万葉集で一番うまい男の、最期がわからない
柿本人麻呂。『万葉集』に、はっきり名指しで長歌十九首、短歌七十五首が入っている。数だけならもっと載っている歌人もいるが、質の話をすると誰も並ばない。あの分厚い歌集を開いて「うわ」と声が出る歌は、だいたいこの人だ。後世は山部赤人と並べて「歌聖」と呼んだ。日本語の詩というものを最初に完成させた男、ということになっている。
で、その男が、いつ、どこで、どうやって死んだのかが、まるでわからない。
生年も没年も推定でしかない。おおよそ六六〇年ごろに生まれ、天武天皇九年(六八〇年)にはもう宮廷に出仕していたらしい、という程度。持統朝が全盛期で、平城京に都が移る前には死んでいたと見られている。没年を養老八年(七二四年)三月十八日とする伝えもあるが、これも後世に整えられた数字だ。
普通、これだけの人物なら正史に一行くらい残る。残っていない。『日本書紀』にも『続日本紀』にも、「柿本人麻呂」という名前はただの一度も出てこない。歌はこれだけ残っているのに、履歴書が一枚もない。ここが全部の始まりなんだよな。
「鴨山の岩根し枕ける我をかも」――たった三十一文字の遺言
手がかりは、本人の歌にしかない。
『万葉集』巻二の二二三番。詞書にこうある。「柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死らむとせし時、自ら傷みて作れる歌一首」。石見の国で死のうとするとき、自分で自分を傷んで作った歌、という意味だ。
鴨山の 岩根し枕ける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ
鴨山の岩を枕にして横たわっているおれのことなど何も知らずに、あの女はまだ待っているんだろうな。そういう歌だ。
石を枕にして死ぬ、というのは、要するに野垂れ死にの構図である。屋根の下ではない。人に看取られてもいない。岩の上に転がって、都にも家にも帰れないまま息が細くなっていく男が、最後に思い出したのは待っている女のことだった。
三十一文字で、ここまで冷たい景色を出せるのが人麻呂の恐ろしいところだ。そして同時に、この三十一文字が千三百年ぶんの論争の火種になった。鴨山ってどこだよ、という話である。
妻の返歌が、いちばん怖い
人麻呂の臨終歌の直後に、妻・依羅娘子(よさみのおとめ)の歌が二首並んでいる。これが個人的にはいちばん怖い。
今日今日と 我が待つ君は 石川の 貝に交りて ありといはずやも
今日か今日かと待っていたあの人は、石川の貝に混じっている、と人が言うではないか。
直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ
もう直接には逢えないだろう、石川に雲よ立ちわたってくれ、それを見て偲ぶから。
「貝に交りて」の一句が問題だ。写本によっては「峡(かひ)」つまり谷間と読む説もあるが、字面のまま貝と取れば、夫は川か海の底で貝殻にまじっている、ということになる。二首目の「雲立ち渡れ」も、火葬の煙を雲に見立てたと読むのが古くからの解釈だ。妻は遺体を見ていない。会えていない。遠くに立つ煙か雲かわからないものを見て偲ぶしかない。
さらに丹比真人(たぢひのまひと)という人物が人麻呂の心になりかわって答えた歌も添えられている。
荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げなむ
荒波が運んでくる玉を枕にして、おれはここにいるぞと、誰が伝えてくれるのか。
ここでは完全に海だ。荒波。玉。誰も知らない場所。この一連を素直に並べて読むと、「都から遠い水辺で、人知れず死んだ」という像が浮かび上がる。この像から目を離せなくなった人間が、後の世に何人も出た。
石見相聞歌――袖を振る男と、それを見ていたかもしれない女
人麻呂と石見の縁は、臨終歌だけじゃない。巻二の一三一番から一三九番、いわゆる「石見相聞歌」の連作がある。石見の国に置いてきた妻と別れて都へ上っていく、その道中の歌だ。
石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
高角山の木の間から、おれが振っているこの袖を、あいつは見ただろうか。
