高さ十四センチ。手のひらに載る、なんの変哲もない素焼きの壺。うわぐすりもかかっていない、ざらついた表面。その中に、銅を丸めて筒にしたものが入っていて、さらにその筒の中に鉄の棒が一本、まっすぐ差し込まれている。上も下も、真っ黒なアスファルトでべったり封じられている。
これがバグダッド電池と呼ばれているものだ。二千年近く前のイラクの土から出てきた、ただの壺。だけどこの壺は、九十年近くにわたって世界中の人間を悩ませ、興奮させ、そして何度も何度も作り直されてきた。電池だと言われ、違うと言われ、また電池だと言われる。そのたびに誰かがレプリカを作って液体を注ぎ、電圧計の針が動くのを見て息を呑んできた。
そして肝心の現物は、いま、どこにあるのか誰も知らない。
これから、その九十年をまるごと追いかける。誰が何を見つけて、誰が何を主張して、どの実験で何ボルト出て、どこで話がねじ曲がって、専門家が何を根拠に首を横に振っているのか。全部書く。結論を先に言っておくと、いまの考古学の世界でこれを本気で電池だと思っている人は、ほとんどいない。でも、その「ほとんどいない」に至るまでの道のりが、めちゃくちゃ面白いのだ。
素焼きの壺の中に、なぜ銅と鉄が入っていたのか
話は一九三〇年代のイラクから始まる。場所はバグダッドの郊外、ホイヤットランプアと呼ばれる小さな遺丘だ。中東の平原にぽつぽつある、人が何百年も住み続けた結果としてできた人工の丘である。掘れば下から下から古い層が出てくる。あのあたりは、ちょっと南に行けばティグリス川沿いのセレウキア、東に行けばパルティアとサーサーン朝の都だったクテシフォン。要するに、古代の大都市圏のど真ん中だ。
発見年は一九三六年と言われることが多い。ただし一九三二年という説もあって、この時点ですでに記録が怪しい。出土した場所は民家の跡で、しかもその壺は、呪文が書かれた鉢と一緒に置かれていた。この「一緒に置かれていた」というのが、後で効いてくる伏線だ。覚えておいてほしい。
壺そのものは黄色っぽい素焼きで、高さが十四センチ前後。中に入っていた銅の筒は、直径が二十六ミリ、長さが九センチほどで、底は塞がっている。銅板を丸めて筒にして、合わせ目をはんだで留めてあった。このはんだの成分が、錫と鉛をだいたい六対四で混ぜたもの。現代の電子工作で使われていた合金比とほぼ同じで、後年の技術誌がこの一致に妙にはしゃいだのも無理はない。
筒の中の鉄の棒は、ひどく腐食していた。何かの化学作用を受けたように、表面がぼろぼろになっていた。そして筒の口と、壺の口を、アスファルトが塞いでいた。この地域では原油が自然に地表に染み出してくるので、アスファルトは古代からありふれた建材だった。防水にも接着にも使う、いわば当時のシリコンコーキングみたいなものである。
壺の底には、かつて何か液体が入っていた痕跡が残っていた。分析すると酸性のものだったらしい。酢か、ワインか、あるいは何か別のものか。二千年のあいだにすっかり乾ききっているので、正体は誰にも分からない。
さて。銅と鉄という異なる二種類の金属。それを隔てる構造。そして酸性の液体の痕跡。理科の授業でレモンに銅板と亜鉛板を刺したことがある人なら、ここで背筋がぞわっとするはずだ。これは、電池の材料表そのものじゃないか。
「これは電池だ」と言い出した男は、じつは画家だった
その背筋のぞわっとを、最初に活字にしたのがヴィルヘルム・ケーニヒというドイツ人だった。彼はイラク国立博物館とバグダッドの古物管理局で働いていて、一九三四年には局長の立場にあった。ドイツから中東に渡り、遺物の整理と保存に携わっていた人物だ。
ケーニヒは一九三八年から三九年にかけて、この壺を「ガルバニ電池の一種ではないか」とする論文を書いた。ガルバニ電池というのは、性質の違う二種類の金属を電解液に浸すことで電気を生む装置のこと。アレッサンドロ・ボルタが十八世紀末にボルタ電堆を発表して電池の時代が始まったとされている。ケーニヒの主張が正しければ、その千八百年も前にメソポタミアの職人が同じ原理にたどり着いていたことになる。
ただし、ここで一つ、けっこう大きな注意書きがつく。ケーニヒの本職は画家だった。考古学の専門教育を受けた人ではない。博物館の運営には携わっていたし、遺物には日々触れていたけれど、発掘記録を読み解いて年代を決める訓練を積んだ研究者ではなかった。
もっとやっかいなのは、彼がこの壺を発掘現場で自分の手で掘り出したのか、それとも博物館の地下収蔵庫で部品としてバラバラになっているのを見つけて組み立てたのか、証言が食い違うことだ。「ホイヤットランプアの墓から出土した」という話と、「博物館の地下で見つけた」という話が、両方とも文献に残っている。同じ一つの遺物について、由来が二通りある。これは相当まずい。
ペンシルベニア大学博物館の考古学者ウィリアム・ハフォードは、この点を最も鋭く突いている。彼が指摘するのは、後世の再現実験がすべて、ケーニヒが一九三〇年代に描いた一枚の復元図をもとにしている、という事実だ。その図は、壺と銅筒と鉄棒を「電池として成立する形」に組み立てて描いてある。だからその通りに作れば、そりゃあ電池になる。当たり前だ。
問題は、ケーニヒが壺の中身を完全な状態で、しかも本来の出土状況のまま見たわけではない、というところにある。彼は「これは電池だ」と信じていた。信じていた人間が、信じた通りの絵を描いた。そしてその絵が、九十年ぶんの実験のたたき台になってしまった。
さらにケーニヒは、自説を補強するために妙な話を持ち出している。バグダッドの銀細工師たちが、当時、原始的な湿式の金メッキ法を使っていて、その起源は誰にも分からない、というのだ。ケーニヒはこれを「古代から伝わった秘伝ではないか」と匂わせた。この件については後でひっくり返すので、これも覚えておいてほしい。
一九四〇年、アメリカの技師が壺に液体を注いだ
ケーニヒの論文はドイツ語で発表された。そしてそのすぐ後に第二次世界大戦が始まる。学術的な議論は吹き飛んだ。
