「今日、東国の調を進める」と、大臣の蘇我馬子は居並ぶ群臣に告げた。調というのは各地の産物を朝廷へ納める貢ぎ物のことで、宮中ではごくありふれた儀式の知らせにすぎない。ところが、それは真っ赤な嘘だった。馬子はその嘘を口実にして、東漢直駒という渡来系氏族の男に、仕えるべき主君の天皇を殺させたのだから恐ろしい。
『日本書紀』が崇峻天皇5年の11月3日の条に書き留めた場面で、西暦に直せば592年にあたる。殺されたのは第32代の崇峻天皇だ。臣下に殺されたとはっきり正史に書かれた天皇は、後にも先にも、この人ひとりしかいない。しかも命じた当の馬子は、天皇殺しの罪で裁かれることも、罰を受けることも、最後までなかった。
天皇が殺されたのに、裁きがない。そこが、この事件でいちばんひっかかるところだ。馬子はその後も大臣の座に居続け、権力をいっそう固めて、それから30年以上も朝廷の中心に座り続けた。いったい、あの宮の中で何が起きていたのか。
蘇我の血を引く皇子
崇峻天皇は、もとの名を泊瀬部皇子という。欽明天皇の第12皇子で、母は蘇我稲目の娘の小姉君だった。稲目の息子が馬子だから、泊瀬部皇子は馬子の姉妹が産んだ子にあたり、血縁の上では甥になる人物だった。母方は、まるごと蘇我の家。
欽明天皇の后には、稲目の娘が2人いた。姉の堅塩媛と、妹の小姉君だ。堅塩媛が産んだのが用明天皇と推古天皇で、小姉君が産んだのが穴穂部皇子と崇峻天皇という組み合わせになる。このあと皇位に就く用明、崇峻、推古の3人は、そろって稲目の孫にあたる。馬子から見れば、みな身内だったわけだ。
馬子の病は、父の祀った仏の祟りと占われた
585年の2月、馬子は大野丘の北に塔を建てて大きな法要を営み、先に手に入れていた仏舎利を、その塔の柱の頭に納めたという。それからほどなく、馬子は病に倒れた。
占いをする者に調べさせると、父の代に祀った仏神の祟り、という答えが返ってきた。父とは稲目のことで、仏像を自分の家に祀った大臣だ。敏達天皇は詔を出して、馬子が石像を拝んで命を延ばすことを許した。
その同じころ、国内では疫病が流行り、多くの民が命を落としていく。3月、物部守屋と中臣勝海は、「蘇我臣が仏法を興したせいで疫病が広がり、国の民が絶えてしまうかもしれない」と奏上した。これを受けて詔が下り、仏法をやめることが命じられる。
守屋は寺に出向くと、塔を斧で倒して火をかけ、仏像と仏殿まで焼き払った。焼け残った仏像は、難波の堀江に捨てられている。この日は風雨が荒れて、雨衣を着た守屋は、馬子を罵ったという。善信尼ら3人の尼は、法衣を奪われ、鞭で打たれて、海石榴市の獄に入れられた。
同じ疫病を、馬子の側は父の祀った仏の祟りと読み、守屋の側は蘇我の仏法のせいと読んだ。仏教を取るか、国つ神を取るか。その争いは、病と祟りの言葉で語られていた。
兄が殺された年に、弟は天皇になった
それから2年後の587年。この年の朝廷は、はじめから荒れ模様だった。4月に病で倒れた用明天皇は、「朕は三宝に帰依したい」と群臣に諮ったという。三宝とは仏と法と僧のことで、仏教を受け入れたいという申し出にあたる。
物部守屋と中臣勝海は、国つ神にそむくことになると言って、この申し出に反対したが、馬子は、詔に従ってお助けすべきだと答えた。蘇我と物部のにらみ合いが、天皇の病床の前で、はっきりと表に出たことになる。用明天皇はそのまま亡くなり、残された皇族と豪族は、次の天皇を誰にするかで揺れ始めた。
6月7日の夜半。馬子は炊屋姫の詔を奉じ、佐伯連丹経手ら3人に兵を持たせて、穴穂部皇子の宮へ走らせた。標的は穴穂部皇子と宅部皇子で、書紀は「厳兵して速やかに往け」という命令の言葉まで書き残している。炊屋姫は敏達天皇の后で、額田部皇女という名でも知られ、のちには推古天皇となる人だ。
