## 1669年7月28日、カレー近郊で一人の男が消えた
フランスの北、ドーバー海峡に面したカレーの近くで、一人の男が逮捕された。1669年7月28日のことだ。年は30前後とされる。名前はユスターシュ・ドージェ。
この名前がくせ者なんだよな。陸軍大臣ルヴォワ侯が監獄長に宛てた命令書が今も残っているのだが、その手紙の中で「ユスターシュ・ドージェ」という名前の部分だけ、本文とは別の筆跡で書かれている。あとから差し込まれた名前だ。つまり、これは役所の手続き上の仮名である可能性が高い。
命令書の内容がこれまた異常だった。監獄長には、この囚人のためにとくべつの独房を用意するよう命じられた。扉を何重にもして、中の声が外に漏れない構造にしろ、と。食事を運ぶのは監獄長本人のみとすること。そしてここが背筋の凍るところだけど、もしこの囚人が日常の必要事以外のことを一言でも口にしたら、その場で殺せ、と命じている。
一体何をやらかした男なんだ。国王を殺しそこなったのか。ものすごい金額を横領したのか。ところが、この男は同時に、異常なほど小さな罪人として扱われてもいる。命令書には「彼は従僕にすぎないのだから、家具などは安いもので構わない」という趣旨の一文もある。国家機密レベルの隔離を命じられた囚人が、同じ手紙の中で「ただの従僕」扱いされている。この矛盾が、300年以上人を悩ませてきた。
この男はこのあと、34年間、一度も外の世界に戻らない。そして顔を見せないまま死ぬ。
## 一人の囚人を、四つの監獄に引っ越しさせた男
この話の主役は、実は囚人じゃなくて監獄長のほうかもしれない。ベニーニュ・ドーヴェルニュ・ド・サン・マルス。元は銃士隊の下級兵だった男が、囚人を一人預かったことで人生を変えた。
彼はまず、南アルプスのピネローロ要塞の監獄長だった。1669年から1681年までの12年、ここで囚人を抱えた。次にエグジル要塞へ転任する。すると、囚人も一緒に連れていく。1681年から1687年まで。さらに地中海のカンヌ沖に浮かぶサント・マルグリット島の要塞へ転任。囚人も同行。1687年から1698年までの11年。そして最後に、1698年、監獄官としては最高位のポストであるパリのバスティーユ司令官に昇進する。もちろん、囚人も連れて行った。
年俸は当時の金額で一万五千リーヴルを超え、それに加えて囚人から徴収する各種の収入があったとされる。元下級兵士が到達できる地位としては異例だ。彼の出世は、この一人の囚人と完全に連動している。
ここから導かれる推論は二つある。ひとつは、この囚人が国家にとって巨大な意味を持つ存在で、その管理を任されたサン・マルスは国王の信任を得て出世したという読み。もうひとつは、サン・マルスがこの囚人を自分の価値を高める道具として意図的に演出し、実態以上に鬼の首に仕立てたという読み。現代の研究者には後者を取る人が少なくない。仮面の由来も、実はここにあるとされる。
## 道中を進む担架と、その中の人影
囚人が外の空気に触れたのは、人生でたった三回だけだ。監獄を移るときだけだ。
1687年、エグジルからサント・マルグリット島への移送のときの記録が、一番生々しい。囚人は油布で二重に包まれた担架に乗せられた。中が一切見えないように、である。真夏の南フランスを、油布で密閉された箱に入れられて運ばれる。乗っていた囚人は道中で弱り、島に着いたときには死にかけていたという記述もある。背筋が凍るだろ。
沿道の村人たちは、当然その行列を見ている。兵士に囲まれた黒い箱。中には人間がいるらしい。だが顔は見えない。この光景が地方の噂となって広がった。プロヴァンス地方には「監獄長が顔のない囚人を連れている」という話が、彼らが通り過ぎた直後から流れていたとされる。伝説のタネは、この段階でもう蒔かれていたんだ。
