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明智光秀=南光坊天海生存説――本能寺で死んだはずの男は江戸を築いたか

日光のいろは坂を上りきるあたりに、「明智平」と書かれた展望台がある。展望台からは華厳の滝、中禅寺湖、男体山が見渡せる。秋の紅葉でも名高い景勝地だが、訪れた人の大半は景色に目を奪われて、地名の由来までは気にとめない。無理もない。

ところが由来を調べると、この平を名付けたのは天海という僧だと伝わる、ひとつの伝承に突き当たる。天海は徳川家康に重く用いられて日光山の貫主にまで登りつめた人物で、その僧が謀反人の姓を山の名に選んだことになる。

答えとして語られてきたのが、明智光秀と天海は同じ人物だったという説だ。光秀は山崎の戦いで死なず、僧に姿を変えて、家康のそばへ戻ってきた。そんな筋書きになる。史料で確かめられることと、あとから足された推測を、できるだけ分けて並べていく。

死んだはずの謀反人が、江戸を設計していたとしたら

日本の歴史ミステリーは山ほどある。そのなかでも、これほど壮大で、これほど多くの人間を巻き込み、これほどしつこく語られてきた生存説は他に思いつかない。主役は明智光秀。

天正10年(1582)6月、光秀は主君の織田信長を本能寺で討った。天下を握ったかに見えたのはわずか11日で、その後は京都・小栗栖の竹藪で落ち武者狩りに遭って命を落としたと伝わる。教科書では、そこで彼の物語は終わる。

ところが、話はそこで終わってくれない。江戸幕府が成立して数十年のあいだ、家康、秀忠、家光と3代の将軍に仕えた男がいる。江戸の都市設計を差配し、日光東照宮の建立を主導した謎の大僧正。南光坊天海だ。

この二人は本当に別人なのか。同一人物だったなら、日本史上最大の逆転劇が、誰にも気づかれないまま歴史の裏側で組み上がっていたことになる。信長を殺した謀反人が生き延びて、徳川の世を設計した。逆転劇という言葉でも足りない。

江戸時代から隠されてきた噂なのか、近代の創作なのか。手がかりは地名、家紋、経歴の空白、それに将軍の名へ隠されたという暗号だ。状況証拠を一つずつ検証していく。

三日天下の終わり、竹藪で消えた男

天正10年6月2日の未明、京都の本能寺に泊まっていた信長は、家臣の光秀に襲われた。火をかけられた寺のなかで、信長は自害したと伝わる。光秀はその数日前の5月に安土を訪れた家康の接待役をつとめたといい、家康は信長の死の知らせを堺で受けた。

光秀がなぜ主君を裏切ったのか、動機は怨恨説、野望説、黒幕説と割れたまま、いまも決着していない。後の書物には「敵は本能寺にあり」という台詞が出てくるが、当時の記録で確かめられる言葉ではない。動機の謎に、その後の行方の謎が重なる。死の瞬間を同時代の記録で細かく追える部分は、意外なほど少ない。確かな記録が薄いところへ、物語は音もなく入り込んでいく。

信長を討って畿内の実権を一時的に握った光秀だったが、そこから先は何ひとつ思惑どおりに進まなかった。計算が狂った。備中高松城で毛利勢と対峙していた羽柴(豊臣)秀吉が、信長横死の報を受けて驚くほどの速さで兵を返す。いわゆる中国大返しだ。常識外れの速さ。

光秀は畿内の諸将に協力を呼びかけた。返ってくる反応は鈍く、娘婿の細川忠興と父の藤孝をはじめ、頼みにした与力の多くが動かなかった。孤立無援に近い状態のまま、光秀は6月13日、山城国の山崎で秀吉軍と激突する。

劣勢の明智軍は、あっけなく崩れた。光秀は居城の近江・坂本城をめざして敗走する。後世に三日天下と呼ばれたが、本能寺から山崎までは11日あった。それでも短さは変わらない。

通説はこうだ。光秀はいったん勝龍寺城に逃げ込んだが、城は大軍を収容できる規模になかった。夜陰にまぎれて城を脱け出し、わずかな側近と坂本をめざして落ちていく途中、伏見の小栗栖という土地にさしかかった。

