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ハルビン駅の三発――伊藤博文を撃ったのは本当にあの男だったのか、という論争の全部

北満洲の十月は、もう冬だ。

その朝、ハルビンの空気は零度を割っていて、駅のプラットホームには前の晩に降った初雪が薄く残っていたという。一九〇九年十月二十六日。この日の午前九時から十時までの、たった六十分のあいだに起きたことが、百十年以上たった今もまだ論争されている。

しかも論争の中身が「誰がやったか」というレベルなんだから、これはもう相当な事件なんだよな。

教科書には一行で「安重根がハルビン駅で伊藤博文を暗殺した」と書いてある。その一行の裏側に、検死記録と弾道と、三十年後の老人の告白と、二階建てだったのかどうかも分からない駅舎の図面と、日韓の記憶の断層が全部詰まっている。順番に開けていこう。

大磯を出た老人が、北へ北へと列車を乗り継いだ十二日間

まず伊藤がなぜハルビンにいたのか。ここを押さえないと話が始まらない。

日露戦争のあと、満洲をめぐる情勢はぐちゃぐちゃになっていた。アメリカが満洲鉄道に食い込もうとしてきて、それに対抗するために、かつて殺し合った日本とロシアが手を組みはじめる。一九〇七年に第一回日露協約が結ばれて、秘密協定で満洲に利益分界線まで引いた。要するに「ここから北はロシア、ここから南は日本ね」という取り決めだ。

その延長線上で、日露のあいだでもう一段の意見交換をやろうという話になった。日本側から出向くのは伊藤博文。この年の六月に韓国統監を辞して枢密院議長になっていた、当時六十八歳の元老である。ロシア側の相手は、蔵相ウラジーミル・ココフツォフ。のちに首相になる人物だ。

伊藤は十月十四日に神奈川の大磯を発った。十八日に大連港から遼東半島に上陸し、二十一日に旅順から南満洲鉄道の列車に乗り、二十二日の夕方に奉天へ着く。二十四日には満鉄総裁の中村是公に案内されて撫順炭鉱を見学している。この時点での伊藤は完全に「視察旅行中の元老」だ。二十五日の夕方に長春に到着し、その夜、寛城子駅から東清鉄道の特別夜行列車に乗り込んだ。目的地はハルビン。夜通し走って、翌朝九時に着く行程だった。

一方、その伊藤を待っていた男がいる。

安重根。当時三十歳。黄海道海州の両班の家に生まれ、カトリックの洗礼を受け、洗礼名はトマス、漢字では多黙と書いた。通常は諱を避けて安應七と名乗っていて、重根という名を自分で使いはじめたのは、この事件の直前だという。彼はウラジオストクを拠点にする独立運動のネットワークのなかにいて、義兵闘争に参加した経験があった。

伊藤がハルビンに来るという情報を、彼はロシアで発行されていた漢字新聞『遠東報』の記事で確認している。ここ、地味だけど大事なところだ。彼は諜報網で伊藤の日程を掴んだわけじゃなく、普通に新聞を読んで知ったんだよな。

安の動きも追っておこう。

彼は禹徳淳と組み、ハルビンで曹道先と合流し、金成白という人物の家に泊まった。旅費が三十円しか残っていなくて、部外者の金から五十円借りている。十月二十三日、三人は蔡家溝という途中駅へ向かった。伊藤の列車が停まる可能性のある駅だ。二十四日、安は単独でウラジオストクの新聞社に電報を打ち、借金の返済と千円の送金を頼んでいる。金がない。とにかく金がない。

二十五日、安だけがハルビンに戻った。禹と曹は蔡家溝に残して見張りにつけた。つまり二か所待ち伏せの分散配置になったわけだが、結果的に伊藤の列車は蔡家溝に停まらず、決行はハルビン単独になった。

儀仗兵と軍楽隊、そして「閲兵をぜひ」というココフツォフの一言

十月二十六日、午前九時ちょうど。伊藤を乗せた特別列車がハルビン駅のホームに滑り込む。

ホームにはロシアと清の儀仗兵が整列していて、軍楽隊も控えていた。当時のハルビン駅は清国領土のなかにありながら東清鉄道の付属地で、実質はロシアの管轄下にあった。だから警備も出迎えもロシアが仕切っている。

ココフツォフは一時間前から待っていた。列車が停まると、駐清ロシア公使のコロストヴェッツ、東清鉄道副理事長のヴェンツェリ、管理局長のホルヴァートを従えて、最後尾の貴賓車両に乗り込んだ。

ここで面白いディテールがある。ハルビン駅のホームは駅舎側が地面から一メートル強も持ち上がっていて、線路側は二十センチほどしかなく、車両に乗り降りするには短い梯子を使う必要があった。ココフツォフは衛兵が昇降口に立てかけた三段の梯子を上がって車内に入っている。要するに、この駅は構造からしてちょっと変わっていたわけだ。この「構造」の話は、後で恐ろしく効いてくるので覚えておいてほしい。

車内で、伊藤とココフツォフは初対面の挨拶を交わした。通訳はハルビン総領事の川上俊彦。「衷心より閣下の御安着を祝す」というような形式的なやり取りから始まって、二十分から二十五分ほど話をした。中身は満洲の鉄道問題と、対アメリカの共同歩調あたりだったとされる。

そして、話が一段落したところでココフツォフが言った。出迎えの警備隊を閲兵していただけませんか、と。

伊藤は一度断っている。正装の準備ができていない、というのが理由だった。それでもココフツォフが重ねて勧めたので、伊藤は承諾してホームに降り立った。

この「重ねて勧めた」の一言が、のちに陰謀論の格好の材料になる。もし伊藤が断り切っていたら、彼はホームに出ていない。出ていなければ撃たれていない。事実としてはただの外交儀礼だが、結果から逆算すると、どうしても意味ありげに見えてしまうんだよな。

そのころ安重根は駅の喫茶店にいた。彼は朝七時に駅に姿を現し、二時間ほど喫茶店で時間を潰していた。逃走に備えて、劉東夏を五百メートルほど離れた場所に馬車で待機させてもいる。列車の到着音を聞いて慌てて店を出たときには、伊藤はすでに降車していて、ロシアの武官たちに挨拶しているところだった。

三十秒から四十秒。それだけの時間で全部が終わった

伊藤はロシア兵の隊列の前を歩き、各国領事団のほうへ進んだ。領事団と言葉を交わし、在留日本人団からも歓迎の言葉をかけられて、日本人団のほうへ数歩、歩み寄る。そこで折り返した。

安はロシア兵の隊列の隙間から手を伸ばした。午前九時三十分。距離にして十歩ほど。伊藤の右側面を狙って発砲した。

このあとの秒単位の描写は、証言ごとに少しずつ違う。

ロシア側の捜査記録によれば、最初に二連射があり、三発目は左手を右肘に添えて冷静に狙い撃ったとされている。安自身の自伝では、彼は伊藤の顔を知らなかった。顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人を伊藤だと判断して四発撃ち、しかし人違いだったら大変だと考えて、その後ろにいた人物のなかで最も威厳のあった人物にさらに三発連射した、と書いている。合計七発。

ところが事件直後に古谷久綱秘書官が本国へ打った電報では、七連発銃のうち六発が発砲されたと報告されている。この「六発か七発か」の食い違いが、のちの弾数論争の火種の一つになる。

伊藤の三メートルほど後ろを歩いていた首席随員の室田義文は、こう証言している。

まず「ピチピチという音」がして、それから爆竹のような音がした。歓迎のために鳴らしているのかと思っていたら、続いてパン、パンと音がした。はっとして目をやると、整列した儀仗兵の隊列のあいだから、小さな男が大きなロシア兵の股の間をくぐるような恰好でピストルを突き出していた。

爆竹だと思った、というところが妙に生々しい。誰も最初は銃撃だと思っていないんだよな。

すぐにロシア鉄道警察の署長代理ニキフォーロフ騎兵大尉が飛びかかった。安はこれを力ずくで振り払い、なお撃ち続けようとしたが、妨害されながらの射撃だから狙いは大きく外れた。周りのロシア兵が加勢して安を地面に引き倒し、その拍子にピストルが手から落ちた。ロシア兵の証言には「最後の銃弾で自殺を試みたが、失敗したようだ」というものもある。ここまでが三十秒から四十秒のあいだの出来事だった。

