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セントヘレナの遺髪から出た大量のヒ素――ナポレオンは胃癌で死んだのか毒を盛られたのか、19年後に掘り出された腐らない遺体は本当に本人だったのか

1.72ミリグラムの髪一本が、200年前の密室をこじ開けた

1961年10月14日、イギリスの科学誌ネイチャーに、素っ気ないタイトルの短い報告が載った。「おそらく死の直後に採取されたナポレオン1世の毛髪のヒ素含有量」。著者は3人。スウェーデンのイエーテボリで開業していた歯科医ステン・フォシュフーヴッド、グラスゴー大学法医学教室のハミルトン・スミス、そしてアンデシュ・ヴァッセン。

数字だけ先に書く。試料は毛髪1本、重さ1.72ミリグラム。ポリエチレンの容器に密封して、標準ヒ素溶液と一緒にハーウェルの原子力研究所の原子炉に入れ、毎秒1平方センチあたり1兆個の熱中性子を1日浴びせた。戻ってきた試料からヒ素を抽出して、標準試料の放射能と比べる。

出た値が10.38ppm。当時の論文が挙げている正常値の平均が0.8ppm前後だから、ざっと13倍だ。

論文の最後の一文が、いま読むと少し切ない。「残念ながら分布の研究はできなかった。他に試料がなかったからである。この値だけでは、ヒ素が均等に分布していたのか、それとも一点に集中していたのかを判別できない」。均等なら継続的な曝露、一点集中なら一度の大量摂取。どちらとも言えない、と正直に書いてある。

それでも、この3ページは爆弾だった。

ヨーロッパを一度は丸ごと呑み込んだ男が、大西洋のど真ん中の岩の島で、公式には胃癌で死んだことになっている。その男の頭から切られた髪に、通常の十数倍のヒ素が入っている。しかも試料を提供したのは、マルメゾン城美術館の元副館長でナポレオン研究の権威、アンリ・ラシューク司令官だった。素性が悪くない。

ここから60年以上、この話は終わらない。

壁紙のせいだ、整髪料のせいだ、ワインの樽のせいだ、いや医者が盛った下剤のせいだ、そもそも当時の人間はみんなヒ素まみれだった、いやいや遺体そのものが別人にすり替えられている――出てくる説の数がとにかく多い。そして厄介なことに、どの説にもそれなりの根拠がある。

これから、1815年の流刑から書き起こして、ロングウッド館の湿った日々、看守との泥仕合、最後の数か月に何が起きたのか、翌日の解剖で胃から何が出てきたのか、そして1961年以降の科学者たちの殴り合いを、順番に潰していく。最後に、19年後に棺を開けたら遺体がほとんど腐っていなかったという、いちばん不気味な話に着地する。

1815年、「あの岩」に送られる

ワーテルローで負けたのが1815年6月18日。6月22日に2度目の退位。7月15日、ロシュフォール沖でイギリス軍艦ベレロフォン号に乗り込んで身柄を委ねる。

このとき本人はイギリスに亡命して田舎紳士として暮らすつもりだったらしい。摂政皇太子に宛てて「もっとも強大で、もっとも執拗で、もっとも寛大な敵の炉端に座を占めに来た」なんて文章まで書いている。

イギリス政府の答えは冷たかった。8月1日、南大西洋の孤島セントヘレナへの流刑が決定。

ナポレオン本人はこの知らせを受けて激怒した。あの島は熱帯の岩だ、あそこでは3か月で死ぬ、いっそ今ここで殺せ、と喚いたと複数の随員が書き残している。

セントヘレナの位置を確認しておくと、アフリカ大陸の西、アンゴラ沖からさらに1900キロほど離れた、面積122平方キロの火山島だ。いちばん近い陸地まで2000キロ近い。エルバ島から脱出された前科があるイギリスにとって、これ以上の監獄はなかった。島の周囲には常時軍艦が張り付き、駐屯兵は最盛期で2000人を超えた。

10月15日に上陸。最初はジェームズタウン近郊のバルコム家の別荘「ブライアーズ」の東屋に間借りして、ここでの数週間だけはわりと楽しかったらしい。バルコム家の次女ベッツィという14歳の少女が物怖じせずナポレオンをからかい、彼のほうも本気で相手をして遊んだ。晩年の彼が屈託なく笑った、ほとんど最後の時期だ。

そして1815年12月10日、ロングウッド館に移る。ここが最期の場所になる。

湿気とネズミと風――ロングウッド館という監獄

ロングウッドはもともと副総督の夏の別荘だった。標高およそ550メートルの吹きさらしの台地の上にある。ジェームズタウンから6キロほど。

イギリス側がここを選んだ理由ははっきりしている。平坦な台地だから、周囲に歩哨を並べれば逃げ場がない。監視に都合がいい。

住む側にとっては最悪だった。年の半分は貿易風が台地を叩き、霧が這い、雨が降る。湿度は85パーセントから100パーセントの間をうろうろする。布は湿り、紙はふやけ、革はかびる。壁の中に水が回り、床下には水が溜まっていた。現在の館の管理人が「ナポレオンがいた頃は床下に水が溜まり、壁を水が伝い、ネズミがそこら中にいて、いつもかび臭かった」と証言している。

ネズミの話は誇張ではない。当時の島の地誌にはこう書かれている。ナポレオンの食堂は特にネズミがひどく、食後に帽子をかぶろうとしたら中から1匹飛び出したことがある。

被害があまりに大きいので、後半はネズミ狩りがロングウッドの娯楽になった。日暮れ前に巣穴の蓋を開けて獲物を招き入れ、しばらくして従僕が5、6人、灯りと棒と犬を連れて突入し、穴を塞いで叩く。追い詰められたネズミは犬にも人にも噛みつき、脚をよじ登ってくる。一部屋で30分足らずのうちに16匹仕留めた、という記録が残っている。

ここが後で効いてくる。ネズミがいれば殺鼠剤を使う。19世紀初頭の殺鼠剤といえば亜ヒ酸だ。ロングウッドにヒ素があったこと自体は、誰も争っていない事実である。

もっとも、この「ネズミだらけ」も政治的に演出されていた面がある。イギリス側の記録によれば、ナポレオンは従僕に食べ物や生ゴミをわざと出しっぱなしにさせ、訪問者にネズミを見せつけたという。イギリス本国に「あの偉大な男があんな家畜小屋に住まわされている」という話を持ち帰らせるためだ。彼はプロパガンダの天才だった。惨めさの演出も戦術のうちだった。

イギリス政府もさすがに気が咎めたのか、隣に「ニュー・ロングウッド館」を新築した。着工が1818年10月。ところが完成しても本人は入居を拒む。理由は、周りに柵を巡らせる計画だったからだ。「牢屋には住まない、力ずくで運ぶなら運べ」と言い放って、そのまま古いほうで死んだ。

ハドソン・ロウという看守と、たった6回の会見

ロングウッドの空気をさらに悪くしたのが、総督ハドソン・ロウだ。1816年4月14日にフリゲート艦フェートン号で島に着いた。

この人選が最初から不幸だった。ウェリントン公は後年ばっさり切り捨てている。「非常にまずい選択だった。教養も判断力も欠けていた。愚かな男で、世間をまるで知らず、世間を知らない男の常として、疑い深く嫉妬深かった」。

一方でロウの名誉のために書いておくと、彼が課した規則の大半はロウの発明ではない。植民地相バサースト伯の役所から送られてきた指示であり、イギリス議会の法で裏打ちされていた。皇帝の称号で呼ぶな、行動範囲を制限しろ、手紙は全部開封しろ、毎日必ず本人の姿を目視しろ。ロウは軍人としてそれを忠実に実行した。ただ、実行の仕方に融通というものがまるでなかった。

初対面からつまずいている。着任翌日の朝9時、ロウは前任のコックバーン提督を連れて予告なしにロングウッドに乗りつけた。取り次ぎ役のベルトラン元帥は「この時刻に主人を起こすことはできません。それにあなたは約束をお持ちでない」と門前払いした。2日後の午後2時に改めて会見。このときは悪くなかった。

だがすぐに崩れる。ロウはプランテーション・ハウスでの夜会に「ボナパルト将軍」宛ての招待状を出した。ナポレオンは激怒した。5月16日か17日の3度目の会見で、彼はロウに面と向かって「あなたは私を暗殺するために送られてきた」と言い放つ。ここで完全に決裂した。

7月17日の5度目の会見は2時間続いた。ナポレオンは不満を並べた。付き添いなしで動ける範囲が狭すぎる。総督を通さないと島民の誰とも話せない。手紙は全部開かれる。随員まで同じ扱いだ。ロングウッドは不健康だ。そして最後に、指示への杓子定規な服従は将官にふさわしくない、あなたは不誠実だ、と斬った。

ラス・カーズの記録に残る彼の言葉が生々しい。「あなたがどう思われているか言おうか。我々はあなたを何でもやる男だと思っている。そう、何でもだ」「彼らは看守以上のものを寄越した。ハドソン・ロウはれっきとした死刑執行人だ」。このとき本人は「あまりに怒ったので左のふくらはぎが震えた」と語ったという。

8月18日の6度目が最後になった。背景には経費削減の話がある。イギリス政府は年8000ポンドを計上していたのに実際は1万8000ポンドかかった。超過分は自分で払え、必要なら義理の息子ウジェーヌを頼れ、と言われた。

ナポレオンはモントロンに命じて帝室の銀器を売らせた。ヨーロッパ中の新聞が「皇帝が食器を売って糊口をしのいでいる」と書き立て、イギリス政府は赤っ恥をかいた。薪の支給を減らしたら「皇帝が暖を取るために家具を燃やしている」という話が出回って、これも撤回させられた。何をやってもロウの負けだった。

以後5年近く、2人は口をきいていない。1820年、庭でベルトランの息子に数学を教えていたナポレオンは、視察に来たロウを見つけると、これ見よがしに背中を向けた。3年ぶりの遭遇での対応がこれだ。

狭い家に押し込まれた、狭い人間関係

ここに閉じ込められた面々を整理しておく。後の毒殺説はこの人間関係の上に組み立てられているから、名前だけでも押さえておきたい。

アンリ・ガシアン・ベルトラン伯。宮廷大元帥。エジプトからエルバ島まで付き従った古参で、この島でもナポレオンとイギリス側の窓口を務めた。妻のファニーはアイルランド系で、島に来ることに最後まで乗り気ではなく、上陸前に船から身を投げようとしたという話まで残っている。ベルトラン一家は館の敷地内の別棟に住んだ。彼が最晩年に書き留めた覚書が、後に「セントヘレナ手帳」として刊行され、最後の数か月の分刻みの記録として決定的な史料になる。

シャルル・トリスタン・ド・モントロン伯。もう1人の側近。妻アルビーヌを連れて島に来た。この夫婦は宮廷内で微妙な位置にいた。アルビーヌは1819年に女児を出産していて、その子はジョゼフィーヌと名付けられ、1年半ほどで死んでいる。父親をめぐる噂は当時からあった。後の毒殺説がモントロンに動機を見いだす根拠のひとつがこれだ。もうひとつが遺言で、モントロンには200万フランという破格の遺贈がなされている。さらに彼はロングウッドの酒庫を管理していた。