馬に乗って峠を越えながら、何度も何度も振り返る。振り返るたびに家が遠くなる。山が入る。木が入る。それでも袖を振る。見えているはずがないのに振る。読んでいるこっちが恥ずかしくなるくらいべたべたなのに、なぜか泣ける。
この連作があるから、人麻呂と石見はセットになった。そして「別れた妻」と「臨終歌で待っている妹」が同じ女なのかどうかで、また解釈が割れる。依羅娘子の歌は巻二の一四〇番にも別に一首あって、そちらとの関係も議論の的だ。
要するに、人麻呂の晩年に関する情報は全部この巻二に固まっている。しかもどれも歌であって、記録ではない。歌からどこまで事実を引き出していいのか。その線引きをめぐって、二百年以上、日本人は喧嘩を続けてきた。
江戸の学者が決めた「人麻呂は下っ端の役人」
通説がどう固まったかを押さえておく。江戸時代の国学だ。
契沖、そして賀茂真淵。彼らは正史に名前が出ないという事実から、逆算した。正史に載らないのは位が低かったからだ。だから人麻呂は六位以下の下級官吏で、身分の低いまま地方に赴任し、任地で病死した。こういう筋書きを立てた。石見国の役人として赴任し、現地で妻を得て、任期の途中か終わりごろに病で死んだ。歌の内容とも矛盾しない。おさまりがいい。
この下級官吏・病死説が、明治以降の国文学にもそのまま受け継がれた。教科書に載る人麻呂像もこれだ。宮廷の儀式で挽歌を詠むのが仕事の、身分は高くない専門職。歌はうまいが出世はしなかった男。切ないけれど、まあ、ありそうな話ではある。
ただ、この説には最初から穴があった。位が低いなら、なぜ皇族の死を悼む公式の挽歌を任されているのか。なぜ持統天皇の吉野行幸に随行して国家儀礼級の長歌を詠んでいるのか。下っ端がやる仕事じゃないだろう、という違和感は、ずっとくすぶっていた。
斎藤茂吉、鴨山を探して歩き回る
そこに正面から取り組んだのが、歌人の斎藤茂吉だった。アララギの茂吉である。医者であり、歌人であり、そして人麻呂に取り憑かれた男だった。
茂吉は「鴨山はどこか」という一点に執着した。単なる文献考証じゃない。実際に石見の国、いまの島根県西部を歩き回った。地名を拾い、地形を見て、川の流れを確かめ、老人に聞き取りをした。歌に出てくる「鴨山」「石川」という二つの地名が実在の地形として噛み合う場所を、足で探した。
結論として茂吉がたどり着いたのが、石見国邑智郡、いまの島根県邑智郡美郷町の湯抱(ゆがかい)という地区だった。江の川の支流沿いの、山あいの温泉集落である。ここに「鴨山」と呼ぶにふさわしい山があり、近くを流れる川を「石川」に当てられる、という考証だ。
茂吉のこの結論は、戦後の万葉学に強い影響を残した。何しろ茂吉が言うのである。歌人としての勘と、実地踏査の重みがあった。美郷町の湯抱には現在、斎藤茂吉鴨山記念館が建っている。平成三年(一九九一年)五月の開館で、茂吉の遺墨や遺品、著書、そして鴨山の実地探査の記録が並ぶ。住所は美郷町湯抱二六五番地の一。山道を上がっていく、静かな場所だ。
湯抱――歌人が「ここだ」と決めた山あい
実際に湯抱に行くと、まず「海がない」ことに驚くらしい。
石見といえば日本海のイメージが強い。荒磯の歌も多い。ところが湯抱は完全に内陸の山の中だ。江の川をだいぶ遡ったところで、潮の匂いは一切しない。
人麻呂の臨終歌を「岩を枕に山中で野垂れ死んだ」と読むなら、この景色でつじつまは合う。合うのだが、依羅娘子の「貝に交りて」や丹比真人の「荒波に寄り来る玉」とは、正直、噛み合わない。
ここが茂吉説の弱点で、後の攻撃はまさにこの一点に集中することになる。山の中で死んだ男の妻が、なぜ貝を歌うのか。荒波とは何なのか。
茂吉自身もそれをわかっていたはずだ。だから彼は執拗に地形を調べ、地名の音の変化を追い、粘った。学問というより執念に近い。人麻呂の死に場所を確定させたいという欲望が、あの几帳面な男を何度も石見に通わせた。この執念そのものが、人麻呂という題材の吸引力を証明していると思う。
一九七三年、哲学者が全部ひっくり返した
そして一九七三年。哲学者の梅原猛が『水底の歌――柿本人麿論』を新潮社から出した。上下二巻。もとは雑誌「すばる」に一九七二年六月から一九七三年六月まで連載されたものだ。刊行は一九七三年十一月。のちに大佛次郎賞を受賞している。
この本がやったことは、はっきりしている。契沖・賀茂真淵の下級官吏説と、斎藤茂吉の湯抱説を、両方まとめて叩き潰しにいったのだ。しかも書きぶりが容赦ない。学者の敬語なんか使わない。茂吉の考証を一つずつ取り上げては、ここが破綻している、ここは牽強付会だ、と切っていく。読んでいると、こっちが茂吉でもないのに胃が痛くなる。
