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山田長政のシャム王伝説――日本人が東南アジアの王になった伝承

元和7年(1621年)9月3日、以心崇伝の『異国日記』に、一行だけ妙な書き込みが残った。「大久保治右衛門六尺山田仁右衛門」。六尺は駕籠かきのことだ。シャムの国書を幕府へ取り次ぐ件で、見知らぬ日本人が老中の土井利勝と本多正純に書状を送ってきた。添えられた献上品は、鮫二本と塩硝二百斤。

崇伝は、将軍への書にも見えた名と同じ者か、という趣旨の書き添えを残している。名を知られていなかった男が、初めて幕閣の目に触れた場面らしい。沼津藩主の大久保忠佐は慶長18年(1613年)に亡くなっているので、駕籠をかついでいたのはそれより前の話になる。素性は謎だらけ。

出身地は、いまも不明。駿河、伊勢、尾張、長崎と四つの説が並ぶ。駿河説の史料が最も多く、『武将感状記』『駿河志料』『駿河国志』がそれを取る。父は駿府馬場町の紺屋九左衛門、母は藁科の寺尾惣太夫の娘という筋書きだ。母の連れ子だったとする伝えもある。

伊勢説は『天竺徳兵衛物語』に出てくる。伊勢山田の御師の手代、という話。尾張説をとる『暹羅国山田氏興亡記』は、尾張の出と書く。『山田仁左衛門渡唐録』には、織田信長の子孫を名乗っていたという話まで出てくる。

どれも長政の死から何十年も後の本だ。駿河出身と最初に書いたのは『武将感状記』だとされる。出身を裏づける同時代の記録は、乏しい。

渡航の年も確定していない。アユタヤで儲けた子の生まれが慶長18年だったことから、岩生成一らは、その前年の慶長17年(1612年)ごろと見ている。長崎から朱印船に乗り、台湾を経てシャムへ入った、という道筋だ。『天竺徳兵衛物語』は、武蔵国で罪を犯して長崎へ逃げた末の渡航だと書く。

二十万枚の皮が海を渡った

当時のアユタヤは、チャオプラヤー川沿いに外国人の町が並ぶ貿易都市だった。日本人町は川の東岸にあり、敷地は南北およそ570メートルで、西岸にはポルトガル人の町が向かい合っていた。長政はまず津田又左衛門の傭兵隊に身を寄せ、1620年か1621年ごろに頭領になったと考えられている。

住んでいた人数は、資料ごとに違う。一般には最盛期で1000から1500人と見る。タイ国政府観光庁の案内では2000から3000人以上だ。『暹羅国風土軍記』にいたっては、寛永のころを8000人と見積もる。数字は、一つに絞れない。

町の顔ぶれは雑多。傭兵、貿易商、禁教を逃れたキリシタン、それぞれの妻、奴隷として働くタイ人や中国人がいた。関ヶ原や大坂の陣で主家を失った浪人も流れ込んだ。ビルマ軍の圧力に悩むアユタヤにとって、実戦を知る日本人は都合のいい戦力だったわけだ。

商いの量はもっと派手だった。日本は銀を出し、アユタヤから鹿や鮫の皮を買った。江戸初期に日本へ入った皮革製品は、20万枚以上にのぼるという研究がある。1620年代の日本人の取引量は、他国の商人を全部足した数より多かったとも言われる。

長政が最初に名を上げたのも、戦場ではなく商いの場だったらしい。1624年から1626年にかけて、平戸のオランダ商館長とシャム駐在の商館員が書簡を書いた。日本人の「オプラ」が鹿皮、鮫皮、蘇芳木でオランダと張り合っている、という内容だ。オプラは官位オークプラのこと。

オランダ側も、その力を無視できなかった。1628年3月1日付のインド参事会決議録に、こんな記録がある。シャムを出た船を拿捕すると、そのオプラの持ち船だと分かった。王に信頼されている男の船を押さえれば、シャムでの商売に響く。そう判断して解放した。

長政の勢いが増すにつれ、オランダの取引は縮み、1629年にはアユタヤの商館が閉じられた。相手側の記録が、長政の商いの大きさを裏づけている。本物の商人だった。

浅間神社に残る船の絵

寛永3年(1626年)、長政は故郷の駿府にある静岡浅間神社へ、祈願が成就した礼として絵馬を奉納したと伝わる。描かれたのは、船。戦艦図絵馬と呼ばれ、遠いアユタヤから送られたという。