そこで落ち武者狩りの農民に襲われる。竹槍で腹を突かれて深手を負ったとも伝わり、力尽きて家臣の介錯で自ら命を絶ったという異伝もある。どちらの伝えでも、最期は華々しい討ち死にから程遠く、名もない土民の手による呆気ない幕切れだった。

落ち武者が地元の集団に取り囲まれる話は、この時代べつだん珍しくもない。敗軍の将兵は、金品や武具を狙われて、しばしば襲われた。ここからが本題だ。

小栗栖の近くには胴を埋めたという塚の伝承があり、京都の東山には首を葬ったと伝わる塚が立つ。坂本城は、光秀の重臣だった明智秀満が火を放って自害し、落城した。

光秀の辞世と伝わる漢詩に、「五十五年の夢」という一句がある。これを拠り所に、光秀は55歳で死んだとする説が生まれた。この句が載るのは『明智軍記』で、光秀の死から100年以上あとの成立。『当代記』は67歳とするため、生年は1528年説と1516年説に割れる。この幅が、あとで効いてくる。

首実検の目は、ごまかせたのか

光秀の首は、翌日には織田信孝のもとへ届いたと、公家の日記『兼見卿記』にある。本能寺でさらされ、のちに粟田口へ移された。東山には首塚と伝わる五重の石塔が立ち、公家の日記には、討たれた場所を醍醐のあたりとするものもある。

首実検とは、討ち取った首が本人のものかどうかを、顔を知る者が確かめる手続きだった。夏の京都は暑い。しかも混乱のさなか。腐敗の進んだ首を、どこまで正確に確かめられたのか。誰が、どんな手順で検分したのかを記した当時の文献は、見つからない。

首を見つけた人物も、書物によって揺れる。中村長兵衛という百姓の名が伝わるが、光秀を竹槍で刺した人物とする書もあれば、首を見つけた人物とする書もある。落ち武者狩りの一団そのものが討ち取ったと書く史料もある。細部は一致しない。

首実検は、検証しようのない速さで済んだ。誰も異を唱えられない政治的な決着として、光秀は死んだという物語が確定していった。そう見る余地が、後世の生存説論者に付け入る隙を与えたわけだ。

影武者の話は古くからある。『美濃志』によれば、勝龍寺城で自害しようとした光秀を荒木山城守行信が止め、光秀の具足をつけて身代わりになった。光秀は故郷の美濃へ逃れたという筋書きだが、影武者がいたと示す確かな記録は確認できない。戦国の世に影武者という手段があった以上、首実検の目をごまかす話も、まるきり絵空事ではない。

信長の遺体が本能寺で見つからなかったことと、よく似た空気が漂う。遺体がはっきりしない人物には、いつの世も別の物語がくっつくが、空白があることと生き延びたことは別の話になる。

前半生がまるごと空白の大僧正

光秀の死から十数年後、歴史の表舞台に忽然と姿を現す男がいる。天台宗の僧、天海。3代にわたる将軍の側近として、宗教から都市計画まで絶大な影響力をふるった。ところが前半生は、恐ろしいほど空白だらけなんだよな。

伝わる由緒書『東叡山開山慈眼大師縁起』によれば、天海は陸奥国会津の高田郷に生まれた。蘆名氏の一族で、三浦氏の流れだともいう。ところが弟子に素性を問われると、生まれた年も場所も俗名も忘れたと答えた。

はぐらかし方があまりに見事で、かえって周囲の想像をかきたてた。江戸時代の高僧なら、出自を誇って系譜を明らかにするほうが権威づけにもなる。天海はそれをあえて曖昧にし続けた。徹底していた。

同一人物説の側は、この沈黙こそ最大の状況証拠だと見る。語れない過去、つまり謀反人としての前半生を隠すためではないか。不自然な沈黙が、そんな推測を育てる土壌になった。

僧が俗世の名を捨てるのは、珍しい話ではない。素性を伏せたからといって、そこに謀反人の影を読むのは飛躍が過ぎる。出自の異説は光秀だけでなく、室町将軍の足利義澄の落胤だという話まであった。

生年は天文5年(1536)説が有力だが、1510年、1530年、1542年、1554年といった説も並び、決め手はない。没年は寛永20年10月2日(1643)。数えで108歳という途方もない長寿を全うしたと伝わる。

光秀の前半生も、記録が乏しい。美濃の明智氏の出とされ、信長に仕える前は越前の朝倉氏のもとにいたなど、足取りは断片的にしか分からない。足利義昭と信長を結びつけた人物としては知られる。素性の曖昧な二人が重ねて語られ、同一人物説はその共通点から育ったと見ることもできる。

