掘れば十字架は出る。金貨は出ない
島原・天草一揆の籠城地、原城跡。ここからは十字架やメダイ、ロザリオの珠が出土している。弾丸も出ているし、人骨も出ている。一揆とキリシタン信仰が確かにそこにあったことを示す、重い遺物だ。
ただ、そこまでだ。「天草四郎が巨額の黄金を隠した」という財宝伝説を、これらの遺物が直接証明してくれるわけではない。出土品と黄金の話のあいだには、思ったより深い溝がある。
一六三七年に始まり、翌年に潰えた籠城
島原・天草一揆は1637年に始まった。一揆勢は原城に籠城し、1638年に幕府軍に制圧された。
総大将として擁立されたのが天草四郎、すなわち益田四郎時貞である。あくまで象徴としての総大将だった。
原城跡の発掘調査は、南島原市が1992年から続けている。いまも終わっていない。
本丸地区などからは十字架、メダイ、ロザリオの珠が確認されている。砲弾・銃弾も、破却された石垣も、人骨も出ている。
文字の史資料も残る。四郎法度書、天草四郎陣中旗、それに幕府・諸藩側の絵図や記録。一揆と信仰を検討できる材料は、それなりに揃っているわけだ。
語られてきた六つの型
財宝伝説にはいくつかの型がある。まず軍資金埋蔵説。寄付金や徴収金、金銀貨を籠城の前後に埋めた、という筋書きだ。
次が黄金十字架説。象徴的な大型十字架や聖杯を、城内または天草に隠したとする。
聖遺物退避説というのもある。敗北の直前、聖像やロザリオ、聖書などを地下や洞窟へ移したという話だ。
海底財宝説は舞台が海になる。追及を逃れるため船で運び、天草の海へ沈めた。
海外援助金説はスケールが違う。ポルトガル・スペイン・フィリピンとの交易や宣教師から、秘密資金を得た。
最後が暗号地図説。キリシタン墓碑、十字紋、祈り、地名。それらが埋蔵地点を示している、という読み方だ。
どれも語りとしては面白い。ただ、具体的な同時代の埋蔵記録は出てこない。検証可能な地図も、連続した所有履歴も提示されていない。
証拠に見えて、証拠ではないもの
肯定材料としてよく持ち出されるものが、いくつかある。原城跡からキリシタン遺物が出る。一揆勢は数万人規模で長期籠城した。旗、法度書、十字架など、象徴性の強い遺物が現存する。城内には破却され、埋め戻された場所もある。
だが、これらが示しているのは「信仰と戦闘の遺物が残る」ことだ。「未発見の黄金がある」ことの証拠とは、まったく別の話になる。ここを混ぜた瞬間に、話は一気に膨らみはじめる。
金貨は一枚も出ていない
公開されている発掘成果を見ても、巨額の金貨・銀貨・黄金十字架の確認は見当たらない。長く掘り続けている側が見ていないものを、伝説の側だけが知っている形になる。
この話でよく出てくる「金貨数千枚」「10―50億円」という数字。算定根拠は示されていない。どこから出てきたのか、たどれない。
一揆勢は、重税と飢饉に苦しむ農民を多く含む。数万人規模だから巨額余剰資金があった、とは推論できない。人数と資金は別の話だ。
海外援助金やフィリピン交易金を天草四郎へ結びつける一次資料も、確認できない。宣教師からの秘密資金という筋書きは、いまのところ噂の側にある。
まあ、ここだけは押さえておきたい。「遺物が散逸した可能性」と「財宝が実在した」は区別する必要がある。散逸は起こりうる。それでも黄金があった話にはならない。
呪い、隠蔽、禁書。噂は今も枝分かれする
現代の噂はもっと賑やかだ。天草四郎の予言や奇跡が、財宝を守る呪いとして働く。そういう筋のものがある。
発掘を進めると災厄が起こる。だから行政が場所を秘匿している。これも定番の形だ。