絵には七行の文字があり、その下に大きな船が描かれていた。艦首に大砲二門、舷側にも八門という説明を載せる解説もある。ただ、模写がもとの話だ。原本は天明8年(1788年)の火災で焼けてしまった。

焼ける前に、駿府勤番の榊原長俊が模写を残していた。その模写をさらに写した絵馬と、大正10年(1921年)に見つかった長俊の模写本が、いま神社にある。徳川吉宗が江戸城へ取り寄せて眺めた、という伝えもある。形に残る、数少ない証拠だ。

船は戦艦ではなく、武装した商船だという見方もある。『山田長政 知られざる実像』は、長政が仕立てた朱印船を描いたものと考えるほうが自然だと説いた。絵馬に「当国生」とあるのが駿河出身の裏づけになるとも言われる。けれども「当国」は日本を指す、という反論も出ている。

焼かれたスペイン艦隊は、年がずれていた

長政の武功といえば、スペイン艦隊を二度退けた話が定番だ。1621年にスペインとポルトガルの艦隊がメナム川をさかのぼり、日本人部隊が艦に火を放って勝った、という筋になっている。絵に描いたような勝ち戦だ。

ここからが怪しい。この話は、マカオでオランダ艦隊と戦った直後に出てくる。ところがそのマカオの戦いは、実際には1622年だった。起点の年が、一年ずれている。

1624年にも、スペイン艦隊がメナム川に入ったとされる。長政の日本人部隊が司令官のフェルナンド・デ・シルバを殺し、艦隊を撃退した、という伝えだ。しかしシルバは、その後も生きていたことが分かっている。どちらも、史実とは呼べない。

では、何を根拠に出世したと見ればいいのか。手がかりは官位の変化だ。1621年のシャム国書では、長政はオーククンの地位にあった。1626年にシャムから老中へ届いた書簡には、名を改めて昇進したことが見える。日本側の史料で確かめられるのは、オークプラのあたりまで。

オークヤー・セーナピモックになったのは、1629年ごろだと『シャム革命史話』から分かる。セーナピモックは「戦の神」を意味する賜名だという。それなのに、タイ側の史料に長政の名はほとんど出ない。法制史の文献に、日本人義勇軍の隊長の禄高が1000ライ、約132ヘクタールとあるくらいだ。ここまでが、確かめられる範囲。

筆者の見立てを書く。武勲が先に立つ形で長政が語られるようになったのは、軍功のほうが読み物として絵になるからだと思う。根拠は、本人が最初は貿易で名を上げたことと、スペイン艦隊の話が年号の合わないまま残ったことだ。確かな商人の姿より、よくできた戦の話のほうが、後の世に好まれたのだろう。

十二月十二日、王が死んだ

話が大きく動くのは、1628年の秋からだ。10月にソンタム王が病に倒れ、12月12日に亡くなる。基本史料は、オランダ商館長ファン・フリートが書いた『シャム革命史話』。岩生成一が、ハーグの国立中央文書館に眠る東インド会社の文書から探し出した。

この本に「山田長政」の名は出てこない。登場するのは、オークヤー・セーナピモックとオークヤー・リゴールという肩書きの男だ。それを長政と同一人物とみなして、以下の話が組み立てられている。以下は、この記録に沿う。

当時の慣例では、王位は兄弟へ移るものだった。ところが王は、宮内長官のシーウォラウォンと組み、王子のチェーターに継がせようと考えた。きっかけは長政だ、と脚色するのが『暹羅国山田氏興亡記』で、日本では親子相続が国法だと王に告げたことになっている。

王弟のシーシンを推す大臣たちを抑えるため、王は長政に命じて日本人兵を出動させ、王子を守らせた。遺言どおりチェーターが即位すると、実権を握ったシーウォラウォンは反対した高官を次々に粛清する。これに長政も関わったことは、翌1629年8月5日付の平戸商館長の手紙から確かめられる。新王の叔父を差し置いた即位のあと、オプラと日本人らが高官を多数殺した、と書いてある。