だけど、話は別のルートで海を渡った。ドイツから逃れていた科学ライターのヴィリー・レイが、ケーニヒの主張をアメリカの読者向けに紹介したのだ。しかも紹介先が、一九三九年三月号の『アスタウンディング・サイエンス・フィクション』。SF雑誌である。学術誌ではない。この時点ですでに、バグダッド電池は「科学的発見」より「わくわくする読み物」の側にいた。
その記事を読んだ一人に、マサチューセッツ州ピッツフィールドのゼネラル・エレクトリック高電圧研究所に勤める技師、ウィラード・グレイがいた。彼は職業柄、電気のことなら分かる。そして、記事に載っていたケーニヒの図を見て、こう思ったはずだ。作ってみればいいじゃないか。
グレイはレプリカを組み立てた。壺を用意し、銅の筒を作り、鉄の棒を通し、封をした。本物はアスファルトで塞がれていたが、彼はそれを再現できなかったので、代わりに黒い封蝋を使っている。そして電解液として硫酸銅の溶液を注いだ。
針が振れた。
グレイの報告は控えめだった。しばらくのあいだはかなりうまく動いた、というような書き方だ。数値としてはおよそ〇・五ボルト。乾電池一本の三分の一。豆電球すら点かない。でも、ゼロではなかった。ケーニヒの図の通りに組めば、確かに電気は流れる。これが最初の独立した確認だった。彼が作った模型は、ピッツフィールドのバークシャー博物館に収められている。
後年、グレイはブドウ果汁を使った試験も行っていて、そちらでは二ボルト近い数字が報告されている。電解液を変えれば数字は動く。この「電解液しだいでいくらでも変わる」という性質が、後の議論をずっと混乱させることになる。
ここで一つ、はっきりさせておきたいことがある。グレイの実験が証明したのは「銅と鉄と酸性の液体があれば電気は起きる」という、中学理科レベルの事実だけだ。それは古代の壺が電池だったことを一ミリも証明していない。同じ材料で同じ形に組めば同じ現象が起きる、というだけの話である。それでも当時の読者にとって、この数字は魔法のように響いた。二千年前のバグダッドで、針が振れたのだ、と。
ヒルデスハイムの展示室で、話は世界に火がついた
戦後しばらく、バグダッド電池はマニアックな話題としてくすぶっていた。一九六四年にはアメリカの電子工作雑誌が特集を組み、はんだの合金比が現代と同じだったことに驚き、古代の金メッキ職人が親から子へ秘伝を伝えていたのだろうと想像をふくらませている。この記事あたりから、話は「電池だったかもしれない」から「電池で金メッキをしていた」へと、じわじわ既定路線化していく。
決定打は一九七八年だった。西ドイツのヒルデスハイムにあるローマー・ペリツェウス博物館で「シュメール・アッシュール・バビロン展」という大規模な展覧会が開かれ、そこにこの壺が「パルティア時代の電池と推定される器具」として展示されたのだ。世界中のメディアが取り上げた。バグダッド電池が国際的な有名人になったのは、ほぼこの展覧会のおかげである。
そしてこの展覧会に合わせて、館長だったアルネ・エッゲブレヒトが実験をしたと言われている。複数のレプリカを直列につなぎ、電解液としてブドウ果汁を使い、シアン化金の溶液を使って像に金を電着させた、と。ある文献では銀を薄く析出させたとも書かれている。厚さはおよそ百ナノメートル。髪の毛の千分の一よりずっと薄い、光の当たり方でようやく色が変わって見える程度の膜だ。
この実験は、電池説を信じる側にとって長らく最強のカードだった。実際に古代の方法で金属を電着できたのだから、と。
ところが、二〇〇〇年代に入ってBBCの取材班が同じ博物館を訪ねたとき、事態はひっくり返る。応対した研究者ベッティナ・シュミッツはこう答えた。一九七八年にここで行われた実験について、書かれた記録は一切存在しない。写真すら残っていない。それが本当に残念だ、と。彼女は博物館のアーカイブを探し、当時関わった人全員に話を聞いたが、何も出てこなかった。
つまり、電池説の最強の証拠は、証拠がない。誰も追試できていない。あったと言われている、それだけだ。学術の世界では、これは存在しないのと同じ扱いになる。
十個の壺を並べたテレビ番組が出した、意外に誠実な答え
二〇〇五年三月二十三日、アメリカのディスカバリーチャンネルで放送された『怪しい伝説』の二十九回目のエピソードで、この壺がまな板に載せられた。番組の制作班は、手作りのテラコッタの壺を十個こしらえ、それぞれに銅の筒と鉄の棒を仕込んだ。電解液はレモン汁を選んでいる。銅と鉄のあいだで確実に反応が起きるようにするためだ。
一個あたりの出力は、およそ三分の一ボルト。予想通り、ほとんど何もできない。だから彼らは十個を直列につないだ。テーブルの上に素焼きの壺がずらりと並び、その間を現代の配線が渡っている絵面は、それだけで妙な迫力があった。
合計で四・三三ボルト。
この電圧で三つのことを試している。一つ目、電気メッキ。小さな銅のコインを一晩つけっぱなしにしたところ、亜鉛の層が目に見えるかたちで乗った。成功だ。二つ目、鍼治療。五個ぶんの電気を鍼に流すと、皮膚に刺した状態でしっかり痛みを感じた。ただし鍼はだんだん熱くなってきて、制作班は「これ治療というより拷問では」と言い出している。三つ目、神像に触れた人間を痺れさせる仕掛け。十個つないでも、乾いた皮膚には何も感じさせられなかった。
ここで番組が偉かったのは、考古学者のケン・フェダーを呼んで釘を刺させたことだ。フェダーはこう指摘した。壺どうしをつないだ痕跡は、考古学的に一つも見つかっていない。必要な電圧を得るには絶対に必要な配線が、出土していない。そして電気メッキに使われたことを示す証拠も、まったくない。
要するに、「作れば動く」ことは番組が示した。「古代にそう使われていた」ことは、番組も示せなかった。この区別が、この話のすべてである。
それでも導線は一本も出てこない
ここからが、電池説の弱点を並べる時間だ。ひとつずつ、なるべく丁寧に潰していく。
まず、導線がない。これに尽きる。
電池というのは、電気を取り出して初めて電池になる。取り出さないただの電気化学セルは、化学的にはそういう状態にあるというだけで、道具としては何の意味も持たない。そして電気を取り出すには、正極と負極から線を引かなければならない。銅か銀か、金でもいい、とにかく電気を通す細長い何かが要る。
