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毒も銃弾も氷も火も効かなかった――ラスプーチン暗殺の夜、モイカ運河の地下室で本当は何が起きたのか

## 青酸を盛られて、撃たれて、それでも立ち上がった男の話
一九一六年十二月十六日の深夜から十七日の未明にかけて、ペトログラードのモイカ運河沿いにある屋敷の地下室で、ひとりの男が殺された。名前はグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン。シベリアの農村生まれ、字もろくに書けない、風呂に入る習慣もあやしい、皇帝一家の寝室のすぐ隣まで入り込んでいた祈祷師だ。
この殺人が異様なのは、動機でも犯人でもない。動機はわかっている。犯人も自分から名乗り出ている。異様なのは「どう死んだか」だ。
青酸カリを盛られたケーキを食べても平気だった。毒入りのマデイラ酒をグラスで何杯もあおっても、少し頭が重いと言っただけだった。至近距離から胸を撃たれ、脈が止まったのを医者が確認したのに、しばらくして目を開けて襲いかかってきた。雪の中庭を走って逃げ、背中と頭に弾を浴びてようやく倒れた。それでも凍った川に沈められたとき、まだ息があったという。
これが「不死身の怪僧」伝説の骨格だ。世界中の子どもがなんとなく知っている。ゲームにも映画にもディスコの曲にもなった。
ところが検死報告書を開くと、まったく別の話が書いてある。胃から毒は出ていない。肺に水は入っていない。額には接射――銃口を押しつけて撃った痕がある。つまり毒殺も溺死もなく、額の一発で終わっている。ほぼ処刑だ。
じゃあ「不死身」はどこから来たのか。誰が最初に言い出したのか。なぜみんなそっちを信じたのか。そして、この一晩がロシア帝国の残り時間をどう削ったのか。
順番に、全部やる。長くなる。覚悟してほしい。
## 招待状には「妻に会わせてやる」と書いてあった
まず罠の話からいこう。
仕掛けたのはフェリックス・ユスポフ公爵、当時二十九歳。ロシアで最も金持ちな一族の跡取りで、皇帝の姪イリーナを妻にしていた。若い頃は女装して夜遊びをするような男で、オックスフォードに留学していた経歴もある。政治家というより、退屈と美意識をこじらせた貴族という感じだ。
ユスポフはラスプーチンに近づいた。表向きの理由は「胸の痛みを治してほしい」。何度か通ううちに親しくなり、そして例のカードを切る。うちの妻イリーナに会いませんか、と。
ラスプーチンはイリーナに会ったことがなかった。だが彼女は帝国きっての美貌で知られていた。ラスプーチンが女に弱いという評判は、事実かどうかはさておき、街中に知れ渡っていた。ユスポフはそこを突いた。
実際にはイリーナはクリミアにいた。屋敷にはいない。最初から一人も来ない。
十二月十六日の夜、ユスポフはラスプーチンの住むゴロホヴァヤ通りの部屋に迎えに行った。裏階段から入った。人目につかないように、というのは口実で、要は誰にも見られたくなかったからだ。ラスプーチンはめずらしくめかしこんでいた。青いシルクの刺繍が入ったルバシカ、ビロードのズボン、磨いたブーツ。髪に油をつけ、髭を整えていた。会いに行く相手が誰か、はっきり意識している身なりだ。
車に乗る。ペトログラードの十二月、深夜、氷点下。運河は凍り、街灯は戦時の節約で暗い。屋敷に着くと、ユスポフは地下の一室にラスプーチンを通した。
## 地下室の内装は、この夜のために作られた
その部屋は、もともとはただの倉庫めいた地下室だった。ユスポフは殺人の数日前から人を入れて改装させている。ここが妙に映画的で、後の伝説の温度を決めてしまった部分だ。
低いアーチ天井。灰色の石壁。床は花崗岩。運河の水面すれすれの高さに小さな窓が二つ。壁のくぼみには赤い中国製の大きな磁器の壺。彫刻を入れた樫の椅子。暖炉には火が入っていた。
そして部屋の主役が、黒檀の象嵌細工の飾り棚だ。小さな鏡がびっしり貼られ、青銅の細い柱が立ち、引き出しがたくさんついている。前には白い熊の毛皮が敷いてあった。
ユスポフ自身が後に書いたところによれば、ラスプーチンはこの棚を見るなり子どものように喜んで、引き出しを開けたり閉めたりして遊んだという。人を殺しに来た側が用意した小道具に、殺される側が無邪気にはしゃぐ。この場面が効きすぎる。だから百年語り継がれた。
上の階には共犯者たちがいた。ドミートリー・パーヴロヴィチ大公――皇帝ニコライ二世の従弟で、当時二十五歳。ウラジーミル・プリシケーヴィチ――国会の極右議員で、演説の名手で、爆発物みたいな性格の男。スタニスラフ・ラゾヴェルト――医師。セルゲイ・スホーチン――負傷して療養中の将校。
彼らは蓄音機をかけていた。上で女性たちのパーティーが続いているように装うためだ。曲は「ヤンキー・ドゥードゥル」だったと伝わっている。ペトログラードの貴族の屋敷の地下で殺人が進行しているあいだ、頭上でアメリカの行進曲がぐるぐる回っていたことになる。悪趣味が過ぎて、逆に作り話くさい。だがユスポフはそう書いた。
## ケーキと甘いマデイラ酒、そして何も起きない二時間半
毒の準備をしたのは医師ラゾヴェルトだった。ゴム手袋をはめ、青酸の結晶を粉末になるまで挽き、ピンク色と茶色のプチフールの中身をくり抜いて詰めたとされる。ワイングラスの内側にも毒を仕込んだ。
ユスポフはラスプーチンに勧めた。ラスプーチンは最初、断った。甘いものはいらない、酒もいらない。ここが第一の妙な点だ。ラスプーチンは甘味が苦手だったという証言が複数ある。娘のマリヤも後に「父は菓子を好まなかった」と言っている。
それでも押し問答の末、ラスプーチンは食べはじめた。ユスポフの記述では、二つ、三つと平らげ、マデイラ酒を続けざまに飲み干した。
そして――何も起こらない。
ユスポフは背中に汗が流れるのを感じていたはずだ。目の前の男は平然と椅子に座り、しゃべり、ときにギターを弾けとせがむ。ユスポフはギターを弾いた。ジプシー風の歌を歌ってやった。頭上では蓄音機が同じ曲を繰り返している。
時計が二時半を指す。二時間が経っていた。ユスポフは後年こう書く。この悪夢は果てしなく続く二時間だった、と。
ラスプーチンは一度だけ、頭が重い、腹が焼けるようだ、と言った。それだけだ。そして「もう一杯くれ」と言った。
上の階では共犯者たちが苛立ちを募らせていた。プリシケーヴィチは階段の途中まで降りて様子を窺い、また戻った。何度目かにユスポフが上がってきて、毒が効かない、と告げる。全員が青ざめた。
計画がここで崩れた。あとは即興だ。そして即興でやった殺人は、たいてい汚くなる。
## 「その前に、十字架を見ろ」
ユスポフはドミートリー大公から回転式拳銃を借りて、地下室に戻った。上着の後ろに隠して持っていた。
部屋に戻ると、ラスプーチンは椅子に沈み込んで、息を荒くしていた。ユスポフは飾り棚の上に置かれた水晶の十字架に話を振った。これは美しい細工でしょう、と。ラスプーチンは立ち上がって十字架をのぞき込んだ。
背を向けた。その瞬間にユスポフは撃った。
