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フェルメールを描いた男――ハン・ファン・メーヘレン贋作事件、復讐と戦争と科学鑑定の十年

  1. プロローグ――塩坑から出てきた一枚
  2. 第一章――批評家に殺された画家
    1. デーフェンテルの秀才
    2. 1923年、「笑う騎士」の事件
  3. 第二章――南フランスの実験室
    1. なぜフェルメールでなければならなかったか
    2. 練習作の山
    3. 一枚の古画を潰す
  4. 第三章――老大家が陥落する
    1. モナコの別荘にて
    2. バーリントン・マガジンの陶酔
    3. 五十二万ギルダーの狂騒
  5. 第四章――味をしめた男の量産体制
    1. 『カード遊びをする人々』と『酒を飲む人のいる室内』
    2. 『最後の晩餐』の一号と二号
    3. 『イサクの祝福』
    4. 『キリストと姦通の女』
    5. 『キリストの足を洗う』
  6. 第五章――占領下オランダという狂った市場
    1. ザイス=インクヴァルトの国
    2. なぜ絵が異常に高く売れたのか
    3. ハウトスティッケル画廊で起きたこと
  7. 第六章――逮捕と、世界一奇妙な自白
    1. 1945年5月29日
    2. 六週間の沈黙と、決壊の瞬間
    3. 誰も信じなかった
  8. 第七章――監視付きの部屋で描かれた最後のフェルメール
  9. 第八章――1947年10月29日、第四法廷
    1. 被告人が主役の芝居
    2. 法廷でのやりとり
    3. 証言その一――ある専門家の告白
    4. 証言その二――画商ホーヘンダイクの述懐
    5. 証言その三――ゲーリングの顔
    6. 判決
  10. 第九章――英雄神話はどうやって作られたか
    1. 世論調査で第二位
    2. ヒトラーに贈られた画集
    3. 反証と論争――ロペスの告発
  11. 第十章――科学が引導を渡すまで
    1. コレマンスの委員会が見つけたもの
    2. ドゥクーンの抵抗と、ブリュッセルの法廷
    3. 1967年、白鉛が喋る
  12. 第十一章――なぜ専門家は全員だまされたのか
  13. 第十二章――贋作は芸術に何を突きつけたのか
  14. 第十三章――なぜ、いまも語られ続けるのか
  15. エピローグ――それでも壁に架かっている

プロローグ――塩坑から出てきた一枚

1945年5月17日、オーストリアのアルトアウスゼー。連合軍の兵士たちが岩塩坑の坑道を降りていった。空気は乾いていて、気温は年中ほぼ一定。要するに、絵を保管するには理想的な環境だった。ナチスもそう考えたから、ここに山ほど溜め込んだ。押収された美術品はおよそ6750点。ヘルマン・ゲーリングが集めた分だけでも一つの美術館ができる。

その中に、一枚の宗教画があった。キリストが、姦通の罪で引き据えられた女を前にしている場面。落ち着いた色調、静かな構図。署名はヨハネス・フェルメール。

兵士たちは色めき立った。当然だ。フェルメールは当時、真作が三十数点しか知られていない。しかもその「姦通の女」は、どの画集にも載っていない未知の作品だった。オランダの国宝が、ナチスのナンバー2の手に渡っていた。誰がこんなものを敵に売ったのか。

出所をたどると、一人の男の名前が出てきた。アムステルダムのカイゼルスフラハト321番地に住む、ハン・ファン・メーヘレンという画家。売れない画家のはずなのに、占領下のオランダで信じられないほど豪勢に暮らしていた男だった。

5月29日、逮捕。容疑は詐欺および敵国幇助。オランダの文化財を敵に売り渡した売国奴として、最高刑は死刑。新聞は彼を吊るし上げた。

そして留置場で六週間ほど粘ったあと、この男は世界一奇妙な自白をする。

「あれはフェルメールじゃない。俺が描いた」

ここから先の話が、二十世紀の美術史でいちばん面白い事件だ。ついでに言えば、いちばん厄介な事件でもある。というのも、この事件は最終的に「絵の価値って結局なんなんだ」という、誰も答えを持っていない問いを、専門家の顔面に叩きつけて終わるからだ。

順番に見ていこう。1889年から1947年まで、五十八年分ある。

第一章――批評家に殺された画家

デーフェンテルの秀才

ヘンリクス・アントニウス・ファン・メーヘレンは、1889年10月10日、オランダ東部の町デーフェンテルに生まれた。通称はハン。父親は教師で、息子が絵にのめり込むのを露骨に嫌がった。絵など食えない、そんな夢は捨てろ、というよくある家庭内の摩擦である。

それでも彼は絵をやめなかった。デルフトの工科系の学校で建築を学びながら、素描と絵画を並行して続けた。ここが後々効いてくる。彼が最初についた美術教師は、十七世紀の技法を重んじる古風な人物だった。チューブ絵具が当たり前になった時代に、鉱石を砕いて顔料を作るところから教える先生である。加熱の仕方、酸化のさせ方、油との練り合わせ方。

二十世紀の美術学生にとってはほとんど骨董趣味みたいな知識だったが、この骨董趣味が三十年後、オランダ中の目利きを地獄に落とすことになる。

若い頃の彼は、そこそこ順調だった。学生時代に描いた作品が賞をもらい、腕は確かだと認められた。肖像画の注文もそれなりに来た。ただし、時代が悪かった。1910年代から1920年代のヨーロッパ美術は、キュビスムやダダイスムが暴れ回っている真っ最中である。そこへ十七世紀オランダ絵画の写実をそのまま持ち込んだような絵を出したらどうなるか。答えは決まっている。「古臭い」の一言で片づけられる。

批評家たちは最初、彼にわりと好意的だった。ところが1923年前後、三十代半ばにさしかかったあたりから風向きが変わる。技術はあるが独創性がない。上手いだけだ。時代遅れ。だいたいそういう論調で、繰り返し叩かれた。

これが決定的だった。後年、法廷で本人が言っている。「批評家たちに徹底的に、しかも悪意をもって潰された。彼らは絵のことなど何ひとつ知らないのに」。

ここで彼は妙な方向に曲がる。普通の画家なら、腐るか、諦めるか、作風を変えるかだ。彼は「見せしめ」を選んだ。名前が売れているかどうかで絵の価値を決めているだけの連中に、その事実を突きつけてやる。そのために、巨匠の名前を借りた絵を描いて、連中に鑑定させる。

要するに復讐である。しかも実に手の込んだ――そして異様に金のかかる――復讐だ。

1923年、「笑う騎士」の事件

彼が最初にやらかしたのは、フェルメールではなくフランス・ハルスだった。

相棒がいた。テオ・ファン・ワインハールデンという修復家兼画商である。古い絵を安く仕入れ、手を入れて高く売る。合法と非合法の境目をずっと歩いているような人物だった。二人は状態の悪い十七世紀風の板絵を拾ってきて、ハルスふうに徹底的に描き直した。

1923年4月、ワインハールデンはその二枚を、当時のオランダ美術界で最大級の権威の一人、コルネリス・ホフステーデ・デ・フロートのところへ持ち込んだ。マウリッツハイス美術館の副館長、ライクスミュージアムの版画室長を歴任し、オランダ十七世紀絵画の十巻本の目録を書いた男である。この人が「本物だ」と言えば、それは本物になる。

デ・フロートは、二枚とも本物のハルスだと認めた。一枚には鑑定書まで書いた。しかも気に入ったほうは自分で買った。

鑑定書のついた「笑う騎士」は、1923年6月8日、アムステルダムの競売会社を通じて5万ギルダーで売れた。当時の平均的な労働者の十四年分の給料に相当する額だ。

ところが数か月後、買い手が「これは贋物だ」と言い出す。競売会社が修復家に見せたところ、絵具が完全に硬化していない箇所があると指摘された。三百年前の絵でそんなことはありえない。

裁判になった。1924年11月、裁判所は三人の鑑定人を指名する。ロンドンのナショナル・ギャラリー館長、マウリッツハイス美術館館長、そしてデルフトの工科系高等学校の無機化学の教授。この人選が重要だ。オランダで初めて、絵の真贋を化学が判定する法廷になったのである。

結果は惨憺たるものだった。アルコールでは溶けない。ここまでは合格。ところが水を含ませた綿でそっと触ると絵具が柔らかくなり、柔らかい筆と水で拭くと絵具層ごと落ちてしまう。さらに顔料を調べたら、1826年以降にしか存在しない人造ウルトラマリン、十九世紀初頭から市販されたコバルトブルー、1781年以降の亜鉛白が出てきた。

おまけにエックス線をかけたら、絵の表側から打ち込まれた機械製の釘が二本、絵具層の下に埋まっていた。機械製の釘は十九世紀以降のものだ。

判決は明快だった。ハルスでも同時代人でもない。近代の贋作である。

ここで面白いのは、デ・フロートが折れなかったことだ。彼は1925年に『本物か贋物か。目か化学か』という八十九ページの小冊子を自費で出し、化学の結論に真正面から噛みついた。曰く、採取された絵具は後世の補彩部分から取ったものであって、原画の層ではない。化学者は自分が何を分析しているのか分かっていない。そして有名な一文を書く。「化学者と芸術について議論することはできない。

絵画においては目が最高の権威であるべきだ。音楽における耳と同じように。ここでは音叉ではなく、あそこでは試験管ではない」。

彼は「あれはハルスだ」と死ぬまで言い張った。「あんなふうに描けるものなら描いてみろ」と新聞のインタビューで吐き捨てたこともある。1930年、彼はこの絵を自分の手元に置いたまま死んだ。

もうひとつ面白いのは、この時点で「あれは贋物だ」と最初に強く主張した人物のひとりが、アブラハム・ブレディウスだったことだ。デ・フロートと並ぶ、いや当時はそれ以上の重鎮。フェルメール研究の第一人者。マウリッツハイス美術館の元館長。