イラクのあの地域からは、これまでに膨大な量の金属製品が出土している。装身具、道具、武器、容器、コイン。金属加工の技術は間違いなくあった。にもかかわらず、バグダッド電池と結びつく形で出てきた導線らしきものは、一本もない。壺のそばからも出ていない。同時代の他の遺跡からも出ていない。
ハフォードの言い方は明快だ。導線が見つからない。そしてこれらの遺物が見つかった状態を見るかぎり、アスファルトで封じられて壺の中に収まっている金属の芯に、接点を取り付ける方法がそもそも存在しない。
これは「まだ見つかっていないだけ」で片づけられる話ではない。もし電池が使われていたなら、導線は電池と同じ数だけ、いや、それ以上に大量に存在したはずなのだ。壺は複数見つかっているのに、線はゼロ。この非対称は、ちょっと説明がつかない。
アスファルトで蓋をした瞬間、それは電池をやめる
二つ目の弱点は、構造そのものにある。
出土時の状態を、もう一度思い出してほしい。鉄の棒はアスファルトの栓で固定されている。銅の筒の口もアスファルトで塞がれている。壺の口もアスファルトで封じられている。つまり、金属部品は全部、黒い樹脂の内側に埋もれている。
端子が、ない。
現代の乾電池には、プラスの出っぱりとマイナスの平らな面がある。あれは飾りではなく、電気を外に取り出すために絶対に必要な構造だ。バグダッド電池には、それに相当するものが一つもない。表面に金属が露出している場所がないのだ。使うたびにアスファルトを削り取って、使い終わったらまた封をする、という運用を想定するのは、さすがに苦しい。
そのうえ電解液の問題もある。電池は使えば電解液が消耗する。詰め替えが要る。ところがこの壺は、注ぎ口も、蓋を開け閉めする仕組みも持っていない。封じられた瞬間に一回きりの使い捨てになる。頻繁に電気を使う道具としては、あまりに不便すぎる。
さらに、銅の筒が水を通さないほど密閉されていたわけでもない、という指摘もある。密閉が甘ければ内側と外側の液が混じり、電位差は消える。逆に完全に密閉されていれば、そもそも外部に電気を取り出せない。どちらに転んでも電池としては具合が悪い。
そして鉄の棒の腐食のしかたも、電極として長期間使われた金属に典型的なパターンとは合わない、という見方がある。電池として繰り返し働いたなら、それらしい消耗の跡が残るはずなのだが、そうは読めないというのだ。
パルティアかサーサーンか、九百年ずれている時計
三つ目は年代の問題だ。これがまた根が深い。
ケーニヒは、この壺を紀元前二五〇年頃、パルティア時代のものだと主張した。オカルト本やテレビ番組で「二千年前の電池」と紹介されるのは、この年代を採用しているからだ。
ところが、大英博物館のセント・ジョン・シンプソンをはじめとする専門家は、話が違うと言う。まず、この壺の出土時の記録と文脈が、そもそもきちんと残されていない。どの層から、どういう状況で出てきたのか、後から検証できる形の記録がないのだ。そして残っている情報のうち、いちばん信頼できるのは壺そのものの様式である。土器の作り方や形は時代ごとにはっきり違うので、考古学ではこれが強力な物差しになる。
その物差しで測ると、この壺はサーサーン朝の様式に見える。サーサーン朝は紀元後二二四年から六四〇年ごろ。ケーニヒの主張とは、下手をすると九百年近くずれる。
九百年というのは、途方もない差だ。日本でいえば平安時代の初めと江戸時代の終わりくらい離れている。「二千年前の電池」というキャッチコピーの二千年が、まず怪しい。
しかも、ややこしいことに、似た構造の壺は複数の遺跡から出ていて、それぞれ年代が違う。ホイヤットランプアのものより数世紀後、サーサーン朝期のものとされる例が、テル・ウマルやクテシフォンから出ている。同じような道具が長い期間にわたって作られ続けていた可能性がある、ということだ。これは電池説にとって有利にも不利にも読める。長く使われた実用品だったとも言えるし、宗教的な習俗が長く続いたとも言える。
セレウキアの壺は、巻物を入れる筒だった
四つ目。そして、いまのところ最も説得力があると多くの専門家が考えているのが、これだ。
一九三〇年代、ティグリス川沿いのセレウキアをリロイ・ウォーターマンが発掘し、クテシフォンをエルンスト・キューネルらが発掘していた。彼らは、バグダッド電池と非常によく似た構造の壺を、いくつも掘り当てている。粘土の容器の中に、封をした青銅の筒。同じ形だ。
違うのは、中身だった。
セレウキアで出た四つの容器の青銅筒の中には、朽ちた植物質のものと、パピルスが入っていた。クテシフォンで出た六つの容器の筒の中には、繊維を巻いたものや、鉛の板や、鉄の釘が入っていた。
これはつまり、巻物の収納容器なのだ。パピルスや羊皮紙に書いた文書を丸めて、芯棒に巻きつけて、金属の筒に入れて、湿気と虫から守るために封をする。中東の乾いた気候と、地下の湿気を考えれば、きわめて合理的な保存法である。
この読み方に立つと、バグダッド電池の構造が全部きれいに説明できてしまう。鉄の棒は電極ではなく、巻物を巻きつける芯だ。銅の筒は電池の容器ではなく、巻物を守る鞘だ。アスファルトは絶縁材ではなく、防湿の封だ。壺の底に残っていた酸性の痕跡は、二千年かけて腐った有機物が残したものだ。そして中身の紙が完全に消え去った結果、金属の部品だけが残り、たまたま電池そっくりの形になった。
ここで、最初に伏線として置いた話が回収される。ホイヤットランプアの壺は、呪文が書かれた鉢と一緒に、民家の跡から出土していた。この地域では、悪霊を封じたり願いを地下の神々に届けたりするために、呪文を書いた鉢を伏せて建物の基礎に埋める習俗があった。呪術鉢と呼ばれるもので、これは考古学的にきちんと裏付けのある実践だ。
ハフォードは、この壺もその仲間だろうと考えている。祈りや呪いの言葉を書いた紙を筒に納め、アスファルトで封じて、家の基礎に埋める。悪霊を閉じ込めるための壺だ。鉄の棒は電極でも芯棒でもなく、単なる釘だったのかもしれない。呪術の道具として釘を打つのは、洋の東西を問わずありふれた作法である。
