一四〇八年九月十六日、フヴァルセイの結婚式
グリーンランド南部、入り組んだフィヨルドの奥に、フヴァルセイという場所がある。石を積んだ教会の廃墟が、いまでも壁を立てたまま残っている。屋根はない。窓の穴から空が見える。周囲には何もない。対岸の山と、冷たい海と、風だけだ。
一四〇八年九月十六日、この教会で結婚式が挙げられた。
花婿はソルステイン・オーラフソン、花嫁はシグリーズ・ビョルンスドッティル。二人ともアイスランド人で、もともとグリーンランドに来るつもりなどなかった。ノルウェーへ向かう途中で嵐につかまり、流されてここへ辿り着いただけだ。彼らは結局三年も足止めを食い、その間に式を挙げ、一四一〇年にやっとアイスランドへ帰った。
帰国後、彼らは自分たちの結婚が正式なものだと証明するために、当時グリーンランドにいた司祭たちに書面を出させている。一四〇九年から一四二四年にかけての三通の手紙。後日の相続争いを避けるための、ごく事務的な文書だ。
これが、グリーンランドのノルス人について人類が持っている最後の文書記録である。
話の中身は何もない。人が結婚した。それだけだ。危機の記述も、別れの言葉も、逃げる相談もない。普通に祝福されて、普通に日常の一部として記録されている。
そしてその後、四百五十年続いた入植地からの声は、ぴたりと止まる。この静けさが、この話のいちばん怖いところなんだよな。
追放者が見つけた「緑の土地」という詐欺まがいの名前
時間を四百年あまり巻き戻す。
赤毛のエイリーク、本名エイリーク・ソルヴァルドソンは、ノルウェー生まれだった。父が殺人を犯してアイスランドへ逃げ、その子のエイリークもアイスランドで人を殺している。土地の争いとキリスト教以前の血の復讐がぐるぐる回る世界だ。彼は集会で三年の追放刑を言い渡された。
三年間、アイスランドにいられない。普通ならノルウェーに戻るか、ブリテン島周辺に行く。だがエイリークは西へ行った。以前から、アイスランドの西の海の向こうに陸地があるという噂があった。彼は三年間、その地の南西岸を徒歩と船でしらみつぶしに調べて回った。
そしてアイスランドに戻ったとき、彼はその地を「グリーンランド」、つまり緑の土地と呼んだ。
サガはこの命名の動機を、あっけらかんと書いている。良い名前をつければ人がついてくるだろう、と考えたからだと。千年前の不動産広告である。この一行がサガに残っているのが実に良くて、中世の北欧人は自分たちの先祖のこういうところを、別に隠しもしないで記録している。
ただし完全な嘘ではなかった。当時のグリーンランド南西部のフィヨルド奥は、今より温暖で、短い夏には本当に青々とした牧草地が広がった。白樺の低木も生えていた。羊を放し、牛を飼うことは、十分に可能だった。
二十五隻で出て、十四隻が着いた
九八五年ごろ、エイリークは入植希望者を集めてアイスランドを出航した。サガによれば二十五隻。人だけでなく、家畜を積んだ。牛、羊、山羊、馬。鎌や釘や鎖といった金属類、種もみ、家財道具。バイキング時代の貨物船クノルに、できるだけ詰め込んだのだろう。
デンマーク海峡は海が荒い。サガによれば、無事に辿り着いたのは十四隻だった。残りは沈むか、引き返した。
出発時点で四割以上が失われるというのは、現代の感覚では狂気の沙汰だ。だがこれが彼らの普通だった。
上陸した人々はフィヨルドの奥に散って、それぞれの土地を囲った。エイリーク自身は、今のカッシアースクにあたる場所にブラッタリーズという館を構えた。フィヨルドの深い奥、日当たりのいい斜面。入植地一の一等地を、当然のように自分で押さえている。このあたり、さすがに追放刑二回の家系だと思う。
東と西――どこに何があったのか
入植地は大きく二つに分かれた。
一つが東入植地、古ノルド語でエイストリビグズ。島の最南端に近い、現在のクヤレック自治体のあたりだ。エイリークスフィヨルド、イガリクフィヨルドなどに沿って、スカンジナヴィア風の農場がおよそ五百。最盛期の人口は四千人前後と見積もられている。
もう一つが西入植地、ヴェストリビグズ。こちらはずっと北、現在の首都ヌーク周辺である。農場はおよそ九十。人口は千人前後。名前は「西」だが、地図で見ると実際には北である。彼らの感覚では、海岸線を西へ西へ沿って行った先だったということだろう。
二つの間にはさらに小さな中間入植地もあった。全体での総人口は、ピーク時で三千から五千人。その大半が東に集中していた。現代の感覚だと地方の小さな町ひとつ分だが、当時のアイスランドが五万人前後だったことを考えれば、笑えない規模である。
二つの入植地の間は、直線距離でも五百キロ以上。陸路はないので、行き来は船だ。この距離感が、後の悲劇に直結する。
石を積んだ人たちの、意外に立派な暮らし
ノルス人の家は、石と芝土を交互に積んだ厚い壁を持つ。壁厚は一メートルを超えることもある。内側には木を使うが、グリーンランドには建材になる木がほとんどないので、流木と輸入材でやりくりする。炉のある広間の両脇に寝台を並べ、牛舎を家にくっつけて、牛の体温で少しでも暖を取る。