さらに1698年、島からパリへの長い旅。このときも囚人は顔を覆っていた。途中、サン・マルスの所領であるパルティリという村に一泊している。このときの話が、後の伝説の重要なソースになった。館の使用人たちが目撃したというんだ。黒い仮面の男と、向かい合って食事をする監獄長。監獄長は食卓にピストルを二丁置いていた。いつでも撃てるように。仮面の男は黙っていた。スープを口に運ぶために、仮面の下の部分をだけ持ち上げた。手の甲が白かった、と使用人は語ったという。外に出ない人間の白さだった、と。
## 鉄だったのか、黒ビロードだったのか
さて、一番のツッコミを先に書いておく。仮面は、おそらく鉄じゃない。
同時代の公式記録では、この囚人の顔を覆っていたのは一貫して「黒いビロードの仮面」とされている。バスティーユの副司令官エティエンヌ・デュ・ジュンカが書いた受入記録にも、はっきり「常に黒いビロードの仮面をつけている」とある。ビロードの布で顔を覆い、後頭部で固定するタイプだったと見られている。
しかも、常時つけていたわけでもない。仮面をつけたのは、監獄を移されるときと、他の人間に顔を見られる可能性がある場面だけだったとされる。ミサに出るときとか。つまり独房にいるときは素顔だった可能性が高い。
ではなぜ「鉄仮面」になったのか。ヴォルテールのせいだ。彼が「鉄の仮面をつけさせられていた」と書いてしまった。鉄のほうが絵になる。陰惨で、遠い。仮面の青みを帯びた金属の光と、その下にあるべき人間の顔。フィクションとして完璧すぎる。人間は鉄の仮面を選んだ。この一行で、事実は伝説に負けた。
もっとも、仮面の材質はこの話の本質じゃない。本質は「なぜ顔を隠さなければならなかったのか」だ。顔を見られると困る人間。つまり、顔を知っている人間がどこかにいる。もしくは、顔を見れば正体がバレるような顔をしている。後者だとすると、話は一気に鳥肌レベルになる。だからこそ双子説が生まれたんだよな。
## 1703年11月19日午後10時、彼は死んだ
バスティーユの副司令官デュ・ジュンカは、真面目な官僚だった。彼は囚人の出入りを全部日誌につけていた。おかげで、この囚人に関する最も信頼できる一次史料が残った。
1698年9月18日の項。サント・マルグリット島から新司令官が到着し、囚人を一人連れていた。名前は書かれていない。ただ「常に黒いビロードの仮面をつけた古い囚人」とだけある。彼はまずバジニエール塔に入れられ、その後ベルトディエール塔の三番目の部屋へ移された。
そして1703年11月19日の項。この名もなき囚人は、ミサに出たあと少し具合が悪くなり、その日の午後10時に死んだ、と。年齢は不明、とデュ・ジュンカは書いている。彼は副司令官でありながら、この囚人の名前も年齢も知らされていなかったんだ。
翌日の埋葬についても記録がある。セント・ポール教区の墓地に、「マルシオリー」あるいは「マルシャリー」という名で埋められた。埋葬記録には年齢「約45歳」と書かれている。。1669年に30前後だったなら、死ぬときは60を越えていなければおかしい。年齢も偽られている。何から何まで隠されている。
そして一番不気味なのが、死後の処理だ。伝えられるところによれば、彼の遺体は顔を確認できないように処理された。彼が使っていた独房は徹底的に調べられ、壁を削り、家具を焼き、床を張り替え、銀食器は溶かされたという。何かを書き残されているのを恐れた、としか思えない徹底ぶりだ。囚人が死んでなお、国家は彼の部屋を怖がっていた。
## ヴォルテールがバスティーユで拾ってきた噂
この話を世界的なミステリーに仕立て上げたのは、間違いなくヴォルテールだ。
