学校にも行けなかった子が、聖師と呼ばれるまで
1871年、京都府亀岡市で上田喜三郎という男の子が生まれた。学校へも通えないほど体の弱い子だった。あだ名は八つ耳。勘の鋭い子を指す言い方で、京都の田舎ではわりと使われた褒め言葉だから、悪意なんてこれっぽっちもない。
読み書きは、家で祖母から教わった。同い年の子と喋るより、年寄りを相手に喋っているほうを好んだ子で、そこも周りからすると変わっていた。妙な子ではある。
若いころは牧牛場の経営で当てて、村では商才のある若者で通った。転機は1898年。高熊山で、強烈な霊的修行を体験している。翌1899年に新宗教「大本」の開祖・出口なおと出会い、1900年にはなおの娘すみと結婚して、名を出口王仁三郎に改めた。
ここから二人三脚が始まる。シャーマン気質の開祖なおと、組織を回すのがうまい王仁三郎。新聞や雑誌をどんどん使い、独自の霊的実践を取り入れた布教で、大本は信徒を一気に増やしていった。丹波の田舎町に全国から人が集まり、最盛期には30万人に達している。
布団に寝たまま、81巻をしゃべり切った
王仁三郎の名前を不朽にしたのが『霊界物語』だ。大正10年(1921年)10月から大正15年(1926年)7月まで、まる5年かけて口述された本編が72巻。そこへ昭和8年から9年にかけて続編『天祥地瑞』9巻が語られ、全部で81巻83冊になった。もう桁がおかしい。
400字詰めの原稿用紙に直すと約2万5000枚あって、普通の作家が一生かけて書く量を軽く超えてしまう。しかもこれ、書いたんじゃない。口で語ったものなんだよな。布団に横たわったまま、言い直しもせず淀みなくしゃべり続けた。
平均3日で1巻。なかには2日で仕上がった巻もあったという。神懸かりのまま、神界・幽界・現界をまたいでいく物語を、五年かけてひたすら口だけで語り通したわけだ。宗教の著述を見渡しても、ここまでの例はそうそう見つからない。
話は太古から始まる。国祖神クニトコタチがトルコに神都を築いて世界を治めていたところへ、盤古大神がクーデターを起こし、国祖は身を退く。そこから地球規模の抗争になり、イザナギとイザナミが地球を修復していく。次はスサノオの世界救済。舞台も規模も途中で何度も跳ね上がり、神話のドラマが延々と続いていく。
記紀では乱暴者扱いのスサノオを、宇宙の主宰神が現れた姿であり救世主だと位置づけたのが、この物語の肝だ。国家神道の枠から丸ごとはみ出していて、そりゃ当局も身構える。舞台はヒマラヤ、エルサレム、モスクワにまで広がる。解釈は120通りともいわれる。全容はまだ読み解かれていない。
震災の日付まで当てた、と信じる人たち
読まれ続けた理由は一つ。後の世の出来事を言い当てていた、と信じられてきたからだ。第31巻に出てくる「ヒルの都の大地震」の記述は、1923年の関東大震災を指していると読まれてきた。
第56巻から60巻の「テルモン山」の話も有名だ。旧ソ連の参戦、日本人戦犯の処刑、マッカーサーの進駐を先取りしていたとして、戦後の出来事を当てはめる研究者もいる。妙に具体的だ。
よく引かれるのが一首の和歌だ。東路の地のさわぎを余所にして静に浮かぶ淡路島山。字面だけならただの風景で、地震のじの字も出てこない一首なのに、震災の話になるとこれが顔を出す。
わけは日付にある。詠まれた日が、新暦に直すと1月17日にあたる。そこからちょうど72年たった平成7年(1995年)の1月17日に、あの阪神・淡路大震災が起きている。詠んでから震災までの年数が符合する、という話を研究家がしきりに持ち出してきた。
もちろん、後付けの可能性は消えない。ただ大本には「型」という独特の思想がある。教団の中で起きた小さな出来事が、やがて拡大版として日本で、さらには世界規模で現実になるという読み方だ。信者は今もその線で解いている。
国に二度、叩き潰された
王仁三郎の人生は、栄光と同じくらいの量の受難で埋まっている。1921年の第一次大本事件では、不敬罪と新聞紙法違反で起訴されたうえに、懲役5年の判決まで出ている。結果は上級審で覆った。本当にえげつない弾圧がやって来るのは、そこから十四年たってからのことだった。
