戦国最強と呼ばれた男が、勝ち戦の途中で死んだ。しかもその死は三年間、公式にはどこにも無いことになっていた。武田信玄の最期は、日本史の中でも相当に異様な部類の「消え方」だ。あれほど名の通った武将の最期にしては、どうにも締まりが悪いうえに、首をかしげたくなる謎が多すぎる。
死んだ日付も、死んだ場所も、死んだ理由も、全部ちょっとずつ食い違っている。おまけに本人が「わが死を三年秘せ」と言い残したせいで、事実そのものが意図的に霧の中へ放り込まれた。その霧の中を、できるだけ足元を見ながら歩いてみる。何が確かで何が怪しいのか、一歩ずつ踏んで確かめていくつもりなので、少しだけ付き合ってほしい。
死んだのに三年間「生きている」ことになっていた男
最初に前提を整理しておく。武田信玄が死んだとされるのは元亀四年、西暦でいう一五七三年の四月十二日。今のカレンダーに直すとだいたい五月十三日あたりだ。享年五十三。ここだけ読むと穏やかな話に見えるけれど、この一行一行の裏側に、それぞれ別の言い分がくっついている。
場所の話もしておく。場所は信濃国伊那郡の駒場、現在の長野県下伊那郡阿智村。三河から甲斐へ引き返す途中の街道上だった。三万近い軍を率いて西へ向かって出陣した男が、国へ帰り着く前の山あいの道で息を引き取った、というのがひとまずの筋書きになる。
ここまでは教科書的な記述だ。ところが、この「四月十二日に駒場で病死」という一行が確定するまでに、何百年ぶんの議論が積み重なっている。死没日を四月十日とする史料もあるし、死んだ場所を根羽だという記録も浪合だという記録もある。死因に至っては労咳、胃がん、食道がん、肝臓病、寄生虫、そして鉄砲で撃たれた傷、と選び放題だ。
なぜこんなことになったか。答えはシンプルで、武田家が意図的に隠したからだ。当主が死んだこと自体を、三年間伏せた。敵だらけの戦国の世で、国の頭がいなくなったのに、いなくなったと言わないまま三年を過ごしたわけで、考えてみると相当に大胆な話だと思う。
その間、公式には信玄は「隠居した」ことになっていて、家督を継いだ勝頼が表に立った。情報を止めれば、記録も止まる。記録が止まった三年ぶんの空白に、あとから伝説が流れ込んだ。それが今の混乱の正体だと思っていい。記録の無い場所には何を書き込んでも否定されにくいので、あとから来た語り手たちにとっては、これ以上ない格好の空き地になる。
元亀三年十月、五十二歳の男が甲府を出た
信玄の最後の遠征、いわゆる西上作戦が始まったのは元亀三年十月三日だ。将軍足利義昭が織田信長討伐の号令をかけ、それに応じる形で信玄は甲府を進発した。本隊は馬場信春らを従えて青崩峠から遠江へ入る。五十を過ぎた男が大軍を引き連れて山国の甲斐から打って出る、結果的に生きて帰ることのなかった長い遠征の、最初の一歩がここになる。
別働隊も動いた。別働隊の山県昌景は三河へ回り、柿本城や井平城を落としていった。秋山虎繁は美濃の岩村城を囲み、信長の叔母にあたるおつやの方が守っていた要衝を落としている。遠江、三河、美濃と、いくつもの方向から徳川と織田の領分へ食い込んでいく形で、動きに迷いが見えない。
動員兵力は史料ごとに数字が揺れるが、三万近い。これは信玄が生涯で組んだ最大級の軍だ。しかも五十二歳、当時としては老将だ。若い頃から信濃を切り取り、川中島で上杉と削り合い、駿河を呑み込んだ男が、最後の最後で西を向いた。三万という数はそれだけで国の総力を傾けたような規模で、五十二歳の、しかも体の具合が怪しい男が背負うには重すぎる。
問題は、この時点で信玄の体がすでにおかしかったことだ。武田家の記録を読むと、遠征前から体調不良の記述が散らばっている。出陣を延期した形跡もある。遠征の前から体が悲鳴を上げていたのだとすると、三万の軍を率いたこの出陣の意味そのものが、がらりと違って見えてくる。
要は、信玄は自分の残り時間を計算した上で出た公算が大きい。今行かなければ二度と行けない、という判断だ。だとすればこの遠征は、最初から病人の賭けだった、という話になる。自分の体の具合は本人がいちばんよく分かっていたはずで、それでも出ていったところに、この男の凄みがある。
三方ヶ原、日が暮れてからの二時間
十二月二十二日、三方ヶ原。信玄の生涯で最も鮮やかな勝ち方をした戦いだ。ここで起きたことは、このあと続く信玄の死の話を読むうえでも、ずっと背景として効いてくるので、頭の片隅に置いておいてほしい。
武田軍は浜松城を素通りして北西へ抜けようとした。徳川家康はこれを追った。籠城していれば済んだのに、背中を見せた敵を叩けると思ったんだろうな。ところが信玄は追ってくることを読んでいた。台地の上で振り返り、魚鱗に組んで待ち構えていた。
戦いは冬の夕方に始まり、もったのは二時間足らず。徳川方の鶴翼はあっさり食い破られ、死傷者は二千人。本多忠真が討たれ、鳥居四郎左衛門が討たれ、成瀬藤蔵が討たれた。織田からの援軍を率いていた平手汎秀も死んでいる。家康自身は夏目吉信ら身代わりの家臣に助けられて浜松城へ逃げ込んだ。
有名なのが、城門を開け放って篝火を焚き、あえて武田を招き入れる素振りを見せた「空城計」の逸話だ。恐怖に歪んだ自画像を描かせたという「しかみ像」の話もある。どちらも、後世に整えられた部分が大きいという。それでも家康が人生最悪の負け方をしたのは確かだ。逸話のほうがいくら盛られていたとしても、三方ヶ原の負けそのものが家康の生涯でいちばん苦い記憶だったことは動かない。
ここが不気味なところで、この完勝のあと、武田軍の足が止まる。翌年正月、浜名湖の北岸にある刑部で年を越している。冬営自体はおかしくない。でも、西へ突き抜けるにはあまりに悠長だ。総大将の体が言うことをきかなくなっていた、と読むのが自然だろうね。
野田城で、毎晩どこからか笛が聞こえた
年が明けて元亀四年正月、武田軍は三河の野田城を囲んだ。城主は菅沼定盈。守兵はせいぜい五百。対する武田はまだ数万を抱えている。普通なら数日で終わる包囲戦だ。