ユスポフは「心臓を狙った」と書いている。ラスプーチンは叫び声をあげ、白い熊の毛皮の上に崩れ落ちた。
物音を聞いて全員が駆け下りてきた。医師ラゾヴェルトが脈をとる。ない。死んでいる。彼らは屋敷の上階に戻り、安堵し、これで帝国は救われたと言い合った。
このあたりの共犯者たちの高揚感は、記録を読むと本当に浮ついている。プリシケーヴィチは自分たちを愛国者だと思っていた。ドミートリー大公は皇族としての義務を果たしたつもりだった。ユスポフは、後に自分でも認めているが、一種の陶酔状態にあった。
そしてユスポフが一人でもう一度、地下室に降りた。死体を見に行った。理由は本人にもよくわからないと書いている。
死体を揺すってみた。動かない。もう一度、強く揺すった。
左のまぶたが、震えた。
## 目を開けた
ユスポフの記述はここから急に文体が変わる。それまで貴族的な観察の細かさで進んでいた文章が、悪夢の描写に落ちる。
両目が開いた。緑がかった、蛇のような目だった、と彼は書いた。憎悪しかない目でこちらを見た。そして死体だったものが跳ね起きて、口から泡を吹きながら襲いかかってきた。ユスポフの肩をつかみ、肩章を引きちぎり、喉に手をかけようとした。ユスポフは自分の筋肉が石になったと表現している。声も出なかった。
もみ合ううちに振りほどいて、階段を駆け上がった。ラスプーチンは四つん這いで階段を這い上がってきた。獣のような唸り声をあげながら。
ユスポフは上の階でプリシケーヴィチにぶつかった。生きている、と叫んだ。
プリシケーヴィチは自分の拳銃を握って階段に走った。そのあいだにラスプーチンは中庭に通じる小さな扉に手をかけていた。この扉は施錠されているはずだった。されていなかった。
雪の中庭に出る。ラスプーチンは走った。撃たれた腹を押さえて、雪をかき分けて、通りに面した門に向かって。走りながら叫んでいた。フェリックス、フェリックス、皇后に全部話してやる。
プリシケーヴィチが追った。一発目、外した。二発目も外した。彼は自分で自分の手に噛みついて頭をはっきりさせた、と日記に書いている。三発目が背中に当たった。ラスプーチンは止まった。四発目が頭に当たった。雪の上に倒れた。
プリシケーヴィチは駆け寄って、こめかみを蹴った。ユスポフもゴム棍棒を持って走ってきて、倒れている体を滅茶苦茶に殴った。このとき目のあたりを潰したとされる。狂乱状態だったのは間違いない。
## 巡査が来た
銃声は四発。深夜の住宅街だ。当然、聞かれた。
近くにいた巡査が門のところにやってきた。何の音か、と聞いた。
ユスポフは酔ったふりをして応対した。友人が悪ふざけで犬を撃った、と言った。実際、屋敷では血の跡を消すために犬を一頭撃って、雪の上に転がしている。用意周到なのか行き当たりばったりなのか判断に困る。
ところが、ここでプリシケーヴィチがやらかす。彼は興奮して巡査に向かってこう言ったと自分で記録している。ラスプーチンが死んだ、お前がロシア人で皇帝を愛しているなら黙っていろ、と。
つまり犯人が現場で自白した。数時間後に警察はラスプーチン失踪の届けを受け、この巡査の証言と、屋敷の中庭に残った血痕と、ユスポフ邸に出入りする車の目撃情報が一晩でつながった。ペトログラードの警察署長は後に、これまで見た中で最も無能な犯行だと評している。素人の即興殺人としては当然の結末だ。
## 橋の上から
死体は運ばれた。青い布に包み、ロープで縛り、車の後部に積んだ。行き先はペトロフスキー橋。マラヤ・ネフカ川にかかる橋だ。
橋の欄干から投げ落とした。氷に開いた穴を狙ったが、雑だった。落としたときにブーツが片方脱げ、毛皮のコートが橋桁に引っかかった。彼らはそれに気づかず、あるいは気づいて拾い損ねて、そのまま走り去った。
このブーツとコートが、翌々日に発見の決め手になる。橋の上に残った血痕も見つかった。潜水夫が入り、十二月十九日に遺体が引き上げられた。氷の下に押しつけられた状態で見つかった。
引き上げられた遺体の腕は、縛られていなかった。片腕が上がった形になっていた。
ここから最も有名な伝説のひとつが生まれる。娘のマリヤ・ラスプーチナは、父は川に投げ込まれたときまだ生きていて、氷の下で縛めを解き、十字を切ろうとして力尽きたのだと主張した。父は最後まで祈っていた、と。
歴史家の説明はもっと味気ない。毛皮のコートが浮きの役割をして遺体を氷の裏側に押しつけ、流れの中で擦れているうちに手首の縛めが外れ、腕が自然にその位置に落ち着いた。ただそれだけだ、と。
どちらの説明が「読みたい」ものかは、言うまでもない。
## その「不死身」は、どの本で最初に語られたのか
ここが本題のひとつだ。伝説の初出をきちんと押さえないと、この事件は永久に整理できない。
最初に世に出た当事者の記録は、プリシケーヴィチの日記だ。一九一八年、キエフで刊行された。事件からわずか一年半。ロシアは既に革命の渦中で、彼は反ボリシェヴィキ運動に加わりながらこれを出した。二年後の一九二〇年、彼はノヴォロシースクでチフスにかかって死んでいる。
このプリシケーヴィチ版が、実はかなり重要だ。彼の記述では、ラスプーチンを撃ち殺したのは彼自身である。中庭で追いかけて撃った。ユスポフの一発では死ななかった。この時点で「一度倒れた男が生き返った」という筋書きは既に入っている。つまり不死身伝説の核は、最も早い当事者記録の段階で成立していた。
次がユスポフだ。彼は一九二七年に事件についての本を出し、さらに一九五三年に自伝『失われた輝き』を出している。この二つを読み比べると、話が育っているのがわかる。
一九二七年版でラスプーチンは「悪魔のような男」程度の書かれ方をしている。一九五三年版では、聖書に出てくる反キリストそのものにまで昇格している。細部の演出も増える。緑色の蛇の目、口の泡、白い熊の毛皮の上での格闘。ユスポフは決定的な一撃を放ったのは自分だという印象を作り出そうとしているが、彼自身の記述をよく読むと、致命傷を与えたのは中庭のプリシケーヴィチだ。
この「盛り」には身も蓋もない事情がある。ユスポフは亡命者だった。財産の大半をロシアに置いてきた。パリで妻とファッションハウスを経営していたが、経営は苦しい。彼が持っていた最大の資産は「ラスプーチンを殺した男」という肩書きだけだった。本を売る必要があった。話は派手なほうがいい。
さらに一九三四年、彼はハリウッドの映画会社を名誉毀損で訴えて勝訴し、多額の賠償金を得ている。映画の中で妻イリーナがラスプーチンに辱められたように描かれていた、という訴えだ。この裁判は映画作品の末尾に「登場人物はフィクションです」という断り書きが付くようになった起源のひとつとしても知られている。要するに、ラスプーチン殺しという物語はユスポフにとって現金だった。
医師ラゾヴェルトも後にアメリカとパリで手記を残した。彼の証言はさらに厄介な爆弾を含んでいる。後述する。
そして、この三人以上に強力な発信源がある。マリヤ・ラスプーチナだ。彼女は父の名前で長く生き、複数の本を出し、そのたびに内容が変わった。一九七七年に共著で出した回想では、独自の細部が大量に加わっている。彼女は父を擁護する立場だったが、結果的に「超人ラスプーチン」の像を補強した。
