奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

🌸 大奥の醜聞――絵島生島事件、江戸城を揺るがした密通疑惑と一大疑獄の真実

数時間の門限破りが、江戸城の奥を丸ごと揺らした

江戸城のいちばん奥に、大奥という別世界があった。将軍の御台所や側室、そこに仕える女たちだけが暮らす場所で、男は入れないし外とのやりとりも厳しく絞られていた。門限は絶対の掟。その掟がたった数時間の遅刻で破れたとき、幕府史上でも最大級の疑獄が動き出したんだ。

話は正徳四年(一七一四年)一月十二日にさかのぼる。大奥御年寄の絵島が、七代将軍徳川家継の生母・月光院の代参として、前将軍徳川家宣の墓参りに出かけた。御年寄は大奥の女官でも最高位に近い役職で、実務をまとめる立場だった。行き先は上野の寛永寺と芝の増上寺だ。

表向きは法要のための参拝で、なんの変哲もない年中行事のはずだった。ここで寄り道が入る。参拝を終えた帰り道、一行は木挽町の芝居小屋・山村座へ足を向けた。誘ったのは呉服商だったとも同行の者たちだったとも伝わるけど、どちらにしても当時は珍しい話でもない。

大奥の女たちが息抜きに芝居見物へ出かけるのは、表向きには決して褒められたふるまいじゃなかった。それでも暗黙のうちに許されていた、いわば「ガス抜き」の機会だったんだよな。黙認の息抜き。

山村座の舞台には、当代きっての人気を誇る二枚目役者・生島新五郎が立っていた。生島は延宝年間の生まれで、大坂から江戸へ出て木挽町の舞台に上がり、優美な芸と容姿で江戸じゅうの女性を熱狂させた。今でいうトップスターってやつだ。

小屋は熱気に包まれていた。太鼓と三味線の音、役者の声、客のざわめきが、渦のように巻いていたと思う。絵島たちの一行は特別な桟敷席から舞台を見下ろして、ふだんの暮らしからは遠い非日常の興奮にすっかり酔いしれた。

芝居がはねると、一行は近くの茶屋へ流れて酒宴になった。この席に生島新五郎も招かれて、杯を重ねたと伝わる。大奥という檻からひととき解き放たれた女たちと、江戸いちばんの人気役者が囲む、華やかで浮世離れした宴だ。きっと笑い声が絶えなかった。

この日ばかりは誰も彼も羽目を外した。その代償が重すぎたんだ。宴はずるずる長引き、申の刻(午後四時ごろ)とも夕刻とも伝わる大奥の門限を、大きく過ぎてしまった。

江戸城に戻った絵島たちを待っていたのは、固く閉ざされた大奥の門だった。門番はこれをとがめ、記録に残す。ほんの些細な、でも大奥にとっては重大なこの規律違反が、やがて江戸全体を揺るがす大疑獄にまで膨らんでいく。

取り調べは門限から「密通」へすり替わった

門限破りはすぐ幕府の耳に入り、評定所の取り調べが始まった。評定所は幕府の最高裁判機関だ。最初は単なる規律違反として片づくはずだったのに、審議が進むにつれて話は妙な広がり方を見せていく。

取り調べの焦点は、しだいに一点へ絞られていった。絵島と生島新五郎のあいだに密通、つまり不適切な男女の関係があったのではという疑いだ。門限の話はどこへやら。

生島は石抱にかけられた。膝の上に重い石を何枚も積み上げていく、凄惨な取り調べのやり方だ。その末に生島は最終的に「自白」へ至ったと伝わるけど、この自白がどこまで事実だったのかは当時から疑われていた。

拷問で引き出す自白は、本当のことを語らせるためというより、決まった筋書きに沿って調書を仕上げる手段になりがちだった。この手の取り調べの怖さはそこにある。正直、ぞっとする。

処分は苛烈を極めた。絵島は死罪を言い渡されるところを減刑されて遠流、つまり島流しとなり、月光院の必死の嘆願でさらに罪を軽くされた。最後は信州高遠藩・内藤家への「お預け」という形で決着している。

身内も容赦なしだ。生島新五郎は伊豆諸島の三宅島へ遠島。絵島の兄・白井勝昌は斬首、弟の豊島常慶は重追放となった。山村座の座元、つまり興行主だった五代目山村長太夫は伊豆大島へ遠島になり、山村座そのものも廃座に追い込まれた。