ところが、これが一か月かかった。信玄は力攻めをしなかった。甲斐の金山で働く金掘衆を呼び寄せ、地下に坑道を掘らせて城の水の手を断つという、ひどく手間のかかる方法を選んだ。落城は二月十六日ごろだという。定盈は捕らえられ、のちに人質交換で解放されている。
なぜ手間をかけたのか。ここでも「総大将が動けなかったから」という説明が効いてしまう。急がせる者がいなければ、軍は丁寧に戦う。五百の兵が守る小さな城に、数万の軍が一か月も貼りついているのは、どう見ても普通の光景じゃない。
この一か月の包囲の最中に、あの伝説が生まれる。城の中から、毎晩のように笛の音が聞こえたという話だ。吹いていたのは村松芳休という名手だったと伝わる。包囲戦のさなかに、囲まれて水の手まで狙われている城の中から、風流な笛の音が毎晩聞こえてくるというのは、それだけでもう普通じゃない。
音は谷を渡って包囲側にまで届いた。信玄は笛を好んだ。だから夜になると陣を離れ、谷を挟んだ対岸まで音を聴きに出てきた。冷え込んだ夜の谷を笛の音だけが渡っていく光景は、思い浮かべると出来すぎなくらい絵になる。
城方はそれに気づいた。同じ場所に同じ時刻に、身分の高そうな人物が現れる。鳥居三左衛門という鉄砲の名手が、あらかじめその位置に目印の竹を立て、銃を据えて待った。包囲されている側が、包囲している側の総大将をじっと見張っていたわけで、立場がいつの間にか入れ替わっている。
笛が高く鳴った瞬間に撃つ。弾は信玄の右肩あたりに当たった。武田軍はその直後から撤退を始めた。話の運びがあまりにきれいにできていて、読んでいるこっちのほうが、かえって少し身構えてしまう。
この話は、『松平記』や菅沼家の家譜など、徳川方の記録に出てくる。現地の愛知県新城市には法性寺があり、境内に「笛聞場」と呼ばれる場所が今も残っている。谷を挟んだ地形も伝説の通りだ。狙撃地点から着弾地点までは六十メートルほどとされ、当時の火縄銃の有効射程内に十分収まる。設楽原歴史資料館には「信玄砲」と呼び伝えられてきた火縄銃が展示されている。
輿に乗せられた総大将と、来た道を戻る三万
野田城が落ちてから、武田軍の動きは明らかに変わる。西へ進まない。長篠城のあたりまで下がり、そこで停滞し、やがて北へ、甲斐へ向かって引き返し始めた。勝った軍が、勝ったまま向きを変えて来た道を帰っていくのだから、どう考えたって奇妙な動きだ。
信玄は馬に乗れなくなっていた。輿に乗せられ、幕を下ろされたまま運ばれたと伝わる。喀血の記述が出てくるのもこの時期だ。血を吐いた、という一行が記録に混じり始めると、もうごまかしがきかない。総大将が人前に顔を出せなくなるというのは、戦国の軍にとってはほとんど負けに等しい事態で、周りの将たちの胸の内は穏やかじゃなかったと思う。
軍というのは残酷な組織で、総大将が輿から降りてこない、ただそれだけで、末端まで空気が変わる。それでも武田軍は崩れなかった。ここは素直にすごい。輿から出てこない総大将のもとで、それだけの大軍を乱れさせずに動かしていたのだから、下で支えていた将たちの腕も相当なものだ。
見事な引き際だ。三万近い軍勢が、勝ったまま、静かに、来た道を引き返した。追撃らしい追撃も受けていない。徳川も織田も、目の前で何が起きているのか正確には掴めていなかった。
四月に入り、行軍は伊那谷に差しかかる。三河街道を北上し、駒場に至る。信州の四月はまだ冷える。伊那谷の底を、幕を下ろした輿がゆっくり進んでいく。その中で、たぶんもうほとんど声も出せない男が、家臣たちに最後の指示を出していた。
元亀四年四月十二日、信濃駒場
ここからが本番だ。死の場面として伝えられている光景は、いくつかの断片からできている。ひとつずつは短い話だけれど、並べてつなぎ合わせると、ひとりの男の最期の場面がぼんやりと見えてくる。
山県昌景を枕元に呼び、「源四郎、明日は瀬田に旗を立てよ」と言った。瀬田は京の入口だ。琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる橋で、そこに旗を立てるというのは天下を取るという意味の慣用表現だ。死ぬ間際にそれを言った。行けなかった場所の名前を、行けと言い残した。
枕元の話はもう少し続く。馬場信春には、陣中の守り本尊と刀八毘沙門、勝軍地蔵を託した。これらは正室三条夫人の墓のある甲府の円光院に納めよ、と指示している。死ぬ男が、妻の眠る寺の名前を出した。天下の話をしたのと同じ枕元で妻の寺の名を口にしたのかと思うと、ちょっと胸にくるものがある。
ここで例の一言だ。わが死を三年の間は秘せ。たったこれだけの短い一言が、そのあと四百五十年ぶんの混乱と想像と、数えきれない伝説を、まとめてこの世に呼び込んでしまう。
辞世として伝えられているのは「大ていは地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流」という禅語めいた一句だ。おおよそ自然に任せておけばそれで美しい、白粉など塗らずとも風流だ、という意味になる。
死の床でこれを吐いたのだとしたら、相当に肝が据わっている。禅の言葉を借りて飾らないことを美しいとする句で、戦場を駆け回った男の最期の言葉としては、意外なほど静かな響きがある。ただ、この句自体、後世の整形が入っている可能性は高い。
死没地についても異説がある。駒場が有力視されているが、下伊那郡根羽村には信玄塚があり、「信玄公ねばねにて御他界」と書かれた記録が伝わる。根羽の地名の由来を、信玄が死んだので風林火山の旗を横に寝かせたことに結びつける伝承まである。
候補はまだある。もっと南の平谷や浪合で死んだとする記録もある。ただ、浪合には遺跡らしい遺跡が何も残っておらず、信憑性は低いというのが大方の見方だ。死んだ場所ひとつ取ってもこれだけ候補が並ぶあたりに、三年間の沈黙の後遺症がはっきり出ている。終焉の地がひとつに決まらないのは、それだけ多くの土地が、信玄の最期を自分たちの話として抱え込みたがったからかもしれない。
