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モヘンジョダロは核で焼かれたのか――ガラス化した石と「放射能を帯びた骸骨」の出どころを全部たどる

一万年も前に核兵器が使われた。そう言われ続けてきた遺跡がある。その話の出どころを、一つ残らず追いかける。

「死者の丘」という名前が、すでに不吉すぎる

パキスタン南部、シンド州のラルカーナから車で四十五分ほど。インダス川の右岸に、焼きレンガの壁が地平線まで並ぶ場所がある。モヘンジョダロ。シンド語で「死者たちの丘」を意味するとされる。

この名前は古代人がつけたものではない。地元の人々が、誰のものとも知れない廃墟の丘をそう呼んでいただけだ。だがこの一語が、この遺跡の運命を決めたところはあると思う。「死者の丘」と呼ばれる場所で、路上に骸骨が折り重なって見つかった。この二つが揃った時点で、物語は勝手に走り出す。

実際、ネットでこの遺跡の名前を検索すると、上位に並ぶのは都市計画の話でも下水道の話でもない。核だ。一万年も前にここで核兵器が使われ、街は一瞬で焼かれ、住民は逃げるまもなく路上で倒れ、その骨は今も放射能を帯びている。石は高熱で溶けてガラスになっている。『マハーバーラタ』にはその兵器の描写がある。

全部、どこかで聞いたことがあると思う。この記事では、その一つひとつがどこから来たのかを、徒歩で戻れるところまで全部戻す。そのあとで、本当のモヘンジョダロの話をする。断っておくと、本当のほうが面白い。

一九二二年、仏塔を掘っていたら都市が出た

発見の経緯がまずいい。一九二二年、インド考古学調査局のラーカルダース・バネルジーが、シンドの丘の上に立つクシャーン朝の仏塔を調べていた。仏教遺跡の仕事だった。ところが塔の周囲を掘っていくと、仏教ともクシャーン朝とも無関係な、見たことのない印章や土器が出てきた。印章には、誰も読めない記号と、一本角のような獣が彫られていた。

同じころ、六百キロほど北東のパンジャブでもダヤ・ラム・サーニーがハラッパーを掘っていて、やはり同じような印章を出していた。二つの報告を並べて見た考古学調査局長官ジョン・マーシャルは、とんでもないことに気づいた。六百キロ離れた二つの遺跡から、規格の揃った同じ文化の道具が出ている。これは地方の集落じゃない。文明だ。

一九二四年、マーシャルはイギリスの雑誌に発見を発表した。反響は大きかった。エジプトとメソポタミアで完結していた古代文明の地図に、突然三つ目が書き足されたのだ。発掘は一九二四年から二年間はカシナート・ディクシトが、その後マーシャル自身とアーネスト・マッキーらが引き継いだ。一九三一年にはマーシャル編の報告書が三巻本で出る。これが後の全ての議論の土台になった。

出てきたのは、あまりに整いすぎた街だった

モヘンジョダロの何が異常かって、整頓されすぎていることだ。

街は南北と東西に走る大通りでブロックに区切られ、すべての建物が規格の揃った焼きレンガで作られている。レンガの寸法は厚さと幅と長さがおおむね一対二対四で、これが六百キロ離れたハラッパーでもほぼ同じだ。十一・九メートル×七メートル、深さ二・四メートルほどの大浴場があり、底には水が漏れないようにアスファルトが塗られている。排水口も階段もある。

井戸は七百基以上。家三軒に一つの割合だ。各戸には水浴び場があり、そこから引いた排水は家の外の溝に落ち、溝は蓋をされて大通りの下の幹線につながる。一定間隔でマンホールのような点検口まである。紀元前二五〇〇年ごろの話である。ローマの上水道より二千年以上古い。

人口は全盛期で四万人前後と見積もられている。丘の西側には盛り土で嵩上げされた高台部があり、大浴場と大規模な建物が集中している。発掘区にはDK区、HR区、VS区、SD区といった記号が振られた。この記号を覚えておいてほしい。あとで、例の骸骨の話で必要になる。

王がいない。神殿がない。城壁もない

もっと奇妙なのは、あるはずのものがないことだ。

同時代のエジプトにはファラオの巨大な墓がある。メソポタミアにはジッグラトと王の墓がある。王の名を列挙した石碑がある。戦争の場面を彫ったレリーフがある。

インダスには、それらがほとんどない。巨大な王墓が見つからない。明確に神殿と断定できる建物もない。王の像もない。戦士の行列もない。武器の出土が極端に少ない。西側の高台は「城塞」と呼ばれているが、この呼び名は発掘者がメソポタミアのイメージでつけたもので、防御施設としての機能ははっきりしない。

この「ない」の集合が、インダスを人気遺跡にしている。支配者の顔が見えない。なのに都市の規格は完璧に統一されている。誰がこれを命じたのか。話し合いで決めたのか。商人のギルドか。神官の合議か。この空白に、後の人間が好き勝手なものを入れていくことになる。理想郷を入れる人もいれば、宇宙人を入れる人もいる。