彼は、後世ヨーロッパで作られた魔女の瓶を引き合いに出す。中に髪や針や液体を封じ込めて、家の床下に埋める。文化も時代も違うが、発想としてはほとんど同じだ。人間は、いやなものを容器に閉じ込めて土に埋める、という手つきをたぶん何千年もやめていない。
そしてハフォードは、こうも言っている。人はこの解釈を好まないのだ、と。だから、ケーニヒが解釈した一例だけを頼りに議論を続ける。
メッキ説――だが古代人はとっくに水銀で金を貼っていた
ここからは用途論に移る。仮に電池だったとして、いったい何に使ったのか。この問いに、九十年ぶんの答えが積み上がっている。
いちばん有名なのが、電気メッキ説だ。ケーニヒ自身がほのめかし、その後のほとんどすべての紹介記事が採用してきた説である。装身具や小像に金や銀を薄く着せるのに使った、というもの。
だが、これには致命的な難点がある。古代の職人は、電気を使わずに金メッキをする方法をすでに持っていたのだ。
水銀アマルガム法という。金を水銀に溶かすと、灰色の粘っこいペースト状になる。これを鹿革や布の袋に入れて絞り、余分な水銀を抜く。すると金が二割ほど含まれた、バターくらいの硬さのペーストができる。これを、酸できれいに洗った銅や銀の表面に塗る。そして摂氏三百度前後にゆっくり加熱する。水銀の沸点は三百五十七度だから、その手前の温度でも水銀はどんどん蒸発していく。灰色だった表面が、数分で黄金色に変わる。最後に瑪瑙や赤鉄鉱の磨き棒でごしごし磨くと、鏡のように輝く金の層が現れる。
この技法がすごいのは、必要な金の量が他のどの方法よりも圧倒的に少なくて済むことだ。金は高い。薄く広く延ばせる技法が勝つ。
そして時期の問題。火メッキは中国では紀元前五世紀の戦国時代にはすでに使われていて、西方では紀元前三世紀のヘレニズム期には登場している。つまりパルティア時代にもサーサーン朝時代にも、この技法は完全に手の内にあった。ローマの博物学者プリニウスも、水銀を使った銅の金メッキについて具体的な手順を書き残している。銅をよく叩き、火で処理し、塩と酢とミョウバンの混合物で冷やして洗浄し、また熱してから金箔を乗せる、と。
十九世紀半ばに電気メッキが実用化されるまで、世界中どこでも金メッキといえばこの水銀法だった。日本の寺社の金物も、この方法で作られてきた。京都には、いまも火メッキで御所や寺院の部品を作っている工房が残っている。
だとすると、話は単純だ。電気を使わずに、より確実に、より少ない金で、より丈夫にメッキできる方法があるのに、なぜ効率の悪い電池をわざわざ発明する必要があるのか。しかも電気メッキで得られる層は薄く、密着も弱く、当時の電解液の選択肢を考えると、実用に耐える品質はまず出ない。
アルバータ大学のポール・カイザーが、この点を計算している。当時手に入る電解液、たとえば酢を使った場合、この装置から取り出せる電力はあまりに弱い。電気メッキには到底足りない。カイザーは電池説そのものには理解を示す立場なのだが、それでもメッキ用途は否定している。
そして最後に、決定的な話。電気メッキされた古代の遺物が、一つも見つかっていない。ケーニヒが「金メッキされていたのでは」と推測した器物も、後に調べられた同時代の金メッキ品も、すべて火メッキだった。金メッキ層の中に水銀がわずかに残っているかどうかで、火メッキかどうかは科学的に判定できる。電気メッキの層とは組織がまるで違う。判定は難しくない。そして誰も、電気メッキの遺物を見つけていない。
ついでに、ケーニヒが自説の傍証にした「バグダッドの銀細工師の謎の金メッキ法」も片づけておこう。これはドイツの化学者ゲルハルト・エッゲルトが徹底的に調べている。多孔質の素焼きの壺を使い、内側にシアン化金の液と対象物、外側に塩水と亜鉛を置いて、銅線でつなぐ。ケーニヒはこれを古代の残り香だと匂わせた。
ところがこの方式、一八三九年にイギリスのバーミンガムでジョン・ライトが成功させた金メッキ法と、構造がまるごと同じなのだ。植木鉢にシアン溶液を入れ、外の容器に希硫酸と亜鉛板を置き、銅線でつなぐ。翌一八四〇年にはエルキントン社が特許を取得している。エッゲルトの結論はこうだ。この特許の知識が何らかの経路でバグダッドに伝わり、その後の改良を知らないまま、発明から百年近く経ったバザールでそのまま使われ続けていた。古代の秘伝ではなく、十九世紀イギリス製の中古技術だった。
神殿の仕掛け説と、痺れる神像の誘惑
用途論その二。神殿の仕掛け説だ。
大英博物館の金属研究者ポール・クラドックが提案したものとして紹介されることが多い。神殿の神像の中に電池を仕込んでおき、参拝者が像に触れると微弱な電気が走る。あるいは、神官が問いに正しく答えなかった者に痺れを与える。暗い神殿の奥で、青白い火花がぱちりと散る。人々はそれを神の力だと信じる。
正直に言って、この説は絵として抜群にいい。だからこそ、あらゆるオカルト番組がこれを繰り返してきた。
でも、成り立たない理由がいくつもある。
まず電圧が足りない。『怪しい伝説』が十個つないで四・三三ボルトを出したが、それでも乾いた皮膚には何も感じさせられなかった。人間の乾いた皮膚の電気抵抗はとても高い。痺れさせるには、もっとずっと高い電圧が要る。汗をかいた手で、皮膚の薄い場所を、金属に直接押しつけて、ようやく何か感じるかどうか、という水準だ。
次に、十個つなぐには配線が要る。配線は出土していない。ふりだしに戻る。
そして、神殿から出土していない。この壺が出たのは民家の跡であり、しかも呪術鉢と一緒だった。神殿の内陣ではない。神官の仕掛けだったなら、神殿から出るはずである。
クラドック自身も、この壺について断定を避けている。あれは一点物であり、人生の謎の一つだ、というような言い方をしている。仮説の一つとして口にしたものが、テレビを経由するうちに「大英博物館の専門家が主張する説」に化けた。この手の変質は、この話のあちこちで起きている。
いちばん地味で、いちばん粘り強い提案
用途論その三。医療用途説である。
