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氷が閉じた日から百八十年――フランクリン遠征隊129人の消失と、イヌイットが語り続けた場所から二隻が見つかるまで

一枚の紙切れから始めよう

まずこの文章から入りたい。1848年4月25日、北極圏のキング・ウィリアム島の西岸、石を積んだ小さな塚のなかから、11年後に見つかることになる紙。印刷された海軍の定型書式の余白に、細かい字でぐるりと書き込みがしてある。「エレバスとテラーの両艦は4月22日、この地点の北北西5リーグの地で放棄された。1846年9月12日以来、氷に閉じ込められていた。

士官と乗員あわせて105名は、クロージャー艦長の指揮下でここに上陸した」。そして続く一行が、この事件の心臓部だ。「ジョン・フランクリン卿は1847年6月11日に死去。本日までの遠征隊の死者総数は士官9名、乗員15名」。最後に、走り書きのような一文が添えられている。「明日26日、バック・フィッシュ川へ向けて出発する」。

署名はふたつ。フランシス・ロードン・モイラ・クロージャー、上級士官。そしてジェームズ・フィッツジェームズ、エレバス艦長。

これが、1845年にイギリスを出航した129人の遠征隊が残した、実質的に唯一の記録文書だ。ほかには何もない。航海日誌も、手紙も、日記も、まだ一枚も出てきていない。180年かけて、人類がこの遠征について直接彼ら自身の言葉で知り得たのは、この紙切れ一枚分だけなのだ。

そのくせ、この事件は死なない。捜索隊はのべ数十回出た。妻が私財を注ぎ込んだ。詩や小説になり、テレビドラマになった。二隻の船は2014年と2016年に見つかった。骨に刃物の跡が見つかり、2024年には遺骨のひとつに名前が返ってきた。2026年にはさらに4人。まだ終わっていない。というより、いま最も動きが激しい歴史ミステリーのひとつだと言っていい。

なぜこの遠征だけが、こんなに長く語り継がれるのか。順番に見ていこう。かなり長くなる。覚悟してほしい。

国家事業としての北西航路

まず時代の話をしたい。19世紀前半のイギリス海軍には、深刻な暇があった。ナポレオン戦争が終わって、大量の軍艦と、大量の士官が余った。この余剰をどう処理するかを任されたのが、海軍本部の第二秘書だったジョン・バロウという男だ。カンブリアの皮なめし職人の息子から叩き上げで海軍中枢まで登ってきた、恐ろしく有能な官僚である。

バロウが選んだ処方箋が、北極だった。1818年から、彼は次々と探検隊を北へ送り出す。目的は北西航路――大西洋から北米大陸の北をぐるっと回って太平洋に抜ける海路の発見だ。経済的な意味はほとんどなかった。氷で年の大半が塞がっている航路に商業価値なんてない。それでも国家は金を出し続けた。理由は単純で、名誉だったからだ。地図の空白を埋めること、そこに自国の旗を立てること。

それ自体が国力の証明だと信じられていた時代の話である。

1844年、バロウは海軍本部第一卿への手紙にこう書いている。北西航路の「発見、というよりむしろ発見の完成は、これほど多くがなされ、これほど残りが少ない今、放棄されるべきではない」。地図はもうかなり埋まっていた。残る空白は、バロウ海峡とシンプソン海峡のあいだ、緯度にして数百キロ分。あと一押しで完成する、と彼は本気で思っていた。

そこで組まれたのが1845年の遠征だ。指揮官選びは難航している。バロウの第一候補だったエドワード・パリーは断った。ジェームズ・クラーク・ロスも、結婚したばかりだからと断った。フィッツジェームズは若すぎるとされ、ジョージ・バックは議論好きすぎると見なされ、クロージャーは自分には荷が重いと辞退した。回り回って白羽の矢が立ったのが、59歳のジョン・フランクリンである。

18年間現場を離れ、直前まではタスマニアの総督をやっていた。

ただし彼には北極での実績があった。それも、あまり明るくない実績が。1819年から1822年の陸路探検で、彼は隊員の半分を餓死で失っている。自分自身も靴の革を煮て食べて生き延びた。イギリス国内では「自分の靴を食べた男」という、褒めているのか呆れているのかわからない綽名で有名になった。その男が、59歳でもう一度北へ行くことになった。

二隻の艦、三年分の缶詰

エレバスとテラーは、もともと沿岸砲撃用の臼砲艦だった。頑丈な船体は、重い臼砲の反動に耐えるために設計されている。それがそのまま砕氷性能に化けた。この二隻はジェームズ・クラーク・ロスの南極遠征で1839年から1843年まで氷海を走り回った実績があり、当時の世界で最も氷に強い船だったと言っていい。

1845年の改装は徹底していた。船首の八フィート分は木材の塊で、そこに厚い鉄板を張った。船体の外板は二重にされ、甲板は斜めに交差させて張った。そして目玉が蒸気機関である。エレバスにはロンドン・グリニッジ鉄道で走っていた25馬力の機関車のエンジンが、テラーには20馬力のエンジンが積まれた。スクリューは船尾の井戸から甲板上に引き上げられる構造で、氷に噛まれる前に回収できる。舵も同じように外せる。

ボイラーの熱は太いパイプで居住区に回され、暖房になった。当時の新聞は、この工夫の数々をやや興奮気味に報じている。

食料は三年分と言われた。実際には、状況によっては五年から七年もたせられる計算だったという説もある。中心にあったのが缶詰だ。供給契約を取ったのはスティーヴン・ゴールドナーという業者で、契約日は1845年4月1日。出航は5月19日。8000個の缶詰を、七週間で納入することになった。

この納期が、のちに百年以上議論される火種になる。急いで作られた缶は、はんだ付けが雑だった。溶けた蝋がしたたるように、鉛のはんだが缶の内側にまで垂れていたという。当時それは誰も問題にしなかった。缶詰そのものが最新技術で、腐らない肉を北極まで持っていけること自体が驚異だったからだ。

ほかに積み込まれたものも面白い。エレバスには千冊を超える図書室があった。フランクリンは信心深い人物で、聖書と祈祷書を100冊ずつ請求している。ただし後日、寄贈が相次いだので注文を取り消す手紙を送った。そこにはこう書かれている。「船内にもう置く場所がありません」。

そして両艦には、200本ずつのブリキの筒が積まれた。緯度経度を書いた紙を入れて海に投げるためのもので、書式は六か国語で印刷されていた。拾った人は海軍本部に届けてください、と。ヴィクトリー岬で見つかったあの紙は、まさにこの書式の一枚である。

出航、そして最後の目撃

1845年5月19日の朝10時半、エレバスとテラーはケント州のグリーンハイズから曳航されて出た。天気は晴れときどき雲、小雨。曳いたのはスクリュー汽船ラトラー号だった。乗員は総勢134名。補給船バレット・ジュニア号が同行し、追加の食料と衣類を積んでいた。

5月31日、スコットランドのストロムネスに寄港。嵐で失った家畜を積み直し、6月3日に出港した。7月4日、グリーンランド西岸ディスコ湾のホエールフィッシュ諸島に投錨し、補給船から荷を移す。この積み替えで両艦は完全に過積載になったと言われる。7月12日、グリーンランドを離れる。ここで5名が病気のため本国に送り返された。乗員は129名になった。この数字が、以後180年繰り返されることになる。

7月26日、バフィン湾。ランカスター海峡に入る潮待ちをしていた二隻を、捕鯨船プリンス・オブ・ウェールズ号とエンタープライズ号が見た。エンタープライズ号のロバート・マーティン船長は、フランクリンと言葉を交わしている。

それが最後だった。以後、ヨーロッパ人が生きた遠征隊員を見ることは二度となかった。

ビーチー島の三つの墓

最初の冬は、ビーチー島で越した。デヴォン島の南西端にくっついた、直径二キロほどの平たい岩の島だ。地面は砂利と礫ばかりで、緑はほとんどない。夏に一瞬だけ苔が出る。

ここに、三つの墓がある。ジョン・トリントン、エレバスの機関室火夫、20歳。1846年1月1日死去。元旦だ。ジョン・ハートネル、上級水兵、25歳。1846年1月4日死去。その三日後である。ウィリアム・ブレイン、海兵隊二等兵、32歳。1846年4月3日死去。

