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朝めしの途中で五万人が消えた――カンビュセス2世の失われた軍隊を、二千五百年ぶんの証言と反証で追い切る

砂漠には、人が消える。これはたぶん、人類が砂漠を歩き始めた瞬間から知っていたことだ。だが「五万人が、朝めしを食っている最中に、まとめて消えた」という話になると、話の重さが変わってくる。これはそういう話だ。紀元前524年ごろ、ペルシアの大王カンビュセス2世がエジプト西方の砂漠へ送り込んだ大軍が、目的地にも着かなかった。

一人も帰ってこなかった。記録に残しているのはギリシアの歴史家ヘロドトスただ一人。彼が書いた一段落、たったそれだけを燃料にして、この話は二千五百年も燃え続けている。十九世紀の探検家が探し、ハンガリーの伯爵が飛行機で探し、ハーバード大学が二十五万ドルを突っ込んで探した。イタリアの双子が「見つけた」と言って世界中の新聞に載ったのだ。

エジプトの考古最高評議会がそれを一刀両断した。そしてオランダの考古学者が「そもそも砂嵐なんて起きてない、あれは負け戦の隠蔽だ」と言い出した。どれも決着していない。だから面白い。順番に、全部やる。

  1. そもそもカンビュセスとは何者で、なぜそんなに機嫌が悪かったのか
  2. ペルシオンの砂に転がっていた頭蓋骨
  3. そして三つの遠征計画が同時に走り出す
  4. テーバイで、軍が二つに割れた
  5. 七日目のオアシス、通称「至福者の島」
  6. 南から来た風
  7. ヘロドトスは、いつ、誰から、どういう状況でこれを聞いたのか
  8. シワという場所、アモンという神託
  9. 大砂海と、ハムシーンという名の風
  10. 砂嵐に遭った人間の話を、三つ
  11. 十九世紀、砂の海に降った雨
  12. ゼルズラ熱と、砂漠に取り憑かれた男たち
  13. 壺の山を軍の水甕だと考えた男
  14. ウィンゲート、1977年の空騒ぎ、そして二十五万ドルの探索
  15. 1996年、隕石を探しに行った双子が
  16. 2009年11月、世界が沸いた一週間
  17. 冷や水は四つの方向から来た
  18. 2014年、そもそも砂嵐なんてなかったのでは
  19. カーペル説の弱いところも、正直に言っておく
  20. で、砂嵐は本当に軍隊を埋められるのか
  21. 五万という数字を、もう一度疑ってみる
  22. ネットの向こう側では何が言われているか
  23. なぜこの話は二千五百年もつのか
    1. 一行の伝聞が、なぜここまで巨大化したのか
    2. ヘロドトスを擁護しておきたい
    3. 三つの説を、公平に採点してみる
    4. 「発見された」という発表を、どう扱えばいいのか
    5. 五万人が消えたという事実の、非対称な重さ
    6. 探し続ける人間たちについて
    7. まだ砂の下にあるかもしれないものについて

そもそもカンビュセスとは何者で、なぜそんなに機嫌が悪かったのか

まず主役の男から。カンビュセス2世は、キュロス2世の息子だ。父キュロスといえばアケメネス朝ペルシアを立ち上げ、メディアもリュディアもバビロンも呑み込んだ。古代世界屈指のスケールを持った王である。その父が紀元前530年ごろに中央アジアの遠征先で死ぬ。

息子が帝国を継ぐ。キュロスがやり残した仕事が一つあった。エジプトだ。当時の地中海東岸で、まだペルシアの手に落ちていない大国はエジプトしかない。カンビュセスはそこへ向かう。

ヘロドトスは開戦の理由をやたらと人間くさく書いている。カンビュセスがエジプト王アマシスに娘を嫁によこせと要求した。アマシスは娘を出すのが嫌で先代王アプリエスの娘ニテティスを身代わりに送った、それがバレて大王が激怒した、というやつだ。ヘロドトス本人が「これはペルシア人が語っている版だ」と断ったうえで、エジプト側の別版、さらに自分では信じていない第三の版まで並べている。

この「複数の版を並べて出す」というのがヘロドトスの癖で、後でこの癖が効いてくるので覚えておいてほしい。実務レベルの話をすれば、要因はもっと即物的だ。エジプト王アマシスに雇われていたギリシア人傭兵の指揮官、ハリカルナッソス出身のファネスが、アマシスと仲違いしてペルシア側へ寝返った。この男が、シナイ砂漠をどう渡るか、アラビア方面の部族とどう話をつけるか、という侵攻に不可欠な情報を丸ごと持っていった。

カンビュセスはアラビアの王に話を通し、水の補給の確約を取り付けてシナイを渡る。そのアマシスは、ペルシア軍が来る前に死んだ。四十四年の治世をまっとうし、自分で建てた墓に葬られた。跡を継いだのが息子のプサメティコス3世。即位からわずか半年の若い王である。

ヘロドトスは、この王の治世に「テーバイに雨が降った」と書く。上エジプトでは雨など降らない。降ったのはほんの霧雨程度だったが、テーバイの人々はこれを凶兆だと受け取った、と。

ペルシオンの砂に転がっていた頭蓋骨

紀元前525年春、ナイル・デルタ東端の街ペルシオンで両軍がぶつかる。戦闘前に、ぞっとする場面がある。エジプト側で雇われていたギリシア人とカリア人の傭兵たちは、裏切り者ファネスへの怒りをどこにぶつけるか考えた。そして、エジプトに残されていたファネスの息子たちを引きずり出してきた。両軍のあいだに大きな鉢を置き、父親の目の前で子どもを一人ずつ、喉を切って血を鉢に落としていく。

全員終わったら、そこへ葡萄酒と水を注ぎ、傭兵全員でその血を飲んでから戦端を開いた。ヘロドトスはそう書いている。戦いは激しく、双方に大量の死者が出て、最後にエジプト軍が崩れた。クテシアスという別の古代の書き手は、この戦いでエジプト側が五万人、ペルシア側が七千人死んだと伝える。この「五万」という数字、後でまた出てくるので、これも頭の隅に置いておいてほしい。

エジプト軍はメンフィスに逃げ込んで籠城する。カンビュセスは降伏勧告の使者をミュティレネの船で送る。だが、メンフィスの市民は城壁から飛び出してきて船を壊し、乗員を八つ裂きにして市内へ持ち帰った。当然、包囲戦になり、最後には落ちたのだ。そのあと大王がやったことは、後世の評判をほぼ決定づけた。

使者殺しの報復として、貴族の子弟二千人が処刑される。そのなかにプサメティコス3世の息子もいた。娘は奴隷の身なりをさせられ、水汲みの行列を歩かされる。ヘロドトスによれば、プサメティコスは娘のときも息子のときも頭を垂れて泣かなかった。ところが、かつて食客だった老人が財産を失って乞食になり、兵から施しを乞う姿が通りかかったとき、王は声を上げて呻き、友の名を呼んで自分の頭を叩いたという。

なぜだ、とカンビュセスは尋ねさせる。返ってきた答えは、身内の不幸は涙で表せる限度を超えていた。しかし友の落ちぶれた姿は涙で足りるものだった、というものだった。ヘロドトスは、これを聞いた同席のクロイソスも、ペルシア人たちも涙したと書く。カンビュセス自身も哀れを催した、と。

つまりヘロドトスのカンビュセス像は、最初から一枚岩の暴君ではない。むしろ、後半に向かってじわじわ壊れていく人物として描かれている。そこは押さえておきたい。

そして三つの遠征計画が同時に走り出す

エジプトを手に入れたあと、カンビュセスは三つの遠征を同時に構想する。ヘロドトス『歴史』第三巻の十七節だ。一つはカルタゴへ。艦隊を送るつもりだったが、その艦隊の主力はフェニキア人で、彼らは「カルタゴは自分たちの子どもだ。誓約がある」と言って動かなかった。

フェニキアが動かなければ残りは戦力にならない。この計画はそこで消える。二つ目はエチオピア。ここに「太陽の食卓」という不思議な話が絡む。町の外に草地があって、そこに四つ足の獣の焼き肉が山と置かれている。

夜のあいだに町の有力者たちが並べておき、昼は誰でも来て食っていい。地元の人間は「あの肉は大地が勝手に生やすのだ」と言う。カンビュセスはこれが本当かどうかを確かめるついでに国情を探らせようと、エレファンティネから魚食人と呼ばれる通訳を呼び寄せ、贈り物を持たせて偵察に送り込む。エチオピアの王は一目で偵察だと見抜いた。紫の外衣も金の首飾りも香油も、まるで評価しなかった。

金の首飾りに至っては「足枷にしては弱すぎる、うちにはもっと強い鎖がある」と笑い飛ばす。そして弓を一張り渡してこう伝えさせた。ペルシア王がこの大きさの弓をわたしと同じくらい楽に引けるようになったら、そのときに大軍で長寿のエチオピア人を攻めればよい。それまでは、余計な土地を欲しがる気をエチオピア人に起こさせずにおいてくれた神々に感謝するがいい――。ただし葡萄酒だけは、王はいたく気に入ったらしい。

そこがいい。三つ目が、この記事の本題であるアンモン人への遠征だ。

テーバイで、軍が二つに割れた

偵察隊の報告を聞いたカンビュセスは激怒し、食糧の手配も命じないまま、即座にエチオピアへ進発する。ヘロドトスは容赦なく「正気ではなく狂っていた」と書いている。その行軍がテーバイまで来たところで、大王は自軍からおよそ五万人を割いた。命令は二つ。アンモン人を奴隷にすること。

そして、ゼウスの神託所を焼くこと。ここは重要なので、原文が何を言っているかをきちんと確認しておきたい。ヘロドトスは「アンモン人を奴隷とし、ゼウスの神託所を焼き払え」と書いている。ギリシア人はエジプトのアモン神を自分たちのゼウスと同一視していたので、これはシワのアモン神託所を指す。

