水中遺跡
長崎県松浦市鷹島沖の鷹島神崎遺跡は、1281年弘安の役で沈没した元軍船と積載品を伝える。2012年、日本初の海底遺跡の国史跡となった。陶磁器、碇、武器・武具、「てつはう」、船材、パスパ文字の管軍総把印などが確認される。
船体発見
2011年に1号沈没船、続いて2号船、2024年10月に3号沈没船が確認された。3号船は2025年度も竜骨・接合部などの調査が継続され、全容は未解明。水中では木材保存が可能な一方、引揚げ後の脱塩・保存処理が長期課題となる。
「神風」の再検討
暴風雨が船団に甚大な被害を与えたことは文献・遺跡双方から重要だが、敗因を台風一因に還元しない。船の構造・停泊地・指揮系統、日本側の戦闘、疫病・補給、東路軍・江南軍の合流を検討する。船がすべて粗製だったという俗説も、各船体の実測なしに一般化できない。
公的資料
- 松浦市・鷹島神崎遺跡
- 松浦市・鷹島1号沈没船
- 松浦市・鷹島3号沈没船
- 国指定文化財等データベース・鷹島神崎遺跡
最終確認:2026-07-19。
海底に残った弘安の役
長崎県松浦市の鷹島は、伊万里湾口に近い島である。その南岸、神崎免の沖合には、陶磁器、碇石、武器、船材などが広い範囲に沈んでいる。これが鷹島神崎遺跡だ。遺物の年代と種類、文献に記された戦場の位置から、1281年の弘安の役で失われた元軍船団に関わる水中遺跡と考えられている。
蒙古襲来は文永11年(1274年)の文永の役と、弘安4年(1281年)の弘安の役の二度に分けられる。二度目の遠征では、朝鮮半島を主な出発地とする東路軍と、南宋の旧領を主な基盤とする江南軍が日本へ向かった。『元史』などの文献が記す兵数、船数をそのまま正確な実数とみなせるかは議論があるものの、大規模な海上遠征だったことに疑いはない。博多湾で日本側と戦った後、元軍の船団の一部は鷹島周辺へ集結し、暴風雨で甚大な損害を受けた。
従来、この出来事は「神風が日本を救った」という短い物語で語られることが多かった。だが、海底に残った船と積載品は、嵐だけでなく、船団の構成、航海技術、兵站、停泊の仕方、戦闘の推移まで検討できる資料である。水中考古学が文献の外側から弘安の役を読み直している。
漁師が知っていた海の遺物
鷹島周辺では、漁の網に壺や碇石などが掛かることが以前から知られていた。地元で「蒙古塚」や元寇に結びつく伝承が残ったのも、海から実物が上がる土地だったことと無関係ではない。組織的な調査は1980年に始まり、海底の地形、遺物の分布、堆積層を確認する作業が重ねられた。
陸上の遺跡なら、区画を設定して土を薄く掘り、遺物の位置を測量する。水中でも基本は同じだが、視界、潮流、潜水時間という制約が加わる。遺物だけを拾い上げてしまうと、どの層のどの位置に、何と一緒にあったのかという情報が失われる。調査員は海底に基準線や区画を設け、砂や泥を除きながら写真、映像、実測図を作る。近年は音波探査、三次元計測、写真測量も用いられ、船体を解体せずに形状を記録できる範囲が広がった。
2012年3月、神崎免沖の約38万平方メートルが「鷹島神崎遺跡」として国史跡に指定された。海底遺跡としては日本初の国史跡である。指定は、価値の高い品が見つかったというだけではなく、遺物と船体、海底地形をまとまりとして保存する必要が認められたことを意味する。
三隻の沈没船
2011年に確認された鷹島1号沈没船では、船底付近の部材が海底下に残っていた。船体を横断する隔壁、外板などから、中国で発達した造船構造との関係が検討された。積載品や周辺遺物も含め、単なる漂着材ではなく船としてのまとまりを判断できた点が大きい。
その後、2号沈没船が確認され、2024年10月には3号沈没船が見つかった。松浦市の公表によれば、3号船は遺跡東側、近くの海岸から約150メートル、2号船の南約50メートル、水深約18メートルに位置する。船底や隔壁板のほか、白磁の皿、褐釉陶器、銅製品、鉄製品、墨書のある木板などが確認された。2025年度の調査では、船の背骨に当たる竜骨と接合部が調べられた。全体像はまだ分かっておらず、船の規模や構造について確定的な復元図を描ける段階ではない。
「三隻見つかった」という言葉から、三隻が横一列に完全な姿で沈んでいる場面を想像すると実態から離れる。木造船は沈没後に崩れ、海底表面に出た部分は生物による食害や波浪で失われる。残っているのは泥に覆われ、酸素の少ない環境で保存された船底部が中心だ。別々に見える船材が同じ船に属するか、どの時点で移動したかも、木材の接合、方向、遺物分布を調べて判断する。
船は本当に「粗製乱造」だったのか