路上に折り重なった骸骨、という有名な写真

さて、問題の骸骨だ。

一九二二年から一九三一年の九年間の発掘で、モヘンジョダロからは人骨が出ている。中でも有名なのが、HR区の「第五家屋」の七四号室から出た十四体だ。狭い部屋の中で、何体もが重なり合うようにして倒れていた。この発掘写真が、その後百年にわたって「モヘンジョダロの惨劇」の図像として使い回されることになる。

他にもある。HR区の第三家屋の中庭から不完全な骸骨が三体。VS区の家と家のあいだの路地から六体。HR区の、発掘者が「デッドマンズ・レイン(死人の小路)」と呼んだ場所から断片的なものが一体。DK区の第一〇Aブロックから九体、これはひどくねじれた姿勢だったと記録されている。同じDK区の井戸のある部屋の階段に二体。

ここまでを足し上げると三十五体。記録が断片的なものを含めても、全体で三十七体前後というのが、後に精査した考古学者の得た数字だ。この「三十七体前後」という数字は、この先何度も出てくるので覚えておいてほしい。

ウィーラーの「インドラが告発される」

この骸骨たちに最初の物語を与えたのが、サー・モーティマー・ウィーラーだ。

イギリスの考古学者で、一九四四年にインド考古学調査局長官に就任した人物。元は陸軍の将校で、層位発掘の規律をインドに持ち込んだ手腕は本物だった。同時に、物語を作るのが非常にうまい人でもあった。

彼はモヘンジョダロの高台部を掘り、そこを「城塞」と呼んだ。そして一九四七年、自分が編集する雑誌に、リグヴェーダの神インドラを引き合いに出してこう書いた。リグヴェーダでインドラは「城を破る者」と呼ばれている。インダスの都市は破壊され、住民は路上で殺されている。状況証拠は揃っている。インドラが告発される。

この一行は恐ろしくキャッチーだった。アーリヤ人が北西から侵入し、先住民の都市を破壊してインダス文明を滅ぼした。二十世紀中盤の教科書は、この図式で埋め尽くされた。日本の世界史の授業でも長らくそう教えられてきた。

そして押さえておきたいのは、この段階ではまだ核の「か」の字も出てこないことだ。「路上の骸骨」というイメージを世界に定着させたのは、オカルト作家ではなく、当時の最高峰の考古学者だった。ここが後々じわじわ効いてくる。

一九六四年、デイルズが数え直した

アメリカの考古学者ジョージ・F・デイルズは、一九六四年にペン大学博物館の雑誌に短い論考を載せた。タイトルは「モヘンジョダロの神話化された大虐殺」。この一本で、ウィーラーの物語は実質的に終わる。

デイルズのやったことは単純だ。発掘報告を全部開いて、骸骨がどこから、どの層から出たのかを一体ずつ確認した。結果は散々なものだった。

まず、骸骨は一つの層から一斉に出ていない。出土地点は下町に散らばっていて、層位もばらばら。一つの事件で同時に死んだ人間の一団ではない。二つ目、いちばん効いた指摘。骸骨は一体も「城塞」から出ていない。全部下町の住宅地だ。侵略軍が都市を落としたなら、防御の要であるはずの高台こそ戦場になるはずなのに、そこには死体がない。三つ目、骸骨のうちいくつかは丁寧に埋葬された形跡がある。

四つ目、都市が激しい戦闘で落ちたなら当然あるはずのもの、すなわち建物の大規模な焼失層、武器の山、矢じりの痕のある骨が、ほとんどない。

デイルズの結論は、「これは虐殺の現場ではない」だった。都市が衛生を失い、行政が崩れ、人が減っていく長い期間のあいだに、ちゃんと葬られなかった遺体が建物の隙間に残された。その積み重ねが、三十七体前後という数字だ。九年間の発掘で三十七体。四万人都市の「全滅」の証拠にするには、あまりに少なすぎる。

この論考は学界で強い支持を得て、「アーリヤ人による都市破壊」は事実上取り下げられた。ところが、学界で死んだ話は、外の世界ではむしろ元気になる。この十五年後、同じ骸骨が別の物語を背負って復活する。

ではガラス化した石はどこから来たのか

古代核戦争説の中核には、常に三つの「物証」が置かれる。ガラス化した石、放射能を帯びた骸骨、そして古典の描写。一つずつ分解していく。

まずガラス化だ。主張はこうだ。モヘンジョダロの中心には、直径数十メートルの範囲で地面が高熱にさらされ、砂が溶けて再固結した黒いガラス質の層がある。周辺からは溶けたレンガや、気泡を含んだガラス状の壺の破片が出る。分析すると、摂氏千度から千五百度の熱に、ごく短時間だけさらされたことが分かる。これは普通の火事では説明できない。ニューメキシコの核実験場にできたトリニタイトと同じだ。