これを丁寧に組み立てたのが、さっきも出てきたポール・カイザーだ。彼の論理はこうだ。当時の材料でこの装置を作ると、出力はきわめて弱い。だから電気メッキには使えない。しかし、弱いなりに何かに使えるとすれば、それは治療ではないか。金属の針を皮膚に刺し、そこに微弱な電流を流す。痛みが和らぐ。現代でいう電気鍼のような使い方だ。
古代の医学書には、電気を使った鎮痛の記録がある。ギリシャやローマでは、痛風や頭痛の患者にシビレエイを踏ませたり患部に当てたりする治療法が実際に記録されている。生き物から取れる電気を、人間は経験的に知っていたわけだ。だとすれば、壺から取れるかすかな電気に同じ効果を期待するのは、そこまで飛躍した発想ではない。
『怪しい伝説』の実験でも、鍼を刺した状態なら五個ぶんで確かに痛みが伝わっていた。皮膚という抵抗の高い層を針で貫通してしまえば、必要な電圧はぐっと下がる。理屈としては通っている。
ただし、やはり同じ壁にぶつかる。導線がない。針もセットで出土していない。当時の医学文献に、壺から電気を取り出して治療したという記述もない。カイザーの説は、電池説の中では最も物理的に無理がないが、それでも証拠に支えられてはいない。
二〇二六年、「壺そのものが電池だった」という新説が飛んできた
ここまでの流れだと、電池説はもう終わったように見える。ところが、つい最近になって新しい球が投げ込まれた。
二〇二六年一月、アレクサンダー・ベイゼスという独立研究者が、ペンシルベニア大学の教授が編集する学術誌に論文を発表した。彼の主張は、これまでの再現実験は全部、この装置の設計の半分しか見ていなかった、というものだ。
彼が注目したのは二つ。一つは、銅の筒を留めている錫と鉛のはんだ。もう一つは、うわぐすりのかかっていない素焼きの壺そのものである。
これまでの実験は、鉄の棒と銅の筒のあいだで起きる反応だけを見てきた。これをベイゼスは「内側のセル」と呼ぶ。出力は〇・二六から〇・三五ボルト程度。確かに弱い。
だが、と彼は言う。もしそれだけが目的なら、その銅の筒をわざわざ素焼きの壺に入れる意味がない。銅の端子に触れにくくなるだけだし、素焼きは多孔質だから外側が湿って電気が漏れる。しかも異種金属のはんだを液体に浸せばガルバニ腐食が起きて、接合部がやられる。設計として、どう考えても不合理なのだ。
不合理に見えるのは、見落としがあるからではないか。ベイゼスの答えはこうだ。素焼きの壺は、電池のセパレーターとして機能していた。多孔質の壁が、内側の電解液と外側の空気を隔てながら、イオンだけを通す。そして銅の筒の外側に付いた錫のはんだが、負極として働く。電解液に灰汁を使えば、これは錫空気電池になる。単独で一・一ボルト以上だ。
そして、この「外側のセル」と「内側のセル」は、構造上、自動的に直列につながる。銅の筒は内側のセルの正極であり、その外側に付いた錫は外側のセルの負極だからだ。合計すると、一・四ボルトを超える。現代の単三電池の公称電圧とほぼ同じである。
ベイゼスの再現機は、その電圧で実際に水を電気分解して気泡を出し、金属の表面を腐食させ、電着も起こしてみせたという。使い込んだ後、銅の外側のはんだがひどく腐食していたことも、錫が実際に反応に関わっていた証拠だと彼は言う。
面白いのは、彼が用途について出した答えのほうかもしれない。ベイゼスは、これがメッキ用の道具だったとは言わない。彼が想像しているのは、祈りの言葉を書いた紙を鉄の棒に巻きつけ、微弱な電流を流して金属をゆっくり腐食させていく、という儀式的な使い方だ。目に見えない何かが働いて、金属が変わっていく。当時の人にとって、それは祈りが届いた証だったのではないか、と。
電池説とハフォードらの呪術壺説が、ここで奇妙に握手する形になっている。壺は呪いの器であり、なおかつ電池でもあった、という和解案だ。
もちろん、この論文で決着がついたわけではまったくない。査読誌に載ったとはいえ、専門の考古学者からは、これも結局「レプリカが電気を起こせる」ことの証明であって「古代人がそう設計した」ことの証明ではない、という同じ批判が向けられている。ハフォードの反論は具体的で、バグダッド周辺からは銅の筒が十本も重なって入っていた壺が見つかっている、という。電池としては説明のつかない構成だ。巻物を十本まとめて収めた、と考えるほうがはるかに自然である。
宇宙人が置いていった、ということにされた壺
さて、ここからは受容史の話をしよう。この壺が学問の世界からはみ出して、どう流通していったか。
一九六八年、エーリッヒ・フォン・デニケンの『未来の記憶』が出版され、爆発的に売れた。古代の遺跡や遺物は、地球外から来た知的生命体が人類に授けた技術の痕跡である、という主張だ。全世界で数千万部を売り、四十冊近い続編を生み、UFO文化の一大源流になった。
バグダッド電池は、この文脈で使うのにあまりにも都合がよかった。だって、電池なのだ。電気なのだ。現代文明の象徴である電気が、二千年前の土の中から出てきた。これを「失われた超古代文明の遺産」あるいは「宇宙人が教えた技術」として語れば、話は一発で通る。
そこから先は、テレビの時代だった。ケーブルテレビの歴史番組枠で古代宇宙人ものが定番化し、バグダッド電池はほぼ毎シーズン顔を出す常連になった。エジプトの神殿のレリーフに描かれた蓮の形の物体を「電球だ」と読む説と組み合わされ、ピラミッドの内部が煤で汚れていないのは電灯を使っていたからだ、という筋書きの中で、電源としての役割を与えられた。もちろん、この読み方には根拠がない。あのレリーフは宗教的な図像として別の解釈が確立しているし、ピラミッドや墓室からは実際に灯明の跡や煤も見つかっている。
考古学者のケネス・フェダーは、この手の言説の構造をずっと批判してきた。彼が指摘する核心はこうだ。古代宇宙人説の根っこには、非ヨーロッパの人々が自力で高度なものを作れたはずがない、という前提が横たわっている。ギリシャ人がパルテノンを建てたことや、ローマ人がコロッセオを建てたことは疑われないのに、メソアメリカやアフリカやメソポタミアの達成にだけ「外部の助け」が要ることにされる。これは偏見であって、謎への好奇心ではない。