よく流布している「神託所の神官がカンビュセスのエジプト王位を認めなかったので怒った」という筋書きは、ヘロドトス本人はそこまで明示していない。後世の解説者や現代のメディアが補った動機説明だ。ヘロドトスが書いているのは、命令の中身だけである。そしてカンビュセス自身は残りの軍を率いて南へ、エチオピアへ向かった。その本隊がどうなったかも書いておくべきだろう。

行程の五分の一も進まないうちに食糧が尽きた。駄獣を食い、それも尽き、地面から採れるものがあるうちは草を食って生き延びたのだ。そして砂漠に入ったところで、兵たちは十人ずつ組をつくり、籤で一人を選んで食った。カンビュセスは、軍が人食いになるのを恐れて遠征を打ち切り、多数を失ってテーバイへ引き返す。ここまでが、砂漠へ消えた五万の「兄弟部隊」に起きたことだ。

片方は餓えて人を食い、片方は消えた。同じ王の同じ季節の、同じ判断から出た二つの結果である。

七日目のオアシス、通称「至福者の島」

さて、西へ向かった五万の話。ヘロドトス『歴史』第三巻二十六節。彼らはテーバイから案内人を連れて出発した。そして「オアシスの町」に到着したところまでは知られている、とヘロドトスは書く。この町にはサモス人が住んでいて、アイスクリオニア族の出だという。

テーバイから砂の砂漠を七日行程。ギリシア語で「至福者の島」と呼ばれる場所だ。この「オアシスの町」がどこかについては、今ではほぼカルガ・オアシスだろうと考えられている。ナイル河谷の西、テーバイからちょうど西へ入っていったところにある、西方砂漠最大のオアシスだ。行程七日という距離感も合う。

ここでちょっと横道に逸れるが、このカルガという場所の性格を知っておくと話が立体的になる。ファラオ時代を通じて、ここは「文明の外」だった。エジプトの文書はカルガを遠く荒涼とした流刑地のように描く。ところがペルシア支配が始まると、この場所の扱いが劇的に変わる。ペルシア時代のあいだにオアシスには少なくとも三つの神殿が建ち、新しい町ができ、イラン由来の地下水路技術によって水が引かれた。

オリーブやトウゴマといった換金作物が栽培され、ギリシアの銀貨がエジプトの伝統的な重量単位と並んで使われ始める。その象徴が、カルガに残るヒビス神殿だ。エジプト後期王朝の神殿としては最も保存状態がいい建物で、壁の装飾に何度も名前が出てくるのがダレイオス1世――カンビュセスの後継者である。至聖所には全エジプトから集められた七百柱もの神々が高浮彫りで並ぶ。

ヒビスから南へ二十キロほどのカスル・エル・グエイタの神殿も、ダレイオス1世の治世に建てられている。つまり、この五万が消えたとされる方角は、ペルシア帝国にとって「消えた場所」ではなかった。むしろその後二百年近く、しっかり支配し、投資し、経営した場所だった。この事実は、後で出てくる二つの説のどちらを考えるときにも効いてくる。

南から来た風

続きを、ヘロドトスの筆でたどる。軍がそこまで来たことは知られている。しかしそこから先は、アンモン人自身と、アンモン人から聞いた者以外、誰も何も言うことができない。彼らはアンモン人のところに到達しなかったし、戻ってもこなかったからだ。そしてアンモン人自身はこう言っている。

ペルシア人たちはオアシスから自分たちの土地へ向かって、砂を横切っていた。ちょうど両者のあいだの中間あたりに来たとき、朝食をとっている最中に、大きな激しい南風が起こったのだ。風が運んできた砂の塊が彼らを埋め、こうして彼らは見えなくなった。これがアンモン人の語る、この軍隊についての話である。以上。

それで終わりだ。改めて読むと、恐ろしいほど短い。人類がこの二千五百年、何十回も砂漠へ人を送り込む原因になった記述が、これだけの分量なのである。しかも書いた本人が、二重三重に予防線を張っている。「そこから先は誰も何も言えない」「アンモン人自身がこう言っている」「これがアンモン人の語る話である」。

地の文で断定していない。伝聞であることを、これでもかというほど明示している。ヘロドトスは別の場所でこう書いている。自分は聞いたことを記録する義務があるが、それを信じる義務まではない、と。この一節は、彼の全著作を読むときの取扱説明書みたいなものだ。

二十六節はまさにその方針が適用された箇所である。

ヘロドトスは、いつ、誰から、どういう状況でこれを聞いたのか

ここが史料批判のいちばん美味しいところだ。事件は紀元前524年ごろ。ヘロドトスの『歴史』が書かれたのは紀元前五世紀の半ばから後半にかけて。おおよそ七十五年の隔たりがある。人間の記憶が世代を二つ跨ぐ長さだ。

しかもヘロドトスはシワへ行っていない。「アンモン人が言っている」と書くだけで、自分が現地でアンモン人に会ったとは書いていない。エジプトのどこかで、アンモン人から話を聞いた誰かから聞いた、という可能性が高い。さらに厄介なのが、ヘロドトスがエジプトを訪れたと考えられている時期だ。

紀元前464年から449年にかけて、エジプトではイナロスとアミュルタイオスによる大規模な反ペルシア蜂起が起きていて、アテナイがこれを支援していた。ヘロドトスがエジプトで話を集めたのは、まさにこの反ペルシア感情が最高潮に達している時期だった。だとすれば、彼が拾った「カンビュセス像」がどういう色に染まっていたかは、想像がつく。これを疑うのは陰謀論ではない。実証的な根拠がある。

アピス牛の話だ。ヘロドトスは第三巻二十七節から二十九節で、こう書く。エチオピア遠征に失敗してメンフィスに戻ったカンビュセスは、街がお祭り騒ぎになっているのを見た。聖牛アピスが現れたことを祝っていたのだが、大王はこれを自分の敗戦を嘲笑っているのだと解釈したのだ。メンフィスの長官たちを呼びつけて問い詰め、説明を嘘だと決めつけて処刑した。

次に神官たちを呼び、アピスを連れてこさせ、短剣で腿を刺した。そして笑いながらこう言った――お前たちの神とはこれか、愚か者め、鉄の刃を感じる血肉でできているではないか。強烈な場面である。ヨーロッパは二千年以上、この場面を「東方の狂王」の代表的イメージとして消費してきた。ところが考古学が別のことを語る。

カンビュセスの治世に死んだアピス牛の石棺が実際に見つかっており、その碑文はまったく違う筋書きを伝えている。アピスは自然死し、カンビュセス自身が上下エジプト王として棺と祠を奉納した、と書かれているのだ。しかも同時代のエジプト高官ウジャホルレスネトが、自伝的な碑文を残している。そこにはカンビュセスがサイスの神殿の秩序を回復させ、エジプト式の王名を名乗り、神々に礼を尽くしたと書いてある。

もちろん、宮廷が発注した碑文が真実の全部だとは言えない。碑文は碑文で政治的な文書だ。だが少なくとも、「短剣でアピスを刺し殺した狂王」という単純な図式は、成り立たなくなる。ヘロドトスが拾ったのは、征服から数十年たったエジプト社会のなかで熟成された。極めて反ペルシア的な口承だった――と考えるのが現在の主流である。

そして、その同じ口承の層から拾われた話が、砂嵐で消えた五万人なのだ。これは「だから嘘だ」という意味ではない。そう単純ではない。むしろ話はここから複雑になる。

シワという場所、アモンという神託

消えた軍隊が目指した場所の話をしよう。シワ・オアシスは、エジプト西方砂漠の北の端に近い、リビア国境からそう遠くない窪地にある。ナイル河谷からは五百キロ以上離れている。周囲は完全な砂漠で、塩湖と泉と棗椰子の林がぽつんと存在する。海抜はマイナス十数メートル。

地下水が湧き、塩の湖が光り、日陰は濃く、水は冷たい。砂漠を何日も歩いてきた人間にとって、この場所が「至福者の島」的な何かに見えたであろうことは、想像に難くない。ここにアモン神の神殿と神託所があった。アグルミの丘の上に建つ神殿は、エジプト第二十六王朝ごろ、つまりアマシスの時代前後に整備されたと考えられている。この神託所の名声は地中海世界全体に届いていた。

ギリシア人はこの神をゼウス・アンモンと呼び、リビュアの奥にある不思議な託宣所として崇めた。そして紀元前331年、アレクサンドロス3世がここへ来る。エジプトを手に入れ、アレクサンドリアの建設地を定めたあと、彼は本隊を離れて砂漠を横断し、この神託所を訪ねた。神官は彼を「アモンの子」と呼んだ。この一言が、以後のアレクサンドロスの自己認識と、彼の統治の正統性の組み立て方を変えてしまう。

エジプトにとって王とはアモンの子であるべきものであり、その称号を現地の最高権威から直接受け取ることは、外来の征服者にとって計り知れない価値があった。つまりシワの神託所は、単なる田舎の神社ではない。「征服者に王としての資格を与えるかどうかを決める場所」だった。カンビュセスがそこを焼けと命じたという話が、なぜ物語として据わりがいいのか。

カンビュセスは資格を与えられなかった側、アレクサンドロスは与えられた側という対比が、あまりにも美しく成立してしまうからだ。物語としてよくできている、というのは、歴史の話をするときには常に警戒信号でもある。ちなみにシワは近代に入ってからも要衝であり続けた。第二次世界大戦中は連合軍も枢軸軍もこのオアシスを押さえに来ている。

ロンメルがここに立ち寄り、部下の将校に「この戦争は負けだ」と漏らしたという逸話が残る。一般車両が通れる舗装路がシワに通じたのは1984年で、それまでこの場所は本当に遠かった。

