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🪞 三種の神器は誰も見たことがない――天皇陛下も見ない”門外不出”の神宝

1989年1月7日、午前10時1分。皇居の新しい宮殿の正殿、松の間で、ごく短い儀式が行われた。侍従が剣と璽(じ、勾玉のこと)を捧げ持ち、新しい天皇の前に置かれた台へ、ゆっくりと載せていく。剣と璽のほか、国の印である国璽と御璽も、同じ台に並び、皇位を継ぐ者の前に、四つの品がそろう形だ。昭和天皇の崩御を受けた「剣璽等承継の儀」で、この場面は史上初めてテレビの画面に映し出された。

2019年5月1日にも、同じ儀式が午前10時30分から松の間で行われた。代替わりの当日だ。こちらはインターネットの中継にも乗り、画面の向こうで大勢の人が、同じ場面を息を詰めて見つめていた。映るのは捧げ持たれた包みの外側だけで、中身は誰の目にも入らない。

同じ儀式でも、装いはまるで違った。1989年は昭和天皇の喪中で、天皇も皇族も全員が喪服で臨み、2019年は譲位に伴う儀式だったから、皇族は燕尾服で並んだ。それでも、変わらなかったものがある。台に載った包みを、誰も開けなかったことだ。

天皇でさえ、この場で箱を開けて中を確かめることはない。オカルト誌が盛った話じゃないんだよな。宮内庁の関係者や研究者が、くり返し語ってきた、事実に近い伝承だ。いちばん大事な宝が、いちばん誰の目にも触れない。皇位の証でありながら、人の目からもっとも遠い宝物。

宝は全部で三種類ある。八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ、天叢雲剣とも)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三つだ。どれも皇位の証であり、日本という国の正統性を支える最重要の宝物にあたる。ところが承継の儀の台には、鏡だけが載らない。

鏡は宮中三殿の賢所(かしこどころ)に祀られる神体で、持ち出さない決まりになっている。承継の儀と同じ時刻に、賢所では「賢所ノ儀」が別に営まれ、天照大神へ皇位の継承が告げられる。鏡は儀式の場に姿を見せないまま、同じ時刻に賢所で、その朝の役目をきちんと果たすわけだ。ちょっと変わった段取りだよね。

宮中三殿は南を向いて建ち、中央が賢所、西が皇霊殿、東が神殿だ。両脇の皇霊殿や神殿より、床が一尺、およそ30センチほど高く造られ、三殿のなかでもっとも高貴な建物とされる。内部は外陣、内陣、内々陣に分かれ、外陣に入れるのは皇族だけ、内陣に入れるのは天皇と皇后だけとされる。天照大神を祀る内々陣は、そのさらに奥にある。

毎朝、内掌典(ないしょうてん)が日供を行い、天皇から差し遣わされた侍従が代わりに拝む。この神事は、一日も欠かさず続けられてきた。鏡の姿は誰にも見えないのに、鏡の前の暮らしは、毎日きちんと動いている。見えない鏡と、欠かさない朝の儀。

賢所では、毎月1日の旬祭に天皇が拝礼し、10月には神嘗祭賢所の儀、12月には賢所御神楽の儀が営まれる。どの儀式でも、拝む相手は扉の奥の鏡だ。人の目には、決して触れない。鏡は、いつも内々陣の奥。

岩戸の暗闇と、八つ首の大蛇の尻尾

由来は『古事記』と『日本書紀』の神話までさかのぼる。太陽神の天照大神は、弟スサノオの乱暴狼藉に怒って、天岩戸に閉じこもってしまった。世界は闇に包まれた。困り果てた八百万の神々は、岩戸の前で盛大な宴を開き、女神アメノウズメが半裸になって踊り狂う。

外の大騒ぎが気になって、天照大神は岩戸をほんの細く開け、差し出された鏡に映る輝く自分の姿を目にした。その光に誘われるように、天照大神は暗い岩戸の外へ、ゆっくりと歩み出た。世界に光が戻った瞬間だ。これが八咫鏡の始まりと語られる。鏡を作ったのはイシコリドメ、玉を作ったのは玉祖命だと、『古事記』は書く。

草薙剣のほうは、スサノオが出雲でヤマタノオロチを退治したとき、大蛇の尾から出てきた剣と伝わる。スサノオはこれを天照大神へ献上し、剣は高天原の神の手に渡ったが、燃える草原の話が出てくるのは、そのずっと先だ。