つまり構図はこうだ。殺した側は「あいつは怪物だった、だから殺すしかなかった」と言いたい。守る側は「父は普通の人間には殺せない聖なる人だった」と言いたい。両陣営の利害が、たまたま同じ方向を指している。不死身伝説は敵味方の共同作品だ。
## 検死台の上には、まったく別の話が乗っていた
一九一六年十二月二十日、ペトログラードの軍医学校で解剖が行われた。執刀したのはドミートリー・コソロートフ教授。当時のロシアで最も権威ある法医学者のひとりだ。
彼が見つけたものは、伝説と致命的に噛み合わない。
銃創は三つ。胃・肝臓のあたりを貫いた一発。腎臓のあたりから背骨に抜けた一発。そして額の中央、一発。
この額の傷が問題だ。傷の周囲に銃口の圧痕がある。すすや火薬粒子の付着による焼け焦げの散らばりはない。これは銃口を皮膚に密着させて撃ったときにできる典型的な所見だ。近年の法医学的再検討でも、この点は繰り返し指摘されている。中庭を走る男を数メートル離れて撃ったのなら、こうはならない。
そして額を接射で撃たれた人間は、その場で即座に機能停止する。走り出すことも、川で泳ぐこともない。額の一発が最後に来たのだとすれば、その時点で全部終わっている。逆に額の一発が最初に来たのだとすれば、胸や背中の弾はもう必要ない。どちらにせよ、これは戦闘ではない。処刑だ。うつ伏せか仰向けで倒れている相手の額に、銃口を当てて撃ったということになる。
毒はどうか。胃の内容物から毒物は検出されなかった。アルコールは出た。青酸の痕跡はなかった。
水はどうか。肺に水はなかった。溺死ではない。川に沈められたときには既に死体だった。
つまり公式記録が語る死に方は、こうだ。腹を撃たれ、背中を撃たれ、額を至近距離で撃たれて死んだ。毒は関係ない。川も関係ない。所要時間はおそらく数分。
伝説を構成する三要素――毒が効かない、水中で蘇る、超人的な生命力――のうち、二つは検死で否定され、残る一つも「腹と背中を撃たれてから額を撃たれるまでの数分間、意識があった」という程度の話に縮む。腹を撃たれた人間が数分動けるのは、医学的に何も珍しくない。
ここでもう一つ、この事件をずっと厄介にしている事実がある。原本の法医学報告書が失われている。革命の混乱の中で、警察の捜査記録の一部とともに消えた。現在参照されているのは写しや引用、そして事件当時に撮影された遺体写真だ。だから細部については研究者ごとに読みが割れる。額の傷の解釈も、弾丸の口径の推定も、確定していない。
「決定的な証拠が失われている」――陰謀論にとってこれ以上ありがたい条件はない。
## 派生バージョンを一つずつ潰していく
### 毒は最初から入っていなかった、という説
最も説得力があり、最も夢がない説だ。
医師ラゾヴェルトは晩年、臨終の床で告白したと伝えられている。自分は良心が咎めて、青酸をすり替えた。ケーキに詰めたのは無害な粉だった、と。
この告白の一次資料としての強度は正直あやしい。臨終の告白という形式そのものが、怪しい話の常套句だからだ。だが検死で毒が出ていない以上、結論としては同じ場所に着地する。ラスプーチンが飲み食いしたものに致死量の青酸は入っていなかった。
すり替え説以外にも技術的な説明がいくつもある。青酸カリは糖分の多い環境や、砂糖の存在下で毒性が落ちる場合がある。粉末にしてから時間が経てば空気中の水分と二酸化炭素で分解が進む。ラスプーチンは胃酸の分泌が低下していた可能性がある――一九一四年に腹を刺されて以来、消化器に不調を抱えていたのは事実だ。青酸が致死的に働くには胃酸が必要になる。
しかしこれらは全部「毒は盛られたが効かなかった」という前提の上での説明だ。検死結果を素直に読むなら、そもそも盛られていない。近年の研究者の中には、ラスプーチンが甘いものを口にしない習慣だったことを重視して、毒入りケーキという場面設定そのものが後から作られた劇だと断じる人もいる。
なぜそんな劇が必要だったのか。答えは単純だ。殺した側は自分たちを英雄にしたかった。ただの卑劣な待ち伏せ殺人では英雄になれない。怪物を倒した勇者でなければならない。だから相手を怪物にする必要があった。
### 額の一発はイギリス製リボルバーだった、という説
これがいちばん人気のある陰謀論だ。
主張の骨格はこうだ。ラスプーチンはドイツとの単独講和を皇帝に吹き込んでいた。ロシアが戦線から抜ければ、東部戦線のドイツ軍が全部西に回ってくる。イギリスにとっては悪夢だ。だからイギリスの秘密情報部が動いた。
名指しされているのはオズワルド・レイナー。オックスフォードでユスポフと同窓だった男で、当時ペトログラードにいた情報将校だ。ユスポフとは親しく、後にユスポフの本の英訳にも関わっている。
証拠として持ち出されるのは主に三つある。
ひとつ、額の傷の口径だ。復元を試みた研究者たちは、この傷が他の二つの銃創と異なる口径の弾によるものであり、当時イギリス将校が携帯していた大口径のリボルバーの弾に合致すると主張した。共犯者たちが持っていた拳銃とは違う、と。
ふたつ、事件直後の内部通信だ。ペトログラードにいたイギリスの情報将校が、ルーマニアにいた同僚に宛てた一九一七年一月の書簡が引用される。目的は明らかに達成された、「暗黒の勢力」の消滅は好意的に受け止められている、という趣旨の文面だ。「暗黒の勢力」は当時ラスプーチン周辺を指す言い回しだった。
みっつ、レイナーの周辺証言だ。彼は一九六一年に死ぬ前、書類を焼却している。親族が「彼は関与していたと語っていた」と証言したという話もある。
この説は二〇〇〇年代に入ってからテレビ番組と何冊かの本によって一気に広まった。派生形として、イギリス側の関与はもっと暗かった、という主張もある。遺体に残った損傷――目の損壊、耳の裂傷、性器の挫滅、鈍器による頸部の傷――を、殺害前の尋問による拷問の痕だとする読み方だ。ラスプーチンとドイツとの接触ルートを吐かせようとした、というシナリオになる。
反証もはっきりある。まず、イギリス側の記録を実際に調査した歴史家が、そこに痕跡がないと述べている。組織的な作戦なら何らかの形跡が残るはずだ、と。ロシア側の史料を精査した研究者は、額の弾丸をイギリス製とする根拠が薄く、むしろロシアの拳銃で説明がつくと結論した。そもそも決定的な物証である原本の報告書と弾丸が失われている以上、口径の議論は写真からの推定合戦にしかならない。
そして最大の弱点はこれだ。レイナーとユスポフは友人だった。ユスポフの本の英語版制作にレイナーが関わっている。つまり、レイナーが現場付近にいたとしても、それは「イギリス政府の作戦」ではなく「友人の危ない計画に付き合った個人」で説明できてしまう。この二つを区別する証拠が、ない。
面白いのは、当時の皇帝ニコライ二世自身がイギリスの関与を疑っていた形跡があることだ。イギリス大使は否定した。そのやりとりが記録に残っている。つまりこの陰謀論は、二〇〇〇年代の発明ではなく、事件直後から現地で囁かれていた。
### 拷問されたという説
前の項目と重なるが、独立した論点として扱う価値がある。