発掘で出てくる道具は、意外なほどヨーロッパ的だ。チェスの駒。ボードゲームの盤。青銅の十字架。ノルウェー製の滑石の鍋。ライン地方で作られたガラス。
そして衣服。フィヨルドの永久凍土に埋まっていた墓地からは、フード付きのマントや、丈の長いドレスが良い状態で出てきている。しかもデザインは、当時のパリやブルゴーニュの流行を追いかけている。
ここだけ見ると、北極圏の辺境にしがみついている集団というより、ヨーロッパのちゃんとした一員という感じがする。彼らは自分たちをキリスト教徒として、ノルウェー王の臣下として、ヨーロッパの規格の中で生きている人間だと考えていた。この自己認識が、後で重い意味を持つことになる。
教会が多すぎる問題
一〇〇〇年ごろ、エイリークの息子レイフ・エイリクソンがノルウェーからキリスト教を持ち帰った。エイリーク本人は最後まで古い神々に義理立てして改宗を拒んだが、妻のシオドヒルドは改宗し、ブラッタリーズに小さな教会を建てた。この芝土の教会の基礎は実際に発掘されていて、十五人も入れば一杯の大きさだったと分かっている。
問題はその後だ。一一二四年、ノルウェー王がアルナルドという司祭を初代司教として送り込む。司教座はガルザル、現在のイガリクに置かれた。ここから、共同体の規模に全く見合わない巨大な石造教会が次々と建てられるようになる。東入植地だけで十六の聖堂跡が確認されている。
ガルザルの司教館跡には、大聖堂の基礎と、牛を百頭単位で収容できる巨大な牛舎の跡が残っている。さらに発掘では、セイウチの頭骨がまとめて埋められているのが見つかった。牛の数も、セイウチの頭も、この島では富の単位だ。司教は信仰の長であると同時に、地元最大の地主であり輸出業者だった。
十分の一税も取られた。ローマへの十字軍費用の貢納記録に、グリーンランドの名前が出てくる。現金がないので、納めるのはセイウチの牙とホッキョククジラの皮。バチカンの会計は遠い北の島から届いた牙の山を、さぞかし持て余しただろう。
ヴィンランドへ――一〇二一年という数字が出た話
グリーンランドは行き止まりではなかった。さらに西へ、つまり北アメリカへも彼らは行っている。
サガによれば、一〇〇〇年ごろにレイフ・エイリクソンが西へ航海し、平らな石の地ヘルルランド、森の地マークランド、そして葡萄の実る地ヴィンランドを見つけた。後にソルフィン・カルルセフニと妻グズリーズらが本格的な入植を試みたが、数年で引き揚げている。
このサガの記述が実話だったことが確定したのは一九六〇年だ。ノルウェーの探検家ヘルゲ・イングスタッドと、考古学者である妻のアンネ・スティーネが、カナダのニューファンドランド島最北端のランス・オ・メドーで、北欧式の建物跡八棟と、鉄を鍛えた作業場の跡を見つけた。規模は八十から百人程度、使われたのはせいぜい二、三年。定住地というより、さらに南へ行くための中継基地だったと見られている。
そして二〇二一年、この遺跡の年代にとんでもない精度が与えられた。
西暦九九三年に地球を包んだ巨大な宇宙線イベントが、世界中の樹木の年輪に同じ年のマーカーを残している。遺跡から出た木片の年輪を数えて、そのマーカーから外側へ何本あるかを見れば、伐採年が一年単位で分かる。答えは一〇二一年。コロンブスより四百七十一年早く、ヨーロッパ人がアメリカ大陸で木を切っていた日が、ピンポイントで確定した。
見落とせないのは、この往来が一回で終わらなかったことだ。アイスランド年代記には一三四七年、マークランド、現在のラブラドル半島からの帰りに漂流したグリーンランド船がアイスランドに流れ着いた、という記事がある。入植地が消える百年前まで、彼らは木材を取りに北アメリカへ通っていた。
スクレリングと呼ばれた人たち
サガは、ヴィンランドで出会った先住民を「スクレリング」と呼ぶ。良い言葉ではない。「ちびたもの」「叫ぶもの」といった意味合いだとされる。
サガの記述は生々しい。最初は交易だった。スクレリングたちは毛皮を持ってきて、ノルス人の乳製品や赤い布を欲しがった。ところがあるとき、ノルス人の雄牛が鳴いて暴れ出し、驚いた先住民が逃げ帰り、次に戻ってきたときには武器を持っていた。衝突で何人かが死ぬ。ノルス人は自分たちが少数であることを悟って、最終的に引き揚げた。
この「スクレリング」が誰だったのかは、場所と時代で違う。北アメリカでは先住のインディアン諸集団だったはずだ。グリーンランド周辺で彼らが出会ったのは、先にいたドーセット文化の人々と、十二世紀ごろからアラスカ方面から東進してきたトゥーレ文化の人々だ。トゥーレ人が現代のイヌイットの直接の祖先にあたる。
トゥーレ人の技術は、北極に特化している。カヤック、アザラシの皮を張った大型船ウミアク、回転式の銛、アザラシの呼吸穴を待ち伏せる狩り、雪を切って作る宿。
ノルス人はこれをほとんど取り入れていない。深刻なのは、ノルス人の遺跡からイヌイット系の道具がほとんど出ない一方で、イヌイット側の遺跡からはノルス由来の金属片や織物の断片がちらほら出ることだ。交流はあった。だが一方通行に近い。ノルス人は、隔てていた。
白い金――セイウチの牙という一本足打法