大砂海と、ハムシーンという名の風

地理も押さえておこう。シワの南に広がるのが大砂海と呼ばれる砂丘地帯だ。面積はおよそ七万二千平方キロメートル。地球上で連続した砂被覆域としては二番目の規模を持つ。ここの砂丘は「セイフ型」と呼ばれる縦列の細長い尾根状で、数百キロにわたって平行に伸び、そのあいだに砂で埋まった回廊がある。

この構造のせいで、大砂海には強烈な方向性がある。砂丘の走向に沿った南北方向の移動は比較的やりやすい。ところが直交する東西方向の移動は地獄になる。しかも砂丘の東斜面は急で、西斜面はなだらかに立ち上がる。だから西から東へ抜けるほうが、東から西へ抜けるより楽だ。

逆向きに入った人間は、急斜面を何十本も乗り越えることになる。砂丘の物理を体系的に解明したのは、この砂漠を走り回っていたイギリスの軍人ラルフ・バグノルドである。彼は帰国後に自宅で風洞をこしらえ、砂粒の跳躍運動を延々と観察し、1941年に『吹送砂と砂漠砂丘の物理学』を出した。この本は今でもこの分野の基礎文献であり、後には河川堆積物の研究や、火星の砂丘の研究にまで応用されている。

砂漠にロマンを求めて入っていった男が、結果として粒状体物理学の基礎を作ってしまったわけだ。そして風。エジプトで春先に吹く、高温で乾燥した砂まじりの風をハムシーンと呼ぶ。この語はアラビア語で「五十」を意味し、春の始まりからおよそ五十日のあいだに断続的に吹くことに由来する。実際にどういうものかというと、数字が容赦ない。

風速は時に時速百四十キロに達する。湿度は五パーセントを割ることがある。気温は二時間で二十度上がることがある。冬場でも四十五度を超える。到来は主に四月、まれに三月から五月にかけて。

「五十日吹き続ける」と言われるが、実際には週に一度あるかないかで、一回あたりは数時間で終わることが多い。歴史のなかでも、この風は何度も軍隊を痛めつけてきた。1798年のナポレオンのエジプト遠征でも、これが出た。遠くの空が血の色に染まったのを見て、オスマン側の兵はすぐ物陰へ逃げ込んだ。ところがフランス兵は事態を理解するのが遅れた。

目も鼻もふさぐ砂塵の壁のなかで窒息しかけ、倒れたという記録が残っている。第二次世界大戦の北アフリカ戦線でも、連合軍とドイツ軍が戦闘の途中で中断せざるを得なくなったことが何度もあった。砂粒が兵士の目を潰し、静電気が発生して羅針盤が使い物にならなくなったという証言も残っている。紀元前五世紀のエジプト人が「南から吹く大風が軍隊を埋めた」と語ったとき、彼らが指していた現象自体は、間違いなく実在する。

問題は、その現象が本当に軍隊を殲滅できるのか、という一点だ。それは後で扱う。

砂嵐に遭った人間の話を、三つ

ここで、実際に砂嵐のなかにいた人間の記録を紹介したい。二千五百年前の五万人が何を経験したのかを想像するには、こういう一次的な語りが一番効く。一つ目。1923年から1924年にかけてリビア砂漠を南北に縦断したエジプトの探検家アフメド・ハサネインは、その旅の記録を翌年に発表している。彼の隊はジャロへ向かう途中で八日間、砂嵐に叩かれ続けた。

彼の描写がうまい。砂漠はふだん、とても静かなのだという。ときおり微風が吹く。その微風が少しずつ強くなる。すると、と彼は書く。

大地に何本も管が仕込まれていて、そこから一斉に蒸気を噴き出しているように見えてくる。まず細かい砂が舞い上がり、風速が上がるにつれてより重い粒が持ち上がる。砂の層が自分の頭の高さまで来ると、そこからは苦痛であり、風上へ向かって進まねばならない場合には危険になる。歩みを落とすしかなく、注意していないと道を失う。左右から吹いてくるのならまだいい。

ベドウィンの衣で防げるからだ。そして、この文章が刺さる。ある日、隊は嵐に真っ向から突っ込んで進まねばならなかった。そのとき彼は、なぜ隊がのろのろとでも動き続けるのかを理解した。止まるということは、砂に溺れるということだからだ。

駱駝はそれを本能で知っていて、あの拷問のような吹きつけのなかでも前進をやめない。ところが雨が降り出すと、駱駝は逆に立ち止まり、膝を折って坐り込んでしまう。ハサネインは、それまでの旅でベドウィンから聞き集めた「砂嵐の法則」をいくつも持っていた。だがこの八日間で、そのすべてが破られたと嘆いている。そしてもう一つ。

日没近く、何時間も終わりの見えない砲撃のような風と戦ったあとで、風が不意にぴたりと止まることがあった。まるで見えない手が合図を出したかのように。それから一時間ほど、細かい砂と塵が霧のようにゆっくり降りてくる。しばらくすると月が昇り、その青白い光の下で砂漠はまったく別の顔になる。砂嵐なんてあっただろうか。

誰が思い出せるだろう。この静かで美しい広がりが、そんなに残酷であり得ただろうか。二つ目。第二次大戦中、エジプト西部の砂漠で任務についていたイギリス兵ボブ・ボースウィックが、自分の日記に残した話。彼らは鉄道の四十八マイル標識から南へ二十五マイルほど入ったところで、放棄された車両から部品を回収していた。

最後のバネを積み終えたとき、部下の一人が叫んだ。南を見た全員が凍りついた。地平線から地平線までを塞ぐ巨大な褐色の壁が立ち上がり、太陽を金色の靄のなかへ沈めていくところだったのだ。近づいてくる砂嵐特有の、あの這うような音が聞こえてくる前から、全員が何なのかを理解していた。それでも一分ほど、彼らは呆然とそれを見ていた。

ボースウィックは「本当に威圧的だった」と書く。そこから先は競走になる。幌を上げ、エンジンをかけ、北の鉄道線を目指して走った。負けた。砂が到達した瞬間にあたりは暗転し、視界がほぼゼロになる。

止まってやり過ごすか、線路にぶつかるまで走り続けるか。どちらにしても砂はあらゆる隙間から入ってくる。動き続けたほうがましだろうと判断して走った。すると今度は、前が見えないせいで柔らかい砂の場所を避けられず、車が沈む。誰も先導のために外を歩きたがらない。

日が沈み、エンジンが過熱して停車を余儀なくされたとき、彼らはもっと嫌なことに気づいた。砂だけではなく、南の乾ききった土地から来た極めて細かい塵が、あらゆるものを覆っていたのだ。頭から足まで全員がそれをかぶっていた。塵は服の内側にも、鼻にも口にも入ってくる。ゴーグルをしていなかったら目もやられており、その夜は、乾パンを水で流し込んで荷台で眠った。

翌朝、嵐が去ったので外を覗いたら、自分たちの基地が西へたった三キロほどのところに見えた。走り続けていたつもりで、彼らは少しずつ東へ流されていたのだ。三つ目は、砂ではなく骨の話だ。シワの南の砂漠に暮らす人々のあいだには、ある種の風が吹いたあとに、無数の白い骨が地表に現れる場所がある、という言い伝えが伝わっていた。何千という数の骨と頭蓋骨が、砂の下から出てくる。

1990年代の終わりから2000年代の初めにかけて、この話を聞き込んだ調査隊が現地を訪ねている。そして実際に、漂白されて真っ白になった骨と頭蓋骨が大量に露出している場所に行き当たった。現地で聞かされた話には、続きがあった。その骨は自然に出てきたのではなく、盗掘者が掘り返して露出させたものだという。そして骨のあいだから出てきた見事な剣が、アメリカ人の観光客に売られていったのだ、と。

この三つの語りには温度差がある。一つ目は探検家の観察眼、二つ目は兵士の実感、三つ目は伝聞の伝聞だ。だが並べて読むと、この砂漠がどういう場所なのかは、かなりの解像度で立ち上がってくると思う。

十九世紀、砂の海に降った雨

探索史に入る。近代の西方砂漠探検の起点として外せないのが、ドイツの探検家ゲルハルト・ロールフスだ。1873年から1874年にかけて、エジプト副王イスマイルの支援を受けた彼の隊は、ダクラ・オアシスからクフラを目指して西へ入った。ところが行く手に立ちはだかったのが例の大砂海である。高い砂丘の列を越えられず、隊は針路を北へ振ってシワ方面へ抜けざるを得なかった。

その途中の1874年2月5日、この超乾燥地帯であり得ないことが起きた。雨が降ったのだ。ロールフスはその地点にケルンを積み、日付を記した書き付けを残し、そこを「雨の野」と名づけた。この目印は五十年後、モーターカーで砂漠に入ったエジプトの王族が再発見することになる。この1874年という年は、カンビュセス問題にとっても節目の年だったらしい。

同じ年の四月、カイロのエジプト学会で会合が開かれた。議長を務めたのはドイツのエジプト学者ハインリヒ・ブルクシュで、カンビュセスの軍隊の運命が主要な議題になったと伝えられている。つまり十九世紀の後半には、この失われた軍隊は「学者が公開の場で真面目に議論する対象」になっていた。ここから、砂漠は少しずつヨーロッパの地図の上で塗りつぶされていく。

1900年代にはルウェリン・ビードネルがナイルとオアシス群のあいだの広大な区域を測量した。1917年にはジョン・ボールとムーアが、ダクラの南西二百五十キロほどの目立つ丘のわきに、大量の壺が積み上げられているのを発見する。1924年にこの場所を訪ねたエジプトの王族が「壺の父」を意味するアブ・バラスという名を付け、以後その名が定着した。

初期の探検家が見たとき、そこには完全な形の壺と甕がおよそ三百個あったのだ。ただしほとんどは割られているか、人の手で穴を開けられており、この壺の山が何なのかは、長らく謎だった。地元では「南から来る襲撃者たちの水の貯蔵所で、追撃した住民が壊した」という説明がされていた。