一九九〇年代にロシアの法医学者が遺体写真を再検討し、銃創以外の多数の損傷を報告した。眼球の脱出、耳の裂け、性器の重度の挫滅、頸部の鈍的損傷、顔面と体幹に「柔軟だが鈍い」器具による打撲痕。
これを拷問と読むか、殺害後の暴行と読むか、川での損傷と読むかで、事件の性格がまるごと変わる。
拷問説を採るなら、地下室の場面は「毒が効かなくて困った素人たち」ではなく「情報を吐かせるための組織的な尋問」になる。ユスポフの物語は全部カバーストーリーということになる。
殺害後の暴行と読むなら、証言と一致する。プリシケーヴィチもユスポフも、倒れた体を蹴り、棍棒で殴ったと自分で書いている。狂乱状態だったとも。ゴム棍棒による打撲は「柔軟だが鈍い」器具の記述と矛盾しない。
川での損傷と読むなら、氷の下で流されて橋脚や氷塊に叩きつけられた結果になる。
私見では三つ目は説明力が弱い。二日で氷の下から回収された遺体に、あれだけ集中した損傷がつくとは考えにくい。一つ目と二つ目のどちらかだ。そして、酒に酔って興奮した素人が動かなくなった相手を執拗に殴り続けたという説明は、残念ながら人間の行動としてまったく珍しくない。
### そもそもドミートリー大公が撃ったのではないか、という説
地味だが根強い。
理由はこうだ。プリシケーヴィチは中年の政治家で、射撃の腕は特に評価されていない。彼自身、日記で最初の二発を外したと書いている。手に噛みついて正気を取り戻したとも書いている。この人物が走って逃げる標的の頭に命中弾を出せるか、という疑問だ。
対してドミートリー大公は若く、軍人で、オリンピックの馬術競技に出場した経歴を持つ運動能力の持ち主だった。そして彼は生涯、この事件について一言も語らなかった。皇族としての立場、亡命後の生活、いろいろ理由は考えられるが、共犯者全員が本を出して稼いだ中で、彼だけが完全に沈黙を守った。
沈黙は雄弁だ、と読みたくなる。だが沈黙は何の証拠でもない。ここは正直に言っておく。
### 溺死説
伝説の中核でありながら、検死報告が最も明確に否定している部分だ。肺に水はなかった。
にもかかわらずこの説が消えないのは、娘マリヤの証言と、腕が縛められていなかったという遺体の状態と、そして何より「氷の下で目を覚まして十字を切りながら死ぬ」という絵の強さのせいだ。
補足しておくと、一部の記述には「肺に水があった」とするものもある。原本が失われているせいで、引用の系統によって記述が食い違っているのだ。この食い違い自体が、この事件が永久に決着しない理由を象徴している。
## 同時代の証言を、三つ読む
### 中庭の銃声を聞いた巡査
事件の夜、モイカ運河沿いの持ち場にいた巡査は、深夜に複数の銃声を聞いている。彼が門に近づくと、ユスポフ邸の側から人が出てきて応対した。酒に酔ったふうを装って、友人がふざけて犬を撃ったのだと説明された。
巡査はいったん引いた。だがこの種の説明で納得する警察官はいない。彼は所轄に報告している。
そして決定的なのは、その後に起きたことだ。屋敷の側から出てきた人物――極右議員プリシケーヴィチ本人が、興奮のあまり真実を口走った。ラスプーチンを殺した、お前が愛国者なら黙っていろ、という趣旨のことを、警官に向かって言った。
彼はこのやりとりを自分の日記に書いている。誇らしげに、である。彼にとってこれは自白ではなく、宣言だった。ロシアを救った男が、身分の低い警官に向かって、これは正義だと告げた場面。そういう自己像で書いている。
この一言のおかげで、捜査は最初から答えを持っていた。数時間のうちに、ラスプーチン失踪の届け出、巡査の報告、中庭の血痕、車の目撃情報が一本の線で結ばれた。完全犯罪の正反対だ。にもかかわらず、犯人たちは誰一人として裁判にかけられなかった。理由は身分だ。皇族と大貴族と国会議員を、戦時下の帝国は裁けなかった。
この「捕まえられたのに裁けなかった」という事実こそが、この事件の政治的な破壊力の本体だと私は思う。
### 事件直後の新聞
当時のペトログラードとモスクワの新聞は、検閲下でありながらこの事件に食いついた。
ある中道系紙は、ラスプーチンの影響力が特に教会関係の人事において驚くほど大きかったことを指摘し、社交界の女性たちが彼を「お父さん」と呼んで取り巻いていた様子を書いた。
自由主義系の有力紙は、彼が手紙を書きまくっていた事実に焦点を当てた。知人にも、面識のない相手にも、大臣にさえ、平気で口利きの手紙を送りつけた。そしてこの紙は鋭いことを言っている。問題は彼が実際にどれだけ影響力を持っていたかではなく、彼が作り上げてしまった「あの環境」なのだ、と。誰もが彼を通せば何かが動くと信じてしまった状況。それ自体が病だった、という指摘だ。
もう一紙、モスクワの保守寄りの新聞は、もっと苦い書き方をしている。この男の実際の小ささと、その死が引き起こした反応の巨大さの落差が異様である。大戦の最中、何千という立派な命が失われている時期に、国じゅうがこの一人の男の生死に釘付けになった。これは我々の政治的・国民的な尊厳に対する、最も屈辱的な侮辱である――そういう趣旨だ。
一九一六年の新聞がこう書いているという事実に、私は少しぞっとする。当時の人間は、自分たちが何かおかしなものに取り憑かれていることを、リアルタイムで自覚していたのだ。
### 皇后アレクサンドラ
ラスプーチンの失踪が伝えられたとき、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナはすぐに最悪を悟った。彼女は事件の翌日には既に「殺された」と確信して行動している。ドミートリー大公の即時逮捕を要求した。ユスポフを問い詰めた。
彼女の反応は、この事件のもうひとつの中心だ。共犯者たちは、ラスプーチンさえ消せば皇后が正気に戻り、皇帝がまともな統治に立ち返ると信じていた。
起きたことは正反対だった。
彼女は硬化した。自分たちが宮廷内部から命を狙われる立場にあると理解し、いっそう孤立し、いっそう疑い深くなった。夫への手紙の調子は変わり、周囲への不信は深まった。皇帝ニコライ二世は司令部から戻り、犯人たちを追放処分にした。ドミートリー大公はペルシャ方面へ。ユスポフは領地へ。
この処分の軽さが、また火に油を注いだ。貴族が皇帝の寵臣を殺しても、追放で済む。帝国の法はもはや上流階級に及ばない。誰もがそう理解した。
遺体は皇后の意向でツァールスコエ・セローの一角に埋葬された。棺には皇后と皇女たちが署名した聖像画が納められたとされる。密葬に近い形で、皇帝一家が立ち会った。皇帝が農民の祈祷師の埋葬に出席する。それが一九一六年の年末のロシアだった。
## 舞台裏の実在の背景
### 一九一六年のロシアは、もう限界だった
前提を押さえておく。ラスプーチンの物語は、真空で起きていない。
第一次大戦は三年目に入り、ロシア軍の死者は数百万に達していた。工業力ではドイツに遠く及ばない。輸送網は破綻寸前で、穀物はあるのに都市に届かない。ペトログラードのパン屋の行列は日常風景になっていた。