四郎の墓や慰霊碑、海岸の十字形の地形が位置を示す。そういう読み方もある。
財宝は黄金ではなく、禁書化されたキリシタン文書だとする説もある。隠す理由としては、こちらのほうが筋が通って聞こえる。
隠し場所も原城とは限らない。四郎の出生地、富岡城周辺、あるいは海底に分散された、と語られることもある。
すでに発見済みで、文化財保護や宗教上の理由から公表されていない。そこまで踏み込んだ噂まである。
いずれも、検証可能な発見記録は確認できない。悲劇と信仰と埋蔵金のモチーフが結合した都市伝説として、ここに記録しておく。
落城前夜、黄金はどこへ消えたか
寛永十四年、西暦でいう1637年の十月。島原・天草の農民とキリシタン牢人たちが蜂起した。翌年二月末、幕府軍十二万余に包囲された原城は陥落する。
城内に残った人々は、老若男女あわせて三万七千とも伝えられる。その人々がほぼ全滅したとされる。数字を眺めているだけでは、輪郭すらつかめない規模になる。
財宝伝説の骨格は、この落城の直前に置かれている。天草四郎時貞、当時は数え十六歳の少年総大将。彼が蓄えられた軍資金と教会の聖具を密かに運び出させた、という話だ。
語られ方には型がある。よく使われるのは、こういう筋立てだ。落城三日前の深夜、四郎は側近の益田甚兵衛や数名の重臣を呼ぶ。黄金の十字架と、信徒たちから集めた金銀を長持に詰める。城の裏手にある入江から、小舟で沖へ運ばせた。
運び出した先については、話が三系統に分かれる。ひとつは、原城の地下に掘られた抜け穴に隠したとする説だ。ふたつめは、対岸の天草諸島まで船で渡り、山中の洞窟に埋めたとする説。最後が、そのまま海に沈めたとする筋である。
どのバージョンにも共通するものがある。四郎は敗北を予期していた。宝は仲間の血と信仰の証として厳重に隠された。呪いや守護によって、現代人には容易に見つけられない。
この三点セットには、悲劇性と信仰と埋蔵金というオカルト定番の三要素がきれいに揃っている。長く語り継がれてきた理由も、たぶんそこにある。
東スポ、埋蔵金ハンター、四年間の泥沼
天草四郎財宝伝説が、いつどこで文字として最初に固定されたのか。これを特定するのは難しい。ただ、戦後の埋蔵金ブームの中で繰り返し取り上げられてきたことは確かである。
東京スポーツ発のウェブメディア「東スポnote」に、「埋蔵金第一人者の一歩目は『天草四郎の秘宝』」という記事がある。それによれば、日本における埋蔵金探索の第一人者とされる八重野充弘氏は、1974年、熊本県天草下島でこの財宝探しに着手している。
きっかけは雑誌の取材依頼という、軽い仕事だった。ところが現地で、島原の乱の際に「黄金の十字架や燭台などキリシタンの財宝が池に沈められた」という郷土史的な言い伝えを聞く。
詳しい人物の案内で、三角形にくぼんだ地形の中にある池を発見する。これが史料の記述と符合すると判断し、本格的な発掘に乗り出したという。
当時はまだ金属探知機のような機材もない。沼地に棒を突き刺して感触を探るという、原始的な方法しかない。それで四年間掘り続けた。地味で気の長い作業だ。
やがて、ある一か所から鉄錆に覆われた木片の塊が出土した。宝箱の残骸ではないか、と現場は色めき立ったが、それ以上の発見には至らなかった。
この探索はテレビや雑誌でたびたび報じられている。2011年、さらに2020年にも、金属探知機などの新技術を使って再挑戦している。それでも水が多く扱いにくい地形が壁となり、核心部分にはいまだ到達できていないという。