では、この島の経済は何で回っていたのか。答えはセイウチの牙だ。
中世ヨーロッパには象牙が入ってこない。イスラーム勢力が地中海を押さえていたからだ。だが象牙の需要はある。十字架、聖母像、写本の表紙、チェスの駒、剣の柄。そこへグリーンランドから、セイウチの牙が届く。色も硬さも象牙に近い。代替品ではなく、一級品の材料だった。
どのくらい高く売れたか。一三二七年の記録を使った試算がある。セイウチ二百六十頭分の牙を積んだ船一隻の価値が、アイスランドの四千近い農場が六年かけて生産する毛織物の合計を上回ったという。数字の見積もりには幅があるにせよ、桁の違いは伝わる。
だから彼らは、とんでもない無理をした。
セイウチの群れがいるのは、東入植地から北へ千キロ近くのディスコ湾周辺である。彼らはこの狩場をノルズルセータと呼んだ。短い夏の間に小さな船で北上し、流氷の間を抜け、上陸してセイウチを殺し、頭ごと切り取って持ち帰る。往復で数か月。共同体の壮年男子を大量に抜かれる。
このリスクを毎年背負って、やっとヨーロッパとの銀の線を繋いでいた。
牙のDNAが語った、独占と崩壊
二〇一八年、この交易の実態をひっくり返す研究が出た。ケンブリッジ大学とオスロ大学のジェームズ・バレット、サンネ・ベッセンクール、バスティアン・スターらによる、古代DNAの論文だ。
彼らが目をつけたのは、象牙工房の削り屑だった。トロンハイム、ベルゲン、オスロ、ダブリン、ロンドン、シュレスヴィヒ、シグチューナ。中世の交易都市の地層から出る、セイウチの鼻先の骨の切り落とし。彫刻作品本体を傷つけずにDNAを取れる。
セイウチには大きく二つの系統がある。北極に広く分布する東系統と、グリーンランドとカナダの間にしかいない西系統。分析の結果、初期のヨーロッパの象牙は東系統が中心だったのに、十二世紀以降はほぼ完全に西系統に入れ替わっていた。つまり、ヨーロッパのセイウチ牙市場は、一時期グリーンランドがほぼ独占していた。
もう一つ、不吉なデータがある。時代が下るにつれて、市場に出てくる牙のサイズが小さくなっていく。雌や若い個体の牙が増えている。大きな雄から順に狩り尽くした結果だ。
彼らは単一商品に依存しながら、その商品の資源を自分で削っていた。
象牙市場の梯子が外れる
そこへ致命的なことが起きる。アフリカ象牙の復活だ。
十三世紀後半から、イエメンやエジプト経由の交易路が再び開き、アフリカの象牙がヨーロッパに大量に流れ込む。パリの工房はこれを使って、とてつもなく繊細な彫刻を量産し始める。
象の牙は大きい。セイウチの牙は二十五センチから五十センチ程度で、中にはバターのような軟らかい芯がある。大きな作品は作れない。品質でもサイズでも、負けた。
ファッションも変わった。十四世紀にはヨーロッパの富裕層の趣味が移り、象牙彫刻そのものの流行も冷めていく。グリーンランドは一本足打法の、その一本の足をへし折られた。
代わりの輸出品はあったのか。ホッキョククジラの皮、アザラシの皮、ワットマルと呼ばれる粗い毛織物。どれもある。だが、どれも安い。北極を千キロ往復して採ってくる価値のある商品としては、牙の代わりにはならなかった。
商売として見ると、この入植地は十四世紀の段階ですでに詰んでいる。
一二六一年、王様の傘に入る。そして傘が消える
一二六一年、グリーンランドの住民はノルウェー王ハーコン四世に忠誠を誓った。自由な入植地から、王国の一部になった。アイスランドもその二年後に同じ道を選んでいる。
見返りとして期待されたのは、定期便だ。王は、毎年船を送ると約束した。その代わり、交易は王室の独占になる。自由に商売していいわけではなくなった。
この取引が、後に毒になる。
一三六九年、グリーンランド交易専用の王室船クノルが沈没した。そして代船は、すぐには作られなかった。以後、グリーンランドに到着したことが確認できる航海は、数えるほどしかない。交易を王室が独占した結果、王室が動かなくなったときに代替手段がない。自由商人はもうこのルートを知らない。
鉄も、建材も、上質な布も、ワインも、全部船で来ていた。その船が来なくなる。五千人の共同体が、年に一度の宅配便を前提に回っていて、それが止まった。
一三五〇年ごろ、イーヴァル・バルダルソンが見た無人の村
ここで、この謎の中心にある場面が登場する。
一三四〇年代、ノルウェーのベルゲン司教が、イーヴァル・バルダルソンという聖職者をグリーンランドに送った。ガルザル司教座の管理人、つまり代理としての赴任である。彼は十数年をこの島で過ごし、帰国後にグリーンランドの地理と現状をまとめた報告書を口述した。写本で伝わるこの文書は、当時の入植地を内側から描いた、ほとんど唯一の資料だ。
その中に、こういう記述がある。
西入植地にスクレリングが侵入しているという知らせを受け、一団を率いて船で北へ向かった。ところが到着してみると、スクレリングもいなければ、ノルス人もいなかった。建物は立っている。だが人はひとりもいない。残されていたのは、野放しになった家畜だけだった。彼らはできるだけの家畜を船に乗せて帰った。