安は取り押さえられながら、あるいは取り押さえられる直前に、ロシア語で「コレア・ウラー」、大韓国万歳と三回叫んだ。あとで彼は、なぜロシア語だったのかと問われて、世界の人々に最もよく分かる言葉を選んだからだと答えている。この場面の「聞かせる相手」を意識していたわけだ。

ブランデー一杯、「馬鹿な奴じゃ」、そして三十分

伊藤は胸と腹に被弾して「三発貰った、誰だ」と言って倒れた。中村是公、あるいは室田義文が駆け寄って抱きかかえ、ロシア軍の将校と兵士に助けられて列車内へ運び込まれた。

車内での応急処置にあたったのは、宮内庁御用係で伊藤の主治医だった小山善。止血を試みた。歓迎のために駅へ来ていた日本人医師の成田十郎ら二名と、ロシア人医師一名がこれを手伝っている。古谷秘書官はすぐに電報を打った。桂太郎総理と、伊藤夫人に。

ここからの数分間の描写を、室田義文が事件から二か月後、東京地裁検事局の古賀行倫検事に対して行った陳述で残している。当時の記録の言葉づかいをそのまま噛み砕くと、こうだ。

気付けの薬にもと思ってまずブランデーを勧め、一杯目を勧めたところ、苦もなく飲み干された。ちょうどその際だったと思うが、通訳が来て、犯人は韓国人である、すぐに捕縛したと告げた。公爵はこれを理解して「馬鹿な奴だ」と言われた。五分後になお一杯のブランデーを勧めたときには、公爵はもう首を上げることもできなくなっていたので、そのまま口に注ぎ込み、それから一、二分のあいだに全く絶命された。

「そうか。馬鹿な奴じゃ」という言い回しで伝わっているこの台詞は、日本側の記録に共通して出てくる。ただし細部の言い回しは記録ごとに揺れていて、「俺は駄目だ、誰か他にやられたか」と負傷者を気遣ったのが最期の言葉だという伝えもある。

臨終の言葉というのは総じてこうなる。複数の人間が別々に記憶し、別々に語り、そのうち一番語りやすい形に収斂していく。

伊藤は次第に衰弱して昏睡に陥り、被弾からおよそ三十分後、午前十時に死亡した。

伊藤以外にも三人が撃たれている。ハルビン総領事の川上俊彦は腕を弾丸が貫通。満鉄理事の田中清次郎は足を貫通。宮内大臣秘書官の森泰二郎、漢詩人としては森槐南の名で知られる人物だが、彼は腕と肩に被弾した。三人とも命は取り留めている。この「随員三名の負傷」は、安が伊藤に撃ち込んだ弾と合わせて発射数を考えるときの重要な手がかりになる。

検死記録が示した三発の通り道

伊藤の身体に命中した三発について、当時の記録は驚くほど詳しい。読み解いていこう。

第一弾は、右上膊、つまり右の上腕の中央外面から入り、上腕を貫通して第七肋間に向かった。射入は「恐らく水平」とされている。胸腔内の出血が多く、弾は左肺の内部にあるだろうと推定された。

第二弾は、右肘関節の外側から関節を通って第九肋間に入り、胸と腹を貫き、左の季肋部の下に留まっていた。

第三弾は、上腹部の中央において右側から射入し、左の直腹筋のなかに留まっていた。

この三か所のうち、二か所が致命傷だった。

注目してほしいのは、三発とも「右から」入っているという点だ。安重根は伊藤の右側面から撃った。だからこれは整合する。そして公判に提出された小山善侍医の尋問調書では、伊藤の負傷は三発とも右側から水平に射入したと述べられている。水平。つまり、ほぼ同じ高さから撃たれたということだ。裁判所が採用したのはこの見解だった。

ところが。この「水平」という一点をひっくり返す証言が、事件の三十年後に世に出ることになる。

三十年後、九十過ぎの老人がひっくり返したこと

室田義文。一八四七年、水戸藩士の次男に生まれた外交官である。外務省に入ってロシア語と英語を身につけ、釜山領事やメキシコ駐箚公使を務め、のちに山陽鉄道や北海道炭礦汽船の取締役にもなった。事件当日は貴族院議員として伊藤に随行し、首席随員の立場でホームにいた。伊藤のすぐ後ろを歩いていた男だ。

彼は一九三八年に亡くなる。その直後、一九三九年に刊行された『室田義文翁譚』という本のなかで、彼はとんでもないことを言っていた。

伊藤の身体に埋まっていた弾丸は、安重根が持っていたブローニング七連発拳銃の弾ではなかった。あれはフランス製の騎兵銃、いわゆるカービン銃の弾だった。そして、弾痕の向きが下向きだった。安重根の位置から撃たれたのなら、下から見上げる形になるから、傷は上向きにならなければおかしい。だが実際は上から下へ斜めに抜けていた。あの角度で撃つには階上からしかありえない。駅の二階の食堂あたりからだ。狙撃手は少なくとも二人いた。真実、伊藤を撃ったのは、あの取り押さえられていた小男ではなかった。

さらに室田は、自分は当時からそう主張していたのだが、外交上ゆゆしき問題になるとして封殺されたのだと説明している。ロシアは暗殺への関与を疑われることを恐れ、日本も日露関係の悪化を恐れて、警備責任を追及したり深く突っ込んだりしなかった。真相究明を求めて抗議したときには、山本権兵衛が反対して、日本の官憲によって声を封じられた、と。彼はこの悔しさを終生、孫に語り続けたという。

この証言、単なる老人の思い出話として片づけられないだけの傍証もある。

事件から一か月足らずの一九〇九年十一月二十日、室田は赤間関、いまの下関の区裁判所で、検事の田村光栄から安重根の写真を見せられて事情聴取を受けている。そこで彼はこう述べた。この写真にある人物は、多分自分を狙撃した人物に相違ないと思う。しかし、公爵を狙撃したのはこの写真にある狙撃者ではなく、他の者ではないかと思われる、と。

つまり、彼は事件直後の段階から、伊藤を撃った人間と自分を撃った人間は別だと言っていたことになる。これは重い。

ただし、公平のために反証も並べておかないといけない。同じ室田は、公判に提出された記録のなかでは、数発の爆竹のような音を聞いたあと、洋服を着た一人の男がロシア軍隊のあいだから身を出して拳銃を発射するのを認めた、と証言している。これは安重根の犯行を目撃したという証言そのものだ。同じ人物の証言が、公式の場と後年の回想とで食い違っている。どちらを重く見るかで結論が変わる。

ところで、ハルビン駅に二階はあったのか

室田説の核心は「階上から撃たれた」だ。となると当然、駅に階上があったのかを確認しなきゃいけない。ここで話が急に建築の領域に入る。

ハルビン駅は、東清鉄道の開通に合わせて一八九九年にスンガリ駅として開業した。本格的な駅舎の着工が一九〇三年七月、竣工が一九〇四年末。日露戦争の真っ最中に建った建物だ。設計はサンクトペテルブルクの鉄道管理局。煉瓦とコンクリートの混合造りで、建築総面積は約二千百平方メートル、総工費十六万ルーブル。構造としては地上一階建てで、一部だけが二階建てだった。

ここが決定的なところなんだが、一階にある一等・二等の待合室と食堂は、天井までの高さが六・九三メートルもあった。とんでもなく高い。だから採光のために、ホーム側に高窓を設けてあった。アールヌーヴォー様式の扁平な丸窓だ。

ホーム側から見上げると、これがどう見ても「二階の窓」に見える。だが実際には、二階の窓ではなく、天井の高い一階の明かり取り窓だった。

この分析をやったのが黒崎裕康『伊藤博文公爵の最期』という二〇一六年の本で、結論は「ホーム側に二階は存在しない、よって二階からは撃てない」というものだった。

面白いのはここからだ。

第三者狙撃説の代表的な論者である大野芳は、生前この指摘に同意している。大野は『伊藤博文暗殺事件 闇に葬られた真犯人』を二〇〇三年に新潮社から出した作家で、そもそも彼がこの事件に取り憑かれたきっかけが、一九七〇年ごろに知り合った経歴不明の人物から聞かされた一言だった。伊藤博文は、ハルビン駅二階のレストラン従業員の更衣室から、フランス製の騎馬銃で撃たれたんだぞ。真犯人は安重根ではない。