バグダッド電池についても同じことが言える。パルティアやサーサーン朝の職人は、極めて高い水準の金属加工技術を持っていた。彼らは水銀アマルガムで金を貼り、ガラスを吹き、精緻な銀器を作っていた。壺に巻物を入れて呪文を封じるという行為は、その技術水準と何も矛盾しない。むしろ、当時の人々の宗教観と生活を理解するうえで、そちらのほうがずっと豊かな情報を持っている。宇宙人を持ち出した瞬間に、その豊かさは全部消える。
日本では、ムーとテレビと懐疑論者が三つ巴だった
日本にこの話が入ってきたのも、やはり一九七八年のヒルデスハイム展がきっかけだった。同じ年に翻訳出版されたレニ・ノーバーゲンの本がオーパーツという言葉を日本語圏に定着させ、翌一九七九年には日本の考古学系の雑誌が「パルティア時代の電池」として海外ニュースを訳出している。学術サイドとオカルトサイドが、ほぼ同時に受け取っていたわけだ。
そこから先は、学研の『ムー』の独壇場になる。オーパーツを特集したムックが繰り返し出され、水晶のドクロやアンティキティラ島の機械やナスカの地上絵と並んで、バグダッド電池は必ず載っていた。九〇年代にはテレビの特番が量産され、夏休みや年末に「世界の謎」枠でこの壺が何度も紹介された。当時の紹介のされ方は、ほぼ例外なく「二千年前のパルティアの電池」であり、年代の疑義もセレウキアの巻物容器の話も、まず出てこなかった。
一方で、日本には早い段階から冷静な検証をやる人たちもいた。九〇年代後半に出た『トンデモ超常現象99の真相』のような本は、この種の話を一つずつ潰していく作業を丁寧にやっている。オカルト雑誌が盛り上げ、懐疑論者が引き戻す、という往復運動が日本語圏でもちゃんと起きていた。
面白いのは、二〇一〇年代に入ると、この壺が「理科の実験ネタ」として第三の使われ方をされるようになったことだ。二〇一三年には科学実験番組がバグダッド電池の模型を作って再現し、電池のしくみを子供に説明する題材にしている。オーパーツとしての煽りはなく、異種金属と電解液で電気が起きるという原理そのものを見せるための道具立てとして使われた。これはこれで、なかなか健全な着地だと思う。
掲示板とSNSで、この壺はどう語られてきたか
日本語のネット掲示板で、バグダッド電池はオーパーツ談義の定番中の定番だった。二〇〇〇年代前半のオカルト板やミステリー板では、この壺のスレッドが立つたびに同じ流れが繰り返された。まず誰かが「二千年前の電池ってロマンあるよな」と貼る。しばらく盛り上がる。そこに詳しい人が現れて、巻物容器説と年代のズレと導線がないことを書き込む。空気が変わる。最後に「でも作ってみたら光るんでしょ」「ロマンを潰すな」で流れが終わる。
この「詳しい人が来て場が静まる」パターンは、オーパーツ全般に共通する現象だった。水晶のドクロは近代の工作だと判明し、アカンバロの土偶も、ナスカの地上絵の宇宙飛行士も、それぞれ順番に落ち着き先が見つかっていった。オーパーツ界隈というのは、二十年かけてゆっくり縮小してきたジャンルでもある。
ただ、バグダッド電池だけは少し粘り強い。理由ははっきりしている。他のオーパーツは「作れない」ことを根拠にしていたのに対し、この壺は「作れば動く」ことが根拠になっているからだ。ネガティブな主張は反証しやすいが、ポジティブな実演は消えない。動画共有サイトには、素焼きの植木鉢と銅板とレモンでこれを再現してみせる動画がいくらでもある。電圧計の針が振れる。それは事実だ。事実であるがゆえに、話は死なない。
近年のSNSでの語られ方は、また少し様子が変わった。二〇二六年に例の新説が出てからは、日本語圏でも「単三電池と同じ電圧が出た」という見出しが拡散して、久々に大きな盛り上がりを見せている。同時に、「祈祷用の壺だった」という考古学サイドの見解も並べて紹介されることが増えていて、二〇〇〇年代よりは情報の質が上がった。もっとも、切り抜きだけを見て「古代文明の証明」と受け取る人も相変わらず多い。見出しは常に、本文より速く走る。
考察勢のあいだで面白い議論になっているのは、「じゃあこの壺は何なら証拠になるのか」という問いだ。導線が一本でも出てくれば話は一気に変わる。電気メッキされた同時代の金属製品が一つでも見つかれば、決定的になる。あるいは、電気に関する記述のある同時代の文書が出てくれば。そういう「もし出てきたら」を並べていく議論は、陰謀論よりずっと生産的で、読んでいて楽しい。
原物は二〇〇三年四月、行方不明になった
そして、この話には後味の悪い結末がある。
二〇〇三年四月、イラク戦争でバグダッドが陥落した。四月十日から三十六時間にわたって、イラク国立博物館が略奪された。職員は退避しており、建物を守る者はいなかった。
盗まれた遺物は、およそ一万五千点と見積もられている。二〇一八年時点で七千点ほどが回収されたが、八千点以上が行方不明のままだ。特に円筒印章のような小さくて運びやすく、海外に買い手のあるものが狙われた。五千百四十四点が持ち去られ、半分をわずかに超えるぶんしか戻っていない。ウルから出た紀元前二〇七〇年ごろの黒石の錘や、金とラピスラズリの器も消えた。
退避前に職員たちが八千三百六十六点を安全な場所へ運び出していたことは、せめてもの救いだ。彼らの判断がなければ、被害はもっと大きかった。恩赦制度によって二〇〇四年初めまでに二千点近くが戻り、紀元前三一〇〇年頃のウルクの女性像は近くの農場から見つかっている。ニューヨークで押収されて十年以上経ってから返還された像もある。博物館は二〇一四年に再開したが、往時の姿ではない。
バグダッド電池も、この混乱の中で消えた。現在の所在は分かっていない。どこかの個人コレクションにあるのか、破壊されたのか、あるいは無価値な壺だと思われて捨てられたのか、誰も知らない。
つまり、いま我々の手元にあるのは、写真と、記録と、レプリカと、そして九十年ぶんの議論だけである。もう一度中身を分析することも、年代を測定することも、はんだの成分を確かめることもできない。放射性炭素年代測定にかけられる有機物が残っていたかもしれないのに、その機会は永久に失われた。
