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マリー・セレスト号事件――食事は温かいまま、乗員10人だけが消えた幽霊船

1872年12月、大西洋のど真ん中で一隻の帆船が見つかった。誰ひとり乗っていない。それでいて、静かに漂っていた。

船室のテーブルには食事の跡が残っている。船長の航海日誌は、つい数日前まで几帳面に記されていた。積荷は無傷。金庫の中の現金にも手がつけられていない。船員の私物も、妻子の衣類も、すべてそのままそこにあった。

ただ、人間だけがいない。船長ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス、その妻と幼い娘、そして七人の船員。合わせて10人が忽然と消えていた。争った形跡はない。血の一滴も見つからない。

これが、150年以上にわたって世界中の船乗りと物書きを惹きつけてきた幽霊船、マリー・セレスト号である。海が人を呑み込む話なら星の数ほどある。この事件が異様なのは、船そのものがほとんど無傷のまま、まるで乗員が蒸発したかのように残されていた点にある。

アマゾン号と呼ばれていた頃から、この船はおかしかった

マリー・セレスト号が進水したのは1861年、カナダのノバスコシア州スペンサーズ島でのことだ。木造の双檣ブリッグ船で、当初は「アマゾン号」と名付けられていた。船の来歴には、最初から不吉な影がつきまとう。

進水直後に船長が急死した。その後も座礁や衝突を繰り返して所有者を転々とし、1868年にアメリカ資本の手に渡る。改名されて「マリー・セレスト」になったのは、このときだ。1872年初頭には大規模な改修も受けている。船体は延長され、積載量も増強された。

この年、船の指揮を任されたのがベンジャミン・スプーナー・ブリッグス船長だった。経験豊富で信頼の厚い船乗り。深く信心深い人物としても知られていた。

今回の航海には、妻サラ・エリザベス・コッブと、まだ2歳の娘ソフィア・マチルダも同乗させている。長い船旅に妻子を伴うのは、当時としても珍しいことではなかった。ただ、この一点が後に「一家心中説」や「船内での不祥な出来事」を疑わせる材料として、しばしば持ち出されることになる。

1872年11月、マリー・セレスト号はニューヨーク港のピア50に接岸した。積み込んだのは1,701樽の粗製アルコール。工業用の変性アルコールで、イタリアでワインの強化用に使われる予定だった。目的地はイタリアのジェノヴァ。悪天候のために出港が数日遅れたのち、船は大西洋へと乗り出した。

乗員はブリッグス船長の家族3人に、経験を積んだ7人の船員を加えた顔ぶれ。いずれも素行に問題のない、船長自身が信頼して選んだ男たちだったと伝えられている。船出の直前、ブリッグスは妻の親族に宛てて手紙を書いた。船は美しい状態にあり、素晴らしい航海になるだろう。そういう趣旨の言葉で、不安の影は微塵も感じられない。

航海はアゾレス諸島に向けて順調に進んでいたらしい。とはいえ、大西洋特有の荒天とも格闘したことが後の日誌からうかがえる。そして1872年11月25日、航海日誌に最後の記録が刻まれた。位置はアゾレス諸島のサンタ・マリア島の沖合。この記録を最後に、マリー・セレスト号からの発信は完全に途絶えた。

以降、船と乗員がどのような時間を過ごしたのか、記録は一切残されていない。次に人類がこの船の姿を目にするのは、それから約10日後。遠く離れた海域でのことになる。

乗り込んだ男たちを迎えたのは、静まり返った無人の船だった

1872年12月4日から5日にかけて、カナダの帆船デイ・グラシア号が大西洋上を航行していた。アゾレス諸島とポルトガル沿岸の、ほぼ中間にあたる海域である。船長デイヴィッド・モアハウスは、奇しくもブリッグス船長と面識のある人物だった。

その乗組員が、妙な船を発見する。帆を不規則に張ったまま、明らかに操舵する者のいない状態で、ふらふらと進んでいる。何度呼びかけても応答はない。不審に思ったモアハウスは、一等航海士オリバー・デヴォーらを小舟でマリー・セレスト号へと向かわせた。

乗り込んだ彼らを待っていたのは、静まり返った無人の船だった。甲板には、破れて垂れ下がった帆や乱れた索具が放置されている。舵輪近くの羅針盤は台座からずれ、ガラスの覆いは割れていた。