さらにバージョンアップした話では、遺跡の周辺に「ガラスになった町」があるとされる。約八百メートル四方にわたって地表がガラス化しているというやつだ。

で、この話の出どころはどこか。ここからが本題だ。

ダヴェンポートとヴィンチェンティ、一九七九年

ガラス化した石の話の出典として、ほぼ必ず名前が挙がるのがこの二人だ。デヴィッド・W・ダヴェンポートとエットーレ・ヴィンチェンティ。一九七九年にイタリアで『紀元前二〇〇〇年、原子の破壊』という本を出した、とされる。

この本の中身として伝えられているのは、先のガラス化の話、溶けたレンガ、短時間の高熱、そして「ガラスになった町」。ダヴェンポートはイギリス人の研究者で、インドに長く住んでサンスクリットにも通じていた、というプロフィールが付いて回っている。ヴィンチェンティはイタリア人ジャーナリストだとされる。

ちなみに、衝撃があったとされる年代は話す人によってバラバラだ。本のタイトルは紀元前二〇〇〇年を掛けているが、ネットでは「一万年前」と語られることのほうが多い。インダス文明の実際の年代は紀元前二五〇〇年前後だから、どの数字も合っていない。年代が固定されていないというのは、それ自体がなかなかのシグナルだ。

反論の前に、公平のために書いておく。この本が完全な架空だと断定するのは難しい。イタリア語圏にはこのタイトルの古い本を見たという証言もあり、近年になって小さな出版社から同名の本が出されてもいる。だが問題は、存在したかどうかではない。中身がどの程度、検証可能な形で書かれていたかだ。

そしてここが決定的なのだが、この本は学術論文ではないし、ピアレビューを経てもいないし、考古学の世界で引用された形跡もない。パキスタンの考古当局が発行した発掘許可の記録にも、彼らの名前は見当たらない。一万年前の核戦争という人類史最大級の主張が、イタリア語の一般書一冊だけを根拠に、五十年以上回り続けている。

本が、どこにも見つからない

日本でこの点を一番ちゃんと追ったのは、NHKの超常現象検証番組のスタッフだ。

番組側はダヴェンポートとヴィンチェンティの著作を実際に手に取ろうとした。イタリアの版元に問い合わせ、図書館をあたった。見つからない。著者本人にも連絡が取れない。世界中のオカルト本とネット記事が引用し続けている原典に、誰も到達できない。

現地の状況についても取材している。インダス考古学の研究者である東海大学の近藤英夫は、モヘンジョダロに何度も行っているが、ガラス化した地面など見たことも聞いたこともないと述べている。衛星画像でも、例の「ガラスになった町」らしい場所は確認できない。八百メートル四方のガラス化した地表というのは、見逃すには大きすぎる面積だ。

しかも根本的な問題がある。トリニタイトとテクタイトは全く別のものだ。前者は核実験で地表の砂が溶けてできたガラス、後者は隕石衝突などで飛び散った溶融物が冷え固まった天然ガラスで、数百万年単位の古さを持つ。この二つを同じ段落で並べている時点で、議論としてはかなり雑なんだよな。

「放射能五十倍の骸骨」の出どころを最後まで辿る

これが一番すごい。チェーンが完全に解明されている。

出発点は、ロシアの作家アレクサンドル・ゴルボフスキーだ。考古学者ではない。一九六〇年代半ばに出した『古代史の謎』という本の中で、彼は「インダスの遺跡から見つかった骸骨の放射能が通常の五十倍だった」と書いた。

ここが肝心なところで、ゴルボフスキーはちゃんと出典を付けていた。『宇宙生物学の諸問題』第二巻、二三頁。これは一九六二年のロシア語の科学論文集で、当該篇はレベジンスキーとネフェードフによる「宇宙飛行における放射線安全の問題」。宇宙飛行士の被ばく量を考えるための論文だ。

そしてその論文が元データとして引いていたのが、イギリスの医学物理学者W・V・メイナードが一九六〇年に出した放射線の危険性に関する報告書だった。メイナードは、古代の人骨の自然放射能を測って、現代人と比べていた。

ここで三つの変異が起きている。一つ、メイナードが測定したのはエジプトの骨であって、インドの骨ではない。二つ、その値は現代人とほぼ同じ正常値だった。五十倍どころか、五十パーセントも高くない。三つ、話題になっていたのはたった一体分のサンプルであって、三十七体でも四十六体でもない。

つまり、ロシア語の宇宙医学論文がイギリスの報告書を読み違え、それを作家が確認しないまま引き、さらにそれを世界中のオカルト本が引いた。伝言ゲームだ。エジプトの正常な骨一本が、四回の伝言を経て「モヘンジョダロの放射能五十倍の骸骨の山」になった。