駒場の長岳寺には、火葬地から灰を移したという供養塔が昭和四十九年に建てられている。伝承では、信玄の遺体はこの地で荼毘に付された。伝承と供養塔がそろって同じ場所を指しているぶん、駒場説はほかの候補よりも一段、地に足がついて見える。
遺言のかたち――『甲陽軍鑑』は何をどう書いているか
信玄の遺言をもっとも詳しく伝えるのは『甲陽軍鑑』だ。この本がなければ、信玄という人物像の八割はどこにも無い。風林火山も、二十四将も、啄木鳥戦法も、そして「三年秘せ」も、ほとんどここから出ている。裏を返せば、この本の信用が崩れたとたん、我々の知っている信玄の姿も、ほとんど足元から一緒に崩れてしまうわけだ。
『甲陽軍鑑』が伝える遺言はだいたい四本柱だ。ひとつ、自分の死を三年間は隠せ。ふたつ、勝頼は嫡孫の信勝が成人するまでの陣代、つまり中継ぎとして務めよ。みっつ、外交では越後の上杉謙信を頼れ。よっつ、遺骸の扱いについての指示。
三つ目が面白い。あれだけ川中島で削り合った相手を、死ぬ間際に「頼れ」と指名している。信玄の目には、信長という新しい怪物のほうがよほど危険に映っていたわけだ。現に、この読みは当たっていた。宿敵を頼れと言い残すのは、意地や感情より損得を先に立てた判断で、死の床にあってもそれができるところに、いかにも信玄らしい冷たさがある。
二つ目も重い。勝頼を正式な当主ではなく「陣代」に置くという設計は、後の武田家の躓きに直結する。家中に「あれは正式な殿ではない」という空気を残してしまうからだ。この陣代説そのものが『甲陽軍鑑』由来で、実際の武田家がどこまでその建前で動いていたかは議論がある。ただ、勝頼が信玄の官途や信玄印判を継承しきれなかった痕跡はあり、継承が普通の形でなかったのは確からしい。
『甲陽軍鑑』は偽書なのか、そうでないのか
ここで史料の話をきちんとしておきたい。信玄の死をめぐる議論は、突き詰めると「『甲陽軍鑑』をどこまで信じるか」に収束するからだ。この一冊の評価が揺れるたびに、信玄の最期の見え方もいっしょに揺れてきた、と言っていいくらいの関係にある。
『甲陽軍鑑』の成立事情はこうだ。武田の重臣・高坂弾正昌信、本名を春日虎綱という男が、勝頼の代の武田家に対する諫言の書として口述した。それを猿楽者の大倉彦十郎が筆記し、虎綱が死んだあとは甥の春日惣次郎が書き継いだ。おおむね天正三年から天正五年ごろに骨格ができ、記述は天正十四年まで及ぶ。武田家滅亡後、この写本が小幡光盛の手を経て小幡景憲に渡り、元和七年ごろに景憲が整えた形で世に出た。
近代に入って、この本は徹底的に叩かれた。偽書扱いだ。一八九一年、田中義成が「甲陽軍鑑考」という論文で、文書や記録と突き合わせると年代の誤りが多すぎると指摘し、小幡景憲が高坂昌信の名を借りて偽作したものだと断じた。これが効いた。以後、長いあいだ『甲陽軍鑑』は歴史学の場で「使えない本」として扱われる。
流れが変わったのは一九九〇年代だ。国語学者の酒井憲二が、本文の言語そのものを徹底的に分析した。使われている語彙や語法が、江戸初期ではなく戦国末期のそれであること。景憲は編纂者ではなくて、傷んだ原本を相当忠実に写した「謹直な写し手」であること。これを文献学的に論証してみせた。
再評価が始まる。その後、平山優や黒田日出男などの研究者が実証面から再評価を進めた。年号の間違いについては、口述筆記という性格上、老人の記憶違いが混じるのは当たり前だという説明がつく。武家の故実や当時の習俗については、むしろ他の史料では拾えない生々しさがある。語った人間が老いていて記憶が揺れていたとしても、その場にいた者にしか書けない細かさは、そう簡単に作り物では出せない。
要は、今の常識はこうだ。『甲陽軍鑑』は年代を信じてはいけない。でも、空気と細部は信じていい。信玄の遺言も、一言一句そのままではないにせよ、武田家の中で語り継がれた形を反映している可能性は高い。数字の扱いにだけ気をつければ、中身は当時の武田家をのぞくための貴重な窓になる、というのが今の落としどころだ。
敵側の記録は、いつ気づいたと言っているか
では武田以外の史料はどうか。身内の書いたものだけを眺めていても話が偏るので、ここからは外側の目で書かれた記録をのぞいてみる。
太田牛一の『信長公記』は、織田側から見た同時代記録として信頼度が高い。ここには信玄の死が記されている。ただ、織田方は正確な日付まで把握していたわけじゃなく、伝聞として処理されている。敵の側が信玄の死をどのくらい確かな話として受け取っていたか、その温度がこの書きぶりからある程度は読み取れる。
江戸初期に編まれた『当代記』も信玄の死を扱う。こちらは松平忠明の編とされ、成立は近世に入ってからだが、失われた同時代記録を写している部分があり、軽くは扱えない。病状に関する記述が拾えるのはこの系統だ。成立の遅い本でも、中に古い記録の写しが紛れ込んでいるなら、その部分だけは同時代の声として聞ける。
何より大事なのが、諸大名が交わした書状群だ。信玄の死からそう時間を置かずに、「武田信玄が死んだらしい」という情報が各地の書状に現れ始める。上杉方も北条方も織田方も、噂の段階では早い時期に掴んでいた。当主の生死という最大級の機密が、敵味方の手紙の中であっさり噂話として飛び交っていたわけだ。
ここが要点だ。「三年隠し通した」というのは、正確じゃない。公式に喪を発表しなかったというだけで、実態は数か月で漏れていた。武田家がやったのは秘匿じゃなくて、否認だ。喪を出さないことと、死を最後まで隠しきることは、似ているようでまるで別の話で、ここを混ぜると議論が一気にこんがらがる。
噂は流れる。でも誰も確認できない。当主が生きているとも死んでいるとも言わないまま、家として通常運転を続ける。この状態を三年やった。否定もしないし肯定もしない、そのどっちつかずの状態をひたすら保ち続けるのは、嘘をつき通すよりずっと神経を使う。
死因その一、若い頃からの労咳という説
いちばん流通しているのが労咳、つまり肺結核だ。昔から語られてきた筋で、信玄の最期の話になると、まず真っ先にこの病名が出てくるくらい定着している。