裏を取ろうとして辿り着いたのが、満洲馬賊の頭目だった小日向白朗という大陸浪人だ。小日向も、わしが中国人から聞いた話では、騎馬銃で撃った、それがハルビン駅の二階のレストラン従業員の着替え室からだ、と語ったという。この二人の証言が一致したことが、大野の三十年以上にわたる調査の出発点になった。

だが大野は、最後まで駅舎の構造を確認できなかったと漏らしていたそうだ。設計図面を八方手を尽くして探したが見つからなかった。つまり「二階」の存在自体が、ついに確認できていなかった。晩年に黒崎の本を教えられて、二階はなかったという結論に同意した。自説の土台の一部を、自分で崩したことになる。研究者としてはまっとうな態度だと思う。

そのうえで、話はまだ終わらない。

伊藤が着ていたフランネルのシャツが遺品として残っていて、その背中側に銃弾痕が鮮明に写った写真がある。一九六〇年に発表された「故伊藤公遭難時の肌衣に就ての法医学的考察」という論文で扱われたものだ。背面に弾痕がある、ということは、少なくとも一発は背後方向からの射入だった可能性が出てくる。だとすると「二階からではないが、背後からではあった」という中間的な結論もありうる。ただしこれも、伊藤の姿勢や上着の重なり、被弾後に抱えられて運ばれる際の変形といった要素を排除できるかという問題が残る。決着はついていない。

弾痕十三個、そして証拠品として出てこなかった弾丸たち

数の話をしよう。大野芳の本が提示した論点のうち、いちばん引っかかるのがこれだ。

現場で発射された弾丸による弾痕が、合計で十三個確認されたという。一発で二か所に穴が空く場合や、流れ弾を考慮に入れても、狙撃者は八発か九発を撃った計算になる。ところが安重根のブローニングは七連発で、しかも弾が一発残っていた。だから発射数は最大でも六発。数が合わない。よって別の射手がいた。

この論法、直感的には強い。ただし穴は多い。

まず「弾痕十三個」という数字がどの史料に、どういう調査方法で記録されたものかを厳密に押さえないと、そもそも計算が始まらない。ホームには儀仗兵と軍楽隊と各国領事団と在留日本人団がひしめいていた。跳弾も、貫通後の二次的な着弾も、事件以前からあった傷も、混じりうる。伊藤に三発、随員三名に三発で計六発、これは安の弾数と矛盾しない。

もう一つ、佐木隆三の『伊藤博文と安重根』が指摘している事実がある。

地方法院に提出された安重根の「証拠金品目録」には、ブローニング式短銃が一挺、発射した弾丸が一つ、としか書かれていない。伊藤の遺体から摘出されたはずの弾丸も、伊藤を撃ったあと随員に向けて撃たれた弾丸も、田中清次郎に命中したと思われる一発を除いて、証拠品として法廷に提出されていない。

これは陰謀論の側から見れば「隠された」の証拠になる。実務的に見れば「日本が仕切る裁判で、被告が現行犯逮捕されていて、本人が自白していて、しかも遺体は事件翌日に大連へ運ばれている以上、弾丸を法廷に持ち込む必要が実務上なかった」という説明もできる。

伊藤の遺骸を収めた仮棺は十月二十七日に大連ヤマトホテルの旧館に運ばれ、その特別室で防腐処理が行われた。そのときに小山善侍医らによる銃弾の摘出が行われたと推定されていて、室田も立ち会った可能性が高いとされる。ホームでの検死ではなく、ホテルの一室での摘出。この時点で、証拠保全という近代的な発想が抜け落ちている。悪意の産物なのか、当時の水準の限界なのか。ここを断定できないから、論争が続く。

説を一つずつ、根拠と反証をつけて並べてみる

まず単独犯説。これが公式見解であり、いまも学界の主流だ。

根拠は厚い。安重根は現行犯で取り押さえられ、犯行を一貫して認めている。彼は逃げも隠れもせず、法廷で堂々と動機を述べた。ロシア側の捜査記録、目撃者の証言、随員たちの電報、そして安本人の供述を突き合わせると、細部の食い違いはあるものの、全体としてはほぼ符合する。小山善侍医の尋問調書は三発とも右から水平と述べていて、これは安の射撃位置と一致する。伊藤に三発、随員三名に三発の計六発は、七連発で一発残っていたという状況とも合う。

反証としては、室田証言の存在と、弾丸が証拠として保全されなかった手続き上の杜撰さ、それに「弾痕十三個」の数字がある。ただしどれも、単独犯説を崩すには弱い。決定的な物証がないという点では、批判する側も同じ土俵に立っている。

次に第三者狙撃説。

室田義文の後年の証言を核として、上垣外憲一『暗殺・伊藤博文』と大野芳『伊藤博文暗殺事件』が展開した。根拠は、フランス製騎兵銃の弾丸だったという室田の記憶、右上方から斜め下へという射入角度、遺品のシャツ背面の弾痕、そして摘出弾が証拠として残っていないこと。

反証は手厳しい。室田は公判記録では安の犯行を目撃したと証言していて、後年の回想と矛盾する。小山善の尋問調書は「水平」と明記している。医師の記録と、医師ではない随員の三十年後の記憶と、どちらが弾道について正確かといえば、普通は前者だ。そして駅舎に二階はなかった。二階説の建築的前提は崩れている。

続いて併合推進派関与説。

上垣外と大野の両書が最終的に着地したのがここで、犯行を計画したのは伊藤と対外政策で対立してきた山県有朋・桂太郎ら長州閥陸軍首脳、および右翼勢力である、という枠組みだ。動機としては筋が通って見える。伊藤は保護国路線の漸進派で、即時併合を急ぎたい側からすれば邪魔だった、という理解だ。黒幕として名前が挙がったのは、明石元二郎、杉山茂丸、後藤新平といったあたり。

反証は、後で詳しく書くが、そもそも「伊藤は併合反対派だった」という大前提が史料的に成立しにくいこと。そして、この規模の謀略を実行して百十年以上まったく一次史料が出てこないというのは、日本の近代史の史料状況を考えると相当に不自然であること。この説は、動機の説得力と物証の不在という、いかにも陰謀論的な非対称を抱えている。

ロシア側関与説。

ホームを警備していたのはロシアの鉄道警察と軍で、儀仗兵の隊列のあいだから拳銃を持った男が手を伸ばせてしまう時点で、警備は明確に失敗している。しかもココフツォフが閲兵を強く勧めていて、それがなければ伊藤はホームに出ていない。ロシア側の落ち度は明白だ。

だが「落ち度」と「関与」は違う。伊藤はロシアにとって交渉相手であって、殺す動機が見当たらない。むしろロシアは自国が疑われることを極度に恐れて、逮捕者を即座に日本側へ引き渡すという迅速な処理をしている。

ココフツォフが駐日大使に打った電報には、陰謀は明らかに組織的なものだった、蔡家溝駅で我が警察はブローニング銃を持った三人の疑わしい朝鮮人たちをすでに逮捕していた、とある。組織的だとロシア側自身が書いているわけだが、これは「安のグループが複数人で計画した」という意味に読むのが自然で、実際に禹徳淳らが蔡家溝で待ち構えていたことと符合する。ロシア国家が黒幕だという読み方には飛躍がある。

背後組織説、いわゆる鉄砲玉説。

安重根を撃たせた別の主体がいる、という枠組みだ。当時からいくつも流れた。事件の二日後の東京日日新聞には、キリスト教系の秘密結社とアメリカの陰謀という説が載った。ロシア国籍の朝鮮人である崔才亨が暗殺を命じたという説も当時の新聞に出た。外務書記官として満洲にいた本多熊太郎は、在ハルビン朝鮮人を牛耳るロシア国籍の金某が安重根に手引きしてやらせたものだと断言し、事件後に外務省が協議して朝鮮独立運動の拠点を根絶やしにする措置を取ったと書き残している。

反証としては、安が法廷で一貫して自分の意思と説明し、組織的背景については逆に「大韓義軍の参謀中将として戦争行為として行った」と主張していること。彼は隠すどころか、組織性を積極的に主張した側だ。ただし彼が挙げた「大韓義軍」は、自伝を読む限り事件時点ではすでに解散状態で、武装勢力としての体裁をなしていなかったという指摘もある。ここは韓国側と日本側で読み方が真っ二つに割れる。

