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オランダ坂と旧居留地――石畳・長崎ロッジ・地下通路説

石畳の坂に貼りついた噂

オランダ坂は、長崎市東山手の旧外国人居留地に残る石畳の坂の通称である。当時の長崎では欧米人を広く「オランダさん」と呼んでいた。その人たちが通る坂だから、オランダ坂と呼ばれた。名前の由来は、驚くほど素直な話だ。

観光客がまず向かうグラバー住宅は、実は南山手にある。オランダ坂そのものの代表建築ではない。ここを取り違えたまま、話が転がっていくことも多い。長崎にフリーメイソンのロッジが実在したことは確認できる。ただし、グラバー本人の会員資格も、オランダ坂建築の暗号意匠も、密輸地下網も確認されていない。

開港からの地割をたどる

1859年の開港後、大浦から出島にかけて外国人居留地が造成された。貸し出しが始まったのは1860年からだ。オランダ坂は石畳、石垣、石溝とともに、居留地時代の地割や景観を伝える。

東山手は領事館や礼拝堂、のちにミッションスクールが集まった高台だ。「オランダさん」という呼び名は、オランダ人だけを指さない。欧米人一般の通称だった。

東山手洋風住宅群は、木造・下見板張り・ベランダを持つ建物が中心だ。だから「西洋風石造建築群」と一括りにする説明は不正確になる。旧グラバー住宅は南山手にある現存最古の木造洋風建築で、オランダ坂とは地区が異なる。この住宅は2015年に世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産となった。

大浦にロッジは確かにあった

この土地のロッジ話には、ちゃんと足場がある。長崎には1885年にメソニック・ロッジが開設された。その建物の門は、のちにグラバー園内へ移設保存された。長崎外国人社会にロッジが実在した証拠としては、これで足りる。

一方、国土交通省の解説は、多くの憶測にもかかわらず言い切っている。トーマス・グラバーやフレデリック・リンガーが会員だった証拠はない、と明記する。グラバー園にロッジ門があるのは、門が移設された結果にすぎない。グラバー邸がロッジだったことの証拠にはならない。

定規とコンパスを探す人たち

この坂をめぐる秘密結社の話には、決まった型がいくつもある。まず、窓枠・石積・庭園が定規とコンパス、目、六芒星を形成しているという読み方。グラバーが坂本龍馬・薩摩・長州をロッジ経由で支援した、という筋書きも出てくる。オランダ坂はロッジ建物と港を結ぶ儀礼の道だ、とする説もある。

居留地の番地や街路が、五芒星・羅針盤・聖地配置になっているという話も根強い。ロッジ門の柱が地下宝庫の入口を示している、というバージョンもある。大浦天主堂、グラバー邸、出島を結ぶレイラインを引く人までいる。正直、ここまで来ると線を引きたい側の手つきのほうが目立つ。

武器・船舶・留学支援などグラバーの事業上の関与は、史料で検討できる。ただ、そこから秘密結社会員の証拠へ飛躍させてはいけない。ロッジの開設年、会員名簿、建物所在地、商社記録を一つずつ照合する作業が先にいる。

足元の穴が物語に化けるまで

地下トンネル伝説にも、主な型がいくつも並んでいる。グラバー邸から港へ続く武器密輸路という型がまずある。東山手の領事館・礼拝堂を結ぶ避難路だとする型も強い。税関・幕府役人を避ける物資搬入路という話も出てくる。

大浦天主堂と隠れキリシタンを結ぶ地下礼拝路もある。フリーメイソンロッジの儀式室・宝庫への通路だという説も混ざる。坂本龍馬や志士が使った逃走路という定番も外せない。現代の「オランダ坂トンネル」が古い通路を拡張したのだ、という読み替えまである。

長崎は斜面地であり、造成地でもある。石垣、排水溝、防空壕、近代道路トンネルまで抱えている。だから短い地下空間や穴の記憶が、秘密通路譚へ転化しやすいわけだ。

この話に出てくる「20世紀調査で短い地下通路が発見」という一節は、場所も調査主体も報告書もない。つまり確認できない。保存地区資料にも、居留地全体を結ぶ密輸トンネル網は記されない。

石造と思われている木造の家

この話ではグラバー邸を石造とし、石壁・アーチに欧州の秘密耐震技術があると述べる。しかし公式資料は旧グラバー住宅を木造洋風建築とする。石畳・石垣・石溝、木造洋館、煉瓦建物を混同したままの説明である。