ゼルズラ熱と、砂漠に取り憑かれた男たち

1920年代から30年代にかけて、リビア砂漠は奇妙な熱に浮かされる。ゼルズラという幻のオアシスの探索だ。発端は1835年、イギリスのエジプト学者ジョン・ガードナー・ウィルキンソンが記録した話である。迷った駱駝を探しているうちにオアシスを見つけたというアラブ人の報告。棗椰子が茂り、泉が湧き、年代不明の遺跡がある土地。

ファラフラとバハリヤを結ぶ道の西へ五日、とされていた。砂漠に取り憑かれた男たちが、これを本気で探し始めた。1929年か1930年、スーダンのワジ・ハルファの酒場で、探索者たちが「ゼルズラ・クラブ」を結成する。会員はほぼ全員が英国の植民地官僚か軍人で、要するに幻のオアシス探しの同好会だ。当時の一流の地理学雑誌が、この問題に真面目に紙面を割いていた。

そこへハンガリーの貴族ラースロー・アルマーシーが登場する。この男の名前を知っている人は多いはずだ。マイケル・オンダーチェの1992年の小説とその映画化作品に出てくる。砂漠に取り憑かれた伯爵のモデルになった実在の人物である。もっとも、実物のアルマーシーは列車から飛び降りたりはしないし、映画の恋愛劇もほぼ創作だ。

実物のほうが、ある意味でもっと変わっている。彼は自動車と飛行機を組み合わせた砂漠探査という発想に取り憑かれていた。地上を這うだけでは狭い帯しか見えない。空から見たい。そう考えて自前で複葉機を買い、ロンドンからカイロへ自力で飛ぼうとして、シリア上空で嵐に捕まって墜落する。

機体は大破し、本人は無傷。シリアの新聞は二人のハンガリー人が死んだと報じた。資金がなくなって計画が潰れかけたところに、冒険好きの若い英国准男爵ロバート・クレイトン・イースト・クレイトンが現れて話が動き出す。エジプト測量局のジョン・ボールの後押しを取り付けた。ギルフ・ケビール台地を発見していたエジプトの王族から資金を引き出し、ゼルズラ・クラブから熟練者を二人引き込んだ。

1932年、隊はギルフ・ケビール台地の南側に、改造フォード三台と複葉機一機で野営する。空からの偵察を繰り返し、遠征最終盤になって、緑の植生を抱えた深い涸れ谷を発見した。ここからの話が、この男の頭のなかを覗くようで面白い。谷の入口が見つからず、燃料も残り少ない。翌日の飛行二回で最後、というところまで来ており、そこへ突然、二羽の燕が空から降りてきて車の上にとまった。

アルマーシーが水を差し出すと、一羽は水浴びをしたが、どちらも飲まなかったのだ。飛び去るとき、彼は羅針盤でその方角を測った。燕の飛去方向と、前日の偵察飛行の航跡を地図に引くと、二本の線がギルフ・ケビール北部で交差した。その晩、彼は簡易寝台に寝ころんで星座を数えながら、右手にそびえる三百メートルの絶壁の向こうにゼルズラの気配を感じたと書いている。そして、その上空を飛ぶ夢を見た。

翌年以降、彼と仲間たちは三つの緑の谷をすべて確認する。ワジ・ハムラ、ワジ・アブド・エル・メリク、ワジ・タルフ。伝説の白亜の都市ではなかった。あったのはアカシアの木と、テブ族の小屋がいくつかだけだ。だがそれは、砂漠の遊牧民がこの場所を知り、使い続けてきたことの証拠でもあった。

同じころ彼はウエイナト山塊のアイン・ドウアで先史時代の岩絵を、ワジ・ソラで泳ぐ人物を描いた壁画を確認している。かつてこの砂漠が砂漠ではなかったことの、動かぬ証拠だった。アルマーシーが自分の探検を書いた本には『知られざるサハラ』『空に、砂に』といったものがある。その一節に、1932年にビル・メッサハという井戸のそばで、彼がたった一人で三日間キャンプした記録がある。最寄りの人家まで五百キロ。

仲間が去って車の音が消えた瞬間、彼は井戸の蓋を持ち上げながら、自分一人でこの滑車を回して水を汲めるのかと突然不安になった、と正直に書いている。声に出して自問してみたら、自分の声はいつもと変わらなかった、とも。このアルマーシーが、カンビュセスの失われた軍隊を探した人物の一人として、繰り返し名前を挙げられている。ゼルズラを探すのも、消えた軍隊を探すのも、彼のなかでは地続きだったのだろう。

空から白い骨の列を見たという話が伝わってもいる。だが、これは確かな記録に裏づけられているとは言い難く、後世の再話のなかで膨らんだ可能性がある。戦争が来ると、この砂漠マニアたちは全員が軍事的な資産に変わる。バグノルド、パトリック・クレイトンらは長距離砂漠挺身隊を作って枢軸軍の後方を荒らし回った。アルマーシーだけが逆の側に立ち、ドイツ軍の砂漠顧問となる。

1942年、彼は二人のドイツ人スパイを乗せてリビアから連合軍の戦線を突破し、ギルフ・ケビール経由でナイル河谷まで送り届けるという作戦を成功させた。この作戦の日誌の写しが、戦後に英国側の手に渡って残っている。

壺の山を軍の水甕だと考えた男

もう一人、この砂漠でカンビュセスを追った男の話をしたい。ハンスヨアヒム・フォン・デア・エッシュというドイツ人だ。彼は1929年から1939年まで北アフリカにいた。1934年から35年にはアルマーシーの自動車遠征に航法士として同行している。それとは別に、彼は自分で車と駱駝隊を仕立てて砂漠を歩き回り、地理と地図作りと考古に手を出した。

彼はカンビュセスの軍隊の経路を、地面から復元しようとしたのだ。砂漠で見つけた大きな石の積み山を、ペルシア軍が残したものだと解釈した。そして例のアブ・バラスの壺の山を、この軍隊のために設けられた水の補給所だと考えた。この発想には筋が通っている。五万人でなくとも、まとまった軍勢が砂漠を横断するなら、事前に水の集積所を作るしかない。

だから砂漠に壺が三百個積んである場所が見つかれば、それは軍事的補給拠点ではないか、と考えるのは自然だ。彼はさらに踏み込んで、セヌーシー派の遊牧民と、当時著名だったイギリスの人類学者エヴァンズ・プリチャードを巻き込んだ駱駝隊による大遠征を計画した。だがこの計画は実現しなかった。英独関係が悪化していく時期で、英国当局が許可を出さなかったのだ。

彼は1941年に『ウィーナク、隊商が呼ぶ』という本を出し、自分の探検と考古学的な解釈をまとめている。彼の解釈は、しかし、後の科学に否定された。アブ・バラスの壺の一部を熱ルミネッセンス法で年代測定したところ、紀元前1500年ごろという値が出たのだ。カンビュセスより千年近く古い。この結果は、壺の山の意味そのものを塗り替えた。

近年の調査で、ダクラからギルフ・ケビールへ向かう長距離ルートの存在が明らかになった。「アブ・バラス街道」と呼ばれる驢馬隊商の道で、紀元前三千年紀の末から断続的に使われていたことが分かってきている。つまりあの壺は、ペルシア軍の遺物どころか、それより遥かに古いエジプトの砂漠交易網の痕跡だった。

フォン・デア・エッシュは砂漠に関する別の解釈でも、ハワード・カーターに「発見は認めるが解釈は同意しない」と言われている。砂漠は、人に自分の見たいものを見せる場所なのだ。この教訓は、この記事の後半でもう一度、もっと大きな規模で繰り返される。

ウィンゲート、1977年の空騒ぎ、そして二十五万ドルの探索

時系列を刻んでいく。1933年1月、後にビルマ戦線で名を上げるイギリスの軍人オード・ウィンゲートが、当時リビア砂漠と呼ばれていた地域で失われた軍隊を捜索した。成果なし。1977年2月、考古学者がカンビュセスの軍隊の遺物を発見したという報道が流れた。これは後にデマだったことが判明する。

1983年9月から1984年2月にかけて、アメリカのジャーナリストで作家のゲイリー・シャフェツが、本格的な探索遠征を率いた。スポンサーはハーバード大学、ナショナル・ジオグラフィック協会、エジプト地質調査鉱物資源庁、そしてリガブエ研究所。予算は二十五万ドル。装備が凄い。エジプト人地質学者と作業員が二十名に、ナショナル・ジオグラフィックのカメラマンが一名。

さらにハーバードの映画研究科から記録映画作家が二名、駱駝が三頭、超軽量飛行機が一機、そして地中レーダーまで持ち込んでいる。捜索地域はエジプトとリビアの国境沿い、無人のバハレイン・オアシスの南西、シワの南東およそ百六十キロにある。複雑な砂丘が広がる百平方キロメートルの範囲だった。六か月の捜索で、隊はおよそ五百基の墳丘状の遺構を発見し、いくつかからは骨片が出たのだ。しかし遺物は出なかった。

そして骨片を熱ルミネッセンス法にかけたところ、出た年代は紀元前1500年ごろ。またしても千年ずれていた。ついでに、シトラ・オアシスの洞窟で、魚卵状の石灰岩を彫った、翼を持ち身を伏せたスフィンクス像が見つかっている。様式的にはペルシア風だと見られた。これは今も謎のままだ。

そしてシャフェツ本人は、1984年2月にカイロへ戻ったところで「飛行機を密輸した」という容疑で逮捕された。エジプト地質調査鉱物資源庁の書面による許可を持っていたにもかかわらず、である。二十四時間の取り調べを受け、超軽量機をエジプト政府に「寄贈する」と約束したところで容疑は取り下げられた。その機体は現在、カイロの軍事博物館に展示されている。説明書きには「イスラエルのスパイ機」と書かれているという。