政治はもっとひどい。一九一五年、皇帝ニコライ二世は自ら軍の最高司令官として司令部に移った。国民に決意を示すつもりだったのだろうが、実際にやったのは二つだ。ひとつ、敗戦の責任が全部自分に来るようにした。ふたつ、首都の統治を皇后に委ねた。
その皇后が誰を頼りにしていたか。ラスプーチンだ。
以後の一年半で、内務大臣は五人、首相は四人替わった。有能さではなく従順さで選ばれた人事だった。同時代人はこれを「大臣跳び」と呼んで嗤った。
一九一六年十一月、自由主義派の指導者ミリューコフが国会で有名な演説を行う。政府の失策を一つひとつ列挙し、そのたびに「これは愚かさなのか、それとも裏切りなのか」と聴衆に問いかけた。名指しは巧妙に避けつつ、宮廷内の「暗黒の勢力」を指していることは誰にでもわかった。演説の写しは禁止されたまま全国に出回った。
そして同じ十二月、あの極右議員プリシケーヴィチが国会で演説する。彼は右派だ。本来なら皇帝を守る側だ。その彼が、暗黒の勢力が玉座を包囲していると訴えた。
右も左も、もう同じことを言っていた。そして右派の議員は、演説の数週間後に自分で拳銃を持った。
### 血友病という、誰にも言えない秘密
なぜ皇后はシベリアの農民に依存したのか。理由は一つだ。
皇太子アレクセイは血友病だった。母方から受け継いだ。ヨーロッパの王室にこの病を広げた系統に、皇后は連なっていた。
当時、血友病に治療法はない。関節内出血の痛みは想像を絶する。皇太子が転んだり打ったりするたびに、数日間、悲鳴を上げ続ける。医者にできることはほとんどなかった。
そしてこの事実は国家機密だった。帝位継承者が不治の病であることが公になれば、王朝の正統性が揺らぐ。だから隠した。隠したことで、宮廷の異様な緊張と、そこに出入りする謎の農民の存在が、国民には説明不能な形で伝わった。説明がないところに、噂が生える。
一九一二年、ポーランドのスパラの狩猟用宮殿で、皇太子が最悪の出血を起こした。馬車で揺られた際の打撲が原因で、股関節から腹部にかけて内出血が広がり、腫れ上がった。何日も高熱と激痛が続き、医師団は手を尽くしたが好転しなかった。回復の見込みなしと判断され、公式に病状が発表され、臨終の秘蹟が施される準備まで進んだ。
皇后は藁にもすがる思いで、シベリアにいたラスプーチンに電報を打った。
返ってきた返事はこうだった。神はあなたの涙を見て、祈りを聞いた。悲しむな。小さき者は死なない。医者たちに彼をあまりいじらせるな。
翌日から皇太子は快方に向かった。
これが決定打になった。皇后にとって、ラスプーチンは疑いようもなく神の使いになった。
医学的な説明はいくらでもつく。出血がたまたま自然に止まる時期だった。医師たちに「いじらせるな」と言ったことで、当時使われていたアスピリンの投与が止まった可能性がある。アスピリンには血を固まりにくくする作用がある。当時それを知っている者はいなかった。あるいは、母親の絶望的な不安が息子に伝わって症状を悪化させていたところに、確信に満ちた言葉が届いて母子ともに落ち着いた。血圧やストレス反応が出血に影響するのは事実だ。
だが、当事者にとって説明はどうでもいい。息子は生きた。他の誰にもできなかったことを、あの男がやった。それだけだ。
そして、この理屈は誰にも否定できない。皇后を説得しようとした親族や大臣は次々と遠ざけられた。ラスプーチンを批判することは、皇太子の命を危険にさらすことと同義になっていた。
### シベリアの巡礼者がどうやってそこまで来たか
生い立ちの話をしておく。
一八六九年、西シベリアのトボリスク県ポクロフスコエ村の農家に生まれた。読み書きはできなかった。若い頃は喧嘩と酒と女の評判があった、と後に敵対者たちは書いている。一八八七年に結婚し、子どもが生まれた。
転機は一八九〇年代後半だ。彼はヴェルホトゥリエの修道院に向かった。理由は諸説ある。子どもを亡くした悲しみだったとも、罪を悔いてのことだったとも、単に村での面倒から逃げたのだとも言われる。ここで彼は長老と呼ばれる修行者マカーリイに会う。この出会いが彼を変えた。
彼は酒と肉を断ち、放浪の巡礼者として歩き始めた。ロシア中の修道院を回り、ギリシャの聖山にも、エルサレムにも行ったとされる。文字を覚えたのもこの時期らしい。歩いて、祈って、人の話を聞いて、独特の語り口を身につけた。
農民出身の巡礼者が霊的な力を持つ、という考え方は、当時のロシアでは特殊な発想ではない。むしろ正教の伝統の一部だ。学問を積んだ聖職者よりも、素朴な農民のほうが神に近いという感覚は根強くあった。ここを押さえないと、なぜ首都の上流社会が彼を受け入れたのかが理解できない。
一九〇三年頃、彼はペテルブルクに現れる。神学校の高位聖職者に紹介状を得て入り込み、神秘主義に傾倒していた貴婦人たちのサロンに紹介された。特に重要だったのが、モンテネグロ出身の二人の大公妃だ。彼女たちは心霊術や神秘思想の熱心な信奉者で、当時の宮廷にオカルト趣味を持ち込んでいた張本人でもある。
一九〇五年十一月、彼女たちの仲介で、彼は皇帝夫妻に紹介された。当時の皇帝の日記に、神の人グリゴリーに会った、という趣旨の記述が残っている。
ここで重要な事実がある。ラスプーチンは皇帝一家に取り入るために宮廷に押しかけたのではない。宮廷の側が、オカルトに飢えて、彼を探し出して連れてきた。日露戦争の敗北、革命騒ぎ、跡継ぎの病気――上流階級全体が精神的に不安定だった。彼はその需要に対する供給だった。
### ホルィストゥイ疑惑という、消えない染み
ラスプーチンに貼られたレッテルのうち、最も強力だったのがこれだ。
ホルィストゥイは十七世紀に発生した非公認の宗教集団で、正教会から異端とされていた。信者が集団で歌い踊り、恍惚状態に達する儀式を行うとされ、その先で乱交に及ぶという噂が根強くあった。噂の大半は敵対者による誇張だが、レッテルとしての破壊力は絶大だった。
ラスプーチンがこの集団に属していたという告発は、少なくとも一九〇七年から繰り返されている。トボリスクの教会当局が調査に乗り出した。女性信者と入浴を共にした、口づけを交わした、という具体的な告発が並んだ。
調査は複数回行われている。一九〇七年、一九〇八年、一九一二年、そして革命後の一九一七年にも。いずれの調査でも、彼を異端と認定するに足る証拠は出なかった。彼の家では正教の祈りが歌われ、聖書が読まれ、壁には聖像画が並んでいた、という証言のほうが多かった。最後の調査を担当した専門家も、それまでの結論を覆すものは見つけられなかった。
では告発は全部でっち上げか。そこまでは言えない。彼が女性信者と親密に接し、身体的な接触を含む独特の指導をしていたのは、複数の系統の証言から見て事実らしい。彼には「罪を犯して悔いることでのみ真の悔悛に至る」といった趣旨の言葉があったとも伝わる。これがホルィストゥイの教義と重なって見えたのは無理もない。
そして決定的なのは、真偽が確定しなかったこと自体が有利に働いたという点だ。誰も確かめられなかった。だから誰でも好きなことが言えた。
### 「怪僧」という商品を作った男たち
日本語で「怪僧ラスプーチン」と呼ばれるあの像は、自然発生したものではない。作られた。