日本人職人と外国人居留者の技術交流は、たしかに大事なところだ。ただ「西洋人が秘密裏に施工し日本人へ教えなかった」という話には根拠がない。

深夜の門柱――フリーメイソンの印を辿る者たち

グラバー園の奥、旧リンガー住宅の脇に古い門柱がひっそり立っている。定規とコンパスを組み合わせた紋章が刻まれている。都市伝説を語る者たちが必ず引用する「物証」が、これだ。

訪れる考察系ブロガーや観光客の間では、感覚的な体験談がよく出回る。「この門柱の前に立って写真を撮ると、なぜか背筋がぞくりとする」。「夜に近づくと妙に空気が重い」。そういう声がしばしば語られている。

ちなみに、この門柱の来歴ははっきりしている。明治22年(1889年)、長崎在住のフリーメイソン会員たちが、大浦47番地の建物の二階にロッジを移した。その入口に設置されたのが、この門柱だった。そこからの流れが、また出来すぎている。

ロッジは大正8年(1919年)に活動を止め、建物自体も戦後に取り壊された。ところが門柱だけは奇跡的に残った。しかも移動は一度きりではない。旧グラバー住宅と旧リンガー住宅の間のテニスコート跡へ、いったん移されている。現在地へ落ち着いたのは、昭和46年(1971年)のグラバー園整備のときだ。

本体は失われたのに、印だけが生き残って移動を重ねている。この経緯そのものが、都市伝説を語る者の想像力を強くかき立てているわけだ。

発祥をたどる――グラバー邸「隠し部屋」伝説の誕生

オランダ坂・グラバー園周辺の都市伝説で、いちばん由来がはっきりしているのが「隠し部屋」の噂である。発端は昭和35年(1960年)にさかのぼる。大学の専門家による調査で、グラバー邸裏の別棟、婦人部屋の奥の天井裏から板張りの隠し部屋が発見された。

広さは畳九畳ほど。人が五、六人入れる規模だったと記録されている。

この発見当時、「幕末の志士たちをここにかくまったのではないか」という推測が瞬く間に広がった。そして大きな話題を呼んだ。長州や薩摩の志士たちが、この屋根裏で倒幕の密談を交わしていた。そういう物語が生まれ、さらにそこへ坂本龍馬その人が身を隠していたという説まで接ぎ木された。

ここで戦後の事情も効いてくる。進駐軍が接収していた時期、この屋敷は「マダム・バタフライ・ハウス」という面白半分のニックネームで呼ばれていた。グラバー家の実態がよく分からないまま、噂だけが先行する土壌を作った。

決め手が出るのは、その後だ。昭和41年(1966年)の修復工事で、床板の裏に職人が「倉場」と墨書きした痕跡が見つかった。倉場はグラバーの日本語表記である。この収納庫自体は、息子の倉場富三郎の代、明治27年(1894年)に増築されたものだと判明した。

つまり幕末の志士かくまい伝説とは、時代が四半世紀以上ずれている。グラバー園自身も、公式サイトの「隠し部屋は『都市伝説』」という記事で、この噂が史実とは異なると明言している。

それでも屋根裏の隠し部屋という物理的な実在は動かない。そこへ志士をかくまったという魅力的な物語が、今も分かちがたく結びついている。語り継がれ方として、なかなか興味深い現象だ。

派生版――坂本龍馬フリーメイソン会員説

隠し部屋伝説と並んで根強いのが、坂本龍馬自身がフリーメイソンの一員だったという説だ。あるいは深く関与していた、という言い方も多い。都市伝説専門サイト「都市伝説パラダイス」などで紹介されるバージョンは、こうなる。

登場するのは武器商人トーマス・グラバーと、イギリス外交官アーネスト・サトウ。この二人がともにフリーメイソン会員であり、倒幕派の志士たちを陰から支援していた、という筋書きだ。

根拠として引かれるのは、グラバー邸の門柱に刻まれた紋章である。そこから、この建物自体がロッジとして機能していたのではないか、という推測につながる。

さらに過激なバージョンもある。龍馬は複数のロッジの間を行き来する「連絡係」として活動していた、という話だ。フランス革命やアメリカ独立戦争を陰で操ったとされる国際的な結社。その理念に共鳴して、明治維新という「革命」の一端を担わされたのだという。

多くの紹介記事は、末尾を「信じるか信じないかはあなた次第」で締めている。書き手自身が娯楽的な読み物として位置づけているのが、そこで分かる。

もう一つの派生形が「聖地図形説」だ。グラバー邸そのものではなく、オランダ坂周辺の居留地の街路や番地の割り付けに目を向ける。五芒星やコンパスの図形、あるいは聖地を模した配置になっているという主張である。

この手の説は、東京都心の街路にまつわる都市伝説記事でも類型として繰り返される。居留地特有の斜面地形と不規則な区画割りが効いているのだろう。後づけで幾何学模様として「発見」されやすい土壌になっている。