砂漠の探索とは、こういうものである。2000年の夏には、ヘルワン大学の地質チームが西方砂漠で石油の探査をしていて、保存状態のいい織物の断片、武器らしき金属片、人骨に行き当たった。彼らはこれを失われた軍隊の痕跡だと考え、エジプト考古最高評議会は調査隊を組織すると発表したのだ。そして、それ以上の情報は何も出てこなかった。

同じ2000年前後には、地質学者のトム・ブラウンとゲイル・マッキノンによる探索も行われている。矢や槍の残骸らしきものが見つかったが、大半はローマ時代のもので、ペルシアのものではないと判断された。ここまでで気づくことがある。西方砂漠には、確かに古い人骨も古い金属も古い壺も落ちている。落ちすぎているくらいだ。

この砂漠は数千年にわたって人が通り、人が死んできた場所なのだから当然である。問題は、そのうちのどれか一つを「紀元前六世紀のペルシア軍のもの」と特定できるかどうかであって、それが誰にもできていない。

1996年、隕石を探しに行った双子が

そしてイタリアの双子が登場する。アンジェロとアルフレド・カスティリオーニの兄弟は、ヴァレーゼに拠点を置く東部砂漠研究センターの中心人物だった。1989年に「黄金の都市」と呼ばれた古代都市ベレニケ・パンクリュソスの遺構を確認したことで名を上げている。彼らがこの話に関わることになった発端は、まったくの偶然だった。

1996年、シワからそう遠くないバハレインという小さなオアシスの近くで、鉄隕石の存在を調べるための調査を行っていたときのことだ。作業中に、半分砂に埋まった壺と、いくつかの人骨に気づいた。そして、もっと興味を引かれるものを見つけた。天然の避難所になりそうな岩である。長さ約三十五メートル、高さ約一・八メートル、奥行き約三メートル。

この手の地形は砂漠では珍しくないが、この巨岩は広い範囲でただ一つだけ、ぽつんと存在していた。その岩の下で、同行していたカイロ大学のエジプト人地質学者アリ・バラカトの金属探知機が反応した。出てきたのは青銅の短剣と、いくつかの矢尻。避難所から四百メートルほど離れた地点で、銀の腕輪、耳飾り、首飾りの一部と思われる球がいくつか見つかった。アルフレド・カスティリオーニはこう語っている。

小さな品ばかりだが、これらは極めて重要だ。シワにきわめて近い場所の砂のなかから現れた、初めてのアケメネス朝の遺物、つまりカンビュセスの時代の遺物なのだから、と。古代宝飾の専門家アンドレア・カニェッティは、写真に基づく判断だと断ったうえでコメントした。耳飾りは間違いなくアケメネス朝期のもので、トルコの発掘で見つかった紀元前五世紀の耳飾りに非常によく似ている、と。

兄弟はここから、経路そのものを組み替える仮説に踏み込んでいく。十九世紀以来、多くの探検家がダクラ経由、ファラフラ経由という「常識的な隊商路」を捜索してきた。そして何も見つからなかった。だったら、軍は違う道を通ったのではないか。兄弟の読みでは、軍はカルガから西へ向かい、ギルフ・ケビール方面へ、ワジ・アブド・エル・メリクを抜けて、そこから北上してシワを目指した。

この経路には軍事的な合理性がある、と彼らは言う。まず敵の不意を突ける。そして常識的なオアシス伝いの道はエジプト側が押さえているので、オアシスごとに戦闘になってしまう。誰にも邪魔されずに進みたければ、南から回り込むしかない。しかもこの南回りのルートは、第十八王朝の時代にはすでに存在していた、と。

仮説を検証するため、兄弟はその想定経路上で地質調査を行った。そして涸れた水源と、砂に埋められた何百という水甕でできた人工の水場を見つけたと発表した。熱ルミネッセンス法による年代は約二千五百年前。カンビュセスの時代と合う、と彼らは主張した。2002年、最後の遠征で兄弟は最初の発見地点に戻る。

そこはシワの南およそ百キロ。ここが決定的に重要なのだ、と彼らは言う。なぜなら古い地図では、アモン神殿の位置がまさにこのあたりに誤って記されていたからだ。つまり、こういう筋書きになる。兵士たちは目的地に着いたと思った。

ところが実際にはまだ百キロも南で、そこへ、正午近く、ハムシーンが襲ったのだ。ある者はあの巨岩の下に逃げ込み、ある者は四方八方へ散った。ひょっとするとシトラの湖にたどり着いて生き延びた者もいたかもしれない――。そして遠征の最後に、彼らはベドウィンから伝わっていた「特定の風のあとに何千という白い骨が現れる」という話の場所を訪ねた。前に書いた三つ目の語りが、ここに接続する。

実際に、漂白された骨と頭蓋骨が大量に露出した集団埋葬地に行き当たった。骨のなかからはペルシア式の矢尻がいくつも出て、古代ペルシアの馬の図像に描かれているものと同一の馬銜も出てきたのだ。遠征隊のメンバーだったレッチェ大学のダリオ・デル・ブファロは、こう言い切った。この砂漠の荒涼たる荒野のなかで、我々は悲劇が起きた最も正確な場所を突き止めた、と。

2009年11月、世界が沸いた一週間

2009年11月、この話がついに世界のニュースになった。見出しはどこも似たようなものだった。伝説のペルシア軍、サハラで発見。青銅の武器、銀の腕輪、耳飾り、そして数百の人骨。二千五百年の謎に、ついに決着か。

イギリスの雑誌に寄稿したジャーナリストは、朝食のシリアルを食べながらこのニュースを読んだ。そして思わず歓声を上げ、牛乳をこぼして犬を喜ばせた、と正直に書いている。彼が喜んだ理由は、遺物そのものよりも、ヘロドトスの名誉のほうだった。紀元一世紀にプルタルコスから「嘘の父」呼ばわりされて以来、この歴史家は長いこと軽んじられてきた。キケロが「歴史の父」と呼んだ男が、である。

もしこの発見が本物なら、それはヘロドトスの帽子に挿す新しい羽根になる。ケンブリッジのギリシア文化の教授ポール・カートリッジは、この件についてこう言ったと伝えられる。ヘロドトスが嘘の父だって。まさか。エジプトの砂漠で朽ちていくあの紀元前六世紀のペルシア人たちのような死者は、嘘の話などしないよ――。

ところが、この盛り上がりは一週間ももたなかった。

冷や水は四つの方向から来た

一つ目。エジプト考古最高評議会の事務総長ザヒ・ハワスが、プレスリリースを出した。その文面は容赦がなかった。新聞、通信社、テレビが一斉に報じている報道がある。「アンジェロとアルフレド・カスティリオーニ兄弟がカンビュセスのペルシア軍の遺物を発掘した」というものだ。

あれは根拠がなく、誤解を招く。兄弟はシワに近いバハレイン・オアシスのベレニケ・パンクリュソスで、いかなる考古学ミッションも率いていない。この遺跡は2002年以来、トリノ大学のパオロ・ガッロ博士が率いるイタリアのミッションによって発掘されてきた。カスティリオーニ兄弟はエジプトで発掘する許可を考古最高評議会から与えられていない。したがって、彼らが発見したと主張するものは、いっさい信じるに値しない――。

最後に、評議会はエジプトの法的機関と保安当局にすでに通報し、必要な手続きを取っていると付け加えられていた。二つ目。発表の形式そのものが問題にされた。兄弟はこの発見を、査読のある学術誌ではなく、記録映画として発表した。イタリアのロヴェレートで開かれる考古学映画祭で上映されたのである。

学術界がこれを見る目は、当然きびしくなる。しかも兄弟の経歴が、この疑念を増幅させた。二人は1970年代に、アフリカを舞台にした一連の衝撃的な記録映画の製作者として知られていた。いわゆるモンド映画と呼ばれるジャンルで、観客に見せるショックの強さで勝負する作りのものだ。作品名を並べれば、この記事の趣旨から外れるほど生々しい映像が含まれている。

学術的な厳密さより、観客の反応を優先する作り手である、という印象は避けようがなかった。さらに、遺物を検出した金属探知機を持っていたエジプト人地質学者アリ・バラカトにも、矛先が向いた。過去にボスニアの人工ピラミッド説を支持し、後にそれが否定された経緯が指摘されたのだ。三つ目。1983年に自分でこの軍隊を探したゲイリー・シャフェツが、公開の場で異議を唱えた。

彼の批判は経歴論ではなく、物理の話だった。彼は兄弟が公開した骨の写真を見て、決定的におかしいと感じたという。砂漠で二千五百年ものあいだ砂に叩かれ続けた人骨が、あんなに綺麗なはずがない。自分の遠征では、砂が吹きつけるだけでジープの車体の文字が一時間もしないうちに削り取られていくのを目の当たりにした。それなのに写真の骨は無傷に近く、まるで石膏の型を無造作に積み上げたかのように見える、と。

彼はこうも指摘した。この分野には前例が多すぎる。1977年の通信社報道は結局デマだった。2000年のヘルワン大学の発表も同じように立ち消えになった。そして自分が到達した結論はこうだ。

失われた軍隊は、まだ見つかっていない。四つ目。国際的な政治の話も少しだけ絡んだ。ペルシアの遺産に関わる問題ということで、イランの側からユネスコに介入を求める声が上がったと報じられている。エジプトとイタリアとイランの当局と研究者と映画作家が、一つの骨の山を巡って別々の方向を向いていた、というのがこの騒動の実相だった。