梅原はまず、茂吉説の地理的矛盾を突いた。海のない山中と、貝や荒波を詠む挽歌が合わない。次に、そもそも「臨死」「自ら傷みて」という詞書の文言に注目した。ただの病死なら、こんな書き方はしない、と。
そのうえで、梅原はとんでもない結論を出した。人麻呂は流罪になり、海の上で処刑された、と。
梅原猛の推理――人麻呂は高官で、流されて、沈められた
梅原説の骨格を整理する。
第一に、人麻呂は下級官吏ではない。高位の官人であり、宮廷の中枢に近いところにいた。皇族の挽歌を任され、天皇の行幸に随行して国家的な歌を詠んだ人物が下っ端であるはずがない、という論だ。梅原は春宮大夫クラスの高官だったと見る。
第二に、その人麻呂が政治事件に巻き込まれた。持統朝から文武朝、そして藤原不比等が力を伸ばしていく時期。大津皇子が謀反の疑いで死を賜ったように、宮廷では粛清が続いていた。人麻呂もその渦に飲まれ、失脚して石見に流された。
第三に、流罪の果てに水死刑に処せられた。舟に乗せられ、海に沈められた。場所は石見国益田の沖にあったとされる島、鴨島。ここでいう「鴨山」は、その鴨島の山だ。時期は和銅元年(七〇八年)ごろ。
第四に、だから人麻呂は正史から消された。名前ごと消された。そして罪人として死んだからこそ、後の世に「祟る霊」として祀られ、和歌の神にまで祭り上げられた。非業の死を遂げた人間を神として鎮める、日本人が延々やってきたあれだ、と梅原は言う。
読み物としてはとんでもなく面白い。挽歌の水のイメージ、正史の沈黙、神格化の異常な熱量。バラバラだった事実が一本の線でつながる快感がある。だから売れた。だから今も語られている。
「猨」という字が、この説の心臓部
梅原説を支える最大の物証が、『続日本紀』に出てくる一行だ。
和銅元年(七〇八年)四月二十日の条。「柿本朝臣佐留(さる)卒す」。柿本氏の人間で、名は佐留、あるいは「猨」と書かれる。位階を持った官人の死を記す、正式な記事である。
梅原はここに食いついた。柿本佐留と柿本猨と柿本人麻呂は同一人物だ、と。つまり、人麻呂は正史に載っている。ただし本名ではなく、「猿」という蔑称に書き換えられた形で。罪人に落とされた男の名を、人から猿へ貶めて記録した。そう読んだ。
言われてみると、確かに気持ちの悪い偶然ではある。柿本氏という、そもそも史料に登場回数の少ない氏族。同じ時期。歌人の消えた時期と重なる没年。そして「人」と「猿」という、あまりにも対照的な字。
この読みが成立するなら、人麻呂の死は七〇八年に確定し、正史の沈黙も説明がつく。梅原説の心臓部は、間違いなくこの一字だ。そして、この一字が後に説全体の急所にもなる。
人麻呂と柿本猿丸と猿丸大夫、という三段跳び
梅原はさらに跳んだ。柿本猨(さる)は、伝説の歌人・猿丸大夫と同一人物ではないか、と。
猿丸大夫という人物がまた不思議な存在で、三十六歌仙に数えられているのに、確実にこの人の作だと言える歌が一首もない。百人一首でおなじみの「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」も、『古今和歌集』では詠み人知らず扱いだ。『猿丸大夫集』に載る同じ歌は初句が「秋山の」になっていたりする。生没年不明、経歴不明、正史に登場しない。歌仙のくせに実体がない。
梅原はこの空白に人麻呂を代入した。人麻呂が猿と貶められ、その「猿」が独立した歌人として一人歩きした結果が猿丸大夫だ、と。傍証として持ち出したのが『古今和歌集』の真名序で、そこには人麻呂が「柿本大夫」と記されている。大夫。猿丸大夫。字が重なる。
人麻呂から柿本猨へ、柿本猨から猿丸大夫へ。三段跳びである。これが決まれば絵として完璧なんだよな。歌の神様と、正体不明の歌仙と、消された罪人が、一人の男に収束する。だが、跳躍が三段ある推理は、だいたい一段目で足を踏み外す。
正史に一行も出てこない、という不気味さ
梅原説の魅力の源泉は、結局これだ。なぜ正史に出てこないのか。
考えてみてほしい。同時代の宮廷歌人として並び称される人物の名は残る。役所の記録にも、木簡にも、いろんな人名が残っている。奈良時代の日本は、思ったよりよく記録を残す国だった。それなのに、当時最高の歌い手が、名前ひとつ残っていない。