エマニュエル・ド・ラス・カーズ伯。元海軍士官で、島に来た目的ははっきりしていた。ナポレオンの回想を書き取ることだ。実際、彼が筆記した「セントヘレナ覚書」は19世紀最大のベストセラーのひとつになり、ナポレオン伝説そのものを作った。ただし本人は1816年11月、外部との秘密通信を理由にロウに逮捕され、息子ともども島から追放される。二度とナポレオンには会えなかった。

ガスパール・グルゴー男爵。砲兵将軍で、嫉妬深く、モントロンと露骨に反目した。決闘寸前まで行っている。1818年に島を去った。皮肉なことに、ロンドンで彼が漏らした話が「ロングウッドは脱走しにくいから動かすな」という判断につながり、ナポレオンの移住案が潰れた。

ルイ・ジョゼフ・マルシャン。筆頭従僕。少年のように忠実で、最後まで枕元にいた。彼が残した手記こそが、1955年に刊行されて全部をひっくり返すことになる。

ルイ・エティエンヌ・サン=ドニ、通称マムルークのアリ。もう1人の従僕で、書写役も兼ねた。アブラム・ノヴェラはスイス人の従者。彼が死後に切り取った遺髪は、後世いちばん多く分析にかけられた検体のひとつになる。

そして料理長にして「メートル・ドテル」のジャン・バティスト・シプリアーニ。コルシカ人。実はこの男が、この物語のいちばん奇妙な影を落とす。

医者もめまぐるしく替わった。バリー・エドワード・オメーラはアイルランド出身の海軍軍医で、当初ロウに情報を流していたのに、次第にナポレオン側に取り込まれ、1818年に追放された。ジョン・ストーコーも同様に処分された。フランチェスコ・アントンマルキはナポレオンの母レティツィアと枢機卿フェッシュがローマから送り込んだ解剖学者で、1819年9月着任。臨床医としては半人前で、ナポレオンは彼を信用していなかった。最後の局面で診察に加わったのがアーチボルド・アーノット。第20連隊の軍医で、事実上ロウの目でもあった。

シプリアーニの、あまりに奇妙な死

コルシカ人シプリアーニは、ただの料理長ではなかった。

ナポリでサリチェッティの家令をやり、その裏でスパイ網を動かしていた男だ。1808年、カプリ島でイギリス軍を指揮していたのが誰あろうハドソン・ロウで、シプリアーニはコルシカ人密輸業者のネットワークを使い、ロウの間諜を寝返らせて二重スパイに仕立て、カプリ陥落の下地を作った。

つまりロウとシプリアーニは、セントヘレナで再会する10年近く前に、すでに一度やり合っていた。

そのシプリアーニが1818年2月23日、夕食の給仕中に突然、腹に激痛が走って床を転げ回った。オメーラが瀉血をし、風呂に入れ、誘導剤を使ったが良くならない。バクスター、若いヘンリーと医者を増やしても駄目だった。2月27日午後4時、母と妻の名を呼びながら死んだ。発病が月曜、死んだのが金曜。ベルトランは「腸に腐敗があった」と書いている。

ナポレオンはひどく動揺した。25日の深夜にオメーラを呼び、「私が行けば刺激になって、あれが病に抗う力が湧くかもしれない」と言った。オメーラは、シプリアーニはまだ意識があり、主人を見たら起き上がろうとするでしょう、その衝撃で逝ってしまいます、と止めた。ナポレオンは渋々従った。

埋葬はロングウッド敷地内にしてほしいと願ったが、なぜか許されず、プランテーション・ハウス近くのセント・ポール墓地に葬られた。会葬者は30人ほど。カトリックの司祭がいなかったので、プロテスタントの牧師ボーイズが祈りを唱えた。

ベルトランが枢機卿フェッシュに宛てた1818年3月22日付の手紙には、もう少し不穏なことが書いてある。シプリアーニの数日前にモントロン伯の従僕の子どもが死に、その数日後には侍女が同じ病気で死んだ、と。ベルトランはこれを「不健康な気候のせい」で片付けている。肝臓病、赤痢、下腹部の炎症でヨーロッパ人がばたばた倒れる島だった、と。

それでも「短期間に3人が同じような腹の症状で死んだ」という事実は残る。そして後世、シプリアーニの墓が見つからないという話が広まり、それがとんでもない方向に転がっていく。

病の五段階――1815年から1821年へ

ナポレオンの体は、島に着いた時点ですでに万全ではなかった。若い頃から疥癬、発熱、泌尿器系の不調を抱えていたし、40代後半には明らかに太っていた。

2007年にバーゼル大学病院病理学研究所のアレッサンドロ・ルッリらが発表した研究は、セントヘレナ期を5つのフェーズに分けて整理している。この区分がいちばん見通しがいいので借りる。

第1から第3フェーズ、つまり1815年10月から1820年9月まで。強い心窩部痛、吐き気、嘔吐、頭痛、そして便秘と下痢の交代。ここまでは慢性胃炎と慢性胃潰瘍のレベルで説明がつく。剖検所見でこれに対応するのが、幽門手前の小さな潰瘍と、それが肝臓と強く癒着していた痕跡だ。

第4フェーズ、1820年10月から1821年2月まで。ここで様子が変わる。腹痛が持続的になり、嘔吐が続き、吐き気とともに肉が食べられなくなる。嚥下困難が出る。便秘、寝汗、発熱、進行性の脱力、そして体重減少。1820年10月4日、彼は「モン・プレザン」まで最後の外出をしている。それ以降はもう遠出ができない。

第5フェーズ、1821年3月から5月5日まで。ここは記録が異常に細かい。アントンマルキの手記に基づく集計では、48日間のうち強い腹痛が48日、発熱が36日、嘔吐が32日。寝汗がひどく、一晩に何度も着替えた。4月5日には吐血と黒色便。5月1日には脈拍112。

1821年3月17日、ついに床から起きられなくなる。3月31日、アーノット医師の診察が始まった。イギリス側の医者に診せることを長らく拒んでいた男が、ここで折れた。

最後の48日、ベルトランが見ていたもの

ここからは、ベルトランの手帳を軸に日付を追う。

4月2日から5日、熱が上がっては少し下がるを繰り返す。キニーネの丸薬や煎じ薬を、しぶしぶ飲む。彼はもともと薬嫌いで、「自然に任せろ」が持論だった。

4月9日、荒れる。医者たちに罵声を浴びせ、アントンマルキを口汚く責め、ベルトラン夫人にまで当たり散らした。痛みと衰弱が人格を削っていく。

4月11日、遺言の口述を始めた。この作業からベルトランは外されている。筆記したのはモントロンだ。

4月15日の枝の主日、40時間の祈祷を受け入れた。無神論者めいた発言を繰り返してきた男が、ここに来て典礼を拒まなかった。

4月16日には遺言補足書が作られている。モントロンの手書きだ。ここに例の一節がある。「余の遺灰は、余が深く愛したフランス国民に囲まれて、セーヌの岸辺に安置されんことを」。

この補足書は2013年11月6日、パリのドルオー競売場で35万7000ユーロ、当時のレートで約4700万円で落札された。予想落札価格は8万から12万ユーロだったから、3倍以上に跳ねた。出品したのはモントロン伯の子孫である。

4月17日、彼はこう漏らす。「死を示すような症状がないのは分かっている。だが私はあまりに弱っていて、私を殺すのに砲弾など要らない。砂粒ひとつで足りる」。

そして遺言の中に、後に何百冊もの本を生むことになる一文が書き込まれた。「余は天寿を全うせずして死す。イギリスの寡頭政治とその雇われた暗殺者に殺されて」。

この「雇われた暗殺者」は文脈上ハドソン・ロウを指すと読むのが普通だが、この一行があるせいで、毒殺説は常に「本人がそう言っている」という切り札を持つことになった。

4月22日の復活祭、彼はベルトランを呼んで埋葬の希望を細かく指示した。

4月25日、遺言が確定し、複数の立会人が署名した。原本がイギリスに破棄されることを恐れて、写しを何通も作らせている。

4月26日以降、食べ物がまったく体に留まらなくなる。4月28日、譫妄状態になり、ジョゼフィーヌの幻を見た。

5月2日、激しい痙攣。「歩く」と言い張って暴れ、そして叫んだ。「わが神よ、わが神よ、わが神よ」。マルシャンはこのとき主人が死んだと思い、寝台の足元にひざまずいた。ところがナポレオンは一瞬意識を取り戻し、また熱に沈んだ。

5月3日、アーノットは1人では抱えきれず、島の医療責任者ショート医師と海軍軍医ミッチェルを呼んだ。午後、ヴィニャリ神父が終油の秘跡を授けた。聖体は病状のせいで受けられなかった。

そしてこの日、決定的な処置が行われる。

頑固な便秘を解くため、3人のイギリス人医師はカロメル、つまり塩化第一水銀の大量投与を決めた。10グレイン、約600ミリグラム。当時の常用量のおよそ5倍にあたる。アントンマルキは猛烈に反対し、ほとんど掴みかからんばかりだったと伝えられるが、押し切られた。

薬は効いた。効きすぎた。大量の下痢と、続いて容体の急落。

5月4日、いったん希望が見えたように思われた瞬間があった。療養から復帰したスイス人従者ノヴェラが枕元に来ると、ナポレオンは彼を認識し、休みに戻れと言った。

この日、マルシャンに向かって彼は尋ねた。「私の息子の名は何といったか」。マルシャンが「ナポレオンでございます」と答えると、また眠りに落ちた。これが最後のまともな会話になった。

5月5日、17時49分

ベルトランの手帳は、最後の一日をほとんど分刻みで記録している。

深夜0時から1時、しゃっくりが強まる。1時から3時、水を欲しがる回数が増える。3時、強いしゃっくりと、遠くから聞こえてくるようなうめき。3時から4時30分、しゃっくり、うめき、あくび。明らかに強い苦痛の中にいる。ときおり言葉が漏れた。とりわけ「軍の先頭に」と聞き取れた。4時から5時、極度の衰弱とうめき。すでに死体のようだった。5時から6時、呼吸が楽になる。

6時、アーノットが腹を指で叩いた。膨満していて、太鼓のような音がした。アーノットは最期が近いと告げた。ベルトラン伯夫妻が呼ばれる。

6時から6時15分、しゃっくりと堪えがたいうめき。6時15分から6時30分、突然の静けさと穏やかな呼吸。両目は見開いたまま固定していた。8時まで眠るように。胃の奥から空気が抜ける音がして、それは溜息というより楽器の音に近かった。アーノットは皇帝がまだ生きていることに驚いていた。

11時30分、アーノットが両足に温湿布を当て、アントンマルキが胸とふくらはぎに発泡剤を貼った。14時30分、アーノットが腹に湯たんぽを置いた。

部屋には全員がいた。ベルトラン夫妻とその子どもたち、モントロン将軍、ヴィニャリ神父、従僕のマルシャン、ノヴェラ、マムルークのアリ、ピエロン、そして中国人の使用人たち。天蓋付きの野戦用寝台の周りに、亡命政府の全員が集まっていた。

