## クレーターがない。それがこの事件の全部だ
この話の面白さは、実はたった一行に要約できる。広島型原爆の千倍とも言われる爆発が起きたのに、穴がない。普通、とんでもない爆発があれば地面に穴が残る。隕石ならクレーターができるし、隕石の破片も拾える。ところが一九〇八年六月三十日の朝、シベリアの奥地で起きた爆発は、半径二十キロ以上の森をなぎ倒し、数百キロ先の建物の窓を割り、ヨーロッパ中の空を光らせながら、爆心地に行ってみると穴も破片もない。あるのは、中心から放射状に倒れた天文学的な数の木だけ。しかも中心の木だけは倒れずに、枝と皮を剥がれて立ったままになっている。電信柱のような木が何千本も並ぶ、あの写真を初めて見たときの気持ち悪さは忘れられないな。この「爆心はあるのに穴がない」という一点が、以後百年以上にわたって、真面目な科学から完全なトンデモまで、あらゆる話を引き寄せる磁石になった。
## 一九〇八年六月三十日、朝七時すぎ
現場は中央シベリア、エニセイ川の支流であるポドカメンナヤ・ツングースカ川の上流域。現在のロシア・クラスノヤルスク地方にあたる。爆心の座標は北緯六十度五十五分、東経百一度五十七分あたりとされている。一番近い人里は、南に六十五キロほど離れたヴァナヴァラという交易所だった。つまり、人間が住んでいない。これがこの事件の不思議な幸運で、同じものが四時間遅く到着していたら、地球の自転の分だけペテルブルクやモスクワの真上になっていた可能性がある。時刻は現地時間で午前七時前後。資料によって七時二分とも七時十七分とも書かれていて、この程度のばらつきがあるのは、当時のシベリア奥地に正確な時計を見ていた人間がほぼいなかったからだ。イルクーツクの地震計の記録と、欧州の気圧計の振れが、その正確な時計の代わりになっている。
## 証言その一・セミョーノフ、空が二つに裂けた朝
この事件の目撃証言で最も有名なのが、ヴァナヴァラの交易所にいたセミョン・セミョーノフという男のものだ。彼はその朝、交易所のポーチに座って樽のタガを直していた。後年、調査隊に向かって彼が語った内容は、何度読んでも平気でいられない。北の空が二つに割れ、森の上に高く広く火が現れた。空の割れ目はどんどん広がり、北側全体が炎に覆われた。その瞬間、シャツが燃えているのかと思うほどの熱さを感じて、思わずシャツを引き剥がそうとした。ところがそのとき空が閉じ、雷が何発も落ちたような音がした。次の瞬間、自分はポーチから数メートル吹き飛ばされていた。一瞬気を失い、家族が騒いで外に引っ張り出してくれた。そのあとも大地が揺れ、家のガラスは割れ、土が降ってきたという。俺がこの証言で毎回引っかかるのは、六十五キロも離れていてこれだということだ。六十五キロというのは、東京駅から小田原より遠い。
## エヴェンキの人々とアグディの怒り
現場一帯を生活圏にしていたのは、トナカイを飼う遊牧民、エヴェンキの人々だ。彼らの証言は、ロシア人入植者のものよりもはるかに生々しい。テントごと吹き飛ばされた、寝ているところを持ち上げられて木に叩きつけられた、物置きの毛皮が全部燃えた、といった話が残っている。彼らはこれを自然現象としてではなく、神の怒りとして理解した。雷と火をつかさどる神アグディが、人と獣を殺し、森をなぎ倒すために降りてきた。だからあの土地は祟られている、として以後何年も近づかない一族がいた。このタブー意識は、後の調査で実際に障害になっている。道案内を頼もうとしても、地元の人間が爆心方面への同行を嫌がる。新しいソビエトの学者から見れば迷信だが、彼らからすれば、一日で群れと放牧地を失った場所を神罰と呼ぶのはごく自然な反応だと思う。
## トナカイが焼け、牧場が消えた
人間の死者がほぼ確認されていない一方で、家畜の被害ははっきりしている。地元の牧畜業者のトナカイが、数百頭単位で死んだとされる。強烈な熱と衝撃波にやられたものだ。ある一家は、先に触れたセミョーノフの証言と同じ日に、放牧していた群れと、そりや毛皮をしまう小屋と、そこに置いてあった道具類を一瞬で失っている。後の調査では、焼けこげたトナカイの骨がまとまって見つかったという報告もある。ちなみに、人間の死者がゼロだったと断定するのも実は難しい。当時のシベリア奥地には戸籍も衛生行政もまともに届いておらず、テントで暮らす一家が一日で消えても、誰がいつ数えるのかという問題がある。後年の語りのなかには、吹き飛ばされて重傷を負った老人が数日後に亡くなったという話がいくつか残っている。