マハーバーラタの引用は、誰が書いたのか

三つ目の柱、古典の描写も、同じくらい酸っぱい。

よく引用されるのは、鉄の雷を放つと一万の太陽のような光が上がり、煌々と輝く柱が天を突き、髪と爪が抜け落ち、食べ物が毒になり、生き残った者は川に飛び込んで体を洗った、という一連の文章だ。広島を知っている人間が読めば、だいたい背筋が冷える。

だがこの文章、『マハーバーラタ』のどこにもこの形では存在しない。

追っていくと、原型は一九六〇年にフランスで出たルイ・ポーウェルとジャック・ベルジェの『魔術師の朝』に行き着く。英訳は一九六三年。この本が、サンスクリット古典の互いに離れた四つの篇を、連続した一つの場面のようにつないで見せた。しかも固有名詞の綴りを間違えている。マウサラの巻の名を誤記し、神の名シャクラを別の綴りで写している。

次にエーリッヒ・フォン・デニケンが一九六八年の『未来の記憶』でこれを取り込む際、ポーウェルらの誤記をさらに読み違え、神の名をネパールの兵士の名前に変えてしまった。一九七二年にはチャールズ・ベルリッツが自著で同じ文を再掲載し、三点リーダーを足して「抜粋」らしく仕上げた。そして一九八八年と一九九一年にデヴィッド・ハッチャー・チルドレスが、これらを一本の連続した叙事詩のように改行して掲載した。

デニケンの誤訳もそのまま引き継いだ。

このチルドレス版が、現在ネット上に流通している「マハーバーラタの核描写」の直接の親だ。数十冊の本と、数え切れないページがこれをコピペした。一万年前の戦争の証拠とされている文章の、実際の実務上の作者は、一九八〇年代のアメリカ人作家だったということになる。

ちなみに、オッペンハイマーがトリニティ実験のときに口にしたという「我は死なり、世界の破壊者となれり」は、『バガヴァッドギーター』の一節であって、マハーバーラタの兵器描写とは関係がない。これもしょっちゅう混同されている。

日本に上陸したのは一九八二年十一月だ

日本語圏でこの説が一気に広まった時期は、かなりはっきりしている。

一九八二年十一月、学研から『人類は核戦争で一度滅んだ』という本が出た。著者として橋川卓也の名が立ち、ダヴェンポートとヴィンチェンティが共著者として並んでいる。オカルト雑誌『ムー』の書籍レーベルからの刊行だ。ここでイタリア発の説が、まとめて日本語になった。

タイミングが絶妙だったと思う。八〇年代前半の日本は、ノストラダムス、UFO、超能力、ピラミッドパワーで沸いていた時期だ。しかも米ソの核軍拡が最も緊迫していた時期でもある。核戦争の恐怖が生活実感としてあった。そこに「実は人類は一度、核で滅んでいる」と言われたら、これは刺さる。滅亡の予言ではなく、滅亡の前例として提示されたわけだから。

その後、この説はテレビの特番、学習まんが、児童向けの謎本、ムック、そして九〇年代のオカルト番組へと横滑りしていった。小学生のころ図書室でこの手の本を読んで震え上がった、という証言は今も大量に見つかる。日本語圏でモヘンジョダロといえば核、という反射が出来上がったのは、ほぼこの一冊とその子孫のせいだ。

そして数字がどんどん増えていく

噂の面白いところは、伝わるあいだに数字が育つことだ。

デイルズが記録から数え直した骸骨は三十七体前後。ところが核戦争説の側で流通している数字は四十六体である。しかもそのうち九体には高温被曝の痕跡が残っていた、とされる。三十七がどこで四十六になり、九という内訳がどこから湧いたのか、遡っても出典に行き着かない。

さらに「炭素十四年代測定で四百年ほどのずれが観測された。これは放射能の影響である」という話も付いて回る。これも根拠が示されない。そもそも放射性炭素年代測定は試料中の炭素十四の残量を測るもので、外部から中性子を浴びたら年代が四百年ずれる、という単純な話にはならない。というか、四百年という数字自体が、どの試料の、どの測定と、どの測定を比べた差なのかが一度も明示されない。

こういう「妙に具体的だが出典のない数字」は、噂を強くする最大の武器だ。四十六体、九体、四百年、八百メートル四方、五十倍。全部そうだ。ぼんやり「たくさん」と言われるより、四十六体と言われたほうが、人は本気にする。

ジョードプルの「放射性の灰」と、どこにもない町

派生説もいくつかある。

一番よく出てくるのが、インド・ラージャスターン州ジョードプル近郊の話だ。市街の近くで放射性の灰の層が七・七平方キロメートルにわたって見つかり、住宅開発が中止された、という筋書き。がん発生率が異常に高いとか、軍が封鎖したとか、尾ひれが付く。これも出典を辿ると、九〇年代以降の英語圏の掲示板とオカルトサイトの間をぐるぐる回っているだけで、インド政府の報告にも学術誌にも行き着かない。