法廷の安重根――十五の理由と、「私は捕虜だ」という主張

裁判の話をしよう。

事件現場は清国領で、しかも東清鉄道の付属地。犯人は韓国人。この管轄がややこしい。結論から言うと、一九〇五年の第二次日韓協約によって在外韓国人の保護が日本の管轄になっていたこと、清国が韓清通商条約で韓国人に治外法権を認めていたこと、そして日本が一九〇八年に満洲における領事裁判に関する法律を整備していたことによって、旅順の関東都督府地方法院が日本刑法で裁くことになった。清国は自国内で起きた事件でありながら、一切干渉できなかった。

十一月十三日に予審が始まり、十六日に結審。公判は一九一〇年二月七日に始まり、八日、九日、十日に論告、十二日に弁論、十四日に判決と、連日開かれた。傍聴席二百は連日満員で、日本の軍官憲のほか、ロシアや韓国の弁護士も傍聴していた。

予審で検察官の溝淵孝雄に動機を問われた安は、伊藤を殺した十五の理由を列挙した。これが当時の新聞で日本にも世界にも広く報じられた有名な陳述だ。

中身を要約すると、こうなる。十年ほど前に伊藤の指揮で韓国の王妃を殺害したこと。五年前に兵力をもって条約を締結したこと。三年前の条約が軍事上きわめて不利益だったこと。韓国皇帝の廃位を強いたこと。韓国の軍隊を解散させたこと。義兵が起こったのに関連して韓国の良民を多数殺させたこと。韓国の政治その他の権利を奪ったこと。韓国の学校で使われていた良い教科書を焼却させたこと。韓国人民に新聞の購読を禁じたこと。あてる金もないのに素行のよくない韓国官吏に金を与えて第一銀行券を発行したこと。韓国民が負担することになる国債二千三百万円を募って知らせなかったこと。東洋の平和を攪乱したこと。韓国が望まないのに保護に名を借りて不利益な施設を行っていること。四十二年前に現天皇の父君を失わせたこと。そして韓国民が憤慨しているのに日本皇帝や世界各国に対して韓国は無事だと偽っていること。

十四番目、孝明天皇の件を口にしかけたところで、過激発言だとして真鍋十蔵裁判長が公聴を中断し、傍聴人に退廷を命じている。この項目については史実として裏づけがなく、当時の朝鮮で流布していた風説を安が信じていたものと見られる。

ただ、彼が「伊藤は韓国の逆賊であるだけでなく日本の大逆賊でもある」という論理構成を取ろうとしていたことは、彼の思想を理解するうえで見逃せない。彼は「日本という国」を敵と定義していない。伊藤という個人の政策を敵と定義した。この区別は、のちに彼が書きはじめた『東洋平和論』の骨格につながっていく。

弁護についても触れておく。

安の弟の安定根は兄の写真で五種類の絵葉書を作り、ハワイに三百枚、サンフランシスコに五百枚を送って募金を集めた。集まった金のうち一万円という大金でイギリス人弁護士ダグラスを雇い、二千四百円を家族の保護に充てている。ロシア人弁護士ミハイロフ、韓国人弁護士のアン・ビョンチャンも名乗り出た。だが外国人弁護人はいずれも法廷から排除され、官選の日本人弁護士二名がつくことになった。

官選弁護人の一人、鎌田正治は、まず管轄そのものを争った。清国での犯罪について韓国人に日本の裁判権は及ばない、韓清通商条約による治外法権があるのだから韓国刑法を適用すべきだ、と。これは真鍋裁判長に退けられただけでなく、安本人からも「人を殺して裁く法がないとは道理が合わぬ」と不満を述べられている。この場面、なかなか味わい深い。被告が弁護人の技術論を嫌がっているんだよな。

主任官選弁護人の水野吉太郎は、別のアプローチを取った。安の行動を幕末の志士になぞらえ、安は朝鮮の志士であるという弁論を展開して情状酌量を求め、殺人罪として最も軽い懲役三年が妥当だと主張した。日本人弁護士が、日本の初代首相を殺した被告を「志士」と呼んだ。この弁論は結果的に容れられなかったが、記録として残った。

安自身は結審の二月十二日、こう抗議している。私は個人的にやったのではなく義兵としてやったのであるから、戦争に出て捕虜となってここに来ている者だと信じているので、私を処分するには国際公法、万国公法によって処断されることを希望する、と。交戦者資格に基づく捕虜としての扱いを要求したわけだ。これは容れられなかった。

判決は二月十四日午前十時三十分ごろ。

ロシア法学士ヤブゼンスキー夫人、韓国人弁護士のアン・ビョンチャン、ロシア人弁護士ミハイロフとロシア領事館員、安の従弟の安明根、そして多数の日本人記者が傍聴するなか、真鍋裁判長が言い渡した。安重根は殺人罪で死刑。禹徳淳は殺人予備罪で懲役三年。曹道先と劉東夏は殺人幇助罪で懲役一年六か月。

共犯者の刑が比較的軽かったことには、朝鮮でも欧米でも驚きがあったという。通訳として同行しただけで暗殺計画を知らなかったと供述していた劉東夏は、判決を聞いて「早く家に帰してくれ」と泣き出し、動かなくなって廷丁に抱えられて退廷した。

関東都督府法院は二審制で、高等法院への控訴は可能だった。だが四人とも控訴していない。安は上訴してさらに政治的主張を述べようとしていたが、弁護人の水野が、そんなことをしても棄却されるか上訴審が非公開になるだけだ、それどころか「朝鮮の志士が死を恐れるために控訴した」と思われてしまう、と諭したため、二月十九日に上訴取り下げに同意した。刑が確定した。

旅順監獄の、あまりに奇妙な空気

死刑判決から執行まで、通常なら二、三か月の猶予が与えられるはずだった。裁判を統轄した判事もそう考えていた。だが日本本国の政府は、事件の重大性に鑑みて速やかな執行を命じた。奪回の動きも警戒され、看守が増員され、周辺の巡回警備が強化された。

その一方で、旅順監獄のなかで起きていたことは、常識で考えると相当に異様なんだよな。

日本の元勲を殺した死刑囚に、墨と筆と絹の白布が差し入れられ、揮毫が許されていた。安はこの獄中で二百点以上とも言われる書を残している。「一日不讀書口中生荊棘」、一日書を読まざれば口中に荊棘を生ず。この一枚はいま韓国の宝物に指定されている。

看守の千葉十七は、当初は伊藤を暗殺した安を憎んでいた。ところが対話を重ねるうちに、安の思想に共感を覚えるようになっていく。処刑の直前、安は千葉に「先日あなたから頼まれた一筆を書きましょう」と告げ、「為国献身軍人本分」、国のために身を献ずるは軍人の本分なり、と書いた。署名し、断指同盟で薬指を切った左手の墨形を押した。そして「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったという。

千葉は日本に帰ってから終生、安の供養を欠かさなかった。この千葉十七の生涯を追った斎藤泰彦『わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯』という本があって、日本語でこの事件を考えるときの重要な一冊になっている。

典獄、つまり刑務所長だった栗原貞吉も感化された一人だ。安の願いを聞いて煙草などを差し入れ、法院長や裁判長に掛け合って助命嘆願まで試みている。死刑囚の助命を刑務所長が上に掛け合うというのは、普通のことではない。処刑前日には絹の白装束を安に贈り、厚い松板でこしらえた特別な棺まで用意していた。栗原は執行後、しばらくして退任し、故郷の広島に帰っている。

主任弁護人の水野吉太郎も、処刑の朝の面会に同席した。腹を割って話し込み、安からキリスト教への改宗を勧められ、「天国で共に語り合おう」と言われている。彼は手帳に安の親筆を得ていた。別の看守の八木という人物も安の墨書をもらって持ち帰り、その孫にあたる八木正澄氏が二〇〇四年に韓国へ無償で寄贈している。