墓標は木の板で、名前と没日が彫られていた。凍土を深さ一メートル半掘って棺を埋めるのは、真冬の北極では信じがたい重労働である。それを彼らはやった。しかもきちんとやった。1850年に捜索隊がここに辿り着いたとき、記録された言葉は「几帳面なほど整然としていた」だった。

島には他にも痕跡があった。石造りの小屋の跡、鍛冶場、そして缶詰の空き缶。空き缶は600個以上が積み上げられていて、中身の代わりに砂利が詰められていた。何かの重しか、目印か、あるいは単に几帳面な片付けか。理由はわからない。

問題は、この三人が死んだ時期の早さだ。出航から七か月から十一か月。まだ食料は潤沢で、体力もあるはずの時期に、三人が立て続けに死んでいる。しかも死因が明らかな事故ではない。1850年にこの墓を見つけた捜索隊の面々も、これを気味悪がった。何かが最初から間違っていたのではないか、と。

そして、この三人がのちに掘り返される。1984年と1986年に。その話はあとでする。

氷が閉じた

1846年の夏、二隻はビーチー島を離れ、南へ向かった。ウェリントン海峡を北緯77度まで登り、コーンウォリス島の西側を回って戻り、それからピール海峡を南下した。海軍本部の指示どおりのコースだった。

そして1846年9月12日。キング・ウィリアム島の北西沖、ヴィクトリア海峡で、氷が閉じた。

ここが致命的だった。キング・ウィリアム島の西側の海は、北極海から南下してくる多年氷の通り道になっている。夏でも溶けきらない、何年も重なった分厚い氷が、絶え間なく押し寄せてくる海域だ。当時のヨーロッパ人はキング・ウィリアム島を島だと知らなかった。半島だと思い込んでいた。だから東側の、実際には航行可能だったルートを通らなかった。

地図の間違いひとつが、129人を殺したという言い方も、あながち大げさではない。

二隻は動けなくなった。岸まで20キロ以上ある氷の上での越冬。1846年から47年の冬、そして1847年から48年の冬。二冬である。

1847年5月24日、士官2名と乗員6名の一隊が艦を離れ、島の西岸を歩いて偵察に出た。5月28日、彼らはヴィクトリー岬近くの塚に、あのブリキ筒を残した。中の紙には、緯度経度と、越冬の経緯と、そして四文字が書かれていた。

「オール・ウェル」。全員無事。

署名はグレアム・ゴア中尉と、チャールズ・デヴォー航海士。

そのわずか二週間後の6月11日、ジョン・フランクリンは死ぬ。どこで、どうやって死んだのかは、いまだにわかっていない。艦上だったのか、氷の上だったのか。遺体は海に沈められたのか、どこかに埋葬されたのか。イヌイットの口承には彼の墓らしきものの話が繰り返し出てくるが、確認されたことは一度もない。

そして翌1848年4月25日、同じ塚のところに、105人が集まる。

105人が歩き出した

紙の余白の書き込みを、もう一度読み返してほしい。1846年9月12日以来閉じ込められ、1848年4月22日に艦を捨てた。死者は士官9名、乗員15名の計24名。

この内訳が異様だ。士官は全部で24名しかいない。そのうち9名が死んでいる。死亡率は37パーセント。一方で乗員は105名中15名、14パーセント。士官のほうが二倍以上の割合で死んでいる。ふつうは逆だ。士官のほうが食事も居住環境もいい。この逆転を説明する仮説はいくつもあるが、決定打はまだない。

そして「明日26日、バック・フィッシュ川へ向けて出発する」。

これは絶望的な計画だった。バック川の河口までは直線でおよそ400キロ。そこから川を遡って、最も近いハドソン湾会社の交易所であるフォート・レゾリューションまで、さらに1500キロ以上ある。それを、壊血病と栄養失調でぼろぼろになった105人が、重いボートを橇に載せて引きながら行こうというのだ。

その橇とボートが、どういうものだったか。1859年にエレバス湾で見つかった一組が、細部までわかっている。ボートは全長28フィート。バック川を遡上するために、これでもかというほど軽量化されていた。ところが、それを載せる橇のほうが異常に重かった。長さ23フィート、三インチ厚のオーク材の滑走部に鉄を張ってある。マクリントックの推定で、ボートが700から800ポンド、橇が650ポンド。

合わせて600キロ以上。これを人力で引く。壊血病の男たちが。橇の引き綱は三インチの捕鯨索で、チャタム海軍工廠の刻印が入っていた。綱はまだ橇に結ばれたままだった。

十四年後にそこへ行った男たち

1859年5月23日、氷に覆われたキング・ウィリアム島の西岸で、マクリントック捜索隊のホブソン中尉の一行が、雪から突き出た木の柱を見つけた。近づくと、それはボートの支柱だった。雪の下に、船体の輪郭が沈んでいた。

翌朝から二日かけて、彼らは雪を掻き出した。ホブソンが書いた報告書は、目録として異様に精密だ。

船尾には二挺の二連銃が、床尾を下にして舷側に立てかけてあった。両方とも片方の銃身が撃たれ、もう片方には弾が込められて雷管が装着されたままだった。船尾寄りには、クロノメーター一個、懐中時計三個、銀のフォークとスプーンのほとんど、そして弾薬。銀器には11本のデザートスプーンと11本のフォーク、4本のティースプーンがあり、テラーとエレバス両方の士官の紋章とイニシャルが刻まれていた。

火薬は、子山羊革の手袋の指の部分に小分けして縛ってあった。

小さな本が数冊。ほとんどが聖書か祈祷書だが、一冊だけ違った。オリヴァー・ゴールドスミスの「ウェイクフィールドの牧師」。それから注釈が余白にびっしり書き込まれ、いくつもの箇所に下線が引かれた小型聖書。「クリスチャン・メロディーズ」という一冊には、扉に贈り主から「ジー・ジー」への献辞があった。グレアム・ゴアではないか、とマクリントックは推測している。

靴が七、八足。絹のハンカチ、タオル、石鹸、海綿、歯ブラシ、櫛。絹の裁縫入れ。靴職人の道具箱。煙草の小分け。粘土のパイプの破片。針金を革で包んで作った自家製の雪目防止眼鏡が何組も。

食料は、茶がほんのわずかと、板チョコレートが40ポンド近く。それだけだった。ビスケットも肉も一切なかった。

そして、二体分の人骨。

一体は華奢な若者で、船首側にあった。狼らしき大型動物に食い荒らされていた。近くには刺繍入りのスリッパの断片があった。白地に黒の縁取り、白と赤と黄の模様、内側に毛のついた仔牛革の裏地、縁は赤い絹のリボン。もう一体は大柄な中年男で、後部の腰掛けの下に横たわり、毛皮と衣類にくるまれていた。その脇に、五個の時計。

マクリントックが最も驚いたのは、橇の向きだった。北東を向いていた。艦のほうへ、戻る方向へ。

彼はこう解釈した。この一隊は本隊から引き返してきたのだ、と。物資を取りに、あるいは病人を連れて。二人をボートの番に残して、他の者は艦へ向かった。そして誰も戻らなかった。だからチョコレートも時計も置きっぱなしなのだ、と。

説得力はある。だが、あくまで解釈だ。ホブソン自身はもっと慎重で、風よけのために向きを変えただけかもしれない、偶然かもしれない、判断する材料がない、と書いている。165年後の考古学者たちも、ホブソンのほうが正しい態度だったと評価している。

待ち続けた女

ここでジェイン・フランクリンの話をしないわけにいかない。

1847年になっても連絡がない。1848年になっても来ない。海軍本部は最初のんびり構えていた。フランクリン自身が「食料が尽きるまで戻らないと思ってくれ」と言い残していたからだ。だが1848年3月、ついに捕鯨船向けに100ギニーの情報提供報奨金を出す。同じころ、ジェインは自腹で2000ポンドの懸賞金を用意していた。

彼女はそこから、およそ四半世紀を捜索に費やす。

1849年、下院は民間の捜索を奨励するために2万ポンドの報奨金を全会一致で可決した。だが彼女はそれを待つ人ではなかった。1850年、プリンス・アルバート号を仕立てて送り出す。1851年、同じ船をもう一度、別の指揮官で。1852年と1853年にはイザベル号。彼女が全額または大半を自費で出した捜索船は五隻にのぼる。しかも世界中に働きかけて寄付を集めた。