根拠は喀血だ。野田城のあと血を吐いたという記述があり、それ以前にも喀血の逸話がある。肺結核なら、長期の微熱と衰弱、そして末期の大量喀血という経過にきれいに乗る。五十代という年齢も、当時の結核の進み方として不自然じゃない。
弱点もある。信玄は死の直前まで三万の軍を率いて数か月の遠征に耐えている。末期の肺結核患者にそれができるかというと、相当厳しい。もちろん輿に乗せられていたわけだが、それでも冬の遠征だ。労咳一本で説明するには、体力が持ちすぎている。
死因その二、膈という言葉が意味するもの
二番手に強いのが消化器のがん説だ。胃がん、あるいは食道がん。こちらは病名を先に当てにいった説というより、晩年の信玄の衰え方の描写から逆算して浮かんできた説だ。
古い医書では、食べ物が喉を通らなくなる病を「膈」と呼んだ。武田家周辺の記録にこの種の症状を思わせる記述があり、そこから食道がんや胃がんが疑われてきた。食道が狭くなって物が入らなくなり、痩せ衰えて死ぬ。信玄の最晩年の描写、輿から降りられない、声が出ない、そんな断片と相性がいい。
がんなら、「勝ち戦のあとに急激に悪化した」という経過も説明できる。消化器がんは、ある段階を越えると転がり落ちるように悪くなるからだ。元亀三年の秋には出陣できた男が、元亀四年の春には死ぬ。この落ち方はがんらしい。秋から春までのあいだに一気に崩れていく姿は、長いあいだ微熱と衰弱を抱えてじわじわ弱っていく病気の像とは、あまり噛み合わない。
血を吐いた記録も、肺からだと決まったわけじゃない。上部消化管からの出血でも人は血を吐く。量で言えば、むしろ吐血のほうが多い。喀血と吐血を区別せずに「血を吐いた」と書かれた場合、後世の我々には見分けがつかない。ここが労咳説と膈説が今も並走している理由だ。
死因その三、肝臓と、甲府盆地の風土病
肝臓病説もある。信玄が大酒飲みだったという話と結びつけて語られがちだ。肝硬変から食道静脈瘤が破裂すれば、これまた大量の吐血で人は死ぬ。腹水で腹が膨れ、黄疸が出て、意識が混濁する。末期の描写とは噛み合う。
もうひとつ、近年よく持ち出されるのが日本住血吸虫症だ。甲府盆地はこの寄生虫による地方病の激烈な流行地だった。明治以降、この病気の撲滅に地元がどれだけの労力を注いだかは、それ自体が壮絶な物語になっている。感染すると肝臓に虫卵が沈着し、肝線維症を起こし、腹水が溜まり、食道静脈瘤ができて吐血する。信玄が甲府で育った以上、感染していた可能性は普通にある。
面白いのは、この説だと肝臓病説と吐血が一本の線で繋がることだ。酒でやられたんじゃなくて、故郷の水でやられていた。戦国最強の男を殺したのが、川の水にいた小さな虫だったかもしれない。これはこれで、ちょっと文学的すぎるくらいの落ちではある。病気の話をしていたはずが、いつの間にか信玄の生まれ育った土地の話になっているのが、この説のいちばん面白いところだと思う。
死因その四、笛に誘われて撃たれたという説
最後の候補が狙撃説だ。四つの中ではいちばん派手で、いちばん人の口にのぼりやすく、そしていちばん史料の足場が弱い説でもある。
前に書いた野田城の伝説がそのまま死因説になる。鳥居三左衛門の一発が右肩に当たり、その傷が悪化して信玄は死んだ。撤退の時期が野田城陥落の直後であることは事実なので、時間軸だけ見れば辻褄が合ってしまう。死因の候補の中で、敵の手で殺されたとする説はこれひとつなので、病死の説がいくら並んでも、そのぶん話としての引力が段違いに強い。
ただ、研究者でこれを支持する人はほぼいない。理由は明快で、記録が徳川側の後年の編纂物に偏っているからだ。『松平記』も菅沼家の家譜も、徳川が天下を取ったあとの空気の中で整えられている。「信玄を倒したのは我らの側の鉄砲だった」という物語は、徳川の家中にとってこの上なく気持ちのいい話だ。三方ヶ原で人生最大の恥をかかされた家康の家臣団が、その借りを返す話を欲しがらないはずがない。
もうひとつ、肩を撃たれて二か月生きるという経過も微妙だ。当時の医療で銃創が化膿すれば、もっと早く死ぬか、あるいは生き延びるかのどちらかに寄る。ずるずると二か月かけて衰弱するというのは、むしろ慢性疾患の経過に見える。傷がもとで死んだのなら、もっと短いあいだに容体がはっきり動くはずで、そこがどうしてもすっきりしない。
それでも、この説には抗いがたい魅力がある。笛の音、夜の谷、狙いすました一発。死に方として美しすぎる。だから消えない。
地元には今も笛聞場があり、資料館には信玄砲がある。黒澤明が映画の冒頭でこれを採用したことで、この説は世界中に広まった。理屈の上では分が悪くても、笛聞場や信玄砲のように目に見える場所と物がちゃんと残っている説は、なかなか人の記憶から消えてくれない。
諏訪湖に沈めよ、という一行はどこから来たのか
信玄の遺言としてもうひとつ有名なのが、「わが遺骸を諏訪湖に沈めよ」というものだ。甲冑を着せたまま、あるいは石棺に納めて、諏訪湖の底へ沈めろ。武田の守り神である諏訪明神の湖に、自分が沈んで湖ごと国を守る。守り神の湖に自分ごと沈めという発想は、死んでもなお国の守りに回ろうとする男の執念の話として読める。
これがまた絵になる。諏訪湖は冬になると全面凍結し、氷が割れて盛り上がる御神渡りという現象が起きる。神が湖を渡った跡だという。その湖の底に、鎧を着た信玄が座っている。想像するだけで背筋がざわつく。
夢のある話だ。ただ、率直に言ってこれは史実じゃない。歴史研究者の渡邊大門も、この水葬部分ははっきり事実ではないと指摘している。『甲陽軍鑑』の遺言の中核は死の秘匿と後継の設計であって、湖に沈めろという指示が信頼できる形で残っているわけじゃない。話としてどれほど絵になっても、史料の裏付けがない以上、ここは物語として味わう場所だと割り切って読んだほうがいい。
では、なぜこの話が生まれたか。ひとつは諏訪との縁だ。信玄は諏訪頼重を滅ぼし、その娘を側室にして勝頼を産ませた。勝頼は諏訪の名跡を継ぎ、諏訪四郎勝頼と名乗っていた時期がある。武田と諏訪明神の結びつきは信仰面でも強い。