のちの時代、ヤマトタケルは東国へ向かう前に、伊勢で叔母の倭姫命から剣を授かった。道中で敵に草原へ火を放たれ、逃げ場のない窮地に陥ったとき、彼はこの剣で周りの草を薙ぎ払い、迫る炎を防いだという。「草薙剣」という名は、このとき草を薙いだことから付いたと伝わる。名前そのものが、火の中の一場面なんだ。

八尺瓊勾玉は、天岩戸の前でアメノウズメが踊ったとき、木の枝に飾られていた勾玉の首飾りとされる。三つのなかで、本体が皇居にあるのはこの勾玉だけだと語られる。形代を持たない、ちょっと特殊な神器だ。

天孫降臨のとき、天照大神は三つの宝を孫のニニギノミコトに授け、鏡には特別な言葉が添えられたと『日本書紀』の一書は書く。「この鏡を私だと思い、同じ床、同じ殿で祀りなさい」という趣旨の言葉だ。神話と今の皇室が、この三つで一本につながる格好。

宮中から外へ出された鏡と剣

三つの宝は、はじめ天皇のそばで祀られていた。ところが崇神天皇の時代に、鏡と剣は宮中から出され、宮の外で祀られることになったと『古語拾遺』は書く。このとき新しく作られたのが、形代(かたしろ、写しのこと)だ。

宮中に残ったのは、形代の鏡と形代の剣。本物は外へ出た。この日から神器は、本物と写しという二組の顔を持つ宝になり、本物の鏡は、のちに伊勢へ落ち着く。本物の剣が落ち着いた先は、尾張の熱田だ。

熱田神宮の由緒は、約1,900年前の景行天皇の御代にさかのぼる。東征を終えたヤマトタケルは、尾張でミヤズヒメ(宮簀媛)と結ばれた。「この剣を私の形影として祀るように」と言い残して、剣を妻のもとへ置いたまま、伊吹山の悪神を討ちに向かう。そこで命を落としたあと、尾張に残されていた剣を、ミヤズヒメが社を建てて祀った。それが熱田神宮の始まりだ。

熱田神宮は、中世以降「日本第三之鎮守」と呼ばれ、伊勢神宮と石清水八幡宮に次ぐ格式を持った。旧社格は官幣大社にあたる。神剣は1893年まで、土用殿という別の殿に祀られ、正殿には五柱の神が祀られていた。いまは本殿に、神剣と五柱の神がそろって祀られていて、剣の居場所は、時代ごとに少しずつ動いてきた。

鏡は伊勢、剣は熱田、勾玉だけが天皇のそば

面白いのは、三つが一か所にまとめて保管されていないところだ。鏡から話そう。八咫鏡の本体は、三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮に、御神体として祀られている。皇居の賢所に安置されているのは、その形代、神霊を迎えるための写しのほうだ。

草薙剣の本体は名古屋市の熱田神宮にあり、皇居にあるのはやはり形代だ。熱田神宮の説明では、祭神の熱田大神は、草薙神剣を御霊代(みたましろ)として宿る天照大神にあたる。剣そのものが、神の宿る場所として扱われているわけだ。

勾玉だけは話が違う。形代を作る必要がなく、古代からの本体が皇居にあると伝わる。置かれる場所は「剣璽の間」だ。御所にある天皇の寝室の隣の部屋で、土壁で塗り込めた造りだという。そこに、八尺瓊勾玉と草薙剣の形代が、並んで安置される。

天皇のいちばん近くで「共に暮らしている」神器は、実質的に勾玉のほうだ。天皇が眠る寝室の隣で、剣の形代と勾玉は、毎晩同じ夜を過ごす。鏡と剣は、そこから遠く離れた伊勢と熱田の神宮に、神そのものとして鎮座している。妙な配置だよね。

遷宮の夜、灯りがいっせいに消える

伊勢神宮は、20年に一度、社殿を建て替える。式年遷宮と呼ぶ行事だ。このとき御神体の鏡も、古い正殿から新しい正殿へ移り、2013年が第62回、次は2033年に予定される。移すのは夜と決まっていて、昼の光の下で運ばれることはない。