この一節は、このテーマのあらゆる本で引用される。情景があまりにも強いからだ。人のいない家。風の音。野良化した牛と羊。争った形跡もなければ、遺体もない。住人だけが抜けている。
ただ、この記述にはちゃんと反論もある。歴史家キルステン・シーヴァーらは、バルダルソンが何者だったかを思い出せと言う。彼は本国から来た、十分の一税を取り立てる側の役人だ。周辺の小さな入植地が、彼の船を見て山に隠れた可能性だってある。さらに、彼の報告書は写本でしか伝わらず、後世の加筆が混じっていることも知られている。あの有名な一節が、どこまで彼自身の言葉なのかは、実は確定していない。
それでも、西入植地が十四世紀の中ごろに消えたのは考古学的には確かである。人がいなくなったのは事実。問題は、どこへ行ったのかだ。
一三七九年、十八人が殺された
アイスランド年代記に、短いが物騒な記事がある。一三七九年、スクレリングがグリーンランド人を襲い、十八人を殺し、少年二人を捕らえて奴隷にした。
たった一行だ。場所も書いていない。だがこの一行が、「イヌイットに滅ぼされた説」の根拠として数百年ぶん引用され続けている。
冷静に見ると、この記事は説の根拠としてはかなり弱い。十八人は確かに大きな損害だが、共同体を消すには足りない。むしろ注目すべきは、一三七九年の時点でノルズルセータ方面での接触が武力衝突になるほど密になっていた、という事実のほうだ。狩場が重なっていたのだろう。トゥーレ人は南下し、ノルス人は北上し、同じアザラシとセイウチを追っていた。
イヌイット側の口承にも、ノルス人との戦いの話は残っている。十八世紀に宣教師ハンス・エーゲデが採録したものが有名で、ノルス人が先に襲ってきたという筋のものも、逆のものもある。ただし口承は数百年を経ており、しかも聞き取った側がノルウェー人宣教師だ。どこまで史実の反映かは、正直わからない。
そして考古学的には、大規模な虐殺の痕跡は見つかっていない。焼かれた集落も、まとめて埋められた遺体も出てこない。武器で殺された痕のある骨も、統計的に有意な数ではない。「殺された説」はドラマとしては強いが、証拠が薄い。
黒死病と、来なくなった船
一三四九年、黒死病がノルウェーのベルゲンに上陸した。船で来た。港町から内陸へ広がり、ノルウェーの人口の半分から三分の二を奪ったとされる。国そのものが機能不全になった。造船の職人も、船乗りも、商人も、大量に死んだ。
グリーンランドにペストが到達した証拠はない。皮肉なことに、あまりに遠すぎて、船が来なさすぎて、病気も来なかった。
だが影響は致命的だった。彼らの生命線であるノルウェーとの航路の、向こう側が壊れたからだ。
一四〇二年から一四〇四年にかけては、アイスランドもペストに襲われている。人口の半分近くが死んだと言われる。北大西洋のネットワークの中継点が、次々に灯を落としていく。
さらにこの時期、ノルウェーはデンマークとの同君連合、そして一三九七年のカルマル同盟へと組み込まれていく。政治の重心は南のコペンハーゲンへ移る。北大西洋の遠い植民地に船を出すという政策は、優先順位のいちばん下へ落ちた。
誰も悪意を持って見捨てたわけではない。ただ、忘れられていったのだ。
骨が語る食卓――八割がアザラシ
では現地の人々は、その間どうやって食っていたのか。ここに、この研究分野でいちばん美しいデータがある。
デンマーク国立博物館のイェッテ・アルネボリや、コペンハーゲン大学のニールス・リュネルップらのチームが、グリーンランドの墓地から出た人骨、およそ百十八体を安定同位体分析にかけた。骨のコラーゲンに含まれる炭素と窒素の同位体比を測ると、その人が生前、陸のもの(牛・羊・山羊)と海のもの(アザラシ・魚・海鳥)をどんな比率で食べていたかが分かる。
結果は劇的だった。
入植初期、十世紀から十一世紀の人骨は、海産物の比率がおよそ三割から四割。ヨーロッパの農民とそう変わらない、牧畜中心の食生活だ。ところが時代が下るにつれて、海産物の比率がじりじり上がっていく。そして最終盤、十五世紀に近い骨では、およそ八割が海のものになっている。
つまり彼らは、最後はほとんどアザラシを食べて生きていた。
牛や羊は、もう食卓の脇役でしかない。それでも彼らは、牛を飼うのをやめなかった。ガルザルの巨大な牛舎は最後まで使われていた形跡がある。栄養のためというより、たぶん「自分たちが何者か」の証明としての牛だ。ヨーロッパ人は牛を飼う。だから牛を飼う。
このデータは、後で出てくる大きな論争の弾薬になる。
小氷期という定番の犯人
長年、消滅の主犯とされてきたのが気候の寒冷化、いわゆる小氷期だ。
中世温暖期と呼ばれる時代がおよそ九世紀から十三世紀まで続き、北大西洋は比較的穏やかだった。だからこそエイリークたちは渡れたし、南グリーンランドで牧草が育った。ところが十三世紀後半から気温が下がり始める。一二五七年にインドネシアのサマラス山が超巨大噴火を起こし、成層圏に大量の硫酸エアロゾルを撒いた。ヨーロッパの年代記に飢饉と異常気象の記録が急増するのはこの直後だ。
寒くなると何が起きるか。