1935年、第二次大本事件。昭和神聖会の立ち上げや皇族内閣の請願が、当局の警戒を招く。内務省はダイナマイトで大本の神殿を吹き飛ばし、全国にあった教団の施設を片っ端から根こそぎ潰していった。王仁三郎は道鏡以来の逆賊とまで呼ばれ、新聞もその調子で書き立てた。
第一審の判決は無期懲役。ところが第二審では、治安維持法違反について被告全員が無罪になった。高野裁判長は、大本を「理路整然たる教義を持つ宗教」と評している。王仁三郎がようやく保釈されたのは、6年8ヶ月というとんでもなく長い拘留を経てからのことだった。
敗戦の翌年、教団は再建される。名乗りは「愛善苑」。王仁三郎自身は1946年に脳出血で倒れ、回復しないまま1948年1月19日に76歳で亡くなった。国への賠償請求を自分から蹴った潔さは、今でも人に好かれる理由の一つだ。
日本人じゃない、とまで言われた男
短歌が10万首以上、それに陶芸、書画、映画づくり。並べるだけで息が切れる。民俗学者の柳田國男は、そんな王仁三郎を指して日本人じゃないと言い切った。文豪の武者小路実篤はというと、理性に反すると言ったうえで、調べる気もないとまで突き放している。
大本は子だくさんだった。戦後に広がった新宗教の多くは、大本から枝分かれする形で生まれている。資料によって民俗学者とも民族学者とも書かれる梅棹忠夫は、その様子を見て大本を「教祖づくりの教団」と呼んだ。褒めているのか呆れているのか、どっちとも取れる。
物語の大半は、未解読のままだ。信者にとっては人生の指針で、外から覗く研究者にとっては未解読の予言書、そういう二つの顔を持ったまま置かれてきた。国家権力に二度も叩き潰され、そのたびに立ち上がった男が遺した言葉の海。あれだけの巻数の奥に、まだ誰も見つけていない何かが沈んでいるのかもしれない。
首のない観音は、壊れたまま置いてある
亀岡の大本本部には首のない観音像が置いてあって、これはダイナマイトで吹っ飛ばされたときの残骸なんだよな。隣には歌碑が一つ。こちらは碑文をまるごと削り落とされていて、削ったのは地元の石工だった。
警察が立ち会うなか、大本の称号が刻まれた文字だけを丁寧に削いでいったらしい。歌碑を建てた側の人間が、同じ鑿を握って、かつて自分がこしらえた仕事を一文字ずつ消していく光景だった。胃が重くなる話だ。
信者の墓石まで同じ目に遭い、開祖の出口なおにいたっては柩を掘り返されたうえで共同墓地へ移された。そこに立てられた墓標の文面がすごい。衆人に頭を踏まさねば成仏できぬ大罪人。死人にまで刑を足した格好だ。
観音と歌碑は直されていない。わざと壊れたまま並べてある。昭和10年12月8日の朝に何があったのか、物のほうが勝手に喋ってくれるからだ。首を落とされた石の観音は、どんな教義の説明よりも早く、訪ねてきた人にあの日の事情を伝えてしまう。
買い物にまで警察がついてきた
王仁三郎の孫娘にあたる出口雅子は、七十七歳になってから当時のことを語っている。父の新衛が連れて行かれた。母は亀岡の民家に移されて軟禁され、買い物さえ警察が代わりに行って、四六時中見張られていたという。
父がどこの留置場に入れられたのか、家族には知らされなかった。教えないという嫌がらせだ。親戚の子どもたちは、学校で逆賊の子と呼ばれていじめられた。罰は教団の外へも及ぶ。逆賊という札を一枚貼ってしまえば、あとは地域と学校が勝手に取り締まりを引き受けてくれる仕組みだった。
同じ証言集には、本部から一キロほど離れた家に住んでいた石田康男という男性の話も一緒に載っている。本人の記憶じゃない。兄と両親から何度も聞かされた、音の話だ。ボンボンという、ものすごい爆発音。
一キロ先まで届いたその音の正体は、亀岡の天恩郷に建っていた石造りの神殿、月宮殿を壊す音だった。使ったダイナマイトは千五百発を超える。崩し終えるまでに三週間かかった。もう山ごと爆破する勢いだ。
地上から抹殺せよ、という方針