17時49分、3度の溜息のあと、息が止まった。51歳8か月21日。

最後の言葉については記録が割れている。「フランス、軍、軍の先頭、ジョゼフィーヌ」と伝えるものもあれば、「退いていく者は……軍の先頭に」だったとするものもあり、「フランス、わが息子、軍」だったという証言もある。実際には8時頃の譫妄の中で漏れた断片で、聞いた人間それぞれが自分の聞き取ったものを書いた、というのが実情に近いだろう。

翌6日、ハドソン・ロウは幕僚とフランス側弁務官モンシュニュ侯爵を連れて、「ボナパルト将軍」の死を公式に確認しに来た。ロングウッドを出るとき、彼は周囲にこう言ったと記録されている。「さて諸君、彼はイングランド最大の敵であり、私の敵でもあった。だが私は彼のすべてを許す。これほどの偉人の死に際しては、深い悲しみと深い惜別しか覚えるべきではない」。

5月6日午後2時、ビリヤード室での解剖

解剖は死の翌日、5月6日午後2時から、ロングウッドの控えの間、通称ビリヤード室で行われた。執刀はアントンマルキ。シエナ大学の高名な解剖学者ジュゼッペ・マスカーニの弟子である。イギリス人医師7人が立ち会い、フランス側とイギリス側の証人が見守った。

外表所見。身長168センチ。皮膚は極端に蒼白。相当な体重減少があったことが記録されている。手足に病的な変化はなし。

胸腔。左肺上葉に「結核性」と表現された空洞がいくつか。右肺は完全に正常。気管支リンパ節と縦隔リンパ節が腫大し壊死していた。両側に中等度の胸水。心臓は非常に蒼白だったが、病的所見なし。

そして胃だ。

胃は「コーヒーの搾りかす」のような暗色の液体で満たされていた。上部消化管出血の典型的な所見である。胃壁を開くと、噴門から幽門部まで、10センチを超える範囲に、硬く不整な辺縁を持つ潰瘍性の病変が広がっていた。健全に見えたのは噴門の末端部だけ。

幽門の手前には別に小さな潰瘍があり、そこが肝臓と厚く癒着していた。癒着の下に直径6から7ミリの穿孔があった。小指が通るくらいの穴だ。癒着がなければ、胃の内容物が腹腔に漏れて腹膜炎を起こしていた。小網は肥厚硬化、大網は正常。胃周囲リンパ節は硬く腫れ、一部は壊死していた。肝臓と脾臓はうっ血。結腸にも同じコーヒー残渣様の物質があった。

腎臓と膀胱に特記所見なし。

ここで押さえておきたいのが「なかったもの」のリストだ。手掌と足底に過角化病変がない。爪が正常でミース線がない。他の腫瘍がない。そして心臓には出血がない。

ルッリらが指摘するのは、慢性ヒ素中毒であれば手掌足底角化症、爪のミース線、皮膚癌や肺癌や膀胱癌のリスク上昇が見られるはずで、さらに古典的な報告によれば左室壁や心室中隔の心内膜下出血が典型的に見られる、ということだ。マレシュの見解では、心内膜下出血の欠如はヒ素中毒による死をほぼ排除する。

公式の結論は「胃癌」だった。イギリス側の医師団の報告書とアントンマルキの第一・第二報告書は細部で食い違うが、胃の悪性病変という点では一致している。2021年、死後200年に合わせて国際的な病理医のコンソーシアムが改めて所見を検討し、「上部消化管出血を伴う進行胃悪性腫瘍」による死という結論を出した。ルッリらの病期分類ではT3N1M0、ステージ3Aである。

ちなみに「ナポレオンの父も胃癌で死んだから遺伝性だ」という説が1938年のソコロフの研究以来ずっと流通してきたが、ルッリらは家族の病歴を洗い直したうえで、遺伝性より散発性、そして最大のリスク因子はヘリコバクター・ピロリ感染だっただろうと結論している。閉鎖された島で、水質が悪く、衛生状態も良くない環境。ピロリ菌の温床としては申し分ない。

髪はこうして世界中に散らばった

解剖の前に、アントンマルキはナポレオンの頭を剃らせている。理由は本人の遺志だ。自分の髪を家族に分けてほしい、と言い残していた。

ここが全ての始まりになる。

剃られた髪は形見として配られ、その一部が家族に、一部が随員に、一部がイギリス人将校の手に渡り、時計の蓋やブローチやロケットに封じられ、19世紀を通じて売買され、遺贈され、コレクションを転々とし、20世紀に美術館とオークションハウスに集まった。

過去数十年に分析された「ナポレオンの髪」とされる検体は30を超える。多くは来歴がそれなりにしっかりしている。エルバ島時代のもの、1816年3月16日にラス・カーズが切ったもの、1821年5月6日に剃られてレディ・ホランドに贈られたもの、ヴィニャリ神父に渡ったもの、ノヴェラが持ち帰ったもの、マルシャンが保管したもの、ベルトラン家に伝わったもの。

面白いのは、ナポレオン自身が生前から髪を配っていたことだ。

第53シュロップシャー連隊のトマス・ウィリアム・ポプルトン大尉は、1815年12月から1817年7月までロングウッドの当直士官を務めた。ほぼ毎日顔を合わせる相手で、ナポレオンは連隊の兵たちへの謝意として、1人ずつに髪を分け与えたという。ポプルトンの分は3つに分けられ、ひとつは妻の伯父にあたるウォルター・オハラ大佐へ、ひとつは家族から連隊博物館へ、そして残りひとつが1821年7月27日付でライリー夫人という女性に贈られた。

この最後の一房を収めた喪章ブローチが、2021年10月27日のボナムズ「ナポレオン・ボナパルト、ブリティッシュ・セール」に出品され、手数料込み7650ポンドで落札された。裏面には「ナポレオン・ボナパルト、彼の髪の一房、ポプルトン少佐よりライリー夫人へ、1821年7月27日」と刻まれている。

ポプルトンはよほど誇りに思っていたらしい。1827年に死ぬとき、墓碑にこう刻むよう遺言した。「セントヘレナにて2年間その身柄を預かり、ナポレオンの敬意を賜りし者」。看守の側にも、こういう人間がいた。

1955年、1冊の本がすべてをひっくり返す

1955年、パリで「マルシャン回想録」が刊行された。編者はアンリ・ラシューク。ナポレオンの筆頭従僕が、最後の6年間、主人の体に起きたことを日記のように書き留めた記録だ。

これをスウェーデンで読んだのが、イエーテボリの歯科医ステン・フォシュフーヴッドだった。彼は歯科医であると同時に毒物学に強い関心を持っていた。

読み進めるうちに、彼は違和感を覚える。ここに書いてある症状は、胃癌の患者のものというより、ヒ素中毒の患者のものに近いのではないか。

彼が拾い上げた症状はこうだ。不眠。脚の脱力と浮腫。脱毛。痙攣。絶えることのない渇き。悪寒と発熱の交代。皮膚の変色。異常な発汗。そして何より、悪化と小康を周期的に繰り返すパターン。彼の集計では、記録された31の症状のうち少なくとも28がヒ素中毒に特徴的なものだった。

ここで押さえておきたいのは、フォシュフーヴッド自身が後に強調している点だ。彼の説はもともと毛髪分析から始まったのではない。日記、手紙、剖検報告といった文字資料の読解から始まった。毛髪分析はその確認手段として後から加わった。

1959年、彼はグラスゴー大学法医学教授ハミルトン・スミスが発表した論文を見つける。毛髪1本に中性子を当てて、その中のヒ素を放射化して定量する手法。試料をほとんど壊さずに、極微量で結果が出る。当時としては夢のような技術だった。

1960年、フォシュフーヴッドはアンリ・ラシューク司令官に手紙を書き、髪を1本譲り受けることに成功する。ラシュークはマルメゾン美術館の元副館長で、セントヘレナと軍事博物館の常設ナポレオン展を組織した人物だ。この髪がグラスゴーに送られ、ハーウェルで照射され、10.38ppmという数字を出し、1961年10月14日のネイチャーに載った。

同じ年、フォシュフーヴッドはフランス語で「セントヘレナにおける毒の悲劇」を出版する。

反応は冷たかった。ジャン・チュラールが1999年5月27日のフィガロ・リテレール紙で振り返っているとおり、「フランス語訳は失笑をもって迎えられた。セントヘレナ期の第一人者を自任し、医学知識に自信のあったゴドレフスキ医師とガニエール医師は、この不運な歯科医をあっさり片付けた」。素人が何を言うか、というわけだ。

1962年、「周期的に盛られた」という主張

問題は追試だった。1本では分布が分からない。

フォシュフーヴッドは他の毛髪を求めたが、フランスの学界は協力しなかった。ラシュークまで距離を置いた。彼は海外に頼るしかなくなり、スイス、オーストラリア、ニュージャージーから、来歴の明らかな検体を集めた。ラス・カーズ由来、マルシャン由来。

1962年3月26日、ハミルトン・スミスは最初の結果を確認する形の報告を出す。今度は毛髪を短い区間に切り分けて、根元から先端へ向かって濃度の変化を追う「分節分析」ができた。

フォシュフーヴッドの主張はここから一段階進む。ヒ素の濃度は毛髪の長さ方向に沿って上下している。つまり環境から均等に取り込んだのではなく、周期的に投与された。そして濃度の山と谷を、日記から起こした症状の年表と突き合わせると、山が悪化と、谷が小康と重なる。

彼はこう書いている。「フォシュフーヴッドとともに2つの年表を作った。ひとつは目撃者の記録から、日付を確定できる症状を書き出したもの。最後の6か月をこれで覆った。もうひとつは、分析で得られたヒ素の値を、日付ごとの変動として記録したもの。両者は正確に一致した」。

1978年には、活性化分析の結果からヒ素の投与開始を1816年1月にまで遡らせている。つまり島に着いてわずか1か月後から、5年以上にわたって少量ずつ盛られ続けた、という主張だ。使われたのは鉱物性のヒ素、おそらくは殺鼠剤。手口としては、17世紀フランスのブランヴィリエ侯爵夫人が使ったとされる「少量を長期間」の方式。

ベン・ワイダーという執念の人

この説を世界的な現象に押し上げたのが、カナダの実業家ベン・ワイダーだ。ボディビル業界の大立者で、国際ナポレオン協会の会長でもあった。1970年代からフォシュフーヴッドと組み、資金と人脈を注ぎ込んだ。

2人の共著が1978年の「セントヘレナの暗殺」、1995年の改訂版「セントヘレナの暗殺、再訪」として世に出る。ワイダーはさらに1999年、フルニエとの共著論文をアメリカ法医学誌に発表し、「認証されたナポレオンの毛髪の放射化分析はヒ素中毒を裏付ける」と主張した。

ワイダーの筋書きははっきりしている。ナポレオンはブルボン家の復古体制にとって生きているだけで脅威だった。彼が島から戻れば、フランスはまたひっくり返る。だから王党派の意を受けた人物が、内部から少しずつ毒を盛った。

