人間が一人、街の広場に突然立っていた。年は十六か十七。言葉がほとんど話せない。自分がどこから来たのかも言えない。これが1828年のドイツで実際に起きた。
そして五年半後、彼は庭園で胸を刺されて死ぬ。人生の両端が両方とも謎なんだ。二百年経った今も、ドイツではこの話で口論が起きる。
## 1828年5月26日、広場に立っていた青年
バイエルン王国、ニュルンベルク。ウンシュリット広場という、市内のちょっとした広場だ。ペンテコステの頃だったとされる。
靴職人のヴァイクマンという男が、そこに立ち尽くしている青年を見つけた。服はボロボロだが、汚れきっているわけではない。身なり自体はもともと悪くない。ただ、立ち方が変だった。よろけるように体を支え、ちゃんと歩けない。
声をかけても、返事はまともにない。同じ言葉を繰り返すだけだ。後に記録されたところでは、彼が口にしたのは「父がそうだったように、騎兵になりたい」という意味の一句と、あとは「馬。馬」だけだったという。それ以上を訊こうとすると、泣き出した。
靴を脱がせてみると、足の裏は血豆だらけだったと伝えられる。一説には九十五キロ近く歩いてきたのではないかとされる。だが、この足でそんなに歩けるのかという疑問は、最初からつきまとっている。
彼は衛兵詰所へ連行された。紙と鉛筆を渡され、筆談でならどうかと促される。すると彼は、すらすらと書いた。カスパー・ハウザー。
言葉は話せないのに、自分の名前は書ける。この時点ですでに、この事件はめんどうなことになっているんだ。
## 二通の手紙と、その中身
彼は手紙を二通持っていた。
一通目の宛先は、ニュルンベルク駐屯の第六軽騎兵隊第四中隊にいたフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ大尉。内容はこうだ。自分は1812年10月7日からこの子を預かっていた。読み書きと宗教を教えた。家から一歩も出さなかった。この子の父は騎兵だったから、騎兵にしてやってほしい。手に余るなら、殺してくれても構わない。
二通目は、母親からのものとされていた。この子の名はカスパー。生まれたのは1812年4月30日。父は騎兵だったが既に死んでいる。
だがこの二通、読めば読むほど奇妙だった。誤字と文法の間違いが目立つ。そして何より、筆跡が似ていた。後の筆跡鑑定では、二通ともカスパー本人が書いたと見るのが自然だとされている。つまり、彼は自分の「身元保証書」を自分で書いて持っていた可能性がある。
この一点だけでも、話はもうややこしい。言葉を持たない青年が、言語を使って自分の出自を偽装できるのか。できないなら、誰かに与えられた。できるなら、彼は最初から演じていた。この二択が、二百年間、ずっと決着しない。
## ルギンスラント塔の牢番と、群がる見物人たち
当局は当初、彼をただの浮浪者として扱った。ニュルンベルク城のルギンスラント塔という塔に入れられ、二ヶ月ほどそこで暮らす。
世話をしたのは、アンドレアス・ヒルテルという牢番とその家族だ。このヒルテルの証言が、実はこの事件で最も重要な一次情報のひとつになっている。彼はカスパーを毎日見ていた人間だからな。
そしてここが伝説と食い違う。ヒルテルの見たカスパーは、「十六年間地下牢に監禁されていた人間」の外見をしていなかった。体格は悪くなく、血色も悪くなかったと記録されている。これはあとの議論ですごく効いてくる。
一方で、行動は明らかに異常だった。鏡に映った自分を掴まえようとして、鏡の裏を覗かせた。蝋燭の炎に手を伸ばして火傷をした。刃物を怖がらなかった。サーベルを顔の前で振られても、まばたきひとつしなかったという。食べ物はパンと水しか受けつけない。肉も牛乳も吐き戻した。当時の警察の見立ては「半ば野生のように育てられた人間」で、精神年齢は二歳から四歳程度と見られた。
この塔には、とんでもない数の見物人が押し寄せた。ニュルンベルク中の人間が、この奇妙な青年を一目見ようとした。カスパーは玩具の木馬を与えられると嬉々として、何時間でもそれで遊んでいた。十六歳の男が、である。