作った人物の筆頭が、イリオドルと呼ばれた元僧侶だ。本名をセルゲイ・トルファーノフという。彼はもともとラスプーチンの盟友だった。一緒に宮廷への影響力を狙った。だが一九一一年頃に決裂し、以後はラスプーチンの最も執拗な破壊者になった。
イリオドルが世に出した本のタイトルが、そのまま日本語の「怪僧」の源流にあたる。聖なる悪魔、といった意味の言葉だ。聖と悪を一語に押し込んだこの撞着語法が、恐ろしく効いた。人はこういう言葉を忘れない。
彼はさらに、皇后がラスプーチンに宛てた手紙だとするものを流布させた。宗教的な陶酔を表現した文面が、性的な意味に読めるように切り取られて出回った。これが「皇后とラスプーチンは愛人関係にある」という噂の主要な燃料になった。近年の研究では、この噂は特定の人物がラスプーチンの評判を落とすために意図的に作ったものだと結論づけられており、宮廷の警備記録からも二人が二人きりになった事実はないとされている。
もう一つの製造装置が、大衆紙だ。当時のペテルブルクには扇情的な新聞が乱立していた。彼らはラスプーチン記事が売れることを発見した。以後、風呂屋での乱行、レストランでの醜態、貴婦人との情事――確認不能な話が毎週のように印刷された。
そしてここに、この事件でいちばん頭のいい観察を残した同時代人がいる。ある日記作者はこう書いた。本当に問題なのはグリシカが皇帝にどんな影響を与えているかではない。人々が彼にどんな影響力があると思っているか、それが問題なのだ、と。
正確すぎる。事実は関係ない。信じられている物語だけが政治を動かす。一九一六年のロシアで起きたのはそれだ。
さらにタチが悪いことに、革命後の暫定政府が設置した調査委員会での証言も、史料としては汚染されている。証人たちは皆、自分の責任を軽くするために「あの男のせいだった」と言いたがった。旧体制の高官たちが揃ってラスプーチンに罪を積み上げた。その調書が、その後の歴史記述の土台になった。
つまり我々が知る「怪僧ラスプーチン」は、敵が作り、新聞が売り、殺人犯が仕上げ、責任逃れの官僚たちが公文書化した合作品だ。本人がどんな人間だったのかは、その下に埋まっている。
## 予言状は、いつ誰の手から出てきたのか
最後にして最大の道具立てが、あの手紙だ。
内容はよく知られている。自分は新年を迎える前に死ぬだろう。もし殺したのが農民であれば、皇帝は玉座に留まり子孫は栄えるだろう。だがもし殺したのが貴族であり、彼らが自分の血で手を汚したなら、ロシアに二十五年のあいだ貴族は残らないだろう。皇帝は二年のうちに家族もろとも滅びるだろう。兄弟が兄弟を殺し、国は血に濡れるだろう。
そして現実は――ラスプーチンは貴族に殺され、その一年半後に皇帝一家は全員射殺された。ロシアは内戦に落ちた。貴族階級は消滅した。
出来すぎている。出来すぎているものは、たいてい後から作られている。
問題は来歴だ。この手紙は、ラスプーチンの秘書役を務めていたとされる人物が、亡命後に出した回想録の中で世に出したとされる。刊行は一九二〇年代。つまり、皇帝一家の処刑も、内戦も、貴族階級の消滅も、全部終わってから出てきた。
これを予言と呼ぶのは無理がある。事後に書けば誰でも当たる。
さらに致命的なのは、ラスプーチンの識字能力だ。彼は生涯を通じて書くのが極端に苦手だった。残されている自筆のメモは、綴りも文法もばらばらの、ほとんど判読困難な走り書きだ。あの手紙の整った黙示録的な文体とは、まるで別人のものに見える。
代筆だ、と言えば筋は通る。実際、彼は口述させることが多かった。だがそうなると、我々が評価しているのは代筆者の文才ということになる。
もう一つ、この手紙にはよくできた仕掛けがある。「農民が殺すなら安泰、貴族が殺すなら破滅」という二分法だ。これは予言というより、脅迫に近い。生きているうちに宮廷に流しておけば、貴族による暗殺を抑止する保険として機能する。ラスプーチンがそういう計算をする人間だったなら、原型となる何かを実際に語っていた可能性はある。
そして注意すべきなのは、彼が本当に不吉なことを言っていた形跡は別にあるという点だ。一九一四年、大戦の開戦に彼は強く反対した。皇帝に何度も電報を打った。戦争を始めればロマノフ家もロシアの君主制も崩れる、という趣旨だった。これは開戦前の発言として複数の系統から伝わっている。
つまり、当てたと言えなくもない部分はある。ただしそれは超能力ではない。当時のロシアの国力と内政を知っていれば、大戦への参加が体制を破壊しうることは、まともな観察者なら誰でも心配していた。彼は民衆の側から見えていたものを、そのまま宮廷に持ち込んだだけかもしれない。
## 焼かれた遺体が、火の中で起き上がった
死後の伝説も外せない。
一九一七年三月、皇帝が退位した直後のことだ。ツァールスコエ・セローに葬られたラスプーチンの墓が、兵士たちによって暴かれた。墓所が巡礼地になることを恐れた新政権の判断だったとされる。
掘り出された棺は運ばれ、焼かれた。場所については記述が割れている。ペトログラード郊外の林の中で野焼きにしたという説、工科大学のボイラー室で焼いたという説、移送中にトラックが故障して路上で処理したという説。
そして、その場に居合わせた者たちが目撃したとされるのが、あの光景だ。
炎の中で、遺体がゆっくりと上体を起こした。
見ていた兵士たちは総毛立って逃げ出したという。ある者は死ぬまでこの話をしたがらなかった、とも。
生理学的な説明はある。高温で加熱されると筋肉と腱のたんぱく質が変性して収縮する。屈筋のほうが強く大きいため、体は胎児のように丸まった姿勢を取る。前腕は上がり、上体は前に起き上がったように見える。火葬に関わる仕事をしている人間にとっては、珍しくもない現象だ。専門用語で拳闘士の姿勢と呼ばれる。
つまり、これは怪奇現象ではない。単なる物理だ。
だがこの場面が持つ意味は、生理学の説明では消えない。考えてみてほしい。彼らはこの男を殺し損ねた。毒を盛って死ななかった。撃って死ななかった。撃ち直して、殴って、川に沈めた。掘り返して火にくべた。そして火の中で、もう一度、起き上がった。
この構図の完璧さが、伝説を不滅にした。同時代の兵士たちが本当にそう感じたのだとしたら、その恐怖は本物だ。彼らはただの死体を見たのではない。自分たちが殺したはずの帝国の亡霊が、火の中で身を起こすのを見た。
## 瓶の中の伝説
もう一つ、この事件が延々と俗っぽく語り継がれる理由がある。彼の性器にまつわる伝説だ。
検死記録には、性器に重度の挫滅があったことが記されている。これは殺害時か殺害後の暴行によるものと解釈されるのが普通だ。
だが、この記述がねじれて、まったく別の物語を生んだ。曰く、殺害後に切り取られて持ち去られた。曰く、屋敷の使用人が見つけて保管した。曰く、パリに亡命したロシア人女性たちが、それを聖遺物として崇拝する集まりを開いていた。娘のマリヤがそれを知って、取り上げに行った。
出所も裏付けもない話が、幾層にも積み重なっている。
一九九〇年代には、アメリカでこの遺物を入手したと主張する人物が現れた。カリフォルニアの倉庫で見つかったという触れ込みだった。鑑定の結果、それは乾燥したナマコだった。