実行者としてワイダーが名指ししたのがモントロン伯だった。酒庫を管理していた、遺言で巨額を得た、妻をめぐる怨恨があった、そしてアルビーヌが島に持ち込んでいた本の中に「ブランヴィリエ方式」の記述があった――というのが挙げられる状況証拠だ。

ここははっきり書いておきたい。これはあくまで一部の論者が唱えた仮説であって、証明されたものではない。モントロンが毒を盛ったと示す物証はひとつも出ていない。動機の推定と状況証拠の積み上げだけで、200年前の実在の人物を殺人犯と断定するのは、歴史の扱い方としても人としても筋が悪い。実際、フランスのナポレオン研究者の大半はこの犯人説を退けている。

なお、ワイダーの説には別バージョンもある。毒を盛ったのは殺意ではなく、病気に見せかけてイギリスに本国送還を認めさせるための策略で、加減を誤って死なせてしまった、という筋書きだ。この場合、犯人は殺人者ではなく、下手な陰謀家ということになる。

2001年、ストラスブールに持ち込まれた5検体

ワイダーは分析を続けた。1995年にはアメリカ連邦捜査局の研究所が、提出された毛髪のヒ素量はヒ素中毒と矛盾しないという判断を出している。

2000年4月、フランス上院での会合で、フランスの毒物学者たちがこれらの結果に異議を唱えた。ワイダーは反撃に出る。彼は自ら真正性を確認した5つの毛髪検体を、ストラスブールの法医学研究所に持ち込んだ。

検体の内訳が具体的で面白い。1816年3月16日にラス・カーズ伯が切ったもの。1821年5月6日に剃られてレディ・ホランドに贈られたもの。同じくヴィニャリ神父に渡ったもの。同じくアブラム・ノヴェラに渡ったもの。同じくルイ・マルシャンに渡ったもの。

分析はパスカル・キンツ、ジャン・ピエール・グレ、ポール・フォルヌ、ベルトラン・リュデスが担当。アセトンと熱水で徹底的に洗浄したうえで、0.5から2.2ミリグラムの毛髪を水酸化ナトリウムで加水分解し、硝酸で中和して、黒鉛炉原子吸光法で定量した。

結果は6.99ng/mgから38.53ng/mg。生理的な範囲が0.1から1.0ng/mgだから、7倍から38倍にあたる。2001年6月1日の記者会見でキンツはこう言った。「ナポレオンの髪から検出されたヒ素量は正常値の7倍から38倍に達する。これは紛れもない中毒の徴候だ」。

キンツらは、汚染源として挙げられていた候補をひとつずつ潰していった。ヒ素含有の医薬品――そのような使用を記録した歴史家はいない。飲料水――ヒンドマーシュとコルソが分析したロングウッドの水は0.002ppm未満だった。壁紙――客間の壁紙が張り替えられたのは1819年で、1816年に切られたラス・カーズ検体の説明にはならない。石炭の煙――同じ環境にいた他の人間に症状が出ていない。よってすべて除外され、経口投与によるヒ素中毒が妥当である、というのが彼らの結論だった。

2007年、キンツらはさらに踏み込む。ノヴェラ検体とベルトラン検体をHPLCと誘導結合プラズマ質量分析にかけて、ヒ素の化学形態を分けた。総ヒ素は42.1と37.4ng/mg。内訳は3価ヒ素が31.1パーセントと44.7パーセント、5価ヒ素が66.3パーセントと53.2パーセント、ジメチルアルシン酸が0.42パーセントと0.15パーセント、モノメチルアルソン酸は痕跡程度。つまり97パーセント以上が無機ヒ素だった。魚介類由来の有機ヒ素ではない。慢性の無機ヒ素曝露と整合する、というわけだ。

ここまでが毒殺説側の最強の布陣だ。ここから、対抗仮説を一つずつ見ていく。

対抗仮説その1――壁紙の緑が、部屋の中で毒に変わる

いちばん有名で、いちばん物語として綺麗なのがこれだ。しかも発端がまた気の抜けるほど偶然だった。

1980年春、イギリスの化学者デヴィッド・ジョーンズは、BBCラジオ向けに軽い科学トークのシリーズを準備していた。第1回のテーマは「気体になった生化学が人間に及ぼす影響」、要するに匂いと毒の話。

その一節でヴィクトリア朝の壁紙を取り上げた。亜ヒ酸銅、いわゆるシェーレグリーンは鮮やかで安定した緑の顔料で、当時の家庭用壁紙に大量に使われた。ところがその緑の部屋に住んだ人々が、なぜかヒ素中毒の症状を出す。まるでヒ素が壁から降りてきて住人を襲うかのように。

ジョーンズは、ナポレオンの遺髪からヒ素が見つかったという話をぼんやり思い出し、放送の最後に軽い調子で言った。「ところで、ナポレオンの部屋の壁紙は何色だったか、ご存じの方はいませんか」。

放送日は1980年5月25日。これがジョーンズの科学者人生で最大の幸運になる。

ノーフォークに住むシャーリー・ブラッドリー夫人が放送を聞き、BBCに手紙を書いた。うちの家族の古いスクラップブックに、ナポレオンの壁紙の実物が貼ってあります、と。誰か熱狂的な崇拝者が、ロングウッドの壁から現物を引き剥がして持ち帰り、スクラップブックに糊付けしていたのだ。ジョーンズ自身がこれを「霊感に満ちた破壊行為」と呼んでいる。

ジョーンズはスクラップブックを借り受け、試料を壊さずに済むよう、グラスゴー大学のケン・レディンガムに非破壊のX線蛍光分析を依頼した。難航したが、最終的に信頼できる値が出た。ナポレオンの壁紙は1平方メートルあたり0.12グラムのヒ素を含んでいた。

1893年にワシントン大学セントルイス校のC・R・サンガーが出した見積もりでは、1平方メートルあたり0.015から0.6グラムの壁紙は危険になりうる。ジョーンズの値はその範囲にきっちり収まる。

危険が発生する仕組みは、イタリアの生化学者バルトロメオ・ゴジオが解明していた。壁紙が湿るとカビが生える。カビは壁紙の中のヒ素化合物を代謝して、揮発性のトリメチルアルシンを空気中に放出する。住人はそれを吸う。

そしてロングウッド館は、湿気で悪名高い建物だった。壁紙が簡単に剥がせたのも、おそらく湿っていたからだ。

ジョーンズとレディンガムは1982年10月14日のネイチャーに短報を出した。結論は控えめで、「病気を引き起こすには十分だが、死を引き起こすには恐らく足りない量のヒ素が検出された」。つまり、ナポレオンがヒ素にやられていたとしても、それは誰かが盛ったのではなく壁紙のせいかもしれない、というところまでしか言っていない。

この説には強い反論もある。

フォシュフーヴッド自身が同じ1982年12月23日付のネイチャーへの投書で書いている。壁紙が湿っていたかどうかはひとまず措くとして、臨床像が合わない。継続的な低濃度曝露なら症状はだらだら続くはずだが、ナポレオンは激烈な発作と回復を繰り返した。

さらに決定的なのは、あの家に住んでいたのはナポレオン1人ではないという点だ。フランス人の随員が大勢いた。日記のどれにも、彼ら随員が慢性ヒ素中毒の症状を出したという記述がない。壁紙が主要な供給源なら、これはおかしい。

対抗仮説その2――整髪料、薬、ワインの樽、そして遺髪の保存処理

ヒ素の供給源として挙げられる候補は、壁紙だけではない。19世紀初頭という時代そのものが、いま考えるとどうかしている。

まず医薬品。フォウラー液という、亜ヒ酸カリウムの溶液が万能強壮剤として普通に売られていた。マラリア、皮膚病、喘息、貧血、何にでも処方された。

次に化粧品。フランスの貴族は、ナポレオンを含めて、ヒ素を含む顔用の白粉や整髪用の粉を使っていた。髪に直接つけるのだから、毛髪から検出されるのは当たり前という理屈になる。

殺鼠剤。前述のとおり、ロングウッドはネズミだらけだった。

衣類の染料、殺虫剤、そして驚くべきことに菓子の包み紙にまで、ヒ素化合物が使われていた。

さらに、後世の日本語圏でよく紹介される説として、ワインの樽の洗浄にヒ素が使われていたというものがある。ナポレオンは南アフリカ産の甘口ワイン「ヴァン・ド・コンスタンス」を好み、大量に飲んだ。樽由来のヒ素が入っていれば、飲めば飲むほど蓄積する。

そしていちばん厄介なのが、遺髪の保存方法だ。19世紀、形見として保管する髪を虫やカビから守るために、ヒ素溶液に浸すという処理が行われていた。もしそうなら、検出されるヒ素は「生前に体内にあったヒ素」ではなく「死後に外から染み込ませたヒ素」ということになる。分析対象そのものが汚染されているという、いちばん根本的な批判だ。

キンツはこれに強く反論している。もし採取後に外部から汚染したのなら、ヒ素はキューティクルの表面に沿って付着するはずで、洗浄液が強いヒ素陽性を示すはずだ。ところが実際には洗浄液は陽性にならなかった。さらに、複数の研究室が1960年以降さまざまな時期に分析してきた検体すべてに、同じ処理を秘密裏に施したというのは無理がある。しかも1816年に切られた髪も陽性だ。そして何より、そんな保存処理をしたという記録は、セントヘレナの関係者の誰も残していない。

一方、2002年に雑誌サイエンス・エ・ヴィが別のフランスの法医学チームに依頼した調査は、逆の結論に至った。1805年、1814年、1821年の3時点の毛髪をシンクロトロン放射光によるX線蛍光分析にかけたところ、すべてが異常に高いヒ素濃度を示した。値は15から100ppmの範囲。彼らは実験室で毛髪がどれくらい容易にヒ素で汚染されるかも検証し、汚染されやすいと結論した。想定される汚染源として、火薬、殺鼠剤、壁紙の糊、そして最も可能性が高いものとして整髪料を挙げている。ナポレオンの遺品がヒ素化合物で保存処理されていたことにも触れている。

同じ手法を使った別の報告は、さらに厳しいことを言っている。分析した毛髪からは、しばしば致死量をはるかに超える濃度の多様な有害元素が検出され、しかも試料ごと、さらには同じ試料の場所ごとに濃度が大きく振れた。これは「ヒ素の経口摂取による中毒」という単純な仮説には有利に働かない、と。

ちなみに1982年10月14日のネイチャーには、ジョーンズらの壁紙論文と並んで、もうひとつ論文が載っている。ピーター・K・レウィンらによる「ナポレオン・ボナパルト、慢性ヒ素中毒の証拠なし」だ。彼らが分析したのはポプルトン大尉が入手した毛髪で、ヒ素は検出されず、代わりにアンチモンが中等度に上昇していた。

これに対してフォシュフーヴッドは、その髪はおそらく島に着いてから最初の9か月間、体調が改善していた時期に伸びたものだろうと反論した。ハミルトン・スミスのほうはもっと辛辣で、レウィンらが使ったガンマ線スペクトロメトリーはヒ素分析の手法として質が悪い、自分たちは放射化学的分離を使っており、指摘されている干渉は1パーセント未満だ、と切り返している。