かつて夫が総督を務めたオーストラリアのヴァンディーメンズランドだけで、1671ポンド13シリング4ペンスが集まっている。

1857年2月24日、下院で議員のジョゼフ・ネイピアが、政府に最後の捜索を求める動議を出した。応じた海軍本部第一卿サー・チャールズ・ウッドの回答は冷たかった。これまでの捜索は多大な費用と危険を伴った。両艦の乗員はとうに死んでいるはずだ。これ以上は奨励できない。

ジェインは翌日、支援してくれた議員に手紙を書いた。黒縁の便箋だった。未亡人であることを、彼女はもう受け入れていた。だが文面はまったく諦めていない。「私が自分の資力で捜索を完成させるという、今や強いられたこの選択から尻込みしないことは、あなたに申し上げるまでもないでしょう」。

そして彼女は動いた。185トンの蒸気ヨット、フォックス号を2000ポンドで購入。エレバスとテラーの半分の大きさで、氷への強度は比べものにならない。それでもやるしかなかった。指揮官には、当時38歳のフランシス・レオポルド・マクリントックを選んだ。過去の捜索で500マイル、770マイルという当時の記録を作った、海軍随一の橇旅の達人である。しかも一人も部下を死なせていなかった。

1857年4月17日付の手紙で、彼女は指揮権を提示している。マクリントックは封筒に「レディ・フランクリンの遠征隊指揮の申し出」と書き込んで、生涯保管した。

フォックス号は1857年7月2日、アバディーンを出た。そして1859年、ホブソンがあの紙を見つけて帰ってきた。

ジェインの執念には、もうひとつ別の顔もある。彼女は夫が北西航路の「最初の発見者」として認められることに、異様なほどこだわった。海軍本部への抗議文で、彼女はこう書いている。夫の遠征隊は「今世紀の偉大な北極発見における最初にして唯一の殉教者」なのだと。そして1875年に彼女が死んだ二週間後、ウェストミンスター寺院に夫の記念碑が除幕された。碑文の一部はこうだ。「妻ジェインにより建てられる。

長く待ち、多くの者を捜索に送り出したのち、みずからも彼を求めて光の国へ旅立てり」。

ジョン・レイが持ち帰ったもの

だが、ジェインが最も認めたくなかった真実を持ち帰ったのは、彼女が送った船ではなかった。

1854年4月21日、ペリー湾――現在のクガールク――の近くで、ハドソン湾会社の測量隊を率いていたジョン・レイという医師が、一人のイヌイットに出会う。オークニー諸島出身のレイは、当時のヨーロッパ人としては例外的な人物だった。イヌイットのやり方を学び、イヌイットの食事をし、犬橇で移動した。だからこそ、彼は話を聞くことができた。

その男が語ったのは、バック川の河口近くで餓死した35人から40人の白人の一団の話だった。レイはその後二か月にわたって、20人から25人のイヌイットから同じ話を聞き続けた。彼らは細部を違えなかった。レイは銀器を買い取った。フランクリン、フィッツジェームズ、ジェームズ・ウォルター・フェアホルム、ロバート・オーム・サージェント、そしてクロージャーのものだと確認できる品々だった。

そしてレイは、海軍本部への報告書に、あの一文を書いた。

「多くの死体の損壊状態と、鍋の中身から見て、われらが哀れな同胞たちが、生を長らえるための最後の手段――カニバリズム――に追い込まれていたことは明らかである」。

報告は1854年10月23日、タイムズ紙に掲載された。海軍本部が公表したのであって、レイが売り込んだわけではない。

イギリスの反応は激烈だった。翌日のタイムズは「われわれはこれほど多くの気高き者たちの臨終を覆った恐怖に、思いを馳せる勇気を持たない」と書いた。その二日後には、情報源のほうを攻撃し始める。「すべての未開人がそうであるように、彼らは嘘つきである」。

そして12月2日と9日、チャールズ・ディケンズが自分の雑誌「ハウスホールド・ワーズ」に「失われた北極の航海者たち」という論説を二回に分けて載せた。

ディケンズの論法は、いま読むとかなりきつい。彼はレイ個人は擁護する。報告は義務であり、責任はない、立派なイギリス人だ、と繰り返し持ち上げる。そのうえで、証言そのものを潰しにかかる。エスキモーの申し立ては「きわめて漠然として信用ならない性質」のものだ、と。損壊は熊や狼や狐の仕業だろう、と。鍋で煮たというなら燃料はどこから来たのか、と。そして最後には、こう書く。

生き残りがエスキモー自身に襲われて殺された可能性を、誰も否定できない、と。

結びの一節は、当時の価値観がむき出しになっている。イギリス人士官と乗員の高潔さは「血と脂に馴染んだ、無教養な連中のひと握りのおしゃべり」を、全宇宙の重さで凌駕する、と。

レイは反論した。同じ雑誌の12月30日号に、彼の文章が載っている。文章が下手で申し訳ない、書くのは苦手だ、と前置きしたうえで、彼は事実だけを並べる。難破の事例と今回は違う。難破では水も食料もない。渇きは飢えより苦痛が強いから、飢えを感じにくくする。だがフランクリンの一隊は水は容易に得られた。だから飢えだけを、まともに感じ続けた。バック川河口の周辺には草の一本も生えていない。

前回のフランクリン遠征と比べるな、あのときは古い革やイワタケがあった、と。

そして彼は、こう締める。「二十人から二十五人のエスキモーが、二か月にわたって、いかなる重要な点でも食い違いなく同じ話を繰り返し、あらゆる反対尋問に対して固く言い張ったという事実は、私にとって、彼らが与えた情報が事実に基づいていることの最も明白な証拠である」。

レイはこの一件で、事実上イギリス社会から追放された。同時代の北極探検家で、彼だけがナイトの称号を受けていない。彼はイヌイットの技術を学び、イヌイットの証言を信じ、そして正しかった。それが罰の理由だった。

イヌイットが百五十年語り続けたこと

ここからが本題かもしれない。この事件の本当の異常さは、「情報がなかった」ことではない。情報はあった。ずっとあった。誰も聞かなかっただけだ。

証言その一――イヌークプージージュークの二隻のボート

1869年7月2日の正午ごろ、アメリカ人探検家チャールズ・フランシス・ホールは、イヌークプージージュークという名の男に質問をしていた。通訳はハンナという女性である。ホールはまず断りを入れる。私はもうすぐアメリカへ帰る。だから覚えていることを正確に、真実だけを話してほしい、と。

イヌークプージージュークは、彼が見つけた二隻のボートについて語った。1861年ごろのことだ。彼の甥のオーアージュー、オークピク、エッケペレア、そして息子のニールクードルー。五人の男とその家族で、白人の遺した物を探しに回っていた。時期は六月二十日ごろ。氷の上に水が浮き始めていた。ボートの中にも周りにも雪と氷があった。

一隻はすでに白人の捜索隊が見つけたあとのものだった。もう一隻は誰も手をつけていなかった。その中身を、彼はこう並べる。櫂が六本。白い柄のテーブルナイフが多数。時計がひとつ。息子が今も持っている望遠鏡。濡れて薄く固まった煙草。ブリキの皿が非常にたくさん。

そして。「衣類のついた完全な骸骨がひとつ。肉はすべて残っていたが乾いていた。ばらばらの骨が多数。頭蓋骨が三つ」。

さらにこう続く。「ボートのそばに、骨髄を取るために砕かれた骨の大きな山があった。焚き火の跡の近くだった。頭蓋骨もその中にあった。数はアマスアドルー――非常にたくさん――で、いくつあったかは言えない」。

そして決定的な一文。「何人かが人肉で生き延びたことは確かだ。ボートの脇に、調理された人肉の入った大きなブーツがあったからだ」。

このやりとりを聞いていた通訳のハンナは、ホールに自分の解釈を述べている。テラー湾の近くの大きなテントとボートの場所からクロージャーの一隊が去ったあと、そこに残された飢えた船乗りたちが、もはや自らを抑えなくなったのだろう、と。そしてイヌイットたちは、クロージャー本人やその周囲の者が人肉を食べたとは考えていない、とも付け加えている。

ホールは、この証言者を必ずしも全面的には信用していない。「その正確さについて時に不信を口にする」と記録にある。それでも彼は聞き取り、書き留め、印刷した。1879年のことだ。そして誰も本気で扱わなかった。