穏当に考えれば、答えは「位が低かったから」で足りる。正史が記録するのは基本的に五位以上の官人の動静で、六位以下は死んでも記事にならない。それだけの話ではある。
それだけの話なのに、どうしても納得できない人が出てくる。歌がすごすぎるからだ。国家の儀礼を担う挽歌を詠み、天皇を「神にしませば」と讃え、皇子の死を国家的な喪の言葉に翻訳した男。その仕事の重さと、記録の軽さが釣り合わない。この不釣り合いが、千年以上ずっと人をざわつかせてきた。梅原はそのざわつきに、いちばん劇的な物語を用意したわけだ。
「自ら傷みて」という詞書の三文字
梅原がこだわった細部をもうひとつ。「自傷」だ。
臨終歌の詞書は「自ら傷みて作れる歌」となっている。この「自傷」という漢語は、単に自分を悲しむという以上のニュアンスを持つ、という読みがある。当人に落ち度がないのに、外からの圧力によって望ましくない状況に落とされ、それを嘆く。そういう場面で使われる語だ、と。
この読みを取ると、詞書そのものが「人麻呂は理不尽な外圧で死地に落とされた」と証言していることになる。病死ならこんな書き方はしない。ただ「病に臥して作れる歌」でいい。
もっとも、ここは慎重な国文学者ほど「その解釈は取りすぎだ」と言うところでもある。漢語の含意を強く読むほど、結論は劇的になる。劇的になるぶんだけ、危うくもなる。この綱渡りが『水底の歌』の全ページで続く、と思ってもらえばいい。
鴨島は本当にあった――万寿三年、一夜で沈んだ島
さて、梅原が人麻呂の死に場所とした鴨島。これは架空の島ではない。地元には具体的な伝承がある。
島根県益田市、益田川の河口沖にあったとされる島だ。伝承によれば、東西およそ二キロ、南北およそ三百メートルの細長い陸繋島で、外浜と内浜にそれぞれ良港を持っていた。日本海を行き交う船が必ず立ち寄るほど栄えた島だったという。
その島が、万寿三年五月二十三日(一〇二六年六月十六日)の深夜、地震と津波によって一夜で海中に沈んだ。俗にいう万寿地震である。伝承では、島にあった人麻呂神社・人丸寺・千福寺・万福寺の一社三寺と、およそ五百軒の民家がまとめて流失し壊滅した。現在「大瀬」と呼ばれる沖合の暗礁が、その沈んだ鴨島の跡だと言い伝えられている。
一夜で消えた島。その島に、歌聖の終焉地とされる山がある。話ができすぎているようだが、地震そのものは複数の記録に痕跡がある。そして二十世紀の終わりに、この伝承を科学で検証しにいった人たちがいた。
一九九三年、海の底を音波で探した人たち
一九九三年から翌九四年にかけて、松井孝典と竹内均を団長とする調査団が、益田沖の海底調査を実施した。惑星科学と地球物理の人間が万葉集の謎に乗り込んでいく、という時点でだいぶ愉快な話ではある。
調査は二方向から行われた。ひとつは海底の音波探査。これによって、沖合の海底に地殻変動による横ずれ断層が確認された。もうひとつが陸側で、益田川沿いでトレンチを掘り、地層を切って調べた。すると河口域の地層のなかから、珪藻の殻を含む砂の層が見つかった。海の生き物の殻を含んだ砂が、内陸側の地層に挟まっている。これは津波が運び込んだ堆積物と考えるのが自然だ。
さらに放射性炭素年代測定にかけたところ、万寿年間ごろという値が出た。
調査団は「万寿の地震と津波は確かにあった。伝承が正しかったと科学的にいえるのではないか」と報告している。
ただし、である。津波があったことと、鴨島という島があったことは別問題だ。調査は鴨島の跡そのものを特定するには至っていない。大瀬が本当に沈んだ島なのかもわからないままだ。伝承の骨は残ったが、肉はまだ確かめられていない。この「あと一歩」がずっと続いているのが、この話のいいところでもある。
高津柿本神社――流れ着いた神像から始まった社
益田市には高津柿本神社がある。人麻呂を祀る神社の総本社を名乗る、大きな社だ。
社伝はこうだ。人麻呂は晩年に石見国司として赴任し、和銅年間に「鴨山の……」の辞世を詠んで益田川河口の鴨島で没した。神亀年間になって、石見国司が聖武天皇の勅命を受け、その霊を祀るために鴨島に人丸社を創祀した。天平年間には人丸寺も建てられた。
そして万寿三年の地震と大津波。社は島もろとも海に沈んだ。ところが神像だけが高津の松崎に流れ着いた。だからその地に社殿と別当寺の人丸寺が再建された。そういう筋書きだ。海に沈んだ神が、波に乗って岸に帰ってくる。伝承としては見事な構成である。