僧になって難を逃れていたシーシンも、長政の策謀で王宮へ呼び出された。僧服を脱いだところを捕らえられ、洞窟で餓死させられそうになる。逃げ出して2万の兵でペッブリーに挙兵したが、迎え撃つ国王軍は1万5000から2万。その中に、長政が率いる七、八百人の日本人兵がいた。シーシンは敗れて処刑された。

ファン・フリートは貿易の競争相手の日本人に反感を持っていた、と見る研究者もいる。長政の悪役ぶりを、強めに書いた可能性はある。念のため断っておく。これは可能性の話で、記録を捨てる理由にはならない。

この年、シャムの使者が長崎に着いたのは5月30日で、江戸で将軍家光に会ったのは9月17日だった。長政は「山田仁左衛門尉長正」の名で、老中の酒井忠世の側近に取り次ぎを頼んだ。返書も、届いた。宛名は「山田仁左衛門尉殿」、差出人は酒井忠世だ。幕府は、シャムの高官になった長政を丁重に扱おうとしたわけだ。

門を閉ざした夜

専横を強めるカラホムに、チェーター王が不満を漏らした。それが命取りになった。カラホムはカパインを味方につけ、日本人兵を動員して王宮を襲う。王は逃げたが、「王宮を捨てた者に王の資格はない」という理屈で処刑された。この謀叛に長政が関わったかどうか、『シャム革命史話』は何も書いていない。

カラホムは長政の屋敷を訪ね、大臣の中から王を立てたいと持ちかけた。長政は断った。血筋が王族に近く官職も多いカラホムが即位すれば、王を殺して座を奪ったと見られるからだ。代わりに、10歳ほどの王弟アーティッタヤウォンを立て、カラホムが摂政になる案を出した。

その後、カラホムは自分に並ぶ力を持っていたカパインを処刑した。長政は遺体を丁重に葬り、弁明に来たカラホムの前で門を閉ざす。門は、開かなかった。ここで二人の仲は決定的に冷えた。

ここでカラホムが、一計を案じる。長政がオランダ船と通じて日本人に悪事をさせようとしている、という噂を流す。長政が訪問を拒めない状況を作ったうえで屋敷を訪れ、六昆(リゴール)の長官にならないかと切り出した。

長政は一度辞退した。パタニ王国の侵攻や、住民が二つに割れた争いを抱える土地を任せられる者はほかにいない、と説得されて受けたという。前例のない「リゴール王」として、金字塔型の冠を宮中で授けられ、日本人兵を率いて任地へ向かった。左遷とも栄転とも取れる人事だ。少なくとも、断りにくい形に仕立てられていた。

毒入りの膏薬と、数時間

リゴールへ向かった兵は、日本人300人とシャム人3000から4000人という数字が伝わる。1630年1月4日にバタヴィアへ戻ったオランダ船の報告があるので、着任はそれより前だと分かる。長政は王を捕らえてシャムへ送り、土地を治めた。パタニ軍の侵攻も、退けたという。

『シャム革命史話』によれば、都ではすでにカラホムが幼い王を殺し、プラーサートトーンとして王位に就いていた。新王は内心、喜ばなかった。表向きは贈り物と美女で栄誉を与え、裏ではリゴールの前長官に、長政を除けば長官に戻してやる、と指示を出す。

パタニ軍との戦いで、長政は脚に傷を負っていた。そこへ前長官の弟のオークプラ・ナリットが、毒入りの軟膏を塗る。長政は数時間後に死んだ。あっけない最期は、1630年8月か9月、四十歳のときと推定されている。ただ生年が1590年ごろという見当なので、年齢は目安だ。

ここが「毒殺伝説」の核になる。ただ、死因には別の説がある。ナリットは本当に善意で治療したが病死した、という説。パタニとの戦いで戦死した、という説。オランダ東インド会社が、貿易の邪魔になる長政を謀殺させたとする説もある。

最後のオランダ陰謀説は、山岡荘八らの小説に描かれた。史実とみるには、根拠を欠く。『山田長政 知られざる実像』は別の角度を示した。毒を塗ったのは、当時のナコーンシータンマラートの人だった可能性もあるという。

十月二十六日の夜、日本人町が燃えた

長政が死んだと聞いて、プラーサートトーン王は胸をなでおろした。長政の貿易船が日本から戻ってくると、いったん没収する。日本人の反抗を恐れて返した、と記録にある。日本人の敵意は、消えなかった。