第二次大本事件の数字は、事件というより役所の記録に近い。昭和10年12月8日の午前四時、綾部と亀岡の神苑が武装警官に取り囲まれた。動員は五百人あまり。最終的に検挙されたのは九百八十七人で、そのうち三百十八人が検事局へ送られ、六十一人が起訴された。
内務省警保局長の唐沢俊樹は、大本を地上から抹殺する方針を指令している。翌年二月の話だ。三月十三日に結社禁止が決まり、五月十一日から破壊が始まった。捜査に駆り出されたのは延べ六千七百八十五人、破壊作業のほうには九千九百三十四人が投入されている。
金の動きも記録に残っている。時価八十万円の土地を、坪十二銭、総額六千円で強制的に買い上げた。解体を請け負ったのは清水組で、契約額は九万二百四円、しかもその工事費のうち三万円ほどを大本側に請求している。自分の神殿を壊す代金を、壊された側が払わされた計算になる。
焼かれた本や出版物はおよそ八万四千冊。壊された建物は二百四十棟あまりで、地方にあった分院まで数えると七十もの施設が丸ごと地図から消えた。個人の財産も競売にかけられた。起訴された六十一人のうち、十六人が獄中で死んでいる。
歌を詠んだ罪で、懲役五年
裁判の中身もおかしい。第一審の京都地裁は、昭和15年2月29日、庄司直治裁判長のもとで王仁三郎に無期懲役を言い渡した。検察の言い分は、国体を転覆して世界覆滅を計る陰謀結社というもの。宗教団体に着せる罪状にしては、いくらなんでも大袈裟すぎる。
法廷には、教義の本と機関誌が政府転覆の物証として積まれていた。控訴審で流れが変わる。高野綱雄裁判長は予審調書の同一性を疑い、昭和17年7月31日、治安維持法については全員を無罪とした。
判決文には、大本は宇宙観・神観・人生観など理路整然たる教義を持つ宗教である、とはっきり書き込まれている。残ったのは不敬罪だけだった。その不敬罪の中身が、『霊界物語』の一節と王仁三郎の和歌六首だ。
日の光昔も今も変らねど東の空にかかる黒雲。これが天皇を侮辱したものと受け取られた。歌を詠んだ罰が懲役五年。しかもそれは不敬罪の最高刑で、つまり歌を詠んだことに対して法が出せるいちばん重い罰を当てたわけだ。
未決勾留は二千四百三十五日。六年八ヶ月だ。妻のすみも、昭和11年3月14日から昭和17年8月7日まで拘束されていた。保釈されたとき王仁三郎は七十一歳になっていて、弁護団は国に賠償を求めるよう勧めたものの、本人が断っている。国民の血税に負うことは忍びない、と言ったと伝わる。
忘れられがちだが、第一次のほうも手口は同じだった。大正10年2月12日に検挙。百二十六日の未決生活を経て、十月五日には懲役五年の判決。綾部の本宮山神殿は京都大丸組が七百五十円で破壊工事を落札し、軍に護衛されながら十月二十日から取り壊された。取り壊しの根拠として持ち出されたのは、明治五年の大蔵省達百十八号と、大正二年に出た内務省令だった。
聞き返すと、糸が切れる
『霊界物語』の口述を、すぐそばで見ていた人たちの記録がある。筆を執ったのは谷口雅春、加藤明子、桜井重雄、東尾吉雄、内崎照代らで、のちに生長の家を起こす谷口もこの席に座っていた。なかなか濃い顔ぶれだ。
手順は決まっていた。王仁三郎がまず三十分ほど眠る。目を覚ますと、トランス状態のまま横になって語り出す。筆録する側が追いつけずにうっかり聞き返そうものなら、糸が切れるようになる、と王仁三郎に叱りつけられた。
語り手の頭のなかでは物語が一本の糸になって流れていて、外から口を挟むとそれがぷつりと切れる、という理屈だ。喩えの選び方が生々しい。糸という言葉がまた妙にしっくりくる。
速さの記録も残っている。続編の『天祥地瑞』では一章をだいたい一時間で口述し、一日に三章から六章を仕上げた。口述した場所は綾部の松雲閣と亀岡。第一巻が刊行されたのは大正10年12月30日で、口述を始めてからまだ二ヶ月ちょっとしか経っていなかった。
初出はもっと前だ。第一巻の第十二章までは大正10年2月8日までに書き上がっていて、機関誌『神霊界』にすでに載っていた。口述が始まる十月より先に、活字になっていた部分があるわけだ。