証言その二――エヴィーシュクが見た五体

1869年5月14日、トッド島の氷の家の中。ホールは、トゥクピートゥーの妻エヴィーシュクという女性に、通訳のジャックを介して質問をしている。

この島で死んだ男たちについて何か見たか。答え。ずっと昔にここで死んだ白人の頭蓋骨を五つ見た。

トゥールーアークを見たか。答え。四人の白人の遺体が一か所に、そしてトゥールーアークの遺体が少し離れたところにあった。

初めて見たとき、五人とも肉も衣服もそのままで、遺体は完全だった。イヌイットたちが近くにテントを張ったあと、犬がその肉の多くを食った。彼女が最初に言った五つの頭蓋骨を見たのは、そのしばらく後のことだ。着ていた服は黒かった。履いていた長靴は、ホールがイヌークプージージュークに贈った革帯と同じなめし革――アメリカ製の革だった。

埋葬されていたか。答え。いいえ、死んだままの姿で地面の上に横たわっていた。

骨は今どこに。答え。この島の、あちこちに。今は雪の下だ。着いてから探してみたが、雪が深くて一本も見つからない。雪が消えれば全部見える。

そしてホールは、海峡の向こう側で見つかったボートについても尋ねる。彼女はレイの海図を示され、ポイント・リチャードソンの西側の入江の西岸に指を置いた。そこだ、と。土地は低く泥だらけで、海がすぐそばだった。イヌイットが壊したあとのボートの破片を見た。骨は泥に沈んでしまって、もう見えないと思う。

そして彼女は最後にこう言った。「見つかったとき、ある男の体は肉がすべて残っていて損なわれていなかった。ただし両手が手首のところで鋸で切り落とされていた。それ以外は、多くの者が、誰かが食べるために切り取ったかのように肉を削がれていた」。

ホールはその後、彼女に案内させて島の南東端まで歩いている。岸から20尋ほどの場所だった。彼はそこに印をつけ、こう書いた。「われわれはここに記念碑を建て、気高き死者たちにささやかな敬意を捧げるつもりである」。

証言その三――フンマハクの見たものと、ひ孫の五十年

三つ目は、19世紀ではなく20世紀の話だ。

1959年、ヌナブトのタロヨアク近くのアザラシ猟の野営地で、ルイ・カムカクという男の子が生まれた。飢饉の年だった。母親は空腹で母乳が出ず、子どもたちの最初の食べ物はすり潰した生のアザラシの脂だった。彼はネツィリクの家系で、父方には高名なシャーマンがいて、母方の祖父はアイルランド人の交易商だった。

彼が九歳になるまで一緒に旅をしていたのが、曽祖母のフンマハクである。キャンバスのテントの中で、夜になると彼女は話をした。ある夜の話が、彼の人生を決めた。

フンマハクが六つか七つのころ、父親と一緒にキング・ウィリアム島の北岸を旅した。あの海岸に行く人はほとんどいなかった。氷だらけだったからだ。行く理由はただひとつ、カヤックを作るための流木を拾うこと。

海に近いところで、細かい砂利の尾根に出た。そこで彼女たちは、見たことのないものを拾い始める。北極ウサギの糞のように丸いもの――のちに彼女はそれが弾丸だと知る。スプーン。フォーク。父親はディナーナイフを一本持ち帰り、氷を割る鑿に作り直した。

さらに探していると、大人の背丈ほどの長さの、人の手で盛られた土の高まりがあった。端には、奇妙な印の刻まれた石が置かれていた。それを見た父親は怖がって、二人は浜へ降りた。

浜には、木片と、海の中へ伸びていく金属の鎖があった。「二本の指を組み合わせたような形」の鎖だ、と彼女は説明した。それが海へ、まっすぐ入っていた。

「後になって宣教師が来て、人を埋葬し始めた。曽祖母は、自分が見たのが墓だったと気づいた」。カムカクはそう語っている。

その翌年、飛行機が来て彼を学校へ連れて行った。フンマハクはその年に死んだ。彼女は伝統的なやり方で――埋められず、覆われもせず――安置され、土地が体の跡形もなく引き取っていった。のちにカムカクはブーシア半島で彼女の墓を探したが、何も見つからなかった。

彼はいったん話を忘れた。だが12歳のとき、学校の教師がフランクリン遠征の授業をした。1845年にイギリスを発った二隻の船、氷に閉じ込められた乗員、行方不明の遺体。そのとき、繋がった。「先生が話していたのは、曽祖母が話していたのと同じ人たちだった」。

そこから五十年、カムカクは長老たちの話を集め続けた。フォーマルな聞き取りは、生涯で両手で数えられるほどしかやっていない。ただ訪ねて、座って、聞いた。フランクリンの話でも、伝説でも、身の上話でもよかった。長老たちは、この若者は聞く男だ、と覚えた。

そして彼は、集めた口承と白人の探検家の日誌を、何十年もかけて突き合わせた。イヌイットが使っていた古い地名と、後から白人が付け替えた地名を、一つひとつ対応させた。彼自身が言うには、口承には限界もある。「口承は多くの歴史を伝えるが、いつも正確とは限らない」。だから両側を照合した。

その積み重ねが、2014年の捜索海域の決定に効いた。

一九八四年、氷から出てきた顔

その前に、1980年代の話をしておきたい。ここでこの事件は、カナダ人にとって「他人の国の悲劇」から「自分たちの物語」へと変わる。

1981年、アルバータ大学の法人類学者オーウェン・ビーティーが、フランクリン遠征法人類学プロジェクトを立ち上げた。1982年6月、彼と大学院生のウォルト・コワル、サイモン・フレーザー大学のアーン・カールソン、そしてイヌイットの学生アーシエン・トゥンギリクの四人が、キング・ウィリアム島の西岸に降ろされた。

マクリントックの「ボートの場所」の周辺で、6体から14体分の人骨と、滑り止めのために自作の鋲を打ったブーツの底が見つかった。

骨の鉛濃度が異常だった。1体の遺骨で226から228ピーピーエム。同時代のイヌイットの遺骨は1から14ピーピーエム程度である。

ただし骨の鉛は生涯の蓄積を反映する。遠征中の摂取かどうかは、骨だけではわからない。それを確かめるには、軟部組織が要る。凍った遺体が要る。

だからビーティーはビーチー島へ向かった。

1984年8月17日、作業開始。トリントンの棺は永久凍土の1.5メートル下にあった。氷を傷つけずに溶かすため、彼らは湯を少しずつ注いだ。開けた棺の中身は、埋葬された日とほとんど変わっていなかった。

20歳のジョン・トリントン。身長162.6センチ、体重38.5キロ。肋骨が全部浮いていた。目は開いていた。ビーティーが記者に語った言葉が残っている。「死んでいるというより、生きているように見える」。

解剖の結果、遺体は死後しばらく艦内に安置されてから埋葬されたとわかった。細胞の自己融解が進んでおり、脳はほぼ液化して「黄色い粒状の液体」になっていた。肺には過去の結核の瘢痕と、より新しい肺炎の所見があった。髪と爪の鉛濃度は高かった。病理医は死因を肺炎と判定し、鉛中毒を寄与因子とした。

1986年にはハートネルとブレインも調べた。ハートネルの棺には水が入り込んで凍りついており、氷の塊を何時間もかけて溶かした。顔から始めた。そのとき写真を撮っていたのが、ブライアン・スペンスリーという物理学の教授で、ハートネルの高祖甥にあたる人物だった。彼は自分の祖母と同じ長い鼻を、その顔に見た。「感情はあまり動かなかった。埋め戻すときまでは。そのときは圧倒的な悲しみだった。

たった今死んだような、そしてもう二度と会えないとわかっているような」。

ビーティーとジョン・ガイガーの共著「フローズン・イン・タイム」はカナダ、イギリス、ドイツでベストセラーになった。トリントンの写真は世界中に配信され、ピープル誌はその年の「最も興味深い人物」の一人に彼を挙げた。ジェームズ・テイラーが曲を書き、アイアン・メイデンが曲を書き、マーガレット・アトウッドが短編を書いた。詩人のシーナ・ピューは「オーウェン・ビーティーを羨む」という詩を書いて賞を取った。

死んで140年経った20歳の火夫の顔写真が、ポップカルチャーになったのである。この時期の熱狂が、後の国家プロジェクトとしての捜索の土壌になった。

骨に残った刃の跡

1992年、南オンタリオの歴史愛好家バリー・ランフォードが、エレバス湾の海岸を歩いた。フンマハクが語った場所を探すためでもあった。彼はそこで、大量の人骨を見つける。