地名だけが妙にリアルなので信じてしまう。

もう一つが「ガラスになった町」だ。これはダヴェンポート説の一部として日本に入ってきたが、位置が誰にも特定できない。モヘンジョダロから何キロの方角にあるのかすら、文献ごとに違う。衛星画像が誰でも見られる時代になって、この説だけは急速に元気を失った。地図で確認できてしまう主張は、ネット時代に弱いのだ。

三つ目が「聖書のソドムとゴモラも同じ現象だ」という接続。これは一九六〇年代のデニケン系の議論からずっとある型で、モヘンジョダロ、ソドム、シベリアのツングースカ、時にはイースター島まで一本の線でつながれる。核戦争説というより、「古代に一度、世界規模の破局があった」という世界観の一部として機能している。

四つ目が、比較的新しいバージョン。二〇二〇年代のネット上では、「核ではなくプラズマ兵器」「地球外由来のエネルギー兵器」と言い換えられることが増えた。核だと放射線の痕跡が残らない説明がつかない、という批判をかわすための改良だ。反証不可能な方向に進化している、と言ってもいい。

掲示板とSNSはこの話をどう遊んだか

日本語圏のネットでのこの説の扱われ方は、けっこう独特だ。

二〇〇〇年代の掲示板では、オカルト板を中心に定番スレの一つだった。当時のログを読むと、面白いのは、住人の大半が本気で信じているわけではないことだ。「どうせデマなんだろ」と分かった上で、「でも夢があるからいい」「ガラス化した街とかワードが強すぎる」「マハーバーラタの記述だけはガチで怖い」といった温度で消費されている。真偽を争うより、設定として楽しんでいる。ロマンという言葉が異様な頻度で出てくる。

二〇一〇年代に入ると、まとめサイトがこれらのスレを再編集して量産した。ここで温度が変わる。掲示板では「ネタ」だった前置きが、まとめ記事のタイトルでは消える。「モヘンジョダロで発見された放射能を帯びた骸骨」という断定だけが切り出されて拡散した。文脈の剥ぎ取りが起きたのだ。

二〇二〇年代の動画配信では、さらに二極化している。片方には、数十万回再生される「古代核戦争の証拠」系の解説動画。もう片方には、出典を一つずつ潰していく検証系の動画。後者のコメント欄には「小学生のころ信じてた」「まとめサイトで見たやつ全部これか」という書き込みが並ぶ。長い時間をかけて、種明かしのほうも同じくらい流通するようになってきた。ここは素直にいい傾向だと思う。

ちなみに、この説はスピリチュアル系のブログにも流れ込んでいる。宇宙存在とチャネリングして真相を聞き出した、という体裁の記事が普通に存在する。読んでみると、そこでも結論は「核戦争ではなく水害だった」だったりする。オカルトの内部ですら、核戦争説は分が悪いらしい。ちょっと笑った。

警察が付いてくる遺跡、という話

ここからは、実際に現地へ行った人たちの話をいくつか。

日本からパキスタンを陸路で横断した旅行者の記録がある。ラホールからバスで四時間ほどでハラッパーへ、そこからさらに南下してラルカーナまでバスで六時間以上、そこから車で四十五分でモヘンジョダロに着く。長い。

そして外国人が遺跡を見るには、原則として警察の同行が付く。治安上の措置だ。ハラッパーでは、一時間の見学が終わったあと、その護衛車がそのまま幹線道路まで送ってくれたという。モヘンジョダロでも警官の随行が求められたが、地元の協力者がいたおかげで例外的に緩和された。入場料は米ドルで十ドル、現地通貨で三千ルピー程度。

彼が書いていて印象的だったのは、季節の話だ。訪問は十二月で、気候は快適だった。だが春先には気温が四十度を超え、日陰がほとんどない。焼きレンガの街だから、地面も壁も熱を溜める。夏の見学は体力勝負になるという。四千五百年前、ここに四万人が暮らしていたという事実のほうが、よほど非現実的に感じられた、と締めくくっている。

塩を吹くレンガ、崩れていく街

もう一つ、現地の状態についての証言を。

モヘンジョダロを訪れた人が口を揃えて書くのが、レンガの表面に白い粉が吹いていることだ。塩害である。地下水位が上がり、水が毛細管現象でレンガを伝って上がってきて、蒸発するときに塩の結晶を残す。結晶が育つとレンガの内側から圧力がかかり、表面がぼろぼろ剥がれる。掘り出された瞬間から、この街は劣化を始めた。

一九六五年以降、大規模な新規発掘は事実上止まっている。掘れば掘るほど壊れるからだ。今の作業の大半は、保存と補修に振り向けられている。一九八〇年には南アジアで最初の世界遺産に登録されたが、それは同時に「このままだと消える」という警告が国際的に共有されたということでもある。二〇一〇年代には、対策を取らなければ数十年で失われるという地元専門家の警鐘が繰り返し報じられた。