第一次大本事件で身動きが取れなくなった時期に、その続きを口で埋めていった順序になる。第一章の題は「霊山修業」。明治31年3月、若き日の喜三郎が高熊山で過ごした一週間を、二十三年たってから本人が自分の口で語り直した章だ。
同じ巻なのに、版で名前が違う
『霊界物語』は版がやたらと多い。戦前の初版から六版まで、聖師御校正本、普及版、校定版、修補版、八幡書店版、愛善世界社版。数えるだけで疲れる。同じ巻を読んでいるつもりが、そのじつ中身の違う別の本を読んでいた、なんてことが普通に起こりうる。
飯塚弘明は全文を電子化する作業のなかで、諸本の相違点を拾い出している。第一巻だけでも、登場人物の名前が亀若と亀彦で食い違い、虚儀と虚偽、竜世姫と竜代姫で揺れている。どれも一字の違いだ。
ところが言霊で読む流派からすると、この一字の差が解釈を丸ごとひっくり返してしまう爆弾になる。竜世姫と竜代姫では、拾える音も数も別物になるからだ。一字でも侮れない。
予言書として読むとき、これが効いてくる。版で文言が動くからだ。校定の途中で表現が整えられた箇所もあるので、原本主義の読み手は初版と聖師御校正本しか引用に使わない。霊界物語ネットのほうは愛善世界社版を底本に据えていて、ネットでの議論はたいていこの本文を前提に進む。
銃殺の寸前で、機関銃が動かなくなった
予言の話より、本人のやったことのほうがよっぽど荒っぽい。大正13年2月13日の午前三時半、王仁三郎は弥勒下生達頼喇嘛素尊汗と名乗って綾部をこっそり抜け出した。連れはたった三人。そのうちの一人は、のちに合気道を起こすことになる植芝盛平で、残る二人は松村真澄と名田音吉だった。
下関から釜山へ渡り、奉天、鄭家屯、とう南、公爺府を経て奥地へ入っていった。相棒は馬賊の頭領・盧占魁。張作霖からは匪賊討伐のための委任状まで取りつけて、一行は最終的に千人規模にまで膨れ上がっていった。蒙古の民はジンギスカンの再来と歓迎したという。
パインタラ入りの前夜が妙だ。砂塵のなかで隊列が平原をぐるぐる回り続け、どうしても前へ進めない。あとで分かったところでは、張作霖の部隊三、四万が銃を構えて待っていた。当の王仁三郎は駕車の中でぐっすり寝ていて、砂塵も隊列の混乱もまるで知らないまま朝を迎えたという。
六月二十一日にパインタラへ着いたものの、翌二十二日の午前一時に捕まって武装を解かれ、盧占魁は銃殺された。王仁三郎も銃殺場に立たされ、辞世の歌を三首詠んでいる。よしや身は蒙古のあら野に朽つるとも日本男子の品は落さじ。ここで終わりのはずだった。
ところが機関銃が動かない。不調で処刑は取りやめになり、日本領事館が割って入って身柄が引き渡された。七月二十五日に下関へ帰り着くと、そのまま無断出国で逮捕されて大阪の刑務所に三ヶ月、在留禁止三年の処分まで付いた。
世間の評価だけは、逆にひっくり返る。邪教の教祖から英雄へ。大阪駅に着けば凱旋将軍みたいな出迎えを受け、新聞は手のひらを返したように扱いを変え、信徒がまた増えていった。死にかけたことが、そのまま最大の宣伝になったわけだ。
一つひねるごとに、千回唱えた
戦争の終わりごろ、王仁三郎は茶碗を焼いていた。時期は昭和19年の暮れから昭和21年3月までの一年三ヶ月で、場所は亀岡の下矢田にあった佐々木松楽の家だ。窯の名は亀楽窯。昭和4年7月20日にできた、内径五十五センチの小さな窯だった。
焚いたのは記録上三十六回。一回に十個前後だから三千個、という数え方が広まっている。それより前の時期にも五千個ほど作っていたものの、そっちは第二次大本事件でほとんど砕かれてしまった。
残った後期の作が派手だ。色がとにかくやたらにけばけばしくて、茶道具の常識で測ろうとすると桁がひとつもふたつも外れてしまう。天国茶碗という呼び名で出回ったのも、この毒々しさのせいだ。
作り方の話がまた妙なんだよな。一つひねるあいだに、惟神霊幸倍坐世を千回唱えた。竹のササラで何千遍もつつきながら、楽焼は後の世になったら国魂になるのやで、と言ったと伝わる。