## 数百キロ先まで届いた轟音と衝撃波
衝撃波はとんでもない範囲に及んだ。四百キロを超える地点でも人が足をすくわれ、窓ガラスが割れたという記録がある。もっと遠い場所でも、遠雷のような音が何度も連続して聞こえたという証言が集められている。ツングース人からの聞き取りでは、衝撃音は二十数回にわたって続いたとされる。これは天体が大気の層を切り裂いていく際の衝撃波と、爆発そのもの、そして地形に反射した音が重なった結果だろう。鉄道建設の作業員や、シベリア鉄道の列車では、振動を線路の異常と勘違いして非常停止をかけたという話も伝わる。このあたりの伝聞は尾ひれがついている可能性もあるが、機器による計測だけは嘘をつかない。イルクーツクの地震計ははっきりと揺れを拾っているし、ユーラシア各地の観測所も同時刻の異常を記録している。
## ロンドンの気圧計と、真夜中に新聞が読めた夏
この事件が他の天災と決定的に違うのは、地球の反対側に記録が残っている点だ。イギリスの気象設備は、大気圧の異常な振動を自記紙に描いていた。衝撃波が地球を回り込んだのだ。さらに奇妙なのが、その後数日から数週間にわたって、ヨーロッパとロシア西部の夜空が異常に明るくなったことだ。ロンドンでは真夜中に照明なしで新聞が読めたという記事が出ている。スコットランドや北欧では真夜中に写真が撮れたという報告もある。原因は、上層大気に吹き上げられた大量の塵と氷の微粒子が夕方の太陽光を散乱したためと考えられている。つまりシベリアの森で何が起きたのかも知らないロンドン市民が、その夜、確かにその余波の下を歩いていた。これ、何度考えてもでかすぎる話だ。
## なぜ十九年も誰も現地に行かなかったのか
これだけの大事件なのに、本格的な現地調査が行われるのは一九二七年、つまり十九年後だ。なぜそんなに遅れたのか。理由は逆に単純で、ロシアがそれどころではなかったからだ。一九〇八年のロシア帝国は日露戦争と第一次革命の余韻の中にあり、その後第一次世界大戦、ロシア革命、内戦と連続する。国が二度三度ひっくり返っている間に、シベリアの森で木が倒れた話など、優先度の低い地方ネタにすぎない。当時の新聞には小さな記事が出てはいるのだが、内容は伝聞の寄せ集めで、しかも現場に行くには鉄道の終点から川と湿地とタイガの森を数百キロ越えないといけない。人が死んでいない、現場が遠い、国が混乱している。この三つが揃えば、世界史級の異変でも十九年放置される。
## レオニード・クーリクという男
その放置を終わらせたのが、一人の執念深い鉱物学者だった。レオニード・クーリク、一八八三年生まれ。革命前は鉱山技師や林務の仕事をし、第一次大戦に従軍し、その後トムスクで鉱物学を教え、一九二〇年にペトログラードの鉱物学博物館に入る。彼は隕石の専門家で、とにかく隕石を拾いに行くことに人生を費やした人間だ。一九二一年、彼はソビエト科学アカデミーの隕石探査隊を率いてシベリアへ向かう。このときは現場には到達できなかったが、途中で集めた目撃証言の量と質に完全に取り憑かれてしまう。ここに巨大隕石が落ちたに違いない、と。彼の頭の中には、国家に貢献する巨大な鉄隕石の図ができていた。ソビエトの当局を説得する際、彼が「回収すれば貴重な鉄資源になる」という線を使ったのは有名な話だ。学問の情熱は、時に経済的な建前を必要とする。