穴穂部皇子は、泊瀬部皇子と同じ小姉君から生まれた兄だった。馬子の命令ひとつで、実の兄が夜の宮を囲まれて殺されたことになる。このとき泊瀬部皇子がどこで何を思ったのかについて、書紀は何も書いていない。
翌月の7月、馬子は物部守屋を攻めた。守屋は物部氏の長で大連、馬子は大臣であり、この2つが当時の朝廷の最高位にあたる。泊瀬部皇子は、厩戸皇子らとともに、この討伐軍に加わっている。厩戸皇子は四天王の像を作って勝利を誓い、迹見首赤檮が守屋を射落としたと、書紀は伝える。兄を殺した大臣の軍に、弟が加わっていたことになる。
守屋は滅んだ。丁未の乱の決着。ひと月後の8月2日、炊屋姫と群臣が泊瀬部皇子に即位を勧めて、皇子は天皇の位に就いた。馬子は大臣を今までどおり務めることになり、書紀は「如故」の二字で、その人事をあっさりと書いている。
馬子に担がれた天皇、という見方が多く、兄を殺させた大臣の手で、弟が天皇に据えられた形になる。即位を勧めた炊屋姫は、やがて自分が天皇になる人でもある。崇峻の治世は、わずか5年あまり。登場人物が、妙に少ない舞台なんだよ。
飛鳥の寺と、山あいの宮
即位の翌年の588年が、崇峻元年にあたる。春3月、天皇は大伴糠手の娘の小手子を妃に迎えた。この年には百済から使いが来て、仏舎利と僧たちを献上し、寺を造る工人や瓦をつくる博士まで一緒に送ってきたという。寺づくりの職人が、海を越えて飛鳥に集まった年だった。
同じ年、飛鳥衣縫造の祖である樹葉の家を壊して、法興寺の造営が始まった。のちの飛鳥寺。仏教の受け入れで物部氏と争った馬子が、勝ったあとに力を注いだ寺だ。人の家を取り壊してまで進めるのだから、大きな工事だったことになる。
馬子は551年の生まれで、このとき30代の後半にいた。父の稲目の跡を継いだ大臣で、敏達、用明、崇峻、推古と続く朝廷を、ずっと支えた人物だ。天皇が代わっても、大臣の席に座っているのは、いつも馬子だった。
天皇の宮は倉梯柴垣宮といい、伝承地はいまの奈良県桜井市倉橋にある。多武峰の北西に広がる山あいの土地で、飛鳥や磐余の平地に比べると、ずいぶん奥まった場所だ。馬子が寺を建てている飛鳥の賑わいから、少し引っ込んだところに、天皇の宮はあったことになる。
崇峻紀に並ぶ記事は、寺と使いと遠征の話が多い。2年の7月には、近江臣満が東山道へ、ほかの使者が東海道と北陸道へ遣わされて、それぞれの国境の様子を見て回った。3年の10月には、百済で学んでいた尼の善信らが帰国して、桜井寺に住んだ。
大伴の娘と、馬子の娘
天皇のまわりには、出自の違う女性が2人いた。ひとりは大伴糠手の娘の小手子で、元年の春に妃となり、のちに蜂子皇子と錦代皇女を産んだ。もうひとりが馬子の娘の河上娘で、書紀は蘇我嬪と呼んでいる。大伴氏と蘇我氏、2つの家の娘が、同じ後宮に並んでいた。大伴氏は、古くから軍事を担ってきた名門だ。
小手子の名は、事件の少し前の場面で、もう一度顔を出す。ここは頭の片隅に置いておいてほしい。河上娘も、事件のあとの場面で、もう一度書紀に登場する。どちらの女性も、天皇の最期のごく近くで、名前が短く書かれるだけだ。
任那を建てたい、と天皇は言った
崇峻4年の秋8月。天皇は群臣に詔を出して、朕は任那を建てたいと思うが、おまえたちはどう考えるか、とたずねた。群臣は「任那の官家を建てるのは、みな陛下の詔のとおりです」と答えた。天皇が考えを口にして、群臣がそろって従う。書紀に残る場面はそう読めて、この時点の構想は、朝廷の合意を得ていた形になる。
任那は、朝鮮半島の南部にあった地域をさす。同じ年の11月、紀男麻呂、巨勢猿、大伴囓、葛城烏奈良の4人が大将軍に選ばれた。氏ごとの臣や連を副将に従え、2万余の軍が筑紫へ出て、そこに駐屯した。紀、巨勢、大伴、葛城は、いずれも古くから朝廷で重んじられてきた有力な氏族だ。