つまり十四年後、メーヘレンがフェルメールの贋作を持ち込んで陥落させることになる相手は、かつて彼の最初の贋作を見破った男なのである。復讐の構図としては、これ以上ないくらい出来がいい。

そしてもうひとつ、この事件はメーヘレンに教訓を残した。化学に負けたのだ。アルコール試験は通っても、水で溶ける絵具ではだめだ。近代の顔料を混ぜてもだめだ。金属の釘ひとつでも致命傷になる。

次にやるときは、化学に勝たなければならない。

彼はそう考えて、それから十年近くかけて、本当に化学に勝つ方法を探した。

第二章――南フランスの実験室

なぜフェルメールでなければならなかったか

1932年、メーヘレンはフランス南部のロクブリュヌ・カップ・マルタンに移り住む。地中海を見下ろす斜面に建つ、「プリマヴェーラ」という名の家具付きの邸宅を借りた。表向きは肖像画家として気ままに暮らす中年男。実態は、四年から六年におよぶ実験の日々だった。

彼はここで、標的をフェルメールに定める。

理由をいくつか並べてみると、この選択がいかに冷徹に計算されていたかが分かる。

まず、フェルメールは長いあいだ忘れられていた画家だった。十九世紀半ばに再評価されるまで、ほとんど誰も注目していない。だから研究の蓄積が薄い。作品の総数すらはっきりしない。逆に言えば、「未発見の作品がまだあるはずだ」という余地が、学問的に公認された形でぽっかり空いていた。

次に、フェルメールの生涯には空白がある。若い頃の作品として知られているものはごくわずかで、しかもそのうちの一点は宗教画だ。ところが円熟期の作品は室内の風俗画ばかりで、宗教画は見当たらない。この落差をどう埋めるか。当時の研究者たちは頭を悩ませていた。

そして、当時いちばん有力だった仮説がこれだ。フェルメールは若い頃にイタリアへ行ったのではないか。カラヴァッジョの影響を受けたのではないか。だとすれば、イタリア風の光と影で描かれた宗教画が、どこかに眠っているはずだ。

学者が「あるはずだ」と思っているものを作って持っていく。これが彼の戦略の核心である。

しかも宗教画を選ぶことには実利があった。フェルメールの室内画を偽造すると、美術館に架かっている本物と直接比べられてしまう。真珠の耳飾りの少女や牛乳を注ぐ女と並べられたら勝ち目はない。だが「若い頃の宗教画」なら、比較対象が存在しない。誰も見たことがないのだから、誰も「違う」と言えない。

ついでに、自分の弱点も隠せる。彼はフェルメール特有の光の粒立ちや、あの静謐な空気感を完全には再現できなかった。しかし「これは技法が確立する前の若描きです」ということにしてしまえば、下手さがむしろ証拠になる。

呆れるほどうまい設計である。しかも彼は、美術史家の著作を片っ端から読み込んで、この設計をした。相手の欲望のかたちを正確に測ってから、それにぴったりはまる型を作った。詐欺としての完成度が異常に高い。

練習作の山

いきなり本番に行ったわけではない。彼はロクブリュヌで、いくつも習作を作っている。

フェルメール風の「楽譜を読む女」と「音楽を演奏する女」。前者はライクスミュージアムにある「手紙を読む青衣の女」を、後者はニューヨークのメトロポリタン美術館にある「リュートを調弦する女」を下敷きにしている。フランス・ハルス風の「酒を飲む女」は、ハルスの有名な「マレ・バッベ」の変奏だ。ヘラルト・テル・ボルフ風の男の肖像もある。

これらは売られなかった。売るためではなく、技術を詰めるためのものだったからだ。実際、そのうちの何点かは1945年の家宅捜索でヴィラの地下室からそのまま出てきている。捜査官が下りていった「実験室」には、完成した贋作が四点、下描きの入ったカンヴァス、そして原画をきれいに剥ぎ取って下地を塗り直した「白紙」のカンヴァスが置かれていた。その白紙にはすでに、それらしい年代物の亀裂が全面に走らせてあったという。

準備は執念深かった。彼は十七世紀に実在した顔料しか使わないと決め、ラピスラズリを砕いて群青を作り、鉛白や藍やシナバーを自分で調合した。筆はアナグマの毛で自作した。フェルメールが使っていたとされる筆に近づけるためだ。

いちばんの難物は、絵具の硬化だった。油絵具が溶剤に侵されないほど固まるには、普通は半世紀以上かかる。かといって熱をかけて無理に乾かすと、絵具が膨れるか変色するかで台無しになる。彼はここを、二十世紀の樹脂化学で突破した。この点については後で、科学鑑定が何を見つけたかという形で改めて書く。そちらのほうが正確だし、話としても面白い。

ひとつだけ言っておくと、実験中の彼のアトリエは、ライラックの匂いが異様に強かったらしい。使っていた油のせいである。彼は不審がられないように、部屋にライラックの花を活けておいたという。細かい。細かすぎて笑ってしまう。

一枚の古画を潰す

1934年、彼は「ラザロの復活」という十七世紀オランダの凡庸な絵を買った。作者は無名に近い。買った目的はただひとつ、そのカンヴァスである。

彼はこの絵の表面を軽石と水で慎重に削り落とした。ただし完全には落とさない。三百年かけて絵具層と下地に生じた、あの独特の亀裂の網目を残しておく必要があったからだ。ここが彼の考えた勝負どころだった。

そして1936年、ベルリンで開かれたオリンピックを見物して帰ってきた彼は、この古い布の上に、六か月から七か月をかけて一枚の絵を描く。

構図はミラノのブレラ絵画館にあるカラヴァッジョの「エマオの晩餐」から借りた。復活したキリストがパンを裂き、それを見た弟子たちが「この人だ」と気づく瞬間。テーブルの上に散った光の粒。フェルメールの特徴として誰もが知っている、あの点描のような白いハイライトを、彼はパンの表面に丁寧に置いた。

『エマオの晩餐』、または『エマオの巡礼者たち』。縦118センチ、横130.5センチ。彼がその生涯で描いた、最良の一枚である。

皮肉なことに、それは彼自身の名前では一度も評価されなかった男の、最高傑作だった。

第三章――老大家が陥落する

モナコの別荘にて

絵ができても、そのままでは売れない。「無名の画家が自宅でフェルメールを発見しました」では誰も信じない。物語が要る。

彼は物語を作った。オランダのある旧家が代々秘蔵していた絵で、その一族は南フランスに移り住んでいる。マルフーケという名の婦人が持ち主で、事情があって手放したがっている。事情のほうはバージョンがいくつかあって、ファシスト当局に迫害されてアメリカへ逃げる資金が要る、という話も残っている。ついでに言うと、このマルフーケ夫人は実在しない。

そして彼は、この物語を信じ込ませる相手として、まったく潔白な人物を選んだ。ヘラルト・ボーンという弁護士である。ボーンは自由主義系の政党から国会議員も務めた人物で、オランダの女性参政権運動を勝利に導いた立役者のひとりであり、ナチス・ドイツを激烈に批判していた。要するに、誰がどう見ても後ろ暗いところのない紳士だ。

そんな人物が「知人の家族から預かった絵です」と言って持ってきたら、警戒心はごっそり削がれる。

1937年の夏から秋にかけて、ボーンはその絵を持って、モナコにいる老人を訪ねた。アブラハム・ブレディウス、当時83歳。オランダ美術史の最長老であり、フェルメール研究の到達点そのものと見なされていた人物である。

老人は絵を見て、絶句した。

彼は彼なりに調べている。アルコールを含ませて表面を試し、エックス線をかけ、顕微鏡も覗いた。当時の技術で「本物らしさ」を確認する手順は一通り踏んだ。そして署名した。本物である、と。

ここで押さえておきたいのは、ブレディウスが油断していたわけではない、ということだ。むしろ逆で、彼は自分がずっと「あるはずだ」と考えてきたものを、目の前で見せられたのである。フェルメールのイタリア体験、失われた宗教画の系列。自説の証拠が、生きているうちに、しかも最高の状態で出てきた。

こういうとき、人間の判断力はいちばん脆い。

バーリントン・マガジンの陶酔

1937年11月、ロンドンで出ている美術誌『バーリントン・マガジン』に、ブレディウスの短い論文が載る。当時の美術界にとって、この雑誌はほとんど聖典だった。

その文章は、学術論文というより恋文に近い。

「一人の美術愛好家の生涯にとって、これまで知られていなかった偉大な巨匠の絵に、突如として向かい合う瞬間ほどすばらしいものはない。手つかずで、オリジナルのカンヴァスのままで、修復のあともなく、まさに画家のアトリエを出たときのままの姿で。そしてなんという絵だろう。

あの美しい署名も、キリストが祝福しているパンの上の点描も、われわれがここに、あえて言えば、デルフトのヨハネス・フェルメールの傑作を手にしているのだと確信するためには必要ない。他のすべての作品とはまったく違い、しかも隅から隅までフェルメールである。

デルフトの偉大な巨匠の他のどの絵にも、これほどの情感、聖書の物語へのこれほど深い理解、最高の芸術という媒体を通して表現されたこれほど気高く人間的な感情は見あたらない」

読み返すたびに、この文章の温度に驚く。八十三歳の学者が、生涯の到達点として一枚の絵に出会った喜びが、そのまま活字になっている。そして彼が見ていたのは、四十七歳の落伍者が復讐のために南仏で焼き上げたカンヴァスだった。

残酷な話だ。だが、この残酷さこそがこの事件の核心でもある。ブレディウスは無能だったから騙されたのではない。彼が真剣で、誠実で、生涯をかけて追い求めていたからこそ、そこに落とし穴が掘れたのだ。

五十二万ギルダーの狂騒

論文が出た瞬間、絵の値段は跳ね上がった。

買いにいったのはロッテルダムのボイマンス美術館である。館長はディルク・ハンネマ。26歳で館長に就任した早熟の天才型で、1935年には新館を完成させ、開館記念展として「フェルメール、その源泉と影響」という展覧会まで打っている。フェルメールで名を上げてきた男だ。この絵を逃す選択肢は彼にはなかった。