随風が天海になるまで

天海の若いころの名は随風という。龍興寺で出家し、14歳で下野の宇都宮にある粉河寺へ入って、皇舜に天台を学んだと伝わる。その後は比叡山、園城寺、奈良の興福寺を渡り歩いて学んだ。元亀2年(1571)に比叡山が焼き討ちに遭うと、武田信玄に招かれて甲斐へ移っている。のちには蘆名盛氏に呼ばれ、会津の黒川城にも住んだという。

天正16年(1588)、武蔵の無量寿寺北院に入って天海と名乗った。いまの川越の喜多院だ。名乗った年を1590年とする説明もある。どちらにしても、光秀が死んだ1582年のあと。同一人物説は、その数年のあいだに別の人間として生まれ直したと言いたいわけだ。

同一人物説が成り立つには、光秀が山崎から逃れて身を隠し、別の名で僧になった証拠が要る。随風という僧が1582年より前から実在したなら、話はそこで終わる。けれど随風時代の行跡は、天海自身の語りと後世の伝記に頼る部分が大きい。

否定する材料も、肯定する材料も、決め手には欠ける。そこが厄介だ。天海の前半生を伝える記録の多くは、没後にまとめられた縁起や伝記で、そこに整えられた経歴には、どうしても顕彰の色がつく。随風の時代を詳しく語れる人は、じつはほとんどいない。

遅れてやってきた家康の相談役

家康と天海の接点は浅草寺の史料から推察され、北条攻めのころ、天海は浅草寺の忠豪とともに家康の陣にいたらしい。慶長4年(1599)に喜多院の住職を継いだ。60歳を超えていたとおぼしきこの時期から、それまでの沈黙が嘘のように、動きは一気に大きくなる。

慶長12年(1607)には比叡山の探題執行を命じられ、南光坊に住んで延暦寺の再興に当たった。2年後に権僧正となり、家康に本格的に用いられていく。慶長18年(1613)には日光山の貫主を拝命して、本坊の光明院を再興した。

慶長20年(1615)、大坂の陣で豊臣家が滅んだ年には、家康の側近としての地位は不動になっていた。元和2年(1616)に家康が没する。遺言で、一周忌のあとに日光へ小さな堂を建て、神として祀るよう命じたと伝わる。その日光山の貫主が、天海だった。

家康の神号を決める場で、天海は金地院の以心崇伝や本多正純と真っ向からぶつかった。崇伝らは吉田神道で祀る案を持ち、天海は山王一実神道を推して「権現」の号を主張する。天海が持ち出したのは豊臣秀吉の例で、秀吉には豊国大明神の神号が贈られたが、その後に豊臣家は滅んだ。大明神は縁起が悪い、と論じて、「東照大権現」に決めさせたと伝わる。

この手腕を、主君を討って天下を取りかけた男の知恵だと、光秀の頭脳に重ねる人もいる。けれど天海の才覚は、比叡山で長年学んだ僧としての経験でも説明がつく。仏教と神道の理論に通じ、政治の場を読む力もあった天海は、光秀と結びつけなくても十分に傑出した人物だった。

家康の遺骸は、いったん駿河の久能山に葬られたが、それを日光へ改葬する仕事にも天海は携わった。寛永寺の創建は、寛永元年(1624)とも、寺の説明にある寛永2年(1625)ともいう。江戸城の鬼門を守る寺として整えられ、山号の東叡山は、東の比叡山を意味する。上野東照宮は、寛永4年(1627)の建立だ。

江戸の町づくりにも、天海の名が出てくる。関東各地の地相を調べたという話もある。東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾。この地形を四神相応に見立て、江戸城の北東の鬼門に寛永寺、南西の裏鬼門に増上寺と日枝神社を置いたという説明がある。ただ、寺社配置の細部まで天海ひとりの構想だったのかは、慎重に見たほうがいい。

僧としての仕事も、本物だった。天海が着手した大蔵経の出版は、没後の1648年に完成している。木の活字は26万個以上が現存すると伝わる。

同一人物説は、この遅咲きの経歴を大きく取り上げる。光秀は本能寺のあと身を隠して機が熟すまで潜伏し、家康と旧交があったから天海は重んじられた、と説く。筋は通って見える。ただ、旧交があったと示す記録は、どこにも出てこない。