正式な発掘は1993年に行われた。エレバス湾の南岸、考古学の遺跡番号が振られた一地点から、400点近い骨と骨片が出た。粘土のパイプの破片、ボタン、真鍮の金具も一緒だった。

分析を担当したのが、生物考古学者のアン・キーンリーサイドである。1997年に発表された彼女の所見は、こうだった。骨のおよそ四分の一に切創がある。位置と角度は、筋肉の付着部を狙って肉を剥ぎ取った場合と一致する。動物の歯型でも、風化でもない。刃物だ。しかも少なくとも4人の遺体が、その対象になっている。

ジョン・レイが1854年に報告し、ディケンズが全否定し、イギリス社会が143年間拒み続けた話が、骨の上に物理的に刻まれていた。

2015年にはさらに踏み込んだ研究が出た。同じ遺跡の骨のうち35点に、破断と「鍋磨き」の痕跡が確認されたのだ。鍋磨きとは、煮沸された骨の端が鍋の内壁とこすれてできる磨耗である。これが意味することははっきりしている。肉を剥ぐのは第一段階だ。骨を割って煮て、骨髄まで取り出すのは、その先の段階である。飢餓が最終局面に入ったことの指標とされる。

研究者たちの言い方は、意識的に抑制されている。19世紀のヨーロッパ人は、あらゆるカニバリズムを道徳的に許しがたいものと見なした。だが現代のわれわれは、生存のためのカニバリズム、飢餓によるカニバリズムというものについて、はるかに多くを知っている。ウォータールー大学のロバート・パークはこう述べている。「彼らが忌まわしいと考えていたであろうことをやらざるを得なかった、その絶望の深さを示している」。

二〇一四年九月――ハット島の鉄の金具

2014年のヴィクトリア海峡遠征は、大規模なものだった。カナダ公園局、沿岸警備隊、海軍、カナダ王立地理学会、北極研究財団などの連合体で、砕氷船サー・ウィルフリッド・ローリエ号を含む四隻が投入された。カナダ公園局の水中考古学班は2008年から毎年、側方走査ソナーを曳いて海底を「芝刈り」のように潰していた。何年も、何も出なかった。

2014年も、本命の捜索海域であるキング・ウィリアム島北西沖は、重い氷に阻まれた。仕方なく、彼らは南のクイーン・モード湾東部に重心を移した。イヌイットの口承が、一隻の船がそのあたりで沈んだと語っていた海域である。

9月1日。この日はヘリが飛べる天気だった。カナダ水路局のスコット・ヤングブラットが、測量用の基準点を設置するためにハット島に降りることになった。ヘリの座席が二つ空いていたので、ヌナブト準州の遺産文化局長ダグラス・ステントンと、ウォータールー大学のロバート・パークが乗り込んだ。イヌイットのテント環を見に行くつもりだった。

その島の浜で、最初にそれを見つけたのは、考古学に興味を持ち始めていたパイロットのアンドリュー・スターリングだった。錆びた金属の塊。自転車のフォークのような形。長さ43センチほど。

その表面に、二本の矢印が刻まれていた。イギリス海軍の所有物を示す「ブロード・アロー」の刻印である。

近くにはもうひとつ、木製のものが落ちていた。デッキ・ホースプラグ――錨鎖が通る鉄管の防水栓だ。これにもブロード・アローがあった。

その晩、ステントンは品物をローリエ号に運んだ。船長のビル・ヌーンは、帰ってきた二人が妙にニヤついていたのを覚えている。ステントンが小声で「面白いものを見せる」と言った。ブリッジに運ばれた金具を見て、ヌーンは自室に走って船の図面を取り出した。ほぼ同時に、公園局のジョナサン・ムーアが特定していた。ボート吊り下げ用のダビットの基部の金具、ダビット・ピントルだった。エレバスの図面と、ぴたりと合った。

翌9月2日、ライアン・ハリスは捜索範囲をこの発見に合わせて調整した。調査船インヴェスティゲーターがソナーを曳いて、新しい海域の二本目の測線を南下し始めた、その直後。

「私たちは数秒でそれが何かわかったと思う」とハリスは言っている。水深11メートル。ほぼ完全な形の木造船が、船首を上にして海底に立っていた。マストは氷にへし折られていたが、甲板の板張りまでソナーに映った。ムーアが「反応はどうだった、科学者らしい冷静さか」と尋ねると、ハリスはこう答えた。「スタンレー・カップを取ったようなものだ」。

9月9日、オタワでスティーヴン・ハーパー首相が発見を発表した。会場は歓声に包まれた。その後の潜水でエレバスと確定する。艦尾に二門の大砲、緑青をまとった砲身。少なくとも六本の錨。マストの両側に立つ銅製のビルジポンプ。そして船の鐘。鐘にもブロード・アローが打たれていた。

「あれは人生で最高のダイブだった」とハリスは言った。

エレバスがあった場所は、ウィルモット・アンド・クランプトン湾。1859年にマクリントックが、キング・ウィリアム島北部でイヌイットから聞いた「ウークジューリク」――一隻の船が氷に押されて座礁した海域――の、まさにその範囲内だった。1860年代にホールが、ヌッキーチュークという男から聞いた話もある。氷に閉じられた船。舷側のダビットに四隻のボート、船尾にもう一隻。甲板の上にはキャンバスの覆い。

甲板から氷へタラップが下りていた。イヌイットたちは船に乗り込み、下へ降りた。そこに、しっかりと服を着た大柄な男の遺体があった。ひどい臭いがした。彼らは長い期間かけて使えるものを持ち出した。次に来たとき、船は沈んでいた。ただしマストはまだ水面の上に出ていた。

水深11メートル。マストが水面上に立つ深さだ。155年前の証言と、ソナー画像が一致した。

二〇一六年九月――サミー・コグヴィクのマスト

もう一隻の話は、もっと出来過ぎている。

2016年9月2日、ジョア・ヘイヴン在住のサミー・コグヴィクが、北極研究財団の調査船マーティン・バーグマン号に乗り込んだ。彼はカナダ軍の北方部隊の隊員でもある。船はケンブリッジ湾へ向かう予定だった。

乗って一日目の晩、彼は雑談のなかで探検隊長のエイドリアン・シムノウスキーに、六年か七年か前のことを話した。「叔父のジェームズ」と一緒にテラー湾で狩りをしていたとき、スノーモービルから降りようとして左を見たら、氷から何かが突き出ていた。

「これは、みんなが探してるあの古い船じゃないか、と叔父に言った」。

彼はカメラを出して、叔父に自分とその柱を撮ってもらった。木の柱に、彼は抱きついた。「熊が抱きつくみたいに抱えて、両脚も巻きつけた」。

だが帰り道でカメラを落とした。証拠がなくなった。

「叔父に言った。誰にも言うな、証拠がないから、と。隠したかったんじゃない。証拠がないと、人には嘘に聞こえるから」。

シムノウスキーは、その語り方に打たれた。「サミーの話し方、目つき、声の調子。彼は何かを見た。あれは本物だった」。「あれを聞いたとき、遺跡の場所を指す矢印みたいに感じた。あの話を否定することはできなかった」。

マーティン・バーグマン号は針路を変え、海図のないテラー湾に入った。入り口の水路を見つけ、ソナーを下ろした。

二時間半後、船が映った。三本のマストは折れていたが、全部立っていた。ハッチはほとんど閉じられていた。水深24メートル。同僚たちが捜索していた北の海域から、約100キロ離れていた。

遠隔操作の潜水機を開いたハッチから中へ入れた。食堂の広間。個室。食料庫の棚には皿と、缶詰がひとつ。ワインの瓶。そして船の鐘。ケルプと海洋生物に覆われた、二重舵輪。かつて操舵長が立っていた場所である。

「すべてが、あるべき場所に置かれたままだ」とシムノウスキーは言った。「乗員は越冬のために船を閉じたように見える。そしてあるとき、持ち物をテラーから運び出して、エレバスに移ったようだ」。

北極研究財団は9月11日にカナダ政府へ通報。公園局の潜水班は悪天候で三日遅れたが、テラー湾に到着して三日間潜り、19世紀の船の図面と照合した。二重舵輪、船首の鉄板張り。フランクリンの二隻にしかない特徴だった。9月18日、テラーと確認された。