言い値は52万ギルダー。当時としては目が飛び出る金額である。

ハンネマは金策に走った。レンブラント協会が5万ギルダーを約束し、船主のウィレム・ファン・デル・フォルムともう一人の資産家がそれぞれ2万5千を出す。それでも全然足りない。1937年12月24日、クリスマスイブに正式な契約が結ばれた。ファン・デル・フォルムが立て替えて購入し、美術館は八年かけて資金を集める、という内容だった。契約書に彼の名前は出てこない。「匿名を希望する銀行の顧客」とだけ書かれている。

残りの42万ギルダーの募金は、見事に失敗した。集まったのは1万4500ギルダー。しかもそのうち1万2千を出したのは、ほかならぬブレディウスである。自分が本物と認めた絵を、自分の金で買い支えようとしたわけだ。誠実といえば誠実だが、切ない。

1939年、ボイマンス美術館財団が設立され、ファン・デル・フォルムが立て替え分を全額棒引きにした。こうして『エマオの晩餐』は、財団が所有する最初の絵になった。

なお、ライクスミュージアムはこの絵を欲しがって、本物のフェルメール「恋文」との交換を提案したという話が残っている。ハンネマは断った。

1938年、ロッテルダムで「四世紀の名画、1400年から1800年」という大規模な展覧会が開かれる。ウィルヘルミナ女王の即位記念という位置づけで、四百五十点のオランダ絵画が並んだ。レンブラントもグリューネヴァルトもあった。それでも展覧会の精神的な中心と評されたのは、この一枚だった。

当時の記録に、こんな一節がある。「フェルメールの絵が架けられた、やや孤立した空間は、礼拝堂のように静かだった。この絵は儀式にも教会にも何のつながりも持たないのに、聖別されたような感覚が来場者にあふれ出る」。

七十年後、ボイマンス美術館の学芸員フリソ・ラメルツェはこう振り返っている。「人々はこの絵の前で、声もなく畏敬の念に打たれて立っていた」。

彼らが立ち尽くしていたのは、ベークライトで固めたカンヴァスの前だった。

第四章――味をしめた男の量産体制

ここで彼が筆を折っていれば、話はもっときれいだった。「批評家を一度だけ嘲笑って消えた男」で終わったはずだ。

実際、本人は後年、最初は暴露するつもりだったと語っている。ブレディウスを名指しで恥をかかせてやりたかった、と。

しかし52万ギルダーが手に入った。人間は52万ギルダーの前では意外と簡単に信念を曲げる。彼は暴露をやめ、量産を始めた。

以下、一枚ずつ見ていく。同じ人間が同じ手口で作ったにもかかわらず、この一連の絵は驚くほど質が違う。そして高いほうから安いほうへ、はっきり右肩下がりに落ちていく。それでも値段だけは上がり続けた。ここがこの事件のいちばん間抜けで、いちばん示唆的な部分だ。

『カード遊びをする人々』と『酒を飲む人のいる室内』

1938年の夏、彼はロクブリュヌを引き払ってニースに移り、ピーテル・デ・ホーホ風の風俗画を二枚描いた。フェルメールと同時代のデルフト派で、市場価格はフェルメールほどではないが十分に高い画家である。

一枚は「カード遊びをする人々のいる室内」。1939年、ウィレム・ファン・デル・フォルムに約22万ギルダーで売れた。もう一枚は「酒を飲む人のいる室内」。買ったのはダニエル・ヘオルフ・ファン・ベーニンゲンという大物実業家兼収集家で、こちらも同じくらいの値がついた。

デ・ホーホを混ぜたのは賢い。フェルメールばかり次々に出てくるのは不自然だが、同時代の別の画家も一緒に「発見」されるなら、市場全体が動いているように見える。実際この二枚は、後の鑑定委員会でもほぼ全員が贋作だと認めた、比較的分かりやすい部類だった。

『最後の晩餐』の一号と二号

彼はホファールト・フリンクという十七世紀の画家の絵を買い、その上に大作を描き始めた。十三人の人物が並ぶ「最後の晩餐」である。

これは無謀な挑戦だった。何しろモデルを雇えない。人を入れれば口が漏れる。十三人分のポーズと表情を、ほぼ想像だけで組み立てなければならなかった。追い詰められた彼は、途中でとんでもない手抜きをする。使徒ヨハネの顔に、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の顔をほぼそのまま流用したのだ。

戦争の足音が迫り、1939年9月に彼はオランダへ帰国する。この一号はニースに置いていかれた。

そして帰国後、彼はもう一度「最後の晩餐」を描く。こちらの二号は1940年から1942年にかけての制作で、ファン・ベーニンゲンが160万ギルダーで買った。当時としては世界で最も高価な絵画取引のひとつである。

面白いのは売り方だ。彼はまず「キリストの頭部」という小品を市場に流した。習作めいた、断片のような絵である。これを1940年から1941年にかけて、仲介人を通じてファン・ベーニンゲンに40万から47万5千ギルダーで売る。そのうえで、「実はあの頭部は、この大作のための習作なんです」と言って『最後の晩餐』を出した。

小さな断片を先に売って、買い手に「これの完成品があるはずだ」と思わせておいてから本体を出す。買い手はもう自分で物語を完成させてしまっているので、疑う気にならない。詐欺の教科書に載せたいくらいうまい。

『イサクの祝福』

1941年から1942年、旧約聖書の場面。年老いて目の見えなくなったイサクが、兄エサウと偽った弟ヤコブに祝福を与えてしまう場面である。

主題の選び方が皮肉すぎる。「目の見えない老人が、偽物をつかまされる話」だ。彼が意図的に選んだのだとしたら、性格が悪いにもほどがある。

ウィレム・ファン・デル・フォルムが127万ギルダーで買った。現在はボイマンス美術館にある。縦124.5センチ、横113.5センチ。ファン・デル・フォルム財団からの寄託という形で1972年に美術館に入り、いまは収蔵庫にしまわれている。

この絵については、後の鑑定でも「なぜこれが通ったのか説明がつかない」と言われた。それくらい出来が落ちる。裁判で、ある専門家がこう証言している。「これが自分を騙したというのは信じがたい。しかし我々は滑り落ちていったのです。エマオから、下へ、下へと」。

『キリストと姦通の女』

そして問題の一枚。1941年から1942年の制作。

彼はこの絵を、地元で小さな画廊を営んでいた画商のところに預けた。それを見つけたのが、アロイス・ミードルというドイツ人の銀行家兼美術商である。ミードルは占領下のオランダで、美術品の売買を通じてナチス上層部と深く結びついていた人物だ。彼がこの絵を買い、そしてゲーリングに渡した。

金額は165万ギルダー。ただし、この取引は現金だけではなかった。ゲーリングは手持ちの現金が足りず、不足分を、自分が押さえていたオランダ絵画で払った。その数、記録によって137点とも200点とも言われる。

つまり、一枚の贋作と引き換えに、オランダの絵が百枚以上戻ってきた。

この一点が、後にすべてをひっくり返す。売国奴が英雄になるための、たった一本の細い糸である。ただし本人が最初からそれを狙っていたという証拠は、どこにもない。

『キリストの足を洗う』

1941年から1943年。これはオランダ国家が買った。金額は125万から130万ギルダー。当時の国の文化財取得予算のかなりの部分をこれ一枚で使った計算になる。現在はライクスミュージアムの所蔵である。

つまり彼は、ナチスにも、大富豪にも、そして自分の国の政府にも、同じ手で売りつけた。誰も気づかなかった。

なぜ気づかなかったのか。ここで戦争が効いてくる。この時期、オランダの美術館の主要な収蔵品は、空襲対策として厳重な避難施設に移されていた。ライクスミュージアムの「夜警」ですら、専用の退避壕に入っていたくらいだ。つまり、本物のフェルメールと並べて比較することが物理的にできなかった。

しかも彼自身の腕は落ちていた。健康状態が悪化し、チェーンスモーカーで、大酒を飲み、モルヒネ入りの睡眠薬に依存するようになっていた。後年、彼は自分の後期の贋作について「ひどい手抜きだった」と回顧している。作品を見れば分かる。目が異様に大きく、眼窩が深く落ちくぼんだ、あの独特の顔。全員が同じ顔をしている。落ち着いて見れば十七世紀の絵に見えるはずがない。

だが誰も落ち着いて見なかった。

第五章――占領下オランダという狂った市場

ここで一度、絵の話を止めて、時代の話をする。この事件は占領下オランダの経済と切り離しては理解できない。

ザイス=インクヴァルトの国

1940年5月10日、ドイツ軍がオランダに侵攻した。5月14日にはロッテルダムが空襲で焼かれ、翌15日にオランダ軍は降伏する。以後五年間、オランダはナチス支配下に入った。

ただし、統治のやり方はポーランドやベルギーとは違った。ナチスはオランダ人を人種的に「同族」と見なしていたため、軍政ではなく民政を敷いた。長官はアーサー・ザイス=インクヴァルト。オーストリア併合のときに首相を務めた人物である。彼らはオランダを、いずれ帝国の一州として編入するつもりだった。だから徹底的に壊すのではなく、懐柔しつつ吸い上げる方針を取った。

美術の分野では、カエタン・ミュールマンという美術史家兼親衛隊将校が中心になった。彼はポーランドで組織的な美術品略奪を指揮したあと、1940年にハーグに呼ばれ、「ミュールマン機関」を立ち上げる。ユダヤ人や「帝国の敵」から没収した美術品を処理し、同時にナチス高官のための買い付け代行業もやる、という露骨な組織だった。