## 一九二七年、ついに現地へ
一九二七年の春、クーリクはついにヴァナヴァラに入る。ここから先はトナカイのそりと徒歩だ。湿地に足を取られ、ブヨとアブにたかられ、案内人には途中で逃げられる。それでも進んだ先で、彼は信じられない光景に出くわす。地平線まで、木が全部同じ方向に倒れている。枝も葉もない。倒木の根元がこちらを向いているので、根の場所から逆に辿れば風がどちらから来たかがわかる。クーリクは地道に歩き回って倒木の向きを記録し、そのベクトルを地図に落としていった。向きはすべて一点を指していた。いよいよ中心だと思って近づいた彼を待っていたのは、しかしクレーターではなかった。根をつけたまま、枝を失って直立する焼けた木の群れ――後に電信柱の森と呼ばれるものだった。
## 蝶の形に倒れた森
クーリクと後継の調査隊が何年もかけて地道に倒木を数え、向きを記録してでき上がった分布図が、この事件最大の物証だ。倒木帯の面積は約二千百五十平方キロ。東京都の面積とほぼ同じだ。倒された木の本数は、推定でおよそ八千万本(六千万本とする見積もりもある)。しかも分布の形が完全な円ではない。羽を広げた蝶のような形をしているのだ。これは偶然ではない。天体が真上から垂直に落ちたのではなく、斜めに突っ込んできて、進行方向を持ったまま空中で崩壊した場合の衝撃波の広がり方を、蝶形の分布は見事に再現する。後年の数値シミュレーション研究では、この蝶の形から逆算して、天体の入射角や方位、爆発高度まで見積もれるようになった。一人の男がノートに書き込んだ矢印の集合が、百年後の計算機の入力データになっている。地道な作業は強いな。
## スースロフの漏斗を掘る、そして何も出ない
クーリクはあきらめなかった。クレーターがないなら、小さな穴の集まりがそれだろうと考え、湿地に点在する円形のくぼみに目をつけた。とくにスースロフの漏斗と呼ばれるくぼみは、彼が隕石坑だと信じた候補だった。一九二八年の調査では磁気探査を行い、地下に巨大な鉄塊があれば検出されるはずだと考えた。反応はなかった。翌年からは、人手を集めて実際に排水し、池の底を掘った。出てきたのは普通の沼の底だった。切株まで埋まっていて、つまりこのくぼみは事件より古いことが確定してしまった。一九三九年前後にはユージノエ沼を調べたがこちらも空振りだ。十二年を費やし、何度も現地に入り、クーリクはついに隕石の破片を一つも拾えなかった。彼の人生を笑うのは違うと思う。ないことを確かめるのも、立派な科学だ。
## 三八年の空撮、そしてクーリクの最期
一九三八年、クーリクはついに航空機を使って倒木帯の空撮を実現する。これでやっと、地上をこつこつ歩いているだけでは見えなかった全体像が見えた。だがその先の調査を止めたのは戦争だった。一九四一年、ドイツ軍がソ連に侵攻すると、五十八歳になっていたクーリクは志願して民兵部隊に入る。学者としての地位を考えれば行く必要のない戦場だった。彼は前線で負傷し、ドイツ軍の捕虜となり、収容所で発疹チフスにかかって、一九四二年四月に死んだ。五十八歳だった。つまり彼は、自分が人生を費やした謎の答えを一つも見ないまま死んだ。後に月のクレーターに彼の名がつけられた。地球で見つけられなかったクレーターの代わりに、月のクレーターをもらった。できすぎた話のようだが、本当の話だ。
## 戦後のソ連調査が確かめたこと
調査が再開したのは一九五〇年代後半だ。ソ連科学アカデミーのキリル・フロレンスキーらが隊を率い、今度は「巨大な鉄塊を掘り出す」という発想を捨てて、土そのものを調べる方向に切り替えた。爆心地周辺の土壌や泥炭を採取し、顕微鏡で覗く。すると、宇宙由来と見られる微小な球粒、いわゆるマイクロスフェルールが、特定の層に濃集していることがわかってきた。ケイ酸塩質のものと磁鉄鉱質のものがあり、分布は爆心地から北西方向へ帯状に伸びている。つまり天体は蒸発して細かい粒になり、風下へ撒かれた。掘るべきものは穴ではなく塵だったわけだ。あわせて、爆心地周辺の樹木の年輪に事件後の異常成長が見られること、放射能の異常はないことも確認された。核爆発説を潰したのはこの地道な測定だ。同時に、フロレンスキーはチェコ湖について「堆積層が厚すぎて一九〇八年にできた穴とは考えられない」という判断を早い段階で示している。この見立ては後に大論争の火種になる。