元軍が敗れた理由を説明する説の一つに、江南軍の船が急造された川船で、外洋に向かない粗悪な船だったというものがある。南宋征服後に多数の船と水夫を動員したこと、短期間で遠征準備が進められたことは文献から検討できる。しかし、船団全体を同じ品質の「粗製船」と呼ぶことはできない。
鷹島で見つかった船体は、隔壁で船内を区切る構造や、竜骨、外板の接合など、具体的な造船技術を示す。東路軍と江南軍では出発地も船の用途も異なり、軍船、輸送船、徴発船が混在した可能性が高い。一隻の構造を船団全体へ一般化することも、逆に頑丈な部材があるからすべて優秀だったと評価することも避けなければならない。
石製の碇と木製部材の組み合わせは、船がどのように停泊していたかを考える材料になる。多数の船が沿岸へ密集して停泊していれば、暴風時に船同士が衝突し、碇が効かず、岸へ打ち寄せられる危険が増す。嵐に耐えられるかどうかは船体強度だけでなく、停泊地の地形、風向、波、積載量、乗員の技量、退避する余地に左右される。
出土品が語る船上の生活
鷹島の遺物は戦闘用具だけではない。刀剣、冑、矢束などの武器・武具に加え、中国産の陶磁器、調理や貯蔵に使う容器、生活用具、木製品がある。軍隊は武器だけで航海できず、食料、水、燃料、修理道具を運ぶ必要がある。器の産地や内容物を調べることで、物資がどこで積み込まれ、誰に供給されたのかを探れる。
青銅製の印章「管軍総把印」は、軍の組織を示す文字資料として知られる。パスパ文字が刻まれた資料も、元朝の行政と多民族的な軍隊を考える手掛かりになる。ただし、印章が一つ出たから、その場所に特定の司令官の船が沈んだと即断はできない。印は持ち運ばれ、沈没時に元の所在から動くこともある。器物の名称と官職制度を文献で照合し、周囲の遺物との関係を見る必要がある。
「てつはう」と呼ばれる球形の陶製品も注目されてきた。『蒙古襲来絵詞』には爆発物らしい表現があり、鷹島では火薬兵器に関係するとみられる遺物が出土している。内部物質の分析や構造の研究は、東アジアで火薬兵器がどのように使われたかを考える重要な材料だ。一方、絵巻の描写を現代の手榴弾と同じものと見なし、威力や使用法を断定するのは慎重であるべきだ。
「神風」をどこまで説明に使えるか
弘安の役の終盤に暴風雨が船団を襲ったことは、日本側、元側の文献と海底遺跡の双方から重視される。天候が大損害を生んだことまで否定する理由はない。しかし、元軍は嵐が来るまで順調に日本を制圧していたわけではない。博多湾岸では防塁を利用した日本側の抵抗を受け、上陸と補給に難しさがあった。東路軍と江南軍の合流時期、指揮の統一、長期間の船上生活、疫病や食料事情も遠征の行方に影響した。
「神風」という言葉は、後世に政治的、宗教的な意味をまとった。中世の寺社は祈祷の功績を主張し、近代には国家を神が守るという物語の象徴にされた。実際の暴風雨と、それを神威として説明する思想は分けて読む必要がある。台風の進路を現代の気象モデルで再現する研究もあるが、13世紀の観測記録は限られ、発生日時、中心位置、風速まで一つの答えに固定できるわけではない。
海底遺跡が突きつけるのは、「嵐か戦闘か」という二者択一ではない。戦闘で行動を制約された船団が、特定の海域へ集まり、補給や指揮に問題を抱えた状態で暴風雨を受けた可能性を検討できる。自然現象と人間の判断が重なって災害になるという見方である。
引き揚げた後の長い仕事
海底の泥に埋もれた木材は、水を含んだ状態では形を保っていても、引き揚げて乾かすと縮み、割れ、崩れる。塩分を含む金属や陶磁器も、乾燥によって結晶が成長し損傷することがある。水中遺物は発見した瞬間が保存の始まりであり、脱塩、薬剤含浸、温湿度管理などに長い年月と費用が必要になる。
だから、船体をすべてすぐ陸上へ移せばよいとは限らない。現地で埋め戻して安定させ、必要部分だけを調査し、将来の技術に託す判断も保存である。観光資源としての公開と、学術調査、遺跡保護の均衡も課題になる。鷹島3号船の全容がまだ発表されていないのは、調査が遅れているからではなく、壊さず記録する作業が続いているからだ。
鷹島神崎遺跡の価値は、元寇船を一隻見つけたという話にとどまらない。同じ海域に複数の船体と大量の積載品が残り、文献に記された大事件を物質資料から検証できる。今後、木材の樹種、年代、産地、船ごとの構造差、陶磁器の組成が明らかになれば、船団がどこで造られ、どのような役割を担ったかという問いにも、新しい輪郭が現れるだろう。
遠征を生んだ東アジアの情勢