なぜここまで厚遇されたのか。

大野芳の本は、これを陰謀の傍証として読む。関係者は真相を知っていて、人身御供にされた安に心から同情していたからではないか、と。もう一つの読み方は単純で、獄中の安の人格と態度が、接した日本人たちを個人的に動かしたというものだ。証拠はどちらにもない。ただ、記録に残っている行動――揮毫の許可、助命嘆願、特別な棺、生涯の供養――は、事実として動かない。

一九一〇年三月二十六日、午前九時。伊藤の月命日、そして伊藤が絶命した時刻に合わせて、死刑が執行された。

立会人は溝淵孝雄検察官、園木末喜通訳、栗原貞吉典獄、水野吉太郎弁護士ら。キリスト教の祈祷をする猶予が与えられたあと、栗原が死刑執行文を読み聞かせ、遺言の有無を尋ねた。安は、別に遺言はないが、臨検する諸君が「東洋平和のために御尽力される」ことを願う、とだけ言った。九時四分ごろ絞首台に登り、最後の黙祷をして、十五分後に絶命した。水野は安の志を尊重して執行後に皆で「東洋平和のため万歳三唱」をすることを願い出たが、刑務官に許されなかった。

遺体は検死のあと、栗原が用意していた棺に納められ、一時、監獄内の教会堂に安置された。同じ監獄で服役中だった禹徳淳、曹道先、劉東夏の三名で告別式が行われている。弟の安定根と安恭根が遺体の引き渡しを嘆願したが拒否され、午後一時には旅順共同墓地に埋葬された。

彼が獄中で書いていた『東洋平和論』は、序文を書き終えたところで途切れている。日清韓の三国が兄弟のように協力して東洋の平和を保つべきだ、という構想だった。執行を待ってもらえれば書き上げられたのに、というのが、韓国側でしばしば語られる悔恨だ。

「伊藤は併合反対派だった」は、どこまで本当なのか

ここが、この事件をめぐる議論でいちばんこじれる場所だ。

ネット上でも研究の世界でも、繰り返し出てくる論法がある。安重根は韓国独立のために伊藤を撃った。しかし伊藤は韓国併合に反対していた。つまり安は、韓国にとって最も穏健な相手を消してしまい、結果として併合を早めた。皮肉な悲劇だった――という筋書きだ。

日本語圏の掲示板やSNSでこの事件が話題になると、ほぼ必ずこの形が出てくる。日本語版の百科事典サイトの注釈にすら「韓国併合反対派の伊藤博文を殺す理由が無いため、今もなお暗殺の動機は不明である」という趣旨の記述が入っていて、これがまた孫引きで広がっていく。

だが、史料に当たると、この前提はそう単純ではない。

たしかに伊藤には、韓国は保護国に留めるべきだという日露戦争以前からの腹案があった。一九〇七年七月二十九日、第三次日韓協約の締結直後の在韓新聞記者招待晩餐会で、彼はこう演説している。日本は韓国と合併する必要はない、合併は甚だ厄介である、韓国は自治を要す、ドイツにおけるバイエルンのように、日本は韓国に対して雅量を示す必要がある、と。

これは明確な併合否定論に読める。伊藤直筆のメモにも、併合後の韓国に八十人の地方選出議員による衆議院と五十人の元老選出議員による上院を置き、日本人「副王」の下に韓国人による責任内閣をつくる、という構想が書かれている。

ところが同時に、こういう記録もある。

一九〇九年四月、伊藤は首相の桂太郎と外相の小村寿太郎に対して、韓国併合に賛意を表明している。そして七月六日、桂内閣は「適当の時期に韓国の併合を断行する事」を閣議決定した。伊藤はこの決定に反対していない。統監を辞したのはその二か月前の六月だ。

つまり、暗殺の四か月前の時点で、日本政府として併合方針はすでに決まっていて、伊藤はそれを了承済みだった。

韓国の研究者による分析も、似たところに着地している。伊藤は統監就任時には「保護統治」の枠組みで臨んだが、内外からの反発に直面して「実質的併合」へ、さらに韓国側の激しい抵抗に直面して「即時併合」路線を受け入れていった。他の政治勢力と比べれば漸進的で慎重ではあったが、方向としては同じ道を歩いていた、という整理だ。

だから、「伊藤は併合反対派だったのに殺された」というのは、半分正しくて半分間違っている。

彼が慎重派だったのは事実。だが最終段階では併合方針を受け入れていたのも事実。そして韓国側から見れば、第二次日韓協約による外交権の剥奪も、高宗の退位も、軍隊解散も、すべて伊藤が統監として主導したことだ。安重根が挙げた十五の理由は、そのほとんどが実際に起きた出来事を指している。「併合には慎重だったが、保護国化と内政掌握は主導した人物」を、被支配側がどう評価するかという問題であって、「反対派だから殺す理由がない」という論法は、被支配側の視点を計算に入れていないんだよな。

同時に、伊藤の側にも見ておくべき顔がある。彼は明治憲法の起草を主導し、初代の内閣総理大臣を務め、政党政治への道筋をつけた人物だ。日本国内での評価が高いのは当然で、一九六三年から一九八六年まで千円札の肖像だった。

同じ一人の人間について、片方の国が近代化の父と呼び、片方の国が侵略の元凶と呼ぶ。この非対称が、事件の評価をどこまでも引き裂いていく。

撃たれた後、併合はどう加速したか

事実関係を整理しておこう。

前述のとおり、併合の方針そのものは一九〇九年七月六日の閣議決定で既に固まっていた。だから「暗殺があったから併合が決まった」というのは正確ではない。ただし「暗殺が併合を早め、性格を変えた」という言い方なら、かなり成り立つ。

まず、国際協調派の重鎮が消えたことで、日本国内では軍閥の発言力が増した。一九一〇年三月二十日、山県有朋・桂太郎・寺内正毅の三人が会談し、統監の曾禰荒助を解任して合邦を断行することで合意したとされる。五月三十日、寺内正毅が陸軍大臣兼任のまま韓国統監に任命された。文官から武官への交代だ。

六月三日の閣議で併合後の施政方針が決まり、日本憲法は施行しない、天皇に直隷する総督が政務を統轄して法律に代わる命令の布告権を持つ、という体制が定められた。伊藤のメモにあった議会と責任内閣の構想は、跡形もなく消えている。

七月八日の閣議で併合実行細目が決定され、寺内は七月二十三日に漢城に着任した。八月十六日、寺内は李完用首相を統監官邸に招き、併合は「合意的条約」によるべきことを述べて併合方針覚書を手交した。李完用は国号として韓国の名を残すこと、皇帝には王の尊称を与えることを強く求めたが、日本政府はこれを認めなかった。

八月二十二日、韓国側の午前会議。

寺内の受けた報告では、皇帝が統治権譲与の要旨を宣示し、全権委任状に自ら署名して国璽を押し、それを内閣総理大臣に下付した、列席者はいずれも異議を唱えなかった、とされている。

ところが同じ会議に出ていた中枢院議長の金允植が日記に書き残した実態はまったく違う。諸臣はあい顧みて色を失った。興王は答えるに極まりなしと言い、総理の李完用は答えるに勢いいかんともするなしと言い、自分は答えるに不可と言った。他の大臣は皆、言葉がなかった。そして退出した、と。

公式報告と当事者の日記が、これほど違う。

同日、李完用と趙重応が統監官邸を訪れ、日韓両文の「韓国併合に関する条約」の調印書二通に、寺内正毅と李完用が記名調印した。第一条には「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本皇帝陛下ニ譲与ス」とある。韓国側から譲り渡す形式になっているのは、それまでの諸条約で日本が韓国の自主独立を保障すると繰り返し確認してきた以上、韓国側から希望する形にせざるを得なかったからだ、という読み方がされている。

日本では同じ日の午前十時四十分から、天皇臨席の枢密院会議が開かれ、条約案と関連勅令案を審議して可決、十一時四十五分に閉会。議長の山県有朋が奏上し、天皇が即座に裁可した。所要一時間五分である。

韓国では調印から八月二十九日の公布まで報道管制が敷かれ、新聞記者も知らされなかった。二十六日の山県副統監の記者会見で初めて知らされ、二十八日午後に条約文の提供を受けて、二十九日の紙面で報じた。

公布当日の京城と龍山の様子は、日本側の記録ではこう書かれている。韓人は掲示板の下に群集して勅語その他を閲読し、三々五々集まって囁く者もあるが、概ね平日と異なることなく、依然平穏にして警備上特別の処置をなす必要を認めず。