もうひとつは、遺体の行方が公式に説明されなかったこと。三年間伏せた以上、その間の遺骸の扱いは語られない。空白があれば人は埋める。湖に沈めた、という一行はその埋め草として完璧だった。記録が黙っているところほど、伝説は好き勝手に根を張って育つので、三年の空白はそれにうってつけの土壌になる。
戦後になっても、諏訪湖の底を調べれば信玄の棺が出てくるのではないか、という話は繰り返し浮上した。もちろん出ていない。でも「まだ調べ足りないだけだ」と言い続けられる限り、この伝説は死なない。証拠が出てこないこと自体が、そのまま伝説の燃料として働き続けているのが、この手の話のしぶといところだ。
恵林寺の墓、岩窪の石棺、そして昭和六年の茶壺
話は墓に移る。信玄の墓は複数ある。分骨されたと考えれば矛盾はしないが、それにしても多い。ひとりの人間の墓がこれほどあちこちに散っている例は、戦国大名の中でもそう多くは見かけない。
菩提寺は甲州市塩山の恵林寺だ。信玄の法名は恵林寺殿機山玄公大居士。ここに墓があり、命日の四月十二日には信玄公忌が営まれる。ここが公式だ。
もうひとつ有名なのが、甲府市岩窪町にある信玄公墓所だ。土屋昌続の屋敷跡とされる場所で、地元では長らく魔縁塚と呼ばれ、祟りを恐れて誰も近づかなかったという。地元の人にとっても、長いあいだ気味の悪い場所だったんだろうな。ここで安永八年、西暦一七七九年に事件が起きる。
甲府代官の中井清太夫が発掘を行い、石棺が出た。銘には信玄の戒名と、四月十二日という日付が刻まれていたと伝わる。死を隠していた三年のあいだ、遺骸はここに埋められていたのではないか、という話になった。掘ったら本当に何か出てきてしまったのだから、話が一気にややこしくなるのも当然で、そこからまた新しい伝説が枝分かれしていく。
次は昭和六年、一九三一年。長野県佐久市岩村田の龍雲寺で、さらに妙な物が出る。庭園から茶壺のような容器が掘り出され、中に火葬骨が入っていた。
一緒に短刀と、銘のある袈裟環が出土した。袈裟環というのは僧衣の袈裟を留める金具だ。その銘が信玄を指すものだったため、大騒ぎになった。寺の庭から、戦国大名を指す銘の入った金具が骨といっしょに出てきたのだから、騒ぎになるのも無理はない。
龍雲寺は武田と縁が深い。信玄は曹洞宗の統制拠点としてこの寺を重んじ、越後から北高全祝という高僧を招いていた。北高は僧録司として宗派を束ねる立場にあった。伝承では、この北高が駒場での火葬に立ち会い、遺骨の一部を持ち帰って自分の寺に納めたという。話としては通る。
ただ、この発見はすんなり受け入れられなかった。出土品の鑑定をどう見るかで論争になり、史跡指定が却下され、訴訟にまで発展している。学問的な決着はついていない。発見そのものより、その後の揉め方のほうがずっと長く尾を引いている、というのがこの一件のなんとも妙なところだ。
今も遺骨は本堂脇の霊廟に安置され、参拝はできる。行けば「信玄公の遺骨」に手を合わせられる。それが本当に信玄なのかは、誰にも言えない。確かめようのない骨を前にして手を合わせるというのは、考えてみるとずいぶん不思議な体験で、行った人の話を聞いてみたくなる。
このほか、駒場の長岳寺、甲府の大泉寺、高野山の成慶院、京の妙心寺にも墓や供養塔がある。高野山については、天正三年三月六日に山県昌景が使者となって日牌が建てられたという記録が武田家側に残っている。
影武者・武田信廉という、絵を描く弟
三年間の否認を実務レベルで支えたのが、影武者だと言われている。その筆頭が信玄の同母弟、武田信廉だ。三年の芝居を回し続けるには、舞台の上に信玄の姿をした誰かが立っていないと、話がどうしても成り立たないからだ。
信廉は一五三二年生まれ。逍遙軒信綱と号した。武田二十四将に数えられる武将であると同時に、相当本格的な絵師でもあった。戦場で采配を振るう人間と、筆で人の顔を写し取る人間が、ひとりの体の中に同居していたわけだ。
大泉寺に伝わる父・武田信虎の肖像画は重要文化財に指定されている。長禅寺には母である大井夫人の肖像もある。渡唐天神像なども残っている。武将が余技で描いたという水準じゃない。
しかも信廉は、兄に骨相がよく似ていた。顔立ちが似ているというより、骨格が似ている。だから座っていれば信玄に見えた。影武者の条件としては、顔の造作より体つきや座ったときの姿が似ているほうが、よほど効くのかもしれない。
有名な逸話がある。信玄の死の噂を聞きつけた小田原の北条氏政が、真偽を確かめるために使者を送り込んだ。使者は板部岡江雪斎だったと伝えられる。対面したのは信廉だ。使者は騙され、信玄は生きていると報告して帰った。
この話がどこまで本当かはわからない。でも、絵を描く男が兄になりすまして敵の使者と向き合っている、という構図はできすぎている。他人の顔を写し取ることを職能にしていた人間が、最後に兄の顔を演じた。しかも三年間。
信廉の最期は苦い。天正十年三月、織田の甲州征伐が始まると、信廉は伊那の大島城を守っていたが、ほとんど戦わずに城を捨てて甲斐へ退いた。兄の面影を演じ続けた男が、兄が命を懸けて広げた領地をあっさり手放した。皮肉な話だ。
その後、織田の残党狩りに捕まり、三月二十四日、甲斐府中の立石、相川の左岸で処刑された。享年五十一。手を下したのは森長可配下の者たちだった。兄の顔を演じた男が、兄の築いた国が滅んでいくそのさなかに命を落とすのだから、何とも言いようのない結末だと思う。
隠しきれてはいなかった――謙信、信長、家康
三年秘匿は、対外的にはほとんど機能していない。隠したつもりの当人たちが思っていた以上に、信玄の死はあちこちの陣営に早々と筒抜けだった。
上杉謙信は早い段階で信玄の死を掴んでいた形跡がある。後世の軍記物には、こんな美しい話が載っている。謙信は信玄の死を聞いて箸を落とし、「英雄人傑なり、われ好敵手を失えり」と嘆いて涙を流し、三年間は関東へ出兵しなかった、というものだ。ただ、この手の逸話は江戸期の脚色が濃い。現実の謙信は越中や能登の方面で忙しく、武田領へ攻め込む余裕がなかったという事情が大きい。
