する必要はない、歴史は解釈の余地があるから面白い」といったやり取りが交わされる光景がしばしば見受けられる。

現在の学術的評価と反証点

学術的な立場から見ると、土方歳三の戦死そのものを疑う根拠は乏しいとされている。大野右仲をはじめとする複数の旧幕府軍関係者による証言が概ね一致しており、これらは戦争終結から比較的近い時期に記録されたものであることから、史料的信頼性は高いと評価されている。「箱館降伏図」についても、戦場を実見していない後世の絵師による創作的な合戦絵図である可能性が高く、資料的価値には限界があるとされる。そもそも戊辰戦争のような混乱した内戦においては、身元不明のまま埋葬される戦死者や、正確な埋葬地が記録されない事例は珍しくなく、土方の遺体の行方が判然としないこと自体は「生存」を裏付ける特別な証拠とはならない、というのが現在の一般的な見解である。

北海道各地に残る目撃談や子孫を称する話についても、明治以降に新選組人気が高まる中で生まれた後付けの伝承である可能性が高いと指摘されている。

関連する史跡・伝承地

土方歳三ゆかりの史跡としては、最期の激戦地とされる北海道函館市の五稜郭跡と、そのすぐ近くにある一本木関門跡(現在の若松緑地公園、「土方歳三最期の地」碑が建つ)が代表的である。函館市内の称名寺には慰霊碑が置かれ、命日である五月には今も慰霊祭が営まれている。生まれ故郷である東京都日野市の石田寺には墓碑があり、遺髪と伝わる品も市内に伝えられている。また戦死直前に転戦した会津若松の天寧寺にも、令和二年に新たに慰霊碑が建立されるなど、没後一世紀半を経てなお、土方歳三への追慕は各地で形を変えて続いている。

土方歳三生存説をあらためて俯瞰すると、この物語を支えているのは科学的な証拠の強さではなく、「遺体不明」という一点が生み出す想像力の広がりそのものである。武士という身分と生き方が消滅していく時代の最後の瞬間に、最も武士らしく死んでいった男に対して、人々は「本当に死んでほしくなかった」という願望を重ね続けてきた。

北海道の開拓地の片隅で名を変えて生きたという伝聞、大陸へ渡り歴史の陰で暗躍したという憶測、それらはいずれも史実としての裏付けを欠きながらも、土方歳三という人物の劇的な生涯にふさわしい「続き」を求める民衆の欲望が生み出した後日譚だと考えられる。史実としての戦死は動かし難いとしても、生存説という物語が今なお新しい創作を生み続けている事実こそが、この人物の魅力の証明にほかならない。

五月十一日の記録

明治二年五月十一日、現在の函館市街では新政府軍による箱館総攻撃が始まった。五稜郭を本拠にしていた旧幕府脱走軍は各所で押し込まれ、箱館港に面した弁天岬台場も孤立していく。土方歳三は救援に向かう部隊を率い、市街へ馬を進めた。その途中で銃弾を受け、戦死したというのが史料と地域史に基づく経過である。

函館市の五稜郭史は、土方が一本木関門を出て異国橋付近で撃たれたと記す。最期の地点には証言ごとの差があり、一本木関門付近とする説明も長く親しまれてきた。戦闘中の位置を現在の道路へ一点だけ落とすことは難しいが、総攻撃の日に市街で戦死したという骨格まで揺らぐわけではない。

旧幕府軍が降伏したのは、それから六日後の五月十七日である。榎本武揚らは生きて新政府に投降し、後に明治政府で働いた。土方が同じ道を選ばなかったことは、その人物像を決定づけた。新選組以来の戦歴を背負い、最後まで戦場に立った男として記憶されたのである。

遺体が見つからないという空白

土方の墓と慰霊碑は日野、函館、会津などにあるが、どこへ遺体を埋めたかを確定できる記録はない。五稜郭内、願乗寺、称名寺、七重浜など複数の説が伝わる。戦場の混乱で身元確認や埋葬記録が十分に残らなかった戦死者は、土方一人ではない。

遺体がないことは、生存説にとって強い入口になる。ただし、「墓所を特定できない」と「死亡していない」は同じではない。戦死を見聞きした旧幕府側関係者の記録があり、その後、土方本人が公の場に現れた痕跡はない。名前を変えたと仮定すればどんな記録の欠如も説明できるが、それは証拠を増やしたことにはならない。