目撃談・体験談――生々しく伝わる複数の証言

グラバー園を訪れた修学旅行生の体験談が、観光系サイトに残っている。夕方近くの薄暗くなった時間帯、旧グラバー住宅の裏手を歩いていたときの話だ。「誰かに見られている感じがして振り返ったが誰もいなかった」と友人に話したという。

本人は冷静で、「ちょっと暗かったということ以外には気になるところはなかった」と振り返っている。ところが、その場にいた別の生徒は「なんとなく空気が重かった」と証言する。一様な体験ではなかったことがうかがえる。

長崎の心霊スポット紹介サイトでは、別の逸話も繰り返し出てくる。グラバー園に関連づけて語られる「日本最古の心霊写真」だ。「ハナの結婚式」と題された古い写真に、着物姿の女性の姿が透けるように写り込んでいるとされる。これが長崎の外国人居留地文化と結びつく形で語り継がれている。

実際に園内で写真を撮った来園者からは「嫌な感じはしなかった」という声が大半だ。その一方で、門柱がらみの話も混じる。「フリーメイソンの門柱の前で撮った写真だけ、なぜか色味がおかしかった」という個別の体験談も散見される。

門柱そのものにまつわる話としては、職員の証言もある。夜間にライトアップされた園内を見回る際、門柱周辺だけ妙に静まり返っていたという。風の音すら届かない瞬間があった、という証言だ。

この証言者は「あの場所だけ時間の流れが違う気がした」と述べている。実際の音響環境や地形による反響の違いを、非日常的な感覚として言語化した典型例だろう。

地下トンネル伝説――港への抜け道は本当にあるのか

オランダ坂周辺で最も繰り返し語られるのが、この地下トンネルの一連の伝説だ。代表的な型のバリエーションは、驚くほど多彩に枝分かれしている。武器密輸路から地下礼拝路まで並べたうえに、坂本龍馬や志士たちが使った逃走路という説も出てくる。現代の「オランダ坂トンネル」は、実在の道路トンネルだ。それが古い秘密の通路を拡張したものだ、という都市伝説的な読み替えまである。

長崎という土地は、急な斜面に張り付くように市街地が形成されている。造成の過程で生まれた石垣や排水溝、戦時中に掘られた防空壕、近代以降の道路トンネル。地下や半地下の空間が、とにかく数多く存在する。

こうした無数の穴や通路の記憶が、時代を超えて一つの「秘密のトンネル網」という物語へ集約されていった。そう考えるのが自然だろう。少なくとも公開されている保存地区の資料に、居留地全体を結ぶような密輸トンネル網の存在は記されていない。

ネットでの広まり

考察系のブログやSNSでは、グラバー邸やオランダ坂の都市伝説が定番ネタとして扱われる。ジャンルでいえば「幕末史×秘密結社」だ。特にフリーメイソン絡みの投稿は、再生数も閲覧数も伸びやすい。

「グラバー邸の石壁をよく見ると定規とコンパスの形に見える」。「石畳の配置が六芒星に見えなくもない」。この種の指摘が、飽きもせず繰り返されている。いわゆるパレイドリアだ。意味のない模様に意味を見出す現象を指す。

一方で、地元の歴史愛好家や郷土史ブログには冷静な指摘もある。「史実のグラバーはあくまで貿易商であり、政治的黒幕としての証拠は確認されていない」というコメントだ。都市伝説とその検証がセットで消費される構図が、長崎の観光文化に根付いている。

実在の地名・史跡としてのオランダ坂と居留地

最後に、確かめられる事実だけを並べ直しておく。オランダ坂は東山手に残る石畳の坂道の通称だ。1859年の開港後に大浦から出島にかけて造成され、1860年から貸し出された外国人居留地の一部にあたる。

当時の長崎では欧米人を広く「オランダさん」と呼ぶ慣習があった。外国人が行き来する坂道という意味で「オランダ坂」の名がついたとされる。東山手は領事館や礼拝堂、後にミッションスクールが集まった高台だ。木造・下見板張り・ベランダを備えた洋風住宅群が今も保存されている。

一方、トーマス・グラバーの旧邸宅は南山手にある。現存最古の木造洋風建築として、2015年に世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産に登録された。長崎には1885年開設のメソニック・ロッジが確かに実在し、その門は後にグラバー園内へ移設されている。

ただしグラバー本人が会員だったという確証はない。国土交通省の解説資料でも「証拠はない」と明記されている。確認できる居留地の歴史と、そこから派生した物語的な想像力。その境界線を意識しながら読むと、この土地の怪しさはいっそう味わい深くなる。

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