科学者同士の殴り合いとしては、なかなか見応えがある。

対抗仮説その3――彼を仕留めたのは、医者たちだった

ここまでとまったく違う角度から切り込んだのが、この説だ。犯人は毒殺者でも壁紙でもなく、医者である。

主唱者はサンフランシスコ検死局の法医病理学者スティーヴン・カーチ。2004年に発表された「皇帝のチャネルを開く――ナポレオンを本当に殺したのは何か」という論文で、彼はまったく新しい死因を提案した。

議論の出発点はこうだ。ヒ素は確かに体内にあった。しかもセントヘレナに来る前から。ならば問うべきは、ナポレオンがヒ素で死んだのか、それともヒ素を体内に抱えたまま別の理由で死んだのか、である。

ヒントは現代の白血病治療にある。三酸化二ヒ素は急性前骨髄球性白血病の治療薬として実際に使われていて、多くの患者に寛解をもたらす。ところがその治療は、ときにQT延長、トルサード・ド・ポワント、そして突然死という合併症を起こす。

細胞レベルで何が起きているか。ヒ素は心筋細胞のIKrチャネルとIKsチャネルをブロックし、同時にIK-ATPチャネルを活性化する。ブロックと活性化が打ち消し合っている限り、心臓の再分極は乱れない。だがこの均衡が崩れると、QT間隔が延び、致死的な多形性心室頻拍が起きる。均衡を崩す最大の要因が低カリウム血症だ。

ここからカーチの推論が始まる。

ナポレオンは死の前の8か月間、断続的に吐き気と嘔吐に苦しみ、症状を抑えるために吐酒石、すなわち酒石酸アンチモニルカリウムを頻繁に投与されていた。吐酒石は吐かせる薬だ。吐けばカリウムが失われる。それだけではなく、アンチモンイオンはカリウムチャネルの内側に結合して構造を変える。つまり吐酒石は、カリウムを減らすと同時に、ヒ素が保っていた微妙な均衡を直接かき乱す。

そして死の直前、イギリス人医師団が押し切った600ミリグラムのカロメル。通常量の5倍。塩化第一水銀は消化管からほとんど吸収されないから下痢を起こす。それが目的の下剤なのだが、下痢はさらにカリウムを奪う。

もうひとつ、カーチは見落とされてきた要素を指摘する。アントンマルキが「樹皮」の煎じ薬を使っていたと明記していることだ。当時の「イエズス会の樹皮」といえばキナ皮で、含まれるのはキニーネ。キニーネもまたカリウムチャネルに結合し、キニーネ関連のトルサードはよく知られている。

つまり最後の数日、ナポレオンの心臓には、慢性のヒ素、アンチモン、水銀由来の下痢、そしてキニーネが同時にのしかかっていた。カーチの結論は、直接の死因は胃癌でも古典的なヒ素中毒でもなく、トルサード・ド・ポワントだった、というものだ。分類するなら「医療事故」。

彼はBBCの取材にこう言い切っている。「これには非常に強い論拠がある。ただ、殺人説ほど色っぽくないだけだ」「ヒ素は彼を殺していない。彼を仕留めたのは医者たちだ」。

なお、日本語圏でよく語られる「オルジェア水」の話もここに関わる。オルジェア水は大麦や苦扁桃から作る飲料で、苦扁桃には微量ながらシアン化合物が含まれる。カロメルとオルジェア水を併用すると、塩化第一水銀がより毒性の高い形に変化しうる、という主張がフォシュフーヴッドの陣営から出されていた。この「二段構えの毒殺」というシナリオは、毒殺説の中でも技巧的すぎるという批判が強く、現在の研究では主流ではない。

ただ、カロメルの大量投与が最後の一押しになったという点だけは、毒殺説の側も胃癌説の側も、そしてカーチも、ほぼ全員が認めている。

胃癌説の代表格である退役医師フィル・コルソは、カーチの説にこう反論した。「よく考えると本当に突飛だ」。ナポレオンは長期間明らかに病んでいて、医者が何をしようとしまいと腫瘍で死んでいた、と。

対抗仮説その4――2007年、病理学者たちによる再判定

2007年1月5日、ネイチャー・クリニカル・プラクティス・ガストロエンテロロジー・アンド・ヘパトロジー誌に、バーゼル大学病院病理学研究所のアレッサンドロ・ルッリらによる論文が掲載された。「ナポレオン・ボナパルトの胃癌――病期分類、病態形成、病因への臨床病理学的アプローチ」。

彼らのやり方は、それまでの論争とは毛色が違う。歴史文献を読んで印象を述べるのではなく、現代の胃癌患者135人の臨床病理データを対照群として用意し、ナポレオンについて得られる情報をそこに当てはめた。

使った資料は徹底している。2種類の剖検報告書。セントヘレナで彼を診た医師たち――オメーラ、ヴァーリング、ストーコー、アーノット、アントンマルキ――の回想録。そして主要な目撃者たち、ラス・カーズ、ベルトラン、グルゴー、モントロン、マルシャン、サン=ドニ、バルコムの記録。

結論はT3N1M0、ステージ3A以上の胃癌。腫瘍が噴門から幽門まで10センチを超えて広がり、隣接臓器への浸潤がないという記述からT3以上。周囲リンパ節が複数腫大硬化していることからN1。遠隔転移の記載がないことからM0。組織型としてはボルマン3型の潰瘍浸潤型に相当する。

この病期の患者の予後は、現代の治療をもってしても極めて悪い。19世紀の孤島なら言うまでもない。

胃癌説に対する最大の反論はずっと「死んだとき彼は太っていたではないか」というものだった。癌の末期なら痩せこけているはずだ、と。ルッリらは状況証拠を積み上げて、最後の6か月で10から15キロの体重減少があったと算定した。日本語圏の記事では「最後の5か月で11キロ以上減った」という形で紹介されることが多い。もともと肥満気味だったから、痩せても「太った死体」に見えた、というだけの話だ。

ヒ素についてルッリらの立場は明快だ。剖検所見に慢性ヒ素中毒の徴候が完全に欠けている。手掌足底の角化なし、爪のミース線なし、皮膚癌なし、心内膜下出血なし。加えて2004年には、セントヘレナに来る前の1814年の毛髪にも高いヒ素濃度があることが示されている。よってヒ素中毒はナポレオンの死因から除外すべきである。

彼らはこうも書いている。「歴史的な文脈を無視して現代の知識を持ち出し、昔の治療を貶めることの是非は問われねばならない」。当時の医者にとってカロメルは標準治療だった。現代の物差しで殺人扱いするのは筋が違う、という釘の刺し方だ。

もっとも、この論文でさえ議論を終わらせなかった。2020年に発表された系統的レビューは、それまでの膨大な論文を精査したうえで、こう結論している。ナポレオンの1821年の死は「不自然」に分類され、大量の胃出血が起きた背景には有害物質の一次的関与があり、それが胃癌という基礎疾患を促進または増悪させた可能性が高い。ただし、これは犯罪的意図を含意しない。

つまり「毒物は関与したが、殺人とは限らない」という、いちばん座りの悪い、しかしいちばん誠実な着地だ。

対抗仮説その5――少年時代の髪が、いちばん痛いことを言った

そして、毒殺説にとって最も痛い一撃が2008年に来た。

イタリア国立核物理学研究所のミラノ・ビコッカ支部とパヴィア支部、ミラノ・ビコッカ大学、パヴィア大学の合同チームが、エットレ・フィオリーニらを中心に、ある実験を行った。使ったのはパヴィア大学の研究専用小型原子炉。技術はグラン・サッソ国立研究所で開発中だったニュートリノ実験「クオーレ」のために磨かれた中性子放射化分析だ。試料を壊さず、極微量でも高精度で測れる。

そして彼らが集めた検体のラインナップが、この研究の肝だった。

ナポレオン本人の毛髪を4時点から。コルシカ島で少年だった頃。エルバ島流刑中。1821年5月5日の死んだ当日。そしてその翌日。

さらに息子であるローマ王ナポレオン2世の毛髪を1812年、1816年、1821年、1826年の4時点から。皇后ジョゼフィーヌの毛髪を1814年の死去時から。加えて現代人10人の毛髪を対照として。

提供元はパルマのグラウコ・ロンバルディ美術館、パリのマルメゾン美術館、ローマのナポレオン博物館。

結果は2つの意味で驚くべきものだった。

第1に、200年前の毛髪すべてのヒ素濃度が、現代人のおよそ100倍だった。ナポレオンの毛髪の平均が約10ppm。現代人が約0.1ppm。19世紀初頭のヨーロッパ人は、現在なら危険と判断される量のヒ素を、環境から日常的に取り込んでいたことになる。

第2に、ナポレオンが少年だった頃と、セントヘレナで死ぬ直前とで、ヒ素濃度に有意な差がなかった。息子の毛髪も、妻の毛髪も、同程度に高かった。

参加した毒物学者たちの判断は明快だった。これは毒殺ではない。生涯にわたる恒常的なヒ素吸収の結果である。研究成果はイタリア物理学会の雑誌イル・ヌオーヴォ・サッジャトーレに発表され、2008年2月から6月にかけて世界中の科学メディアが取り上げた。ニューヨーク・タイムズは「毛髪分析がナポレオン毒殺説をしぼませた」という見出しを立てた。

この結果が効いているのは、単に濃度が高い低いの話ではなく、「比較対照」を初めてきちんと用意した点にある。それまでの分析はナポレオンの髪だけを見て、現代人の正常値と比べていた。同時代の人間と比べたら、彼は特別ではなかった。

ただし、毒殺説の側にもまだ言い分は残る。少年時代の髪と晩年の髪の「平均値」が同じでも、晩年の髪の中で濃度が周期的に激しく上下していたという分節分析の主張は、平均値では潰れない。そして、キンツが示した「97パーセント以上が無機ヒ素」という形態分析の結果も、環境曝露説だけでは説明しづらいところが残る。この論争は、まだ完全には決着していない。

1840年、19年ぶりに棺を開けたら

ここからが、この話でいちばん背筋が寒くなる部分だ。

ナポレオンは1821年5月9日、島の「ゼラニウムの谷」の泉のそばに埋葬された。墓石には何も刻まれなかった。フランス側が「ナポレオン」と刻めと言い、イギリス側が「ナポレオン・ボナパルト」でなければ許さないと言って折り合わず、結局無銘のままになったのだ。

19年後の1840年、七月王政のルイ・フィリップ王が政治的和解の演出として遺骸の返還を決めた。息子のジョワンヴィル公が指揮を執り、フリゲート艦ベル・プール号が7月にトゥーロンを出港した。

乗り組んだ中に、ブレスト在住の海軍外科医レミ・ジュリアン・ギヤールがいた。当時41歳。クンペール出身。彼は自分が運ぶ相手の重さを、航海の途中で知ったという。同行者にはベルトラン、グルゴー、マルシャンといった、19年前に立ち会った当人たちがいた。コクロー神父も乗っていた。

1840年10月15日の深夜、松明の明かりの中で発掘が始まった。石とセメントと煉瓦の層を、作業員が夜通しかけて破っていく。8時間かかった。予定では真夜中に棺を出すはずが、実際に棺が持ち上がったのは朝6時頃だった。