筑紫、いまの九州北部に、2万余の兵を置く。朝廷が本気で動かした軍だった。書紀を読むかぎり、軍を出す段階で、群臣から反対が出た気配はない。大陸では589年に隋が中国を統一していて、半島をとりまく情勢そのものが動いていた時期でもある。
猪の首を斬るように
592年の冬、10月4日。山猪を献上する者がいた。天皇は猪を指さして、「いつの日か、この猪の頸を断つように、朕が嫌いな人を断ちたいものだ」と言った。
原文は、山猪を献ずる者がいた、とだけ書いて、誰がどこから持ってきたのかは出てこない。書紀は続けて、「多く兵仗を設けること、常に異なること有り」と書く。兵仗とは武器や武具のことで、それを多く用意するさまが、ふだんと違っていたという意味になる。この記事に書かれているのは、猪の言葉と、兵器の話の2つだけだった。
馬子はこの言葉を耳にして、自分が嫌われているのだと恐れた。味方を集め、天皇を殺す相談を始める。天皇のたった一言が、最高権力者の決断を動かした。書紀の本文は、猪の言葉から馬子の決断までを、間に何の出来事も挟まず、ほとんど一直線につなげて書いている。
別の伝えは、ここに小手子を置く。大伴嬪小手子は、寵愛が衰えたのを恨んだらしい。人を馬子のもとへ遣わして、天皇の言葉と兵器のことを知らせたという。馬子はそれを聞いて驚いた、とも伝えている。
本気だったのか、軽口だったのか。書紀の文面から決める手立てはない。書紀が舎人親王らの手でまとめられたのは720年で、事件から130年近くあとになる。天皇本人の声を確かめる材料は、ほかにないんだよ。
東国の調と、檜隈の男
11月3日、馬子は群臣を欺いて、「今日、東国の調を進める」と言った。この嘘を口実にして、東漢直駒に天皇を弑させた。原文の字は「弑」で、臣が主君を殺すときに使う字だ。暗殺の場面そのものを書いた漢文は、30字にも満たない。
穴穂部皇子が殺されたときは「誅殺」と書いていて、これは罪のある者を討つという意味合いの字だ。天皇のときだけ「弑」になる。書紀は、同じ小姉君の子である2人の死を、別の字で書き分けている。
駒は志努直の子で、別名を坂上駒子という。駒の子には、坂上弓束という人物がいた。東漢氏は渡来系の氏族で、飛鳥に近い檜隈を本拠にして、蘇我氏の門衛や宮廷の警護を受け持っていた。後漢の霊帝の曾孫、阿知使主を祖とする伝えがあるが、実際はいくつもの小さな氏族が集まった氏族だと見る研究者もいる。天皇の身辺を守る側の人間が、天皇に手をかけたことになる。
のちに蝦夷征討で名を上げる坂上田村麻呂の坂上氏も、東漢氏から分かれた家だ。東漢氏の宗家は、このあと没落したと伝わる。警護を担う一族の男が、警護される側の天皇を殺す。皮肉な話だよな。
駒が隠した女
事件のあと、駒は河上娘をこっそり隠して、妻にした。河上娘は崇峻の嬪で、馬子の娘にあたる人だ。書紀はこの行いを「偸隠」と書いていて、人目を盗んで隠す、という字面になる。
馬子はのちに、それを知った。書紀の言い方では、駒が嬪を汚した事が露見して、大臣に殺された。原文は漢文のごく短い一文で、これが崇峻紀の最後の記事になっている。
天皇殺しを命じたのは馬子で、その実行役を殺したのも馬子だった。書紀が挙げる理由は、娘のことだけだ。口封じの意図があったのかどうかは、書かれていない。手を下した男は消えて、命じた側だけが残った。
殯宮で笑い合った2人
古代の天皇の葬儀には殯という長い期間があり、亡骸を殯宮に安置して、時間をかけて儀礼を重ねてから、ようやく葬られた。書紀の崇峻の記事は、その手順を何ひとつ書いていない。11月3日の条に、同じ日、天皇は倉梯岡陵に葬られた、という一文が添えられているだけだ。
