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真っ白なニワトリは生きていたのか――広島・中島本町、爆心直下の動物たち

幽霊も呪いも出てこない話をひとつ。それなのに、読んだあとしばらく頭から離れない。そういう種類の話が、たまにある。

一九四五年八月六日の夜から七日の晩にかけて。広島の中島本町周辺へ家族を探しに向かった人、あるいは避難の途中でその一帯を通りかかった人が、焼け跡で真っ白なニワトリが一羽生きているのを見た。複数の書籍に、そう記されているという。

この目撃談を紹介した投稿者は、続けてこう問いかけている。被曝した人間以外の動物の話も、あまり聞かない。長崎か広島で被曝した馬の写真は見た覚えがあるが、動物自体が少なかったのか、それとも気にかける余裕がなかったのか、と。

短い問いだ。だがその背後には、人類が初めて経験した核兵器の爆心直下という極限の環境で、生命がどう扱われ、どう記録されたのかという、重たい謎が横たわっている。

死亡率ほぼ百パーセントの町

まず、中島本町という場所がどれほどの破壊にさらされたかを押さえておきたい。

中島本町は、現在の広島平和記念公園一帯にあった商店街だ。元安川と本川に挟まれた中島地区の最北部に位置する。爆心からの距離はわずか数百メートル。広島市公文書館に寄贈された写真資料によれば、ここは商店や住宅がひしめき合う、広島を代表する繁華街だった。千三百三十世帯、およそ四千三百七十人が暮らしていたという推計もある。

爆心地から半径五百メートル以内では、被爆直後の死亡率がほぼ百パーセントに達したとされる。中島本町に居住していたことが確認された四百三十五人のうち、昭和二十年末までに三百五十二人が亡くなったことが分かっている。

この地区で人間の「奇跡的生存者」として知られるのは、大正屋呉服店の地下室にいた一人だけだ。現在は広島平和記念公園レストハウスとして保存されているこの建物の、分厚いコンクリートの地下。爆発の瞬間、たまたま用事でそこにいた女性職員が、命をつないだ。

人間ですらこの生存率だった場所で、遮蔽物もなく屋外にいたはずの一羽の鶏が生きていた。目撃者にとっても、後世の私たちにとっても、にわかには信じがたい光景である。

焼け跡を、とぼとぼ歩いていた

語られている情景を、もう少し具体的にたどってみたい。

八月六日午前八時十五分。中島本町の空は一瞬にして光に満たされ、次の瞬間には何もかもが炎と粉塵の中へ消えた。爆発から数時間後、あるいはその日の夜から翌七日の夜にかけて、家族の安否を確かめようと、あるいは避難先を求めて、この一帯を通りかかった人々がいた。

焼け落ちた家々の骨組みと、黒く炭化した瓦礫が延々と続く光景。その中で、ある人はふと足を止めたという。

一羽の真っ白なニワトリが、瓦礫の間をとぼとぼと歩いていた。あるいは、じっと蹲っていた。

羽根一枚焦げた様子もなく生きている白い鶏。人間ですらほとんどが即死し、生き延びた者もその日のうちに、あるいは数日のうちに命を落としていった場所で、その姿は目撃した者の記憶に強く焼き付いたのだろう。この目撃談は、複数の被爆体験の記録集や回顧録に、ごく短い挿話として書き留められていると伝えられている。

記録に残った動物たち――馬と、似島の検疫所

投稿者が触れているとおり、長崎では被爆した馬の写真が現存している。火傷を負いながら力なく佇む馬の姿を捉えた一枚は、昭和館のデジタルアーカイブをはじめとする複数の資料館に、放射能に焼かれた馬として収蔵されていると伝えられる。

広島でも、動物の被爆を示す記録が皆無だったわけではない。広島湾に浮かぶ似島は、爆心地から南へ約九キロの距離にありながら、爆風と熱線の被害を受けた。爆発直後からは約一万人ともいわれる被爆者が船で運び込まれ、臨時の救護所として機能した島でもある。

この似島には、日露戦争の時代から陸軍の検疫所が置かれ、大陸から帰還する軍馬を検疫するための施設が存在していたと伝えられる。では、原爆投下の当日、この島にどれだけの馬たちがいたのか。そのすべてが生き延びたのか、犠牲になったのか。人間の被爆者救護の記録に埋もれる形で、体系的な調査はほとんど残されていない。

証言も記録も自ら残せない存在の被爆は、人間の圧倒的な犠牲の陰で、記録に残る機会そのものが少なかった。

生き残った樹と、鳥類の空白

爆心地付近で生き延びたものといえば、まず語られるのが植物だ。

爆心地から約百七十メートルという至近距離で被爆しながら、鉄筋コンクリートの強固な構造に守られて全壊を免れた建物がある。その周辺では、焼け焦げた幹からやがて新芽を吹き返したユーカリやマルバヤナギなどが被爆樹木として今も保存され、広島市が公式にリストを作成して管理を続けている。絶望の中でも命が続いていくことの象徴として、平和学習の重要な題材になっている。

一方、動物、とりわけ鳥類や小動物についての体系的な記録は、植物に比べてはるかに乏しい。羽をもつ鳥は熱線と爆風から逃れる術をわずかに持っていた可能性があるという見方もあるが、これは推測の域を出ない。

