熊本の古墳から出た、文字を持つ鉄の刀
熊本県和水町の江田船山古墳は、5世紀後半から6世紀初頭ごろの前方後円墳。この一行は覚えておいてほしい。豊富な副葬品のうち、銀象嵌銘をもつ大刀は、地方首長とヤマト王権、そして東アジアの金工技術を考えるための鍵だ。刀一本が三つの話題の交差点になっているわけだ。出土品は国宝群として東京国立博物館に所蔵される。
読めない数文字が研究を動かした
大刀銘は摩耗・欠損があり、いちばん知りたい字が残っていない。摩耗と欠損で、肝心の字がそこで消えた。かつて王名の部分を「治天下獲□□□鹵大王」などと読み、これを稲荷山鉄剣のワカタケル大王と結ぶ研究が進んだ。残存する字形、撮影条件、復元方法には論争がある。見えない字を確定文字として扱わないことが重要。
刀が確かに語ってくれること
では、現物から確かに言えるのはどこまでか。ここは足場がわりと固い。銘文は現物に残った。被葬者が有力な地域首長層であり、文字を用いた政治表現と高度な象嵌技術が、九州の古墳の副葬品に現れる。銘文のなかには製作者や奉仕関係を示すとみられる語があるが、被葬者本人の名も官職も、すべて確定できるわけじゃない。
まだ宿題のまま残っているもの
宿題のほうも先に並べておく。王名の復元、銘文の分節、刀の製作地、被葬者と菊池川流域勢力の関係。正直、どれも決着していない。稲荷山鉄剣との共通性は重要だが、同一工房・同一政治制度まで自動的に導けない。ここから先は、その一つずつを現物に戻して見ていく。
菊池川流域に築かれた前方後円墳
場所から押さえておきたい。江田船山古墳があるのは、熊本県北部を流れる菊池川の中流域だ。現在は和水町の清原台地に位置し、周囲には複数の古墳が集まる。墳丘は前方後円形で、全長はおよそ七十七メートル。畿内の巨大古墳に比べれば規模は小さいものの、九州の五世紀を考えるうえでは、副葬品の質と量が際立っている。
築造年代は、墳丘の形だけで決められない。決め手は副葬品。甲冑、馬具、鏡、装身具、須恵器などを同じ時期の資料と比べ、追葬の可能性も考える必要がある。江田船山古墳では石棺から多数の品が見つかった。だから、どの品が最初の埋葬時に置かれ、どれが後から加わったのかが研究上の論点になってきた。
菊池川は有明海へ通じる。海上交通で北部九州や朝鮮半島と結ばれた土地だ。被葬者を孤立した「地方豪族」とだけ呼ぶと、その活動範囲を狭く見積もってしまう。かといって、舶来品らしい副葬品があるから、これは朝鮮半島出身者の墓だ、と直ちに決めることもできない。品物の産地、入手経路、使用者の出自は、それぞれ別に見ていくしかない。
発掘時の事情と資料のまとまり
発掘の時期がまた厄介だ。江田船山古墳が発掘されたのは十九世紀の後半で、いまのような発掘調査の記録方法がまだ確立する前だった。当時の記録には限界があった。品物が置かれていた細かな位置や、土層の重なりについて、現代の発掘調査と同じ精度の記録を期待することはできない。出土品を読むときは、遺物そのものの分析に加え、発見時の記録にどこまで遡れるかが問われる。
出土品は明治期に国へ献納され、現在は東京国立博物館が所蔵する。行き先は東京。銀象嵌銘大刀だけが有名だが、副葬品はそれだけに留まらない。金銅製の冠や履、金銀の装身具、鏡、武器、甲冑、馬具などを、ひとつのまとまりとして見ることが欠かせない。東京国立博物館は、これらが古墳時代の九州の首長と倭王権、そして朝鮮半島との交流を示す資料だと説明している。
一括して国宝に指定された出土品でも、すべてが同じ場所、同じ時点に作られたわけじゃない。産地も時期も一つではない。中国や朝鮮半島に由来する品、列島内で作られた品、外来の技術を取り入れた品が含まれる。被葬者はそうした品を集められる立場にあったが、肩書や実名まで副葬品だけから復元できるわけじゃない。
銀象嵌という技法
問題になっている大刀は、鉄の表面に溝を刻み、そこへ銀を埋め込んで文字や文様を表す、象嵌と呼ばれる技法で飾られている。錆が銀線と凹凸の境目をぼかした。錆びた刀身を肉眼で見るだけでは、銀線が途切れた部分や腐食による凹凸を文字と見分けにくい。拓本、写真、赤外線やX線による観察など、調査方法によって見える線が変わることもある。
刀身には長い銘文だけでなく、馬、魚、水鳥とみられる図像も施されている。馬と魚と水鳥。文字だけを抜き出すと政治的な文書のように見えるが、所有者に力や吉祥をもたらす装飾品としての側面もあったと見るのが自然だ。動物文様の意味は確定しておらず、後世の家紋や神話へそのまま結びつけることはできない。