織田信長も動いている。信玄という重しが外れた瞬間、信長は畿内の掃除を一気に加速させた。同じ元亀四年のうちに足利義昭を京から追い、浅井と朝倉を滅ぼしている。信玄が死んだ年に、信長包囲網は事実上崩壊した。これほど分かりやすい相関はない。
徳川家康はもっと露骨だ。信玄に取られた城を、翌年から取り返しにかかっている。長篠城を奪回し、野田城も菅沼定盈の手に戻った。三年秘せという遺言が、家康の目にはほとんど効いていなかったことが、この取り返しの早さひとつを見てもよく分かる。
信玄が生きていたら絶対にやらない動きだ。家康は確信していた。あれは死んだ、と。三方ヶ原でさんざんな目に遭わされた相手の領分へ、こうも遠慮なく手を伸ばしていく姿は、確信のあらわれとしか読みようがない。
三年秘匿が守ったのは「対外的な機密」ではなく「内部の秩序」だった、と考えたほうがいい。武田家中に対して、信玄はまだいる、という建前を維持し続けた。国衆の離反を防ぎ、勝頼への継承を軟着陸させるための時間稼ぎだ。そう考えると、この遺言は相当に実務的な政治判断という話になる。
塩を送った話との、気味の悪い対称
話は少し脇へそれる。信玄と謙信といえば「敵に塩を送る」の逸話が有名だ。今川と北条が武田領への塩の流通を止めたとき、宿敵であるはずの謙信が塩を送ってやった、という話。敵の弱みにつけこまない武士の心意気を語るとなると、真っ先に引っぱり出されてくる定番中の定番の話だ。
この話も、史実性は相当怪しい。同時代史料に明確な裏付けはなく、江戸後期の頼山陽『日本外史』などで広まり、明治以降の道徳教材で完成形になったという。実態としては、越後の商人が塩を売り続けただけ、経済行為であって義侠心ではない、という見方が有力だ。
ただ、この話と信玄の死は、対で語ると妙に効いてくる。生きているときには、敵から塩が届いた。死んだときには、敵に死んだことを教えなかった。塩の話と死の秘匿の話は、並べて置いたときに初めて、互いの輪郭がくっきり浮いてくる、ちょっと珍しい組み合わせだ。
片方は与える伝説、片方は隠す伝説。どちらも「戦国武将は敵とどう向き合ったか」という物語への渇望から生まれている。日本人はこの二人に、ずっと同じことをやらせたがっている。
三年後の四月十六日、恵林寺
遺言は、せめて形式の上では守られた。
天正三年四月十二日、恵林寺で三回忌にあたる仏事が行われた記録がある。導師を務めたのは恵林寺の住持、快川紹喜。信玄が美濃から招いた高僧で、信玄に「機山」の号を与えた人物でもある。
正式な葬儀は天正四年四月十六日だという。勝頼が主催し、快川が大導師を務めた。信玄が死んでからちょうど三年。伊那谷の街道で息を引き取った男が、三年後にようやく公式に死んだ。三年間ずっと生きていることになっていた男の死が、ここでようやく帳尻を合わせたような格好で、見ていて少し息がつける。
ただ、この三年は武田家にとって最悪のタイミングだった。天正三年五月二十一日、長篠。葬儀の一年前だ。
勝頼は一万五千を率いて織田徳川連合軍の陣城に挑み、一万を超える死傷者を出した。山県昌景も馬場信春も内藤昌豊も、そこで死んだ。信玄の遺言を聞いた家臣たちが、信玄の葬儀を待たずにまとめて消えた。
葬儀の場に、あの日枕元にいた顔はもうほとんどなかったことになる。遺言を枕元で聞いた顔ぶれが、ひとつの戦でまとめていなくなってから葬儀を迎えるのだから、巡り合わせが悪いにもほどがある。
そして寺は焼かれ、家は滅びた
その後の展開は、駆け足で書くのが辛いくらい急だ。
天正九年、勝頼は本拠を躑躅ヶ崎館から新府城へ移そうとする。同じ年の三月、高天神城を見殺しにした。信長との和睦交渉を優先して後詰を出さなかった結果、城は落ち、「勝頼は味方を助けない」という評判が武田領内に広がった。これは痛い。信玄が生涯かけて積んだ信用が、ここで底を抜けた。
天正十年二月十四日、浅間山が噴火する。同じ日から織田の甲州征伐が本格化した。同時代人にとって、これは完全に凶兆だった。噴火と侵攻が同じ日に重なれば、当時の人がそこに天の意思のようなものを読み取りたくなるのも、無理はない話だ。三月三日、勝頼は新府城に火を放って逃げる。
頼った小山田信茂に裏切られ、三月十一日、天目山へ向かう途中の田野で追い詰められた。巳の刻、勝頼は嫡男の信勝、正室の北条夫人とともに自害した。享年三十七。甲斐武田氏は滅んだ。
四月三日、今度は恵林寺が焼かれる。快川紹喜が信長に敵対した佐々木次郎、すなわち六角義定らを寺に匿い、織田信忠の引き渡し要求を拒んだためだ。中世の寺院は聖域だという観念が、快川の側にはあった。信忠にはなかった。山門に追い上げられた僧たち、そこへ放たれた火。
このとき快川が唱えたとされるのが「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」だ。日本人なら誰でも知っているあの句だ。ただ、これの原典は唐の詩人・杜荀鶴の詩で、快川のオリジナルじゃない。しかも快川がこれを唱えたという話自体、近世の編纂物で整えられたものだという指摘がある。
信玄の葬儀を執り行った僧の最期の言葉すら、伝説なのだ。この一族をめぐる記録は、どこを掘っても地面が柔らかい。伝説を一枚剥がすと、その下からまた別の伝説が顔を出してくる、というのがこの一族の話のいちばん厄介なところだ。
黒澤明が刷り込んだ「信玄の死」
話は映画に飛ぶ。現代人が思い浮かべる信玄の死は、正直なところ、相当な部分が黒澤明の作品でできている。頭の中にある信玄の最期の映像を順にたどっていくと、たいていどこかで一本の映画に突き当たるはずだ。
一九八〇年四月二十六日公開の『影武者』。冒頭で信玄は野田城の狙撃を受け、死ぬ。遺言により死は伏せられ、処刑されかけていた盗人が、信玄に瓜二つという理由だけで影武者に仕立てられる。仲代達矢が信玄と影武者の二役、山﨑努が武田信廉、萩原健一が勝頼を演じた。
