山形県の庄内地方には、僧侶の姿を保った「即身仏」が、いまも寺院に安置されている。生前から厳しい食事制限を続け、最後は地中へ入り、そのまま仏になった人々。世間に広まっているのは、だいたいそういう話だ。ただ、修行の細かな手順には伝承が混じっているし、遺体に死後の処置が加えられた線も残る。信仰と身体保存の仕組みは、そこで分けて見たい。
死んだ人ではなく、今も祈っている人
即身仏信仰の土台にあるのは、空海が高野山の奥之院で今も禅定を続けている、という入定信仰だ。行者は亡くなってなどいない。遠い未来に弥勒菩薩が現れるまで、ずっと人々の救済を祈っている。そう受け止められてきた。
即身仏は、古い遺体を並べた展示物とは違う。寺では袈裟を着せ、食事を供え、生きている僧へ接するように祀り、鶴岡市の大日坊に安置される真如海上人には、衣を新しくする「衣替え」の行事まで続いているという。
庄内地方では、大日坊、注連寺、海向寺など複数の寺院で即身仏が守られている。拝観できる寺もある。ただ、観光用の見世物ではなくて、いまも祈りを向けられる宗教上の存在だ。その前提を外すと、残された身体だけを猟奇的に眺めることになってしまう。
修行の手順はどこまで確認できるのか
即身仏となる行者は、長い期間にわたって穀物を避けた。山で得られる限られた食物だけを口にする「木食行」に入り、身体の脂肪や水分を減らしながら、厳しい山籠もりと祈りをひたすら続けた。
ここからが有名なところだ。最終段階では、小さな石室や箱へ入り、地中で鉦を鳴らした。世に言う「土中入定」。音が止むと入定したとみなし、一定期間後に掘り出した。遺体が姿を保っていれば即身仏として祀り、白骨化した場合は通常の供養をしたという。
漆を飲んで体内から防腐したという話も、ずいぶん広く語られてきた。ただ、どの行者も同じ方法を取ったのか。漆の成分がどの例から確認されたのか。そこから先は、伝承だけでは判断がつかない。極端な修行の説明は、後世にわかりやすく整えられた可能性もある。
土中入定が実際に行われたとみるのと、いま語られる手順をそのまま事実とみなすのは、まったく別の話だ。寺の記録、地域の伝承、身体調査の結果。個々の即身仏ごとに、この三つを分けて読む必要がある。
科学調査があぶり出した人の手
1960年代、新潟大学医学部を中心とする研究チームが複数の即身仏を調べた。すると遺体には死後、周囲の人による乾燥や防腐の処置が加えられた形跡が見つかったという。
断っておくが、行者の修行が作り話だったという意味にはならない。生前の食事制限や山での修行だけで、遺体が必ず自然に保存されるかというと、そうはいかない。弟子や信者が遺体を残すために手を加えた。そう考える余地はある。
信仰の上では、即身仏は今も祈り続ける存在である。身体が現在まで残った過程には、環境条件や死後の処置が関わった。宗教的な意味と、ミイラ化の物理的な過程。どちらか一方で他方を消す関係にはない。
真如海上人と鉄門海上人に残る物語
大日坊の真如海上人は、1783年に入定したと伝わる。その年は天明の飢饉の時期にあたる。飢えや病に苦しむ人々を救うため、自ら入定を選んだという物語が残り、96歳だったという年齢も伝わっている。ただ、本人の動機や最期の様子を直接記録した資料がどこまであるかは、慎重に見る必要がある。
注連寺の鉄門海上人には、若いころ人を殺めて出家したという話がある。その後は道の整備や新田開発、布教に尽くしたという。自分の目や身体の一部までを犠牲にしたという強烈な伝承も残る。身体調査の結果と符合する部分があるという。それでも、物語の細部までを確定した史実として扱うわけにはいかない。
話はこの二人に限らない。即身仏の伝記には「人々を救うため、自分の身体を差し出した」という型が、何度も繰り返し現れる。それは行者を敬う信仰の言葉であって、現代人が同じ行為を再現するための手順書とは違う。
即身仏を、ただ「生きたまま埋まった僧」と呼んでしまうと、信仰も、周囲の人の仕事も抜け落ちる。確認できるのは、出羽三山周辺に厳しい修行をした宗教者がいて、その身体を弟子や地域の人々が守り、今も祀っていることだ。修行の細部と奇跡性には伝承が混じる。その線を引いたうえで向き合うほうが、即身仏を残した人々への敬意にもつながる。