まず海氷が増える。グリーンランド東岸に沿って南下する海氷が厚くなり、従来の航路が使えなくなる。中世の航海指南書には、十四世紀ごろから「古い航路をたどると氷に閉じ込められる」という警告が入るようになる。
次に牧草が育たなくなる。グリーンランドの牧畜は、短い夏に刈った干し草で長い冬を越す仕組みだ。夏が一週間短くなるだけで、越冬できる家畜の頭数が減る。減った家畜は減った肥料になり、翌年の牧草がさらに減る。負の連鎖に入る。
さらに永久凍土の層が厚くなり、そもそも土壌が痩せる。ノルス人は薄い表土を放牧で削り、風食を招いた。この土壌侵食は、実際に地層に記録されている。
二〇二二年、「寒さじゃなくて水だった」説
ところが二〇二二年、この定番の犯人像に横やりが入った。
マサチューセッツ大学アマースト校のボヤン・ジャオ、レイモンド・ブラッドリー、アイラ・カスタニェーダらのチームが、東入植地のイガリク近郊にある湖、研究上「Lake 578」と呼ばれる湖の底の堆積物を、二千年ぶん掘って分析した。
使ったのは二種類のバイオマーカーだ。一つはBrGDGTという細菌由来の脂質で、これが当時の気温を教えてくれる。もう一つは植物の葉の表面のワックスに含まれる水素同位体で、これが乾燥の度合いを教えてくれる。
出てきた結果が意外だった。ノルス人が住んでいた四百五十年のあいだ、この地域の気温はほとんど変わっていない。下がっていないのだ。代わりに、じわじわと乾燥が進んでいた。
干ばつは、寒さより地味だが、牧畜にとってはむしろ致命的でありうる。牧草が育たなければ干し草が確保できない。干し草がなければ冬に家畜が死ぬ。しかも乾燥は年単位ではなく世紀単位でゆっくり進むので、住人には「なんとなく毎年少しずつ苦しい」としか感じられない。気づいたときには手遅れというタイプの災害だ。
この研究は当然、反論も浴びている。湖ひとつのデータで入植地全体を語れるのか。乾燥の推定に使った指標が本当に降水量を反映しているのか。ただ、少なくとも「小氷期で寒くなって死んだ」という単純な物語は、もう素朴には言えなくなった。
ジャレド・ダイアモンドの叱責と、その後の反撃
日本語圏でこの話を知っている人の多くは、たぶんジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』(邦訳は楡井浩一)で出会っている。二〇〇五年の本で、上巻の相当部分がグリーンランドのノルス人に割かれている。
ダイアモンドの筋書きはこうだ。
ノルス人は文化的な硬直によって滅んだ。彼らはヨーロッパ式の牧畜と農耕に固執し、脆い北極の土壌を家畜で破壊した。目の前の海に魚が泳いでいるのに、魚をほとんど食べなかった。隣に住んでいるイヌイットは、同じ環境で立派に生き延びる技術を持っていたのに、彼らを「異教徒の野蛮人」として見下し、何ひとつ学ばなかった。教会に資源を注ぎ込み、司教は象牙を輸出し、共同体は餓えた。
要するに、自分たちのアイデンティティを守ろうとして死んだのだ、と。
物語としては強烈だし、現代への警句としてよくできている。だからこの本は世界的なベストセラーになった。
だが専門家の反応は、控えめに言っても冷ややかだった。ハンター・カレッジのトマス・マクガヴァン、デンマーク国立博物館のイェッテ・アルネボリ、キルステン・シーヴァー、ジョエル・ベアグルンドといった、実際にグリーンランドを掘ってきた研究者たちが、次々に異議を唱えた。
最大の反論は、さっきの同位体データだ。彼らは適応していた。最後には食料の八割を海から取っていた。これは「変われなかった」人々の数字ではない。むしろ、四百五十年かけて食生活を根本から作り変えたという、すさまじい適応の記録だ。
魚を食べなかった、という話にも突っ込みが入った。ノルス人の遺跡から魚の骨が少ないのは事実だが、魚の骨は小さくて脆く、古い発掘では篩にかけていないから拾えていない可能性が高い。加えて、彼らは海獣を大量に食べていた。海の資源を無視していたわけではまったくない。
イヌイットに学ばなかった、という点も微妙だ。トゥーレ人がグリーンランド南部に本格的に到達したのは、ノルス人の衰退がかなり進んだ後という見方もある。学ぶ相手が隣にいた期間は、思ったより短かったかもしれない。
「砂の下の農場」が示した、片付けられた家
西入植地に、考古学者たちが「砂の下の農場」と呼ぶ遺跡がある。氷河から流れ出た川の砂に丸ごと埋もれ、永久凍土に閉じ込められていたおかげで、木材も布も毛髪も残った、奇跡的な保存状態の農場跡だ。一九九〇年代に本格的に発掘された。
ここで発見されたのは、パニックの痕跡ではなかった。むしろ逆だ。
使える道具はきちんと持ち出されている。家畜の骨の散らばり方から、最後の冬に犬や仔牛まで食べたらしいことは分かるのだが、それとは別に、ある部屋だけが妙にきれいだった。掃き清められていて、家畜が入った形跡もない。まるで、出ていく前に片付けたかのように。