この映画は第三十三回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを取り、日本の歴代興行成績で一位になった。海外版のプロデューサーにはジョージ・ルーカスとフランシス・フォード・コッポラが名を連ねている。二人が二十世紀フォックスに働きかけたことで、難航していた資金が集まった。撮影は一九七九年六月二十六日に姫路城で始まっている。
有名な降板騒動もあった。当初、信玄役は勝新太郎だった。ところがクランクイン直後のリハーサルで衝突する。
勝が自分の演技をビデオで撮りたいと申し出て、黒澤が拒否した。勝は衣裳を脱いで車に立てこもり、プロデューサーの田中友幸が羽交い絞めにする騒ぎになったと伝わる。結果、勝は降りて仲代が入った。
映画が採用したのは、狙撃説と、諏訪湖水葬と、影武者による三年の隠蔽。言ってみれば、史実性がいちばん疑わしい三点セット。学問的には全部グレーだ。
でも物語としては最強だ。だから広まった。今「信玄の死」と検索して出てくるイメージの相当部分は、この映画が作った像に引きずられている。
黒澤を責める話じゃない。話はむしろ逆で、史料が沈黙している場所に、これほど強い像を立てられる作家がいたわけだ。歴史学が空白と呼ぶ場所は、映画にとっては更地だった。
掲示板と学界、それぞれの信玄死没論
この題材は昔からネット上でよく燃える。掲示板やSNSでの定番の論点をいくつか拾ってみる。史料の読み方から病名の当てっこまで、誰でも何かしら一家言を持てる題材なので、いつまでたっても話が終わらない。
必ず最初に出るのが「狙撃説を推す派」と「それは徳川の宣伝だと切り捨てる派」の衝突だ。前者は野田城の地形と火縄銃の射程、法性寺に残る笛聞場の実在を挙げる。後者は史料が徳川側の後年の編纂物に偏っている点と、肩の傷で二か月かけて死ぬ経過の不自然さを突く。だいたい後者が優勢で終わるが、前者は絶対に納得しない。ロマンの側は理屈で負けても撤退しないからだ。
その次に多いのが病名論争だ。医療関係者を名乗るアカウントが出てきて、喀血と吐血は別物だと解説し、記録の「血を吐く」がどちらかは判別不能だと指摘する。そこから胃がん説と肝硬変説が有利になり、労咳一本の通説が崩される。日本住血吸虫症の話が出てくると、甲府盆地の地方病撲滅史に話が飛んで、そっちで盛り上がって終わる。
「三年秘せは失敗だったのか」という論点も定番だ。数か月で漏れていたのだから無意味だったという意見と、対外機密ではなく家中の統制が目的だったのだから機能したという意見が対立する。ここは近年、後者に理があるという整理が広まってきている印象がある。
学界側の空気も変わってきている。かつては『甲陽軍鑑』を引いた時点で議論が終わったが、酒井憲二以降、条件つきで使える史料として復権した。平山優や黒田日出男らの仕事によって、武田研究そのものが実証的に組み直されている。史料の扱い方が変わると、同じ信玄の死の話でも、どこまでは言えてどこから先は言えないのか、その線引きが大きく動く。
黒田日出男が、あの有名な「武田信玄像」は本当は畠山義続の肖像ではないかと提起したのも同じ流れだ。我々が思い浮かべる信玄の顔でさえ、別人かもしれない。死に方が謎なだけでなく、顔まで怪しい。
信玄生存説の類も根強い。実は駒場で死んだのは影武者で、信玄本人はしばらく生き延びた、という筋。あるいは長寿説。でも、これらを支える一次史料はどこにも無い。
もし生きていたら、長篠のあの惨敗のときに出てくる。出てこなかった。それが何より強い反証だ。武田家が滅ぶ天正十年まで、信玄の名で発給された文書は現れない。生きている大名は、必ず紙の上に痕跡を残す。
なぜ「死を隠せ」はこんなに人を掴むのか
ここで、この遺言の中毒性について考えておきたい。
人間は死ぬと、そこで情報が確定する。いつ死んだ、どこで死んだ、誰が看取った。死は普通、事実を固定する出来事だ。ところが信玄の死は逆をやった。死んだ瞬間から、事実が液体になった。
これが効く理由は二つあると思う。
ひとつは、権力というものの正体を裸にするからだ。信玄は死んでも三年間、権力として機能し続けた。信玄が生きているという「情報」だけで、国衆は離反せず、敵は攻めてこず、家中は回った。
ということは、大名の実体とは肉体じゃなく情報だった、という話になる。これは怖い話だ。今の我々が生きている世界とまったく同じ構造だからだ。信じられている限り、それは在る。
もうひとつは、死者に仕事を残すという発想の異様さだ。普通、遺言は生きている者への指示だ。でも、「わが死を秘せ」は、死んだ自分自身への指示でもある。おまえはまだ死ぬな、という命令を、死にゆく本人が自分に出している。伊那谷の輿の中で、この男は自分の死体に役割を割り振った。
だから後世の人間は、この話から離れられない。諏訪湖の底に鎧武者を沈め、絵師の弟に兄の顔をさせ、笛の音で敵将を釣り出す。全部、この一言が呼び寄せた想像だ。
史実かどうかは、ある意味どうでもいい。「死を隠せ」と言った瞬間に、信玄は自分の死を物語のフォーマットに変換した。四百五十年経っても稼働している装置を作ったわけだ。
三年という数字と、三万人の共犯関係
ここからは、上で並べた材料をもう一段深いところで捏ね直しておきたい。
三年の意味から。最初に、「三年」という数字の意味を、もう少し詰めておく価値がある。なぜ二年でも五年でもなく三年なのか。決定的な説明は誰も出せていない。ただ、いくつか説得力のある補助線は引ける。
ひとつは仏事の周期だ。三回忌という区切りは、当時の武家にとって喪の完了を意味する。三年伏せて三回忌の形で葬るというのは、儀礼のサイクルに死を後付けで押し込む操作だ。現に、恵林寺の葬儀はそのタイムラインで行われた。
もうひとつは、勝頼の年齢と立場だ。信玄が死んだとき勝頼は二十八歳前後。当主として実績を積むには時間が要る。三年あれば、いくつか戦をして、家中に「この人でいける」と思わせられる。