だがそれは冷静に受け止めたからではなく、厳しい警備弾圧態勢のもとで息をひそめるほかなかったからだ、という指摘がある。

日本側では、東京の街に軒並み日の丸が掲げられ、記念の花電車に喜んで乗り込む人々の姿が見られた。

当時の新聞が書いたこと、そして書き間違えたこと

新聞報道の話も外せない。事件当時から情報は錯綜していて、その錯綜自体が後の陰謀論の苗床になった。

十月二十七日付の各紙のなかには、三井物産会社着電をもとに「五六名の韓国人に狙撃され」たと報じたものがある。大連発の本社着電をもとにした東京日日新聞は「歓迎者に混じ居たる韓人数名に狙撃され」と報じた。逮捕者についても、蔡家溝で新たに「拳銃を持てる朝鮮人二名を捕縛」と報じられた。

この初期報道群が「複数犯」の印象を最初に社会に広げたのは、まず間違いない。実際には蔡家溝で捕まったのは待機していた禹徳淳と曹道先だから、複数犯であることは事実なのだが、「複数の狙撃手がホームで撃った」という話とは別のことなんだよな。

犯人の名前も最初は分からなかった。速報段階では兇漢は「二十歳ぐらいの朝鮮人」とされ、二十八日付の第一報で氏名は「ウンチアン」または「ウンチヤン」として報じられた。

この名前をめぐって、当時の統監府警視だった相葉清が面白い回顧を残している。

十月二十六日の夜遅くに事件の報せがあり、「ウン・チアンという朝鮮人が伊藤統監を殺した。彼に関する調査記録を送れ」との指令が来た。統監府には非常招集がかかり、深夜に幹部会議が開かれた。ところが手元の名簿に「ウン・チアン」という名前がない。そもそも「ウン」という姓の朝鮮人が、国勢調査に記録がなかった。

行き詰まっていたところで、一人の課長が気づいた。ロシアの検察が調査した名前なら、西洋式に名・姓の順で書いたのではないか。そこで逆にして「アン・ウンチ」と読んでみると、似た発音の「アン・ウンチル」、つまり安應七が名簿から出てきた。そして安應七が安重根であることが判明した。事件当夜の役所の混乱ぶりが伝わってくる。

日本国内の反応も一様ではなかった。

石川啄木は岩手日報への通信で伊藤を追悼しつつ、こう書いている。その損害は意外に大きいけれども、自分は韓人の憐れむべきを知って、いまだ真に憎むべき理由を知らない。寛大にして情を解する公もまた、自分と共に韓人の心事を悲しんだであろう、と。

与謝野寛は伊藤を悼む歌のなかで「伊藤をば惜しと思はば戦ひを我等のごとく皆嫌へ人」と詠んだ。伊藤の国葬は十一月四日に行われた。

遺骨は、どこへ行ってしまったのか

安重根は「解放後の韓国への移葬」を遺言していた。ところが三十五年後に解放が来たとき、埋葬場所を知る者がいなかった。墓も遺骨も、いまだに見つかっていない。

韓国ではしばしば「日本軍が隠した」という主張がなされる。だが同じ監獄の日本人医師だった古賀初一や、同様に処刑されて共同墓地に埋葬された李会栄の子と孫も、安の墓に参ったことがあると証言している。特別に隠されたというより、裏山にあった共同墓地が管理されなくなって、正確な場所が分からなくなっただけではないか、という見方が有力だ。

一九九二年に韓国と中国が国交を回復したあと、一部の関連資料が発見され、埋葬推定地の調査が行われた。韓国と北朝鮮は二〇〇五年から二〇〇七年にかけて文献調査を行い、共同調査団を組んで旅順監獄の現地調査もしたが、成果はなかった。李明博大統領は任期中に没後百年を迎えることから、二〇〇八年と二〇一〇年に国家報勲処に発掘調査をさせた。監獄西北の野山、約六千六百平方メートルという広大な範囲を掘ったが、何も出なかった。

日本側への資料提供要請も続いている。二〇一一年に外務大臣に就任した松本剛明衆院議員は、伊藤博文の玄孫にあたるという縁もあって「遺骨関連記録を必ず探し韓国側に引き渡したい」と述べたが、進展はなかった。伊藤の子孫が安の遺骨探しに言及するというのは、それだけで一つの物語になりうる場面だったが、結果は出なかった。

異説もある。二〇一六年には、韓国の歴史作家が「遺骨は日本にある、東京の伊藤博文の墓に送られた」という主張を発表して報じられた。二〇一九年には、旅順にあったデンマーク人が造ったキリスト教墓地に運ばれたという内容の、一九一〇年四月付のロシアの新聞記事の記録が見つかったと報じられた。どちらも決定的な裏づけには至っていない。

ハルビン駅の記念館と、二〇一四年の応酬

現在進行形の論争にも触れておかないといけない。ここは慎重に、事実だけを並べる。

二〇一三年六月、韓国の朴槿恵大統領が訪中して習近平主席との首脳会談で、安重根の義挙現場に記念表示石を設置してほしいと要請した。中国はこれに前向きに応じ、さらに規模を上げて記念館の設立で応えた。

二〇一四年一月十九日、ハルビン駅の狙撃現場の前にあった貴賓待合室の一部、約二百平方メートルを改造して「安重根義士記念館」が完成し、翌日から一般公開された。館内からはガラス越しに、現場となったプラットホームが見える構造になっていた。

日本政府は反発した。外務省の伊原純一アジア大洋州局長が中韓両国の駐日公使に電話で抗議した。菅義偉官房長官は記者会見で「極めて残念であり、遺憾だ」と述べ、安重根について「わが国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだ」と表現した。

韓国外交部は報道官名義で「歴史の良心に目を閉ざす菅官房長官を糾弾する」という論評を出し、安重根は「韓国の独立と東洋の真の平和を守るために献身した偉人」であり「韓国はもちろん国際的にも尊敬される英雄」だと強調した。中国外務省の報道局長は「安重根は歴史的に著名な抗日義士」だと述べた。

同年二月、鈴木貴子衆院議員の質問主意書に対する政府答弁書が閣議決定され、そこでは安重根を「伊藤博文を殺害し、死刑判決を受けた人物」と位置づけた。「テロリスト」という語は答弁書には入らず、この表現が現在の政府見解として定着している。官房長官の会見発言と、閣議決定を経た答弁書とで、言葉が一段階、事実記述に寄せられている。この温度差自体が、政府としての落としどころだったのだろう。

記念館はその後、二〇一七年三月にハルビン駅の改築工事のため突然閉鎖され、ハルビン市朝鮮民族芸術館に一時移転した。駅の改築は二〇一五年十一月から二〇一八年十二月まで三年かかった。二〇一九年三月三十日、記念館は駅に戻って再開館した。規模は約二倍。

ただし、二〇一四年の開館時には黒竜江省の副省長ら要人が出席していたのに対し、再開館時には公式の記念行事は行われず、地元紙に短い告知が出ただけだった。当時、日中関係が改善に向かっていたことへの配慮ではないか、という観測が出た。プラットホームの床にあった、狙撃地点と被弾地点を示す表示石も復元された。

この一連の経緯で分かるのは、この記念館が単なる歴史展示ではなく、その時々の三国関係の温度計として機能してしまっているということだ。開館のタイミングも、閉鎖のタイミングも、再開館のときの静けさも、全部が外交情勢と連動している。歴史の記憶が外交カードになると、こういうことになる。

この話は、ネットの上でどう転がっているか

日本語圏のインターネットでこの事件が話題になるときの定番は、さっき書いた「伊藤は併合反対派だった説」だ。歴史の皮肉として消費されやすいし、実際、まったくの嘘ではないから厄介なんだよな。これに対して「一九〇九年四月には併合に賛意を表明している」「七月六日に閣議決定されていて伊藤も反対していない」という反証が投げられて、議論が延々ループする。

もう一つ定番なのが室田義文の話で、「実は真犯人は別にいた」という語り口は圧倒的にバズる。大野芳の本が二〇〇三年に出て以降、この説はかなり広く知られるようになった。ただ、二〇一六年の黒崎裕康の駅舎構造の分析まで追いかけている人はぐっと少ない。おいしい仮説だけが独り歩きして、地味な反証は拡散しない。ネットの構造上、これはもうどうしようもない。