八重野氏は47年間のキャリアで、日本各地三十か所以上の埋蔵金伝説を追ってきた人物だ。天草四郎の財宝は、その原点として位置づけられている。
西日本新聞も「天草四郎の財宝を探せ伝説の埋蔵金とロマン求めて」という記事で、類似の探索史を紹介している。地元紙のレベルでも、この伝説が観光・郷土史ネタとして繰り返し再生産されてきたわけだ。
六つの説を、ひとつずつ
軍資金埋蔵説から見ていく。一揆勢が周辺の富農や商人、さらには潜伏キリシタンから集めた金銭を、敗色が濃くなった段階で城内の複数箇所に分散して埋めた、という説になる。
この説の傍証としてしばしば持ち出されるのが、原城本丸周辺の発掘で確認されている「埋め戻された痕跡」である。埋め戻しがあるなら何かを埋めたはずだ、という連想が働く。
黄金十字架説はこうだ。四郎が所持していたとされる大型の黄金十字架、あるいは教会から持ち出した聖杯・燭台の類を、天草か原城のどちらかに隠した。先述の八重野氏の探索も、この型に属する。
聖遺物退避説は少し性格が違う。財宝というよりも信仰の象徴そのもの、つまり聖像やロザリオ、禁書となった教理書を、後世の信徒のために地下や洞窟に匿ったとする。宗教色の強い解釈になる。
海底財宝説は、追っ手の目を逃れるために小舟で沖合まで運び、意図的に海へ沈めたというもの。天草灘や有明海の特定の岩礁・海域が、候補地として名指しされることがある。
海外援助金説はさらに大きい。ポルトガルやスペイン、当時のフィリピン(ルソン)との南蛮貿易を通じて、宣教師側から一揆勢に秘密裏の資金援助があった。その残余が財宝の正体だ、とする説である。
ちなみにこの説は、マニラの新聞が特集したという未確認の噂とセットで語られることが多い。未確認のまま、噂だけが独り歩きしている。
暗号地図説は、天草・島原各地に残るキリシタン墓碑の十字紋や、教会跡・地名そのものが暗号として財宝の位置を指し示している、という解釈だ。
この系統の噂を創作として大胆に発展させたのが、『金田一少年の事件簿』の長編エピソード「天草財宝伝説殺人事件」になる。作中に出てくる「ロザリオ秘文」という架空の暗号設定が、まさにそれだ。
ピクシブ百科事典の同項目によれば、この回は本誌掲載時の読者参加型推理クイズで正解者がわずか3名だった。空前絶後の難問として知られている。
実在の地名・遺物を用いた設定であるため、アニメ化はされてもテレビドラマなどの実写化はされない。数少ない長編として、いまも語り草になっている。
石を持ち帰ると熱が出る
原城跡は現在、九州でも屈指の心霊スポットとして扱われることが多い。オカルト系サイト「都市伝説パラダイス」の記事によれば、噂の中身はかなり具体的だ。
天草四郎の霊が若く神々しい姿で現れる。撮影した写真に鎧姿の武士や不気味な顔が映り込む。どこからともなく血の臭いやうめき声が聞こえる。訪れた者が急に肩の重さや頭痛、吐き気を訴える。こうした報告が繰り返されている。
中でも有名なのが、城跡の石を持ち帰ると高熱にうなされ、石を元の場所に返すと回復するという話だ。全国の城跡・古戦場系の心霊スポットに共通する、典型的なモチーフではある。それでも原城については、具体的な体験談として複数のサイトで語られている。
ある投稿では、女性が撮影した写真の背後に、鎧をまとった武士の人影が写り込んでいたという事例が紹介されている。別の投稿はもっと生々しい。男性が遺構付近で「鉄のような臭い」を嗅ぎ、その直後に肩が重くなったという。その後も原因不明の高熱に見舞われたと記録されている。
ライフスタイル系メディア「LampMate」は、別の角度からこの場所を取り上げている。原城跡を望む高台に2024年に開館した、「原城聖マリア観音ホール」を紹介する記事だ。