信玄はその猶予を買おうとしたんだろうな。皮肉なのは、勝頼がその三年で挙げた最大の実績が長篠の惨敗だったことだ。時間を稼ぐための遺言が、稼いだ時間の使い方までは指示できなかった。時間を買うところまでは死の床からでも手を打てても、その時間の中身までは、死んでいく者にはもうどうにもできない。
今度は、「秘匿」という行為の技術面を考えてみたい。三万の軍が総大将を失って、それを隠しながら二百キロ以上を撤退する。これは現代の感覚で言えば、大企業のトップが海外出張中に急死して、遺体を運びながら通常業務を装って本社に帰るようなものだ。しかも参加者は全員、目で見て気づける距離にいる。輿の中に誰もいない、あるいは死体がある、という状態を、何日も維持しなければならない。
現実的には、末端の兵まで欺くのは不可能だったはずだ。彼らが騙されていたというより、口をつぐんだと考えるほうが自然だろうね。甲斐や信濃の兵にとって、信玄の死が漏れて追撃を受けることは自分の死に直結する。全員に利害があった。
だから沈黙は、買収されたんじゃなくて共有された。三万人の共犯関係が成立していたわけだ。これは軍隊としての武田の恐ろしさを示す話でもある。
否認の運用も巧妙だった。武田家は「信玄は死んでいない」と積極的に嘘をついたんじゃなく、「信玄は隠居した」という第二の物語を出した。生きているが表に出ない、という状態を公式見解にすれば、信玄が姿を見せないことも、文書に信玄の名が減っていくことも、全部説明がつく。嘘は、否定より置き換えのほうが強い。武田家はそれを知っていた。
ここで影武者に戻る。影武者の話も、この流れで見直したほうがいい。信廉が北条の使者を欺いたという逸話は、単体では信じがたい。でも、「隠居した信玄に、遠方から来た使者が一度だけ短時間の対面をする」という設定なら、成立する可能性は跳ね上がる。
薄暗い座敷、遠い距離、限られた時間、口をきかない老人。人は「そこにいるはずのもの」を見る。しかも使者の側にも事情がある。
北条氏政としては、信玄が死んだという確報を持ち帰られると外交方針を全部組み替えねばならない。曖昧なまま帰りたいという無意識の圧が、使者に働いた可能性すらある。影武者というのは、演じる側の技術より、見る側の願望で成立する装置なのだ。
死因の議論についても、もう少し踏み込んでおく。ここで大事なのは、単一の病名を当てにいくという発想自体が現代的すぎるという点だ。五十三歳の戦国大名が、数十年にわたって過酷な行軍と陣中生活を続けてきた。栄養状態も衛生状態も現代とは比較にならない。慢性の感染症を抱えつつ、消化器に腫瘍ができ、肝機能も落ちていた、という重複はまったく珍しくない。
労咳か胃がんか、という二択の立て方が、そもそも問いを歪めているのかもしれない。
その意味で、日本住血吸虫症説の面白さは死因の特定じゃなく、視点の転換にある。この説は信玄の体を、個人の病歴ではなく甲府盆地という土地の産物として見る。武田信玄という現象は、あの盆地の水と土から生まれ、同じ水と土に削られた。金山、治水、信玄堤。信玄が生涯をかけて格闘した相手は、隣国の大名である以上に、あの土地自体だった。
その土地が最後に彼を仕留めた、という筋書きは、たとえ医学的に確定しなくても、歴史の見方としては相当に鋭い。
墓の多さについても総括しておきたい。恵林寺、岩窪、龍雲寺、長岳寺、大泉寺、高野山、妙心寺。分骨と供養塔を区別すれば矛盾はしないのだが、それにしても分散しすぎている。この分散自体が、三年秘匿の副産物だと考えるとしっくりくる。
公式の葬儀が三年後にずれ込んだせいで、その間の遺骨の扱いに公認の記録が残らなかった。空白の三年に、各地の寺が独自に信玄を弔った。あるいは、弔ったという後からの主張。記録の空白が、そのまま各地の寺の言い分が入り込み、ぶつかり合う余地になった、と見ると墓の多さにも筋が通る。
どれも嘘ではないかもしれないし、どれも本当ではないかもしれない。
昭和六年の龍雲寺の出土は、この状況の縮図みたいな事件だ。物は出た。銘もあった。北高全祝が火葬に立ち会って分骨を持ち帰ったという伝承もある。筋は通る。
でも決定打がない。決定打がないまま鑑定が割れ、史跡指定が却下され、訴訟になった。今も遺骨は霊廟にある。信玄の死をめぐる全ての論点が、この一件に凝縮されている。
物証はある。物語もある。でも接続できない。
念のため書いておくが、この手の墓所や寺院は現役の宗教施設だ。訪ねるなら参拝の作法に従って、公開されている範囲で見せてもらうのが当然の話で、勝手に掘るとか無断で立ち入るとかいう発想は論外である。掘って確かめたい気持ちが湧く題材なのは分かるが、そこは我慢するところだ。
締めに、この話が現代に投げてくるものについて書いておく。
信玄の死は、情報操作の古典的なケーススタディとして読める。でも、本当に不気味なのは、操作が成功したことじゃなく、四百五十年後まで操作の影響が残っていることのほうだ。武田家が三年間つくった空白に、江戸期の軍記が入り込み、明治の道徳教材が入り込み、頼山陽が入り込み、黒澤明が入り込み、そして今はネットの考察記事が入り込んでいる。空白は埋まらない。
埋めようとした素材がそのまま新しい地層になって、空白の周りが盛り上がっていくだけだ。
信玄が本当にやったことは、たぶん「情報を止めた」ことじゃない。「解釈の余地を残した」ことだ。彼が死んだ瞬間に確定していれば、それは一つの事実として処理され、忘れられていった。確定しなかったから、人は考え続けた。考え続けられる限り、その人物は死なない。
死を三年隠せ、という遺言は、結果として三年どころの話じゃなかった。四百五十年経っても、我々はまだ「信玄はいつ、どこで、何で死んだのか」を確定できていない。この男の死は、今も進行中だ。そう考えると、遺言はとっくに達成目標を超過している。伊那谷の輿の中で誰にも聞こえない声で指示を出した男は、たぶん自分でも思っていなかった規模で、目的を果たしてしまった。