本能寺の変の解釈にまで踏み込む筋書きもある。信長が家康の暗殺を企てていた。光秀はそれを察して家康と密かに通じ、逆に信長を討つ側に回った。この場合、光秀は家康にとって命の恩人になり、後年、家康が天海を破格に厚遇した理由にも説明がつく、というわけだ。

明智平という名

同一人物説の根拠として最初に挙がるのが、日光のいろは坂を上りきるあたりにある明智平という地名だ。伝承では、天海が奥日光を踏査したとき、いちばん眺めのよい場所を明智平と名付けた。元は明地平だったのを、天海が「明智の名を残す」と語って改めた、という話もある。

徳川の手で日光山の再興を託された天台僧が、なぜ謀反人の姓を冠した地名を残したのか。単なる偶然にしては、あまりに出来すぎている。この感覚が、いまも説の説得力を支えている。

ところが、天海が名付けたという話は、伝承の域を出ない。史料の裏づけは見つからず、後世に付いた名だと見る立場もある。決め手になる文書は添えられていない。

東照宮に咲く桔梗

もうひとつ、日光東照宮の建物に光秀の家紋が見えるという話があり、明智家の家紋は水色桔梗と呼ばれた桔梗紋だ。それとよく似た紋様が、陽明門の武者像の袴など、建築装飾のあちこちにまぎれ込んでいるという。古くからマニアの間でささやかれてきた指摘。

家康の紋は葵だ。徳川の聖地に、滅ぼされた謀反人の紋がなぜ咲いているのか。天海が日光山の造営という絶好の機会を使い、本当の出自を後世へひそかに伝えようとした。説の側はそう読む。知っていて見る者にしか見えない暗号、というわけだ。

反論も根強い。桔梗は美濃の土岐氏が用いた紋として知られ、土岐一族につながる家々も同じ紋を使った。桔梗がひとつあれば光秀の紋と決まるわけではない。東照宮の意匠は桔梗に似ているだけで、別物だと退ける解説もある。ありふれた別の文様だとする説明のほか、中国から渡来した唐花紋らしいという指摘もある。

今の東照宮の姿は、3代家光の寛永の大造替で整えられた。家康が没した当初の社殿よりも、はるかに華やかな建物になったと伝わる。仮に桔梗に見える彫刻があっても、誰がどんな意図でいつ彫ったのかを示す記録は、確かめにくい。探せば見つかるのが、意匠というものだ。

慈眼の二文字

天海の諡号にまつわる符合もある。天海は没して5年後の1648年、朝廷から慈眼大師の号を贈られた。僧としては最高の栄誉だった。京都市右京区の周山には、慈眼寺という曹洞宗の寺があり、光秀の黒塗りの坐像と位牌が祀られている。「慈眼」の同じ二文字が重なる。

ところが、この坐像と位牌は、もとは近くの密厳寺にあった。光秀はその寺の観音菩薩を信仰していたが、寺が廃れたために移されたらしい。寺号の一致をそのまま根拠にするのは無理がある、という指摘がある。

天海の廟所の慈眼堂は、日光山にある。比叡山の麓の坂本にも天海の廟所と伝わる慈眼堂が建ち、坂本は光秀が居城を構えた土地でもある。説の論者は、これも偶然とは見ない。

春日局が口にした「お久しぶり」

3代将軍家光の乳母だった春日局は、本名を福という。父は光秀の重臣だった斎藤利三で、山崎の戦いのあとに捕らえられて斬られた。福は母方の稲葉家に引き取られて育ち、のちに稲葉正成の妻になる。

逆臣の娘が、のちに将軍の乳母となり、大奥を取り仕切るまでになった。家光が生まれた1604年に、福は乳母として召されている。ふつうに考えれば異例の出世だ。背後に天海の強い推挙があった、と見る向きは多い。天海が本当に光秀なら、旧臣の娘を将軍の乳母に据える行動も、素直に理解できる。

そこへ逸話が絡んでくる。春日局と天海が初めて顔を合わせたとき、春日局が「お久しぶりです」と声をかけた、という話だ。初対面のはずの二人が、旧知のように挨拶を交わした。光秀と重臣の娘が再会したのだと考えれば、辻褄が合う。理屈は通る。