## エアバースト、つまり地面に届く前に消えた
いまの標準的な理解はこうだ。直径五十から六十メートルほどの天体が、秒速十数キロという猛烈な速度で大気に突入した。この速度だと、前面の空気は圧縮されて数千度に達し、天体は焼かれながら急減速する。石質の天体は内部に亀裂を抱えているので、この途方もない圧力に耐えられず、上空およそ八キロから十キロで一気に砕けて全質量が瞬時に熱と衝撃波に変わる。これがエアバースト、空中爆発だ。放出エネルギーの見積もりには幅があって、古い推定では三から三十メガトン、その後十から十五メガトン、近年はもっと低く五メガトン前後とする計算もある。広島型原爆が十五キロトン級だから、十五メガトンなら文字通り千倍になる。そして肝心なのは、天体本体は地面に到達していないという点だ。だからクレーターがない。破片も残らない。上空で消えたものが、地上の森だけを叩き伏せた。答えは拍子抜けするほどシンプルなのに、これが定着するまで半世紀以上かかった。
## 隕石か、彗星か、綱引きは長かった
エアバーストだとしても、では何が飛んできたのか。長らく綱引きになってきたのが、石質小惑星説と彗星説だ。彗星説の魅力は明快で、彗星の核は氷と塵の塊だから、大気中で完全に蒸発してしまえば残骸が残らないことを無理なく説明できる。加えて、事件後にヨーロッパの空が光った現象も、彗星の尾に由来する塵が上層大気に広がったのだと説明できる。一方の小惑星説は、突入角度や爆発高度をシミュレーションすると、彗星より石質の岩体のほうが観測された倒木パターンに合いやすいと主張する。決着に近づいたのは物質証拠のほうからで、二〇一三年にはウクライナ・ドイツ・アメリカの研究チームが、爆心域の泥炭層から採取した微粒子のなかにロンズデーライトやダイヤモンド、石墨といった、隕石衝突に伴う高圧環境でしかできにくい鉱物を検出したと報告している。現在は石質ないし炭素質の小惑星説が優勢だ。ただ、彗星説が完全に死んだわけでもない。
## チェコ湖クレーター説、そしてその反論
「本当にクレーターはないのか」に真正面から挑んだのが、イタリアのボローニャ大学のグループだ。爆心地の北およそ八キロにチェコ湖という小さな湖があり、ルカ・ガスペリーニらが一九九〇年代末から現地調査に入った。彼らの主張は大胆で、この湖は一九〇八年に本体の破片が落ちてできた衝突クレーターだ、というものだった。根拠として挙げられたのは、湖底が漏斗状であること、音響探査で湖底のさらに下に密度の高い数メートル規模の物体らしき強い反射があること、同じ場所に磁気異常があること、そして現地のエヴェンキの人々のあいだに「あの湖は爆発でできた」という伝承があることだ。二〇〇七年前後に発表されると大きく報じられた。しかし反論も強烈だった。フロレンスキーの時代から指摘されている堆積層の厚さの問題に加え、二〇一〇年代にはロシア側のチームが湖底の堆積速度を再測定し、この湖は少なくとも数百年、おそらくそれ以上前から存在するという結論を出した。湖岸の樹木の年輪解析も、一九〇八年より古い個体の存在を示している。現在のところ、チェコ湖クレーター説は分が悪い。
## 反物質、ブラックホール、そして物理学者の暴走
ここからが与太話の花畑だ。まず反物質説。一九六五年、クライド・カウワン、C・R・アトルリ、そしてノーベル賞受賞者のウィラード・リビーという錚々たる面子が、ネイチャー誌に「ツングースカ隕石の反物質成分の可能性」という趣旨の論文を出している。反物質の塊が大気の物質と対消滅すれば、残骸ゼロで巨大なエネルギーだけが出る。理屈は通る。だが、それなら特徴的な放射線の痕跡が残るはずで、それが見つかっていない。次にブラックホール説。一九七三年、A・A・ジャクソンとマイケル・ライアンが同じくネイチャーに、小さなブラックホールが地球を貫通したという説を発表した。シベリアで入って北大西洋で出た、というのだ。しかし出口側にあたるはずの異常が観測されていないうえ、その後スティーヴン・ホーキングが微小ブラックホールは蒸発してしまうことを示したことで、この説は物理的な足場を失った。それにしても、一流の学術誌にこの手の論文が載ったという事実そのものが、この事件の吸引力を物語っている。