市長のビンダーは、1828年7月に公式な布告を出した。カスパー自身の証言として、「光のない部屋で、半ば横たわったような姿勢で、パンと水だけを与えられて生きていた」と発表したんだ。この布告で、話はドイツ中に広がった。
## ダウマー邸の二年間――暗闇で本を読み、磁石に反応した男
やがてカスパーは、宗教哲学者フリードリヒ・ダウマーのもとに預けられる。ここでの記録が、この事件を一気にオカルト化させた。
ダウマーは彼に読み書きを教えた。カスパーの吸収は驚異的だったという。短期間で一定の教養を身につけ、絵を描く才能も見せた。一方で、神という概念だけは最後まで理解できなかったとダウマーは書いている。
問題は、彼の感覚だ。ダウマーをはじめとする複数の観察者が、信じ難いことを記録している。
視覚。夕暮れ時に、百八十歩離れた場所から家の番号を読んだという。十八キロ先のマーロフシュタイン城の窓の数を数えたという記述もある。暗闇で聖書を読み、色を見分けた。
聴覚。隣の部屋のささやき声を聞き取った。遠くのクモの巣に獲物がかかったことを言い当てた、という話も伝わる。
嗅覚。普通の人間が「いい匂い」と感じる花の香りを、彼は悪臭として嫌がった。逆に、人が無臭と思っているものに匂いを感じた。
触覚。金属を握っただけで、鉄か真鍮かを言い当てた。
そして一番奇妙なのが、磁気への反応だ。磁石のN極を近づけられると、彼は「みぞおちのあたりが引っ張られる感じがする」と訴えたと記録されている。当時はメスメリズム――動物磁気説――が流行していた時代で、この手の実験は真面目に行われていた。だからこの記録は、当時の知的流行のフィルターを通して見たものだという割り引きが必要だ。
面白いのは、この能力が消えたことだ。普通の食事をとり、普通の生活に順応していくにつれて、視力も聴力も嗅覚も、すべて平凡な人間の水準に戻っていった。この「失われていく」という展開が、物語としてあまりにも良くできていて、俺はここでいつも少し疑う。
## 「暗い部屋にいた」――カスパー自身が語った十六年
言葉を覚えていくにつれて、カスパーは自分の過去を語りはじめた。その内容は、当時のヨーロッパを震え上がらせた。
自分は、一つの小さな部屋にいた。広さは縦二メートル、横一メートル、高さは一メートル五十センチほど。立てない。窓はない。光はない。藁の上に座るか、横になるかしかできない。
食事は黒パンと水。目が覚めると、側に置いてある。誰が置いていくのかは見たことがない。時々、水が苦い。その水を飲むと深く眠り、目が覚めると髪と爪が切られていて、藁が新しくなっている。
遊び道具は木の馬が二三頭と、リボン。それだけだ。人間の顔を見た記憶はない。
最後のものだけ、背後から手を回して紙に名前を書かせた男がいた。そしてある日、その男に背負われるか支えられるかして外に出され、気がついたらニュルンベルクの広場に立っていた。
この語りは、現代の学問にも名前を残した。長期の極端な愛情隔離と感覚遮断によって発達が阻害される状態を、今も「カスパー・ハウザー症候群」と呼ぶ。一人の少年の供述が、医学用語になったわけだ。
ちなみに後年、バイエルンのピルザッハ城という城から1820年頃のものと見られる木馬が見つかり、「ここがカスパーの言う部屋なのではないか」という説が出た。これも、確定していない。
## 1829年10月17日、額を切られる。血の跡は妙な方向へ続いていた
広場に現れてから一年半、最初の襲撃が起きる。
1829年10月17日、ダウマー邸でカスパーが額から項部にかけて傷を負って倒れているのが見つかった。彼の話はこうだ。視察に行こうとしたところ、黒い覆面をした男が現れた。明かりの少ない中で、男は刃物を振るった。そしてこう言った。「お前はニュルンベルクの街を出る前に、死ななければならない」。
カスパーは地下室に逃げ込んだという。この事件は、ニュルンベルク市中をパニックに陥れた。“少年を監禁していた何者か”が、口封じに来た。そう考えるのが自然だった。一時は警官が二十四時間体制で彼を護衛する事態になった。