その記事は、観音像を彫った彫刻家・親松英治氏本人の体験を伝えている。親松氏は原城跡を訪れた際、明け方に島原のホテルの床が激しく揺れる幻覚に襲われた。
原城跡のおびただしい霊たちが「親松さん頼んだぞ」と押しかけてきた。親松氏はそう確信したという。そして犠牲者三万七千人を慰霊する十メートルの木造マリア像を、四十年の歳月をかけて完成させることを誓った。
同じ記事は、複数の心霊系YouTubeチャンネルが深夜の原城跡を訪れ、各種の測定機器を使って撮影・検証を行っていることにも触れている。この観音像の完成が「心霊スポットとしての原城跡」に一つの区切りをもたらすことを、筆者は期待している。
知恵袋、note、YouTube。噂は継ぎ足されていく
Yahoo!知恵袋には、「天草四郎の都市伝説について。天草四郎には、たくさんの伝説がありますよね」といった質問投稿がある。超能力、予言、財宝といった複数の噂が一括りに語られていることが確認できる。
noteにも記事がある。「PE-」氏による「島原の乱で幕府が総攻撃をしかけた理由を都市伝説的に考察してみた」。「夏の日の少年」氏による「天草四郎は豊臣秀頼の子孫説」。
史実の空白を埋める形で独自の考察を展開する、個人ブログ記事が複数存在する。四郎の出自そのものを謎解きの対象にする流れがあるわけだ。
オカルト系まとめサイト「都市伝説パラダイス」の記事は、四郎の神童伝説を並べている。3歳で百首以上の和歌を詠んだ。5歳で論語を暗記し、10歳でラテン語を習得。
超能力伝説のほうも派手だ。湯島まで海上を歩いたという。銃弾を浴びても傷つかなかった。盲目の少女に触れただけで視力を回復させた。
記事はそのうえで、父・益田甚兵衛がトリックを用いてこうした「奇跡」を演出した黒幕だった可能性を論じている。財宝伝説とセットで語られる「四郎神格化の舞台裏」という切り口になる。
この切り口が考察系コンテンツで人気であることが、ここからうかがえる。YouTubeでは「『天草四郎』16歳の少年が起こした奇跡と謎の正体とは?」といったVTuberによる都市伝説解説動画も投稿されている。
財宝、超能力、出自の三題噺として語られる傾向が、ネット上ではとくに強い。
実在の地名と、実在の事件
原城跡は国指定史跡だ。南島原市教育委員会が1992年から継続的に発掘調査を行っている。
本丸地区を中心に、十字架、メダイ、ロザリオの珠、砲弾・銃弾、破却された石垣、大量の人骨が確認されている。これらの遺物は、一揆とキリシタン信仰の実在を裏づける一級の史料だ。
念のためもう一度書いておく。公開されている発掘報告に、巨額の金貨・銀貨・黄金十字架そのものの発見は記録されていない。
八重野充弘氏が発掘を行った天草下島の池は、原城そのものではない。対岸の天草諸島にある別地点になる。伝説が原城と天草諸島の双方に分散して伝わっている実例といえる。
天草四郎の出生地とされる上天草市と、一揆前に四郎ゆかりの勢力が拠った富岡城周辺。この二か所も、財宝伝説の候補地としてしばしば名前が挙がる。
金田一少年の事件簿というフィクション作品は、実在の地名・遺物を下敷きにした。その結果、逆に現実の観光地としての天草・原城の知名度と、「財宝伝説の本場」というイメージを強化した。この側面は見逃せない。
西日本新聞やその他の地方紙が、財宝探しツアー的な観光企画を定期的に報じてきた経緯もある。史実の悲劇と、創作と、観光。三つが絡み合いながら、この話は令和の現在まで語り継がれている。