## テスラの実験だった、という魅力的な作り話
もう一つの人気説がニコラ・テスラ犯人説だ。テスラはロングアイランドのウォーデンクリフに巨大な送電塔を建て、無線での電力伝送を試みていた。その実験の出力が暴走して、地球の裏側のシベリアを焼いた――という筋書きである。この説がとくに好まれるのは、テスラが北極探検に向かったロバート・ピアリーのために「電力を送って見せる」と語ったという逸話とセットで語られるからだ。物語としてはよくできている。だが実際には、ウォーデンクリフ計画は資金難で早い段階から実質停止しており、一九〇八年当時の稼働状況は極めて怪しい。そもそも当時の技術で数千キロ先に十メガトン級のエネルギーを指向性を持って叩き込む方法は存在しない。この説の初出をきっちり特定するのは難しいが、テスラを万能の天才かつ悲劇の被害者として描く二十世紀後半以降のテスラ神話の流行と歩調を合わせて広まった、というのが実情に近い。テスラは十分に偉大なので、こういう盛り方は逆に失礼だとすら思う。
## カザンツェフの短編が生んだ怪物
UFO墜落説には、はっきりした発生源がある。ソ連の技術者で作家のアレクサンドル・カザンツェフが、一九四六年に発表した短編小説だ。広島と長崎の惨状を伝える報道に衝撃を受けた彼は、ツングースカの倒木の様子が原爆の被害と似ていることに着目し、「あれは原子力で飛ぶ火星の宇宙船が爆発したのだ」という小説を書いた。あくまで創作である。ところがこれが読者を掴み、ソ連国内で猛烈に広まった。やがてフィクションであることが忘れられ、「学者が唱えた説」として一人歩きしはじめる。ソ連の科学者たちは繰り返し否定したが、後の祭りだった。一九五〇年代から六〇年代にかけて、若い調査隊が「宇宙船の破片」を探して現地に入るブームまで起きている。近年もロシアの研究者が「別のUFOが飛来して隕石に体当たりし、地球を救った」という趣旨の主張を持ち出して報じられたことがあり、この系譜はまだ生きている。一つの短編小説が、八十年経っても消えない都市伝説を作った。作家の罪深さと出力の高さを、これほど示す例もない。
## 「かすめて飛び去った」説という異色の仮説
ちょっと毛色の違う説も紹介しておきたい。天体は爆発して消えたのではなく、大気の上層をかすめて減速し、そのまま宇宙へ抜けて太陽の周りを回り続けているという考え方だ。この発想自体は古く、ソ連の民族学者セヴィヤン・ヴァインシュテインが一九四〇年代末に近い趣旨を書き、二〇〇〇年代にはアンドレイ・オリホバトフが改めて提示している。そして二〇二〇年二月、ロシアの研究チームが英国の王立天文学会月報に、直径百から二百メートル級の鉄質天体が高度十一キロ前後を三千キロにわたって飛行し、大気を突き抜けて再び宇宙へ出ていったとするモデルを発表した。鉄なら大気中でも蒸発しにくいので、破片が地上に残らないことと矛盾しない、という論理だ。難点もあって、この規模の鉄天体が低空を長距離飛べば、通過経路に沿ってもっと広範な熱害や音の記録が残りそうなものだが、そこまでの証言は集まっていない。とはいえ、標準説に対する健全な対抗馬として面白い。
## 証言その二・「第二の太陽」を見た少年
現地で採取された証言のなかに、当時十九歳だったイリヤ・ティガノフという若者の語りが残っている。彼によれば、異変は前日の夜から始まっていた。夜になっても空が暗くなりきらず、夜明けのようにぼんやり明るいままだった。眠れずにいた者が何人もいたという。そして明け方、川岸に沿って、もう一つの太陽としか言いようのないものが低く飛んでいくのを見た。まっすぐ北へ向かい、樹々の向こうに隠れた次の瞬間、地面が跳ね上がるように揺れて、遅れて音が来た。犬が狂ったように吠え、川の水面が波立った、と。この「前日から空が明るかった」という部分は、多くの証言に共通して現れる要素で、しかも科学的にも説明がつく。天体がまとっていた塵が突入前後に上層大気に散らばりはじめていたなら、日没後も高空が照らされる。素朴な語りのなかに物理現象の指紋が混ざっている。こういうのを見つけると、証言というのは馬鹿にできないなと思う。