2013年の内宮。午後1時で一般の参拝が止まり、宇治橋が木の柵でふさがれた。定刻になると、宮域の灯りがいっせいに消え、浄闇(じょうあん)と呼ぶ完全な暗がりができあがる。鶏鳴三声が唱えられ、午後8時に勅使が出御を宣言した。

御神体は絹垣(きぬがき)という囲いに納められ、行障(こうじょう)という白い布で正面を覆われる。行列が進むのは、雨儀廊(うぎろう)と呼ばれる、特設の屋根の下だ。足もとには、真菰(まこも)の葉で編んだ薦と、白い麻の布が敷かれる。闇のなかを進む、白い布の一団。

この夜、内宮の桟敷席には3,000人の特別奉拝者が座り、遷御の列を静かに見守っていた。それでも桟敷から見えるのは、行障の白い布に隠れた行列と、その足もとだけだ。移御は午後8時37分に終わった。誰も、鏡の姿を見ていない。

見えないものを守るために、灯りを消し、布で囲い、足もとに敷物まで敷く。ここまで手間をかけること自体が、神器の重さの表れだ。

御神体を納める器は、御樋代(みひしろ)と呼ばれる。『皇太神宮儀式帳』は、その内径を一尺六寸三分、約49センチと書く。鏡の大きさを考える手がかりは、この数字と、八咫という名前だけだ。

「直径1尺の円周を4咫と数えれば、八咫鏡は直径2尺、46センチ前後になる」という説がある。福岡の平原遺跡から出た大きな内行花文鏡も、直径が46.5センチだった。桶の大きさと鏡の説は、ほぼ重なる。

鏡の姿を書いた古い記録も、ごくわずかだ。『御鎮座伝記』は、鏡の形を「八頭花崎八葉形」と記す。八つの花びらを持つ形、と読む説がある。分かるのは、そこまでだ。

台の上の剣と勾玉は、開けられない

承継の儀の台に載るのは、剣の形代と勾玉だ。布や箱に包まれたまま天皇の前に置かれ、開けて確かめる手順は、儀式のどこにも見当たらない。皇位の証は、見られることでなく、受け継がれることで働く。

「見ずに継承する」ことが皇室での作法だと言われ、その根っこにあるのが、依代(よりしろ)としての神器観だ。三種の神器は、歴史的遺物でも美術工芸品でもなく、神そのものが宿る御神体として扱われてきた。

人の目にさらすだけで神威が損なわれる。あるいは、見た者に災いが及ぶ。そういう信仰が、千数百年にわたって保たれてきたとみられる。

だから熱田神宮の草薙館にも、神剣は並ばない。草薙神剣は御神体として祀られる側で、館に飾る品ではないからだ。

箱を開けた神官たちの、その後

江戸時代の書物には、剣を実際に見たという話が出てくる。5代将軍綱吉の時代、熱田神宮で改修工事があり、神剣の入った櫃(ひつ)を新しいものへ移すことになった。その機会に、熱田大宮司に仕える社家の神官が4人か5人、剣を盗み見たと『玉籤集』は書く。

櫃は、何重にも守られていた。外側は長さ5尺の木の櫃で、中に石の櫃が入り、すき間には赤土が詰めてある。さらに赤土のなかに、くり抜いた楠の丸木が据えられ、底には黄金が敷かれていた。

その黄金の上に、布に包まれた剣が横たわっていたという。木、石、土、楠、黄金。人の目を遠ざけるために、これほど手間をかけた入れ物は、ちょっと思いつかない。

見えた姿も書き残された。長さは2尺7寸から8寸ほど、約85センチ。刃先は菖蒲の葉に似て中ほどが盛り上がり、元から6寸ほど、約18センチは節立って、魚の背骨のようだった。全体は白っぽく、錆はなかったという。

見た者の末路は、ひどいものだった。『塩尻』は、数年のうちに咎めを受けたと書き、ひとりは流罪になり、ほかの神官は、祟りの病で次々に亡くなったという。ただひとり難を逃れた松岡正直という者が、この話を伝えた。

出どころは、江戸の書物の域を出ない。それでも、禁を破るなという戒めとして読まれやすい話で、箱のふたに手をかけた瞬間を想像すると、少し背筋が冷える。

勅使の手が止まった、明治の箱

明治に入ってからの話もある。勅使が熱田へ遣わされ、剣を調べようとした。最後の箱を開けようとしたとき、太政大臣の三条実美から中止の命令が届いたと伝わる。調べは、そこで終わった。