彼は1717年から1718年にかけて、風刺詩を書いたかどでバスティーユに投獄されている。囚人が死んでから14年後だ。このとき、古参の看守や囚人から「昔ここに顔を覆った男がいた」という話を拾ったらしい。牢屋の老婆が囚人のシャツを洗っていたとか、国王の台所から料理が運ばれていたとか、そういう目撃談をだ。
彼が最初にこの囚人を公に書いたのは1751年の『ルイ14世の世紀』。ここではまだ正体を断定していない。「若く、背が高く、非常に良い体格で、声は実に魅力的だった」といった描写を並べ、その上で「彼は自分の運命について一度も不平をこぼさなかった」と書いた。この一行が強い。不平を言わない囚人。つまり、自分がなぜ入れられているのか知っていたということになる。
そして1771年の『百科全書に関する諸問題』で、ついに爆弾を落とす。この囚人はルイ14世の庶兄だ、と。宰相マザランと王太后アンヌ・ドートリッシュの間に生まれた陽の目を見ない子で、存在を知られると王朝が崩れるから閉じ込められた――というものだ。
実はこれ以前にも印刷された説はあった。1745年、アムステルダムで出た『ペルシア史のための秘密の覚書』という匿名の本だ。ペルシアの話に見せかけてフランス宮廷を風刺する内容で、囚人の正体はルイ14世の庶子ヴェルマンドワ公だとしていた。この手の本が何冊も出回っていたところへ、ヴォルテールという当代最高のビッグネームがダメ押しをした。ヨーロッパ中がこの話をした。
ここでひとつ重要なことを言っておく。ヴォルテールは史学者じゃない。彼は王政と教会を打倒したい思想家だった。「王が実の兄弟を一生監禁した」は、絶対王政の黒さを語る上でこれ以上ない材料だった。つまり彼には、この説を採用する政治的動機があったんだよな。
## デュマが決めた「双子の兄」という正解
ヴォルテールの説は「庶兄」だった。年上の異母兄。これを「双子の兄」にアップグレードして世界に定着させたのが、アレクサンドル・デュマだ。
彼はまず1840年の『有名な犯罪』で既存の説を一通り紹介し、その十年後、『ダルタニャン物語』三部作の最終部『ブラジゥロンヌ子爵』でこれを小説化した。ルイ14世とうり二つの双子の兄フィリップが幼いころから隠されて育ち、鉄の仮面をかぶせられてバスティーユに入れられている。アラミスらの銃士がこれを知り、入れ替えを企てる。
この作品の威力は異常だった。以後、世界中で「鉄仮面の男」と言えば「王の双子の兄」ということになった。映画化も何度もされた。1929年のダグラス・フェアバンクス主演作、そして1998年のレオナルド・ディカプリオが二役を演じた作品などだ。映画で見た人の多くは、あれがデュマの創作だとは思っていないだろう。
なお、双子説には致命的な問題がある。ルイ14世の誕生は1638年9月5日。王家の出産は宮廷中の貴族が立ち会う公開イベントだ。後継者の真正性を担保するための制度だった。部屋には十数人がいた。その目の前で双子の一人を隠すのは、現実的に無理がありすぎる。だから双子説は、ロマンとしては最強だが史実としてはほぼ退けられている。それでも消えない。面白いからだ。
## 候補者たち――マッティオーリ、ドージェ・ド・カヴォワ、そして従僕
真面目な候補は何人もいる。ひとつずつ見ていこう。
まずエルコレ・アントニオ・マッティオーリ。マントヴァ公国の外交官だった男で、ルイ14世と密約を結び、カザーレの要塞をフランスに引き渡す仕事を請け負っていた。ところが彼はこの密約をスペインやオーストリアにも売り、二重三重に裏切った。1679年5月2日、フランス側に国境で拉致され、ピネローロに放り込まれた。国家機密を守るために顔を隠す理由もあるし、何より埋葬名の「マルシオリー」が「マッティオーリ」に似ている。これは強い。1826年にジョージ・アガー=エリスというイギリス人がこの説を推し、長らく有力説だった。だが後の史料調査で、マッティオーリはエグジルにもバスティーユにも行っていないことが分かってしまった。タイムラインが合わない。