アルネボリはこれを「秩序ある撤退」の証拠と読む。西入植地の人々は、殺されたのでも凍え死んだのでもなく、荷物をまとめて船で出ていった。行き先はたぶん東入植地だ。だとすると、イーヴァル・バルダルソンが見た「家畜だけが残った村」は、悲劇の現場ではなく、引っ越しの数年後の空き家だったことになる。
もう一つ、この分野で有名な指標がある。イエバエだ。
イエバエは寒冷地では自然状態で越冬できず、暖房された人家の中でしか生きられない。だから遺跡の地層からイエバエの遺骸が消える層が、その家に人が住まなくなった年代の目印になる。ハエが消えた瞬間が、火の消えた瞬間だ。この指標を使うと、農場ごとの終わりの時期がかなり細かく追える。
どうやって消えたのか――四つの筋書き
さて、いよいよ本題だ。東入植地の四千人は、どこへ行ったのか。主な説を、ひとつずつ見ていく。
一つ目、飢えて死んだ説。 いちばん素朴で、いちばん長く信じられてきた。寒冷化と干ばつで牧草が枯れ、家畜が死に、狩りも不漁になり、じりじり餓死した。根拠は、最後期の骨に見られる栄養状態の悪化と、体格の縮小、そして最後の農場で犬や仔牛まで食われた痕跡だ。弱点は、大量の遺体が出てこないこと。
飢餓で全滅した共同体なら、埋葬しきれずに放置された遺体が出そうなものだが、教会墓地はきちんと使われた形跡のまま終わっている。
二つ目、海で死んだ説。 トマス・マクガヴァンが近年主張しているものだ。彼らの食料の八割は海から来ていた。つまり成人男性の大半が、毎年、危険な海に出ていた。ある年の狩りの季節に、大きな嵐が来る。船が何隻もまとめて沈む。共同体から働き盛りの男が一気に消える。マクガヴァンが引き合いに出すのは一八八一年のシェトランド諸島の漁業惨事で、あの日、ある村では男と少年の八割が海で死んだ。
人口五千の共同体で同じことが起きたら、翌年の狩りも、翌年の干し草刈りも、成立しない。復元不能な打撃になる。
三つ目、船で去った説。 コペンハーゲン大学のニールス・リュネルップらが推す、いちばん地味な説だ。人はうまくいかない場所からは出ていく。ドラマも事件もいらない。毎年、数家族ずつ船に乗って、アイスランドへ、ノルウェーへ、あるいはどこかへ移っていく。それが五十年続けば、村は空になる。歴史記録に残らないのは、当たり前だ。移民は普通、記録されない。
この説の弱点は、大量の移住者を受け入れたはずのアイスランドやノルウェー側にも、それらしい記録がないことだ。ただし当時の北欧は黒死病で人口が激減しており、空き家はいくらでもあった。数百人が紛れ込んでも誰も気に留めなかっただろう、という反論も成り立つ。
四つ目、イヌイットに同化した説。 一三七九年の襲撃記事とは逆に、混血して溶けたという説だ。ロマンとしては最高に美しい。だが、これは分が悪い。現代のグリーンランド・イヌイットの遺伝子を調べても、中世ノルス人由来と明確に言える成分はほとんど検出されていない。文化的にも、イヌイット側にノルス人の言語や信仰の痕跡は残っていない。物のやりとりはあった。血のやりとりは、あったとしてもごく少数だった。
このほかに「アメリカ大陸へ移った説」もある。十九世紀のアメリカで、ノルウェー系移民たちのあいだで大流行した。一八九八年にミネソタ州で見つかったケンジントン・ルーン石、一三六二年の日付とルーン文字が刻まれた石板が「証拠」として持ち出されたが、これは現在ほぼ贋作と見なされている。とはいえ、マークランドへの航海が一三四七年まで続いていた以上、「西へ行った家族がいなかった」と断言することもできない。
この曖昧さが、この説をいつまでも生かしている。
一七二一年、宣教師が誰もいない海岸に立つ
物語の締めに、ひとりの人物を置きたい。
ハンス・エーゲデ。ノルウェー人のルター派宣教師である。彼は青年期に、グリーンランドに古いノルス人の入植地があったという話を読んだ。そして考えた。あそこにはまだ子孫が住んでいるはずだ。彼らは中世のままカトリックを信じ、宗教改革を知らずに何百年も取り残されている。誰かが行って、正しい信仰を伝えなければならない。
彼はこの思いつきに人生を捧げた。何年もかけてデンマーク王と商人から資金を集め、一七二一年、家族と数十人を連れてグリーンランドへ渡った。
そして、誰もいなかった。
彼が見つけたのは、崩れた石壁と、草に埋もれた教会の跡と、イヌイットの人々だった。ノルス語を話す人間は一人もいない。三百年前に途絶えていたのだ。エーゲデはグリーンランド中の海岸を探し回り、廃墟を記録し、それでも見つけられなかった。
彼は結局、その場に留まった。イヌイットの言語を学び、伝道所を建てた。それが今日のヌーク、グリーンランドの首都である。
三百年前に消えた人々を探しに来た男が、そのまま新しい町の創始者になった。ちなみにこのヌークは、かつての西入植地とほぼ同じ場所だ。イーヴァル・バルダルソンが無人の家々を見た土地に、三百七十年後、別のノルウェー人が上陸して、また家を建てた。
現地に行った人たちの話
いくつか、現地の話を置いておく。
二〇一七年、この一帯は「クヤータ・グリーンランド――氷冠縁辺部におけるノルス人とイヌイットの農業景観」としてユネスコ世界遺産に登録された。構成資産は五つ。カッシアースクのブラッタリーズ、イガリクのガルザル、フヴァルセイなどが含まれる。世界遺産としては珍しく、遺跡だけでなく、いまも羊を飼っている現役の牧場が景観の一部として登録されている。