船倉には約1メートル、3.5フィートの海水が溜まっていた。ただ、これは沈没の危機を示すほどの量ではない。経験ある船乗りであれば、通常のポンプ排水で十分に対処できる程度だ。

実際、二つあるポンプのうち一つは分解された状態で見つかっている。乗員が排水作業の途中で何かに気を取られたか、あるいは意図的に作業を放棄したか。そのどちらかをうかがわせる光景だった。

船室に降りたデヴォーたちが目にしたのは、さらに奇妙な眺めだった。船長室のテーブルには、食事を摂った、あるいは摂りかけていたと思われる痕跡が残っている。ミシンには縫いかけの衣類がそのまま挟まっていた。

船長の海図や航海用具、乗員たちの私物。女性用の衣類や装身具に至るまで、金目の物も含めてほとんど手つかずのまま残されていた。積荷の1,701樽のアルコールも、後の調べで空になっていたのはわずか9樽のみ。大部分が無傷だった。

唯一消えていたのが、救命艇だ。ヨール型の小型ボート一艘だけが失われていた。手すりの一部が取り外され、そこに結ばれていたはずのロープも切られたような形で失われている。乗員たちが自らの意志でこの艇に乗り移り、船から離れたことを強く示唆していた。

半年分はあろうかという食料と水を積んだまま、なぜ乗員は小さな救命艇に乗り移ってまでこの船を捨てたのか。この問いこそが、事件を150年間解けない謎にしてきた核心なのだ。

爆発か、海賊か、詐欺か――出そろった仮説を一つずつ潰していく

事件発覚の直後から、この空白を埋めるためにさまざまな仮説が乱立してきた。まず最も有力視されてきたのが、アルコール蒸気爆発説である。

積荷の粗製アルコールの一部が漏れ出し、船倉内に可燃性の蒸気が充満する。それが何らかの火花で爆発ないし閃光を発し、船長が「船が爆発する」と恐怖して乗員全員を急いで救命艇に移らせた。そういう筋書きだ。船長の従兄弟にあたる人物も、早くからこの説を唱えていた。

ただし、発見時の船倉には焼け焦げや爆発の直接的な痕跡が見当たらない。主要な貨物用ハッチも大きな損傷なく残っていた。そのため長らく「証拠が伴わない仮説」として扱われてきたわけだ。

次に根強く語られてきたのが海賊説である。しかし、この説は早い段階でほぼ否定される。金品や積荷が手つかずのまま残されているという事実は、略奪目的の海賊行為とは根本的に矛盾する。争った跡や破壊の痕跡もない。海賊が船を襲ったのであれば考えにくい静けさが、船内には満ちていた。

保険金詐欺説も繰り返し浮上した仮説の一つだ。積荷や船体には保険がかけられている。ブリッグス船長、あるいは発見者であるモアハウス船長が共謀して不正な保険金を得ようとしたのではないか。そういう疑いである。

実際、ジブラルタルでの海事審問では、検察官フレデリック・ソロモン・フラッドが執拗にこの疑惑を追及した。乗員が生きたまま何らかの陰謀に関与しているのではないかと、審理を長引かせている。しかし最終的に、乗員や船長を詐欺行為に結びつける具体的な証拠は何一つ見つからず、この説も立証には至らなかった。

津波・竜巻説は、比較的近年になって重視されるようになった仮説だ。アゾレス諸島近海で局地的な高波や水柱、いわゆるウォータースパウトが発生する。それによって船が大きく揺さぶられ、羅針盤が壊れ、測深や排水機器が誤作動を起こしたのではないか、という推測である。

船長が実際の浸水量以上に沈没の危険を感じ取り、家族と乗員を守るために避難を決断した可能性が、ここから導かれる。船体そのものへの物理的損傷が比較的軽微だったこと。そして精神的なパニックの引き金があったはずだという状況。この二つが、この説にも一定の説得力を与えている。

乗員反乱説も俗説として長く語られてきた。船員たちが酒に酔って暴動を起こし、船長一家を殺害したのではないか、という筋だ。だが、この乗員たちの評判は概して良好で、素行不良を示す記録もない。子孫への聞き取り調査などからも、この筋書きは支持を得られていない。

