「日本人でありながらシャムの王になった男」。山田長政はときどきそう語られる。たしかに、17世紀初めのアユタヤで日本人集団を率い、王朝の政治や軍事に関わった人物ではある。ただ、王になったという記録はない。出世も死にざまも、後世の脚色が相当に混じっている。
駿河生まれの男がアユタヤに現れるまで
長政は駿河国の出身と伝わり、通称は仁左衛門だった。若いころは足軽小頭だった、いや駕籠かきだった、と長政の前歴を語る説はいくつも残る。出国前の経歴は、はっきりしないままだ。1612年ごろ、朱印船でシャム、現在のタイへ渡ったと伝わる。
当時の都アユタヤは、中国、ポルトガル、オランダ、イギリス、日本などから商人や傭兵が集まる国際都市だった。その一角に日本人町も作られ、戦国の終わりに主家を失った浪人や、海外交易で食う商人たちが肩を寄せ合って暮らしていた。出入りの激しい街。
この日本人町で長政は力をつけ、日本人傭兵集団の指導者になったという。異例の出世だ。外国へ渡った一人の若者が、現地の日本人社会をまとめる立場まで上がった。その大筋が長政伝説の核になる。ただ、どの時点で、どのように指導者になったのかは、細部が一定していない。
宮廷に食い込んだ日本人部隊
ソンタム王の時代、長政は軍事面で働き、王から官位を与えられたと伝わる。「オークヤー・セーナーピムック」という高い地位につき、軍事だけでなく交易や関税の実務にまで関わったという説明がある。日本人部隊は王朝にとって有力な武装集団で、宮廷の争いでも外せない駒になった。
攻め寄せたスペイン勢力を日本人部隊が二度にわたって退け、その功績で長政が出世したという武勇伝もある。でも、軍事行動や褒賞の細部は、後世の日本側の語りで大きくふくらんだ疑いがある。出来すぎだ。正直、どこまでが実際の戦果なのかは怪しい。タイ側では、長政を多くの外国人傭兵指導者の一人として扱う記述もあるという。
ソンタム王の死後、宮廷では後継争いが起きた。長政がどちらの陣営に付いたのかは、記録によってばらばらだ。先王の後継者を守ろうとしたとも、のちにプラーサートトーン王となる有力者へ協力したとも語られる。正反対の話が並んでいる。
最終的に長政は、南方のリゴール、現在のナコーンシータンマラートの太守に任じられた。肩書きとしては高い役職だが、強い日本人部隊を率いる長政を首都から遠ざけるための人事だった、という見方もある。早い話が体のいい厄介払いだ。もちろん、左遷だったと示す決定的な命令書があるわけでもない。
脚の傷と、毒を仕込まれた膏薬
リゴールへ移った長政は、周辺地域との戦いで脚に傷を負い、治療に使った膏薬へ毒を入れられて亡くなった、と伝わる。黒幕としてよく名前が挙がるのは、プラーサートトーン王。日本人部隊の力を恐れ、長政を消したという筋書きである。
毒殺を命じたと分かる確かな記録は、どこにも残っていない。現地の対立相手が毒を使ったという説もあれば、戦傷が悪化して亡くなった可能性もある。毒殺は長政の最期に見せ場を作る伝承。裏づけの取れた死因とは違う。
長政の死後、アユタヤの日本人町は焼き討ちに遭ったと伝わる。王側は日本人町が反乱を企てているとみなし、焼け出されて生き残った人々の一部は周辺国へ逃れたという。長政の死と日本人町への攻撃が近い時期に起きたことは、暗殺説を強く見せる。並べると、きな臭い。でも、時間が近いというだけで、毒殺の命令まで証明はできない。
英雄に塗り替えられていく長政
長政の話が日本で広く知られるようになったのは、本人が生きた時代より後のことだ。江戸時代の軍記、読本、講談は、海を渡って異国で出世した人物を、そろって魅力的な英雄として描いた。そこへ加わったのが、「シャム王の娘婿になった」「王になる寸前だった」という尾ひれだ。やがて実際の官位が「王」に近いイメージへ変わっていった。
作り替えは江戸で終わらない。明治から昭和初期には、長政の名が日本の東南アジア進出という考えと結びついた。「南方雄飛の先駆者」として教科書にも載った。異国で認められた勇敢な日本人。この像は、当時の国策にとって使いやすかった。
現在のアユタヤには日本人町の跡が残る。長政は日タイ交流を象徴する人物として紹介されている。ただ、日本で語られる「王になるほどの英雄」と、タイ側での外国人部隊指導者という扱いには、はっきり差がある。同じ人物の話とは思えない。
山田長政がアユタヤで日本人集団を率い、宮廷から地位を与えられ、最後は南方リゴールの太守になった。ここまでが伝説の芯だ。王になったこと、王女と結婚したこと、国王の命令で毒殺されたこと。このあたりは史実として確かめられていない。まあ、元の経歴が十分に大きいからこそ、後世はそこへさらに派手な物語を重ねたわけだ。