ハーグに本拠を置き、アムステルダム、ブリュッセル、ウィーン、パリ、ベルリンに支部を持った。

彼らが集めた絵の行き先は決まっていた。ヒトラーが故郷リンツに建てる予定だった巨大美術館。そしてゲーリングの私邸カリンハル。

なぜ絵が異常に高く売れたのか

ここからが重要だ。占領下のオランダでは、美術品の値段が異常なほど高騰した。理由は三つある。

第一に、ドイツ人の買い漁り。1941年4月1日、オランダとドイツのあいだの為替制限が撤廃され、ライヒスマルクとギルダーが自由に交換できるようになった。ドイツ側の高官たちは占領行政費という名目でオランダ経済から吸い上げた莫大な資金を持っていたから、実質的に「タダの金」で絵を買えた。ゲーリング本人が降伏から数週間でオランダの画商を訪ね歩いている。

第二に、オランダ人自身の防衛的な買い。戦時経済で雇用は完全に埋まったが、食料も衣料も配給制で、稼いだ金の使い道がない。しかも通貨がいつ紙くずになるか分からない。だから人々は、価値の残る現物に金を移した。1944年までに、市中に出回る通貨量は1939年の3.6倍に膨れ上がっていた。

第三に、闇商人。占領末期、とくに1944年から1945年にかけての「飢餓の冬」の時期、まともな市民は食べることで精一杯になっていた。西部オランダでは餓死者が出ている。一方、闇市で儲けた連中は使い道のない札束を抱えていた。しかも解放が近づけば、通貨改革が来て、その金の出所を説明させられる。だから彼らは、なりふり構わず絵に換えた。戦争の最後の数か月に価格が跳ね上がるのは、この層のせいである。

こういう市場では何が起きるか。当たり前だが、質の悪いものが高く売れる。売りに出る絵の質は戦争が進むにつれて明らかに落ちていったのに、価格だけは上がり続けた。新聞は美術品の売買広告で埋まり、画廊が雨後の筍のように開業して、ナチス系の文化院が輸出制限を出さざるをえないほどだった。

メーヘレンの後期の贋作が、あんな出来なのに次々と最高値で売れた背景はこれである。彼が特別にうまかったからではない。市場が壊れていたのだ。

ハウトスティッケル画廊で起きたこと

占領下の美術品取引がどれほど汚かったかを示す例として、ハウトスティッケル画廊の話をしておきたい。この事件そのものではないが、メーヘレンの絵が浮かんでいた水の色を知るには避けて通れない。

ヤック・ハウトスティッケルは、両大戦間期のオランダで最も影響力のあったオールドマスターの画商だった。ユダヤ系である。1940年5月14日、彼は妻と幼い息子を連れて船でオランダを脱出した。そして5月16日、船倉に転落して死亡する。四十二歳だった。

アムステルダムに残された画廊には、目録に記載されただけで1113点の絵があった。経営者は死に、代理人も直前に急死していて、店は宙に浮いた。そこへアロイス・ミードルが入り込む。そう、後に『姦通の女』をゲーリングに渡すあの男だ。

1940年7月13日、二本の契約が結ばれた。ミードルが画廊の商号と不動産などを55万ギルダーで取得し、ゲーリングが在庫の美術品を200万ギルダーで取得する。契約に立ち会った従業員二人には、それぞれ18万ギルダーの手数料が支払われた。アメリカにたどり着いていた未亡人デジレは、売却の同意を求められて拒否している。無視された。

「できるだけ正確な目録をすみやかに作成する」と契約書には書いてあったが、そんなものは一度も作られなかった。

戦後、この件の後始末に六十年以上かかった。連合軍がドイツ各地から回収した絵はオランダ国家に引き渡され、「オランダ美術財」として国有コレクションに組み込まれた。未亡人は1946年から返還交渉を始め、1952年8月1日にようやく一部について和解する。彼女は1996年に亡くなった。ようやく202点が遺族に返還されたのは2006年2月6日である。しかもいまだに終わっていない。

2025年にはアルゼンチンで、ナチスの資金担当者だった人物の子孫のもとから一点が見つかっている。

この話を書いたのは、後で出てくる「メーヘレンはナチスから絵を取り戻した英雄だ」という物語を、どういう文脈に置いて読むべきかをはっきりさせておきたいからだ。彼が取り戻したとされる百枚以上のオランダ絵画は、この汚水の中から出てきたものだった。

第六章――逮捕と、世界一奇妙な自白

1945年5月29日

1945年5月5日、オランダは解放された。5月7日、ドイツは西側連合国に降伏する。

そして5月17日、冒頭に書いたアルトアウスゼーの塩坑が開かれる。ハリー・アンダーソンという大尉が『キリストと姦通の女』を見つけた。ゲーリングのコレクションの中でも、彼が最も誇りにしていた一枚だった。カリンハルの大広間の中央には、メムリンクの聖母子二点とロホナーの聖母子、そしてこの絵が架かっていたという。

5月中に、仲介したミードルが連合軍に尋問される。彼はあっさり供述した。メーヘレンから買った、と。

5月29日、逮捕。ウェテリングスハンス刑務所に収監された。

世論はすさまじかった――というより、ほとんど私刑に近かった。この男は占領下で異様に贅沢な暮らしをしていた。カイゼルスフラハトの豪邸、ラーレンの別荘。後の調査では、彼は52軒の住宅と15軒の田舎家を所有していたことになっている。しかもナチス占領地域を自由に移動し、個展まで開いていた。彼が贋作で稼いだ金は総額550万から750万ギルダーと推定されている。

飢餓の冬を生き延びたばかりのオランダ人にとって、この経歴だけで十分すぎるほど有罪だった。そこへ「祖国の宝であるフェルメールを敵の元帥に売った」が加わる。新聞は容赦なく叩いた。

取り調べを担当したのは、ヨープ・ピラーというオランダ陸軍の中尉である。ユダヤ人で、戦時中は潜伏して生き延び、レジスタンスの工作員として活動していた人物だ。彼にとってこの容疑者は、憎むべき対象そのものだったはずだ。

六週間の沈黙と、決壊の瞬間

最初、メーヘレンはのらりくらりとかわしていた。イタリアの知人から預かった、あの絵はマルフーケ夫人のものだった、自分は仲介しただけだ。

彼は明らかに迷っていた。二つの道があった。

黙っていれば、国家反逆罪で最悪は死刑。だが自分の描いた絵は「フェルメールの真作」として国の宝であり続ける。

白状すれば、命は助かる公算が高い。だが自分が心血を注いだ絵は、すべて「贋作」という札をつけられてゴミ扱いになる。

尋常な葛藤ではない。名誉と命が完全に逆向きに置かれている。

決壊の瞬間については、いくつか伝えられている。ある記録では、取り調べの過程でゲーリングが代金の一部をオランダ絵画で払った話が出てきたとき、尋問官が「だとしても、彼は引き換えに貴重なフェルメールを手に入れたわけだ」と呟いた。その瞬間、彼の自制心が吹き飛んだという。

「馬鹿な。フェルメールなんかじゃない。なぜなら」

そして、こう言った。「ゲーリングの手にあるのは、あなたがたが思っているようなデルフトのフェルメールではない。ファン・メーヘレンだ。あの絵は私が描いた」。

6月12日、正式な自白。しかも彼はそこで止まらなかった。『姦通の女』だけではない。『エマオの晩餐』も自分だ。『最後の晩餐』も、『イサクの祝福』も、『キリストの足を洗う』も、『キリストの頭部』も。デ・ホーホとされている絵の何点かも自分だ。全部で八点、いや、もっとある。

誰も信じなかった

反応は、笑いだった。

当たり前である。死刑を免れるための苦し紛れの作り話としては、あまりに荒唐無稽だ。あのブレディウスが認め、ロッテルダムの美術館が52万ギルダーを払い、国じゅうが名画として拝んだ絵を、この落ちぶれた画家が描いたと言っている。無理がある。

連合軍の美術委員会は、部分的には彼の話に耳を貸したが、全部が贋作という主張は受け入れなかった。委員会は彼に、証明のために『姦通の女』の模写を描いてみせろと要求した。

彼は断った。理由がふるっている。「模写なら誰にでも描ける」。

そして逆提案をした。模写ではなく、フェルメール様式の完全に新しい作品を、一から描いてみせる、と。

驚くべき提案である。しかも、この提案は本質を突いていた。模写ができることは何も証明しない。彼が主張しているのは「フェルメールの新作を発明できる」ということなのだから、証明すべきはそちらだ。

彼は何か月も勾留された。アムステルダムのヘーレンフラハト458番地、軍司令部の建物である。ちなみにこの建物は、かつてハウトスティッケル画廊が入っていた場所だ。歴史の配置がいちいち出来すぎている。

一方、彼の証言に沿って家宅捜索が行われた。担当した捜査官はアムステルダムとラーレンで顔料の原料、フェノールとホルムアルデヒドの入った容器、筆とカンヴァスを押収した。そしてニースのヴィラでは、前に書いた「実験室」がほぼ当時のまま残っていた。完成した贋作四点、下描き、亀裂まで入れた白紙のカンヴァス。

彼が「エマオの木枠から切り取った」と主張した50センチほどの木片も、指示どおりの場所から出てきた。ただし、彼が「ラザロの復活から切り落とした」と言ったカンヴァスの切れ端は見つからなかった。そして、彼が絵を焼いたという大型のオーブンも、どこにもなかった。

この「見つからないもの」が、後に議論を長引かせることになる。

第七章――監視付きの部屋で描かれた最後のフェルメール

1945年7月から12月にかけて、前代未聞の実験が行われた。

オランダ政府が借り上げた部屋に、メーヘレンが入れられる。警官が張りつき、裁判所が指名した立会人が六人、そして記者が見守る中で、彼はイーゼルに向かった。

彼は条件を出した。アルコールとモルヒネを寄越せ、それがないと描けない、と。当局はそれを認めた。ここも普通ではない。要するに、証拠を作らせるために国が薬物を供給したわけである。

彼が描いたのは『博士たちの間のキリスト』、別名『神殿で教える若きキリスト』。少年のキリストが律法学者たちの中で語っている場面だ。またしても宗教画で、またしても「聖典の中の賢者たちが、若造にやり込められる」という主題である。この期に及んで嫌味を効かせてくるあたり、彼の性格がよく出ている。