その後、延宝九年(一六八一年)に津和野藩主・亀井茲親が、高津城のあった現在地へ社殿を移した。享保八年(一七二三年)には人麻呂の一千年祭にあたって「柿本大明神」の神号と正一位の神階が宣下されている。逆算すると、没年を養老八年(七二四年)と数えていることになる。享保十三年には津和野藩が社領を寄進し、藩内第一の神社として遇した。
歴代の天皇や公卿は法楽を営み、和歌を短冊に書いて奉納した。歌がうまくなりますように、と祈る場所になったわけだ。
明石の人丸山――もうひとつの「終焉の地」
ところが、である。人麻呂を祀る有名な神社は、島根だけではない。兵庫県明石市にも柿本神社がある。しかもこちらもかなり古い。
社伝によれば、仁和三年(八八七年)、明石の岡にあった楊柳寺(のちの月照寺)の住僧・覚証が、人麻呂の神霊がこの地に留まっているのを感得し、古塚の上に祠を建てたのが始まりだという。元和七年(一六二一年)、小笠原忠真が明石城を築くことになったため、月照寺ともども現在地である小山の崖の上へ移された。この地が以後「人丸山」と呼ばれる。
明石側の強みは、権力者からの評価が早かったことだ。天正九年(一五八一年)、豊臣秀吉が「播州明石の人丸は和歌第一の神仙」と評価して田地三十石を寄進している。天下人のお墨付きである。
そして、益田と明石はどちらも「人麻呂ゆかりの本家」を名乗ってきた。益田は終焉の地を言い、明石は霊の留まる地を言う。真正面からぶつかっているわけではないが、参拝者の側から見れば「どっちが本物なんだ」という話にはなる。ちなみに人麻呂の歌には明石海峡を詠んだ有名な一首もあり、播磨と人麻呂の縁もまた薄くはない。この二つの聖地が並び立っている状態そのものが、人麻呂という人物の輪郭のぼやけ方をよく表している。
「火止まる」「人産まる」――歌の神が火除けの神になるまで
人丸信仰の面白さは、ここから先の変質にある。
平安後期以降、人麻呂は「うまい歌人」を通り越して、歌の上達に霊験がある存在として崇拝されるようになった。歌会の場に人麻呂の肖像を掛けて供物を捧げる「人麿影供(えいぐ)」という儀式まで成立している。歌を詠む前に人麻呂を拝む。完全に神である。
そこまではまだわかる。問題はその次だ。
「ひとまる」という音が、「火止まる」に聞こえる。だから火除けの神だ。「人産まる」にも聞こえる。だから安産の神だ。こういう語呂合わせで、和歌の神が防火と安産の神になった。江戸時代、明石でも益田でもこの信仰が広がっている。高津のほうでは、それに加えて学問の神、農業の神、さらに石見産紙の祖神とされて殖産の神にまでなった。
明石の柿本神社には「盲杖桜」という伝説の桜がある。筑紫国から参詣した盲人が神に祈願したところ、社頭で神験によって目が開き、それまで突いていた杖が要らなくなった。地面に刺したその杖が根付いて桜になった、という話だ。もう歌は関係ない。完全に霊験譚の世界である。
こうやって元の人格から離れて機能神になっていくのは日本の神様のお約束なんだが、人麻呂の場合、その離れ方がやたら速くて、やたら遠い。「そもそも誰なのかがわからない」という空白が、いろんなものを吸い込んでしまったんだと思う。
学界は怒った。益田勝実の一撃
さて、『水底の歌』である。
この本は一般読者には猛烈に受けた。当時の読書界では事件だった。だが専門家の反応は、控えめに言っても冷たかった。
決定打を打ったのは、国文学者の益田勝実である。狙ったのは梅原説の心臓部、例の「猨(佐留)」だった。
益田の指摘は単純で、かつ効く。もし人麻呂が政争に敗れて流罪となり、名前まで「猿」に貶められた罪人だったのなら、なぜ『続日本紀』はその男に位階を与えたまま記載し、しかも死を記すのに敬意ある書き方をしているのか。罪人として処刑された者の死を、正史はそういう扱いにしない。書きぶりが、あまりにも普通の官人の死なのだ。
つまり、梅原が「貶められた証拠」として持ち出した記事そのものが、「貶められていない証拠」になってしまう。この一撃で、三段跳びの一段目が抜けた。人麻呂と佐留の同一が崩れると、佐留と猿丸大夫の同一も、刑死説も、根拠を失う。
もちろん梅原も黙ってはいなかったし、この論争は長く続いた。だが学界の大勢は動かなかった。伊藤博は別の可能性として持統天皇の崩御にともなう殉死説を出し、久松潜一や中西進は「水死の可能性そのものは否定しきれない」という限定的な留保をつけたにとどまる。人麻呂は水に死んだかもしれない、までは残った。刑死させられた高官だった、までは通らなかった。