一座が丸ごと消えたんだ。それまで江戸に四つあった官許の芝居小屋、いわゆる江戸四座は、これで三座に減ってしまった。ここから長いあいだ「江戸三座」の時代が続いていく。

処罰の網はそこで終わらなかった。絵島の一行にかかわった呉服商、医師、材木商、さらには宴席にかすっただけの周りの人たちまで、次々と処分を受けた。処罰された人数は最終的に千数百人とも、資料によっては千五百人以上ともされる。

たかが門限違反が、なぜここまで巨大な粛清劇になったのか。規模がおかしい。ただの風紀の取り締まりじゃ説明がつかないし、大奥という権力の仕組みにもっと根深い闇があったと見るほうが自然なんだよな。

天英院と月光院、大奥を真っ二つにした綱引き

事件の裏を考えるなら、大奥の中の派閥争いは避けて通れない。勢力はふたつ。ひとつは六代将軍家宣の正室・天英院、もうひとつは家宣の側室で、家宣の死後に七代将軍となった幼い家継を産んだ月光院だ。

正室の天英院は、本来なら大奥の最上位として扱われるべき立場にいた。ところが現実には、将軍の生母という強力なカードを手にした月光院のほうが、急な勢いで存在感を増していた。ねじれた構図だ。

月光院は、当時の政権を実質的に率いていた儒学者・新井白石や、家継の後見役のような立場にいた間部詮房と固く結びついていた。幕政にまで影響力を及ぼしていたという。絵島はその右腕だ。御年寄として、月光院の権勢を大奥の中で体現していた存在だった。

ここで顔を出すのが、後の世でいちばん人気を集めた異説だ。絵島生島事件は、天英院派が月光院とその側近たちを失脚させるために仕組んだ陰謀だった、という説だ。いわゆる黒幕説。

筋書きはこうだ。月光院一派の足場である絵島を大奥から叩き落とせば、月光院本人の政治的な影響力も大きく削げる。芝居見物と門限の遅刻なんて、本来は内々の始末で済むはずの小さな話だった。それをわざわざ大事件に仕立てて、公の場で徹底的に責め立てる。

そうすれば単なる規律違反が「密通」という道徳のスキャンダルに化け、月光院派を道義の面からも失墜させられる、という理屈だ。陰謀説の骨組みは、ざっとこんなところになる。一石二鳥ってわけだ。

この事件を境に月光院派は大奥で目に見えて後退し、代わって天英院の力が強まったと、複数の研究が指摘している。ただ、歴史家たちは慎重に一言添えるのを忘れない。天英院が陰謀を直接指図したと示す密書のようなもの、決定的な証拠は残っていない。物証はゼロ。

天英院が謀議に加わったことを示す史料もない。だからこの説は、状況証拠と政治の力学から組み立てた推論どまり、というのが学問としての正しい評価だ。ここは大事な線引きだ。

それでも、事件の発覚、処罰の異常な広がり、その後の勢力図の変化と並べてみてほしい。ただの門限違反には見えない。読み物として面白いのは、まさにこの「証拠はないのに状況が黒すぎる」という、なんとも絶妙な灰色のところなんだよな。

本当に恋はあったのか、濡れ衣だったのか

もうひとつ、この事件で避けられない疑問がある。そもそも絵島と生島新五郎のあいだに、本当に肉体関係や恋愛関係なんてものがあったのか、っていう根っこの疑問だ。見方は大きくふたつに割れる。

まずは冤罪説から。完全な冤罪で、政治に利用されたという見方だ。この立場だと、絵島と生島に特別な関係なんてなくて、芝居のあとの宴に興行主が人気役者を招いて座を盛り上げただけ、と見る。当時としてはそう珍しくもない付き合いだった、という読みになる。

門限に遅れたのは本当だ。でもそれ自体は、本来なら閉門の記録に留めて終わる程度の話で、密通という重罪につなげる必然性はどこにもなかった。冤罪説の議論は、まずここから出発する。

それを「密通」という決定的なスキャンダルへ膨らませたのは、大奥の権力争いの都合だった、と冤罪説は読む。絵島と生島は、政争の駒として使われた悲劇の当事者だったという解釈だ。拷問の件も効いてくる。生島の自白が拷問の末に引き出されたことは、この説の裏付けとしてよく持ち出される。

もうひとつは、本当に恋愛関係があった、あるいは密会が重なっていたとする説。こちらの論者は、絵島が生島の芝居を観に行ったのはこの一回きりじゃなく、前から山村座へ何度も通っていたかもしれないと言う。通い詰めの疑いだ。