議論に決着がつかない最大の理由は、実は説の優劣ではない。証拠が物理的に消えたからだ。
分かっていないことを、分かっていないまま並べておく
ここで、正直に「まだ分からないこと」を整理しておきたい。断定を避けるのは逃げではなく、この話に対する最低限の礼儀だと思う。
発見の状況が分からない。ケーニヒが墓から掘り出したのか、博物館の収蔵庫で組み立てたのか、いまだに決着していない。この一点が確定しないかぎり、出土文脈に基づいた議論はすべて足元が揺れる。
年代が分からない。パルティアかサーサーンか、いまも研究者によって書きぶりが違う。様式判定は強力だが絶対ではないし、そもそも比較対象の記録が乏しい。
電解液が何だったか分からない。酸性の痕跡があった、というところまでで止まっている。酢なのか、ワインなのか、灰汁なのか、それとも腐った有機物が残した酸なのか。灰汁だとしたら新説が生きるし、腐った紙だとしたら巻物説が強くなる。ここが決まれば話はだいぶ動くのに、決められない。
同型の遺物がいくつあるのか、正確には分からない。十数点という数字が語られるが、それぞれの状態も年代も記録の質もばらばらだ。銅の筒が十本重なっていた例のように、電池としては説明が苦しい変種もある。
一九七八年の実験が本当に行われたのか分からない。記録がない以上、あったともなかったとも言えない。
そして、当時の人々が何を考えていたのか、当然ながら分からない。文書が残っていないのだ。呪術鉢に書かれた呪文は読める。でも、あの壺を封じた人が何を願っていたのかは、書かれていない。
なぜ、人はこの壺から目が離せないのか
最後に、この話がなぜこれほど長生きしているのかを考えてみたい。
一つ目の理由は、実演できることだ。オーパーツの多くは「現代の技術でも作るのが難しい」という主張に立脚している。だから技術的に説明がついた瞬間に、話は終わる。ところがバグダッド電池は逆で、「作れば動く」ことが根拠になっている。素焼きの鉢と銅板と鉄釘とレモン汁があれば、誰でも今日ここで検証できる。針が振れる。その体験は強い。理屈でいくら「動くことと使われたことは違う」と説明されても、自分の目で見た針の動きには勝てない。
二つ目は、電気という題材の特別さだ。電気は、現代文明のいちばん根っこにある技術であり、同時に目に見えない。見えないのに世界を動かしている。この「見えない力」という性質は、そのまま呪術や神秘のイメージと重なる。だから古代の壺から電気が出てきたと聞くと、我々の中で二つの回路が同時に光る。科学の回路と、魔法の回路が。
三つ目は、時間の逆転が持つ快感である。歴史は進歩の一本道で、昔の人は今より知らなかった、という素朴な前提を我々は持っている。バグダッド電池の物語は、その前提を気持ちよくひっくり返してくれる。ボルタより千八百年早く、という一行だけで、世界の見え方が反転する。人はこの反転が大好きだ。ミステリーもSFも、だいたいこの快感で回っている。
四つ目は、証拠が失われたことそのものだ。これは皮肉な話だが、二〇〇三年に現物が消えたことで、この謎は決着不能になり、その結果として不滅になった。確認できないものは否定もできない。この壺は、消えたことで永遠になった。
そして五つ目。これがいちばん大事かもしれない。専門家が提示している「つまらない答え」が、実はちっともつまらないということだ。
考えてみてほしい。二千年近く前、バグダッドの近くに住んでいた誰かが、紙に願いか呪いかを書いた。それを丸めて、鉄の芯に巻きつけて、銅の筒に納めた。そして黒いアスファルトで、光も空気も入らないように封じた。壺に入れて、家の基礎の土の中に埋めた。地下の神々に届くように。あるいは、悪いものが二度と出てこないように。
その願いは、届いたのか届かなかったのか、誰にも分からない。だけど紙は腐って消え、金属だけが残り、二千年後に別の国から来た男がそれを見て「これは電池だ」と言った。そして世界中の人間が、その壺の中に自分たちの時代の欲望を注ぎ込んだ。電気を、超古代文明を、宇宙人を、失われた技術を。
誰かが土に埋めた祈りが、二千年後に別の種類の祈りの器になった。オカルトの話としては、こっちのほうがよっぽど怖くて、よっぽど美しいと思う。
三つの問いを、ちゃんと分けて考える
ここからは、上で書ききれなかった論点をもう少し踏み込んで掘り下げていく。総括も兼ねている。
まず整理しておきたいのは、この議論でずっと混同されてきた三つの問いだ。第一に、あの構造は電気を生むか。第二に、あの構造は電気を取り出せるか。第三に、古代の人はそれを電気を得るために作ったか。この三つは全然別の問いなのに、九十年間ずっと一緒くたに語られてきた。
第一の問いの答えは、明確にイエスだ。異種金属と電解液があれば電位差は生じる。これは物理と化学の必然であって、古代人の意図とは何の関係もない。土の中に銅と鉄が隣り合って埋まっていて、そこに地下水が染みていれば、その場所は自然に微弱な電池になる。世界中の遺跡で、これは日常的に起きている。金属遺物が特有の腐食を起こす原因の一つがまさにこれで、保存修復の現場では厄介な問題として知られている。つまり「電池になっていた」ことと「電池として作られた」ことの距離は、我々が思うよりずっと遠い。
第二の問いは、微妙だ。ケーニヒの復元図の通りなら取り出せる。出土したままの状態なら取り出せない。そして、どちらが本来の姿だったのかを判定する材料が、もうない。
ベイゼスの新説は、この第二の問いに対して独創的な答えを出した。壺の外壁そのものが端子になるなら、アスファルトで封じたままでも電気は取り出せる、と。素焼きの壺の外側は湿って導電性を持つ。だから、そこに触れれば回路は閉じる。これは確かに、封じられているという最大の難点を回避する筋道になっている。頭がいい。