明治天皇が、1878年に剣を拝観したという伝承もあるが、公式な記録は、ひとつも残っていない。ネットには、鏡を目にした明治天皇が動揺した、という噂まで出回る。出どころは分からない。

真偽は確かめようがない。それでも、こうした噂は何度も作り直されて広まる。実物を誰も見られないぶん、人は見た者の話を欲しがるのかもしれない。

盗まれかけた剣と、祟られた天皇

神器の話が空想だけで終わらないことを示す事件が、歴史の上で二つ起きた。ひとつめは飛鳥時代、都が近江の大津へ移った翌年にあたる、天智天皇7年(668年)の「草薙剣盗難事件」だ。『日本書紀』によると、新羅の僧の道行が熱田の社から草薙剣を盗み出し、国へ持ち去ろうとした。道中で激しい風雨に遭い、道行は方角を見失って引き返した。

熱田側の『尾張国熱田太神宮縁起』は、もっと詳しい。一度目は盗んだ剣が自分から社へ戻り、二度目は船が難破して失敗した。持ち出そうとするたびに、剣は熱田へ引き戻されたわけだ。

話はここで終わらない。事件から18年後の朱鳥元年(686年)、壬申の乱に勝って皇位に就いた天武天皇が、病に倒れた。占いに出た原因は、草薙剣の祟りだ。剣はその日のうちに、尾張国の熱田の社へ送り置かれたと『日本書紀』は書く。それでも天皇は、この年の9月に亡くなった。

宮中に置かれていた剣は、それきり皇居へ戻らなかった。熱田にとどまって、いまに至る。

壇ノ浦の海に沈んだ剣

寿永4年3月24日、西暦では1185年4月25日。壇ノ浦の戦いで平家は敗れ、平清盛の妻だった二位の尼が、孫にあたる幼い安徳天皇を抱いて海へ入った。『平家物語』は、二位の尼が「波の下にも都がございますよ」と幼い天皇をなだめたと語る。『吾妻鏡』によれば、このとき二位の尼は形代の宝剣も抱いており、剣は天皇とともに赤間関の海に沈んだ。

勾玉の箱は運が良かった。箱ごと海面に浮かび、源氏に拾われたと、同じ『吾妻鏡』は書く。戻らなかったのは、剣だけだ。

失われた剣の代わりに、朝廷は伊勢神宮が献上した剣を草薙剣として扱うことにした。いま宮中で祀られる剣は、元の形代と同じものなのか、という疑いが、学者のあいだでも昔からくすぶってきた。

沈んだのは、宮中にあった形代のほうだ。本物は熱田にある、という立て付けになる。だから話はなおさらややこしい。

昭和20年の夏、内大臣に告げた不安

1945年6月、沖縄戦が終わったころ。昭和天皇は、三種の神器の安全を気にかけ始めていた。7月25日、内大臣の木戸幸一に、その不安を語っている。本土決戦で戦局を挽回すると軍は唱えるが、にわかには信じられず、失敗すれば大本営が捕虜になるおそれもある。

そのうえで、真剣に考えなければならないのは三種の神器の護持だ、と語った。これを全うできなければ、皇統2600年余りの象徴を失い、皇室も国体も守れなくなる。そういう趣旨の言葉が、内大臣がつけていた『木戸幸一日記』に残る。

7月29日には、伊勢神宮のある宇治山田市が空襲を受けた。31日ごろには、神器を自分の近くへ移し、自分で守りたいという話も出る。万一のときは、自分が御守りして運命を共にする。そこまで言ったという。

敗戦のあと、熱田の草薙剣は、アメリカ軍の占領に備えるとして、飛騨一宮の水無神社へ仮に遷された。時期は1945年8月下旬から9月中旬までだ。勅封を携えた侍従が、熱田へ赴いたと伝わる。

ステッキで御簾をめくった大臣

1889年(明治22年)2月11日。大日本帝国憲法が発布される、その式典の日の朝。初代文部大臣の森有礼は、官邸を出たところで、国粋主義者の西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。傷は深く、翌12日の午前5時に亡くなった。森は、学校令を出して近代の学校制度の土台を作った人物でもある。