韓国側では、安重根は独立運動の象徴として揺るぎない位置にある。ソウルの南山公園には安重根義士記念館があり、二〇一〇年に没後百年を記念して新館が建てられた。韓国海軍の潜水艦にも「安重根」の名がついている。

二〇二四年には、ウ・ミンホ監督の映画『ハルビン』が公開された。ヒョンビンが安重根を演じ、日本のリリー・フランキーが伊藤博文を演じている。第六十一回百想芸術大賞で作品賞を受賞し、日本でも二〇二五年七月に公開された。

この映画の作り方が、日韓双方のネットでちょっとした話題になった。ウ・ミンホ監督はインタビューでこう語っている。韓国で大韓義軍を扱った作品では伊藤博文はたいてい非常に卑劣な人物として登場するが、そこに違和感を覚えていた。伊藤博文は日本の近代化に大きく貢献した偉大な政治家で、英雄的な側面もある人物だ。だからカリスマ性と品格が必要だと考えて、その思いをリリー・フランキーと繰り返し共有した、と。

日本の観客の反応は割れた。伊藤の描き方が想像より重厚だったことへの驚きが多い一方で、韓国人俳優が演じる日本人の日本語が聞き取りづらいという不満や、暗殺が支配を打ち砕いたかのように描くのは大局を見誤っているという批判も出ていた。日本のレビューサイトを眺めていると、政治的な拒絶反応よりも「暗くて誰が誰だか分からない」という映像面の感想のほうが多かったりして、それはそれで時代の変化を感じる。

過去には摩擦もあった。二〇一三年のサッカー日韓戦でサポーター席に安重根を描いた大垂れ幕が掲げられ、政治色の排除が求められるスポーツイベントでの行為として批判を呼んだ。逆に韓国では、二〇一六年に人気アイドルグループのメンバーが番組で安重根の写真を見て別人の名を答えてしまい、大きな批判を浴びて涙ながらに謝罪するという出来事があった。

歴史上の人物の顔を知らないことが公の謝罪案件になる社会と、そもそも名前も知らない人が多い社会。この落差そのものが、二つの国のあいだにある溝の形をよく表している。

史料で確認できること、確認できないこと

いったん整理しよう。感情を抜いて、何が確定していて何が確定していないのかを分ける。

確認できることから。一九〇九年十月二十六日午前九時にハルビン駅に伊藤の列車が到着したこと。ココフツォフと車内で会談したこと。九時三十分ごろにホームで銃撃が起き、伊藤に三発が命中し、川上俊彦、田中清次郎、森泰二郎の三名が負傷したこと。伊藤が午前十時ごろに絶命したこと。安重根が現場で取り押さえられ、ブローニング拳銃を所持していたこと。彼が一貫して犯行を認め、十五の理由を陳述したこと。旅順の関東都督府地方法院で一九一〇年二月十四日に死刑判決を受け、三月二十六日に執行されたこと。検死および小山善侍医の尋問調書が、三発とも右側から水平に射入したと記録していること。事件の三か月以上前、七月六日に併合方針が閣議決定されていたこと。翌年八月二十二日に併合条約が調印されたこと。これらは複数の独立した史料で裏づけがある。

確認できないこと。伊藤の体内から摘出された弾丸の実物が、その後どうなったか。摘出された弾の口径と種類を、独立に検証した記録があるかどうか。現場の弾痕が正確に何個で、どういう手続きで計数されたのか。室田義文の後年の証言と公判での証言が食い違う理由。遺品のシャツ背面の弾痕がどの弾によるものか。ハルビン駅の一階食堂の高窓から、実際に射線が通ったかどうか。そして最大の問題として、第二の射手が存在したことを示す一次史料が、いまだに一点も出ていないこと。

つまり、第三者狙撃説を成り立たせる証拠も、それを完全に葬り去る証拠も、どちらも足りていないんだよな。

ただし立証責任という観点からいえば、公式記録と現行犯逮捕と自白がそろっている単独犯説のほうが圧倒的に有利で、それを覆したいなら覆す側が物証を出さなきゃいけない。百十年以上、それが出ていない。だから学術的な主流は動いていない。同時に、手続きの杜撰さと室田の奇妙な証言という「気持ちの悪い残りかす」も消えない。この宙ぶらりんの状態が、この事件をずっと面白くしてしまっている。

なぜ百十七年たっても燃え続けるのか

さて、ここからは一段深く潜る。事実関係のおさらいではなく、この事件が燃え続ける構造そのものを分解してみたい。

まず気づいてほしいのは、この事件が「三つの国の記憶が同じ一点で交差する、きわめて珍しい座標」だということだ。

ハルビンは当時、清国の領土でありながら東清鉄道の付属地としてロシアが実効支配していた。そこで、日本の元老が、大韓帝国の国籍を持つ人物に撃たれた。裁判をやったのは日本で、場所は関東州の旅順。清国は自国領内の事件でありながら口出しできず、ロシアは自国の警備下で起きた事件でありながら容疑者を即座に引き渡した。

四つの国家が関わっていて、しかもそのうち三つは現在すでに存在しない。清朝も、ロシア帝国も、大韓帝国も、大日本帝国も、全部消えた。消えた国のあいだで起きた事件を、その後継国家である中華人民共和国、大韓民国、日本国が、それぞれの立場から記憶している。この地層のねじれ方が、他の暗殺事件と比べても異常に複雑なんだよな。

次に、事件そのものが持つ「時間の短さ」の問題がある。

銃撃から取り押さえまで三十秒から四十秒。伊藤が撃たれてから絶命するまで三十分。合計しても一時間に満たない。この短さのなかに、儀仗兵と軍楽隊、四か国の外交団、在留日本人団、鉄道警察、そして群衆がひしめいていた。証言者は大量にいるのに、誰も全体を見ていない。

室田は爆竹だと思っていた。ココフツォフは伊藤が自分にもたれかかってきて初めて事態を理解した。安重根自身、相手が伊藤かどうか確信が持てないまま撃っていたと供述している。全員が部分だけを見て、部分だけを語った。そこから「一つの真実」を再構成しようとすれば、必ず隙間ができる。陰謀論は、その隙間に住みつく。

しかもこの事件は、証拠保全という近代刑事司法の基本が驚くほど機能していない。

遺体は翌日には大連のホテルへ運ばれ、その一室で防腐処理のついでに弾丸が摘出されたと推定される。ホームの現場保存も、弾痕の系統的な記録も、摘出弾の証拠化も、およそ現代の基準では考えられない。裁判に提出された証拠金品目録には、ブローニング式短銃一挺と発射した弾丸一つしか記載がない。田中清次郎に当たったとされる一発を除いて、弾は法廷に出てきていない。

ここが致命的に効いている。もし摘出弾が保全され、口径が記録され、鑑定書が残っていたら、室田説は三十年後に生まれた瞬間に検証できていた。逆に、記録がないから室田説は否定もできない。この「否定できなさ」が、九十年以上、燃料を供給し続けている。

室田義文という人物を、どう扱うか

ここで一つ、冷静に考えたい論点がある。彼を嘘つき呼ばわりするのは簡単だが、たぶんそれは正しくない。

彼は事件の一か月足らずの時点で、下関の区裁判所で「公爵を狙撃したのはこの写真の人物ではなく他の者ではないか」と述べている。九十歳を過ぎた老人の記憶違いという説明は、この一九〇九年十一月の陳述には使えない。一方で彼は、公判に提出された記録では安の犯行を目撃したと述べている。同じ人間が、同じ時期に、違うことを言っている。

これをどう読むか。

一つの読み方は、彼が「自分を撃った男」と「伊藤を撃った男」を別人だと認識していた、というものだ。実際、彼の下関での陳述はそういう構造になっている。写真の男は自分を撃った人物に相違ないと思う、しかし公爵を撃ったのは別だろう、と。つまり彼の主観のなかでは、複数の射手が別々の対象を撃ったという体験になっていた。

三十秒から四十秒の混乱のなかで、複数方向から音がして、複数の人間が倒れた。しかも彼自身が標的の一人だと思っていた。そういう状況で人間の知覚がどう歪むかは、現代の目撃証言研究がさんざん教えてくれる。嘘ではなく、誠実な誤認。これがいちばんありそうな線だと思う。