ここで押さえておきたいのは、記録がないことは存在しなかったことを意味しない、という一点だ。爆心地付近の人間の生存率自体がほぼゼロだったのだから、小さな鳥が一羽生き延びたとしても、それを目撃し、記録し、伝える人自体が極めて少なかった。

なぜ「真っ白」だったのかが引っかかる

ニワトリが真っ白だったという細部も、なんとも言えず引っかかる。

放射線の影響で白化個体が生じるという議論は、後年のチェルノブイリ原発事故周辺の野生動物研究などでもたびたび取り上げられてきたテーマだ。ただし広島のこの一羽について、そうした因果関係を学術的に立証することは、現在では事実上不可能である。

それでも、日本の民俗では白い動物、とりわけ白い鶏や白蛇は古くから神聖視されてきた。神の使い、あるいは吉兆の象徴とされてきた歴史がある。焼け野原という地獄のただ中に、忽然と現れた白い命。それは目撃者にとって、生物学的な驚きを超えて、ある種の救いや希望の徴として胸に刻まれたのかもしれない。

「怖い話ではないのに、胸を突かれる」

この白いニワトリの話は、単独のエピソードというより、原爆の焦土で語られる「生き残った命」をめぐる一群の物語の一つとして位置づけられる。

似た構造の話はいくつもある。爆心地近くの防空壕や地下室でかろうじて命をつないだ人々の証言。瓦礫の下から数日後に救出された赤ん坊の話。被爆樹木がその後何十年もかけて再び大樹へ育っていった経過。

オカルト考察系のまとめサイトや個人ブログでは、この鶏の話について「幽霊も呪いも出てこない、それだけに逆に忘れがたい」という感想が多く見られる。派手な怪異譚が並ぶ掲示板の中でも異彩を放つ投稿として、静かに支持を集めてきた。

中には「白い鶏は、亡くなった住民たちの魂が姿を変えたものではないか」という民俗的・霊的な解釈を加える書き込みもある。ただしこれは後年の読者による想像であり、目撃談そのものにそうした含意が記されているわけではない。「本当に無傷で生きていたのか、それとも瀕死の状態だったのを見間違えたのではないか」という、証言の細部に踏み込んだ検証的なコメントも見られる。

証言というものの記憶の揺らぎについて、考えさせる材料でもある。

記録の隙間から、すくい上げられた命

この逸話を、他の断片的な記録と並べてみると、また違った風景が見えてくる。

広島市中区の本川沿いには、爆心地から約一・三キロの距離で被爆しながら生き延びた被爆アオギリが、今も枝葉を茂らせている。平和記念公園に植え継がれたその二世木は、毎年八月六日の平和記念式典でも紹介される、広島の平和学習の象徴的な存在だ。

爆心地からさらに離れた場所では、熱線や爆風の直接の被害を免れた家畜が生き延びた例も伝えられている。戦後になって当時を知る人々が「うちの牛は無事だった」「裏の犬は数日後に戻ってきた」といった証言を寄せる例が、広島市などが継続してきた被爆体験証言の記録事業の中に散見される。

いずれも大きな注目を集めることのなかった、いわば記録の隙間に落ちた小さな生存の記憶だ。真っ白なニワトリの目撃談も、その隙間からかろうじてすくい上げられた一片である。

八月が近づくたびに、この話は蘇る

インターネットでは、八月六日の広島原爆の日が近づくたびに、被爆体験や被爆建物・被爆樹木にまつわる話題が繰り返し共有される。その中で、動物の被爆にまつわる逸話が話題に上ることも少なくない。

とりわけこの真っ白なニワトリの話は、オカルト・都市伝説系の掲示板発でありながら、幽霊や怪異の要素を一切含まない。だから、通常の怖い話のスレッドとは違う読まれ方をしている。

寄せられる感想も独特だ。「怖い話ではなく、静かに胸を突かれる話」「動物には戦争も国境もないのに、人間の作った兵器に巻き込まれたと思うとやりきれない」。単なる不思議な目撃談としてではなく、戦争と生命をめぐる普遍的な問いかけとして受け止められている。この受け止められ方の幅広さも、他の怪異譚にはない特徴だ。

失われた町の記憶をつなぐ人たち

中島本町があった一帯は、現在は広島平和記念公園として整備され、かつての商店街の街並みは完全に失われている。

それでも、元住民やその遺族による証言活動、被爆前の写真を手がかりに当時の生活を復元しようとする市民団体の取り組みが、今日まで続けられていると伝えられる。そうした証言の中で語られる被爆前の中島本町は、映画館や商店が軒を連ね、多くの子どもたちが元気に走り回っていた、活気ある町だったという。

その日常が一瞬で奪われたことの重みを思うとき、「白いニワトリを見た」というわずか数行の目撃談は、失われた命の圧倒的な数の陰にかき消されがちな、小さな、しかし確かに存在した命の記憶を、かろうじて今に伝える貴重な断片になる。

人間の言葉を持たない生き物たちが、あの日、あの場所で何を見て、何を感じていたのか。それを想像することもまた、あの戦争とそこで亡くなったすべての人々を語り継ぐ、ひとつの静かな方法なのだと思う。

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