だが、現場の検証で妙なことが分かった。凶器が見つからない。侵入の痕跡もない。そして血の跡が、カスパーが正直に逃げたなら向かうはずの方向ではなく、地下室の撥ね上げ戸を通っていた。つまり彼は、追われて逃げたと言いながら、一度別の場所を経由している。
さらに1830年4月3日、今度は拳銃の発射による負傷だ。これについてはカスパー自身が、本を取ろうとして壁に取り付けられた拳銃に手がぶつかったと説明している。事故だと。
この辺りから、注目を集めたいだけなのではないかという目が、周囲に増えはじめる。実際、スタンホープ卿や、彼のことを間近に見ていた女性のなかには、「虚栄心と悪意に満ちている」と手厳しく評した人間もいる。一方で1830年の段階で、当局は「詐欺師である可能性は低い」という判断を下している。当時の人間も、分からなかったんだ。
## フォイエルバッハと、1832年のパンフレット
この事件を「歴史の謎」に押し上げたのは、ひとりの法学者だ。
アンゼルム・フォン・フォイエルバッハ。バイエルンの高位の法官で、近代刑法学の基礎を築いた大物だ。彼がカスパーの保護と調査に乗り出した。
フォイエルバッハの記録は鮮烈だ。カスパーは当初、肉も牛乳も受けつけず、鏡像を掴まえようとした。普通に生きていれば自然に身につくはずの常識、人間らしさを、彼はごっそり欠いていた――という意味のことを書いている。
そして1832年、フォイエルバッハは一冊の著作を公にする。カスパーの事件を「人間の魂に対して犯された犯罪」として描いたものだ。このタイトルが強い。体を傷つけるのではなく、魂を盗む犯罪がこの世に存在するという。
同じ年、彼はもうひとつの文書を回している。カスパーはバーデン大公家の世継ぎである、という主張だ。これが全部の始まりだ。
付け加えると、フォイエルバッハ自身も1833年に死んでいる。カスパーの死の千二百日前だ。当然のように毒殺説が回った。これも、確証はない。
## バーデン大公家すり替え説――生後二週間で死んだ世継ぎ
この説の中身を、ちゃんと見ておこう。
バーデン大公カールと、その妻ステファニー・ド・ボアルネの間に、1812年9月29日、男児が生まれた。この子は大公位の継承者だ。ところがこの子は10月16日、つまり生後二週間で死んだとされている。
すり替え説はこう言う。この赤ん坊は死んでいない。誰かが死にかけの別の子と入れ替え、本物をどこかに監禁した。目的は継承だ。カールには、ルイーゼ・カロリーネ・フォン・ホックベルクという女性の產んだ異母弟たちがいた。彼女は貴賤結婚の相手で、その子は本来なら大公位に届かない。だが実際のところ、カールの死後、大公位はホックベルク家系に渡っている。
つまり、動機のある人間が実在し、その人間の子孫が実際に得をしている。推理小説なら完璧な布石だ。これだけ揃っていれば、世間が飛びつくのは当たり前だった。
反論も古くからある。ローレ・シュヴァルツマイヤーは、大公家の実際の経済状態を見れば、子供を十六年間も秘密裏に監禁し続けるなど不可能だと指摘した。監禁には金と人手が要る。十六年黙っていられる使用人など、そういない。
ウルリケ・レオンハルトはもっと地味な線を出している。乳母自身が、自分の孫と大公家の赤ん坊をすり替えたのではないか。あとから呼ばれてきた医者は、それ以前にその子を見ていない。いきなり死んだ子を見せられただけだ。だから病死の診断には意味がない、と。
この議論が永遠に終わらない一番の理由は、バーデン大公家が一族の文書収蔵庫の閲覧を今日に至るまで拒んでいるからだ。この事実自体が、陰謀説の最大の燃料になっている。見せないのは、見られたくないからだろうと人は思う。もちろん、旧王侯家が家伝を簡単に公開しないのは普通のことでもあるんだけどな。
## スタンホープ卿と、アンスバッハへの追放
1831年末、ひとりの英国貴族がカスパーの人生に入ってくる。フィリップ・ヘンリー・スタンホープ卿だ。