正直なところ、できすぎた話に聞こえる。この逸話を載せた同時代の記録は確認できず、のちの世に作られた話だったとしても、おかしくはない。史実としては扱えない部分だ。縁が深いことと、天海が光秀だったことは、まったく別の問題になる。

もっと厄介な話がある。江戸城の紅葉山文庫に伝わる『松のさかえ』の「東照宮御文の写し」に、家光の生母を春日局とする書き込みがあるという。歴史学者の福田千鶴氏も、家光の生母は春日局だったと推定している。これが事実なら、家光は光秀の重臣、斎藤利三の孫にあたる。

春日局が光秀の菩提を弔う気持ちを持っていた、という指摘もある。京都の妙心寺には明智風呂と呼ばれる蒸し風呂があり、その鐘楼を春日局が寄進した。

川越の客殿に残る、家光誕生の間

川越の喜多院は天海が住職をつとめた寺で、寛永15年(1638)1月の川越大火では、山門など一部を残して焼けた。将軍家光は、江戸城紅葉山にあった建物を移して再建を助けたと伝わる。客殿や書院は、いまも残る。

客殿には「家光誕生の間」、書院には「春日局化粧の間」と呼ばれる部屋がある。ただ、どちらも寺に伝わる呼び名だ。建築史家は、実際に家光が生まれた部屋だったという確証は得られないとする。江戸城から移された建物だと聞くだけで、天海が将軍家のどれほど近くにいたかは分かる。

光秀の旧臣の娘と、光秀の影を負わされた僧と、その二人に守られた将軍。説の側は、この三人を一枚の絵に収めたがる。けれど絵筆を握っているのは、あとの世の人間だ。

天海が日光で家康の霊を祀っていたころ、光秀の旧臣の娘は江戸城の奥で将軍の世継ぎを育てていた。巡り合わせの面白さは、否定できない。天海、春日局、家光。三人の縁の深さは、確かなもの。

家光の名に混じる一字

家光の「光」の字にも話がある。表向きは松平家の祖、信光にちなむというのが通説だ。それでも実際は光秀の「光」に由来するのではないか、という説も語られる。

徳川将軍家は代々「家」の字を受け継いだ。一方の「光」には、確かな由来が分からない。そこへ光秀を重ねたくなる気持ちは、理解できる。

家光が将軍になってから、全国の大名がこぞって「光」の字を偏諱として用いはじめた。水戸の徳川光圀も、そのひとりだ。そこから、家光の名とともに光秀の名は天下へ行き渡った、とする解釈まで飛び出している。

それでも「光」は、日本の人名でごくふつうに使われる字だ。輝く、栄える、といった縁起のよい意味をもつからで、光秀だけの専売特許ではなかった。天海の側にも「光」が並ぶ。住んだのは南光坊で、再興した日光の本坊は光明院だった。

説の支持者は、これを偶然とは見ない。けれど、仏教の寺や坊の名に光の字が多いのは、天台の世界ではよくあることだ。偶然の一致を拾い集めれば、どんな人物にも別の正体を与えられる。名前の話が面白いぶん、冷静に見ておきたい。

数字を並べると合わなくなる

ここで、いちばん硬い壁を出す。年齢だ。光秀が1528年の生まれなら、天海が亡くなった1643年には115歳になり、数えなら116歳だ。1516年生まれの説を取れば、127歳にもなる。江戸時代の人は年齢を数えで言うので1歳か2歳は違ってくるが、天海の長寿が並外れていることは動かない。

家康は1543年の生まれだ。光秀が1528年生まれなら15歳、1516年生まれなら27歳も、家康より年上になる。天海の1536年説でも、家康より7つ上という計算だ。

天海は寛永9年(1632)、日光東照宮の薬師堂で法華経万部供養の導師をつとめたという。そのとき97歳と伝わる。光秀が同一人物なら、1528年生まれで104歳、1516年生まれで116歳。100歳をとうに超えた老人が、江戸の町づくりに口を出し、寺を建て、将軍に教えを授けていたことになる。想像するだけで、かなり無理のある絵面。

光秀の生年にも決め手はない。そこを突いて、年齢の矛盾だけでは説を否定しきれない、という声はある。天海の生年を最も遅い1554年説まで下げれば、没年は89歳になる。それでも光秀が1528年生まれなら、26歳の開きが残る。