完成した絵の出来は、正直に言って良くない。彼の贋作群の中でもかなり下のほうだ。登場人物が全員、あの特徴的な顔をしている。目玉が大きく、眼窩が落ちくぼみ、まぶたが重い。一人ならまだしも、画面上の全員がそうなのは相当に異様だ。1950年に、ある美術史家がこの一連の作品をこう評している。「洗いたてで櫛を入れたばかりの髪をした弟子たち、そして重たいまぶたを持つ両性具有的なキリストの顔。頭が異常に大きい。

こんなものは1860年より前に描かれたはずがない」。

だが、それでよかった。証明すべきは「うまいこと」ではなく「彼にこれが描ける」ことだったからだ。

しかも彼は、この絵を最後まで仕上げなかった。「古びさせる」工程をやらなかったのである。やる意味がなかった。1945年9月の時点で、彼にかけられる容疑は敵国幇助から偽造へと切り替わることが事実上決まっていた。

絵が完成したあと、彼はブラウカペルの要塞刑務所に移され、1946年の初めに釈放された。

裁判は当初1946年5月に予定されていたが、延期された。対象となる絵が多すぎて、鑑定に当たった専門家のあいだで意見がまとまらなかったのだ。デ・ホーホの風俗画についてはほぼ全員が贋作で一致した。しかし『エマオの晩餐』については、最後まで「あれは本物だ」と言い張る専門家がいた。

裁判はさらに一年以上ずれ込む。

第八章――1947年10月29日、第四法廷

被告人が主役の芝居

1947年10月29日の朝、メーヘレンはカイゼルスフラハト321番地の自宅から出てきた。

彼の装いは念入りだった。群青色のスーツ、青緑のシャツ、コバルトブルーのネクタイ。白くなった髪を高い額から後ろへなでつけ、口ひげを刈り込んで蝋で整えていた。どこから見ても審美家である。

待ち構えていた記者の群れと冗談を交わしながら、彼は運河沿いをゆっくり歩いた。ゆっくり歩いたのは演出だけではない。その夏に軽い心臓発作を起こし、狭心症で一か月入院していたのだ。すれ違った喫茶店のテラスから「幸運を、先生」と声がかかった。彼は首を横に振ったという。彼が望んでいたのは無罪ではなく、有罪判決だった。有罪判決こそが「あれは私が描いた」という証明になるからだ。

アムステルダム地方裁判所の第4法廷。傍聴席は身なりのいい男たちで埋まっていた。高い窓から光が細く差し込み、清潔な服と磨かれた木と葉巻の匂いが混じっていた。壇上に五人の判事が並び、その背後の羽目板には黄金時代の集団肖像画がかかっている。描かれた男たちが、法廷の光景をそのまま拡大して映しているようだった。

そして壁には、彼の贋作がずらりと架けられていた。文字どおり、被告人の個展である。

証拠として並べられた顔料のコレクションも、法廷に持ち込まれていた。

法廷でのやりとり

記録に残るやりとりは、ほとんど喜劇だ。

判事が尋ねる。「これらの贋作をすべて自分で描いたと、いまも認めますか」。

「はい、裁判長」

「しかも、それを非常に高い値段で売ったことも認めますね」

「ほかに方法がありませんでした。安く売れば、それこそ最初から偽物だと言っているようなものです」

法廷が沸いた。

「最初の贋作が受け入れられたあと、なぜ続けたのですか。あなたは主張を証明したのでしょう。なぜやめなかった」

「あの過程そのものに引きずり込まれたのです。すべてが美しかった。自分が自分の主人でなくなった。以前の意志は失われ、あの状況の途方もない美しさの前で無力になりました。続けるほかなかったのです」

「なるほど。しかし、なかなかの儲けにもなった」

これは冗談として、悪意なく言われた。彼は最後の部分を無視して答えた。

「やらねばならなかったのです、裁判長。私は過去に批評家たちからさんざん貶められ、自分の作品を展示することすらできなくなった。絵のことなど何も知らない連中に、組織的に、悪意をもって破壊されたのです」

「金銭的な動機はまったくなかったと」

「後期の作品で得た数百万は、すでに得ていた数百万に足されただけです。金のためではありません。金は私に厄介と不幸しかもたらさなかった」

彼は続けた。「美しいもの、芸術としてのものを作りたかっただけです。続けたのは贋作を作りたかったからではなく、自分が開発した技法を最大限に活かしたかったからです。あの技法は優れたものです。これからも使い続けるつもりです。ただし二度と作品を古びさせないし、二度と巨匠の名前で世に出しません」

彼の言い分をどこまで信じるかは各自の判断に委ねるとして、話術としては一級品である。

証言その一――ある専門家の告白

裁判のいちばん重い場面は、被害者側にいた鑑定家たちの証言だった。

ある専門家はこう述べている。「私は騙されました。『キリストの頭部』を見たとき、あまりにも強く『エマオ』を思い出させたので、そのまま信じてしまったのです」。

判事が問う。「あの一枚のあとに次々とフェルメールが発見されるのを、おかしいとは思わなかったのですか」。

「思いませんでした。歴史家たちは、もっとフェルメールがあるはずだと一致して考えていました。『エマオ』がその種のただ一点であるはずがない、と」

さらに問われる。「では、『イサクの祝福』のような、あきらかに異質な絵をどうやって受け入れたのですか」。

答えはこうだった。「そう、それは説明が難しい。あれに騙されたというのは信じがたいことです。しかし我々は滑り落ちていったのです。エマオから、下へ」。

この「滑り落ちた」という言葉が、この事件の鑑定学的な核心をひとことで表している。最初の一枚が基準になってしまえば、次はその基準に照らして判定される。基準そのものが偽物であることは、もう疑われない。

証言その二――画商ホーヘンダイクの述懐

もうひとつ、忘れがたい証言がある。アムステルダムの信頼されていた画商で、贋作のうち二点の売買に関わったホーヘンダイクという人物のものだ。

彼は法廷を見回して、こう言った。「いまこうして、この法廷に並べられた絵を全部いっぺんに見ていると、どうしてこれをフェルメールだと信じられたのか、自分でも分からない。戦争の緊張が、私の判断力を鈍らせていたに違いない」。

悲しい証言だが、これは同時にきわめて重要な指摘でもある。一枚ずつ、時間をあけて、期待に満ちた状況で見せられれば通ってしまうものが、全部並べて見た瞬間に崩壊する。贋作を見抜くのに必要なのは、しばしば知識ではなく比較なのだ。

戦時中、本物のフェルメールが全部倉庫にしまわれていたことが、いかに致命的だったかがよく分かる。

証言その三――ゲーリングの顔

そしてこの事件で最も語り継がれている反応は、法廷の外にある。

ヘルマン・ゲーリングは1946年3月13日、ニュルンベルクの法廷の証人席に座っていた。灰色の軍服に黄色のブーツ姿だったという。もはや美術どころではない。彼はその獄中で、自分がカリンハルの中央に据えて誇っていた「フェルメール」が、オランダの中年男の描いた贋作だったと知らされる。

同時代の記録は、そのときの彼の様子をこう伝えている。

「彼は、生まれて初めてこの世に悪というものが存在すると知ったような顔をしていた」

ヨーロッパ中から美術品を略奪し、絶滅政策の中枢にいた男が、自分が騙されたことに世界の悪を見出す。これほど強烈な皮肉はそうそうない。だからこそ、このエピソードは繰り返し語られてきた。

ただし、正確を期すために付け加えておくと、近年の研究者の中には、ゲーリングはついに自分の絵が贋作だと知らないまま死んだのではないか、と見る者もいる。この逸話自体が、後から作られた完璧すぎる小話である可能性は否定できない。

判決

検察官は偽造および詐欺で起訴し、懲役2年を求刑した。もともとの敵国幇助の容疑は取り下げられていた。理由が味わい深い。専門家委員会が「ゲーリングに売られた絵は贋作である」と結論した以上、それはオランダの文化財ではなかったからだ。存在しない国宝を売ることはできない。

なお、この裁判では『姦通の女』そのものはあまり議論されなかった。ゲーリングは前年に自殺し、売買に関わったミードルたちは逃亡していた。『エマオ』の取引はすでに時効になっていた。

1947年11月12日、アムステルダム地方裁判所第四部は、偽造および詐欺で有罪、禁錮1年の判決を下した。裁判官が出しうる最大限の温情である。判決を出した裁判官は、さらに女王への恩赦の請願まで行っていたと伝えられる。

判決後、彼は記者にこう語った。

「たった1年か。2年がこの種の犯罪の最高刑だ。知っているんだ。この件を始める12年前に法律を調べたからね。だが、ひとつだけ確かなことがある。もし私が獄中で死ねば、みんなこの話を忘れてしまう。そうすれば私の絵は、また本物のフェルメールに戻る。私はあれを金のためではなく、芸術のために描いたのだ」

彼は自分の絵の行方も気にしていた。買った者たち、つまりオランダ政府を含む被害者に返還されると聞いて、彼は安堵の息をついたという。裁判所が絵の廃棄を命じる可能性もあったからだ。それは彼から、美術史における自分の席を奪うことを意味した。

そして刑期は一日も務められなかった。控訴期限の最終日にあたる1947年11月29日以降、彼の体はもう限界だった。長年のアルコールとモルヒネが心臓を壊していた。12月30日、アムステルダムで心臓発作により死亡。58歳。

彼は最後にこう言い残している。「贋作者としての私の勝利は、創造する芸術家としての私の敗北だった」。

たぶん、この一行が彼の全生涯でいちばん正直な言葉だ。

第九章――英雄神話はどうやって作られたか

世論調査で第二位

1947年10月、オランダで行われた世論調査で、ハン・ファン・メーヘレンは国内で二番目に人気のある人物になった。一位は当時の首相。三位は、ユリアナ王女の夫であるベルンハルト殿下だった。