この男は、カスパーに異常な関心を示した。金を出し、彼の出自調査を自費で進め、やがて彼の後見人の地位を手に入れる。カスパーは彼を慕った。イギリスに連れて行ってもらえると信じていた。
だがやがてスタンホープは、カスパーへの態度を変える。彼をニュルンベルクから離し、アンスバッハという地方都市の、ヨハン・ゲオルク・マイヤーという厳格な教師のもとに預けた。そして自分は外国を転々とし、ほとんど会いに来なくなる。金だけは送っていたとされる。
マイヤーはカスパーを信じていなかった。存命中から、彼の話は作り話だと考えていたという。ニュルンベルクでは街中のスターだった青年が、アンスバッハでは、自分を疑っている家庭教師の家に居候する、役所勤めの写し仕事の青年になった。
孤独だったはずだ。保護者のフォイエルバッハは死んだ。スタンホープは来ない。世間は飽きはじめている。この状況が、自作自演説の大きな根拠になっている。もう一度注目を集めなければ、彼は本当に、ただの写し仕事の人間になってしまう。
## 1833年12月14日、宮廷庭園。紫の財布と鏡文字のメモ
あの日のことを、カスパー自身の言葉で再現するとこうなる。
見知らぬ男が声をかけてきた。自分の母親について知っている、話をしたい、という。場所を指定された。アンスバッハの宮廷庭園。冬の午後、人気のない場所だ。
行ってみると、男は小さな袋を差し出した。カスパーがそれを受け取ろうとした瞬間、刃物が胸に入った。
彼は傷を押さえてマイヤーの家まで戻った。審問され、経緯を語った。宮廷庭園を探すと、紫色の布の袋が見つかった。中にはメモが入っていた。
メモは鏡文字で書かれていた。内容は、おおよそこうだ。「ハウザーは、私がどんな顔をしているかをごく正確に話せるはずだ。私は――から来た。バイエルンの国境。川の――。名前も教えておこう。M・L・Ö」。
イニシャル三文字だけを残して消える――初期の探偵小説みたいな演出だ。だがこのメモこそが、カスパーを苦しい立場に追い込む。
まず、誤字と文法のクセが、カスパー自身の書きものの特徴と一致していた。そしてもっと致命的なのが、紙の折り方だ。カスパーは紙を三角に折る癖があった。このメモも、その癖で折られていた。
1833年12月17日、カスパー・ハウザーは死んだ。三日間苦しんだ末の死だった。自分の出自について、決定的なことは何ひとつ言い残さなかった。
バイエルン国王ルートヴィヒ一世は、犯人逮捕の情報に対して二十二万フローリンという巨額の懸賞金を掛けた。一件の有力情報も出なかった。
二年余り経ってから、宮廷庭園で刃渡り十四センチ、全長三十センチほどの諸刃の短剣が見つかる。1926年の鑑定でフランス製のシースナイフと判明した。この刃の形状は、カスパーの刺し傷とぴったり一致したという。
## 自作自演説は、どこまで成立するのか
現在、学界で比較的強いのは自傷説だ。1928年に発表された医学的検討で、胸の傷は自分でつけられた可能性があるとされた。シナリオとしては、こうなる。カスパーは世間の関心を取り戻し、スタンホープにイギリスへ連れて行かせるために、軽い傷をつけるつもりだった。だが手元が狂って、思ったより深く入ってしまった。
一年前の額の傷も、拳銃の一件も、同じパターンの予行演習として説明できる。メモの筆跡と折り癖も説明できる。ニュルンベルクの衛兵詰所で自分の名前をスラスラ書いたことも説明できる。二通の手紙の筆跡も説明できる。
だから自作自演説は強い。すべてを一つの原理で説明できる。
だが、弱点もある。一番大きいのは、「ではこの人間はどこから来たのか」に一切答えていないことだ。十六歳の人間が、戸籍も家族も知人もなしに、いきなりニュルンベルクに現れる。当時のバイエルンは、人間の出入りがない地域社会だ。だれかの子であれば、誰かが名乗り出てきてもおかしくない。懸賞金二十二万フローリンという人生が変わる金額が掛かっていて、それでも誰も名乗り出なかった。
もうひとつの弱点は、彼の初期の状態だ。鏡の裏を覗かせ、炎に手をつっこむ。これを十六歳の人間が演技でやるのは、相当難しい。何百人もの見物客と、医者と、警察と、法学者の目の前で、何ヶ月も一貫してやり続けなければならない。