だが同時に、彼が三十年間その確信を捨てず、孫に語り続け、遺著に書き残したという事実の重みも、簡単には割り引けない。彼は伊藤の三メートル後ろを歩いていた。誰よりも近くにいた男が、生涯にわたって「あれは違う」と言い続けた。この不気味さは、論理では消えない。

完璧すぎる動機は、それ自体が警戒信号だ

もう一つ深掘りしておきたいのが、「動機の非対称性」という問題だ。

併合推進派関与説の魅力は、動機がきれいに説明できるところにある。伊藤は漸進派で、即時併合を望む勢力にとって障害だった。だから消した。ストーリーとして完璧すぎる。

だが、完璧すぎる動機というのは、それ自体が警戒信号なんだよな。歴史における謀略の多くは、こんなにきれいな図式にならない。

しかも、この説には決定的な難点がある。仮に長州閥の陸軍首脳が伊藤暗殺を計画したとして、実行のためにわざわざハルビンという、ロシアの警備下にある外国の駅を選ぶだろうか。失敗のリスクも、外交問題化のリスクも、露見のリスクも、国内でやるより桁違いに高い。しかも実行のタイミングを、朝鮮人独立運動家が独自に伊藤を狙っているまさにその瞬間に合わせなければならない。

安重根が『遠東報』を読んで伊藤の来訪を知り、ぎりぎりの資金繰りをしながら一人でハルビンに戻ってきた経緯を追うと、この人物の行動を外部から精密に制御できたとは考えにくい。偶然に依存しすぎている。

さらに言えば、日本の近代史はこの種の謀議に関して、ものすごく史料が残る世界だ。日記、書簡、回顧録、後年の座談会。関係者が老いてから饒舌になるのが日本近代のパターンで、実際に室田自身がそうやって語っている。それなのに、伊藤暗殺の謀議に関わったという内部証言は、一つも出てこない。関わった人間が全員、生涯完璧に沈黙を守ったと考えるより、そもそも謀議がなかったと考えるほうが自然だ。少なくとも、現在の史料状況ではそう言うしかない。

では、この事件はなぜ「単独犯でした、以上」で終われないのか。三つ理由があると思う。

一つ目は、結果があまりに大きすぎるということ。日本の初代総理大臣であり明治憲法の起草者である人物が、外国の駅頭で射殺された。そして翌年、大韓帝国が消滅した。この因果の落差に対して、「三十歳の独立運動家が一人で拳銃を撃った」という原因はあまりに軽く見える。人間の脳は、大きな結果には大きな原因を求めるようにできている。二十世紀の他の有名な暗殺事件が半世紀以上論争されるのと同じ構造だ。実行犯一人では釣り合わない、と感じてしまう。それは論理ではなく、心理だ。

二つ目は、この事件の評価が、現在の国家アイデンティティに直結してしまっていること。安重根を「義士」と呼ぶか「テロリスト」と呼ぶか「死刑判決を受けた人物」と呼ぶかは、単なる語彙選択ではなく、植民地支配をどう位置づけるかという問題に直結する。だから議論が歴史学の枠に収まらない。二〇一四年の記念館をめぐる応酬を見れば分かるとおり、これは外交案件でもある。歴史学者が「単独犯です」と言っても、それは論争の一部にしかならない。

三つ目は、そして個人的にはこれがいちばん大きいと思うのだが、事件の登場人物たちがあまりに人間的すぎることだ。

安重根を憎んでいたのに感化されて生涯供養を続けた看守の千葉十七。助命嘆願まで試みて、特別な棺を用意して、その後まもなく職を辞して郷里に帰った典獄の栗原貞吉。日本の初代首相を殺した被告を「朝鮮の志士」と呼んで懲役三年を求めた弁護人の水野吉太郎。そして、撃たれてブランデーを飲まされながら「馬鹿な奴じゃ」とだけ言った伊藤博文。

撃った側と撃たれた側、裁いた側と裁かれた側が、それぞれの立場のまま、それぞれに人間として振る舞っている。この記録があるから、この事件は単純な善悪の物語に閉じない。閉じないから、いつまでも語られる。

書かれなかった『東洋平和論』

あまり語られないが重要な視点を足しておきたい。安重根が何を目指していたか、という点だ。

彼は法廷で、自分は個人としてではなく義兵として行動したのだから捕虜として国際法で裁かれるべきだ、と主張した。この主張は退けられた。だが、彼が本当に欲しかったのは減刑ではなく、公開の法廷という舞台だった可能性が高い。

彼は「一刻でも長く生きて日本の暴挙を世界に告発する」と述べている。自殺も逃走もしなかったのはそのためだ。十五の理由の陳述は、当時の新聞を通じて日本にも世界にも報じられた。シンガポールの英字新聞にも載っている。彼は現代でいうところの、法廷を通じたメッセージ発信を狙っていた。

そして獄中で彼が書こうとしたのが『東洋平和論』だった。日清韓の三国が兄弟のように協力して、西洋列強に対抗しながら東洋の平和を保つ、という構想だ。

彼は取り調べのなかで、三人兄弟の寓話に託して「この三家は兄弟であることは明らかなのだから、同心にして他に当たれば三家を安全に維持することができる」と語り、「結局、伊藤のやり方が悪いために韓国は今日の状態に至ったので、もし奸策強制を加えなければ、無論、東洋は至って平和になっていることと思われます」と述べている。

彼が敵と定義したのは日本という国家ではなく、伊藤の政策だった。この構図は、皮肉なことに、伊藤自身が語っていた「日本は韓国と合併する必要はない、韓国は自治を要す」という一九〇七年の演説と、表面上はそう遠くない。二人は、東アジアの秩序について似た形の絵を描きながら、その絵のなかで誰が誰を指導するかという一点で、絶対に相容れなかった。

『東洋平和論』は序文だけで途切れた。もし彼が書き上げていたら、この事件の解釈はもう少し違っていたかもしれない。日本側は「テロリストの遺文」として無視することが難しくなり、韓国側は「英雄の遺志」としてだけ扱うことが難しくなったかもしれない。書かれなかったテキストが、両側の解釈をむしろ自由にしてしまった。これも歴史の皮肉の一つだ。

十歩の距離だけは、誰の解釈にも左右されない

最後に、この記事を書きながらずっと考えていたことを書いておく。

この事件について何かを断言したくなるとき、たいていそれは史料からではなく、自分がどういう物語を欲しがっているかから来ている。真犯人が別にいてほしい人は、室田証言に飛びつく。単純な英雄譚が欲しい人は、十五の理由を暗誦する。単純な犯罪として片づけたい人は、判決文だけを読む。どれも、史料の一部だけを拾っている。

史料の全体は、もっと居心地が悪い。

三発の弾はたぶん安重根が撃った。それでも室田は生涯「違う」と言い続けた。伊藤は併合に慎重だった。それでも統監として保護国化を主導し、最後は併合方針を受け入れた。安重根は殺人罪で有罪となり処刑された。それでも彼を看守した日本人たちは、彼に敬意を持った。併合の方針は暗殺前に決まっていた。それでも暗殺後、併合の性格は明確に強硬なほうへ転がった。全部が同時に本当だ。

百十七年前の十月の朝、北満洲の駅のホームで三十秒か四十秒のあいだに起きたことは、たぶんもう完全には分からない。摘出された弾はどこかへ消え、駅舎は取り壊され、証言者は全員この世にいない。それでも記録は残っていて、その記録は矛盾したまま残っている。この矛盾を「まだ隠されている真相がある」と読むこともできるし、「歴史とはそもそもこういうものだ」と読むこともできる。どちらを選ぶかは、たぶん歴史の問題ではなくて、その人の性分の問題なんだよな。

ただ、どちらを選ぶにしても、一つだけ確かなことがある。

ハルビン駅の一番プラットホームの床には、いま、狙撃地点と被弾地点を示す表示石が埋められている。二〇一七年の駅改築でいったん消え、二〇一九年に復元されたものだ。そこに立てば、十歩ほどの距離が実際にどれくらいなのかが分かる。あの朝、その十歩のあいだで、一つの帝国の未来と、もう一つの帝国の終わりが、同時に決まった。それだけは、誰の解釈にも左右されない。

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