千年前と同じ場所で、同じことをやっている人がいる、という理屈だ。
フヴァルセイを訪れた日本人旅行者の記録がある。
カコートクの町から小型ボートで四十分ほど、フィヨルドを進む。着くのは桟橋のない浜で、岩を跨いで上陸する。丘を少し登ると、いきなり教会の壁が現れる。高さ六メートルほどの石積みが、四方ともほぼ完全な形で立っている。屋根と床がないだけだ。「思ったよりずっと小さい」というのが第一印象だったという。
中に入って立つと、天井のない長方形の空間に、風が吹き抜ける。ガイドは「ここで一四〇八年に結婚式がありました。それがこの島から届いた最後の便りです」と言い、そのあと全員が数分黙った、と書いていた。周囲には羊の糞が落ちていて、ときどき本物の羊が近づいてくる。
もう一人、ブラッタリーズことカッシアースクを訪れた人の記録。ここは赤毛のエイリークの館の跡で、いまは復元されたシオドヒルドの教会と長屋が建っている。芝土を積んだ低い建物で、中は暗く、天井も低い。冬にここで何か月も過ごすことを想像すると気が滅入る、と正直に書いてあった。
目の前のフィヨルドの対岸には、いまのナルサルスアク空港がある。エイリークが上陸した入江に、いま飛行機が降りてくる。その落差が妙に効いた、とその人は書いていた。
三つ目は、発掘に関わった研究者の証言だ。永久凍土に埋もれた墓地を掘ると、木の棺の中の遺体が、髪も服も残ったまま出てくることがある。ある調査では、小柄な女性の遺体が、フードのついた織りのマントを着たまま見つかった。仕立ては当時のヨーロッパの流行そのままだった。
掘った側の感想はこうだったという。地球の果ての、氷の張った土の中で、彼女はきちんとおしゃれをしていた。彼らは最後まで自分たちをヨーロッパ人だと思っていたのだ、と。
ネットでの語られ方
日本語圏でこの話が回るときのパターンも、ざっと押さえておきたい。
いちばん強いのは、やはり「フヴァルセイの結婚式が最後の記録」というフレーズだ。これは異様に刺さる。事件でも災害でもなく、幸せなイベントが最後の便りになっている、という構図が効く。オカルト板でもまとめサイトでも、この一行だけが独り歩きして拡散する。
次に多いのが『文明崩壊』経由の「環境破壊で滅んだ教訓」型。二〇〇〇年代後半から二〇一〇年代にかけて、環境の話題のたびに引用された。近年は「あれ、専門家からはけっこう叩かれてるらしい」という訂正情報のほうが回るようになってきて、ネットの自浄作用がゆっくり働いている珍しい例になっている。
三つ目が「イヌイットに殺された」「実はアメリカへ渡っていた」といった陰謀寄りの語り。ケンジントン・ルーン石とセットで語られることが多い。
そして最近増えたのが、二〇二二年の干ばつ説をもとにした「実は寒さじゃなかった」型と、二〇一八年のセイウチDNA研究をもとにした「単一商品依存で滅んだ経済ミステリー」型。後者はビジネス系のアカウントが好んで引用する。北極の入植地の話が、いつの間にか事業ポートフォリオの教訓として語られている。それはそれで面白い変形だと思う。
なぜこの話は、これほど怖いのか
最後に、なぜこの消失がこんなに人を掴むのかを考えたい。
一つは、消え方が静かすぎることだ。滅亡というと、普通は炎とか、疫病とか、侵略軍を想像する。だがここにあるのは、結婚式の記録と、そのあとの沈黙だけだ。誰も助けを呼ばなかった。少なくとも、呼んだ記録が残っていない。呼んでも届かなかったのかもしれない。この「叫び声がない」というのが、なにより不気味なんだよな。
二つ目は、彼らが我々に似ていることだ。彼らは原始人ではない。教会を建て、税を納め、パリの流行を追った服を着て、チェスを指していた。文字を持ち、法を持ち、記録を残していた。それでも消えた。文明の水準は、消滅を防いでくれない。
三つ目は、時間の尺度だ。四百五十年。日本で言えば戦国時代から現在までとほぼ同じ長さである。その間、何世代もの人間が生まれ、恋をし、喧嘩し、死んだ。彼らにとってグリーンランドは「先祖代々の故郷」であって、辺境の実験場ではない。故郷が住めなくなるという事態が、こんなにゆっくり、こんなに確実に進むことがある。
四つ目は、答えが出ないことだ。遺体もない、遺書もない、目撃者もいない。あるのは骨の同位体比と、湖の泥と、消えたハエの層だけだ。我々は間接証拠から、消えた四千人の最後の数十年を再構成しようとしている。そして、たぶん永久に確定しない。
消滅の説明は、いつもその時代の不安を映してきた
ここまで書いてきて改めて思うのは、この話の面白さは「答えが出ないこと」そのものにあるのではなく、「答えが出ない理由が毎回変わってきたこと」にある、ということだ。研究史をたどると、消滅の説明はきれいに時代の流行を映している。
十八世紀から十九世紀にかけては、「イヌイットに滅ぼされた」が主流だった。植民地時代のヨーロッパ人が、未開の原住民に襲われる白人入植者という図式を持ち込んだ。