2014年、そもそも砂嵐なんてなかったのでは

そして話は、まったく別の角度からひっくり返される。2014年6月、ライデン大学で開かれたペルシア帝国の政治的記憶に関する国際会議で、同大学のエジプト学者オラフ・カーペルが説を発表した。彼はニューヨーク大学古代世界研究所が進めるダクラ・オアシスのアムヘイダ遺跡の発掘に、エジプト学担当の副責任者として参加していた。発掘の総責任者はロジャー・バグナル、現場責任者はパオラ・ダヴォリである。

カーペルの主張は、大まかに言えばこうだ。軍隊は砂に埋まってなどいない。戦いに負けたのだ。彼の議論の出発点は、アムヘイダで見つかった神殿の石材だった。そこには、それまでほとんど知られていなかった王の称号が刻まれていた。

ペトゥバスティス3世。ペルシア支配に反旗を翻し、紀元前522年から520年ごろに王を名乗ったエジプト人の反乱指導者である。このアムヘイダの建物は、ペトゥバスティス3世に帰される唯一知られている神殿だ。トト神のための建物だったらしい。カーペルはこれを、この人物がダクラ・オアシスに実質的な権力基盤を持っていた証拠だと読む。

ペルシア支配下のナイル河谷から遠く離れた砂漠のオアシスは、反乱の拠点として理想的だ。そこから彼は、ヘロドトスの記述を読み替える。軍隊は砂漠を「通過中」だったのではない。最終目的地はダクラ・オアシスだったのだ、と。つまりあれは神託所を焼きに行く宗教的な懲罰遠征ではなく、砂漠の反乱を叩き潰しに行く鎮圧作戦だった。

そしてペトゥバスティス3世は待ち伏せをして、ペルシア軍を打ち破ったのだ。この勝利によって彼はエジプトの相当な部分を奪回し、メンフィスでファラオを名乗ることができた。では、なぜこの戦いは歴史から消えたのか。ここがカーペル説の一番刺激的な部分だ。犯人はダレイオス1世である。

カンビュセスの死後に帝位を取り、二年ほどのちにエジプトの反乱を鎮圧した王だ。彼にとって、前任者の軍が現地の反乱者に叩き潰されたという事実は、ペルシアの軍事的威信にとって都合が悪すぎた。そこでその敗北を自然現象のせいにした。天災なら、誰の落ち度でもない。恥にならない。

そして七十五年後、この加工済みの物語がヘロドトスの耳に入った、というわけである。なお、ダレイオス1世がエジプトの民心を掌握するために宗教的な手段を使ったという伝承もある。後代の著述家によれば、彼は新しいアピス牛を見つけた者に金百タラントンを与えると布告し、それによって人心を得たという。そしてペトゥバスティス3世が敗れたあと、ダレイオスは反乱の痕跡を消しにかかった。

アムヘイダの神殿も、その一環として破壊されたと考えられている。カーペルはこの説を「発掘中に偶然たどり着いた」と語っている。ペトゥバスティス3世という人物についての情報が積み上がっていったところで、既知の歴史記録と組み合わさり、絵が一枚になった、と。

カーペル説の弱いところも、正直に言っておく

この説は非常に魅力的だ。物語としても切れ味がいい。だが、無条件で受け入れるべきものではない。第一に、これは「失われた軍隊そのものの発見」ではない。ペトゥバスティス3世がダクラに拠点を持っていたという考古学的事実からの推論である。

ペルシア軍とこの反乱王が実際に戦った、という直接証拠は出ていない。骨も、武器の集積も、戦場の痕跡も、碑文も、まだない。第二に、年代の噛み合わせが微妙だ。ヘロドトスが軍を送ったと書くのは、カンビュセスがエチオピア遠征に出る前後、紀元前525年から524年ごろ。一方でペトゥバスティス3世の反乱は、通常は紀元前522年から520年ごろ、つまりカンビュセスが死んだ後の混乱期に置かれる。

カンビュセスの死は紀元前522年だ。この二つの出来事を同じ事件として重ねるには、どちらかの年代を動かすか、ヘロドトスが二つの別の出来事を一つに融合して聞いたと仮定する必要がある。第三に、そもそも「ダレイオスが物語を作った」という部分を裏づける同時代史料がない。ベヒストゥーン碑文はダレイオスが鎮圧した反乱を列挙しているが、エジプトについて詳細は語らない。

「隠蔽された」ことの証拠を見つけるのは、原理的に難しい。だから研究者のなかにも、この説と距離を置く人は少なくない。ただし、この説がやったことには大きな価値がある。それは、この問題の焦点を「砂のどこを掘れば骨があるか」から「そもそもこの遠征の目的地はどこで、政治的文脈は何だったのか」へ動かしたことだ。考えてみてほしい。

カルガもダクラも、ペルシア支配下で神殿が建ち、水路が掘られ、町ができた場所である。ペルシア帝国はこのオアシス群を経営した。ということは、少なくとも彼らはここへの通り道と、ここでの支配の意味を、極めてよく理解していたということだ。帝国の統治者が「よく知っている場所」で、なぜ大軍が消える必要があるのか。ここは冷静に考える価値がある論点だ。

で、砂嵐は本当に軍隊を埋められるのか

物理の話をする。砂嵐の中核にあるのは、跳躍と呼ばれる現象だ。風が強くなると、地表の砂粒が振動し、やがて浮き上がる。浮き上がった粒は放物線を描いて落下し、着地の衝撃で別の粒を叩き出す。叩き出された粒がまた飛び、また叩き出す。

この連鎖が雪だるま式に増幅していくことで、あの砂の壁ができる。砂粒には二種類ある。跳ね回るタイプと、地表を這うように転がるタイプだ。目に見える砂嵐の大部分を構成するのは前者のほうである。2013年に発表されたある研究では、計算機シミュレーションで砂粒どうしの空中衝突を扱った。

直感的には、粒どうしがぶつかれば運動エネルギーを失って嵐は弱まりそうに思える。ところが結果は逆だった。空中衝突は砂の輸送量をおよそ三倍に増幅する。ピークが来るのは、衝突で粒が運動エネルギーの三割ほどを失う条件のときだった。研究者自身が「直感に反する」と述べている。

つまり、砂嵐というのは我々が素朴に想像するより、はるかに効率のいい砂の運搬装置だ。だが、それでも「五万人を立ったまま埋める」ことにはならない。砂嵐がやるのは砂の移動であって、埋葬ではない。風は砂を押して運ぶ。障害物があれば風下側に堆積させる。

しかしそれは、一回の嵐で人間の高さの砂を、数万人が展開している広い範囲に一様に積むということではない。砂丘の移動速度は年に数メートルという桁だ。ある一日の午後に、朝食中の軍団が丸ごと生き埋めになる、という絵は、砂の物理としては相当に無理がある。では、砂嵐は無害なのか。とんでもない。

砂嵐がやることは、もっと地味で、もっと確実に人を殺す。まず視界を奪う。奪われた視界のなかで、隊列は必ず分断される。羅針盤のない時代なら、方角の手がかりは太陽と星と地形だが、そのすべてが砂に消える。そして人間は、目印のない地形では自然に円を描いて歩いてしまう。

ボースウィックの隊が、まっすぐ北へ走っているつもりで東へ流れていたのと同じことが、徒歩の集団に起これば致命的だ。さらに水である。ある試算では、五万人規模の軍勢が冬でも一日に必要とする水は三万リットルを超える。一人あたり一日三リットルから四リットルという控えめな見積もりでもそうなる。夏ならもっと要る。

これを砂漠のなかで供給し続けるのは、事前に補給点を作らないかぎり不可能だ。そして砂嵐は、その補給点を「見つけられなくする」という形で機能する。水場を一つ見失う。それだけでいい。あとは、乾いた場所で人間がどうなるかという生理学の問題になる。

だから現在の落としどころは、おおむねこうだ。砂嵐が直接的な殺害手段だった可能性は低い。だが、遠征が破綻する引き金として砂嵐が関わった可能性は十分にある。そして「砂嵐が軍を埋めた」という一文は、その遅くて陰惨な崩壊の全体を、一つの劇的なイメージに圧縮した表現なのかもしれない。人は複雑な破滅を、単純な絵で記憶する。

それは古代でも現代でも変わらない。

五万という数字を、もう一度疑ってみる

数字の話をしよう。まず、ヘロドトスは実際に「およそ五万」と書いている。第三巻二十五節、テーバイで軍を割く場面だ。だから「五万という数字は後世の付け足しだ」という説明は正確ではない。原典にある。

問題は、原典にあるからといって信用できるとは限らない、ということだ。ヘロドトスの数字は、古典学の世界では長年にわたって疑いの目で見られてきた。特に大きな丸い数字については、誇張の傾向が繰り返し指摘されている。彼が伝えるクセルクセスの遠征軍の規模など、現代の研究者が真面目に受け取ることはまずない。しかもここに、気になる符合がある。

同じカンビュセスのエジプト征服に関して、別の古代の書き手が伝えるペルシオンの戦いのエジプト側戦死者数も、五万なのだ。同じ戦役をめぐる話のなかに、同じ「五万」が二回出てくる。これは偶然かもしれないし、古代の語りにおける「非常に大きな軍隊」の慣用的な単位が五万だった、ということの表れかもしれない。現実的な線を考えてみよう。仮に一万人の部隊だったとする。

それでも西方砂漠を横断するのは大事業だ。一日六千リットルの水が要る。もし五千人なら三千リットル。それでも駱駝と壺と補給拠点の大がかりな体系が要る。ここで、ペルシア帝国の実力を過小評価してはいけない。

彼らはシナイ砂漠をアラビアの部族と組んで越えてきた実績がある。カルガに地下水路を掘って町を作った実績もある。砂漠での兵站を組める帝国だった。だからこそ、「無謀な砂漠横断で全滅した」という筋書きには、ある種の据わりの悪さが残る。素人が無謀をやって死んだ話ではないのだ。