外側の巨大な石板が持ち上げられると、マホガニーの外棺が現れた。ほとんど無傷で、湿気の痕がわずかにあるだけ。ガスを逃がすために2か所穴を開けてから引き出した。外側のマホガニー棺を切り開くと、中に鉛の棺。鉛を開けると木の棺。木を開けると、いちばん内側にブリキの棺があり、その蓋は縁を内側に折り込んで半田付けされていた。

ここで作業がいったん止まる。総督ミドルモア将軍が病身を押してプランテーション・ハウスから駆けつけるのを待ったのだ。将軍が到着したのは午後1時。半田をゆっくり切り、蓋を慎重に外す。

現れたのは、白いサテンの布だった。ギヤール医師がそれをそっと持ち上げる。

ここから先は、彼自身が書いた検死調書の言葉で追いたい。

「私はナポレオンの体を露わにした。あまりに保存状態が良く、あまりに顔にその表情が残っていたので、私はただちに彼だと認めた」

上肢は伸びており、左の前腕と手は同じ側の腿の上に載っていた。下肢はわずかに曲がっていた。頭は少し高く、クッションの上に載っていた。頭蓋は大きく、額は高く広く、黄色がかった硬い皮膚が強く密着して覆っていた。眼窩の縁も同様で、上縁には眉が残っていた。瞼の下には眼球の形が浮き出ており、体積も形もほとんど失われていなかった。瞼は完全に閉じ、下の組織に癒着し、指で押すと硬かった。縁にはまつ毛が数本残っていた。鼻骨とそれを覆う皮膚はよく保たれ、小鼻と鼻翼だけが崩れていた。

頬はふっくらしていた。この部分の皮膚は、柔らかくしなやかな手触りと白い色が印象的だった。顎の皮膚はわずかに青みがかっていたが、それは死後に伸びたように見える髭の色を映したものだった。顎そのものにはまったく変化がなく、ナポレオンの顔立ち特有の輪郭を保っていた。唇は薄くなって開き、上唇がわずかに左に持ち上がって、その下から極端に白い切歯が3本のぞいていた。

手は完璧だった。どこにもわずかな変化さえない。関節は動きを失っていたが、皮膚は生きているときの色を保っているように見えた。指には長く、しっかりと生えた、非常に白い爪があった。脚はブーツに納まっていたが、糸が切れて左右とも小さいほうの指4本がのぞいていた。その皮膚は鈍い白で、爪はまだついていた。胸の前面は中央が強く陥凹し、腹壁は硬く落ち込んでいた。四肢は衣服の下で形を保っているように見えた。左腕を押してみると、硬く、いくらか体積を失っていた。

衣類も色を保っていた。近衛猟騎兵の制服の濃い緑、袖口の鮮やかな赤。チョッキの下にレジオンドヌール勲章の大綬が透けていた。白いキュロットは、腿の上に置かれた小さな二角帽に半ば隠れていた。肩章と胸の勲章は輝きを失って黒ずんでいたが、レジオンドヌール士官章の金の冠だけは光を残していた。脚の間には銀の壺があり、そのひとつは鷲を戴いて膝の間にそびえていた。心臓を納めた壺だ。手をつけずに残された。

イギリス側の記録はもう少し即物的だ。全身と衣服に黴のような外観があったが、それをギヤールが軽くこすると消え、下のブーツの革は完璧な黒で状態も良かった。ギヤール医師は遺体に触れた唯一の人物で、手について「ミイラのように硬く完全だった」と述べた。目は落ちくぼみ、鼻梁は少し沈んでいたが、顔の下半分は完璧だった。

そしてマルシャンが、驚くべきことを口にしている。この遺体は、埋葬されたときよりも、生前の皇帝に似ている、と。

19年前、埋葬の直前にベルトランは皇帝の左手を握って口づけし、体の脇ではなく腿の上に戻した。1840年、その手はまさに同じ位置にあった。

遺体が空気にさらされていたのは2分から3分。ギヤールがサテンを戻し、フランス人配管工ルルーが蓋を半田付けし直した。全体は新しい鉛の棺に収められ、さらに黒檀の石棺に納められた。棺は合計4トンになり、43人の砲兵が霊柩車で運んだ。

10月16日にベル・プール号へ。12月8日シェルブールで蒸気船ノルマンディー号へ。12月14日ドラード号でクールブヴォアへ。12月15日、アンヴァリッドに到着。セントヘレナからパリまで、およそ7200キロ。

なぜ腐っていなかったのか

そもそも1840年の遠征隊が棺を開けた理由のひとつは、衛生上の措置だった。ベル・プール号に感染源を積み込むわけにはいかないから、腐敗が進んでいれば処置が要る。彼らは極度に分解した遺体を予想していた。

実際、1821年5月7日の午後には、すでに顔の肉が崩れ始めていた。バートン医師がアントンマルキの助けを借りてデスマスクの石膏を取るのに苦労したほどだ。士官ダロックら複数の証人が、遺体から不快な臭いが出始めたと記録している。だから遅滞なく3つの棺に納めた。

にもかかわらず19年後、腐っていなかった。

もっとも受け入れられている説明は屍蝋化、いわゆるアディポセールだ。空気が遮断された環境で、体脂肪が加水分解と水素化を経て、蝋のような物質に変わる。密閉された棺の中では珍しくない現象で、防腐処置なしでも起こる。

ナポレオンはもともと皮下脂肪が厚かった。ブリキ、木、鉛、マホガニーの四重の棺は、外側のマホガニーが湿気で少し傷んだ程度で、内側の密閉は保たれていた。石造りの墓室の壁にも劣化の痕跡はほとんどなかった。条件は揃っていた。

そしてもうひとつ、毒殺説の側が持ち出す説明がある。ヒ素には防腐作用があるという主張だ。実際、亜ヒ酸は19世紀のエンバーミング液に使われていたし、剥製の防腐にも使われた。体内に長年ヒ素が蓄積していたなら、それが腐敗を遅らせたのではないか、と。

この説の面白いところは、毒殺説にとって二重に都合がいい点だ。ヒ素が体内にあった証拠になり、同時に「保存状態が良すぎる」という不可解さも説明できる。ただし、屍蝋化という一般的な現象で十分説明がつく以上、わざわざヒ素を持ち出す必要はない、というのが多数派の立場だ。

すり替え説――アンヴァリッドに眠るのは料理長なのか

そして、いちばん突飛で、いちばんしぶとい説が残っている。

1969年、ジャーナリストのジョルジュ・レティフ・ド・ラ・ブルトンヌが「ナポレオンを盗んだのは英国だ」という趣旨の本を出した。主張はこうだ。1821年から1840年のあいだに、イギリス当局が密かに墓を暴き、ナポレオンの遺体を持ち去って、代わりに1818年に死んだ料理長シプリアーニの遺体を入れた。本物のナポレオンはウェストミンスター寺院のどこかに、名も記されずに眠っている。歴史家ブリュノ・ロワ・アンリとフランク・フェランが後に同様の立場を取った。

この説が立脚する根拠は、実質的にたったひとつの文書上の食い違いである。

1840年10月15日、4つの棺が順に開かれた。外からマホガニー、鉛、木、ブリキ。19年前の埋葬に立ち会った証人たちは誰も驚かなかった。ところが1821年5月7日の埋葬の記録には、「このブリキの棺は我々の面前で封じられ、鉛の棺に納められ、これも半田付けされたのち、3つ目のマホガニーの棺に納められた」と書かれている。木の棺が1つ足りない。

レティフはここを突いた。1821年に3つしかなかったものが1840年に4つあるなら、その間に誰かが棺を開け、詰め直したことになる、と。

種明かしは呆れるほど単純だ。マルシャンは1821年5月7日の時点で3つの棺を記録している。そして翌日の夕方、4つ目のマホガニー棺が届いた。目撃者の証言はすべて、最終的に4つの棺が使われたことで一致している。記録の書かれた時点の違いという、それだけの話だった。

レティフはさらに1840年の「2、3分間の観察」の記述と、1821年の記録との細かい差異を列挙し、これを改竄の証拠とした。ベルトラン、マルシャン、グルゴーは棺を開けた瞬間に中身がナポレオンでないと分かったが、彼ら自身がデスマスクをめぐる詐欺に手を染めていたため口をつぐみ、共謀して偽の報告書を書いた、というのが彼の筋書きだ。「棺の中には石しか入っていなかった」という、さらに大胆なバージョンも一部で語られた。

反証はいくらでもある。イギリス側にもフランス側にも、死、剖検、埋葬、発掘の膨大な記録がある。公式報告、議事録、書簡、目撃者のスケッチ。1828年のハドソン・ロウの短い訪問では、そんな大掛かりな作業を露見せずにやる時間がない。ウェストミンスター寺院の記録にナポレオンの埋葬は存在しない。重い棺をイギリスまで運べば書類が残るが、何も出てこない。

そして、シプリアーニの遺体を10年以上経ってから引き出し、皇帝の制服を着せ、勲章を付け、19年前の埋葬に立ち会った人間たちの前に出して見破られないようにする――この段取りの無理を、すり替え説の側は一度も説明していない。

すり替え説者の答えは、すべての政府が黙っているのは英仏協商を守るためであり、年間100万人が訪れるアンヴァリッドの観光収入を守るためだ、というものだ。ここまで来ると、反証不能な陰謀論の完成形である。

「シプリアーニの墓が見つからない」という決定的に見える論点にも、後日談がある。

この言い回しの出所は、セントヘレナのフランス領事を務めたジルベール・マルティノーが「ナポレオン事典」のシプリアーニ項に書いた「彼の墓は消えた」という一文だ。ところが後任で息子のミシェル・マルティノーが確認したところ、シプリアーニの墓を体系的に捜索した記録は、フランス領地の文書にも島の公文書にも、父の私文書にも存在しなかった。島民の誰も、そんな捜索があったと記憶していない。父の記述は、ほとんど知られていないこの人物の周りの神秘性を高めるための筆致であって、遺体すり替え説を支持する意図はまったくなかった。

島の墓石の一斉調査が初めて行われたのは1984年だ。そこにシプリアーニの名はない。だが1984年の目録以降も、島には身元不明の墓が残っている。セント・ポール教会の周りには1815年から1821年の時期の墓が複数あり、大理石の墓碑まである。当時のセントヘレナで大理石はたいへんな贅沢だった。ただし文字は読めない。そのどれかがシプリアーニのものである可能性は十分にある。教会自体が1851年に建て替えられており、その際に墓が消えた可能性も高い。

ミシェル・マルティノーはこう述べている。丹念な調査が行われるまでは、シプリアーニがそこに埋まっていないと誠実に断言できる者はいない。そして、真面目に研究したい者が来るなら歓迎するし、発掘を含む必要な許可の取得に協力する、と。挑戦状は投げられたままだ。

DNA鑑定という決定打については、ボナパルト家の大半が遺体への接近に反対している。ベン・ワイダーは晩年、フランス政府にアンヴァリッドの墓を開けて遺髪とのDNA照合をするよう働きかけたが、実現しないまま2008年に世を去った。