ただし、この説にも問題はある。壺の外側を端子にするということは、要するに湿った土器の表面に触るということだ。接触抵抗は大きく、安定しない。そして何より、当時の人がその仕組みを理解して設計したという証拠は、依然としてどこにもない。錫のはんだは、銅板を丸めて筒にするための接合材として、まったく自然な選択である。それが結果的に錫空気電池の負極として働いたとしても、それは意図ではなく偶然かもしれない。多孔質の素焼きが結果的にセパレーターとして働いたことも同様だ。うわぐすりをかけないのは、単に安い日用品だったからかもしれない。
このあたりが、実験考古学というジャンルが常に抱えているジレンマである。エッゲルトが二十年以上前に書いた一文が、いまも古びていない。実験は、ある技術が可能だったことを示すことはできるが、それが実際に使われたことを示すことは決してできない。
第三の問い、つまり意図の問題こそが本丸なのだが、これは物証以外では決まらない。そして物証の候補は、かなりはっきりしている。
一つ目は、導線だ。細長い金属線が、この壺と同じ層から、この壺と同じ遺跡から出てくれば、それだけで議論の重心が動く。むしろ、これまで一本も出ていないという事実の重さを、もっと真剣に受け止めるべきだと思う。あの地域の遺跡からは針も釘も装飾用の細線も出ている。金属の細いものが残らない環境ではないのだ。
二つ目は、電気メッキされた遺物だ。金メッキ層に水銀が含まれているかどうかを調べれば、火メッキかどうかは判別できる。中国の漢墓から出た金メッキ品の微細構造の研究では、金と水銀の固溶体の粒がはっきり観察されている。同じ手法を中東の同時代の金属製品に当てはめて、水銀を含まない、電着に特有の組織を持つ層が一つでも見つかれば、それは決定打になる。だが今のところ、調べれば調べるほど火メッキばかりが出てくる。
三つ目は、文字資料だ。パルティアやサーサーン朝の文書、あるいはギリシャ・ローマ側の記録に、この種の装置についての言及があってもよさそうなものである。プリニウスは金メッキの手順を細かく書いた。ギリシャ人はシビレエイを使った治療を記録した。琥珀をこすると軽いものを引きつけることも、古代人は知っていた。つまり、当時の人は電気的な現象に無関心ではなかった。それなのに、壺から取り出す電気については一行も残っていない。この沈黙は大きい。
発明されたのに広まらなかった、という筋書きは成り立つか
ここで少し視点を変えて、「もし本当に電池だったとしたら」の側から考えてみたい。
技術史には、発明されたのに広まらなかった例がいくらでもある。アレクサンドリアのヘロンが作った蒸気で回る球は、産業革命の千七百年前に蒸気機関の原理を示したのに、玩具のままで終わった。理由は単純で、当時の社会にそれを必要とする経済的な圧力がなかったからだ。奴隷労働が安ければ、動力を機械化する動機は生まれない。
同じ論理をバグダッド電池に当てはめることはできる。仮に誰かが偶然この現象を発見しても、水銀アマルガム法という優れたメッキ技術がすでにあり、電池でできることは何もかも他の方法でもっと簡単にできてしまう。だから広まらず、忘れられた。この筋書きは、論理としては成立する。
でも、致命的な違いがある。ヘロンの球については、ヘロン自身が書いた文章が残っている。装置の作り方も、動く仕組みも、書かれている。バグダッド電池には、それがない。あるのは物だけで、しかもその物の解釈は、後世の一人の男の思い込みから始まっている。
なぜ「呪いの壺」という答えは人気が出ないのか
もう一つ、この話をめぐる社会学的な面白さについて書いておきたい。ハフォードが投げた一言、人はこの解釈を好まない、という指摘だ。
呪術壺説は、証拠の面ではかなり強い。同型の壺から実際にパピルスが出ている。呪術鉢と一緒に出土している。建物の基礎から出ている。後世の魔女の瓶という比較対象もある。証拠のつながり方としては、電池説より一段も二段も上だ。
にもかかわらず、この説はほとんど流通しない。テレビ番組でも、まとめサイトでも、扱いは小さい。なぜか。
たぶん、二つの理由がある。一つは、地味だから。もう一つは、「昔の人は迷信深かった」という結論に聞こえてしまうからだ。だが、これは誤解だと思う。呪術壺説が言っているのは、古代の人が愚かだったということではない。彼らが世界をどう理解し、どう働きかけようとしていたか、という話である。目に見えない悪意が家に取り憑くと考え、それを容器に封じて土に埋めるという実践は、極めて体系的で、社会的に共有された知識体系だった。呪文の文面は定型化していて、専門の書き手がいた。これは、迷信という一語で片づくものではない。
そして皮肉なことに、我々が「電池だ、超古代文明だ」と壺に願いを託すこの態度こそが、彼らが壺に呪文を託した態度と、構造的にほとんど同じなのだ。分からないものに、自分の世界観を注ぎ込む。二千年経っても、人間のやることは変わらない。
針は、二千年前の誰かではなく我々を指している
最後に、この記事を書きながらずっと考えていたことを書いて終わりにする。
バグダッド電池が本当に電池だったかどうかは、たぶんもう永遠に分からない。現物は消えた。記録は最初から不十分だった。残っているのは解釈と、解釈の解釈と、解釈の解釈をめぐる論争だけだ。
でも、この九十年の物語には、はっきり分かることもある。一つの思い込みが、SF雑誌を経由し、技師の工作机を経由し、展覧会のガラスケースを経由し、テレビ番組を経由して、どうやって「常識」に育っていくか。その過程が、これほど克明に追える例はそう多くない。ケーニヒの一枚の復元図が、九十年ぶんの実験の設計図になった。この事実そのものが、たぶんこの壺が我々に教えてくれる最大の教訓だ。
我々は、証拠から仮説を立てているつもりで、しばしば仮説から証拠を作っている。作った証拠は、確かに動く。針は振れる。だがその針は、二千年前の誰かではなく、我々自身を指している。
素焼きの壺の中で、鉄の棒はいまもどこかで錆びているのかもしれない。あるいはもう、この世にないのかもしれない。どちらにせよ、あの中に封じられていた本当の願いは、紙と一緒にとっくに土に還っている。我々が読んでいるのは、その空っぽの容器に、時代ごとの人間が勝手に書き込んできた文字のほうなのだ。