呉座勇一が指摘した、梅原説のいちばん深い穴
もっとえぐい批判は、もっとあとに出てきた。歴史学者の呉座勇一が、梅原説を「通俗日本論」の典型例として分析している。
呉座が突いたのは、個々の論証ではなく、方法そのものだった。
梅原はしばしば、正史のような公式記録を疑い、地方の伝承や寺社の言い伝えを「民衆が守った真実」として持ち上げる。近代的な実証主義を批判し、記録から漏れたものに耳を澄ませる。姿勢としてはロマンチックで、反権力的で、かっこいい。
だが、と呉座は言う。伝承を「事実の記録」として読むという発想自体が、きわめて近代的なものではないか。伝承は事実を保存する装置ではない。それが語られた時代の、社会的な意味を表現するものだ。国文学者の古橋信孝も同じ趣旨のことを繰り返し述べている。高津の「神像が流れ着いた」という話は、平安の地震を記録するために作られたのではなく、その社が自分の由緒を語るために作られた。
そこから「だから人麻呂は本当に鴨島で死んだ」を引き出すのは、順番が逆なのだ。
反近代を掲げながら、いちばん近代的な読み方をしてしまっている。ここが梅原説のいちばん深い穴だと呉座は見る。そして厄介なのは、この穴を素通りしたまま、「大胆な新説」の外形だけを真似た本が、その後も大量に出続けたことだ。
湯抱で聞いた話――「茂吉さんの山」と呼ぶ人たち
現地の空気の話をしたい。
数年前の春、湯抱を訪ねた四十代の男性の話。江の川沿いの道をずいぶん走って、山あいの温泉集落に着く。斎藤茂吉鴨山記念館は、それこそ「ここでいいのか」と不安になるような細い道の先にある。館内は静かで、その日の来館者は自分ひとりだったという。展示は茂吉の遺墨、遺品、著書、そして鴨山を探して歩き回った実地調査の記録。写真と地図と、書き込みだらけの資料が並ぶ。
「正直に言うと、人麻呂の展示館というより、茂吉の執念の展示館でした」と彼は言う。「一人の歌人が、別の歌人の死んだ場所を突き止めようとして、これだけの時間と足を使った。その記録なんです。人麻呂がここで死んだかどうかより、茂吉がここまで来てしまったという事実のほうが、見ていて怖かった」
近所で立ち話をした年配の人は、あの山のことを「茂吉さんの山」と呼んでいたそうだ。人麻呂の山ではなく、茂吉の山。地元にとっての実感としてはそちらのほうが近いのかもしれない。「学者さんが来て、あれこれ言うたけど、まあ、ええ山ですわ」と笑われて、それ以上は何も言えなかったという。
高津の石段を上がった人の話
一方、益田の高津柿本神社を訪ねた五十代の女性の話。
高津の社は高台にあって、鳥居から本殿まで石段が長い。上がりきって振り返ると、益田の町と、その向こうに日本海が見える。「あ、と思いました」と彼女は言う。「ここに立つと、海しか見えないんです。鴨島がどこにあったかは誰も指させないんだけど、あの海のどこかだった、というのは、なんか、ものすごく素直に飲み込めてしまう」
彼女はもともと、梅原猛の本を読んで興味を持ったクチだった。刑死説を信じているわけではない。それでも現地に立つと、話が体に入ってくる感覚があったという。「学問的にどうこうより先に、風景が説得してくるんですよ。だから怖い。あそこに行くと、たぶん誰でもちょっと梅原説に転ぶと思います」
社務所で聞いた話も印象に残ったそうだ。歌の上達を願って短冊を奉納する人が、今も途切れずに来る。作詞をやっている若い人が来ることもある。千三百年前に死んだ、死に方もわからない男に、今日も誰かが「うまくなりたい」と祈っている。「その連続がいちばんぞっとしました」と彼女は言った。
明石で人丸を拝む理由を聞いた
三つ目は明石。人丸山の柿本神社で、地元の六十代男性に話を聞いた記録がある。
彼は毎年、暮れに参る。理由は歌ではない。火除けだ。「うちは商売やってましたからね。火事がいちばん怖い。人丸さんは火止まるやから」と、あっさり言われたという。和歌の神様ですよね、と聞くと、「そうらしいですな」で終わった。歌のほうはむしろ後から知ったらしい。