二〇二二年の大洪水では、遺跡そのものが水に浸かる被害も出た。

現地を歩いた人の一人は、こう書いている。核戦争で滅んだ街だと言われるより先に、いま目の前で普通に滅びかけているのが分かる、と。核より塩と水のほうが、よほど確実に街を殺す。実物を見た人ほど、この感想に行き着くらしい。

元ガイドが漏らしたという、身も蓋もない話

三つ目は、現地で長く案内をしていたという人物から出た話として、複数の旅行記に似た形で書き残されているものだ。個人は特定しない。

彼によれば、外国人観光客から必ず出る質問が二つあるという。一つは「文字はまだ読めないのか」。もう一つが「核戦争の跡はどこか」。後者を聞かれるたびに、彼は同じ場所へ連れて行くのだそうだ。焼けて黒ずんだレンガのある一角である。

そこで彼はこう説明する。これは火事の跡だ。この街は何度も洪水に遭い、そのたびに嵩上げして建て直している。土を盛って、上に新しい街を作る。だから断面には、洪水の泥の層と、火事の炭の層が何枚も重なっている。人が数百年住めば、火事の一度や二度は必ず起きる。焼けたレンガは、核の証拠ではなく、生活の証拠なのだ、と。

それでも観光客の半分くらいは納得しない顔をするらしい。核戦争の話を聞きに来た人は、火事の話では帰れない。彼はそれを責めるでもなく、「みんなあの本を読んでくるからね」と言ったという。あの本、が具体的に何を指すのかは、国籍によって違うのだろう。日本人観光客の場合は、たぶんあの一九八二年の一冊とその子孫だ。

読めない文字という、正真正銘の謎

核の話を全部剥がしたあとに残るのが、この文明の本物の謎だ。そしてそれは核より遥かに厄介である。

インダス文字は、いまだに読めない。印章、土器、銅板、それに看板らしきものまで含めて、数千点の資料がある。記号の種類は、数え方によって四百から七百ほど。問題は、一つの銘文が異様に短いことだ。平均でおよそ五文字。最長のものでも三十文字に届かない。ロゼッタストーンにあたる対訳資料も、今のところ存在しない。

解読を試みた人は山ほどいる。フィンランドのアスコ・パルポラは、ドラヴィダ語族の言語を記した表語文字体系だという説を長年練り上げてきた。インドのイラヴァータム・マハーデーヴァンは、膨大な資料集成を作り上げた上で、統計的な手法から接近しようとした。両者の見立ては細部で大きく違う。

そして二〇〇四年、スティーヴ・ファーマー、リチャード・スプロート、マイケル・ヴィッツェルが「インダス文字説の崩壊」という挑発的なタイトルの論文を出した。主張は身も蓋もない。あれは言語を記した文字ではない、というのだ。銘文が短すぎること、記号の反復パターンが言語らしくないこと、長文の記録が一つも出ないことから、あれは家紋や所有標、宗教的なシンボルの集合だったのではないか、と。

この論争はいまも続いている。機械学習を使ったエントロピー解析で「言語らしい統計的性質がある」と反論した研究者もいれば、その手法自体の妥当性を疑う声もある。結論は出ていない。つまり我々は、四千五百年前に人口四万の計画都市を運営していた社会について、彼ら自身の言葉を一行も読めていない。王の名前も、神の名前も、街の名前すら分からない。モヘンジョダロという名前は、後の人がつけたあだ名だ。

この空白のほうが、正直、核戦争より遥かに不気味だと思う。

では本当は、なぜ滅んだのか

滅亡の理由についても、この五十年でかなり景色が変わった。

決定打になったのが、水系の研究だ。二〇一二年、リヴィウ・ジオサンらのチームが、衛星画像と地形データと地質ボーリングを組み合わせて、この地域の川筋の一万年分の変化を復元した論文を出した。

彼らが解いたのは、長年もめていた問題である。古代インドの文献に出てくる大河サラスヴァティーは実在したのか。答えは、実在した。ただしヒマラヤの氷河から水を引く大河ではなく、モンスーンの雨で養われる季節河川、現在のガッガル・ハークラー水系がそれにあたる。

これが効いた。ヒマラヤ起源の川なら、雨が減っても氷河が溶けて水は来る。だがモンスーン依存の川は、雨が減ればそのまま痩せる。そして紀元前二〇〇〇年前後、南アジア一帯でモンスーンが弱まった。世界的な乾燥イベントの時期とも重なる。氾濫がなくなれば、氾濫原の農業も終わる。四万人の都市を支える余剰がなくなる。