動機とされたのが、ある不敬の噂だ。ある大臣が伊勢神宮の内宮を訪れ、社殿の御簾(みす)をステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿へ靴のまま上がったという。そう報じられた。この大臣は森ではないか、と疑いの目が向けられた。急進的な欧化主義者だったからだ。

噂の真偽は、定かではない。のちに木場貞長が、この話は事実無根だったと書き残している。

それでも噂だけが、ひとり歩きを始めた。御神体のおわす社殿の奥を、「覗いた」。それだけの話が、大臣の暗殺という血なまぐさい現実にまでつながり、この禁忌がどれほど重く受け止められてきたかを、嫌でも思い知らせる。

鏡の裏にヘブライ文字、箱の中は空っぽ

古い掲示板やまとめサイト、オカルト系のウェブメディアでは、三種の神器の考察が長く交わされてきた。代表格は、日ユ同祖論と結びついた説だ。八咫鏡の裏に、六芒星に似た紋様や、ヘブライ文字に似た字が刻まれているのではないか、というものだ。

日本人とユダヤ人の祖先は同じだという古い俗説と、セットで語られる。行き着く先は「皇室の起源は古代イスラエルにある」という壮大な筋書きだ。学術的な裏づけはない。

ただ、鏡を見た者がいないのだから、裏に何が刻まれているかも誰にも言えない。六芒星でも菊の紋でも、好きなように描けてしまう。空白は想像を呼ぶ。

もうひとつ根強いのが、中身は空なのではないか、という説だ。戦乱や火災、遷都のたびに、宝物は移動を繰り返してきた。途中で本物が失われ、いま祀られているのは形代の形代にすぎないのでは、という疑いが出る。

この疑いには、史実の足場がある。賢所の鏡は、何度も内裏の火事に遭っている。天徳4年(960年)9月23日に内裏が燃え、982年11月17日、1005年11月15日、1040年9月9日にも火災が続いた。

『日本紀略』『小右記』『御堂関白記』『春記』などが、その火事を書き留めている。1040年の火災のあと、鏡は形を失い、残った破片や金属の粒が神鏡として安置されたという読み方がある。いまの賢所には、わずかな灰が器に納められている、という見方もある。

掲示板では、この手の話題が折に触れて持ち上がり、「見た者はいるはずだ」という憶測も、定番のひとつだ。生々しい噂は、いまも飛び交う。

見えるのは屋根だけ

伊勢神宮の内宮の正宮は、四重の垣根に囲まれている。参拝者の立つ場所から正殿が直接見えないように、御幌(みとばり)という白い布が掛けられ、蕃塀(ばんぺい)という塀も立つ。足もとには、御白石(おしらいし)の白い石が敷き詰められる。

垣の奥に、萱葺きの屋根がわずかにのぞくだけだ。何も見えない。その見えなさが、場の空気をぴんと張りつめさせる。正殿の床下の中央には、心御柱(しんのみはしら)が立つ。神が依り憑く神籬(ひもろぎ)とされる柱で、これも誰の目にも触れない。

神剣を祀る熱田神宮の境内には、信長塀という古い土塀が残る。織田信長が桶狭間の戦いに勝ったお礼に奉納したもので、日本三大土塀のひとつに数えられる。毎年6月5日の例祭は、熱田まつり、尚武祭とも呼ばれる最大の祭事だ。

熱田神宮の境内には、2019年10月3日に、剣の宝庫をうたう「草薙館」が開いた。令和の御代替わりを記念した事業のひとつで、並ぶのは刀剣と、刀剣にまつわる絵画や文書だ。実物の日本刀に触れる一角や、実際の長さと重さで作った真柄太刀の重みを試せる一角もある。

神剣そのものは、そこにはない。並ぶのは、別の刀剣の数々。奥に祀られた御神体を想像しながら、その刀剣を眺める。そんな順路になる。

剣璽は、天皇の車に乗って旅をする

天皇が行幸する際、侍従が剣璽を携えて随行することがある。剣璽動座(けんじどうざ)と呼ぶ。戦後は連合国軍総司令部の指示で中止されたが、1974年に昭和天皇が剣璽を伴って伊勢の神宮を参拝し、復活した。

御料車のトヨタ・センチュリーロイヤルには、八尺瓊勾玉と天叢雲剣の形代を安置するための台座を、後部座席に設置できる。箱は閉じたまま、天皇の車で旅をする。見た者はいない。噂ばかりが、都市伝説として増えていく。

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