生年の説が割れていること自体が素性の曖昧さを映していて、その曖昧さはどちらの立場にも都合よく使える。それでも「動かぬ証拠」には程遠い。念のため言っておくが、この計算は生存説を笑うためのものではない。数字を並べて初めて見えてくる、素直な違和感だ。

比叡山の石灯籠と、焼き討ちの縁

比叡山には、光秀の名を刻んだ石灯籠がある。飯室谷の松禅院に立ち、「願主光秀」の銘に、慶長20年2月17日の日付が刻まれているという。慶長20年は1615年で、本能寺の変から33年後だ。もし本人なら、「光秀」を名乗る人物が、33年を経てなお寺社へ寄進していたことになる。

比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録も伝わる。この二つは、説を補強する材料としてしばしば取り上げられてきた。死んだはずの人間が、寄進をしたのか。謎の灯籠。

解釈は割れる。光秀本人が生きていたのか、近親者や家臣が供養のために納めたのか。灯籠の「光秀」は、松禅院の隣にある長寿院の2世住職、是春の初名だと分かった、という指摘もある。納めた主を示す確かな言葉は、見つからない。

光秀と比叡山は、浅からぬ縁で結ばれていた。元亀2年9月12日、信長は比叡山を焼き討ちにして、多くの者が命を落としたと伝わる。光秀はその焼き討ちで信長のもとで働き、功を認められて坂本の地を与えられ、琵琶湖のほとりに坂本城を築いている。

のちに天海は、比叡山の再興に力を尽くす。焼き討ちに加わった武将と、焼かれた山を立て直した僧が同じ人物だったなら、これほど皮肉な話はない。焼いた側と、直した側。

光秀の菩提寺としては、坂本の西教寺が知られる。境内には明智一族の墓がある。琵琶湖を見下ろす比叡山の麓で、光秀の記憶は静かに守られてきた。その墓の下に光秀が眠っているのか、遠い日光の山にいたのか。物語としては、後者のほうが魅力的に映る。

筆跡が似ていたとき

ある歴史番組で、光秀と天海の筆跡を専門家が鑑定した。結果は、かなり似ているというものだった。これで決まりかと思うと、続きがある。同じ専門家は、似ているという結果は親子のような近い親類にも出ると説明し、同一人物とは断定しなかった。別の番組では別人と出たという書き込みもあり、結果は割れている。

この鑑定は、別の説を生んだ。天海は光秀本人ではなく、光秀の息子ではないかという説だ。同一人物説が、血縁説へ姿を変えたことになる。光秀の子には、細川忠興に嫁いだ玉、のちのガラシャがいた。男子の十五郎は坂本城の落城とともに亡くなったと伝わり、生き残った子がいたのかどうかは、はっきりしない。

筆跡の鑑定は比べる資料の数や状態で結果が変わり、400年以上前の文字を確かな本物と並べて比べる難しさもある。結論を急ぐ材料にはならなかった。まあ、似ているだけで同じ人間だと決めてよいなら、世の親子は全員が同一人物になってしまう。決定打がないまま説だけが生き残る、そういう仕組みだ。

言い出したのは誰か、説のルーツを掘る

この説は、いつごろから語られ始めたのか。長らく、大正5年(1916)に須藤光暉が著した『大僧正天海』が、説の初出として扱われてきた。ところが須藤はこの本のなかで、光秀が天海になったと唱える者がいると書き、根拠のない奇説だと退けている。

近年、在野の研究者が古い雑誌や著作を洗い直して、話が変わってきた。説の根は、もっと古い時期まで遡れるらしい。ジャーナリストの宮武外骨が出した風刺雑誌『滑稽新聞』の明治39年(1906)の号に、その痕跡がある。天海僧正は明智光秀だという説を、すでに虚説として扱う記述だ。明治後期には世間話として流布して、揶揄的に紹介されるほど知られていた。

もっと遡ると、もう一人の名前が出てくる。作家の坂崎紫瀾だ。明治16年(1883)に坂本龍馬の伝記小説『汗血千里駒』を発表し、明治21年(1888)に残したのが『黒衣宰相(天海僧正伝)』だ。土佐藩の侍医の子に生まれた新聞記者で、史実と伝奇を織り交ぜた読み物で人気を博した人物。この時期に説の原型ができあがったのではないか、と見る向きもある。