## 証言その三・いまも現地へ入る人たち
ツングースカの爆心域は、現在はロシアの自然保護区になっている。ここに毎年、研究者やアマチュアの調査隊が入る。ある参加者の手記を読んだことがあるが、印象的だったのは「思っていたより森が普通だった」という感想から始まっていたことだ。百年以上経てば当然、若い木が育って一面の森に戻っている。ただし歩くと足元がおかしい。苔と草の下に、炭化した太い倒木が幾層にも埋まっていて、踏むとぐずりと沈む。その方向が、いつまで歩いても揃っている。そこで初めて、自分がまだ爆風の中を歩いているのだと気づくのだという。もう一つ書かれていたのが、蚊とアブの量だ。真夏の湿地帯の吸血昆虫は、防護ネットなしでは会話も難しいレベルらしい。クーリクの隊がこの装備なしで何ヶ月も測量していたことを考えると、頭が下がるより先に少し呆れる。そして手記は、爆心地に立つとやたら静かで、その静けさが逆にきつい、という一文で終わっていた。
## 二〇一三年、チェリャビンスクという答え合わせ
長らく机上の議論だったエアバーストが、いきなり全世界のドライブレコーダーに映る日が来る。二〇一三年二月十五日の朝、ロシアのチェリャビンスク州上空を、直径二十メートル弱の小天体が浅い角度で飛来し、上空で砕けた。放出エネルギーはTNT換算で五百キロトン前後、広島型の三十倍以上だ。閃光の直後に来た衝撃波が街の窓ガラスを一斉に割り、飛び散ったガラスで千五百人前後が負傷した。死者が出なかったのは幸運としか言いようがない。この出来事がツングースカ研究に与えたインパクトは大きかった。第一に、エアバーストという現象が理論通りに起きることが実証された。第二に、窓に近づいて外を見ていた人ほど負傷したという被害パターンが、衝撃波の遅れという物理を生々しく示した。第三に、これほどの規模の天体を我々が事前に一つも検出できていなかったという事実が露呈した。ツングースカ級はおよそ数百年から千年に一度と見積もられているが、それは「今日来ない」という保証ではまったくない。
## ネットとオカルト界隈での扱われ方
日本語圏でツングースカが語られるときの定番の型は、だいたい決まっている。「クレーターがない」「原爆の千倍」「いまだに謎」の三点セットだ。ここから先が二手に分かれる。一方はきちんとエアバーストの話に着地する解説、もう一方は反物質・ブラックホール・テスラ・UFOのフルコースへ突入する。掲示板の過去ログを見ると、この二派が同じスレッドで延々やり合っているのが面白い。「もう空中爆発で決着ついてるだろ」「じゃあなんで破片ゼロなんだよ」「蒸発したからだよ」というやりとりが、十年単位で繰り返されている。動画勢の考察はまた別の生態系で、CGで再現した閃光と倒木のシミュレーション映像に、やたら不穏なBGMを乗せる様式が定番化している。創作の世界での引用も膨大で、ゲームや漫画で「シベリアで起きた説明不能の爆発」は超常存在の登場装置として便利に使われ続けている。実際、素材としてこれ以上に使い勝手のいい史実はそうそうない。
## なぜこの事件はこんなに人を掴むのか
理由は三つあると思う。一つ目は、証拠が中途半端に多いことだ。まったく記録がなければ伝説で終わるし、破片が転がっていれば話は五分で終わる。ところがこの事件は、克明な目撃証言と、地球規模の物理的記録と、八千万本の倒木という圧倒的な物証を残しながら、肝心の犯人の死体だけがない。ミステリとして構造が完璧すぎる。二つ目は、無人の荒野で起きたという点だ。人が死んでいないから、我々は罪悪感なしにこの事件を面白がることができる。もし数万人が死んでいたら、こんなに気楽に語られてはいない。そして三つ目、これが本質だが、この事件は「空から何の前触れもなく致命的なものが降ってくる」という、人類がずっと抱えている根源的な不安を、一回だけ本気で実演してみせた事例なんだ。しかも我々はそれを止められなかったし、いまも完全には止められない。だから百年以上経っても、この話は消費され続ける。