有名人の遺体が見つからないと、生存した姿を想像したくなる。源義経、豊臣秀頼、西郷隆盛などにも似た話がある。英雄が敗北の場で終わったと認めたくない気持ちと、遠い土地へ逃れた人物の伝説が結びつく。土方の場合、北海道の広さと開拓の歴史が、名を変えて暮らす余地を感じさせた。

写真と遺品が日野へ戻った

土方の小姓だった市村鉄之助が、写真や遺品を日野へ届けたという話は、生存説とは別の意味を持つ。日野市の資料は、市村が箱館戦争後に佐藤彦五郎家へ身を寄せたと伝えている。土方の肖像写真は、現在も彼の顔を具体的に思い浮かべさせる重要な資料である。

死を覚悟した土方が市村を戦場から離し、故郷へ向かわせたという伝承は、後世の脚色を含む可能性を考えなければならない。それでも、市村が日野に来たこと、佐藤家と土方家に関係資料が伝わったことは、生存して別名で動いたという話より確かな足場を持つ。

もし土方が密かに生き延び、遠方へ逃れる計画を立てていたなら、最も本人確認につながる写真や遺品を故郷へ送った理由を別に説明する必要がある。もちろん、追跡をそらす偽装だったという物語は作れる。しかし、偽装を示す手紙や証言がなければ、可能性を重ねただけになる。

降伏図に描かれた人物

生存説では、五稜郭の降伏場面を描いた絵に土方らしい人物がいる、と語られることがある。問題は、その絵が現場で描かれた写生なのか、誰がいつ何を基に制作したのかである。歴史画には、出来事を象徴する人物を時系列を越えて配置することがある。

絵の中の羽織、髪形、顔立ちが写真に似ていても、それだけで本人とは決められない。作品名や所蔵先が曖昧な画像、後から名前を書き込んだ転載画像なら、なおさら史料価値を評価できない。制作年代、作者、画中人物の注記、原本の来歴を確認して初めて、史実を論じる材料になる。

土方を描いた錦絵や合戦図は、史実の復元だけでなく、英雄を見せるためにも作られた。死の六日後の場面に姿があるように見えるなら、「生きていた」と結論づける前に、作者が箱館戦争全体の象徴として描いた可能性を考えるべきだろう。

ロシアへ渡ったという後日譚

函館から船で樺太や沿海州へ逃れ、ロシア領で軍事顧問になったという説もある。箱館は海に開かれた港で、旧幕府軍には洋式海軍の知識を持つ者がいた。地理だけを見れば、海を越える物語は成り立ちやすい。

しかし、総攻撃時の港は戦場であり、新政府軍が海陸から圧力をかけていた。負傷した土方を密かに船へ運び、監視を抜け、異国で生活基盤を得たなら、協力者、船名、航海記録、現地名、後年の手紙など複数の痕跡が期待される。現在流通する説には、それらが示されていない。

「ロシアで土方に似た日本人を見た」「北海道の老人が新選組を名乗った」という伝聞も、話者、採集年、原文を確かめなければならない。明治後期以降、新選組が小説や講談で知られるようになると、本人や子孫を称する話が生まれやすくなった。似た顔や口癖だけでは、個人を百年以上さかのぼって特定できない。

生存説が愛される理由

土方の人生は、農家の若者から剣術家、新選組副長、旧幕府軍の指揮官へ大きく変わった。京都の市中警備だけでなく、鳥羽・伏見、甲州、宇都宮、会津、箱館へと戦場を移した。その移動の多さが、「最後も別の土地へ去ったのではないか」という想像を誘う。

創作では、史実の死を越えて生きる土方を描ける。明治の東京で旧敵と再会する、大陸へ渡る、現代へ現れる。こうした作品は歴史研究ではないが、土方という人物への関心を次の世代へ運んできた。物語として楽しむことと、史実として証明されたと言うことは両立しない。

箱館戦争で亡くなったのは土方だけではない。新政府軍、旧幕府軍の双方に多数の戦死者が出た。英雄一人の不死伝説に目を奪われると、名前の残らない人々の死が背景へ退く。五稜郭や市街の慰霊行事が双方の戦没者を悼むのは、その記憶を戻すためでもある。

現時点で、土方が五月十一日を越えて生きたと示す同時代資料は確認されていない。埋葬地が不明という謎は残るが、戦死の記録を覆すには足りない。生存説は、史料の空白から生まれた魅力的な後日譚として読むのが、歴史と物語の双方を損なわない。

参照資料

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