だから現在の一つの折衷案は、「監禁は実在した。だが大公家とは無関係だった。そして世間の注目を浴びるうちに、彼は自分の物語を膨らませ、最後に自分で自分を殺してしまった」というものだ。これなら、両方の事実と矛盾しない。
## 1996年、2002年、2024年――DNAの答えと、それでも残る謎
二十世紀末、この二百年ごしの論争に、遺伝子工学が参戦する。
1996年。ドイツのシュピーゲル誌とアンスバッハ市が共同で、カスパーがはいていたとされるズボンの血痕を分析させた。結果は、バーデン大公家とは一致しない。大公子説は否定されたと報じられた。
ところが2002年。ミュンスター大学の法医学研究所が、別の試料を使って再検証した。カスパーのシルクハットに残った汗の染みと毛髪、そしてフォイエルバッハの遺品にあった毛髪だ。このときの結論は、1996年とはトーンが違った。バーデン家との近縁関係を否定するのはいまだ早計だ、というのだ。試料によって、結論がひっくり返った。
この食い違いが、二十一世紀のカスパー論争を一気に熱くさせた。どちらの試料も、本当にカスパーのものなのかという保証がない。ズボンは本人のものか。帽子は本人のものか。二百年前の遺品の同定は、それ自体が難問だ。
そして2024年9月。オーストリア内務省の研究者ヴァルター・パーソンらが、iScience誌に論文を発表した。独立した三つの施設で、ハウザーのものとされる複数の毛髪試料を分析したものだ。
結果は明快だった。すべての試料のミトコンドリアDNAハプロタイプは互いに一致していた。つまり、同一人物のものと見てよい。そしてそのハプロタイプは、バーデン大公家の母系の系統とは一致しない。
大公子説は、ここで事実上終わった。彼はバーデン家の子ではない。
だが――ここがこの事件の意地の悪いところなんだが――この論文は、ハウザーが誰なのかには一切答えていない。分かったのは「西欧の家系につながる」という、広すぎる範囲だけだ。
大公子説を消した結果、残ったのはもっと奇妙な問いだ。では、あの少年は何者だったのか。なぜ誰も名乗り出なかったのか。なぜ宮廷庭園で死ななければならなかったのか。
## なぜ二百年たっても、この少年を手放せないのか
ドイツでは、この話はいまだに生きている。アンスバッハにはカスパー・ハウザーの専門博物館があり、衛兵交代のように新説が発表される。地元には、気軽に話題にしない方がいいという雰囲気すらあるという。
彼が刺された宮廷庭園には、現場を示す記念碑が立っている。アンスバッハ市営墓地には彼の墓がある。ラテン語の墓碑銘は、この事件のすべてを一行で言い切っている。
ここにカスパー・ハウザー眠る。彼の時代の謎。生まれは知られず、死は謎に包まれている。1833年。
完璧だと思う。二百年前の人間が、この事件の本質をもう完全に言語化してしまっている。これ以上何を足せばいいのか。
文化的な影響もでかい。1974年にはヴェルナー・ヘルツォークが『カスパー・ハウザーの謎』を撮った。主演には、実際に施設で育ち、人生の大半を社会の外側で過ごし、路上で演奏していたブルーノSという男を起用した。演技の域を越えてしまっていて、見ていて少し怖い。フランスの詩人ヴェルレーヌもカスパーを題材に詩を書いている。
なぜここまで人を掴むのか。俺は、この事件が「誰も知らない人間が存在しうる」という事実を突きつけてくるからだと思っている。
現代の我々は、人間には必ず記録があると思っている。出生届、住民票、保険証、SNS、防犯カメラ。人一人の存在は、何百というデータの結び目として固定されている。だから「どこの誰でもない人間」というのが、もはや想像しにくい。
だがカスパーは実際に、どこの誰でもないまま五年半を生きて、どこの誰でもないまま死んだ。彼を知っていた人間は十六年分もいたはずなのに、一人も名乗り出なかった。この沈黙が、どの学説よりも不気味なんだ。
## この事件の謎は、二重になっている
一通り並べ終えてから、もう一度時系列を眺めていて気づいたことがある。この事件は、実は「謎」が二重になっている。