そして最後に、超常現象説がある。乗員が異次元やUFOに連れ去られた、あるいは海の怪物に襲われた。この類の言説は事件発覚当初から尾ひれをつけて語られている。後述するようにバミューダトライアングル伝説と結びつけられて、今なお繰り返し消費され続けている。

地味な海難事故を永遠の謎に変えた、若き医師の筆先

この地味な海難事件を、世界中で知られる「永遠の謎」へと押し上げた最大の功労者。それが、当時まだ無名に近かった若き医師兼作家、アーサー・コナン・ドイルである。

1884年1月、ドイルは匿名で短編小説「J・ハバクク・ジェフスンの声明」を『コーンヒル・マガジン』に発表した。事実に基づくルポルタージュのような体裁を装いながら、実際には完全な創作だ。船名はわずかに変えて「マリ・セレスト」と綴られ、船長名は「J・W・ティッブス」に置き換えられている。航海の年代も1873年、航路もボストンからリスボンへと改変された。

さらに物語には、復讐に燃える元奴隷の乗客セプティミアス・ゴーリングという架空の人物が登場する。彼が乗員たちを不可解な運命へと引きずり込むという筋立てだ。センセーショナルな筆致で書かれたこの短編は、多くの読者に「実話の証言」であるかのように受け止められ、瞬く間に評判を呼んだ。

問題は、この虚構が現実の事件記録と混同されて広まってしまった点にある。ドイルの作品的成功のあまり、「マリー・セレスト」ではなく「マリ・セレスト」という誤った綴りが一般に定着してしまう。そこまでの影響力を持ってしまったわけだ。

根も葉もない猟奇的な脚色が、事実であるかのように世間に流布する。実際の海事審問で証言した関係者たちにしてみれば、迷惑以外の何物でもなかった。だが時すでに遅し。この短編が生み出した「不可解な失踪」「不気味な暗示」というイメージ。それが以後の新聞記事や読み物、そして現代に至るまでの都市伝説の土台として定着してしまった。

皮肉な話である。地味で説明のつく可能性のある海難事故を、大衆文化における永遠のミステリーへと変貌させたのは、他ならぬ一人の創作者の筆先だった。ドイル自身はこの作品を機に、文筆業での評価を高めていくことになった。後の名探偵シャーロック・ホームズ生みの親としてのキャリア、その助走ともなったわけだ。

模型の船倉に火をつけたら、焦げない爆発が起きた

21世紀に入り、化学と海事史の両面からこの事件を再検証する動きが盛んになった。中でも大きな注目を集めたのが、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン、いわゆるUCLの化学者アンドレア・セラ教授による再現実験だ。

セラ教授は、当時の船倉を模した縮小模型を使った。アルコール蒸気が充満した空間に着火した場合、何が起こるのか。結果として生じたのは、青白い閃光と圧力波を伴う「低温爆発」と呼ぶべき現象だった。

大きな火球と轟音を伴いながらも、その爆発の後ろ側には比較的冷たい空気が残る。実際の火災や焼け焦げの痕跡を残さない性質のものだったのだ。この結果は、発見時の船倉に爆発による焼損の跡がなかったという物的証拠と矛盾しない。

むしろ、有力な物証として評価されるようになった。突然すべての扉やハッチが吹き飛ぶような閃光と轟音。それを体験した乗員たちが、船がまさに大爆発を起こす寸前だと確信し、パニックの中で家族ともども救命艇に飛び移る。その筋書きを裏付けるからだ。

ロープで船体につないだ救命艇に乗り移り、嵐の中でしばらく本船に曳航されるつもりだった。ところが荒天でロープが切れるか失われるかして本船から離れてしまい、外洋で力尽きた。この推測が実験結果と組み合わさることで、これまでで最も物理的な説得力を持つシナリオとして語られるようになっている。

この他にも、2001年には冒険家クライブ・カッスラーの調査チームが動いた。ハイチ沖でマリー・セレスト号の残骸とみられる沈没船を発見したと発表し、話題を呼んだのだ。ところがその後の年輪年代測定の結果、木材は1894年頃まで生育していた樹木のものと判明し、別の船であったことが確定している。

こうした「発見したと思ったら別物だった」という顛末もまた、この事件にまつわる神話の層をさらに厚くする要素となってきた。テレビドキュメンタリーの世界でも事情は同じだ。2000年代以降、ヒストリーチャンネルやナショナルジオグラフィックなどが繰り返しこの事件を取り上げている。CGやミニチュア実験を駆使して、爆発説や高波説を検証する特集を放送してきた。