次にユスターシュ・ドージェ・ド・カヴォワ。1932年、モーリス・デュヴィヴィエという研究者が提唱した。リシュリュー枢機卿の銃士隊長を務めたフランソワ・ドージェの三男で、なかなかの放蕩息子だった。1659年に黒ミサの容疑で取り調べを受け、1665年には酔って王の小姓を剣で殺している。名前が一致し、宮廷のスキャンダルにまみれていて、時期も合う。完璧に見えた。だが1953年、ジョルジュ・モングレディアンが家族の手紙を発見して終わった。このカヴォワは同じ時期、パリのサン=ラザール修道院の監禁房に入っていた。何百キロも離れた場所だ。別人だった。
三つ目が、一番地味で一番不気味な従僕説。1890年にジュール・レールが提唱し、以後も多くの研究者が支持している。この囚人は本当にただの従僕だった。ただし、その雇い主がやっていた何かを見てしまった。外交上の密談か、毒物の取引か、王室の私生活か。削除したいが、殺すのは後々面倒になる。だから生かしたまま、永久に声を封じた。
この説なら、命令書の矛盾がすっきり解ける。「ただの従僕なのだから家具は安物でいい」と「余計なことを口にしたら殺せ」は、矛盾しない。彼自身は重要人物じゃない。彼の頭に入っている情報だけが重要なんだ。人間を人間としてではなく、情報の入った容器として、34年間棚に上げておいた。こっちのほうが、双子説よりもよっぽど怖いと思うんだよな。
## 「大暗号」を解いた男が見つけたもの
暴力的に面白い展開が、十九世紀末に起きている。
ルイ14世の政府は、重要な通信に「大暗号」と呼ばれる暗号を使っていた。ロシニョール父子が考案したもので、音節単位に数字を割り当て、さらに同音字やダミー文字を混ぜた内容だ。考案者が死んだあとは誰にも解けなくなり、フランスの公文書館には「読めない手紙の束」が200年以上眠っていた。
1893年、陸軍の暗号専門家エティエンヌ・バゼリーズが、3年かけてこれを破った。中から出てきた文書のひとつに、ヴィヴィアン・ド・ビュロンドという将軍の処分に関するものがあった。1691年のクネオ包囲戦で、敵が来てもいないのに慌てて撤退し、負傷兵を見捨てた男だ。王は激怒し、ピネローロへ送れと命じた。そして文中に「330」という未解読の数字があり、バゼリーズはこれをmasque(仮面)と読んだ。
一時は「ついに決着」と報じられた。だがこれも崩れた。ビュロンドは同じ年12月11日に釈放されており、しかも1709年まで生きていたことが別の記録で確認された。鉄仮面の囚人は1703年に死んでいる。死んだあとに生きている人間は、同一人物にはなれない。そもそも「330」をmasqueと読むのも、バゼリーズの推測にすぎないとされている。
それでもこのエピソードは好きだ。暗号解読者が200年前の国家機密をこじ開け、中から仮面の囚人の手がかりが出てくる――フィクションでもなかなか書けない展開だ。しかも実際にバゼリーズが大暗号を破ったのは事実で、暗号史に残る大仕事だった。
## 銀の皿と、シャツと、漁師の話
現地には、伝説がいくつも残っている。史料としての信頼度は高くない。だがこの手の話こそが、人々がこの謎をどう受け取ってきたかを伝えてくる。
一つ目は、銀の皿の話。サント・マルグリット島の独房は、小さな窓が海に面していた。ある日、囚人は食事に使われていた銀の皿にナイフで何かを彫り、格子の隔間から海へ投げた。皿は岸に流れ着き、一人の漁師が拾った。銀だ。売れば金になる。だが漁師は、素直にそれを要塞の兵士に届け出た。