コグヴィクの言葉には、少し棘がある。「テラーの話は、いろいろ聞いてきた。でも公園局は人の話を聞かないんだと思う。イヌイットのテラーの話を無視するんだ」。

シムノウスキーの言い方はこうだ。「コミュニティは何年も何年もこれを知っていた。人が立ち止まって本当に耳を傾けるのは難しい。特に南から来た人間には」。

その水曜の夜、ジョア・ヘイヴンで祝いの宴が開かれた。喉歌と、太鼓踊りと、スクエアダンス。

そして名前が返ってきた

2013年から、ステントンとパークのチームは、遺骨のディーエヌエーと、遠征隊員の子孫のディーエヌエーを突き合わせる長期プロジェクトを始めていた。骨や歯からディーエヌエーを抽出するのはレイクヘッド大学のスティーヴン・フラットピエトロ。子孫の同定には、途切れない父系または母系の系譜を文書で証明することが必要になる。地道な作業だ。

2021年5月、最初の一人が判明した。ジョン・グレゴリー、エレバスの機関士で准士官。1859年にマクリントック隊が見つけた遺骨だった。子孫は南アフリカのポート・エリザベス在住の玄孫の子にあたる人物だった。

そして2024年9月24日。二人目が発表される。

エレバス湾の同じ遺跡から出た、少なくとも13人分、451点の骨。そこに含まれていた一本の臼歯からワイ染色体プロファイルを取り、25人の子孫提供者のうち一人と照合した。遺伝的距離は1。共通の父系祖先を持つことを示す値である。系譜研究はファビエンヌ・テテローという歴史家が担当した。提供者は、イギリスのベリー・セント・エドマンズに住むナイジェル・ガンビアという男性。

フィッツジェームズの又従兄弟の五代下にあたり、二人はフィッツジェームズの曽祖父を共有していた。

ジェームズ・フィッツジェームズ。エレバス艦長。フランクリンの死後、事実上の副司令。あの紙切れに署名した二人のうちの一人。

そしてもうひとつ、この発見には続きがある。この臼歯がついていた下顎骨には、複数の切創があった。キーンリーサイドが1990年代に記録した、あの切創である。

ステントンの言葉は、こうだ。「これは、彼が他の何人かの船乗りより先に死んだことを示している。そして、彼らが自らを救おうと必死になった最後の日々において、階級も地位も支配的な原理ではなかったということを示している」。

士官も食われた。あるいは、士官こそ最初に食われた。

そして2026年5月6日と7日、さらに四人の身元が確定した。エレバスの上級水兵ウィリアム・オレン。エレバスの一等少年水兵デイヴィッド・ヤング。エレバスの下級士官付き従僕ジョン・ブリジェンズ。三人ともエレバス湾で死んでいる。四人目が、テラーの前檣楼長ハリー・ペグラーだ。四件すべて、遺伝的距離ゼロという完璧な一致だった。

ペグラーの一件は、166年越しの謎解きでもあった。1859年、キング・ウィリアム島南岸で見つかった一体の遺骨は、革の紙入れを持っていた。中にはペグラーの船員証と、詩や遠征中の出来事らしき記述が入った書類。「ペグラー文書」と呼ばれる、この遠征から出てきたほぼ唯一の私的な文章である。

ところが、周囲に散らばっていた衣類が合わなかった。ダブルの胴着の断片と、黒い絹の首巻きをゆるい蝶結びにしたもの。船乗りも士官も、こんな結び方はしない。従僕か士官付きの召使いの装いだ。しかも衣服ブラシまで一緒にあった。だから百年以上、研究者たちはこう考えてきた。これはペグラー本人ではなく、彼と親しかった従僕の遺体で、書類は預かっていたか託されたものだろう、と。

候補としてテラーの砲室従僕トマス・アーミテージなどの名前が挙がっていた。

チームは八人の従僕のうち六人分の子孫ディーエヌエーを集めた。誰とも一致しなかった。そしてペグラーの姉メアリー・アンの、五代下の子孫のミトコンドリアディーエヌエーと、遺伝的距離ゼロで一致した。

ハリー・ペグラー本人だった。1812年2月22日生まれ。十人以上の兄弟姉妹の一人。彼の海軍記録には、複数回の「不適切な行為」と降格が記されている。研究者たちの推定はこうだ。彼はテラーの艦上でも問題を起こし、従僕に降格されていたのではないか。だから従僕の服を着ていたのではないか。

そして彼は、艦を捨てた地点から200キロ以上南で、たった一人で死んでいる。エレバスの他の乗員たちがまとまって死んだエレバス湾から、130キロ離れた場所だ。論文はこう書いている。「わかっているのは、彼が従僕の制服を着て、一人で死んだということである」。

現在、六人。129人のうち、六人だ。研究チームは、まだ14人分以上の未同定ディーエヌエーを持っていると公表している。子孫からのサンプル提供を、いまも募っている。

ここで一度、立ち止まりたい。イギリスの公共放送の記者リッチ・プレストンという人が、ジョン・ブリジェンズの子孫であることも、この研究の過程で判明した。ブリジェンズは1818年生まれ。父親は船乗りだったが母親とは結婚しなかった。義父から理髪師の訓練を受けたが、海に出た。1829年に楽師として初めて乗船し、1841年にはエンディミオン号で中国との戦争に従軍している。

1845年3月20日、26歳のときにウーリッジでフランクリン遠征に志願した。身長168センチ、黒い髪、榛色の目。船員証は彼が文字を読めなかったことを示していて、給与配分の記録には自分の名前の代わりに十字を書いている。

180年後に、その名前が骨に返った。

死因をめぐる諸説と、その一つひとつへの反証

ここからは、いちばん揉めている部分だ。129人はなぜ全員死んだのか。ひとつずつ見ていく。

まず鉛中毒説である。ビーティーが1980年代に提示し、長らく最有力とされてきた。骨の鉛濃度が異常に高い。ゴールドナーの缶詰のはんだが雑だった。1991年には鉛同位体比の分析で、缶のはんだと遺骨の鉛の同位体比が近いという結果も出た。神経症状、判断力の低下、消化器障害。士官たちが不合理な決断を重ねたように見えるのも、これで説明できる、と。

だが反証は多い。まず2013年の研究が、骨の内側と中間と外側で鉛の分布と同位体比を調べ、遠征中に急激な増加があった形跡はない、生涯を通じた曝露である、と結論づけた。要するに、彼らはイギリスを出た時点ですでに鉛まみれだった可能性が高い。

さらに2018年の研究は、決定的に近い。シンクロトロン放射光を使った高解像度の共焦点蛍光エックス線分析で、骨の微細構造単位ごとに鉛の分布を可視化した。三つの仮説が検証された。長く生き延びた者ほど鉛の取り込みが多いはず――否定された。ビーチー島とキング・ウィリアム島の遺骨で分布は似ていた。死の直前に形成された骨組織に鉛が濃縮しているはず――部分的にしか支持されなかった。

そして、同時代の海軍将兵と比べて突出して高いはず――これも否定された。比較対象に使われたのは、カリブ海のアンティグアにある19世紀の英国海軍墓地の遺骨である。結論はこうだ。骨の微細構造における鉛分布のデータは、鉛がフランクリンと乗員の喪失に決定的な役割を果たしたという結論を支持しない。

そもそも当時のイギリスは、社会全体が鉛漬けだった。水道管、食器、飲料容器、白粉、食品着色料。19世紀イギリス人の骨の鉛濃度の標準値というものが存在しない以上、「異常に高い」と言うための基準線がない、という指摘もある。研究者のラッセル・ポッターはこう書いている。トリントンの値は確かに高い、413から657ピーピーエム。

だがブレインは145から280ピーピーエム、ハートネルは183から313ピーピーエムで、はるかに低い。鉛は一部の者には要因だったかもしれないが、遠征全体への影響ははっきりしない、と。

次に、鉛源としての缶詰ではなく給水装置を疑う説がある。エレバスとテラーには1845年の改装で新しい造水装置が入っていた。北極では飲料水を雪や氷を溶かして作る。溶けた雪は極端な軟水で、鉛の配管やタンクを溶かしやすい。しかも蒸気運転時には毎時一トンの真水が必要だったという試算もある。この説の弱点は、単純に証拠がないことだ。両艦の図面には、タンクと配管の材質が明記されていない。