遺髪はどこへ行ったのか――四つの挿話

この物語には、遺体や遺髪をめぐる小さな挿話が無数にある。そのうちいくつかを、少し丁寧に紹介したい。

ひとつ目は、ギヤール医師のメダイヨンだ。

1840年10月15日、彼はブリキ棺の蓋を覆っていたサテンの布を持ち上げ、遺体の上に掛け直した。このとき彼は、布に顔の皮膚の薄い層が貼り付いているのに気づいた。彼はそれを密かに採取した。少なくとも、そう伝えられている。公式の記録にその行為は残っていない。

この「聖遺物」は子孫の手からナポレオン3世に渡り、皇帝は側近フィルマン・ランボーに与え、その相続人が1936年に軍事博物館へ寄贈した。寄贈を取り次いだのはウェスト嬢という女性で、ランボーの息子フェリックスの代理人だった。

寄贈品はメダイヨンだけではない。セントヘレナで棺の内側に張られていた布地の一片。発掘の際に棺から取った鉛の破片。墓の土の試料。そして墓室の底で採取した押し花。博物館はこれを受け入れ、展示し、そのことが由来の信憑性を裏書きした。

後年の分析では、メダイヨンのガラスにセントヘレナの土に特徴的なアルミノケイ酸塩が付着していることが確認され、綿の繊維は最後の棺の内張りに使われた綿詰めのものと見られている。ギヤールは自宅の庭で、この皮膚片を土に埋めて一種の私的な埋葬儀礼を行ったのではないか、という推測まで出ている。彼はほかに墓室の石や、墓を覆っていた柳と糸杉の樹皮の欠片も持ち帰った。クンペールにある彼の墓には、セントヘレナから持ち帰った石が組み込まれている。

ふたつ目は、ノヴェラの髪がニュージーランドまで旅した話だ。

2020年8月、オークランドのレミュエラにあるコーディーズ競売場に、折り畳まれた手書きのメモに包まれた栗色の巻き毛が出品された。メモにはこうあった。「52歳。セントヘレナにて崩御ののち皇帝ナポレオンの頭より切り取られし一房。ムッシュー・ノヴァール氏よりグリムストーン夫人へ贈らる。1823年6月20日」。

さらに1838年、ノヴェラはスイスのザンクト・ガレンに住むモンス氏に別の一房を送り、こう書き添えている。「ムッシュー・モンス、本日あなたに皇帝ナポレオンの髪をお送りできることは大きな喜びです。これは私が彼の死後、その頭から切り取ったものです。1821年5月6日のことでした」。この一房は個人の入札者に2万5000ニュージーランドドルで落札された。

2010年6月にもニュージーランドで似たようなことが起きている。セントヘレナに駐在したイギリス人将校デンジル・イベットソンの子孫が持っていたナポレオン関連品約40点が競売にかけられ、総額はおよそ10万米ドルに達した。死後に切られた遺髪は1万3000米ドルで、ロンドンのコレクターが落札した。ちなみにその日の最高額は遺髪ではなく、イベットソン自身が描いた死の床のナポレオンのリトグラフと水彩で、1万4600米ドルだった。絵のほうが髪より高く売れたわけだ。

三つ目は、遺髪そのものが分析の現場でどう扱われたかという話だ。

1961年の最初の分析で使われた毛髪は、重さ1.72ミリグラム。ポリエチレンの小さな容器に密封され、標準ヒ素溶液を封じたシリカのアンプルと並べて、イギリスの原子力研究所の炉心に1日置かれた。皇帝の頭から切られた1本の髪が、20世紀の原子炉の中を通ってくる。この絵面のばかばかしさと壮大さが、この事件のすべてを象徴している気がする。

そして四つ目に、髪ではないが、遺言補足書の話をもう一度。

2013年11月6日、パリのドルオー競売場。1821年4月16日にモントロン伯が書き取った補足書。「余の遺灰は、余が深く愛したフランス国民に囲まれて、セーヌの岸辺に安置されんことを」。予想の3倍を超える35万7000ユーロで落札。出品者はモントロン伯の子孫。

毒殺の実行犯として最も頻繁に名を挙げられてきた人物の家に、皇帝の最期の願いを記した紙が200年近く伝わっていた。歴史はこういう皮肉を平気でやる。

なぜこの話は死なないのか

ここまで書いてきて、率直に思う。科学的にはほぼ決着している。

胃には10センチを超える潰瘍性の悪性病変があり、コーヒー残渣様の内容物で満たされ、周囲リンパ節は腫れ硬くなっていた。剖検には慢性ヒ素中毒の特徴的所見が完全に欠けていた。少年時代の髪にも同じだけのヒ素があり、息子にも妻にも同じだけあり、当時の人間はみんなヒ素まみれだった。最後の一撃はおそらく通常量の5倍のカロメルで、これは殺意ではなく当時の標準的な医療の暴走だった。

それでもこの話は終わらない。理由はいくつかある。

第1に、被害者本人が「殺された」と書き残していること。「余は天寿を全うせずして死す。イギリスの寡頭政治とその雇われた暗殺者に殺されて」。この一行がある限り、誰かが必ず「本人がそう言っているじゃないか」と言い出す。実際にはこれは政治的遺言で、自分を殉教者として歴史に刻むための文章と読むのが自然なのだが、遺言というものには不思議な重みがある。

第2に、状況が完璧に密室だからだ。大西洋の孤島。イギリス軍に囲まれた館。出入りできる人間は数えるほど。誰も外から検証できない。ミステリの舞台としてこれ以上のものはない。

第3に、動機を持つ人物が多すぎる。イギリスは彼が生きているだけで困る。ブルボン家はもっと困る。オーストリアも困る。ロングウッドの中にも、遺言で巨額を得た人物がいる。動機だらけということは、犯人を1人に絞れないということでもあるのだが、絞れないほうが物語は膨らむ。

第4に、これが決定的だと思うのだが、「科学が答えを出すたびに、別の科学が違う答えを出してきた」という歴史そのものが物語になってしまった。

1961年に中性子放射化分析が毒殺を示唆し、1982年にX線蛍光分析が壁紙を示唆し、同じ1982年に別の放射化分析が「ヒ素なし」と言い、2001年に原子吸光法が毒殺を再確認し、2002年にシンクロトロン分析が汚染を示唆し、2004年に不整脈説が出て、2007年に病理学が胃癌を確定させ、同じ2007年に形態分析が無機ヒ素を示し、2008年に核物理学が環境曝露で決着をつけた。60年間、最先端の分析技術が投入され続け、そのたびに結論が揺れた。この揺れそのものが、「まだ何かある」という感覚を生み続けている。

第5に、遺体が腐っていなかった。理屈は分かる。屍蝋化だ。だが理屈が分かっていても、19年後に棺を開けたら死んだ日のままの顔があった、という事実の不気味さは減らない。

マルシャンが「埋葬したときより生前に似ている」と口にした瞬間の、あの場の空気を想像してほしい。松明の明かり。夜通しの掘削で疲れ切った作業員。19年前の記憶を抱えた老いた側近たち。そして開いた棺の中の、眠っているようにしか見えない顔。

理性で説明できることと、怖くないことは、別だ。

日本語圏での受け止められ方

日本でもこの題材は繰り返し取り上げられてきた。

雑学書や歴史ミステリ本では「ナポレオンの死因は胃がんか毒殺か」という定型の問いとして、1960年代のフォシュフーヴッド説、2005年前後のキンツの発表、2008年のイタリアの反証、そして2009年にデンマークの元医師が出した慢性腎疾患説までを並べて、「現代科学をもってしても決着していない」と締めるパターンが多い。

倉田保雄の「ナポレオン・ミステリー」は2001年に文春新書から出た本で、章立てに「ナポレオン毒殺のミステリー」と「遺体すり替えのミステリー」を並べている。日本語ですり替え説をまとまった形で紹介した数少ない本のひとつだ。ただし読者の評価は割れていて、すり替えに割かれたページが20ページほどしかない、レネ・モーリらの本の要約として読む本だ、という辛口の書評も残っている。

シェーレグリーンのほうは、日本語圏では「毒の色」というくくりで語られることが多い。美しいけれど人を殺す顔料。緑のドレスを着た女性たちが次々と死んだという話。そこにナポレオンの壁紙が添えられる。こちらは化学史・美術史の文脈で語られるので、陰謀論の匂いが薄く、かえって広く受け入れられている。

そして2021年、死後200年の節目に、幽閉中のナポレオンを診たアイルランド出身の医師バリー・エドワード・オメーラの手記が新たに公開され、胃癌説を補強する材料として日本の媒体でも紹介された。1955年にマルシャンの手記が出て毒殺説が生まれ、66年後にオメーラの手記が出て胃癌説が補強される。史料が出るたびに天秤が揺れる、この題材らしい展開だ。

論争を分けたのは、たったひとつの要素だった

ここからは、通しで書いてきた話を別の角度から掘り直したい。事実の羅列ではなく、この事件が何を教えてくれるのかという話になる。

まず、いちばん大事な確認から。この事件で起きたことの核心は、「ヒ素が検出されたかどうか」ではない。ヒ素は検出された。1961年から2008年まで、どの研究室も、どの手法も、ナポレオンの毛髪から有意なヒ素を検出している。異論があるのは検出の有無ではなく、その解釈だ。

そして解釈を分けたのは、たったひとつの要素だった。比較対象である。

1961年のフォシュフーヴッドとスミスは、ナポレオンの毛髪1本を、現代の教科書に載っている正常値0.8ppmと比べた。13倍。異常だ。この推論に論理的な誤りはない。ただ、前提が間違っていた。19世紀初頭の人間の毛髪の正常値は、現代人の正常値ではなかった。

2008年のイタリアのチームがやったのは、単に「同時代の人と比べる」ことだった。息子の髪、妻の髪、そして本人の少年時代の髪。並べてみたら、全員が10ppm前後だった。現代人のおよそ100倍。19世紀初頭のヨーロッパでは、それが普通だったのだ。

考えてみれば当たり前の話でもある。壁紙にヒ素、殺鼠剤にヒ素、化粧品にヒ素、染料にヒ素、薬にヒ素、菓子の包み紙にまでヒ素。石炭を焚けば煙にヒ素が混じる。あの時代のヨーロッパは、都市全体が緩やかなヒ素曝露環境だった。ナポレオンが特別だったのではなく、時代が特別だったのである。

これは科学的推論の一般的な教訓として、かなり重い。「異常値」は、正しい対照群と比べて初めて異常になる。対照群の設定を間違えると、正常が異常に見える。そして人間は、異常に見えたものに物語をくっつけたがる。

とはいえ、2008年の研究でも説明しきれないものが残っているのも事実だ。

ひとつは分節分析の問題。フォシュフーヴッドとスミスは毛髪を短く切って、根元から先端に向かってヒ素濃度をプロットし、大きな山と谷があると主張した。平均値が同じでも、変動のパターンは別の情報を持つ。環境からの緩やかな吸収なら、変動はなだらかなはずだ。急峻な山があるなら、間欠的な摂取を示唆する。