そして最後に、この事件をめぐる沈黙の問題がある。ペルシア側の記録に、この遠征への言及がまったくない。ベヒストゥーン碑文にも、行政文書にも出てこない。エジプト側の同時代碑文にもない。もし本当に五万の帝国軍が消滅したのなら、それは帝国史における巨大な出来事のはずだ。

この完全な沈黙は、「隠蔽されたから」とも読めるし、「規模がずっと小さかったから」とも読めるし、「そもそも起きていないから」とも読める。読み方が三つあるとき、たいてい真実はその混合物だ。

ネットの向こう側では何が言われているか

この話は、ネットのなかでも独特の熱を持って語られ続けてきた。議論の掲示板では、2009年の報道の直後から典型的な対立軸が出来上がった。片方は「イタリア人はショック映像で金を稼いできた連中で、金のために嘘をつくかもしれない」と言う。もう片方は「ハワスは金と権力と注目を欲しがる人物で、自分の管理外の発見を否定する動機がある」と返す。要するに、どちらの言い分を信じるかを決める根拠を、外野は持っていない。

議論のなかで繰り返し出てくる、鋭い指摘もある。ペルシアはエジプトを長期間支配したのだから、あの方角へ送られたペルシアの部隊は一つではないはずだ、というものだ。だとすれば、砂漠で見つかった数少ないペルシア風の遺物が、「まさにあの五万」のものである保証はどこにもない。別の年の、別の任務の、別の部隊の落とし物かもしれない。これはかなり効く反論だと思う。

もう一つよく出るのが、航法の疑問だ。星を読めない軍隊がいるだろうか、という声である。ペルシアは天文の知識を持つ文明圏だ。砂漠の夜空に雲はない。方角を失うというのは、それほど簡単なことなのか、と。

これに対しては、砂嵐の実体験のほうから答えが出る。星を読める人間がいても、砂で空が見えなければ意味がない。そして砂嵐は昼も夜も来る。擁護の側にも面白い論法がある。シュリーマンは叙事詩を信じてトロイアを掘り当てた。

エヴァンズは伝説を手がかりにクレタの宮殿を掘り当て、二人とも当初は笑われた。だから伝説を掘るという行為そのものを否定するべきではない、というものだ。ただしこの論法には、常に同じ反論がつく。エルドラドとアトランティスは、いくら掘っても出てこない。そして、こういう身も蓋もない声もある。

「あのテレビ番組は面白かったし、たとえ嘘でも別に損はしていない」。これはこれで、この種の話が持つ機能の一面を正直に言い当てている気がする。創作の世界でも、この軍隊は生き続けている。2002年には、この失われた軍隊を題材にしたイギリスの冒険小説がベストセラーになった。2017年に出た古代エジプトを舞台にした大型ゲームのなかにも、この軍隊が登場する。

ゲームのなかでは、ある学者が発掘現場を見つけた。だが、内戦のせいで調査が中断し、場所はふたたび失われた、ということになっている。この設定が皮肉が効いていて、なかなかいい。もっと古いところでは、十四世紀のイギリスの詩人がカンビュセスに言及している。飲酒の節度を説く文脈で、酔った勢いで軍を送った王の例として引かれているのだ。

中世ヨーロッパにおいてすら、この王の名前は「やりすぎた権力者」の代名詞として通用していた。

なぜこの話は二千五百年もつのか

最後に、この話の構造そのものについて考えてみたい。未解決の失踪譚は世界中にある。だがこの話には、いくつかの決定的に強い部品が揃っている。一つ目は、規模と痕跡の落差だ。五万という数字は、一つの都市の人口に匹敵する。

それが完全に消えて、遺物が一つも出ない。この「巨大さ」と「ゼロ」のコントラストが、脳に引っかかる。一人が消えても人は忘れる。五万人が消えて何も残らない、と言われると、忘れられなくなる。二つ目は、消えた場所の性質だ。

砂漠は「隠す」場所である。海も物を隠すが、海は流す。砂漠は積む。ということは、原理的には「今も、そこに、あるはず」なのだ。この「あるはずなのに見つからない」という状態が、探索という行為をいつまでも正当化してくれる。

誰も海底の砂を掘り返そうとは思わないが、砂漠なら掘れる気がする。この心理的な錯覚が、二千五百年ぶんの探検隊の燃料になっている。三つ目は、罰の物語としての完成度だ。神託所を焼こうとした王の軍が、神託所に着く前に天災で消える。因果応報として、これ以上ないほど整っている。

この形の整い方が、逆に史料批判的には警戒信号になるわけだが、物語としての生存力を保証してもいる。整った話は、語り継がれやすいのだ。四つ目は、単一史料であることだ。逆説的だが、これが効いている。証拠が一つしかないから、否定もできないし肯定もできない。

もし十の史料があって九つが矛盾していれば、話はとっくに整理されていた。たった一つの、しかも書いた本人が「伝聞だ」と断っている記述。この不安定さが、二千五百年間ずっと議論を宙吊りにし続けている。五つ目は、後から来た人間たちの物語が積み上がったことだ。これが実は一番大きいかもしれない。

飛行機でゼルズラを探したハンガリーの伯爵。壺の山を軍の水甕だと信じたドイツ人だ。二十五万ドルと超軽量機を持ち込んで、逮捕された挙句に機体を没収されたアメリカ人。ショック映像で名を成し、砂漠で銀の耳飾りを見つけた双子だ。全員をまとめて信用ならないと切り捨てたエジプトの権力者。

そして「そもそも砂嵐なんてなかった」と言い出したオランダの学者。紀元前六世紀の一段落が、二十世紀と二十一世紀の人間たちのドラマを次々に生成し続けている。もはやこの話の主題は、消えた兵士たちではなくなっている。消えた兵士を探す人間たちのほうが、主題になってしまった。そして砂漠は、今日も何も言わない。

念のために書いておくが、この記事を読んで西方砂漠へ行きたくなった人がいたとしても、装備と許可と現地の案内なしにあの地域へ踏み込むのは、絶対にやめたほうがいい。あそこは、二十世紀の完全装備の探検隊が何度も遭難しかけた場所だ。ここまで読んだ人なら、その理由はもう十分に理解しているはずだと思う。ここからは、本編で並べた材料を別の角度から組み直してみたい。同じ話を二度するつもりはない。

本編が「何が起きたか、誰が何を言ったか」の整理だったとすれば、こちらは「この話をどう読むべきか」の話になる。

一行の伝聞が、なぜここまで巨大化したのか

まず改めて確認しておきたいのは、この事件の一次史料の総量である。ヘロドトス『歴史』第三巻二十五節に、テーバイでおよそ五万を割いてアンモン人を奴隷にし、ゼウスの神託所を焼けと命じた、という一文がある。同二十六節に、その軍がテーバイから案内人を連れて出発し、砂の砂漠を七日行程で「オアシスの町」に着いたことは知られている、という記述がある。

そこから先については、アンモン人自身とアンモン人から聞いた者以外は何も言えない、と明記される。そしてアンモン人の言い分として、オアシスとアンモニアの中間あたり、朝食中に激しい南風が起こって砂に埋もれた、という伝聞が置かれる。最後に「これがアンモン人の語るこの軍についての話である」と閉じる。これが全部だ。日本語に訳して数百字。

この分量から、探検隊、大学、テレビ局、国家機関、小説、ゲームが枝分かれしていった。情報理論的に言えば、この記述は情報量が極端に少ない。だがそこが肝で、少ないからこそ、後から来る人間が自分の仮説を差し込む余地が無限にある。経路を差し込める。動機を差し込める。

規模を差し込める。原因を差し込める。ヘロドトスが埋めなかった空白の数だけ、二千五百年ぶんの解釈が生えた。伝説というのは、詳しく書かれた記録からは生まれない。書かれなかったところから生まれる。

ヘロドトスを擁護しておきたい

この記事の性質上、ヘロドトスの信頼性を疑う話をたくさんした。だから一度、逆側からも書いておきたい。彼を「嘘の父」と呼んだのはプルタルコスで、これは紀元一世紀の後知恵の批判である。一方でキケロは彼を「歴史の父」と呼んだ。どちらが正しいかという二択の話ではない。

大事なのは、ヘロドトスが何をやろうとした人なのか、という点だ。彼は、王の名前と戦争の年表を並べるだけの記録者ではなかった。行った先の民族の風習を書き、食い物を書き、埋葬の作法を書き、女の立場を書き、噂話を書いた。そのなかには金を掘る蟻や、身を隠す指輪や、山道を守る翼のある蛇のような、明らかに与太話も混じっている。だが彼はそれを与太話として排除する代わりに、「こう言われている」と札を貼って収録した。

この方法には、致命的な弱点と、決定的な強みが同居している。弱点は、彼の書物が嘘を大量に含むということだ。強みは、彼の書物が「当時の人々が何を信じていたか」を丸ごと保存しているということである。二十六節の砂嵐は、まさにその強みの側に属する記述だ。紀元前五世紀のエジプトの人々が、あの遠征についてどう語っていたか。

それは間違いなく保存されている。そこに実際の出来事がどれだけ含まれているかは別問題として、「語りの化石」としては本物なのだ。そしてヘロドトスは、そこに自分では手を加えなかった。加えていたら、たぶん彼は情報源を明示しなかっただろう。二重三重の予防線こそが、この記述の誠実さの証拠になっている。

もっと言えば、ヘロドトスが本当に不誠実な作家だったなら、この話はこんな形になっていない。もっと詳しく書かれていたはずだ。将軍の名前があり、生存者の証言があり、王の反応が書かれていたはずだ。それが一切ないという事実こそが、彼が「知らないことは知らないと書いた」ことの傍証になる。

三つの説を、公平に採点してみる

現在この事件を説明する主要な仮説は三つある。それぞれの強みと弱みを、なるべく感情を排して並べてみたい。第一の説は、伝統的な砂嵐説である。強みは、唯一の一次史料が実際にそう言っていること。そして、その現象自体は実在し、季節も地域も条件が揃っていることだ。