その結果起きたのは、破壊ではなく分散だった。およそ三千九百年前を境に、人々は東へ、ガンジス川流域の方向へ移動していく。そこはまだ雨が安定していた。大都市は畳まれ、代わりに雨頼みの小規模な農村が無数に散らばる形へと社会が組み替わった。文明が消えたのではなく、都市という形をやめたのだ。

滅亡と呼ぶには、あまりに静かで、あまりに長い。核どころか、劇的な一日すら存在しない。

侵略者はどこへ行ったのか

では、ウィーラーが告発したアーリヤ人はどうなったのか。

まず「アーリヤ人が都市を武力で破壊した」という筋書きは、考古学的にはほぼ支持されていない。デイルズの検証が効いているし、その後の発掘でも、都市が一斉に軍事的に陥落した痕跡は見つかっていない。要塞化された都市が力ずくで落とされたのなら、焼失層も、破城の跡も、殺傷痕のある人骨も大量に出るはずだ。出ていない。

一方で、中央アジアのステップ地帯に由来する集団が、紀元前二千年紀のあいだに南アジアへ流入したこと自体は、近年の古代ゲノム研究でかなりはっきりしてきた。言語学的にインド・ヨーロッパ語族がこの地域に入った事実とも整合する。

つまり、人の移動はあった。だが、それは都市を焼き払う軍団ではなかった。都市がすでに縮小し、社会が農村へと拡散していったあとの、長い時間をかけた混ざり合いだった。順番が逆なのだ。侵略があって崩壊したのではなく、崩壊が先にあって、その後の空間に人が入ってきた。

この修正は地味だが効き目が大きい。ウィーラーの「インドラが告発される」という名文句一つが、七十年以上にわたって世界中の教科書を支配した。名文句には、それだけの毒がある。そして皮肉なことに、核戦争説はその毒を横取りして生き延びた。「侵略で滅んだ」が消えたあとの空席に、「核で滅んだ」が座ったのである。

なぜこの話は、こんなに気持ちいいのか

最後に、この噂がここまでしぶとい理由を考えてみる。

第一に、素材が良すぎる。名前が「死者の丘」。読めない文字。王のいない完璧な都市。路上に転がる骸骨。そして『マハーバーラタ』という、実際に破壊兵器の描写が読める古典が同じ地域に存在する。この組み合わせは、フィクションの設定として作ろうとしても、ここまで揃わない。事実の側が、勝手に舞台装置を用意してしまっている。

第二に、この説は人を賢くした気分にさせる。学校で習ったことが実は違う、公式の歴史は何かを隠している、自分はその裏を知っている。この快感は強い。しかも古代核戦争説の場合、コストがほとんどかからない。専門知識も現地調査もいらず、記事を一本読むだけで「裏を知っている側」に回れる。

第三に、これが一番大きいと思うのだが、この話は現代の恐怖を過去に預けてくれる。核兵器は我々の時代の問題だ。逃げ場がない。ところが「かつて一度、人類は核で滅んだ」という物語にすると、それは終わった話になる。教訓になる。神話になる。目の前の恐怖を、遠い昔の出来事として保管し直す装置なのだ。八〇年代の日本でこの本が売れた理由も、たぶんそこにある。

そして第四に、こういう噂は、否定されるたびに強くなる性質を持っている。本が見つからない、記録がない、現地の学者が知らない。普通なら決定的な反証だが、この構造の中では「隠されている」に変換されてしまう。ダヴェンポートとヴィンチェンティが連絡不能であることは、噂を殺すどころか、むしろ栄養になった。

だからこそ、順番をきちんと並べておくことに意味があると思う。エジプトの正常な骨一本が、四回の伝言を経て「放射能五十倍の骸骨の山」になった。一九六〇年のフランスの本が四人の書き手を経て「マハーバーラタの原文」になった。ウィーラーの一行が「路上の虐殺」になり、デイルズが数え直した三十七体が「四十六体、うち九体が高温被曝」になった。噂は、こういうふうにして作られる。

作られ方が分かってしまえば、これはもう怪談ではなく、人間の記録の癖についての話になる。そっちのほうがずっと面白い、というのが正直なところだ。

オカルトは無から生えず、学問が作った隙間に生える

全部並べ終えてから、いくつか引っかかったことがある。せっかくなので、そこも書いておく。

まず、この噂をただの馬鹿話として片付けると、たぶん一番大事なところを取り落とす。古代核戦争説の骨組みを支えていた三本の柱のうち、二本は学者が立てたものだ。「路上に折り重なった骸骨」はウィーラーが世に出した図像であり、「都市が突然滅んだ」という枠組みも学界が用意した。ダヴェンポートたちがやったのは、既にあった舞台に核という照明を当てただけである。オカルトは無から生えてこない。

学問が作った隙間に生える。だから学者側の言葉遣いの責任も、そこそこ重い。「インドラが告発される」は、名文句としてあまりに完成されていた。完成された比喩は、比喩であることを忘れられる。