ちなみに、大きさのほうも小物じゃない。東京国立博物館は現存長を九十・九センチ、刀身の現存長を八十五・三センチとする。小さな記念品に銘文を刻んだというより、実際の大刀の表面へ長文を収めた資料だ。文字を読める人が限られた時代に、誰が文章を考え、誰が鉄の面へ刻み、誰に見せるために作ったのか。制作には複数の技能と権力関係が介在した、と考える方が落ち着く。
「治天下」と大王名をどう読むか
ここからが問題の箇所だ。銘文の冒頭付近には「治天下」に続く大王名があったとみられるが、肝心の部分は傷みが大きい。いちばん読みたい部分が、そこで失われた。かつては残存する線から別の王名を読む案も出された。文字の一部が失われている以上、完全な形を復元する作業には必ず推定が入る。
場所は埼玉。転機になったのは、埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の研究だ。稲荷山鉄剣の銘文には「獲加多支鹵大王」と読まれる名がある。一般にワカタケル大王、すなわち『古事記』『日本書紀』の雄略天皇に比定されている。これを手掛かりに、江田船山大刀の損傷した王名もワカタケルと復元する見方が有力になった。
稲荷山の読みが、江田船山の見方を変えた。ただ、有力説と、すべての字画が現物で確認できることは、別の話だ。稲荷山の例を知った後では、欠けた線を似た字へ補いたくなる。銘文写真や釈文を紹介する際は、現存する文字、研究者が補った文字、読みが分かれる文字を、括弧などで区別して示す必要がある。
論点はもう一点。「治天下大王」という表現を、後世の天皇号と同じ制度的称号とみなせるかにも議論がある。五世紀の列島で王が支配をどう表現したかを示す言葉ではある。といっても、現在の行政区域を一元的に統治したという意味にはならない。銘文の一語から、完成した律令国家の姿を遡らせてはいけない。
稲荷山鉄剣との距離
手掛かりは二本の刀剣。江田船山は熊本、稲荷山は埼玉にある。遠く離れた二つの古墳から、同じ大王名を含むとみられる銘文刀剣が出た。これは五世紀の政治関係を考える大きな材料になった。どんなに控えめに見ても、大王を中心とする政治的な語彙が、東国と九州の有力者のあいだで共有された可能性を示す。
稲荷山鉄剣には、所有者につながる系譜と奉仕の内容が、それなりに長く記される。二本の書きぶりは違った。江田船山大刀にも人物名や製作者に関わるとみられる部分があるが、文章の構成も保存状態も、二本でそろわない。この二本を一対の任命書のように扱い、全国一律の官僚制度がすでに完成していたと断定するのは行き過ぎだ。
工房の話はまた別。同じ大王名があるとしても、二本が同じ工房で作られた証拠にはならない。象嵌の材料、字形、文章の癖、刀身の製作技術を比較し、どの工程が共有され、どこに地域差があるかを見なければならない。政治的なつながりと物づくりの移動は重なることがあっても、常に一致するわけじゃない。
銘文に現れる人物
人の名が刻まれた。銘文には「典曹人」という語や、「伊太和」と読まれる製作者名などがあるという。典曹人を文書や記録に関わる役目とみる解釈もあるが、それが後代の官職名と完全に同じ職務だったかどうかは分からない。分節の仕方が変われば、語の意味や人名の切れ目も変わる。
主語が見えない。銘文の主語が誰で、誰のために大刀を作ったのかも、簡単な話じゃない。発注者、銘文中の奉仕者、大刀の所有者、そして古墳の被葬者が、すべて同一人物だったと決めつけられないからだ。副葬された大刀は被葬者と深い関係を持つが、贈与や継承を経て墓へ納められた可能性も残る。
名前の表記には漢字の意味ではなく音を借りた部分がある。列島の人名を、漢字の音のほうで写した。これは日本語の人名を漢字で表そうとした早い例として貴重だが、現代の音読みに置き換えるだけでは当時の発音に届かない。上代特殊仮名遣いより前の段階を扱うため、音韻史と古代史の双方から検討されている。
九州の首長と倭王権
大刀をワカタケル大王の時代に結びつけるなら、話はこうなる。菊池川流域の首長が倭王権と何らかの政治関係を持っていた可能性は高まる。ところが、その関係を直ちに中央から地方への一方的な命令系統とみてはいけない。命令系統だけでは読めない。海上交通、軍事、贈与、婚姻など、首長同士を結ぶ方法は複数あった。
舶来の金属製品。江田船山古墳の副葬品には、朝鮮半島の王権や工房との関係を考えさせる金属製品が含まれる。九州の首長が畿内を経由して品を得たのか、海を越える交流へ直接関わったのか、それとも品目ごとに経路は異なったのか。大刀一本だけでは決められず、菊池川流域の集落や他の古墳、港の痕跡と合わせて検討される。