1630年10月26日の夜、王は日本人の居住区に火を放ち、大砲を撃ち込んだ。日本人はジャンク船で逃げた。オランダ商館のダニエル・ファン・フリートは、1631年10月17日付の書簡に、日本人が王の悪口を言いふらしたから財産を没収され、焼き討ちを受けたと書いた。『バタビヤ城日誌』の同年12月5日の項には、王が日本人の襲撃を恐れて4000人で居住地を攻めた、とある。

逃げた先は、最初はリゴール。ところが住民の抵抗に遭って上陸できず、カンボジアへ向かった。リゴールにいた長政の長男の運命も、同じ流れに呑まれていく。

長男のオーククン・セーナピモックは約18歳で父の座を継ぎ、日本人には支持されたが、住民には王に背く者と見られた。前長官は自分の娘を彼に嫁がせたうえで、日本人隊長のオーククン・シルウイ・アグウォットをそそのかして内紛を起こさせる。隊長は、だまされたと気づいた。前長官を殺す。かえって、日本人と住民の争いは激しくなった。

隊長も戦死し、長男らはリゴールを捨ててカンボジアへ向かったというのが通説だ。しかし陸路でカンボジアへ行くなら、アユタヤに近いバンコク周辺を通らなければならない。『山田長政 知られざる実像』の著者は、この通説を疑っている。

別の行き先を語る話もある。ビルマ東部、ケントンの話だ。のちに駐メキシコ大使になった外交官が、現地のシャン族から聞いたという。アユタヤの時代に日本の武士62人が先祖の領内へ逃げてきた、という言い伝えだった。

返書は出されなかった

知らせは、翌1631年に届いた。7月18日付の平戸商館長の書簡に、シャムのオプラのジャンク船が薩摩を経て長崎に着いたことが出てくる。シャムの日本人は、ことごとく殺されるか追放されたらしい、とも読める。

12月28日、江戸城に登った崇伝は、シャムの国書を見せられた。日記には、山田仁左衛門が病死したこと、その養子が謀叛を企てたらしいことが書き残された。養子と書いたのは、この記録だけだ。『山田長政 知られざる実像』は、実子説を取る。

幕閣の協議の末、国書への返書は出されなかった。これでシャムと日本の国交は途切れる。もっとも、日本人町が消えたわけではない。イエズス会士カルディムの報告によれば、カンボジアへ逃れた日本人も、二、三年たつと国王に帰還を許され、元の特権を取り戻した。1633年6月5日のオランダ商館の日記には、日本人の頭領である太右衛門と広助と皮革を取引した記述がある。

町は、細っていった。復興した町は昔ほど大きくない。1635年に幕府が日本人の東南アジアへの渡航と、永住者の帰国を禁じると、新しい移住も途絶えた。日本人町は徐々にタイ人へ溶け込み、18世紀初めには町としての実体を失ったとみられている。

王になった男が本になるまで

最初の本は、約70年後に出た。天竺徳兵衛が長崎奉行に語った「渡天之説」は、宝永4年(1707年)の記録だ。『暹羅国山田氏興亡記』にも、享保20年(1735年)の奥書を持つ写本がある。

その本の中の長政は、事実から離れていた。『渡天之説』では、伊勢山田の御師の手代が侍大将から右大臣になり、国王の聟となってシャム一国を譲られる。『山田氏興亡記』では、2万石の領地を与えられた長政が女王に楯突いて挙兵し、最後は鴆毒を盛られて死ぬ。その死を寛永10年(1633年)春とした。実際の1630年とは、年が合わない。

『武将感状記』は、勝ち方まで細かく書いた。ルソンの船は甲板に格子を敷き、乗り移ってきた敵を下から矛で突く戦法をとっていた。長政は、そこへ灰をまく。乗員は目を開けていられず、長政が勝ったという。帰国のための銀千貫を貯めていたが、病死して果たせなかった、とも書かれている。

筆者の見立てを書く。この時期に「王」の話が膨らんだのは、現地を確かめる手段が消えたからだと思う。根拠は、返書が出されず国交が途切れたことと、1635年に渡航が禁じられたことだ。誰も見に行けない国では、噂が本になっても、反論する者がいない。