当時鉛が一般的だったから鉛だっただろう、という推論に留まる。船が見つかった以上、いずれ材質そのものを確認できる可能性はある。ただ、前段の2018年の研究が正しければ、鉛源が何であれ鉛は主因ではないことになる。

壊血病説。ビタミンシー欠乏は、19世紀の長期航海の宿敵である。歯茎が腫れて出血し、古傷が開き、腱が縮み、最後は心臓が止まる。三年目の冬なら、レモン汁の効力はとうに落ちている。反証はこうだ。骨に壊血病の所見が出ていない。ただし、この反証には反証がある。壊血病は、いったん回復してビタミンシーが戻ったときに新生骨が作られて初めて骨に痕跡が残る。ずっと悪化し続けて死んだ場合、骨には何も残らない。

だから「骨に証拠がない」ことは「壊血病がなかった」ことを意味しない。実際、1848年以降のフランクリン捜索隊九隊の海軍病床簿を分析した研究では、捜索する側の乗員に壊血病が頻発していた。同じ海域の、同じ時代の、同じ海軍の船で。

結核説。ビーチー島の三人の解剖所見が、この説の柱だ。トリントンの肺には古い結核の瘢痕があった。ブレインには脊椎カリエスの所見があった。当時の海軍の下層甲板は、狭くて湿っていて換気が悪い。結核の温床である。志願した時点ですでに感染していた者も多かっただろう。反証というより限界は、結核だけでは129人全員の死を説明できないことだ。結核はゆっくり殺す病気で、ある集団を三年で全滅させる速度は持たない。

ただし、他の要因と重なったときに致死性を跳ね上げる。

亜鉛欠乏説。2016年に出た、かなり独創的な研究がある。ハートネルの親指の爪を、シンクロトロン蛍光エックス線マッピングと安定同位体分析とレーザーアブレーション質量分析で解析し、1845年6月から1846年1月4日の死までの、金属濃度の時系列を復元した。爪は伸びるので「タイムマシン」になる、という発想だ。結果、鉛は出航一か月後こそ高いが、その後は低いまま安定していた。一方で亜鉛は、極端に低かった。

亜鉛欠乏は免疫を強く抑制する。だから結核に対する抵抗力が崩れたのではないか、と。

これに対する反証も鋭い。2017年に発表された批判は、まず爪が亜鉛欠乏の生体指標として信頼できるかどうか自体が定まっていない、と指摘する。さらに海軍の北極航海用の食料配給を計算すると、亜鉛は十分に足りていたはずだ、とも。そしてハートネルの死の直前に鉛と亜鉛と銅が三つとも指数関数的に増えている点について、別の説明を出した。

組織の異化――要するに体が自分を分解して痩せていく過程で、蓄積されていた金属が血中に放出される。それに加えて、当時の軍医が結核の症状を和らげるために投与していた薬が、亜鉛と銅と鉛を含んでいた。硫酸亜鉛は催吐薬・鎮痙薬として海軍の薬箱に常備され、肺結核の呼吸困難を和らげるために短い間隔で繰り返し投与された。硫酸銅は発熱と下痢に使われた。

つまり爪に記録されているのは、栄養状態ではなく治療の履歴かもしれない、というわけだ。

飢餓説。これは説というより、末期の事実である。エレバス湾のボートに残っていた食料は、茶が少しとチョコレートが40ポンドだけだった。骨には切創があり、骨髄を取るために砕かれ、煮られた痕跡がある。イヌイットの証言は、痩せ衰えた男たちの姿を繰り返し伝える。ただし飢餓は「なぜ」の答えにはならない。北極には食料がある。アザラシがいて、カリブーがいて、魚がいる。イヌイットは何千年もそこで生きてきた。

問題は、105人の集団を養えるほどの獲物を、彼らの技術と装備で獲れなかったことだ。しかも彼らは、獲り方を知っている人々から学ぼうとしなかった。

そして気候説。1846年から47年の冬は、当時としても異常に厳しかったという記録が、周辺の観測から示唆されている。ヴィクトリア海峡の多年氷が、その年に限って解けなかった可能性がある。1847年の夏に氷が緩んでいれば、彼らは南へ抜けていたかもしれない。1848年の夏に緩んでいれば、艦に戻れたかもしれない。反証というより、これは他のすべての要因の増幅装置だと考えたほうがいい。

いまの研究者の多くが取っている立場は、単一原因説の放棄である。鉛は下地としてあった。結核も壊血病も亜鉛欠乏もあった。氷は解けなかった。地図は間違っていた。艦を捨てる決断は遅すぎたか、あるいは早すぎた。そのどれか一つなら生き延びられたかもしれない。全部が重なった。

研究者たちの、なかなか激しい論争

この分野の面白さは、論争が今も生きていることだ。

1991年、カナダ人の航海士デイヴィッド・ウッドマンが「フランクリンの謎を解く――イヌイットの証言」という本を出した。彼のやり方は単純で、しかし当時としては挑戦的だった。イヌイットの証言はすべて、何らかの事実に基づいているはずだ、という前提から出発する。そして19世紀に記録されたまま埋もれていた膨大な証言を、一つずつ地理と時系列に当て込んでいく。

彼の結論は、標準的な物語をかなり壊した。イヌイットは、乗員がまだ乗っているうちに船を訪れていた可能性が高い。一隻が沈むところを実際に見た者もいた。スターヴェーション・コーヴで見つかった遺体は十体に満たない。そして最後の生存者たちがそこを離れたのは1851年――標準的な物語が全員死亡としている年より三年後だ、と。

ウッドマンはビーティーの鉛中毒説にも真っ向から異を唱えた。ちなみに、2014年にエレバスが見つかった海域は、彼が三十年近く主張し続けていた海域だった。

一方で、慎重派もいる。研究者ラッセル・ポッターは、鉛の話に基準線がないことを指摘し続けている。キース・ミラーとエイドリアン・ボウマンは統計モデルで乗員全体の鉛負荷の分布を推定し、絶妙に中立的な結論を出した。一部の乗員はほとんど影響を受けなかっただろう。高い者は相当な障害を受けたかもしれない。だがそれが19世紀イギリスにおいて例外的だったかは不明である。鉛単独では災厄を起こさない。

だが栄養不足や個体差やストレスと相互作用して、一部の者をより脆弱にしたかもしれない。ウィリアム・バタースビーはピーター・カーニーとの共著で給水系統説を推し、両艦の改装の技術的詳細を掘り下げた。

そしてステントンとパーク。彼らのスタンスは、推論よりデータを積む、というものだ。ホブソンの埋もれた報告書を掘り起こして公刊したのもステントンである。パークの言葉が、この界隈の空気をよく表している。「遠征隊が北極へ消えて179年、その最終的な運命への関心はずっと広く続いてきて、多くの憶測的な本や記事を、そして最近では人気のテレビミニシリーズを生んできた。

あれはこの話をカニバリズムを主題のひとつとするホラーに変えた。こういう綿密な考古学研究が示すのは、本当の物語も同じくらい興味深いということ、そしてまだ学ぶべきことが残っているということだ」。

論争にはもうひとつ、倫理の層がある。2014年にエレバスが見つかったとき、当時の首相の公式声明にイヌイットへの言及が一切なかったことが問題視された。何十年も無給で調べ、捜索隊を案内し、公園局と数年にわたって協議していたルイ・カムカクの名前も、そこにはなかった。「イヌイットはずっと場所を知っていた」と全世界の見出しが打つなら、なぜ166年かかったのか。この問いは、いまも刺さったままだ。

その後の制度設計は、少なくとも形の上では変わった。2018年、イギリスは両艦をカナダに正式に譲渡した。最初の65点の遺物はイギリスが保持し、それ以外の遺物と沈船本体はカナダとイヌイットの共同所有となった。2023年3月2日には、カナダ政府とキティクメオト・イヌイット協会が2300万ドル規模のイヌイット影響・便益協定に署名している。

回収された遺物はカナダ公園局とイヌイット文化財団の共同所有であり、オタワで保存処理を受けたあと、ジョア・ヘイヴンのナッティリク文化センターに戻って展示される。地元には「難破船守護者」という制度が作られ、現地のイヌイットが遺跡の監視を担っている。

海の底から出てくるもの

沈船の発掘は、静かにだが着実に進んだ。エレバスは水深11メートルしかない。浅いということは、嵐の影響を直接受けるということだ。2018年には上甲板の一部が浮力と大波でひっくり返った。気候変動で波はさらに強くなる。時間との勝負だった。