## 同じ倒木の写真が、時代ごとに別の意味を背負わされてきた
改めて全体を眺め直すと、ツングースカという事件の面白さは、実は謎そのものよりも「謎がどう扱われてきたか」の歴史にあると思う。この百十八年間、この爆発は常にその時代の最先端の不安と最先端の科学の鏡だった。二十世紀初頭には、それは単なる田舎の異変として無視された。ソ連の工業化期には、回収すれば国家の資源になる巨大鉄隕石として位置づけられた。広島と長崎の後には、原子爆弾のイメージを通して読み直され、宇宙船の核爆発という物語が生まれた。冷戦下の宇宙開発競争のなかでは、地球外知性のロマンを注ぎ込む器になった。素粒子物理が花形だった時代には反物質が持ち出され、ブラックホールが理論的に注目されればブラックホールが飛んでくる。そして地球近傍天体の監視が国際的な課題になった二十一世紀には、プラネタリーディフェンスの教科書事例になった。同じ倒木の写真が、時代ごとにまったく違う意味を割り当てられ続けてきた。これは自然現象の記録であると同時に、二十世紀の思想史の記録でもあるんだよな。
科学的な現状を整理しておく。まず、ほぼ確実と言っていいのは、上空での空中爆発が起きたこと、その中心が一点であり倒木の向きがそこを指していること、放射能の異常がないこと、そして地球外物質に由来する微粒子が現地の堆積層から検出されていることだ。この四点で、核実験説も地下ガス噴出説も自然発火説も、説明力で大きく劣る。次に、有力だが議論の余地があるのが、天体の正体だ。石質もしくは炭素質の小惑星という線が現在の主流で、彗星核説はやや後退したものの完全には排除されていない。二〇一三年の高圧鉱物の報告は小惑星説を後押ししたが、微粒子の同定と汚染の除外はデリケートな作業で、慎重な研究者はまだ断定を避けている。そして未解決なのが、エネルギーの正確な値と突入軌道だ。同じ倒木データを使っても、大気モデルや天体の強度の仮定を変えると、数メガトンから十数メガトンまで結論が動く。一般向けの記事で「広島の千倍」と「広島の三百倍」が併存しているのは、誰かが嘘をついているのではなく、単に採用した推定が違うからだ。この幅を理解しておくだけで、ネット上の数字合戦の九割は無害化できる。
トンデモ説の扱いについても、もう少し踏み込んで考えたい。反物質説やブラックホール説は、俗説として片づけるにはやや惜しい。あれらは一流の学術誌に載った真面目な提案であり、その後の観測と理論によって正しく棄却された。つまり科学が正常に機能した記録だ。むしろ注意すべきなのは、そうした棄却の過程が省略され、「かつてノーベル賞学者がこう言った」という部分だけが切り出されて流通することだ。カザンツェフの短編が「学説」に化けたのと、まったく同じ変形が起きている。情報が伝わるたびに、留保と反論が削ぎ落とされ、断定だけが残る。この摩耗の仕方は、ツングースカに限らず、あらゆる怪談と陰謀論に共通する挙動だ。だからこの事件は、情報が壊れていく過程を観察するための、とてもよくできた標本でもある。
最後に、この話が持つ実用的な意味を書いておきたい。ツングースカ級の天体は、天文学的にはごく小さい部類で、地上の望遠鏡では暗すぎて事前に見つけるのが難しい。二〇一三年のチェリャビンスクは、太陽の方向から来たために誰にも見えなかった。現在は各国の探査計画が地球近傍天体の目録化を進め、二〇二二年には探査機を小惑星に衝突させて軌道を変える実証まで行われている。人類はようやく、空から降ってくるものに対して能動的に手を打てる可能性を手に入れつつある。それでも、五十メートル級の岩が明日の朝に飛んでくる確率がゼロになったわけではない。一九〇八年六月三十日の朝、シベリアの森でトナカイを追っていた人々は、その日が自分の世界の終わりの日になるかもしれないなどとは考えていなかった。ただ、いつも通りの夏の朝だった。空が二つに裂けるまでは。その一点だけは、いまも我々と何一つ変わっていない。
1908年、シベリアの空が裂けた朝――ツングースカ大爆発、クレーターのない大爆発の正体