ハムシーンは春に来る。時速百四十キロに達する。視界を消す。羅針盤を狂わせる。だから物語の背景として、まったく荒唐無稽ではない。

弱みは、砂の物理が「立ったまま大量の人間を一度に埋める」というイメージを支持しないこと。そして、二十回以上の探索でただの一度も裏づけとなる遺跡が出ていないことだ。第二の説は、砂漠による緩慢な破滅説である。軍は出た。軍は死んだ。

だが劇的な埋葬ではなく、渇きと熱と迷走の積み重ねだった、という読み方。強みは、必要とする仮定が最も少ないことだ。特別な事件を必要としない。ただ、大人数を砂漠に入れたという事実だけで説明が成立する。しかも五万でなくても、一万でも五千でも同じ論理が働く。

弱みは、この説が何も予言しないことである。検証も反証もしにくい。そして、これも遺物が出ていないという点は共通の弱点だ。第三の説は、2014年のカーペル説、すなわち反乱軍による撃破と、後世の隠蔽である。強みは、実際の考古学的発見に基づいていること。

ダクラのアムヘイダで、それまでほとんど実体の分からなかった反乱王の神殿建築が出てきたのは、間違いなく大きな成果だ。そして、この説はペルシア側史料の完全な沈黙をうまく説明する。隠したのだから記録がないのは当然、という筋が通る。弱みは、年代の噛み合わせだ。反乱王の活動時期は通常カンビュセスの死後に置かれるので、この二つを同じ事件にするには追加の仮定がいる。

そして「隠蔽の証拠」を提出することは、原理的に極めて難しい。三つを並べると、面白いことに気づく。三つとも、決定的な物証を欠いているという点では同じ立場なのだ。差があるのは、必要とする仮定の数と、説明できる範囲の広さだけである。私見を書いてしまえば、第二の説と第三の説は排他的ではない。

ペルシア軍が砂漠のオアシスへ鎮圧に向かい、途中で兵站が破綻して戦闘力を失ったところを叩かれた、という筋書きは、両方を含む。そして、そういう複合的な破滅こそが、現実の軍事作戦が失敗するときの典型的な形だ。

「発見された」という発表を、どう扱えばいいのか

2009年の騒動から学べる一般的な教訓は、この題材を離れても使える。まず、発表の経路を見る。査読のある学術誌なのか、記者会見なのか、記録映画なのか。学術誌が万能だとは言わないが、少なくとも同分野の専門家が事前に目を通したかどうかは、決定的な違いを生む。2009年の件は、映画祭での上映が実質的な第一報だった。

次に、現地の学術行政との関係を見る。エジプトのように遺跡管理が厳格な国では、発掘許可の有無は形式的な問題ではない。許可のない調査で得られた資料は、出土状況の記録が公式には存在しないことになる。出土状況が分からない遺物は、年代も文脈も主張しにくくなる。次に、資料の保存状態を見る。

シャフェツが指摘した点は、実は技術的にかなり本質的だ。砂漠で二千五百年、風食に晒された骨がどうなるかというのは、実験的にも観察的にも検証できる話である。ジープの塗装が一時間で削られる環境を想定するなら、露出した骨は表面が粉状に崩れ、風上側だけが極端に削られた非対称な形になっているはずだ。写真の骨がそうなっていないなら、それはずっと最近まで砂に埋まっていたか、あるいは別の年代のものだ。

そして最後に、宣伝の存在を疑う。この件で最も繰り返された批判は、発見の発表が記録映画の公開時期と噛み合っていたことだった。これは「だから嘘だ」という証明にはならない。研究者が自分の成果を広めたいのは当たり前だし、記録映画は立派な発表媒体にもなり得る。だが、宣伝の必要がある発表は、その必要に合わせて表現が強くなる傾向がある。

この点は、受け手の側が割り引いて読むべき部分だ。ここまで書いておいて逆のことも言うが、カスティリオーニ兄弟の仕事が全部無価値だったとも思わない。南回りの経路仮説そのものは、検討に値する発想だった。オアシス伝いの北回りが敵性地域なら、南から回るという判断は軍事的に理解できる。そして、この砂漠に古い水甕の集積があるという事実は事実だ。

問題は、それらを「あの五万」に結びつける鎖の一本一本が、どれも証明されていないという点にある。

五万人が消えたという事実の、非対称な重さ

少し話の角度を変えたい。この題材を扱うとき、どうしても数字の話が中心になる。五万は多いか少ないか。水は足りるか足りないか。だが、この記事の材料を集めているあいだ、私がいちばん長く考えていたのは別のことだった。

それは、この五万人が誰だったのか、という話だ。アケメネス朝ペルシアの軍隊は、単一民族の集団ではない。帝国中から徴発された諸民族の混成部隊だった。エジプト遠征にもイオニア人やアイオリス人のギリシア人が加わっていたと、ヘロドトス自身が書いている。だとすれば、テーバイで西へ向かった部隊のなかにも、いろいろな人間がいたはずだ。

イラン高原の人間だけでなく、アナトリアの人間も、メソポタミアの人間も、そしておそらくエジプト人の案内人もいた。ヘロドトスは実際、彼らが「案内人を連れて」出発したと書いている。その案内人たちも消えたのだ。そしてもう一つ。カンビュセスがエチオピアへ連れて行った本隊の兵たちも、籤で一人ずつ食われた。

同じ王の、同じ判断の下で、同じ年に。片方は砂に消え、片方は互いを食った。どちらも、名前が一つも残っていない。歴史記述の非対称性というのは、こういうところに現れる。プサメティコス3世が乞食になった旧友を見て呻いた場面は、二千五百年後の我々まで届いている。

同じ本のなかで、五万人はたった一行で消える。物語として面白いディテールは残り、大量の死は数字になる。これは古代の記述法の欠陥ではなく、人間の記憶の仕組みそのものだと思う。だからこそ、この題材を扱うときに「五万人が消えた」という言い方をするたび、そこには五万個の個別の終わりがあったはずだ、という感覚は手放したくない。オカルト的な題材として消費するにしても、その一線は残しておきたい。

探し続ける人間たちについて

最後に、探索者たちの話をもう一度したい。この百五十年、西方砂漠には奇妙な人間が次々に入っていった。共通しているのは、全員が何かを「もう一度見つけ直そう」としていたことだ。ロールフスは砂の海を越えようとし、ゼルズラ・クラブの面々は、地図の白い部分そのものを敵にしていた。アルマーシーは空からしか見えない何かを追いかけ、砂漠にいるときだけ生きていたようなところがある人物だったのだ。

そして彼らの多くにとって、カンビュセスの軍隊は目的というより口実だった。あるいは、砂漠に入り続けるための正当な理由だった。学術的な目標があれば、資金が出る。スポンサーがつく。飛行機が買える。

地図が描ける。その副産物として、この砂漠は徹底的に調べ上げられた。地下の水位が測られ、砂丘の物理が解明され、先史時代の岩絵が発見され、緑のサハラの存在が証明された。ギルフ・ケビールの壁画に描かれた泳ぐ人物たちは、この砂漠がかつて水のある土地だったことを、どんな論文よりも雄弁に伝える。つまり、消えた軍隊は見つかっていないが、それを探した行為はまったく無駄になっていない。

これは重要な点だ。伝説を追いかけることの価値は、伝説が本当だったかどうかとは別のところにもある。そしてもう一つ、忘れがたい事実がある。バグノルドが砂丘を観察したのはゼルズラ熱の副産物だった。だが、彼が確立した吹送砂の理論は、後に火星の砂丘の解析にまで使われることになった。

幻のオアシスを探しに行った男が作った物理が、別の惑星の砂を説明している。砂漠は、探しに来た人間に、探していたものとは違うものを渡して帰す。この百五十年、それが何度も繰り返されてきた。

まだ砂の下にあるかもしれないものについて

現実的な見通しを最後に書いておく。もし本当に大規模な軍事的災厄が西方砂漠で起きていたなら、その痕跡は原理的には残り得る。金属は残る。骨も条件次第で残る。壺は確実に残る。

砂漠は保存に適した環境だ。問題は探索範囲の広さである。大砂海だけで七万二千平方キロメートル。カルガからシワまでの回廊も含めれば、探すべき面積は日本の本州と同等かそれ以上になる。近年は衛星画像と、砂の下を透視できる合成開口レーダーの技術が進歩している。

実際、サハラの地下に埋もれた古代の河床が衛星レーダーで検出された例はいくつもある。理論上は、金属の集積や、人工的な配置を持つ堆積を広域で探すことは以前より現実的になってきている。だが、その手の探索が抱える根本問題は変わらない。何を探せばいいのかが分からないのだ。整然と隊列を組んだまま埋まった五万人などというものは、たぶん存在しない。

もし何かが残っているとすれば、それは数キロから数十キロにわたって散らばった、ばらばらの小集団の痕跡だろう。行軍中に落伍した者、逃げた者、迷った者、水を探して散った者。そういうものは、地上を歩いても、上空を飛んでも、レーダーを当てても、見つけるのが極めて難しい。そして、もっと厄介な可能性もある。仮に何かが見つかったとして、それが「あの遠征のもの」だと証明する方法があるのか、という問題だ。

ペルシア風の矢尻が出たとしても、ペルシアはその後二百年近くこの地域を支配した。年代測定の誤差は数十年から百年単位で出る。特定の一度の遠征に紐づけるには、決定的な何か――たとえば固有名や日付を含む文字資料――が要る。砂漠でそれが出る確率は、決して高くない。だから、この話は当分終わらない。

証明も反証もされないまま、次の世代が次の仮説を持ち込んで、また誰かが砂漠へ入っていく。紀元前五世紀のギリシア人が書いた数百字が、まだ働いている。それ自体が、そこそこ異常なことだと思う。

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