二十世紀前半には「退化説」が幅を利かせる。孤立と近親交配で身体的に衰えて滅んだ、という話で、当時の優生学の空気がそのまま出ている。実際に人骨の身長が縮んだという主張が繰り返されたが、後の再検討で統計的にほとんど支持されなくなった。
二十世紀後半には気候学の隆盛とともに「小氷期説」が定番になり、二十一世紀に入ると「環境破壊と文化的硬直」というダイアモンド流の説が世界的に広まった。そしていまは、グローバル経済の時代らしく「単一商品市場の崩壊」と、気候科学の精緻化を反映した「干ばつ説」が前線にいる。
つまり我々は、いつも自分たちがそのとき恐れているもので、この消失を説明してきた。侵略が怖い時代には侵略、退化が怖い時代には退化、環境が怖い時代には環境、市場が怖い時代には市場。
これは学問の恥ではなく、むしろこのテーマが「その時代の不安を映す鏡」として機能してきたということだ。だからこの話は死なない。何が起きたか分からないぶん、いつでも今の話にできる。
いま組み立てられる、いちばん退屈でいちばんそれらしい筋書き
そのうえで、現在いちばん説得力のある像を自分なりに組み立てると、こうなる。単一の犯人はいない。同時多発の複合破綻だ。
まず十三世紀後半から十四世紀にかけて、経済の柱だったセイウチ牙が、アフリカ象牙の流入と趣味の変化で市場価値を落とす。同じ頃に狩り尽くしが進み、一頭あたりの収穫も落ちる。収入が減れば、輸入していた鉄や木材や布が買えなくなる。鉄がなければ鎌が作れず、干し草の生産が落ちる。
そこへ乾燥化と寒冷化が重なり、越冬できる家畜が減る。一三六九年に王室船が沈み、一三四九年からの黒死病でノルウェー側の余力が消え、定期便が事実上止まる。
孤立した共同体は、食料の八割を危険な海の狩りに依存する構造に移行する。この構造は効率的だが脆い。悪い年が二年続けば、あるいは船が何隻かまとめて沈めば、一気に人手が足りなくなる。人手が足りなければ狩りも干し草刈りもできない。
そこで判断力のある家族から順に、船に乗って出ていく。残った者は減り、共同体としての機能を失い、最後の数十人がどこかの農場で終わる。
この筋書きの良いところは、遺体が出てこないことも、片付けられた家が見つかることも、同位体データも、全部説明できることだ。悪いところは、面白くないことである。誰も悪くない。誰も殺されていない。ただ、条件が一つずつ抜けていって、最後に人が居なくなった。ミステリとしては拍子抜けだが、たぶん現実はこういう形をしている。
四百五十年もったことを、失敗と呼べるのか
もう一つ書いておきたいのは、この話を「愚かな失敗」として消費することへの違和感だ。
ダイアモンドの本が広まったせいで、「彼らは適応しなかったから滅んだ」という教訓話が定着してしまった。だが実際の彼らは、四百五十年もったのだ。
北緯六十度の氷の島で、鉄も木も自給できず、最寄りの町まで船で数週間かかる場所で、四百五十年。ヨーロッパの多くの王朝より長い。しかも食生活を根本から作り変え、狩猟技術を発展させ、千キロ北まで遠征する遠洋の運用体制を維持し続けた。
これは失敗の物語ではなく、途方もない成功が最後に力尽きた物語だと思う。
そして彼らが手放さなかったものについても、少し弁護しておきたい。牛を飼い続けたこと。身の丈に合わない石造教会を建てたこと。パリ風の服を着ていたこと。これらは経済合理性からすれば全部無駄だ。
だが、共同体を共同体として保つのは、たいてい経済合理性ではない。「自分たちは何者か」という物語が切れた瞬間に、人は集団でいる理由を失う。彼らは最後まで、自分たちがヨーロッパのキリスト教徒であるという物語を握りしめていた。それが彼らを殺したのか、それとも四百五十年もたせたのか。たぶん両方だ。
イヌイットに学ばなかった、という批判についても一言。あれは技術の問題である以上に、世界観の問題だったのだろう。カヤックを採用するというのは、単に便利な道具を借りることではない。狩猟採集を軸にした暮らしへ、生活の全体を組み替えることだ。牧場と教区と教会と司教座と十分の一税でできている社会を、全部畳んで組み直すという話になる。
それは「賢明な適応」というより、自分たちが誰であるかをやめる決断に近い。現代の我々だって、自分たちの生活様式が持続不可能だと数字で示されても、そう簡単には畳まない。彼らを笑える立場ではないと思う。
牙を抜いたあとの、頭骨の山
最後に、いちばん心に残る細部を挙げておく。
ガルザルの司教館の発掘で、セイウチの頭骨がまとめて埋められているのが見つかっている。牙を抜いた後の、要らない頭だ。何十個も、きちんと並べて。あれは輸出品を仕分けした作業場の跡なのだろう。
北の海で命がけで獲って、千キロ運んで、牙だけ抜いて船に積んで、残りを埋めた。その船が来なくなった日、あの頭骨の山は、ただの骨のゴミになった。
四百五十年ぶんの生業が終わる瞬間というのは、たぶん劇的でも何でもなくて、いつもの荷物が港に積まれたまま、いつまでも船が来ない、というだけの光景だったんだと思う。それがいちばん怖い。