比べるものがある。敏達天皇は585年の8月15日に亡くなって、広瀬に殯宮が建てられた。書紀が敏達の葬りを記すのは崇峻4年の4月で、591年にあたるから、殯は5年以上に及んだことになる。用明天皇は587年の4月に亡くなり、7月に葬られた。3か月あまりの殯。
その敏達の殯宮で、馬子と守屋が互いを笑い合ったと、書紀は書く。馬子が大刀を帯びて誄を述べると、守屋はその姿を笑って、猟の矢に射られた雀のようだと言った。誄というのは、死者を悼む言葉を述べる儀礼だ。守屋が手足を震わせながら誄を述べる番になると、今度は馬子が、鈴をつければいい、と笑った。
同じ殯宮には、穴穂部皇子も来ていた。天下を取ろうとして、「なぜ死んだ王の庭に仕えて、生きている王のところに仕えないのか」と怒ったという。寵臣の三輪君逆は、隼人を殯庭に並べて備えた。
翌586年の5月には、穴穂部皇子が炊屋姫を力ずくで我がものにしようとして、殯宮へ踏み込んだという。逆が兵衛を呼んで宮門を固く閉ざし、これを拒むと、皇子は守屋とともに兵を率いて逆を討った。逆は三輪山に隠れ、のちに炊屋姫の別邸へ移ったが、最後は斬られている。殯宮は、死者を送る場であると同時に、生きた者たちが睨み合う場でもあったわけだ。
殺された日のうちに土の下へ
そういう場を、崇峻は通らなかった。殺されたその日のうちに、土の下へ入った。しきたりを考えれば、異例の速度。
陵の扱いも異例だった。延喜式の上でも、崇峻の陵には陵を守る戸が置かれなかったとされる。急いで片付けたような扱いに見える。正直、そう感じるのが自然だ。
古事記は、崩りましきとだけ書いた
『古事記』にも、崇峻は載っている。名は長谷部若雀天皇。宮は倉橋の柴垣宮で、天下を治めること4年、と書かれている。
本文の脇に小さく添えられた分注には、壬子の年の11月13日に崩りましき、とある。書紀は11月3日だから、日付に10日の開きがある。陵は倉橋の岡の上、と場所だけが書かれ、馬子の名も、暗殺の話も出てこない。
同じ事件が、書紀では細かく語られ、古事記では一行で済まされているうえに、日付までずれている。どちらが正しいのかは、ここでは決められない。ただ、天皇が殺されたという話を書いた本と、書かなかった本が、同じ時代に並んでいるのは確かだ。
倉橋川のほとりの小さな高まり
いま宮内庁が崇峻天皇の陵として管理しているのは、桜井市倉橋にある倉梯岡陵で、倉橋のバス停から南へ下った、倉橋川沿いの小さな円形の高まりだ。直径はおよそ35メートル、高さは1メートルほどしかない。倉梯と書いてくらはしと読み、いまの倉橋にあたる地名だ。
天皇の陵と聞いて思い浮かべる大きな墳丘とは、ずいぶん違う。この場所が陵と定められたのは、明治になってからだ。明治22年までは、崇峻陵とされていた古墳が別にあった。それが赤坂天王山古墳。
石室に入れる古墳
赤坂天王山古墳は、同じ桜井市倉橋にある。多武峰から北西へ延びる尾根の先に立つ方墳で、辺の長さは43メートルから50メートルほど、3段に築かれている。築造は6世紀末から7世紀初めと見られ、崇峻が殺された592年と、ちょうど重なる時期だ。
石室は両袖式の横穴式で、花崗岩の自然石を組んであり、全長は15.3メートル以上、玄室は幅3メートルほどで高さが4.2メートル以上、羨道も長さ8.5メートルある。小さな石室ではない。中央には、二上山でとれる白い凝灰岩をくり抜いた、家形石棺が据えられている。
石棺は盗掘に遭い、遺物は残らなかった。発掘調査も行われていない。出土品から、誰が葬られたのかをたどることはできない。手がかりは、石室の大きさと、築かれた時期だけだ。