耀わんという名前は、本人が付けたものじゃない。昭和24年、陶芸評論家の加藤義一郎が『日本美術工芸』三月号に「耀わん顕現」という記事を書いたのが、この呼び名の最初だ。八月号で「天国廿八」も論じた。
金重陶陽や北大路魯山人も評価した。のちに瀬戸内寂聴は、これを王仁三郎の心臓と呼んでいる。心臓とはまた大きく出た。宗教家が片手間にやった余技という枠から、いつのまにかちゃんとした工芸の側へと持ち上げられていった。
新聞社を五十万円で買った
大本がどうしてここまで膨らんだのか。金と人脈を見ると早い。大正9年8月、大本は大正日日新聞社を表向き三十五万円で買い取ったが、実際に払ったのは五十万円だった。仮契約が八月五日、本契約はその九日後の八月十四日だ。
復刊の初号が出たのは九月二十五日で、発行部数は四十八万部あった。ところが紙面の大本色が濃くなるにつれて読者がどんどん逃げていき、たった三ヶ月で二十万部まで落ち込んだ。人も抜けた。
旧社員の七十人ほどが他社に引き抜かれ、残ったのはたった十数人。おまけに社債四十九万九千四百円と借入金十三万九千六百十九円という債務まで、きっちり残された。散々な買い物だ。
人のほうも派手だ。海軍機関学校で英語を教えていた浅野和三郎は、三男の熱病が女行者の言葉で治ったのをきっかけに心霊研究へ傾いた。大正5年には大本に入信している。その浅野の縁で、日本海海戦の参謀だった秋山真之が、大正5年12月14日に大本の教主顧問に就いた。
知識人を引き寄せたのは、鎮魂帰神法という実修だった。その場で神懸かりが起きる。理屈より先に体験が来るので、学のある人間ほど逃げ道をなくしていった。相手は文章で言い返せるような理屈じゃなくて、自分の体が勝手に喋り出すという現象そのものだからだ。
大本を出た人たちが次の教団を作っていく流れも、ここから生まれた。出ていった顔ぶれがすごい。谷口雅春は、原文と王仁三郎の書いた文章とを見比べるうちに疑問を持ち、大本を抜けて生長の家を起こした。浅野は第一次事件のあとで離れ、大正12年3月に心霊科学研究会を立てた。
友清歓真のほうは神道天行居を開いて、こちらも独自の神道霊学を打ち立てている。世界救世教の岡田茂吉は、昭和27年になってこう述懐した。おやじは大きかった。おやじが懐かしい。梅棹忠夫が大本のことを教祖づくりの教団と呼んだのは、ほかでもないこうした分派の連鎖を見てのことだった。
発禁の予言書、という売り文句
予言書としての『霊界物語』が売れ出したのは、戦後もだいぶ経ってからだった。火を付けたのは武田崇元。本名は武田洋一、昭和25年の生まれだ。昭和56年に八幡書店を立ち上げ、オカルト誌『ムー』では昭和54年の創刊のときから顧問を務めていた。
昭和58年、光文社のカッパ・ホームスから『出口王仁三郎の霊界からの警告』が出る。副題は発禁予言書。国家に潰された本という経歴が、そっくりそのまま売り文句になったわけだ。八幡書店のほうは、平成元年から平成16年までかけて、『霊界物語』そのものをまるごと版に組み直している。
武田の読み方の芯は「型」。大本に起きたことはやがて日本へ、日本に起きたことは世界へと、拡大版になって現実化していくという考え方だ。受難は世界史の雛形。この読み方を通すと、教団の中の小さな揉め事がどれも世界史の伏線に化けてしまう。弾圧された側の履歴が、そのまま予言の的中率に変わる仕組みでもある。
解釈が百二十通りある、という言い方が定着したのもこのころだ。言霊学で読み、数霊で読み、章の並び方そのものを暗号と見て、読み替えの技法が何層にも積み上がっていった。原稿用紙二万五千枚ぶんもあれば、どんな時事ネタを持ってきても、対応しそうな語句がどこかに見つかる。ネタが尽きないんだよな。
知恵袋のベストアンサーが、いちばん冷めていた
ネットでの扱いは真っ二つだ。予言が百パーセント的中していると聞いたが本当か、という質問がネットの知恵袋に立ったことがある。震災と放射能汚染の記述を挙げた、信じたい側からの問いだった。
ベストアンサーのほうは冷たかった。予言が百件当たっていても、全体が一万件あるなら統計的にはなんにも不思議じゃない、という理屈だ。散弾を撒いて、当たった粒だけ数えるのと同じ。身も蓋もない。