2023年9月5日から19日、公園局の水中考古学班は12日間で68回潜った。表面から空気を送る加熱式のスーツを使うので、一回の潜水を何時間も続けられる。二等海尉ヘンリー・ダンダス・ル・ヴェスコントのものと推定される士官室からは、平行定規、無傷の温度計、革の本の表紙、そして真鍮のリールがついた釣り竿が出た。艦長付き従僕の配膳室と推定される区画からは、革の靴底、保存容器、封のされたままの薬瓶。

三等海尉ジェームズ・フェアホルムの船室と推定される場所からは、化石が出た。前年にも同じ船室から出ている。誰かが土産として拾い集めていたのだ。

そして前甲板――乗員の居住区――で、班は長年目をつけていた水兵の私物箱を開けた。中からピストル、軍装品、履物、薬瓶、硬貨。

2024年8月30日から9月13日、13日間で50回潜水。同じ箱の発掘を続け、はんだごて、手袋と靴下、二挺のピストル――箱の中には20挺以上が見えている――直刃の剃刀の巻き束が上がった。艦尾の残骸からは、折り畳まれた長い革のレインコート。下級士官の船室からは、ほぼ完全な形の六分儀。

同じ航海で、班は2019年以来はじめてテラーにも潜り、上甲板を何百枚もの高精細写真で覆って三次元モデルを作った。

そして2025年、公園局は方針を切り替えた。十年以上続けた能動的な発掘調査から、イヌイットと共同で設計した定期的な監視体制へ。新しい研究戦略の策定を支えつつ、遺跡の保存と記念的な完全性を守る、という言い方をしている。同じ年、ナッティリク文化センターに新しい常設展示が開いた。

物語としてのフランクリン

この事件は、事実の話であると同時に、物語の話でもある。

マーガレット・アトウッドが1991年に書いた一文が、よく引かれる。「どの時代も、その時代に見合ったフランクリンを作り出してきた」。

19世紀の彼らにとって、フランクリンは殉教者だった。ウェストミンスター寺院に碑があり、死んでも規律を保った紳士たちの物語だった。だからこそ、レイの報告は攻撃されなければならなかった。1980年代のカナダにとっては、氷から出てきた若者の顔だった。ポップスターのようにメディアに乗った死体だった。2010年代の北極主権論議のなかでは、それは国家プロジェクトになった。首相が発表台に立つ種類の物語に。

そして2007年、ダン・シモンズが「ザ・テラー」という小説を書いた。史実の骨格――越冬、鉛、壊血病、艦の放棄、行進、飢餓――に、トゥーンバクという架空の怪物を交差させた。この怪物はイヌイットの神話に実在するものではない。作者の創作である。

2018年、これがテレビシリーズになった。制作陣は、この点をかなり気にしていた。共同制作総指揮のデイヴィッド・カジガニッチとスー・ヒューは、イヌイット役をすべてイヌイットの俳優に演じさせ、ケンブリッジ湾在住の翻訳者に台詞のイヌクティトゥット語を訳させ、方言まで現地の話者に合わせた。第一話は、遠征から四年後、イヌイットの狩人がイギリス人士官に語る場面から始まる。「歩いている大勢の男たちを見た。

みんな飢えていた」。イヌイットの側の目線で、イギリス人を侵入者として枠づける導入である。制作陣は「これは傲慢さについての物語だ。作り手が同じ傲慢に落ちるわけにはいかない」と言っていた。

それでも批判はある。怪物は結局、白人の作家が作ったものだ。専任のイヌイット歴史文化考証者を有給で雇うことはしなかった。そして皮肉なことに、その適任者は実在していた。ルイ・カムカクである。彼はシリーズの放送が始まる直前、2018年3月に亡くなった。

この受容史そのものが、事件の一部だと思う。180年のあいだ、この物語は何度も作り替えられてきた。誰の視点で語るか。誰を主人公にするか。誰の証言を証拠として数えるか。その配分が変わるたびに、フランクリンは別の話になってきた。

なぜ怖いのか、なぜ終わらないのか

最後に、いちばん答えにくい問いに行きたい。

まず、この話が怖い理由。それは怪物でも呪いでもない。段階的に、順番に、あらゆる手が塞がっていく過程が、克明に想像できてしまうことだ。

彼らは準備万端だった。当時の世界で最高の砕氷船。蒸気機関。暖房。三年分の食料。千冊の図書室。訓練された乗員。「オール・ウェル」と書いた1847年5月の彼らは、まだ何も失っていない。

そこから、ひとつずつ剥がれていく。艦が動かなくなる。夏が来ても氷が緩まない。指揮官が死ぬ。士官がどんどん死ぬ。二度目の夏も氷が緩まない。艦を捨てる。600キロの橇を引く。歩ける者が減る。ボートに二人を残して引き返す。その二人は動けなくなる。40ポンドのチョコレートと五個の時計とスリッパを残して。誰も戻ってこない。

そのあいだ、彼らはずっと自分たちが何をしているか理解していた。書式に几帳面に書き込みをして、日付を入れて、署名した。銀のスプーンを持って行った。聖書に線を引き続けた。最後まで、彼らは自分たちの文明を持ち歩いた。それが救わなかった。

そしてもうひとつ。彼らのすぐそばに、そこで生きていける人々がいた。ネツィリクの人々は同じ土地で何千年も暮らし、アザラシを獲り、雪の家を建て、生肉を食べてビタミンシーを摂っていた。二つの集団は実際に出会っている。クロージャーらしき男が、テントの中で生のアザラシ肉を指二本分ほど食べたという記録さえある。だが彼らは学ばなかった。学べる関係を作らなかった。文明の優劣という前提を、最後まで手放さなかった。

だからこの話は、単なる遭難ではない。認識の失敗の物語なのだ。地図を間違えた。氷を読み違えた。食料の技術を過信した。そして目の前にいた専門家を、専門家として見なかった。

なぜ180年語られ続けるのか。理由は三つあると思う。

ひとつは、記録が一枚しかないこと。空白が大きすぎて、そこにいくらでも物語を入れられる。ミステリーとして、これほど巨大な空欄はそうない。

ひとつは、証拠がいまも増えていること。1859年に紙が出て、1984年に顔が出て、1997年に切創が出て、2014年と2016年に船が出て、2021年から2026年にかけて名前が出た。事件が「解決」せずに更新され続けている。次に何が出るかわからない、という緊張が持続している。

そして最後のひとつが、いちばん重い。この事件は、誰の話を証拠として数えるかという問題を、180年かけて公開実験してしまったからだ。

1854年、20人以上のイヌイットが同じ話をした。イギリスは、彼らを嘘つきと呼んだ。1869年、イヌークプージージュークがボートの中の切り刻まれた骨と、ブーツの中の煮た肉について語った。記録は印刷され、そして無視された。19世紀の口承がテラー湾の船とウークジューリクの船の位置を語り続けた。20世紀の探検家たちは、そこを重点的に探さなかった。

フンマハクが六歳の夏に見た砂利の尾根の話は、ひ孫が五十年かけて他の記録と照合するまで、誰の資料にもならなかった。

そして最後は、こうなった。2014年、船は口承が指す海域で見つかった。2016年、船はサミー・コグヴィクがマストに抱きついた場所で見つかった。1997年、骨の切創がジョン・レイの報告を裏づけた。2024年、その切創のひとつがついた顎骨に、艦長の名前がついた。

イヌイットの証言が、すべて正しかったわけではない。カムカク自身が認めている。ジョン・ロスの話とフランクリンの話が混ざり、アムンセンの話とも混ざる。世代を経れば細部は動く。だが、それは白人の日誌も同じことだ。言葉が通じないまま聞き取った位置情報は、しばしば間違っていた。だから彼は両方を照合した。問題は精度ではなかった。誰の記憶が「資料」として扱われ、誰の記憶が「未開人のおしゃべり」として扱われるか。

その線引きだった。

そして180年後、その線引きのほうが、氷よりも先に溶けた。

フランクリン遠征の話が終わらないのは、129人の死に方がわからないからではない。わかっていたのに聞かなかった、という部分が、まだ終わっていないからだ。だからこの話は、いまも現在形で語られている。

キング・ウィリアム島の西岸には、いまも石を積んだ塚がいくつも残っている。海の底には二隻の船が立っている。まだ13人分以上のディーエヌエーが、名前を待っている。

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