人気役者と大奥の女性実力者という取り合わせは、江戸の人たちの噂話には格好のネタだった。話題にならないはずがない。水面下で本当にただならぬ関係が続いていたからこそ、周りもそれを黙って見逃していたんじゃないか、という見方だ。

江戸の世を通じて、歌舞伎役者と大奥女性のロマンスは芝居や読本でおなじみの題材になった。源流はこの事件だ。そう考えると、当時の人たち自身がこれをただの濡れ衣とは見ていなかったことの表れだ、とこの説は言う。

今の歴史研究の多くは、決め手となる証拠がないことを前提にしている。冤罪説を有力な仮説と見ながらも、「真っ白だったとまでは言い切れない」という慎重な構えをとる研究が多い。白黒はつかない。

本当のところは、絵島と生島、そして当時の関係者の胸の中にしかない。三百年以上たった今では、はっきりした答えを出すのは誰にも無理で、だからこそ歴史ミステリーとして今も語られるんだよな。答えは藪の中。

高遠の囲み屋敷、八畳一間で過ぎた歳月

処罰が決まってからの絵島の後半生は、信濃国高遠、今の長野県伊那市高遠町で、静かに、そして過酷に過ぎていく。場所は山深い信州。高遠藩主の内藤清枚に身柄を預けられた絵島は、ひとつの建物をあてがわれた。

周りをがっちり塀で囲われた一軒家で、通称「絵島囲み屋敷」という。広さはわずか八畳一間。塀の上には忍び込みや脱走を防ぐ「忍び返し」がつき、隣の部屋では見張りの役人がいつも控えて、絵島の一挙一動に目を光らせた。

外とのやりとりは、食事の差し入れ以外いっさい許されなかった。大奥の内情が外へ漏れるのをひどく恐れた幕府は、紙や筆さえ絵島の手元に置かせなかったと伝わる。政治犯としての扱いは徹底していて、もはや「お預け」というより終身監禁に近い。息が詰まる。

支えは信仰だった。それでも絵島は、この極限の環境で尊厳を保ち続けたという。日蓮宗を深く信じていた絵島は、後年になって藩からわずかな外出の許しを得て、近くの蓮華寺へ参詣を続けたという。

厳しい監視の下でも読経と祈りで心の平穏を守ろうとしたその姿は、のちの人たちの同情と敬意を呼んだ。そうして高遠の地に、静かな伝説がひとつ残った。胸に来る話だ。

絵島がこの高遠で過ごした歳月は二十六年とも二十七年ともいい、どちらを取っても気の遠くなるような長さだ。あまりにも長い。寛保元年(一七四一年)、絵島は六十一歳で生涯を閉じた。

高遠城址公園に近い高遠町歴史博物館の敷地には、復元された「絵島囲み屋敷」が保存されている。昭和四十二年(一九六七年)に、当時の史料をもとに建て直されたものだ。本当に狭い。訪れた人は八畳一間という現実の狭さを目の当たりにして、絵島が味わった孤独の重みを肌で感じられる。

絵島の墓は蓮華寺にある。分骨されたもうひとつの墓が、遠照寺にも残るという。三百年以上前に大奥の権力争いに振り回されたひとりの女性が、この山深い信州の地で静かに眠っている。その事実が、事件の物語に一段と深みを足している。

三宅島へ流された、もうひとりの主役

絵島とともに運命を狂わされたのが、当代きっての人気役者・生島新五郎だ。美貌も芸も一瞬で失った。石抱の拷問で自白へ追い込まれた生島は三宅島への遠島を命じられ、長い流人暮らしに入った。

三宅島での生島の暮らしは、史料が限られていてよくわからない。謎の多い島暮らしだ。言い伝えを頼りにするなら、島での生活は華やかだった往時とは似ても似つかない、まったく別物だったという。

没年からして割れている。享保十八年(一七三三年)に島で亡くなったとする説もあれば、のちの恩赦で長く生き延びたと伝える資料もある。絵島の話と同じで、ここもはっきりした結論を出しにくい。

有力な記録によると、生島は寛保二年(一七四二年)、八代将軍徳川吉宗の代に赦されて、二十八年ぶりに江戸へ戻ったという。ところが喜びは短かった。翌寛保三年(一七四三年)、江戸小網町で七十三歳の生涯を終えている。戒名は「道栄信士」。

今も三宅島にはその墓があり、三宅村の観光案内でも史跡として紹介されている。役者として絶頂のときにすべてを奪われ、二十八年の流人暮らしを経て、ようやく故郷の土を踏んだ男。その人生は、絵島の物語と対になるもうひとつの悲劇として、多くの人の心に残ってきた。切ない話だ。