福島の事故を名指しで当てた記述なんてどこにもなく、読む側があれのことだと後から当てはめているだけだ、と切り捨てた。解釈が百二十通りできる文献だという自己申告も、否定側に回すと強い武器になる。どんな出来事にもはまる、と自分で証明してしまうからだ。痛いところを突く。
歴史がループする、という言い方にしても、歴史は繰り返すという凡庸な観察にすぎない。それでも検証は進んでいる。オニド、霊界物語ネット、王仁DB、オニペディアのようなサイトで全文が電子化されて、語句の検索までできるようになった。
皮肉な話だ。当てたと言われる箇所が探しやすくなったのと同じだけ、どこにも書かれていないことを確かめるのも楽になった。検索窓は信じる側にも疑う側にも同じように開いている。
昭和13年の地裁の公判で、王仁三郎はこう述べている。昭和五十年になったならば東京はすっくり薄原になって、その地下に町が出来る。地下街のことだと読む人がいる。焼け野原のことだと読む人もいて、どちらの読みも出来事が起きてしまったあとになってから言い出されたものだった。
昭和十三年の法廷で、勾留されていた男がどんな気持ちでこの一文を口にしたのかは、調書の外には何も残っていない。残ったのは言葉だけだ。その言葉を、読む側がそれぞれの時代に合わせて拾い上げてきた。
九百人を引き連れて、皇居まで行進した
引き金は昭和神聖会。立ち上げは昭和9年7月22日、場所は九段会館だった。王仁三郎自身は統管の座に就き、大本の運営は娘婿の日出麿に任せて、自分は東京の四谷へ移っている。
発会式の顔ぶれが異常だった。内務大臣の後藤文夫が祝辞を寄せ、文部大臣に農林大臣、衆議院議長、陸海軍の高級将校、大学教授までずらりと並んだ。新宗教の集まりに、国の中枢が顔をそろえたことになる。
活動は農村の救済運動から始まり、やがて政府批判へ傾いて、しまいには岡田内閣の打倒まで唱え出した。制服まであった。尋仁と記した制服をあつらえ、九百人を従えて東京駅から皇居まで行進したこともある。天皇機関説には、神聖皇道の立場から噛みついている。
内務省が調査を命じたのは昭和9年10月。会の勢いとぴったり重なる。政治の側から見れば、三十万人規模の組織を抱えた宗教家が右翼団体を作り、政権批判を始めたという図になる。昭和10年12月の急襲までは、一年二ヶ月しか空いていない。
一日に三百首、と本人は言った
書く量もおかしい。昭和2年に明光社を組織して文芸活動へ本格的に乗り出し、昭和5年には前田夕暮のサークルにも入っている。参加した短歌結社は五十を超え、月に千首を詠んだ。
六十歳のとき、大宅壮一のインタビューにこう答えている。一日に二、三百首、これまでに五十万から六十万首は詠んだ。自己申告なので怪しい。それでも、生涯の作を十万から十五万首とする控えめな見積もりで考えたって、異例の多作なのは動かない。
昭和6年に出した歌集『花明山』を、前田夕暮は現代のスフィンクスと評した。尾上柴舟は『彗星』の序文で、量産ぶりを褒めておきながら、もっと質を上げろとしっかり注文を付けている。褒めと苦言が同居する評が多い。
大宅壮一は王仁三郎の風貌も書き残している。浴衣の上に絽の羽織を引っかけ、頭のてっぺんには妙な烏帽子のようなものを載せている、という描写だ。善良な牡牛の感じ。戦後になってからは、奸智に長けたところもあるがひどくまぬけたところもあって憎めない、と書き足した。
見た目の記録はほかにもある。二十五歳のときの身長は五尺三寸、だいたい百六十センチだ。四十代から伸ばしはじめた髪は最盛期には腰まで届き、それを頭のてっぺんに折り畳んでヘアーネットを被っていた。髪は神へ通じる架け橋だ、という理屈らしい。
酒は飲めなかった。巡教先でも一杯で盃を伏せてしまい、信者には、酒は慎まなくては乱れると説いていた。煙草のほうは敷島や朝日をふかすだけで、吸った振りをしていたらしい。それでも吸い殻を欲しがる信者がいたので、王仁三郎は祈願しながらそれを渡してやっていたという話まで残る。
