宮中で消えた天皇と、正史が名指しした男
飛鳥時代の592年、崇峻天皇は宮中で命を奪われた。『日本書紀』は、蘇我馬子がこの殺害を計画し、東漢直駒が手を下したと、名前まで挙げて記す。臣下の名が、そのまま並ぶ。天皇の死をここまではっきり臣下側の行動として書いた例は、正史のなかでも異例だ。
ただ、残された記録だけで事件の動機まで断定するのは、さすがに無理がある。馬子がただ権力を欲しがっただけの単純な話なのか、それとも朝廷内の対立が背景にあったのか、そこまでは書かれていない。『日本書紀』が何を書いたのか、後世がそこから何を読み取ったのか。この二つは分けて見たほうがいい。
蘇我馬子が支えた即位
崇峻天皇は、即位前には泊瀬部皇子と呼ばれた。父は欽明天皇。母は蘇我稲目の娘・小姉君で、泊瀬部皇子は蘇我氏と深い血縁関係のなかにいた。587年、蘇我馬子は仏教の受容を軸に対立していた物部守屋を丁未の乱で破り、その直後に泊瀬部皇子が即位した。
この流れを見れば、馬子が崇峻天皇を推したと読むのは自然だ。ところが、天皇が最初から馬子の言いなりだったと確かめられる記録は、どこにも見あたらない。そこは空白のままだ。
崇峻天皇は大伴氏系の小手子を妃に迎え、二人のあいだには蜂子皇子が生まれた。宮を置いたのは倉梯。この二つを、蘇我氏から距離を取る動きと読む説はある。ただ、政治的な意図までが書き残されているわけでもない。婚姻関係や宮の位置から組み立てられた解釈だ。
天皇の時代には、朝鮮半島南部への出兵準備も進められた。591年には兵を筑紫へ送ったと『日本書紀』は書くが、これが馬子との決定的な路線対立だったのかどうかまでは分からない。事件前の政治状況として重いのは確かだ。それでも、暗殺の理由そのものと決めつけるのは早い。
猪の目を刺した天皇
『日本書紀』によれば、592年10月、猪が天皇のもとへ献上された。崇峻天皇は、その猪の目を刺した。言葉も残る。「いつか憎いと思う者を、この猪のように斬りたい」という趣旨の一言を、天皇は口にしたという。
その発言を聞いた者が馬子へ知らせた。狙われている。馬子はそう受け取った。同年11月、馬子は東国からの貢ぎ物を奉るという名目で天皇を儀式に出席させ、その場で東漢直駒に襲わせたと記される。まあ、ここまでが正史の語る事件の骨格だ。
天皇の言葉が本当に暗殺計画を示していたのか、密告がどんな形で伝わったのか、いまとなっては確かめようがない。実行役とされる東漢直駒も、その後に馬子の手で殺された。『日本書紀』は、直駒が馬子の娘・河上娘を奪ったためだと説明する。
口封じだったという見方もある。ところが、記録にそう書かれているわけでもない。事件後の処分を暗殺の隠蔽と直結させるのは、あくまで後世の側からの推測になる。
即日の埋葬が残した違和感
崇峻天皇は、亡くなったその日のうちに倉梯岡陵へ葬られたと伝わる。葬送としては異例の速さ。古代の天皇の葬送には殯と呼ばれる期間を置く例があるため、この点はよく注目されてきた。正直、事件を早く収めたかったのではないか、と考えたくなる部分ではある。
とはいっても、葬送の簡略さだけでは、隠蔽の意図までは証明できない。記録から確認できるのは、死と埋葬が同じ日だと書かれている一点だ。現在、宮内庁は奈良県桜井市の赤坂天王山古墳を崇峻天皇陵に治定しているが、古墳の比定については議論がある。決着は付いていない。
崇峻天皇の死後、額田部皇女が推古天皇として即位した。蘇我馬子はその後も大臣として政治の中心に残り、厩戸皇子とともに新しい体制を支えた。失脚はしていない。記録の上で、馬子が暗殺の責任を問われた形跡は出てこない。
個人の恨みか、宮廷全体の判断か
なぜ馬子は裁かれなかったのか。ここから先は政治史の解釈。馬子ひとりの決断ではないと見て、皇族や有力豪族の一部が黙認した政変だったと読む説がある。大きな内乱の記録が続かず、次の即位が進んだことも、その見方を支える材料にされてきた。
『日本書紀』は、事件から約百年後に編まれた正史だ。そこに載った経緯が、事件当時の全事情をそのまま残しているのかどうかは分からない。猪を前にした天皇の発言も、馬子の行動を説明するために後から整理されたものと読む余地は残る。だから、崇峻天皇を独立を目指した改革者、馬子を国家の進路を守った実務家。そう役割をきれいに分担させるのも危うい。
非業の死から怨霊譚へ結びつける語りもある。ところが崇峻天皇には、菅原道真や崇徳院のように広く定着した大規模な怨霊信仰は確認しにくい。土地の空気や祟りを、そのまま事件の証拠として扱うことはできない。
はっきりしているのは、天皇、皇族、豪族の関係が固定される前の政治の姿だ。そこには、後世の制度からは想像しにくい緊張があった。崇峻天皇の死は、確かな記録に残る。ただ、その裏で誰がどこまで合意していたのか。答えは、今も出ていない。