古墳の規模と副葬品の豪華さが単純に比例しない点にも目を向けたい。巨大な墳丘を築く力とは別に、希少な舶来品や文字資料を得る経路があったとも読める。江田船山の被葬者像は、「中央に従属した地方官」か「独立した王」かという二択では捉えにくい。墳丘の大きさと副葬品の中身は、単純には揃わなかった。
東アジアの文字文化の中で見る
大刀の銘文様式には、中国で発達した刀剣銘や吉祥句の影響がある。源流の一つは中国だ。ところが、列島の人名や地域の政治関係を漢字で表した部分には、受け入れた技術をそのまま模倣するだけではない工夫が見える。朝鮮半島のほうでも漢字を用いた銘文資料が作られており、この列島の文字文化は複数の経路から形づくられた。
字は誰にでも書けなかった。文字が刻まれたからといって、社会全体で読み書きが普及していたわけじゃない。長い文章を扱える人物は限られ、外交や王権の実務に携わる渡来系の技術者が関与した可能性も、あわせて論じられる。ただ、字形だけから書き手の出身地を確定するのは難しい。人が移動した場合と、書式だけが伝わった場合を分けて考えたい。
石碑のように多くの人へ常時見せる文書というより、携帯できる武器へ文章を刻んだ点が特徴だ。大刀は権威を示す品であり、銘文は所有者と大王の関係を物として残した。刀は墓の中へ入った。いったん墓へ納められた後は人の目から消えるため、生前の儀礼や贈与の場でどの程度読まれたのかが問題になる。
展示写真だけでは分からないこと
写真で見るときも油断できない。展示室では照明やケース越しの距離によって銀線の見え方が変わる。高解像度画像で鮮明に見える線も、画像処理でコントラストを強めた結果かもしれない。釈文を見る際は、いつ、どの方法で撮影された画像に基づくかを確認したい。
銘文の全文を現代語訳だけで読むと、欠字や異読が消えてしまう。「大王の命令で作った」と滑らかに訳されていても、原文のほうでは主語や助詞に相当する語の関係が曖昧な場合がある。訳文は、そこを補いがちだ。研究書が複数の釈文を並べているのは、文字が読めないから価値がない、という話じゃない。どこまでを現物から言えるかを明らかにするためだ。
模造刀や復元図も便利だが、復元した線を現物の残存部分と誤解しないよう説明が要る。博物館の収蔵品ページ、発掘報告、研究論文では目的が異なる。だから、種類の違う情報は分けて読みたい。外形や指定情報は収蔵品データ、出土状況は調査記録、字の読みは複数の研究をそれぞれ参照すると、異なる種類の情報を混ぜずに済む。
「消えた王名」が残す問い
欠けたまま残った。王名の部分が完全に残っていれば、江田船山大刀はもっと分かりやすい史料だったかもしれない。その欠損があるからこそ、古代史の復元がどのように行われるかがよく見える。現物の線、別の遺跡の類例、後世の文献を重ね、最も説明力のある読みを選びながら、それでも別の可能性を捨て切らない作業だ。
ワカタケル説は、稲荷山鉄剣との対応によって強い根拠を持つ。だとしても、そこから先は別の話になる。雄略天皇が現在の熊本を直接統治した、被葬者へ官位を授けた、大刀が畿内の同じ工房で作られた。そうした物語まで一度に確定するわけじゃない。銘文が答える問いと、副葬品や墳丘が答える問いを分ける必要がある。
江田船山古墳の価値は、読めない数文字だけにあるんじゃない。地域首長が東アジアの品と技術を取り込み、大王との関係を文字で表し、その象徴を墓へ納めた一連の動きが残っているところにある。そこが本題だ。大刀を周囲の出土品や菊池川の地理へ戻して見ると、五世紀の列島が中央と地方の単純な上下関係では説明できないことが分かる。
古代の人物名をある一人へ比定するときは、銘文の年代と記紀の系譜を同時に確定したように扱わない方がよい。『古事記』『日本書紀』は大刀が作られた時代より後に編まれ、編纂時の政治的な整理を含む。系譜は後から整えられた。ワカタケルという音の対応は有力な接点だ。だからといって、記紀に書かれた雄略天皇の逸話を、そのまま江田船山の被葬者との出来事へ移す根拠にはならない。
墳丘と刀は離れた。現地の古墳と東京の収蔵品は離れているため、片方だけでは資料の全体像をつかみにくい。和水町で墳丘と菊池川流域の地形を見た後、博物館の収蔵品画像で銘文と副葬品を確かめる。すると、大刀がどのような土地の権力者の墓へ納められたかを結び直せる。研究の更新を追う際は、古い釈文が後の撮影でどう修正されたかも確認したい。
表記も揺れる。文化財の名称にも揺れがあり、資料によって「大刀」「太刀」の表記が見られる。検索時に一方だけを使うと、古い図録や画像資料を見落とすことがあるので気をつけたい。旧地名の菊水町と現在の和水町の両方を併用し、収蔵番号J-573を手掛かりにすれば、同じ資料を確実に照合できる。