二度の襲来を、日本と「蒙古」だけの戦いとして描くと、船団の複雑さが見えなくなる。クビライのもとで元朝は勢力を広げ、高麗を服属させ、南宋との戦争を続けていた。日本への使節は、服属を求める国書を携えて複数回来航した。鎌倉幕府が正式な国交を結ばないまま警戒を強める一方、元朝側では航海経験のある高麗の人々、旧南宋地域の船・水夫・兵士を大規模に動員して遠征を組み立てた。
弘安の役の東路軍と江南軍は、同じ言語・経歴を持つ均質な集団ではない。軍事的に元朝へ組み込まれた地域の人々も含まれ、遠征への参加意思や指揮系統にも差があったと考えられる。海底から出る器や印章、船の構造差は、単なる「敵の道具」ではなく、帝国が異なる地域の資源と人員をどう束ねたかを調べる資料になる。
日本側も一枚岩ではなかった。鎌倉幕府は九州の御家人へ異国警固番役を課し、文永の役の後には博多湾岸へ石築地を整備した。戦闘の恩賞を得るため、武士は自らの働きを記録し、証人を確保しなければならなかった。『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長がその戦功を訴える文脈で作られたため、当時の装備や戦闘を知る貴重な絵画資料であると同時に、一人の御家人の視点を持つ。絵巻一巻を戦場全体の実況映像のように扱うことはできない。
沈没後に遺跡ができるまで
船が沈んだ位置と、八百年後に部材が見つかる位置は必ずしも一致しない。沈没時の衝撃で積載品が散り、船体が傾き、軽い物は潮流で運ばれる。海底へ露出した木はフナクイムシなどの生物に損なわれ、泥に早く埋まった部分ほど残りやすい。後世の嵐、漁具、投錨も遺物の配置を変える。水深や堆積速度の違いによって、数十メートルの範囲でも保存状態が変わり得る。
そのため、陶磁器が集中する場所をただちに一隻の積荷置場とは決められない。器の破片が接合するか、船材と同じ層にあるか、器種と年代がそろうかを調べる。船体番号は調査上区別された遺構を指し、遠征当時に付けられた船名ではない。新しい船体が確認されるたびに、以前の分布図や海底地形と結び直す作業が生じる。
木材の年代測定にも読み方がある。年輪年代法や放射性炭素年代測定は伐採時期を絞る手掛かりになるが、古い材の再利用や、幹の外側が失われた場合には建造年とずれる。樹種や加工痕、釘・鎹の使い方、隔壁の組み方まで合わせて、造船地域と船歴を検討する。一本の年代値だけで「弘安四年に建造された」と言い切れないのは、陸上の木造建築と同じである。
海底に残すことも保存である
水中遺跡では、発見物を引き揚げて博物館へ運ぶことだけが成果ではない。海底での位置と向き、周囲の堆積、ほかの遺物との距離は、物そのものと同じほど重要な情報である。記録を終えた区域を保護材で覆い、埋め戻して酸素や生物の影響を減らす方法は、見栄えこそ地味だが有効な保存策になる。
遺跡が国史跡に指定されたことで、海底は自由な宝探しの場所ではなく、文化財として保護される範囲になった。陶磁器一片でも、無断で持ち帰れば分布情報が失われる。ダイビングや漁業と遺跡保護を両立させるには、地元の漁業者が長年蓄積した海況の知識も欠かせない。最初の手掛かりを知っていた漁師と、潜水調査、保存科学、文献史の協力によって、鷹島の海は戦場跡から研究可能な遺跡へ変わった。
将来、三隻の構造差が詳しく分かれば、東路軍と江南軍の船を物的に識別できる可能性がある。ただし、出発地の異なる船が同じ海域へ集まり、物資を積み替えたなら、器の産地だけで所属を決めるのは難しい。新発見は一つの説を即座に証明する答えではなく、比較できる船体が増えることに価値がある。複数隻を同じ方法で測り、異なる点と共通する点を確かめて初めて、「元軍船」という大きなくくりの内側が見えてくる。
参照資料
- https://www.city-matsuura.jp/top/kanko_bunka/rekishi_bunka/takashimachikunorekishi_bunka/2625.html
- https://www.city-matsuura.jp/top/kanko_bunka/rekishi_bunka/takashimakaiteiiseki/2073.html
- https://www.city-matsuura.jp/top/soshikikarasagasu/kyoikuiinkai/bunkazaika/5/3/9084.html
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00003771
- https://sitereports.nabunken.go.jp/