明治になると、話は国の都合に引き寄せられていく。1875年の『暹羅紀行』は、プラーサートトーン王と長政を同一人物かと述べた。1893年の渡辺修二郎の本は、それを退けた。六昆の国王やシャム国王とする文献も誤りで、実態はシャムの一侯にすぎない、というのが同書の見立てだ。

教科書にも、長政は載った。1879年から1900年にかけてのことだ。1888年と1893年の版にだけ、シャム王の王女を妻にしたという脚色が加わっている。1898年と1900年の版では、誇張が削られた。

1925年、新村出は『続南蛮広記』で、長政は税関を押さえ、財政の面から出世したと唱えた。戦よりも財政で伸びた、という見方だ。この説には、批判もある。

姿かたちも怪しい。最も早く公刊された肖像は、屋代弘賢の『居敬堂随筆』に収まるものだ。明治11年(1878年)に静岡浅間神社へ奉納された肖像も、同じ系統とみられる。ただ、厚手の洋服のような装いは、タイの気候にそぐわない。そんな指摘が出ている。

昭和に入ると、長政は国策の看板になった。1915年に従四位が贈られ、1935年にはタイに寄港した海軍の練習艦隊が、アユタヤの跡地に長政を祭る神社を建てた。年は1938年とする記述もあり、食い違う。1941年の『初等科修身二』には長政が登場し、教師用の本には、海外雄飛の精神を鼓吹するためと説明が付いた。1943年刊の『初等科音楽二』の唱歌は、「南へ、南へ、船行く、船行く」と歌った。

小説も、次々に書かれる。大仏次郎は1930年から翌年にかけて、『少年倶楽部』に『日本人オイン』を連載している。オインは、長政の息子の名として伝わる。

近代の長政像を調べた2003年の論文は、時代ごとの顔を整理している。江戸後期には国粋主義が、明治には南進論とアジア主義が重なった。戦時中は海外雄飛の象徴になり、戦後は日タイ友好の先駆者として語り直された。役に立つ伝説は、使う人が変わっても生き延びる。筆者の見立てを足すなら、長政は事実の量より「使いどころ」で残った人物だ。

「山田長政はいなかった」と言った教授

1987年、日タイ修好百周年の年に、京都大学の矢野暢教授が非実在説を唱えた。毎日新聞の夕刊や中央公論に論考が載り、大きな波紋を呼んだ。論点は二つ。タイ側の史料に長政が出てこないこと。オランダ側のオークヤー・セーナピモックを長政と同じ人物だと、積極的に論証した史料がないこと。

矢野教授は、『異国日記』にある山田仁左衛門長正が実在したことまでは認めた。それが波乱の英雄「山田長政」と同じ人物かは疑わしい、と見たわけだ。一介の商人にすぎなかった、という説。

反論したのは、静岡出身の戦国史の研究者だった。英雄像が戦前の南進の中で作られ、虚像が入り込んでいるという指摘には同意する。それでも貿易家で傭兵隊長だった長政は確かに実在した、というのが答えだ。日本人はなぜ「山田長政」を必要としたのか。矢野教授が投げたその問いには、反論した側も頷いている。

タイでの扱いは、日本ほど華やかではない。内政に口を出して身を滅ぼした外国人、という低めの評価が一般的だという。2010年にはタイで映画『ヤマダ アユタヤの侍』が作られた。1959年には、日本とタイの合作映画『山田長政 王者の剣』も公開された。

現地では日本村の場所を、「ヤマダはどこ」と聞くほうが通じるそうだ。アユタヤの日本人町跡には、2007年に日タイ修交120周年記念館ができた。石碑には「アユチヤ日本人町の跡」と記されている。

ネット上の旅行口コミサイトには、静岡市の屋敷跡に「架空の人物生家跡」と題した投稿が残る。足跡がタイの文献になく、オランダ人の『シャム革命史話』に出てくる日本人の記述が頼りだ、と書かれている。その屋敷跡のある静岡の浅間通りでは、毎年「長政まつり」が開かれる。始まりは、1986年。2000年に商店街の新アーケードと一緒に銅像ができ、2004年からタイ大使館とタイ国政府観光庁が後援に入った。

2025年10月5日の第38回では、午後2時45分に「長政公」が動き出す。長政に扮した人物が、神社へ向けて出発する。戦艦図絵馬を納めるための行列だ。

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