知らせを受けた監獄長は飛んできた。皿を取り上げ、漁師の顔をのぞき込んで問う。「これを読んだか。他に誰かに見せたか」。漁師は答えた。「旦那、私は字が読めません。拾ってすぐここへ持ってきました」。監獄長は三日間彼を拘束し、徒弟や近所の人間にまで裏を取った上で、こう言って釈放したという。「行け。お前が字を知らなくて本当に良かった」。バージョンによっては、漁師はその後行方不明になったとも語られる。どちらの結末を選ぶかで、語り手のルイ14世観が丸見えになるのが面白い。
二つ目は、シャツの話。こちらはもっと悲惨だ。囚人はあるとき、上等のリネンのシャツに細かい字でびっしりと何かを書き、窓から投げた。これを拾ったのは、やはり読めない人間だったとも、読めてしまった人間だったとも伝わる。後者のバージョンでは、その人物は翌朝、要塞の外で死体で見つかっている。銀の皿の話とセットで語られることが多いので、同じ伝承の別バージョンだろう。いずれにせよ、囚人が外に向かって何かを伝えようとした、というモチーフは共通している。人々は彼に「語りたいことがあった」と思いたかったんだ。
三つ目は、もっと史料に近い。ルイ14世の弟の妃、つまり王の義妹にあたるパラティーネ公妃リゼロッテ・シャルロッテは、記録魔として知られる人物だ。彼女がドイツの親族に宛てた手紙の中に、この囚人の話が出てくる。彼には常に二人の銃士がつけられていて、もし彼が仮面を外したらその場で射殺するよう命じられていた、と。一方で彼は丁重に扱われ、望むものは何でも与えられていたとも書いている。宮廷の中枢にいた人間の手紙に、このレベルの情報しかない。王家の人間でさえ、中身を知らなかったということだ。
## バスティーユを襲った群衆が探したもの
1789年7月14日、バスティーユが襲撃された。人々は地下に鎖につながれた囚人がいると信じていたが、実際にいたのはわずか七人。拍子抜けな結末だ。
しかし、もうひとつの戦利品があった。史料だ。バスティーユには何十年分もの囚人台帳や司令官の書類が保管されていた。革命の混乱でその一部は広場に撒かれ、風に飛ばされ、古紙商に売られ、包装紙にされた。とはいえ相当量が回収され、後にパリのアルセナル図書館などに収められている。
革命政府は当然、この史料の山に飛びついた。鉄仮面の囚人の正体が分かれば、ブルボン王朝の黒さを決定的に暴ける。彼らは本気で探した。だが、出てこなかった。以後今日まで、世界中の研究者がフランスの公文書館を捜索し続けているが、囚人の本名を直接示す文書は一枚も見つかっていない。
一つだけ確実に言えるのは、1950年代のジョルジュ・モングレディアンの仕事で、サン・マルスが抱えていた囚人の全リストを照合した結果、1669年に「ドージェ」の名で入ってき、1703年まで一貫して彼の手元にいられた人間は、ただ一人しかいないということだ。候補を絞る作業はここで一度、すっきりした。だがその一人が誰なのかは、依然として空白のままだ。
## 日本では黒岩涙香と江戸川乱歩が広めた
日本人にとっても、鉄仮面は実は古参のネタだ。
最初に日本に持ち込んだのは黒岩涙香で、1892年から1893年にかけて新聞「萬朝報」に翻案を連載した。涙香はデュマやリュパンを日本人向けに大胆に日本風に翻案する手法で知られ、これが当たった。明治の読者が「顔を鉄で覆われた囚人」のイメージをこの時点で共有した。
さらに江戸川乱歩がこれを受け継いだ。1938年の講談社版などを通じて、戦前・戦後を通じて少年少女に愛読された。日本で「鉄仮面」という言葉が普通名詞のように使われるのは、この系譜のおかげだ。他の国の人に「マスクをしている人を鉄仮面と呼ぶ」と言っても通じないことがある。日本だけの浸透度だ。