わずか二年半前、彼は売国奴として吊るし上げられていた男である。

何が起きたのか。

まず、物語が良すぎた。小男が大男を騙す話は、いつだって受ける。しかもその大男はゲーリングである。占領下で五年間踏みつけられ、飢餓の冬で親族を失った国民にとって、「ナチスのナンバー2が偽物をつかまされて大金と絵を巻き上げられた」という話は、値段のつけようがないほど痛快だった。

戦後のアムステルダムは、ある論者の表現を借りれば「カーニバルを渇望していた」。ある雑誌はこう書いている。彼がナチスに与えた屈辱は「かけがえもなく愉快なので、古い恨みで台無しにするには惜しい」。

第二に、専門家が嫌われていた。これは大きい。ある美術史家は1950年にこう書いている。「あらゆる愉快な見世物の中でも最上級のもの、すなわち専門家が間抜けとして暴かれる場面を、我々はめったに目にすることができない。1945年に、認められたフェルメールの傑作の数々が、実は酔いどれの小男の作品だったという知らせが流れたとき、大衆は狂喜した。

技術的な細部の話で長年けむに巻いてきた専門家という部族に対して、彼らは意地の悪い喜びをもって復讐したのだ」。

要するに、メーヘレンは大衆の代理人になったのである。彼が笑わせた相手は、大衆が日ごろ「偉そうにしている」と感じていた連中だった。

第三に、彼の演出が抜群にうまかった。彼は取り調べの初期段階から、自分を「認められなかった芸術家」「批評家に潰された男」「そしてナチスをはめた愛国者」として売り込んだ。とくに三つ目が効いた。彼は「オランダの略奪された絵を200点取り戻すために、あえて偽物をゲーリングに掴ませた」という筋書きを提示した。

これは後付けの物語である。当時の彼にそんな計画があった証拠はない。取引の実態は、画商を通して高値で売れたというだけの話だ。それでも、この物語はあまりに魅力的だった。だから受け入れられた。

裁判は彼にとって舞台だった。記者が彼を「天才」と書いたとき、彼は本当に嬉しそうだったという。ある研究者はこう総括している。「明らかに、その日は贋作の巨匠のものだった」。

彼の名声は実利にもなった。彼の署名入りの新作の値段は跳ね上がり、一枚あたり数万ドルで「十七世紀様式で」描いてくれというマンハッタンの画廊からの誘いまで来た。

ヒトラーに贈られた画集

だが、この英雄物語には、ずっと前から穴が空いていた。

1945年7月11日、レジスタンス系の新聞に、ヤン・スピールダイクという若い記者の記事が載った。ベルリンの旧総統官邸を訪ねた報告記事で、その脇に小さな囲みがついていた。ヒトラーの蔵書の中から、オランダ人画家の画集が見つかったという内容である。

その画集は『ハン・ファン・メーヘレン 素描集第一巻』。1942年に彼が出した豪華本で、詩が添えられている。詩の多くを書いたのは、マルティン・ベーフェルスライスというオランダのナチス系詩人だった。

そして扉には、木炭で書かれた献辞があった。

「敬愛せる総統に、感謝の念をこめて捧ぐ。ハン・ファン・メーヘレン」

タイミングが恐ろしい。この記事が出たのは、彼が当局に贋作を自白した後、しかしその事実が公にされる前だった。すべてはまだ極秘扱いだった。

そして取り調べを担当していたピラー中尉は、この時点ですでに彼の物語に相当引き込まれていた。誤解された芸術家、批評家への復讐、ゲーリングを騙した男。ユダヤ人でレジスタンス出身の彼にとって、その話は抗いがたく魅力的だったのだろう。彼は上層部に対して、容疑者の主張を支持していた。

そこへ「ヒトラーへの献辞」が出てきた。ピラーには戦後の職がかかっていた。間抜けだったと思われるわけにはいかない。結果として、彼はますますメーヘレンの側に立った。

メーヘレンの弁明はこうだ。自分はたくさんの本に署名した。しかしあの献辞は自分が書いたものではなく、おそらくドイツ人将校が後から書き加えたものだろう。

最初の記事には写真がついていなかったから、この弁明はかろうじて成立した。そして数か月が過ぎた。その数か月のあいだに、贋作事件は国民的な笑い話として定着してしまった。

やがてスピールダイクは、献辞の実物の写真を手に入れた。新聞の一面に載せた。オランダ政府が筆跡鑑定を依頼した結果、すべて同じ手で、一気に書かれたものだと判定された。彼の筆跡だった。

だが、もう誰も気にしなかった。狡猾なトリックスターという像があまりに強固に固まっていて、写真は世論をびくとも動かさなかった。そして時が経つと、その写真が存在したことすら忘れられた。

これは重要な事実である。彼の贋作でいちばん成功したのは、絵ではなく、彼自身だった。

反証と論争――ロペスの告発

1970年代、マレイケ・ファン・デン・ブラントホフという研究者がオランダの国立公文書館を丹念に洗い、彼の戦時中の対独協力を示す文書を初めてまとまった形で提示した。1979年に出た彼女の著作は、この事件の見方を根本から変える出発点になった。

そして2008年から2009年にかけて、ジョナサン・ロペスというアメリカの美術ジャーナリストが『フェルメールを作った男』という評伝を出す。四か国の一次資料と五つの言語を渉猟したこの本は、英雄神話をほぼ完全に解体した。

ロペスの主張はおおむねこうだ。メーヘレンは、遅れて贋作に手を染めた悲劇の芸術家ではない。1920年代から一貫して、贋作を作り、流通させ、儲け続けた職業的な犯罪者だった。1923年のハルスの件は序の口で、その後も国際的な非合法取引網の中で重要な役割を果たしていた。

アメリカの大富豪アンドリュー・メロンのコレクションにも彼の贋作が入り込み、そのうちの二点はナショナル・ギャラリーに寄贈されたと彼は書いている。

思想の面でも、ロペスの描写は容赦がない。1928年からハーグで、彼は『デ・ケンプハーン』という反動的な美術雑誌を出していた。資金は初期の贋作の稼ぎである。誌上で彼は、近代絵画を「芸術ボルシェヴィズム」と呼び、その支持者たちを口汚く罵り、国際美術市場を象徴するものとして侮蔑的な人物像を持ち出した。フィンセント・ファン・ゴッホを名指しでこき下ろしてもいる。

彼はナチ党に正式入党こそしなかったが、ナチス系の芸術団体に加わり、ナチスの大義に多額の寄付をし、占領政府の芸術宣伝部門の責任者だったエド・ヘルデスの信頼を得て公式の仕事を受注した。彼の作品は、ナチス寄りのオランダ人芸術家を紹介するためにドイツで開かれた展覧会に出品された。あるときは、出品作をヒトラーに献呈している。

そしてロペスは、後期のフェルメール贋作そのものを、ナチス的な美意識の産物として読む。血と土と信仰の民族精神を称揚する当時の宣伝美術と並べれば、あの奇妙な顔立ちと重い象徴性がどこから来ているかが分かる、という議論である。占領下のヨーロッパに住んでいれば、これは十分に「もっともらしいフェルメール像」だった。しかし今日では参照先を失って、ただ奇妙な絵として宙に浮いている。

もちろん、この評価に反論がないわけではない。オランダの美術史家アルバート・ブランケルトは、この事件をめぐる文献の多くが「矛盾しているか、伝聞に基づくか、文書証拠に照らせば反証できるもの」だと指摘し、実際に一次資料の再検証を進めた。1996年の共同研究では、それまで定説だった細部がいくつも修正されている。

要するに、英雄神話を解体するのはいいが、その解体版もまた別の物語である可能性には注意しておいたほうがいい、ということだ。

ちなみに、彼の名誉のために一点だけ書いておくと、ロペスも「病的な反ユダヤ主義者ではなかった」と述べている。彼のナチスへの傾倒は、思想というより自己愛の問題だった、と。歴史の外側に立って世界を自分の意志で曲げる超人でありたい。贋作者にとって、これは実に強力な誘惑である。

第十章――科学が引導を渡すまで

さて、技術の話に戻ろう。この事件が今日まで教科書に載り続けているのは、それが美術鑑定の歴史における分水嶺だからだ。ここでは「彼がどう作ったか」ではなく、「後の科学が何を見つけたか」という順序で書く。そのほうが正確だし、鑑定という営みの手触りがよく分かる。

コレマンスの委員会が見つけたもの

裁判所は、押収された絵の真贋を判定するために国際的な専門家委員会を組織した。オランダ、ベルギー、イギリスから学芸員、大学教授、博士が集められ、委員長はベルギー王立美術館の化学研究所長ポール・コレマンスが務めた。実務は彼と、オランダ司法省の化学者ヴィーボ・フルンチェス、そして修復家のマルティン・デ・ウィルトが担った。

彼らは八点を調べた。その報告は1949年に『ファン・メーヘレンの贋作フェルメールとデ・ホーホ 科学的検証』として刊行される。この本は、いまでも美術品鑑識の古典として読まれている。

彼らが見つけたものを並べてみる。

まず、絵具の中からフェノールホルムアルデヒド系の合成樹脂が検出された。ベークライトとアルベルトールである。どちらも二十世紀に発明された工業用樹脂で、十七世紀のオランダに存在するはずがない。しかも同じ組成の材料の瓶が、彼のアトリエから押収されていた。この一点だけで議論は終わりのはずだった。

次に、絵具の異常な硬さ。アルコールでも、強い酸でも、強い塩基でも、表面が侵されなかった。これは通常の油絵具が三百年かけて自然に硬化した状態ではありえない。自然にできた表面ではないことの明確な指標である。

そして亀裂の問題。ここがいちばん美しい。

古い絵の亀裂には、長い年月をかけて埃や汚れが少しずつ入り込む。したがって、汚れの入り方には偏りが出る。上向きの面には溜まり、届かない部分には入らない。ところが、この絵の亀裂に詰まっていた黒い物質は、あまりに均質だった。しかも本来なら自然の汚れが絶対に到達しないような場所にまで、きれいに行き渡っていた。分析すると、それはインディアンインクだった。