一重目は、カスパー本人の謎だ。どこから来たのか、何者なのか、どう死んだのか。これは可能なら事実で確定したい問いだ。DNA鑑定はこの層に切り込んだ。
二重目は、人間の側の謎だ。なぜこの事件は、当時のドイツ人をここまで魅了したのか。なぜ一国の法学者が、城下町に現れた身元不明の青年に人生を費やしたのか。なぜ国王が二十二万フローリンを掛けたのか。
後者の答えは、当時のヨーロッパの空気にあると思う。1828年というのは、ナポレオンの崩壊から十三年しか経っていない。ヨーロッパ中の小国で、王位継承をめぐるどろどろした争いが現在進行形で起きていた。ステファニー・ド・ボアルネはナポレオンの養女で、その結婚はナポレオンの政略そのものだった。ならナポレオンの死後、その血を引く子を消したい連中は山ほどいただろう。当時の人間にとって、この謎を王家の陰謀と結びつけるのは、ごく自然な思考だった。時代の側が、この話を求めていたんだ。
もうひとつ、この事件の受容を決定的にしたのは、フォイエルバッハのフレーズだと思う。「人間の魂に対して犯された犯罪」。この言い方を発明した瞬間、カスパーの事件は単なる奇人の話から、人間とは何かを問うテーマに格上げされた。子供を暗闇に閉じ込めて言語を与えなければ、それは人間になれない。なら人間を人間にしているのは何なのか。この問いは、十九世紀のドイツの知識人の胸を直撃した。カスパーは実在の青年であると同時に、哲学の実験装置にされた。
## 俺の見立ても、いちおう書いておく
さて、俺の見方を書いておく。正直なところ、この事件は自作自演要素がかなり強いと思っている。メモの折り方が同じだったというディテールは、あまりにも重い。人間は自分の癖を自覚できない。実際の犯人がカスパーの紙の折り方を模倣し、しかも筆跡のクセまで一致させる。可能だが、目的が分からない。口封じに来た人間が、なぜ現場にメッセージを残す。
だが自作自演説を取ったところで、事件は何ひとつ解決しない。ここが面白いところだ。仮にカスパーがすべてを自分で演出していたとしても、「それをやっていたのは誰なのか」は残る。五年半もの間、自分の本当の名前を一度も漏らさず、家族の話も故郷の話もしない。酒も飲むし、人とも話す。それでも一度も化けの皮が剥がれない。これは十六歳から二十一歳の青年の芸当としては、異常な徹底ぶりだ。
だから俺は、一番ありそうなのは「本人も知らなかった」パターンだと思っている。何らかの事情で長期間監禁され、自分の出自を本当に知らないまま放り出された青年がいた。彼は世間に担ぎ上げられ、自分でも自分の物語を信じはじめ、足りないところを膨らませ、最後に自分で自分を殺した。監禁した側は、彼が有名になっても名乗り出なかった。名乗り出たら重罪に問われるからだ。この線なら、陰謀も奇跡も不要で、すべての沈黙に説明がつく。
とはいえ、これも推測だ。俺の推測は、フォイエルバッハの推測より優れている保証は何もない。この事件には、人を推理に引きずり込む引力があって、二百年分の人間が同じ穴に落ちてきた。俺も今落ちている。
## 木の馬と、「馬」という一語だけ
最後に、この話で一番嫌なイメージを書いておく。カスパーは、ニュルンベルクの塔にいた頃、与えられた玩具の木馬で何時間でも遊んでいた。十六歳の男がだ。彼にとっては、それが世界のすべてだったんだろう。暗い部屋の中で、何年も、木の馬を転がしていた。それが彼の知っている唯一の遊びだった。
だから広場で彼が繰り返したのは、「馬」だった。人間の言葉をほとんど知らない青年が、街の真ん中で、この一語だけを口にしている。周りの人間は、何を言っているのか分からない。彼も、伝わっていないことが分からない。
この光景のほうが、どんな陰謀論よりも怖い。陰謀なら、だれかの意図がある。だがこの場面には意図がない。ただ、言葉を持たない人間が一人、自分を説明する手段を何ひとつ持たないまま、街の中に立っている。五年半あとに彼は死ぬし、二百年経っても、彼が何者だったのかは誰も知らないままだ。