芝居と小説が育てた「絵島伝説」

事件は起きた直後から江戸の人たちの耳目を集め、瓦版や町の噂話の種になったと見られる。当時の記録からは、事件を茶化したり皮肉ったりする落首、風刺の狂歌や、真偽の入りまじった噂が飛び交った様子がうかがえる。江戸っ子は容赦ない。

ただ、幕府が情報をがっちり締めつけたせいか、詳しいことを書いた瓦版そのものは今にあまり伝わっていない。後の世の講談や芝居、読本のほうが、事件の「江戸庶民の記憶」を組み立て直した面が大きい。それがそのまま定着した。

格好の題材だ。大奥の女と役者の道行きなんて艶っぽい話を、後の作り手たちが放っておくはずがない。歌舞伎の世界ではこの事件を下敷きにした演目や、絵島と生島の悲恋を題材にした芝居が、繰り返し舞台にかけられた。

講談や人情本、明治からは小説、今では映画やテレビドラマ、漫画にまで題材が広がっている。よしながふみの漫画『大奥』をはじめ、大奥が舞台の数多くのフィクションが、この事件を重要なエピソードとして取り上げてきた。息の長い題材だ。

こうした作品の中で、絵島と生島はだんだん「本気で愛し合った悲劇の男女」へ磨き上げられていく。芝居の演出としては当然なんだけど、密会の場面やふたりの心のやりとりが、しばしば具体的に描かれる。ここが落とし穴。見る側はいつのまにか、それを事実として受け取ってしまう。

史実の側から見れば、密通そのものがあったかどうかさえ確定していない。フィクションに出てくる濃密な恋愛の描写は、そのほとんどが後の世の作り手による想像の産物なんだ。史料は黙ったまま。

私たちが「絵島生島事件」と聞いて思い浮かべるものの多くは、じつは江戸のスキャンダルそのものじゃない。その後三百年かけて幾重にも塗り重ねられた「物語」の姿だ。三百年分の上塗り。

それでもこの事件が今日まで語られる力を失わない理由は、たぶんこう説明できる。権力争い、身分違いの恋、苛烈な運命。ドラマに欠かせないこの三つの要素が、本物の史料の隙間に見事なくらいぴたりと収まってしまうからだ。出来すぎなくらいだ。

三百年後の高遠と三宅島で

高遠の絵島囲み屋敷は、年に一度、期間限定で特別公開されることもある。伊那谷を訪れる観光客にとっては、江戸の大奥の裏側の歴史を、自分の体で確かめられる貴重なスポットだ。一見の価値ありだ。

八畳一間の狭さ、忍び返しのついた塀、隣の見張り部屋。その全部が、絵島がどれだけ厳しい監視の中で生きたかを黙って伝えてくる。声のない証言だ。蓮華寺の墓と遠照寺の分骨墓もあわせて訪ねれば、権力争いに人生を狂わされた女性の足取りを、もっと立体的にたどれるはず。

三宅島に残る生島新五郎の墓も、事件のもうひとつの終着点として静かに佇んでいる。この事件を丹念に追って見えてくるのは、大奥の不倫騒ぎでは収まらない、江戸幕府中期の権力構造そのものの脆さだ。土台がもろいんだ。

火種そのものは、本当に小さかった。将軍の正室と側室、そのまわりを固める女官たちのあいだの微妙な緊張が、たった一度の門限違反で火を噴いた。三百年以上前の話なのに、千数百人を巻き込む疑獄へ膨れ上がる流れは、今の組織の派閥争いやスキャンダル利用の構図とも重なる。妙に生々しい。

密通が本当にあったのかどうか、最後まで確かめられないところが、この事件のいちばんの引力になっている。ふたりを狂わせたのが愛か、他人の野心が生んだ虚構かは、誰にもわからない。問いは宙に浮いたまま。高遠の八畳一間と三宅島の墓標だけが、三百年の時を黙って刻んでいる。

機会があったら、高遠の絵島囲み屋敷を訪ねて、あの狭い一間にじっさいに立ってみてほしい。場所は伊那市高遠町。教科書の年表では一行きりの「絵島生島事件」が、そこでは、ひとりの人間が閉じこめられて生きた二十数年の重みとして迫る。歴史ミステリーの面白さは、現地に立って初めてわかる実感にあるのかもしれない。

タイトルとURLをコピーしました