さらに、亀裂の位置が合わなかった。エックス線写真を撮ると、絵の表面に見える亀裂の網目と、下地層に走っている亀裂の網目が一致しない箇所がある。本物の古画なら、亀裂は下地から表面まで一本の裂け目として貫通しているので、両者は必ず対応する。表面の亀裂だけが後から入れられたものだと、この不一致が出る。

エックス線はもうひとつ決定的なものを見せた。絵具層の下に、削り取られた古い絵の痕跡が残っていたのである。とくに鉛白は放射線をよく止めるので、こそげ落とした古い絵の白い部分がゴーストのように写り込む。何を消して何を描いたかが、そのまま記録されていた。

そして顔料。彼は当時の材料しか使わないつもりだったが、完璧ではなかった。使ったウルトラマリンには、コバルトブルーの痕跡が混じっていた。安価な近代の合成顔料である。おそらく市販の絵具を混ぜたか、道具の洗浄が甘かったのだろう。

最後に、エックス線写真の読み方そのものの話がある。委員会は、本物のフェルメールのエックス線像と比較した。たとえば「真珠の耳飾りの少女」の顔のエックス線像は、明部と暗部のコントラストが独特のやわらかさを持つ。同じ大きさの顔を持つ疑わしい絵のエックス線像は、それとまるで違っていた。絵具の置き方そのものが違うのだから当然である。目には似せられても、鉛の分布までは似せられない。

要するに、彼は当時の技術水準に対しては勝った。だが、彼が対策していない次の世代の技術には、まったく歯が立たなかった。

ドゥクーンの抵抗と、ブリュッセルの法廷

しかし話はここで終わらなかった。信じない人々がいたのである。

ブリュッセルの美術専門家で修復家のジャン・ドゥクーンは、1951年に本を出し、『エマオの晩餐』と『最後の晩餐』の二点は本物のフェルメールだと主張した。彼の説はこうだ。メーヘレンは素人の画商としてこの二点の本物を掘り出し、それを売って成功したことに味をしめて、その後の粗悪な贋作を量産した。つまり本物を手本にして偽物を作ったのだ、と。

彼は他の作品については贋作と認めていた。『姦通の女』も『キリストの足を洗う』も『イサクの祝福』も、誇大妄想にとりつかれた二流画家の粗雑な模倣だと切り捨てている。だが、あの二点だけは違う、と。

しかも彼は、この結論を出したとき、疑わしい絵を一枚も直接見ていなかった。ボイマンス美術館の展覧会にも行っていない。それでも彼は書いた。「私が見たどの贋作フェルメールも、『エマオの弟子たち』とは比べものにならない。もしメーヘレンがあれの作者であるなら、私は彼に敬意を表する。それは絵画史上、他に例のない事例になるだろう」。

ここに、この事件の本当の難しさが出ている。ドゥクーンが言っていることは、実は的外れではない。あの一枚は、他のすべてより明らかに出来がいい。同じ人間の手で、これほど質の落差が出るものだろうか。彼はその違和感を、化学のデータよりも優先した。

利害の絡んだ人々もいた。『最後の晩餐』二号、『酒を飲む人のいる室内』、『キリストの頭部』を買っていたダニエル・ヘオルフ・ファン・ベーニンゲンである。彼はコレマンスに対し、鑑定が誤っていたと公に認めるよう要求した。コレマンスは拒否した。

そこでファン・ベーニンゲンは訴訟を起こす。誤った鑑定によって自分の「フェルメール」の価値が毀損されたとして、巨額の賠償を求めた。ドゥクーンは原告側の専門家として法廷に立ち、美術史の見地からコレマンスの鑑定の問題点を突いていった。

ブリュッセルでの一審はコレマンスが勝った。裁判所はメーヘレン裁判と同じ論理を採った。

二審は原告の死で遅れた。ファン・ベーニンゲンは1955年5月29日に亡くなり、1958年に相続人たちが訴訟を引き継ぐ。

そしてこの二審で、コレマンスは決定的な札を切った。彼は一枚の写真を法廷に出した。アブラハム・ホンディウスという十七世紀の画家に帰属される「狩猟図」の写真である。そして、問題の『最後の晩餐』のエックス線写真を並べた。絵具層の下から浮かび上がった図像は、その狩猟図とまったく同じ場面だった。

さらに彼は証人を連れてきた。その証人は、メーヘレンが1940年にその狩猟図を買ったことを証言した。

裁判所はコレマンスを支持した。委員会の結論は、法的にも確定した。

1967年、白鉛が喋る

それでも学術的な疑義は完全には消えなかった。決着をつけたのは、まったく別の分野の技術である。

1960年代、アメリカのカーネギー・メロン大学およびピッツバーグの研究機関にいたバーナード・カイシュらが、放射性同位体を使って白鉛を年代測定する方法を開発した。1967年に『サイエンス』誌に第一報が出て、1968年に改良版が発表されている。

原理はこうだ。絵具に使われる鉛白は、鉛鉱石から精錬した金属鉛から作られる。鉱石の中では、ウラン238の崩壊系列にあるラジウム226と鉛210が放射平衡の状態にある。ところが精錬の工程で、ラジウムの九割から九割五分が鉱滓として除かれてしまう。鉛210のほうは金属鉛と一緒に残る。

こうして平衡が崩れる。鉛210は半減期およそ22年で減っていくが、それを補充してくれるラジウムはもうほとんどない。だから精錬直後は鉛210がラジウムに対して過剰にあり、時間が経つにつれてその過剰分が減り、やがて再び平衡に近づく。

つまり、鉛210とラジウム226の比を測れば、その鉛白が「いつ精錬された鉛から作られたか」が分かる。数十年単位の分解能で、しかも絵の様式とも作者の主張ともまったく無関係に。

カイシュは『エマオの晩餐』から微量の鉛白を採取して測定した。得られた比は、平衡状態からはるかに遠かった。三百年前の鉛白なら、両者はほぼ釣り合っているはずである。実際に得られた値は、二十世紀に精錬された鉛白の値だった。

同じ手法は他の疑わしい絵にも適用された。『キリストの足を洗う』、『楽譜を読む女』、『音楽を演奏する女』。いずれも近代の鉛白である。

そして、この方法の信頼性を裏づける結果も同時に出た。当時「あれも贋作ではないか」と一部で疑われていた『レースを編む女』と『士官と笑う娘』を測ったところ、こちらは鉛210とラジウム226がほぼ平衡していた。十九世紀や二十世紀の絵で、こんな平衡状態が観測された例はない。つまりこの二点は本物である。

この結果が持つ意味は大きい。同じ検査が、贋作を贋作と言い、本物を本物と言った。目の代わりではなく、目が届かないところを見る道具として機能したのだ。

1977年にも追加の調査が行われ、議論は事実上終わった。

『エマオの晩餐』の前で声もなく立ち尽くした人々の感動は本物だった。だが絵のほうは、鉛の原子核の数え方ひとつで、あっけなく素性を吐いた。

第十一章――なぜ専門家は全員だまされたのか

ここまでの話をふまえて、いちばん肝心な問いに答えたい。なぜ、一人残らず騙されたのか。

無能だったから、では説明がつかない。ブレディウスもデ・フロートもハンネマも、当時のヨーロッパで最高水準の目を持っていた人々だ。ロペスも指摘しているように、「メーヘレンに騙された連中は馬鹿だった」という前提でこの話を楽しむのは、いちばん的外れな読み方である。彼が騙したのは、非常に、非常に重要な人々だった。

理由を分解してみる。

第一に、彼は絵ではなく仮説を売った。これが根本的なところだ。専門家は自分の説を支える証拠を欲しがる。しかも、その説が長く支持を集めているほど、証拠が出てきたときの納得は深い。フェルメールのイタリア体験、失われた宗教画、初期と円熟期をつなぐ空白。彼はその穴の形を測って、ぴったり合う栓を作った。学者たちは「知らないものを見せられた」のではなく、「知っているはずのものを、ついに見た」のである。

この二つは心理的にまるで違う。

裁判の場で、鑑定人たちは実に率直にそれを認めた。証言はこう要約される。「あなたの贋作は、我々がずっと見つけたいと願っていたものを与えてくれた。あなたは我々の知識の穴を埋める栓を用意した。それは二つの重要な時期のあいだの、まったく情報のない空白を橋渡しするように、周到に計画され実行されていた。

加えて我々の一部にとって、あなたの作品は、生涯に一度は真の傑作を発見したいという個人的で秘めた野心を満たすものだった。あなたは我々の欲望を調べ上げ、罠を仕掛けた。すぐに飛び込んだ者も、ためらった者もいたが、結局全員が入り、全員が捕まった」。

そして彼らはこう続けた。「我々を破滅させたのは、我々自身の勤勉と熱意だったのです。真理と美しいものへの渇望が、我々の目を塞ぎ、我々を裏切った」。

自己弁護が混じっているのは確かだが、分析としては正しい。

第二に、比較対象がなかった。これは戦争と、そして贋作の主題選択の両方が効いている。彼が室内画を選ばなかったのは、比較を避けるためだ。そして戦時中は本物が全部退避壕の中にあった。二重の意味で、並べて見ることができなかった。

法廷でホーヘンダイクが漏らしたとおり、全部並べた瞬間に判定は一瞬で終わった。鑑定において比較がどれほど強力な道具かということである。

第三に、権威の連鎖。最初の一枚をブレディウスが認めた瞬間、それは新しい「本物のフェルメール」になった。以後、次の絵は本物のフェルメールと比較して判定される。だがその「本物」は彼の絵なのだから、彼の癖に似ているものほど本物らしく見える。基準そのものが汚染されると、検査を厳密にやればやるほど間違いに近づく。

「エマオから、下へ滑り落ちた」という証言は、まさにこの構造を指している。

第四に、当時の科学が弱かった。1930年代の標準的な真贋テストは、アルコールを含ませた綿で表面を拭くという素朴なものだった。近代の油絵具は溶ける、古い絵具は溶けない。彼はここを樹脂で潰した。エックス線もあったし、鉛白の分析も顕微分光もあった。ブレディウスはそれらを一通り試している。しかしそれらの技術は、当時「本物らしさの確認」に使われる道具であって、疑いを検出する装置としては未成熟だった。