現在、サンクトペテルブルクの博物館には、それだと称する標本が展示されている。館長は自分のものは本物で、アメリカで話題になったものとは別だと主張している。長さは三十センチメートルと説明される。
まともに信じている研究者はいない。だが、この話が消えないことにも理由がある。
ラスプーチン伝説の全体が、要するに「制御できない生命力」の物語だからだ。毒でも銃でも水でも火でも消せない生命力。その象徴として性器が選ばれるのは、下品だが構造的には筋が通っている。この伝説は、事件の核心をいちばん露骨な形で言い換えているだけだ。
## 殺したら、加速した
政治的な結末を確認しよう。
共犯者たちの目算はこうだった。ラスプーチンを消せば皇后の呪縛が解ける。皇后が退けば皇帝はまともな助言者に耳を傾ける。そうすれば政府は機能を取り戻し、戦争にも勝てるし、革命も回避できる。
現実はこうなった。
ラスプーチンは十二月に死んだ。皇帝が退位したのは、その二か月半後だ。
暗殺は何も救わなかった。むしろ加速させた。理由は三つある。
第一に、皇后はいっそう硬化した。慰めをくれる唯一の人間を殺されて、彼女は世界のすべてを敵と見るようになった。宮廷は完全に閉じた。
第二に、犯人が罰されなかった。これが決定的だった。皇族と大貴族が首都で人を殺し、自白同然の振る舞いをして、追放処分で済んだ。国じゅうがこれを見た。法は上には及ばないと全員が理解した。同時に、皇帝が自分の身内すら処罰できないことも露呈した。権威というのは、こういう形で死ぬ。
第三に、そして最も皮肉なことに、伝説だけが残った。ラスプーチンという人間は消えたが、「暗黒の勢力に支配された宮廷」というイメージは消えなかった。むしろ暗殺が、その物語を公式に認定してしまった。だってあの貴族たちが自分の手で殺すほどのものだったのだから、噂は本当だったに違いない――そういう論法が成立してしまう。
暫定政府を率いた人物が後に残した言葉として、ラスプーチンがいなければレーニンもいなかっただろう、という趣旨のものが伝わっている。
これは因果関係としては雑だ。ロシア帝国は別の理由でも倒れていた。研究者の中には、ラスプーチンの有無にかかわらず体制は終わっていた、と冷静に述べる人もいる。専制体制はすでにエリート層の支持を失っていて、彼はその症状であって病因ではない、という見方だ。
私もそちらに近い。だが症状というものは、ときに病気そのものより人を殺す。ラスプーチンという名前は、腐りかけた体制に貼られたラベルだった。そしてラベルを剥がそうとして、貴族たちは体制ごと引き剥がしてしまった。
## なぜ、この話だけが百年生き残ったのか
歴史上、暗殺事件は数え切れないほどある。そのほとんどは専門家しか覚えていない。なぜラスプーチン暗殺だけが、ここまで語られ続けるのか。
第一に、殺害の構造が民話の形をしている。
毒、剣、水、火。四つの試練を課しても死なない存在。これは世界中の怪物退治譚の型だ。日本人がヤマタノオロチや不死身の妖怪の話でなじんでいる構造と、ほとんど同じである。人間の脳は、この形の話を優先的に記憶するようにできている。細部が違っていても、型が合っていれば入ってくる。
第二に、目撃者が全員嘘をつく理由を持っていた。
これが本当に効いている。この事件には正直者がいない。ユスポフは本を売りたかった。プリシケーヴィチは英雄でいたかった。ラゾヴェルトは自分の関与を薄めたかった。マリヤは父を聖人にしたかった。革命後の証人たちは責任を逃れたかった。イギリスの関係者は沈黙するのが仕事だった。そして原本の法医学記録は失われた。
証言が全員違う。物証は消えている。この条件下では、どんな説も完全には否定できない。永久機関だ。
第三に、時代が絵になりすぎている。
崩壊寸前の帝国。金箔の宮殿。凍った運河。不治の病の皇子。孤立した皇后。地下室の蓄音機。雪の中庭の銃声。二か月後に王朝が消滅する。誰が構成しても、これ以上の舞台は作れない。
第四に、最後まで残る「もしかして」がある。
ここが重要だ。合理的な説明は全部揃っている。毒は入っていなかった。溺れてなどいない。火の中で起き上がったのは腱の収縮だ。予言状は後から作られた。全部説明できる。
それでも、寒気は消えない。
なぜかというと、この事件で本当に不気味なのは超自然ではなく、人間の側だからだ。皇后が藁にすがった心情はわかる。息子が痛みで叫んでいる。医者は無力だ。誰かが「死なない」と言ってくれる。すがるだろう。私だってすがる。
貴族たちが殺そうと決めた心情もわかる。国が沈んでいく。誰も止められない。原因はあいつだと全員が言っている。消せば止まるかもしれない。
新聞が売れる記事を刷った理由もわかる。読者が読みたがったからだ。
誰も特別に悪くない。全員が自分の位置から合理的に動いた。その結果、一人の農民が地下室で撃たれ、帝国が消え、二千万人以上が死ぬ内戦と、その先の世紀が始まった。
超自然が怖いのではない。噂が国を殺せるという事実が怖い。そしてその構造は、一九一六年のペトログラードに置いてきたものではない。
## まだ掘れる場所が、いくつも残っている

ここまで書いてきて、まだ触れ足りていないことがいくつかある。総括を兼ねて、最後にもう少し掘る。
まず、この事件を評価するうえで絶対に外せない前提を、改めて明確にしておきたい。それは「一次史料の質が異常に低い」ということだ。
普通、歴史上の大事件には、性格の違う複数の記録が残る。公文書、私信、日記、新聞、裁判記録。それらを突き合わせることで、大まかな輪郭が確定する。ラスプーチン暗殺には、それがない。
裁判が開かれなかったから、法廷での宣誓証言がない。捜査は始まった直後に革命で吹き飛んだから、捜査記録が体系的に残っていない。法医学報告書の原本は失われた。押収されたはずの弾丸も所在不明だ。当事者の記録は全員が亡命後に、生活のために、あるいは自己弁護のために書いたものだ。
この状況で残っているのは何か。遺体の写真と、矛盾する証言の束と、状況証拠だけだ。だから額の傷の解釈をめぐって、専門家同士が真逆の結論を出す。ある研究者は写真の傷から大口径のイギリス製リボルバーを推定し、別の研究者は同じ写真からロシア製の拳銃で説明がつくとする。どちらも真面目な仕事だ。どちらも決定的ではありえない。物がないのだから。
この「決定不能性」こそが、この事件の本体だと私は思っている。伝説が強いのではない。事実が弱いのだ。事実が弱い場所では、いちばん面白い物語が勝つ。
次に、ユスポフという人物の書き方をもう一段掘っておきたい。
彼の回想を悪意の作り話として片付けるのは簡単だ。だが読み返すと、もっと複雑なものが見える。彼の文章には、明らかに自分でも整理できていない部分がある。地下室で死体が目を開けた場面の描写は、他の部分と文体が違う。細部が過剰で、時間の流れが壊れている。恐怖のフラッシュバックを書いている人間の文章の癖に近い。
だから、私はこう推測している。彼は嘘をついたが、同時に何かを本当に見た可能性がある。
