秋田の黒又山、富山の尖山、広島の葦嶽山は、きれいな三角形に見えることから「日本のピラミッド」と呼ばれてきた。山中の巨石、地中の段差、周辺遺跡との配置も根拠として挙げられる。でも、超古代人が山を築いたと確認できる考古資料はない。この説がどう作られたのかから見ていこう。
酒井勝軍が広めた日本ピラミッド説
日本ピラミッド説を広めた中心人物は、酒井勝軍だ。酒井はキリスト教の伝道に関わったあと、超古代史の研究へ進み、エジプトでピラミッドを見た経験から「起源は日本にある」と考えるようになったとされる。
酒井の説では、日本のピラミッドは石を四角錐に積んだ建物ではない。自然の山を利用し、山頂や斜面へ祭祀用の加工を加えた「山型ピラミッド」だという。山頂の立石、方角を示す岩、テーブル状の巨石などを独自の基準にして、各地の山を認定した。
1934年、酒井が第一号としたのが広島県の葦嶽山だった。隣の鬼叫山にある巨石や、階段状に見える岩を人工物と考え、「神武岩」には神代文字が刻まれていると主張した。
根拠として使われたのが『竹内文書』だ。そこには「日来神宮」という古代の施設が書かれ、それをピラミッドと読む説が作られた。しかし、『竹内文書』は来歴を確認しにくく、既存の考古学や言語学と合わない内容を多く含むと指摘されている。原本も失われたとされ、超古代の記録として検証できる状態にはない。
黒又山、尖山、葦嶽山の「証拠」
葦嶽山では、巨石群や階段状の岩が人工的に見えることが、ピラミッド説を支えてきた。一方、花崗岩が自然の割れ目に沿って崩れれば、積み石や階段のような形になる。近代の採石跡が混じる可能性も指摘され、巨石だけでは古代建造物と判断できない。
秋田県鹿角市の黒又山は、きれいな円錐形をした小山だ。1992年の調査で、地中に段状の構造や空洞があると報告されたという話が広まり、人工の山や埋葬施設ではないかと注目された。近くには大湯環状列石などの縄文遺跡もある。
ただし、地中が層状に見えることは、堆積や侵食でも起こりうる。周辺の遺跡や神社を線で結び、太陽の動きに合う配置だとする説も、どの地点を選ぶかで結果が変わる。黒又山を中心に巨大な縄文祭祀網があったという説明は、仮説の段階だ。
富山県立山町の尖山も、平野から見ると整った三角形に見える。ほかの山頂と結ぶと正三角形ができる、山頂に配石がある、磁気が乱れるという話が語られてきた。さらにUFOの発着場だったという説まである。けれども、配石は後世の山岳信仰、磁気の変化は地質に含まれる磁性鉱物でも説明できるとされる。UFO説を裏づける物証もない。
考古学ではピラミッドと認められていない
山を人工のピラミッドと判断するには、見た目が三角形というだけでは足りない。人が盛った土の層、加工された石の並び、建設時期を示す遺物、工事の跡など、自然地形と区別できる証拠が必要になる。
葦嶽山、黒又山、尖山については、現在紹介されている巨石や地中構造を、自然の地質作用や後世の人の活動で説明できるという見方がある。古代人が山全体を設計し、エジプト以前のピラミッド文明を築いたと示す資料は確認されていない。
酒井の理論が依拠した『竹内文書』も、証拠として使うには問題が大きい。文書の由来をたどれず、反証可能な原本もなく、内容がほかの分野の知見と広く食い違う。そこに「日来神宮」と書かれているから日本にピラミッドがあった、とは言えない。
「ゼロ磁場で方位磁石が動いた」「上空に光る物体を見た」といった体験談もあるが、測定条件や記録が示されない個人の感想だ。考古学的な証拠とは別に扱う必要がある。
伝説と観光は残っている
学術的にピラミッドと認められていなくても、三つの山は実際に訪れることができる。葦嶽山には案内や遊歩道があり、黒又山は縄文遺跡と一緒に紹介され、尖山も登山先として親しまれている。
「ピラミッドかもしれない」という看板は、山へ足を運ぶきっかけになる。現地の地形、巨石、周辺の信仰や遺跡に関心を持つ入口として、伝説が観光に使われているわけだ。
ただし、観光上の呼び名と歴史上の事実は同じではない。自然の山として楽しむこと、地域の信仰を知ること、日本ピラミッド説が昭和期にどう作られたかをたどることはできる。超古代文明の遺跡だと断定しなくても、十分におもしろい場所だ。