今でも、日本語圏のネットではこの題材が定期的に燃える。個人ブログやnoteの記事では「実は伝説にすぎない」というトーンと、「いややっぱり王家の秘密だ」というトーンが入り乱れ、コメント欄では必ず「ディカプリオの映画で知った」「ベルバラの耳の形で判別できないのか」といった書き込みが並ぶ。動画サイトの考察系チャンネルでは、マッティオーリ説と従僕説を並べて「地味なほうが正解っぽいのが切ない」と結ぶのが定番の展開だ。確かに切ない。
## 島の独房は、今も入れる
実地の話をしておこう。この物語の舞台は、かなりの部分が現存する。
カンヌの港からフェリーで十五分ほど。サント・マルグリット島はレランス諸島のひとつで、ユーカリの林と透ける海に囲まれた、拍子抜けに美しい島だ。ここに17世紀のロワル要塞が残っていて、現在は海洋博物館になっている。
その中に、「鉄仮面の独房」として公開されている部屋がある。入ると驚く。意外なほど広いし、窓もある。ただし窓の内側にはひとつではなく三重の鉄格子がはまっていて、その先に地中海の青が見える。銀の皿の伝説を知っている人間は、この窓を見て必ず同じことを考える。ここから投げたのか、と。実際には囚人がこの部屋にいた確証はない。何世紀もの間に内部は何度も改修されている。だが島にいたのは事実だし、楽園地のアトラクションのような道具だて一切ない。古い石の部屋があるだけだ。それが逆に効く。
バスティーユのほうは、もうない。革命のあと徹底的に解体され、石は建築資材として売られ、一部はコンコルド橋の建設に使われたという。現在のバスティーユ広場には、地面に要塞の輪郭を示す石が埋め込まれているだけだ。地下鉄の駅構内では、工事中に出てきた要塞の基礎部分がさらされている。仮面の男が最後の五年を過ごし、死んだ建物は、今は広場の石畳の下にしかない。
## なぜこの話は、300年経っても怖いのか
この件を調べていて、自分が何に引っかかっているのかがだんだんはっきりしてきた。
一つは、この囚人には名前がないことだ。ユスターシュ・ドージェは役所が付けた仮名らしい。マルシオリーは埋葬のための偽名だ。年齢も偽られている。顔は覆われていた。声を出せば殺される。つまり、国家はこの男から、人間を人間たらしめている要素をひとつ残らず剥ぎ取ったんだよな。殺さないで、だ。これはもうちょっとした拷問だと思う。
二つ目は、彼が丁重に扱われていたことだ。上等の下着、ちゃんとした食事、ギターを弾くことも許されていたという話もある。拷問もされていない。殴られてもいない。その上で、一生外に出さない。懲罰ではなく、保管だ。人間を倉庫にしまっておくという発想。これは、怒りに任せて人を殺すより遥かに冷たい。
三つ目は、私たちが彼の顔を永遠に見られないことだ。骨もない。セント・ポールの墓地は、革命期とその後の都市改造で何度もいじられ、彼の遺骨を特定する手がかりはない。DNA鑑定もできない。ロンドン塔の王子たちなら、少なくとも壺はある。こちらは、掘るべき場所すらない。
四つ目は、この話が現代にも射程を持っていることだ。国家は都合の悪い人間を、殺さずに消すことができる。記録に名前を残さなければ、その人間は存在しなかったことになる。実際、この囚人はほぼ成功して消された。サン・マルスが仮面なんて演出をしなければ、この男は歴史から完全に消えていたはずだ。皮肉な話だ。彼を隠した道具こそが、彼を不死にした。
この謎には、実は二つの層がある。下の層は「1669年に逮捕された男は誰か」という史学の問い。上の層は「なぜ人はこの男を王の双子にしたがるのか」という受容の問いだ。下の層はおそらく永遠に解けない。上の層は、実はかなりはっきり説明できる。
まず下の層を整理する。事実として確定しているのは、意外なほど少ない1669年7月にルヴォワがサン・マルスに宛てた命令書が存在すること。その囚人がサン・マルスの転任に伴って四つの監獄を移動したこと。バスティーユの副司令官の日誌に1698年9月18日の到着と1703年11月19日の死亡が記録されていること。埋葬名がマルシオリーだったこと。黒いビロードの仮面を使っていたこと。以上だ。彼が何をしたのかは、一行も残っていない。