腹部を撃たれた人間は、即死しない。数分から、場合によってはもっと長く、意識を保つ。痙攣もする。呻き声もあげる。二十代の貴族が、それまで人を撃ったことなど一度もない人間が、初めて撃った相手が「死んだはずなのに動いた」のを目撃したとき、その記憶がどう歪むか。想像はつく。
そこに毒の失敗が重なっている。彼らは自分たちが確実に致死量の青酸を盛ったと信じていた可能性がある。もし医師が本当にすり替えていたなら、他の共犯者はそれを知らない。知らされていない側から見れば、青酸を大量に食べて平然としている男が目の前にいたことになる。この時点で、彼らの現実認識は既に壊れている。
そして次に撃つ。倒れる。動く。走る。追いかけて撃つ。倒れた体を蹴り、殴る。狂乱状態。
つまり、彼らが「怪物を殺した」と信じた瞬間が、実際にあったのだと思う。それは超自然ではなく、彼ら自身の思い込みと恐怖とアルコールと素人の残虐さが作り上げた幻覚だ。だがその幻覚を、彼らは本気で体験した。だから書いた文章に妙な生々しさがある。読者が百年信じ続けるだけの温度が乗っている。
嘘のうまい人間の作り話は、こんな肌触りにはならない。錯乱した人間の記憶のほうが、ずっと説得力を持つ。伝説というのは、たぶんそうやって生まれる。
三つめ。イギリス関与説を、もう少し公平に扱っておきたい。
私はこの説を全面的には採らない。だが、頭ごなしに笑い飛ばすのも間違いだと思っている。
事実として動かないのは、こういう線だ。一九一六年末、イギリスにとってロシアの単独講和は最悪のシナリオだった。ペトログラードにはイギリスの情報将校が複数いた。そのうちの一人はユスポフの学生時代からの友人で、犯行の前後に近くにいた。事件直後、イギリス側の内部通信に、目的の達成を喜ぶ文面がある。当時の皇帝自身がイギリスの関与を疑っていた。
これだけあれば、疑うのは当然だ。
問題は、ここから「組織的な暗殺作戦」に飛ぶには材料が足りないことだ。私が最も筋が通ると思うのは、中間的なシナリオだ。イギリス側は、ロシアの上流階級のあいだでラスプーチン排除の計画が進行していることを、かなり早い段階で把握していた。止めなかった。むしろ好意的に見守った。友人であるユスポフから相談を受けた将校がいて、個人的な助言や、場合によっては現場への同行があったかもしれない。だがそれは政府の指令に基づく作戦ではなく、黙認と個人的な関与のグレーゾーンだった。
これなら、内部通信の文面も、記録の不在も、両方説明がつく。作戦記録がないのは作戦がなかったからで、喜んでいたのは結果が都合よかったからだ。
そして、この読み方をすると事件の後味がむしろ悪くなる。誰も命令していないのに、全員が望んだ方向に転がった。組織的な陰謀より、こういう「なんとなく全員が同じことを望んでいた」状況のほうが、現実には遥かによく起きる。そして遥かに恐ろしい。
四つめ。ラスプーチンという人間自身について。
この記事はずっと事件を追ってきたが、殺された男がどんな人間だったかについては、意外なほど確かなことが言えない。それ自体が結論のひとつだ。
はっきりしているのは少ない。彼は農民だった。読み書きは最後まで下手だった。異様なほど人の心を掴んだ。特に女性からの信頼を集めた。酒を飲んだ。金銭には無頓着で、貰ったものを配ってしまう癖があった。戦争に反対した。皇太子の痛みを実際に和らげた場面が複数回あった。政治的な影響力は同時代の噂よりずっと小さかったが、ゼロではなかった。特に教会人事と、大臣候補への口利きにおいては、実際に動かしていた。
そして彼は、右からも左からも憎まれた。右派にとっては皇室の権威を汚した男だった。左派にとっては専制の腐敗の象徴だった。両方から石を投げられる位置に、彼はいた。
彼を聖人扱いする動きが現代のロシアにも存在するが、正教会は聖人としての認定を拒み続けている。逆に、彼を単なる淫蕩な詐欺師と切り捨てる従来の像も、近年の研究では大幅に修正されている。
要するに彼は、どちらの型にも収まらない。収まらないものを人は嫌う。だから型に押し込んだ。押し込まれた型が、あの「怪僧」だ。
五つめ。日本語圏でのこの事件の語られ方について。
日本でラスプーチンといえば、まず「不死身」だ。次に「巨根」で、その次に「予言」が来る。歴史の授業では扱われないのに、なぜか知名度だけは高い。この配置は、日本語圏に入ってきた経路をそのまま反映している。
つまり、歴史書ではなく娯楽経由で入ってきた。一九七〇年代のヨーロッパのディスコ音楽が、彼を「ロシア最大の愛の機械」と歌った。この曲は日本でもよくかかった。近年になって短い動画の伴奏として再流行し、若い世代がまた覚えた。漫画やゲームには不死身の怪僧として繰り返し登場する。
ネット上の議論を追うと、面白い傾向がある。基本的な枠は「毒も銃も効かなかった超人」で固定されている。そこに「実は検死では毒が出ていない」という情報が投下されると、そのスレッドは一気に冷静になる。だが数か月後には、また別の場所で同じ超人像が語られている。
情報が上書きされないのだ。検死結果は「知識」として理解されるが、伝説は「イメージ」として保存される。この二つは脳の別々の場所に住んでいて、片方がもう片方を消してくれない。
日本語圏の考察でよく見かけるまともな指摘もいくつかある。青酸カリと糖分の反応に注目するもの。当時の分析技術で青酸を検出できたのか疑うもの。腹部銃創でも人間はしばらく動けると指摘するもの。娘の証言が商業的なものだと見抜くもの。どれも筋が通っている。
同時に、宇宙人による治癒だとか、時空を超えた存在だとか、そういう方向の話も普通に流通している。これはこれで正しい姿だと思う。この事件は最初から、事実と願望が同じ皿に乗って出されてきた料理だ。片方だけ取り除いて食べる方法は、たぶんない。
六つめ。そして最後に、この事件が現代に持っている意味について書いておきたい。
一九一六年のロシアで実際に起きたことを、一行に圧縮するとこうなる。
社会が機能不全に陥ったとき、人々は原因を一人の人間の名前に集約した。その名前をめぐる噂は、事実確認の手段がないまま増殖した。噂を信じた者たちが、噂の対象を殺した。噂は消えず、体制だけが消えた。
この構造には、超自然的な要素が一切含まれていない。オカルトでもない。純粋に情報の問題だ。
そして我々は今、一九一六年のペトログラードよりも遥かに速く噂が回る世界に住んでいる。確認できない話が、確認されないまま人々の現実になる速度は、上がり続けている。誰かが誰かの名前を「全部あいつのせいだ」の位置に置く光景を、我々は毎週のように見ている。
ラスプーチンの物語が怖いのは、地下室の亡霊のせいではない。あれは終わった話ではなく、まだ続いている話だからだ。
彼が本当に不死身だったとすれば、それは肉体の話ではない。彼が象徴していたもの――事実を確認できないまま増殖して、人を殺すところまで行く物語――が、いまだに一度も死んでいない。それだけの話だ。
毒でも、弾でも、氷でも、火でも、あれは殺せなかった。今のところ、まだ誰も殺せていない。

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