これがけっこう衝撃だった、と記録者は書いている。学者が千三百年もめている「万葉最大の歌人はどう死んだか」という問いと、地元の人が毎年真面目に手を合わせている「火事が出ませんように」が、同じ社の同じ賽銭箱の前で何の矛盾もなく共存している。梅原猛が書いた壮大な政治悲劇も、益田勝実の精緻な反論も、この人の生活からはきれいに独立している。
人麻呂という名前は、たぶん、そういうふうに千年以上生き延びてきた。中身を入れ替えられながら、名前だけがずっと使われ続けている。
ネットではどう転がったか
ネット上での『水底の歌』の受容も、なかなかねじれている。
書評サイトのレビューを追うと、傾向がはっきり分かれる。肯定側は「斎藤茂吉や賀茂真淵の説を徹底的に粉砕していく論証が痛快」「古代の謎解きとして面白すぎる」「人麻呂が刑死したかもしれないという発想がまず衝撃」といった書き方をする。要するに推理小説として読んでいる。実際そう読むのが正しい楽しみ方だと思う。
否定側・慎重側は「同じ話の繰り返しが多い」「文章が硬くて読み進めるのがしんどい」「決定的な証拠が出てくる見込みはなさそう」「梅原説自体を客観的に再検討する必要がある」と書く。冷静である。
面白いのは、掲示板や個人ブログの層になると、話が別方向に伸びていくことだ。猿丸大夫と人麻呂の同一だけが独立して一人歩きし、そこに日光の小野猿丸伝説や、各地の猿丸神社の伝承が接続される。梅原が書いていない要素がどんどん足されていく。宇治田原の猿丸神社を「人麻呂の墓」として紹介する書き込みも見かける。梅原本人が読んだら困った顔をしそうな増築である。
さらに古代史系の動画やまとめでは、「万葉集は暗号だった」「人麻呂は消された」といった見出しで、藤原不比等黒幕説とセットで語られることが多い。不比等が『日本書紀』の編纂に深く関わったのは事実なので、そこに「不比等が人麻呂を消した」を接ぎ木するのは構造上とても簡単なのだ。梅原説の骨格は、こういう接ぎ木の台木として異常に優秀だった。
「消された天才」という物語が、なぜ効くのか
なぜこの説はここまで人を掴むのか。理由は三つあると思う。
一つめは、空白の大きさだ。人麻呂には作品しかない。生年も没年も経歴も墓も、確定しているものが何もない。空白は物語を吸う。しかもその空白が、日本文学史の最初期という「起源」の位置にある。起源に穴が空いていると、人はそこに何かを埋めたくなる。
二つめは、非業の死と神格化のセットが、日本人にとって馴染みすぎていることだ。菅原道真、崇徳院、平将門。無念のうちに死んだ人物が祟り、祟るから祀られ、やがて学問や芸能の神になる。この型を知っている人間からすると、「和歌の神様として異常な熱量で祀られている人麻呂」は、逆算的に「無念の死を遂げたはずだ」と見えてしまう。梅原はこの逆算を明示的にやった。読者側にはすでに回路ができていたから、一瞬で通った。
三つめは、水だ。人麻呂の最期をめぐる歌には、水のイメージがしつこく出てくる。石川、貝、雲、荒波、玉。臨終歌そのものは山中の岩を詠んでいるのに、周囲の歌はどれも水を向いている。この不一致が、読む側の想像力を強制的に働かせる。溺れる、沈む、底に横たわる。それは炎や刃よりも静かで、静かなぶんだけ気味が悪い。「水底の歌」というタイトルが半世紀以上たっても古びないのは、このイメージの強さゆえだと思う。
結局、人麻呂はどう死んだのか
正直に書く。わからない。
学界の穏当な見解は、いまも「石見国で任地に在って死んだ下級から中級の官人」あたりに落ち着いている。刑死説は通っていない。猿丸大夫同一説も通っていない。梅原の三段跳びは、一段目で足を踏み外したと見るのが妥当だ。
ただし、「刑死ではなかった」ことが証明されたわけでもない。証明できるだけの材料がそもそも存在しない。正史に載らない人間の死に方は、正史では検証できない。梅原説が完全には死なないのは、批判が正しいからではなく、反証もまた不可能だからだ。
そして、これが厄介なんだが、その反証不可能性こそが、この説を今日まで生き延びさせている燃料でもある。
史料は増えていないのに、解釈だけが増えている
改めて全体を並べ直すと、この件は「人麻呂がどう死んだか」の問題であると同時に、「日本人が歴史をどう読みたいか」の問題になっている。
まず事実関係を締めておく。確実に言えるのは、『万葉集』巻二の二二三番に「石見国に在りて臨死らむとせし時、自ら傷みて作れる歌」という詞書つきの一首があること。その直後に依羅娘子の二首と丹比真人の一首が並ぶこと。それだけだ。歌の中に出てくる「鴨山」も「石川」も、他の史料で位置を特定できない。『日本書紀』にも『続日本紀』にも柿本人麻呂の名はない。