科学的検証が進むにつれて、超常現象を持ち出す必要のない、地に足のついた説明が徐々に優勢になりつつある。それが現在の研究状況の実像だ。

大西洋の東側なのに、なぜかバミューダの仲間にされた

興味深いのは、この船が発見された場所である。アゾレス諸島とポルトガル沿岸の間、つまり大西洋の東側。地理的には、バミューダトライアングルとして知られるカリブ海北方の海域とはまったく重ならない。

にもかかわらず、この事件はしばしばバミューダトライアングル関連の失踪事件と並べて語られるようになった。20世紀後半以降のオカルトブームの中でのことだ。1970年代、バミューダトライアングル伝説は一大ブームとなった。

その波に乗って作られたのが、船や航空機が謎めいた形で消える「実例」を集めた書籍や番組だ。その多くが地理的な事実を無視して、マリー・セレスト号を代表例の一つとして紹介した。これによって両者は、大衆のイメージの中で分かちがたく結びついてしまった。

現代のインターネット文化においても、この事件は形を変えながら消費され続けている。SNSや動画サイトの「未解決ミステリー」系コンテンツでよく見るのが、テーブルに残された食事が「まだ温かかった」という描写だ。これは実は一次証言では確認できない誇張表現で、それがしばしば繰り返し流布している。

デヴォーらの実際の証言では「食事の跡があった」とされるのみ。温度についての具体的な記述は見当たらない。この種の「温かい食事」という描写は、恐らくドイルの創作的脚色や、後年のセンセーショナルな読み物が生み出した尾ひれだろう。それが検証されないままインターネット上で自己増殖してきた典型例といえる。

同様に「テーブルには半分食べかけの卵料理が残っていた」といった具体的すぎる描写も、原典の証言記録には見当たらないディテールだ。マリー・セレスト号はまた、放棄された乗り物や施設を形容する慣用句としても定着している。無人のまま漂着した船や、忽然と人が消えた建物。それを指して「まるでマリー・セレスト号のようだ」と表現する用法が、英語圏では今なお生きている。

他の幽霊船事件と比較すると、この事件の特異性がより際立つ。伝説上の存在である「フライング・ダッチマン号」は、そもそも実在が確認されていない幻影の船として語り継がれてきた対象だ。実話であるマリー・セレスト号とは、そもそも性質が異なる。

一方、1921年に発見されたキャロル・A・ディアリング号は、座礁した状態で乗員全員が消えていた。その点ではマリー・セレスト号と類似する。ただしこちらは密造酒取引や海賊行為との関連が強く疑われた事件であり、背景の生々しさが対照的だ。北極海を10年以上にわたって無人のまま漂流し続けた貨物船バイチモ号も、しばしば「20世紀の幽霊船」として引き合いに出される。

これらの事件が繰り返し並置されることで、マリー・セレスト号は単独の海難事故という枠を超えていく。「説明のつかない海の恐怖」という大きな物語群の象徴的存在として、ジャンルそのものを代表するアイコンになっていったのである。

誰も埋められない、日誌の最後の一行から先の10日間

マリー・セレスト号事件の核心は、突飛な超常現象などではないのかもしれない。むしろ人間の判断が極限状況でいかに脆く、いかに悲劇的な結果を招き得るかという、きわめて人間的な物語がそこにある。

積荷の性質、船倉の構造、当時の海象条件、そして経験ある船長が下したであろう咄嗟の判断。これらを重ね合わせていくと、一つのシナリオが最も有力な解として浮かび上がる。アルコール蒸気による低温爆発に驚愕した乗員たちが、パニックの中で船を捨てるという合理的だが致命的な選択をした。そして荒天の外洋で、ロープを失った小さな救命艇とともに消えていった。科学的に裏付けられた筋書きだ。

それでもなお、日誌の最後の一行と発見時の静寂との間には、10日間の空白が横たわっている。誰も完全には埋められていない。コナン・ドイルが見出し、150年間にわたって語り手たちが物語を紡ぎ続けてきたもの。それがこの埋まらない余白にある、この事件最大の magnetism、つまり磁力なのだろう。

科学が謎の輪郭を明らかにしても、海が人を呑み込む瞬間の恐怖そのものは、決して完全には解き明かされない。

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