ここで一つ、あまり指摘されないことを書いておきたい。ルイ14世のフランスは、当時のヨーロッパで最も書類主義が発達した国だった。役人は何でも記録した。囚人のシーツの枚数まで帳簿に付ける国だ。その国で、34年間拘束した人間の罪状が一行も残っていない。これは「記録が散逸した」では説明がつかない。意図的に書かなかったと見るほうが自然だ。つまり、最初から「記録に残してはいけない事項」として運用されていた。命令書の宛先を、ルヴォワは意図的に非常に限定している。還っていえば、この事件の真の強さは「隠された」ことではなく、「隠す作業が絶対王政にはできた」という事実のほうにある。
候補を並べ直すと、現在もっとも支持が厚いのは従僕説だ。彼は、どこかの重要人物の従僕だった。主人の私的な、あるいは国家的な秘密を見てしまった。従僕というのは、主人の寝室にも書斎にも入る。手紙を運ぶ。客の顔を見る。何もかも知っている。しかも身分が低いから、殺しても誰も騒がない。なのに殺さなかった。ここがこの説の唯一の弱点でもある。もし単なる口封じなら、殺すのが早い。黒ミサ事件や毒物事件に連座した人間は、実際何人も処刑されている。だから、殺せない何かの事情があったと考えるしかない。彼の死が別の問題を引き起こす・彼を殺せば誰かが騒ぐ・あるいは王自身が何らかの個人的な情を持っていた。この「殺さなかった理由」こそが、実は事件の核心なんだ。
上の層――なぜ人は双子説を手放さないのか。これはもう答えが出ていると思う。双子説は、権力についての最も古い不安をちょうど良い形で表す。現在王座に座っている人間と、本来座るべきだった人間は、入れ替え可能だ。選ばれた者と消された者の差は、実力でも徳でもなく、単なる偶然だ。王の顔をした男が、王になれずに仮面をかぶせられて地下にいる。このイメージは、身分制社会への怒りの完璧な絵解になっている。だからヴォルテールが飛びついた。デュマが洗練させた。フランス革命の前夜で、この話が爆発的に広まったのは偶然じゃない。人々は鉄仮面に、自分たちの立場を重ねていた。声を封じられ、顔を覆われ、名前を取り上げられた人間。それは、絶対王政下の庶民そのものだった。
最後に、自分が一番長く考えてしまったことを書く。この男は34年間、何をしていたんだろうな。島の独房には窓があり、海が見えた。ギターを弾いていたという話も残っている。本を読んでいたかもしれない。食事は良かった。下着は上等だった。だが、話す相手は監獄長一人。その監獄長も、余計なことを口にしたら殺せと命じられている。つまり会話は、パンがもう少し欲しいとか、膝の調子が悪いとか、その程度のことしか口にできない。それが34年。一万二千日以上だ。
人間は、名前を呼ばれないとどうなるんだろう。もし彼が本当に従僕だったなら、彼の人生は完全な負け組だ。たまたま何かを見てしまったばっかりに、三十代から六十代までを石の部屋で使い切った。仇を取ることも、訴えることもできない。死んだあとは顔をつぶされ、偽の名前で埋められ、部屋は焼かれた。世界から完全に拭い取るつもりだったんだ。
ところが、拭い取れなかった。300年後の日本で、面識もない人間が彼のことを考えている。カンヌ沖の島には、彼の名を冠した部屋に人が列を作って入っていく。名前を奪った国家のほうが、1789年に消えた。彼のいたバスティーユは、広場の下の石になった。囚人の記憶が国家に勝てば、今回は囚人の勝ちだ。もっとも、名前はいまだに戻ってこないのだが。
鉄仮面の男――34年間、顔を隠されたまま死んだ囚人の正体