第五に、金と組織の力学。52万ギルダーを払った美術館は、その絵が本物であることに強烈な利害を持つ。鑑定書を書いた学者は、自分の判断が正しいことに職業生命を賭けている。デ・フロートが化学に噛みつき続けたのも、ハンネマが死ぬまで「あれはフェルメールだ」と言い張ったのも、単なる強情ではない。撤回のコストが法外に高すぎたのだ。

ハンネマの後半生は、その意味で痛ましい。彼は占領期の行動を理由に八か月拘留され、館長職を追われた。それでも彼は生涯、『エマオの晩餐』を本物だと言い続け、あろうことか自分の収集品のうち六点をさらにフェルメールに帰属させた。ただし最後にひとつだけ、ささやかな救いがある。

彼が1975年に買い、周囲の嘲笑を浴びながら「これはファン・ゴッホだ」と主張し続けた一枚の風車の絵は、彼の死から四半世紀後、本物のファン・ゴッホとして認定された。目が完全に死んでいたわけではなかったのである。

第六に、そもそも鑑定という営みが、絵そのものより「絵をめぐる物語」に依存していた。旧家の秘蔵品、南フランスへ移った一族、事情のある婦人、清廉な弁護士。これらはどれも絵の中には存在しない。だが、鑑定の判断には確実に影響した。今日のプロヴナンス調査が異常なほど厳密になったのは、まさにこの事件の教訓である。

まとめると、彼は絵の技術ではなく、鑑定という制度そのものの構造的な弱点を突いた。だから当時の最高の目でも防げなかった。防ぐには、目とは別の原理を持ち込むしかなかった。それが化学であり、放射性同位体だった。

第十二章――贋作は芸術に何を突きつけたのか

さて、いちばん厄介な話をする。

『エマオの晩餐』は、1938年に人々を礼拝堂の静けさの中で立ち尽くさせた。ボイマンス美術館の学芸員の言葉を借りれば「声もなく畏敬の念に打たれて」いた。その感動は本物だった。誰も演技をしていない。

そして1945年、その絵は一枚の紙も一筆の絵具も変わらないまま、ゴミになった。

絵は変わっていない。変わったのは――たった一点、「誰が描いたか」という情報だけだ。ではあの感動は何だったのか。

この問いは、事件の直後から美術界を刺し続けた。1965年、哲学者アルフレッド・レッシングが「贋作の何がいけないのか」という論文を書き、まさにこの事件を主題に議論を立てた。彼の結論は、贋作であることは作品の美的価値そのものを変えない、しかしそれは独創性を欠くという点で芸術的な誠実さを持たない、というものだった。

二十世紀に描かれた十七世紀様式の絵は、その歴史的文脈において何も新しいものを提示していない。だから駄目なのだ、と。

三年後の1968年、ネルソン・グッドマンがこれに強力な一撃を加えた。彼が持ち出したのは、こういう状況である。目の前に本物と贋作が並んでいる。あなたには見た目の違いがまったく分からない。しかし研究所の検査で、どちらが偽物かは知らされている。

グッドマンは言う。この場合でも、二枚のあいだには、いま、あなたにとって美的な違いが存在する。なぜなら、その知識はあなたの見方を変えるからだ。あなたはより注意深く見るようになり、いまは見分けられない差異を見分けようとする。つまり、いまこの瞬間の観察が「知覚を訓練する行為」になる。

グッドマンは、贋作が本物より美的に劣るとは主張していない。むしろ、知られた贋作には利点すらある。それは我々の目を鍛えるからだ。

一方で、発覚しない贋作の害は深刻だ、という議論もある。メーヘレンの絵が本物として通っていた期間、人々は彼の癖をフェルメールの特徴として学習していた。彼はフェルメールもハルスもデ・ホーホも偽造したから、この三人のあいだに実在しない共通の様式的特徴が観測されるという奇怪な状況すら生じていた。

しかも彼の絵に含まれる1930年代的な要素、たとえばあの落ちくぼんだ大きな目は、当時の写真的な美意識に合致していたから、専門家の評価をむしろ押し上げた。1930年代の趣味がフェルメールの権威を借り、フェルメールの権威が1930年代の趣味を正当化する。認識の回路が汚染されていたのだ。

事件は、実務の側にも数字で跡を残した。この事件を境に、フェルメールの真作とされる作品数は大幅に整理された。カタログの見直しが進み、疑わしいものは容赦なく外された。現在、フェルメールの真作は35点前後とされている。

そして今日、いちばん素朴で、いちばん答えにくい問いはこれである。

同じ絵が、フェルメール作と言われているときには数億円で、メーヘレン作となった瞬間にほとんど値がつかなくなる。この差額はいったい何に対して払われているのか。

技術に対してでないことは明らかだ。絵は同じなのだから。ではブランドか。歴史的希少性か。あるいは、その絵が三百年前の一人の人間の手から出てきたという「出来事」そのものに、我々は金を払っているのか。

おそらく最後のものが正解に近い。我々は物体を見ているのではなく、物体を通して歴史に触れようとしている。だから来歴が偽物だと分かった瞬間、触れていたはずの相手がいなくなる。

メーヘレンはそれを、生涯かけて証明した。証明したかったのかどうかは別として。

第十三章――なぜ、いまも語られ続けるのか

この事件が八十年近く語り継がれている理由は、いくつも重なっている。

まず単純に、話の構造が完璧すぎる。復讐、詐術、戦争、ナチス、逮捕、死刑の脅し、法廷での実演、どんでん返し、英雄化、そして科学による決着。フィクションで書いたら「都合が良すぎる」と編集者に突き返される展開が、全部実際に起きた。2019年には俳優が彼を演じる映画も作られた。誰かが必ず映画にしたくなるのは当然である。

次に、この話が「専門家が間抜けを晒す」という、人類が大好きな見世物を含んでいるから。これは1950年に美術史家が書いたとおりだ。しかもその快感は、いまもまったく色褪せていない。むしろ専門知への不信が高まった現代のほうが、この話は刺さる。

三つ目に、この事件が「本物とは何か」という問いを、これ以上ないほど純粋な形で提示しているから。哲学の教科書に載り、微分方程式の教科書にも載り、物理の問題集にも載っている。鉛210の崩壊を使ってこの絵の年代を推定せよ、という問題は、いまも世界中の大学一年生を悩ませている。ひとつの詐欺事件が、美学と法学と分析化学と原子物理学の交差点に立っているというのは、なかなかない。

四つ目に、この物語には二重の贋作があるから。彼は絵を偽造した。そして自分自身も偽造した。ヒトラーに献辞を書いた男が、国民的英雄になった。物語というものがいかに強力で、事実がいかに無力かということを、この事件は生々しく示している。写真が一面に載っても、誰も気にしなかったのだ。

そして五つ目、たぶんこれがいちばん大事だが、この話には誰も完全な悪人がいない代わりに、誰も無傷でもいない。ブレディウスは誠実さゆえに落ちた。ハンネマは情熱ゆえに落ちた。ドゥクーンは自分の目を信じたがゆえに間違えた。国民は喝采し、その喝采が嘘を守った。メーヘレン自身は、自分がいちばんなりたかったもの、つまり本物の画家に、最後までなれなかった。

読み終わったあとに残るのは、痛快さでも教訓でもなく、ざらついた居心地の悪さである。それが、この事件が消えない理由だと思う。

エピローグ――それでも壁に架かっている

『エマオの晩餐』は、いまもロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館にある。作者名の欄には、はっきりとハン・ファン・メーヘレンと書かれている。制作年は1937年。油彩、カンヴァス、118センチかける130.5センチ。

2010年5月12日から8月22日にかけて、この美術館は「メーヘレンの贋作フェルメール」という展覧会を開いた。自分を騙した男の展覧会を、騙された美術館がやったのである。会場には売られた贋作、アトリエから出てきた試作のカンヴァス、絵の中に繰り返し出てくるワイングラスの現物、ニースのヴィラで見つかった顔料のチューブが並んだ。ハンネマに贈られた詩集も展示された。献辞にはこうあった。

「その仕事に敬意を表して」。

学芸員のフリソ・ラメルツェは、こう語っている。「皮肉ではありますね。でも芸術は多義的なものです。もちろん贋作は悪いことです。しかしファン・メーヘレンは自分の技芸、つまり贋作という技芸の名手でした」。

そして彼は、この事件のいちばん短い要約を口にした。

「美術界は、自分が探していたものを見つけたのです。それは批判的な判断力を鈍らせがちです」

『キリストと姦通の女』は、オランダのフンダーチー美術館にある。かつてゲーリングがカリンハルの中央に据え、生涯で最も誇りにしていた絵だ。作者名は、ただ「ハン・ファン・メーヘレン」とだけ書かれている。

『キリストの足を洗う』はライクスミュージアムに、『イサクの祝福』はボイマンスの収蔵庫にある。

これらの絵は、廃棄されなかった。焼かれもしなかった。倉庫の奥に永久に封印されることもなかった。いくつかは、いまも展示される。

理由は単純だ。これは失敗の記録だからである。三百年の距離を、樹脂とオーブンと墨汁で埋められると信じた男がいて、そして一時的には本当に埋めてしまった。その事実を消してしまえば、次に同じことが起きたとき、また同じ場所で転ぶ。

だから絵は壁に架かっている。ちょっと目の大きすぎるキリストが、いまも静かにパンを裂いている。誰も彼をフェルメールとは呼ばない。それでも人は立ち止まる。

そして立ち止まった人は、たいてい同じことを考える。

自分がもし1938年のあの部屋にいたら、見抜けただろうか。

正直に答えるなら、たぶん無理だ。あの部屋にいた人たちは、全員、いまの自分より絵をよく知っていた。

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