これに対する反論も複数ある。毛髪のヒ素取り込みは成長期に依存し、休止期の毛は取り込まない。同じ頭皮の毛でも成長段階がばらばらだから、切った位置と時期の対応は思うほど単純ではない。2002年のシンクロトロン分析では、同じ試料の中でも場所によって濃度が大きく振れた。つまり山と谷は、投与の履歴ではなく、測定のばらつきや毛髪生理の反映かもしれない。

もうひとつはキンツの形態分析だ。2007年に測られた2検体では、ヒ素の97パーセント以上が無機形態だった。魚介類由来のヒ素はアルセノベタインなどの有機形態を取るから、これは食事由来ではない。無機ヒ素の慢性曝露と整合する。

ただし、これは「毒殺」を示すものではない。壁紙のシェーレグリーンは亜ヒ酸銅、無機ヒ素だ。殺鼠剤の亜ヒ酸も無機ヒ素。整髪料の亜ヒ酸も無機ヒ素。フォウラー液の亜ヒ酸カリウムも無機ヒ素。当時の環境曝露の主要な形態は、そもそも無機ヒ素なのである。形態分析は「魚のせいではない」ことを証明したが、「人が盛った」ことは証明していない。

ここが、この論争でいちばん混同されやすいところだ。「ヒ素があった」と「ヒ素で死んだ」と「誰かが盛った」は、まったく別の3つの命題である。1つ目はほぼ確実。2つ目は剖検所見から見て極めて疑わしい。3つ目に至っては、物証がひとつもない。

剖検所見の重みと、胃癌説の弱点

現代の法医学で慢性ヒ素中毒を疑うとき、見るべき所見は決まっている。手掌と足底の過角化。爪のミース線、あの横に走る白い帯。皮膚の色素沈着、いわゆるメラノデルマ。末梢神経障害。そして致死的なヒ素中毒では、左室壁や心室中隔の心内膜下出血。

1821年5月6日のロングウッドで、アントンマルキと7人のイギリス人医師が見たものの中に、これらは一切なかった。爪は正常だった。手足に病変はなかった。心臓は非常に蒼白だったが出血はなかった。

これは強力な証拠だ。当時の医者に「ヒ素中毒の所見を隠せ」という動機があったとしても、フランス側とイギリス側が同席し、互いに監視し合う状況で、両方の報告書から同じ所見だけが消えるというのは考えにくい。しかも彼らは、ヒ素中毒の所見を探そうともしていなかった。探していないものが見つからないのは当たり前だが、爪や手掌の異常は探さなくても目に入る類のものだ。

ではフォシュフーヴッドが数えた「31の症状のうち28がヒ素中毒に一致」はどうなるのか。ここには方法論的な罠がある。

彼が挙げた症状のリストは、不眠、脱力、浮腫、脱毛、痙攣、渇き、発熱、悪寒、発汗、消化器症状といった、極めて非特異的なものが中心だ。これらは進行胃癌の末期にも、慢性の消耗性疾患一般にも、当時の過剰な医療行為の副作用にも、ほぼそのまま当てはまる。「一致する症状の数」を数える方式は、非特異的な症状を並べれば並べるほど一致率が上がってしまう。

診断学ではこれを避けるために、その疾患に特異的な所見を重視する。そして特異的な所見――ミース線、角化症、色素沈着――は、まさに欠けていた。

一方で、胃癌説の側にも弱点はある。組織学的な検査が一度も行われていないことだ。1821年に胃の一部を保存する発想はなかったし、あったとしても保存技術がなかった。だから「潰瘍性の癌」という診断は、あくまで肉眼所見からの推定である。巨大な良性潰瘍と癌を肉眼だけで区別するのは、現代でも難しい場合がある。

ルッリらがやったのは、この不確かさを統計で補うことだった。現代の胃癌患者135人のデータと照らし合わせ、噴門から幽門まで10センチ超という広がり、辺縁の硬化と不整、周囲リンパ節の腫大硬化という組み合わせが、良性潰瘍ではまず起こらないことを示した。完璧ではないが、現在できる最善の推論だ。

そしてカーチの不整脈説。この説の魅力は、対立する2つの陣営を統合してしまう点にある。

毒殺説は言う。ヒ素が体内にあった。胃癌説は言う。胃に癌があった。カーチは言う。両方とも正しい、そしてどちらも直接の死因ではない。

彼の筋書きでは、ヒ素は長年にわたって心筋のカリウムチャネルに作用していたが、遮断と活性化が釣り合っていたので何も起きなかった。そこに吐酒石のアンチモンが加わってチャネルの構造を変え、嘔吐と下痢でカリウムが失われ、キニーネがさらに再分極を遅らせ、最後に通常量の5倍のカロメルによる大量の下痢がとどめのカリウム喪失を起こした。均衡が破れ、QT間隔が延び、多形性心室頻拍が起きた。

この説を裏付ける状況証拠として、5月5日の記録は示唆的だ。前日まで意識があった患者が、カロメル投与のあと急速に昏睡に陥り、しゃっくりが止まらなくなり、脈が乱れ、そして数十時間で死んでいる。進行胃癌の自然経過としては、やや急すぎる印象はある。

もっとも、この説にも決定的な弱点がある。心電図がない。トルサード・ド・ポワントは心電図所見で定義される診断名であって、それが記録されていない以上、これは推論の域を出ない。反論者のコルソが「突飛だ」と言ったのは、その意味では正しい。

犯人がいないほうが、よほど怖い

こうして並べてみると、この事件についていま言えるのは、たぶんこういうことだ。

ナポレオンは進行した胃の悪性腫瘍を持っていた。その腫瘍は上部消化管出血を起こし、彼を確実に殺しつつあった。同時に彼の体には、19世紀初頭の人間として標準的な、しかし現代の基準では危険な量のヒ素が蓄積していた。最後の数日、当時の標準治療という名の暴力的な処置が加えられ、それが最期を早めた可能性が高い。誰かが殺意を持って毒を盛ったという証拠は、200年経っても出ていない。

面白くない結論だと思うだろうか。私はそうは思わない。むしろ、こちらのほうがよほど怖い話だと思う。

殺人なら犯人がいる。犯人がいるということは、それを避ける方法があったということだ。だがこの筋書きに犯人はいない。彼を殺したのは、腫瘍と、時代と、善意の医者たちだ。

最善を尽くそうとした人々が、当時の最善の知識に従って、患者を殺した。600ミリグラムのカロメルを主張したイギリス人医師たちは、患者を苦しみから解放しようとしていた。アントンマルキが反対したのは、たまたま彼の直感が正しかったからで、彼に薬理学的な根拠があったわけではない。

この構図は、200年後の我々にとって他人事だろうか。我々がいま「標準治療」と呼んでいるもののうち、200年後の人間から見て何が残っているか、誰にも分からない。

もうひとつ考えたいのは、なぜ毒殺説がこれほど魅力的だったのかということだ。

フォシュフーヴッドは1955年にマルシャンの手記を読んで、ある種の直観を得た。彼は歯科医であって歴史家ではなく、フランスの学界からは素人として嘲笑された。だが彼は諦めなかった。グラスゴーの法医学者を巻き込み、カナダの実業家を巻き込み、原子炉を巻き込み、40年近く戦い続けた。彼が1985年に世を去ったあと、ベン・ワイダーがその戦いを引き継ぎ、2008年に自分も死ぬまで続けた。

彼らを動かしていたのは、単なる陰謀論への嗜好ではないと思う。もっと素朴な感情だ。あれだけの男が、こんな死に方をするはずがない。何かがあったはずだ。それを突き止めなければならない。

ナポレオン自身も同じことを感じていた。だから遺言に「殺された」と書いた。彼にとって、孤島の湿った寝台で胃を腐らせて死ぬというのは、受け入れがたい結末だった。それは物語として間違っている。皇帝はそんなふうに死んではいけない。

歴史の当事者も、後世の研究者も、そして読者である我々も、同じ罠にはまる。偉大な人物の死には、偉大な理由が必要だという思い込み。実際には、偉大な人物も凡人と同じように、癌になり、下痢をし、吐き、痩せ、譫妄の中で死んだ妻の幻を見て、息子の名前を確認して眠りに落ちた。

1821年5月4日、彼はマルシャンに聞いた。「私の息子の名は何といったか」。マルシャンが「ナポレオンでございます」と答えた。彼はうなずいて、また眠った。ヨーロッパを征服した男の、最後のまともな会話がこれだ。

すり替え説の算数が合わない

遺体すり替え説について、もう少しだけ。

この説の構造は、毒殺説とよく似ている。「受け入れがたい事実」があり、それを説明するために巨大な陰謀を想定する。ただし、すり替え説の場合の「受け入れがたい事実」は、19年後の遺体が保存されすぎていたことだった。

ここが皮肉なところで、すり替え説は「保存が良すぎるから別人だ」と言う。だが、その別人とされるシプリアーニは、1818年に死んでいる。ナポレオンより3年早い。つまりすり替え説を取ると、遺体は22年間埋まっていたことになり、保存の良さはもっと説明しづらくなる。しかもシプリアーニは腹部の炎症で急死し、防腐処置もされていない。

この単純な算数を、すり替え説の側は正面から扱わない。それが陰謀論の特徴でもある。都合の悪い事実は「それも隠蔽の一部だ」に吸収される。

一方で、この説がまったく無価値かというと、そうでもない。レティフが騒いだおかげで、フランス側の研究者は1821年と1840年の記録を徹底的に洗い直した。棺が3つか4つかという些細な食い違いの由来が判明し、埋葬の手順が分単位で再構成され、屍蝋化という説明が改めて検証された。陰謀論は、それを潰す作業を通じて、史料研究を前に進めることがある。

最後に、シプリアーニという人物についてもう一度触れておきたい。

彼はコルシカ人で、ナポリで諜報網を率い、カプリでハドソン・ロウの間諜を寝返らせ、その結果ロウが守っていた島が陥落した。ロウ本人がその件で軍歴に傷を負った。10年後、この2人は南大西洋の孤島で再会する。片方は総督、片方は流刑者の料理長として。

そして1818年2月、シプリアーニは夕食の給仕中に腹を押さえて倒れ、4日で死んだ。ナポレオンはひどく動揺し、敷地内に葬らせてくれと願って断られた。彼の墓は、少なくとも公式の目録には存在しない。

すり替え説の是非とはまったく別に、この一連の出来事には、説明されないまま残っている影がある。おそらくは島の風土病だろう。1818年のセントヘレナでは、モントロン家の従僕の子どもも、侍女も、同じような腹の病気で死んでいる。ベルトランはそれを「不健康な気候」で片付けた。合理的な説明だ。

だが合理的な説明があることと、気味が悪くないことは、やはり別なのだ。

あの湿った台地の上で、ヒ素と黴と閉塞に囲まれて、ヨーロッパの支配者だった男とその小さな宮廷が、6年かけて少しずつ壊れていった。誰かが毒を盛る必要すらなかった。ロングウッドという場所そのものが、ゆっくり効く毒だった。

そう考えると、ナポレオンの遺言はある意味で正しかったのかもしれない。彼は確かに、イギリスの寡頭政治に殺された。ただし毒によってではなく、あの島に置かれたことによって。

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