それでも、研究者の多くはこの古墳が本当の崇峻陵だと考える。考古学者の森浩一の見解が、その中心にある。宮内庁の陵とは2キロほど離れていて、あちらは立ち入れないが、天王山のほうは見学できる。国の史跡にも指定されている。
筑紫の将軍へ走った使い
事件のあと、書紀には短い記事が続く。11月5日、筑紫に駐屯する将軍のもとへ、駅使が遣わされた。駅使とは、駅馬を乗り継いで急ぎの知らせを運ぶ使いのことだ。「内乱があったので、外の事を怠るな」という趣旨の伝言だった。
天皇が殺されたことを、書紀はここで内乱と呼んだ。任那を建てるために送り出された2万余の軍は、天皇が殺されたこのときも、まだ筑紫に留まっていた。そこへ届いた命令は、国の内で何が起きていようと、外の務めを怠らず持ち場を守れ、というものだった。
書紀のこの先に、馬子を責める動きを伝える記事は見えない。反乱はない。抗議もない。報復の話も出てこない。天皇が殺された直後とは思えないほど、記事は静かなんだよ。
馬子は裁かれなかった
崇峻の死から1か月余りたった12月8日、旧暦のその日に、額田部皇女が豊浦宮で即位した。それが推古天皇。西暦では593年1月15日にあたる。額田部皇女は、先に出てきた炊屋姫と同じ人物だ。欽明天皇と堅塩媛の娘で、崇峻の異母姉、馬子から見れば姪だった。
豊浦は、稲目の向原の家があった土地で、早くから蘇我氏の本拠だった。いまの向原寺の境内で、宮の遺跡が確認されている。日本史で初めての女帝が、蘇我氏の足元で即位したことになる。豊浦の宮は手狭で、推古は603年にすぐ近くの小墾田宮へ移っている。書紀によれば、群臣に3度請われて、ようやく受けたという。
厩戸皇子、のちの聖徳太子は、推古の甥にあたる。書紀は、593年に推古がこの皇子へ国政を委ねたと書く。ただ、当時は皇太子という地位がまだなかったとして、この記事の史実性を疑う研究者もいる。実権は馬子が握ったままだった。推古自身、のちに自分は蘇我から出た者だと語ったと、書紀は伝える。
馬子は崇峻の死から34年後の626年に亡くなるまで大臣であり続け、その墓は、明日香村の石舞台古墳とする説が有力だ。佐藤長門ら歴史学者は、この事件が多数の皇族や群臣の同意を得た宮廷クーデターだった可能性を指摘する。馬子ひとりの独断ではなかった、という見方だ。もしそうなら、猪の一言は引き金にすぎなかったことになる。
馬子の評価は割れる。主君殺しの逆賊とする見方がある一方で、仏教と大陸の新しい文化を押し進めた改革者として、見直す声も根強い。推古朝には冠位十二階や十七条憲法が整えられた。馬子の築いた権力の上に立つ改革だ、と見る歴史家も少なくない。
645年。馬子の孫の入鹿が、宮中で討たれた。討ったのは中大兄皇子と中臣鎌足らで、崇峻の事件から53年後のことになり、翌日には、父の蝦夷も自邸に火をかけて死に、馬子から続いた蘇我の本家は滅びた。
祟らなかった天皇と、山形へ逃れた皇子
非業の死を遂げた貴人は、怨霊になって祟る。日本の御霊信仰の筋書き。ところが崇峻には、菅原道真や崇徳院のような、大きな怨霊の伝承は育たなかった。かわりに残ったのが、子の話だ。
蜂子皇子は、小手子が産んだ皇子にあたる。伝承では、父が殺されたあと、聖徳太子の助けを得て宮中を脱出した。丹後の由良から船で北へ向かい、山形の鶴岡の浜にたどり着いたという。
八乙女浦で舞う8人の乙女に引かれて上陸し、三本足の烏の案内で羽黒山に登ったという。そこで羽黒権現を感得して、羽黒山、月山、湯殿山からなる出羽三山を開いたと伝わる。人々の苦しみを取り除いたので、能除太子とも呼ばれた。
舒明天皇13年の10月20日、西暦641年に亡くなり、墓は出羽三山神社にあると伝わる。書紀には載らない話だ。史実として裏づける材料も、示されていない。