坂崎の著作が源流なら、話の色合いはがらりと変わり、江戸時代からの隠された口伝というより明治期の産物になる。新聞や出版の文化のなかで、売れる歴史読み物として作られ、育てられた。そういう見方が成り立つ。

江戸時代の史料を端から当たっても、天海を光秀と同一視する明確な記述は見当たらない。考えてみてほしい。天海が幕府中枢に近づいていた当時、その正体が謀反人だという噂が公然と流れていたら、命に関わる大問題だった。同時代の書き物のどこを探しても、痕跡がない。その不在は、説が当時から広く信じられていた話ではないと示唆する。

光秀ではなく、あの重臣だったという説もある

光秀=天海説には、本流と呼べる筋書きがある。その周りに、枝分かれした異説がいくつも生えている。

異説のひとつは、光秀本人を主役に置かない。光秀の右腕として深い知略を備えた重臣、明智秀満こそ、天海の正体だというのだ。秀満は坂本城で最期を迎えたと伝わるが、その最期を疑い、姿を変えて生き延びた秀満が、天海として歴史に再登場した。そんな筋書きも一部で語られる。

義経も信繁も西郷も生きていた

生き延びた英雄の話は、光秀だけのものではない。源義経は衣川で死なず、蝦夷地から大陸へ渡ってチンギス・ハンになったという伝説がある。真田信繁には、大坂夏の陣のあとで薩摩へ落ち延びたという話が伝わる。

西南戦争で城山に散った西郷隆盛にも、ロシアへ逃れたという噂が流れた。どの話にも、惜しまれた人物の最期が劇的だったという共通点がある。光秀の場合は、そこへ謀反人という重い札が加わる。

悪名を背負った人物が、いつの間にか聖人になっていた。惜しまれる英雄とは逆向きの、もうひとつの物語の型だ。

学者は冷たい、それでも説は死なない

歴史学の専門家の反応は冷たい。おおむね一致して、明確に否定的な立場をとっている。最大の弱点は、やはり年齢の矛盾。根本の問題もある。天海が光秀だったと直接示す一次史料が、皆無に等しい。

地名の由来にせよ、家紋の類似にせよ、諡号の一致にせよ、「そう見えなくもない」という状況証拠の域を出ない。当時の公文書や書状、日記の類に、両者を結びつける記述は確認されていない。歴史学者の渡邊大門氏は、「明智光秀が天海になったというのはデタラメも甚だしい」と題した解説を書いている。別の解説では、公家の日記を挙げて、光秀が山崎の戦いのあとに確実に死んだと論じた。

こうした否定にもかかわらず、この説は驚くほど根強い。歴史番組やバラエティのミステリー特集では、定番のネタとして繰り返し取り上げられてきた。歴史小説や漫画の題材としても、何度も描かれている。

特に大きかったのが、2020年から21年にかけて放送された大河ドラマ「麒麟がくる」だ。最終回は光秀のその後をあえて明確に描かず、生存の可能性を強く匂わせる演出だった。放送直後、ネット上には、やはり光秀=天海説を意識しているのでは、という考察があふれた。

学術的な裏づけが乏しいことは、ファンも百も承知だ。それでも多くの歴史ファンが、この説を面白い可能性として愛している。その熱が、物語の魅力を映している。

罪人から聖人への転身

仮に光秀が天海だったなら謀反人が大師になったことになり、その落差の大きさこそが生存説の魅力だ。罪人から聖人への転身。物語としては、これほど据わりのよい結末はない。

桔梗の紋も、明智平の名も、春日局の挨拶も、家光の一字も、ひとつずつ見れば反論の余地があり、束ねても決め手にならない。光秀の死から天海の登場まで、確実に追える線はひとつもない。同一人物説は、その切れ目へ糸を渡して成り立っている。切れ目の多さ。それが、この説を長生きさせてきた。

けれど、落差を楽しむ心と、史実を確かめる姿勢は別ものだ。同一人物説は確かな証拠をひとつも持たず、あるのは偶然の一致と、読み手の願いだった。天海が光秀と何らかの縁をもっていた可能性まで、否定する材料はない。同門、同郷、遠い親類といった形かもしれないが、それを示す文書はまだ見つかっていない。答えは、いまも空白。

明智平の看板は、いまも坂の上に立っている。誰が、何を思ってその名を付けたのか。名付けた人間の言葉は、残されていない。

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