次に、伝言ゲームの構造がきれいすぎて、逆に考えさせられた点。放射能五十倍の話は、四段階で変質している。イギリスの物理学者が測ったエジプトの骨の正常値が、ロシアの宇宙医学論文で読み違えられ、ロシアの作家がその孫引きを書き、それを世界中のオカルト本が引いた。注目したいのは、この各段階の書き手が、必ずしも嘘をつく気ではなかっただろうということだ。作家は科学論文を典拠として明記していた。

むしろ誠実にやっているつもりだった可能性が高い。悪意がなくても、確認しないだけで、この規模の捏造は完成する。ここが本当に怖いところで、我々も日常的に同じことをやっている。孫引きの孫引きを、出典があるから大丈夫だと思って使う。

噂は、その時代に反証しにくい形へ進化する

三つ目。この噂の変異のスピードを見ていると、時代ごとの技術がそのまま反映されているのが分かる。八〇年代までは「本に書いてあった」で通用した。原典を確認する手段が一般人になかったからだ。九〇年代から二〇〇〇年代の掲示板時代は、ネタとして共有される形が主流になった。信じてはいないが面白いから回す、という消費の仕方だ。二〇一〇年代のまとめサイトはその文脈を剥ぎ取って断定形に変えた。

そして衛星画像が誰でも見られるようになると、「ガラスになった町」のような地図で潰せる主張だけが急速に弱った。噂は、その時代に反証しにくい形へと選択的に生き残る。だから最近のバージョンが「核ではなくプラズマ兵器」に寄っていくのは、進化として理屈が通っている。検証できない主張のほうが長生きするのだ。

四つ目に、数字の話をもう一度整理しておきたい。この記事で扱った数字は、噂の側と記録の側できれいに割れている。噂の側は四十六体、うち九体に高温被曝、放射能五十倍、炭素年代が四百年のずれ、ガラス化した町が八百メートル四方。

記録の側は、九年間の発掘で三十七体前後、うち出土地点が明記されているものを足し上げると三十五体、全部が下町から出ていて城塞からは一体も出ていない、放射能は正常値、そして年代のずれもガラス化した町も出典に到達できない。並べると、噂の数字のほうが例外なく大きく、そして例外なく出典がない。これは覚えておくと便利な見分け方だと思う。数字が具体的なのに出どころだけが霧なら、たいていそこが継ぎ目だ。

本当のモヘンジョダロのほうが、よほど現代的で不気味だ

五つ目、これは書いていて自分でも意外だったのだが、モヘンジョダロの本当の姿のほうが、核戦争説より遥かに現代的で不気味なんだよな。四千五百年前の都市に、上下水道がある。全戸に水浴び場がある。レンガの規格が六百キロ離れた都市と一致している。にもかかわらず、王の墓がない。神殿と断定できる建物がない。戦争の記念碑がない。誰が命令してこの規格を維持したのか、まったく分からない。

権力の顔が見えないまま、社会だけが精密に動いている。これは古代の話というより、どこかで見たことのある構造ではないか、と思ってしまう。名前のない仕組みに全員が従っている状態、という意味で。

六つ目。滅び方についても同じことが言える。核で一瞬に焼かれるほうが、実は分かりやすくて安心なのだ。原因があって、結果があって、話が閉じる。ところが実際に起きたのは、雨が少しずつ減り、川が痩せ、収穫が落ち、人が少しずつ東へ移り、都市が畳まれ、下水道の掃除をする人がいなくなり、誰も「今日で終わりだ」と言わないまま数百年かけて終わった、という過程だった。劇的な一日が存在しない滅び方である。

気候が変わって都市の維持コストが払えなくなる、という筋書きが、いまの我々にとって親しみやすすぎるのも居心地が悪い。核戦争説を笑っている場合ではないのかもしれない。

最後に、この記事を書きながらずっと考えていたことを書く。噂の出どころを全部たどるという作業は、やってみると、噂を殺す作業ではなかった。むしろ噂が生きている姿を観察する作業に近い。エジプトの骨がインドの骨になり、正常値が五十倍になり、一体が四十六体になっていく過程には、ちゃんと理由がある。誰かが少しだけ都合よく読み、少しだけ丸め、少しだけ盛る。

その積み重ねだけで、半世紀後には一つの文明の滅び方が書き換わる。

それができるということは、逆もできるということでもある。ちゃんと数え直したデイルズの十数ページが、学界の中では七十年もつ結論をひっくり返した。時間はかかるが、種明かしも同じくらいしぶとく残る。いま検証系の動画のコメント欄に「小学生のころ信じてた」と書き込んでいる人たちは、その長い作業の続きをやっている。

死者の丘は、核で焼かれてはいない。ただ、静かに乾いて、静かに人が減って、静かに塩を吹きながら、いまも崩れ続けている。そっちのほうがずっと怖い話だと思うのだが、どうだろうか。

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