あるのは和銅元年(七〇八年)四月二十日条の「柿本朝臣佐留」という別名の人物である。ここまでが全員の共有事項で、ここから先は全部解釈だ。
解釈は大きく三つに分かれてきた。第一が江戸国学以来の下級官吏・病死説。契沖と賀茂真淵が組み立て、明治以降の国文学が受け継いだ。第二が斎藤茂吉の湯抱説で、これは死因については通説を動かさず、場所だけを実地考証で特定しようとしたもの。第三が梅原猛の流罪・刑死説で、場所も死因も身分も、まとめて書き換えにいった。三つとも、同じ四首の歌から出発している。
史料が増えていないのに解釈だけが増えている、というのがこの分野の構造的な特徴だ。
反証されにくい材料ばかりで建てた城
梅原説の失敗は、実は論理の失敗というより、証拠の性質の取り違えにある。
彼が使った材料は、歌のイメージ、正史の沈黙、神社の伝承と信仰の熱量、この三つだ。どれも「否定しにくい」種類の材料である。歌のイメージから事実は出てこないが、出てこないことを証明することもできない。沈黙は何の証拠にもならないが、沈黙が不自然だという印象だけは残る。伝承は事実を保存しないが、伝承がゼロから生まれたと証明することもできない。
つまり梅原は、反証されにくい材料ばかりを積み上げて城を建てた。だから益田勝実の一撃で心臓部を抜かれても、城の外形は残った。残ったまま、いまも観光ガイドやネット記事に流通している。
呉座勇一の批判が本当に痛いのは、この点を制度の側から言い当てているからだ。伝承を史実の代替物として扱う手つきは、一見すると官製の歴史への反逆だが、実際には「記録は事実を写す」という近代的な前提を、対象だけ入れ替えて再生産している。古橋信孝の言うとおり、伝承が語っているのはその伝承が生まれた時代の意味であって、千三百年前の事件ではない。
高津の「神像が流れ着いた」という話が語っているのは、平安中期に本当に何が起きたかではなく、中世以降の高津の人々が自分たちの社をどう位置づけたかったか、である。この区別をつけないと、地方の由緒書が全部一次史料に化けてしまう。
一方で、梅原説を単純に切り捨てるのももったいない、とも思う。あの本がやったことのうち、少なくとも二つは有効だった。
一つは、「人麻呂は下級官吏だった」という通説が、実は正史に名前がないという消極的事実からの逆算にすぎない、と暴いたこと。通説の側も証拠を持っていなかったのだ。
もう一つは、人丸信仰という巨大な現象を、文学史の外側に置きっぱなしにせず、人麻呂論の内側に引き込んだこと。歌の神が火除けの神になり、安産の神になり、製紙の祖神になる。この過程は、日本の神格化のメカニズムを見るうえで一級の資料だ。梅原はそれを「非業の死の証拠」として使おうとしたから怒られたが、現象そのものに光を当てた功績は残る。
山と海と町、三つの記憶装置
現地の話に戻ると、この題材は面白いことに、二つの聖地が全然違う顔をしている。
湯抱は山だ。静かで、内陸で、記念館は一人の近代歌人の執念を展示している。高津は海だ。石段を上がると日本海が広がり、鴨島があったとされる海面には何もない。そして明石には、和歌とはほとんど関係のない火除け祈願の参拝者が今日も来る。
同じ一人の人物を軸に、山と海と町という三つの異なる記憶装置が並行して動いている。どれが本物かを決める必要は、たぶんない。決められないという事実こそが、この人物の実像なんだと思う。
最後に、なぜこの話が怖いのかをもう一度言っておきたい。
人麻呂の恐ろしさは、殺されたかもしれないことにあるのではない。「日本語でいちばん最初に、いちばんうまく歌った人間の記録が、まるごと存在しない」という一点にある。記録が残る条件は能力ではない。身分と、政治と、偶然だ。人麻呂ほどの人間でも、条件から外れれば履歴書は一行も残らない。そして残らなかった空白には、後の世の人間が好き勝手なものを詰め込む。罪人にもされるし、猿にもされるし、火除けの神にもされる。
その詰め込み作業に、われわれも参加している。梅原猛を読んで震え、益田勝実を読んで冷静になり、高津の石段を上がってまた揺れる。千三百年前に石を枕にして死んだ男は、いまもその全部を黙って引き受けている。知らにと妹が待ちつつあるらむ。知らないまま待っているのは、たぶん、あの妻だけじゃない。
