掲示板の片隅に残った、数行の書き込み
怖い話を集めたまとめサイトの戦争編に、ほんの数行の書き込みが残っている。瀕死の重傷を負った坂井三郎が、まるで誰かに誘導されるように基地まで帰り着いた話はすごい、という中身だ。激戦の連続でもいつも九死に一生を得ていて、書き手は「誰かに護られていたとしか思えない」と結んでいた。短いのに、妙に後を引く。
坂井三郎は、64機撃墜を名乗った「伝説のゼロ戦パイロット」だ。64という数字はあくまで自称なんだけど、その伝説の中にとびきりの一件がある。1942年8月7日、ガダルカナル上空で撃たれて、そこから生きて帰ってきたという群を抜いて有名な話だ。主役はこれだ。
8機の影は、戦闘機じゃなかった
舞台は1942年8月7日。米軍がガダルカナル島に上陸した、まさにその日だ。ラバウル基地から約1000キロを飛んできた零戦隊の一員として、坂井はその空にいた。空戦の最中、前方に8機の敵機を見つけた坂井は、戦闘機だと信じ込んで背後から距離を詰めていった。
ところが、正体が違う。SBDドーントレス爆撃機の編隊で、後部銃座から16挺の機銃が坂井機を狙っていたんだ。坂井は撃ち返して2機を仕留めたが、自分も頭に弾を食らってしまう。右側頭部を挫傷して左半身が麻痺し、風防ガラスは吹き飛んで、猛烈な風圧の中でかろうじて意識を保っていたという。
ここからが怪談めいてくる。「そのくらいの傷で死ぬのか、意気地なし」と叱りつける亡き母の声を、このとき聞いたように思うと、坂井は後年に語っている。聞いたように思う、という控えめな言い方がまたリアルなんだよな。
出血で視界は真っ赤に染まり、左手も左足も動かない。それでも坂井は、敵の輸送船団の砲火をかいくぐりながら、まず止血に取りかかった。意識が飛んでは戻るのを繰り返しつつ、約4時間47分、560浬(約1000キロ)を飛び続けてラバウルへ帰り着いた。信じがたい粘りだ。
着陸したとき、エンジンは燃料切れで止まる寸前だったといわれる。燃料はほぼ空。搭乗員の誰もが坂井は戦死したと思い込んでいたところへの生還で、奇跡と呼ぶしかない出来事だった。
「護られていた」と感じてしまうわけ
極限からの生還には、何か大きな力に導かれたという感覚がよくついて回る。坂井の場合、亡き母の声という具体的な体験が、その感覚をぐっと強くしている。理屈もつく。医学の側から見ると、大量出血と低酸素状態が幻聴や幻視を引き起こすことは、ごくよく知られている話だ。
極度のストレスの下で親しい人の声が聞こえる現象は、遭難者や重傷者の証言に何度も出てくるおなじみの型でもある。坂井だけが特別なわけじゃない。戦争にまつわる不思議な話の短編集を開くと、同じ匂いの逸話がいくつも見つかる。
僚機が戦死した友人の声に助けられて敵弾をかわす話に、正体不明の「友軍機」に窮地を救われる話。どちらも複数入っている。生死の境をさまよう体験をただの偶然として処理できない人の心が、それを意味のある物語へ組み直していくんだろう。
撃墜王の話には、盛りも混ざっている
坂井の物語には、脚色や思い違いも指摘されている。ウィキペディアの記述によると、坂井は戦後、「僚機を一度も死なせたことがない」「機体を壊したことがない」と言っていた。ところが記録を見ると、1942年5月には僚機が撃墜され、1944年6月にも部下2名が未帰還になっている。話が合わない。
視力の話も同じだ。坂井には「昼間に星が見えた」という有名な逸話があるんだけど、これにも冷静な見方がある。航空評論家の加藤寛一郎は、あらかじめ星座表で位置を確認しておいた上でのことだろうと分析しているんだ。
坂井は語り部として抜群にうまかったし、著書『大空のサムライ』は世界的なベストセラーになった。この二つが体験を伝説の域まで押し上げた面は、どうしたって否定できない。それでも核は揺るがない。頭を撃たれてから4時間47分の生還飛行という中心部分は、複数の記録と証言が裏づける紛れもない事実なんだ。
盛られた部分と本物の史実が混ざり合ったまま人から人へ渡っていくところに、戦場の怪異譚の独特な力があるんだろう。そこが面白い。話がどれだけ盛られても、生きて帰った事実までは消えないからね。
坂井の生還劇は、超常的な「守護」の物語として読める。でも同時に、そこにはいくつもの要素が重なっている。負傷した脳が生む幻聴の仕組みに、生き残った本人による記憶の組み直し、そして飛び抜けた操縦技術だ。どれも人間くさい。
「誰かに護られていた」という感覚は、非科学的な思い込みの一言では片づけたくない。極限を生き延びた人間が、自分の身に起きたことに意味を与えるための、切実な語りのかたちとして読むのが大事なんだろう。そこが肝だ。
『大空のサムライ』から始まった物語
この生還劇が伝説として広まった一番の理由は、当人が腕のいい語り部だったことに尽きる。1953年、坂井は雑誌記者やライターの協力を得て自伝的な手記をまとめ、それが後に『大空のサムライ』として本になった。ここが出発点だ。
国内で売れただけじゃない。英訳版『Samurai!』はアメリカでもベストセラーになり、海軍兵学校で戦史の教材に使われたこともあるらしい。坂井の名前は、日本の撃墜王として国境を越えていったわけだ。
ガダルカナルの被弾と生還は、この本の山場の一つだ。負傷の激痛に、風防が吹き飛ぶ轟音、意識が遠のくたびに聞こえてくる亡き母の叱咤と、劇的な描写が次々に畳みかけてくる。読めば忘れられない。
冒頭のあの一文も、突き詰めれば『大空のサムライ』の描写を出発点に、読者から読者へ受け渡されてきたものなんだろう。逸話の初出は、戦場そのものというより別の場所にある。戦後に坂井が紡いだ物語の中だ。
もう一度、あの4時間47分を追いかける
上陸の一報がラバウルに届いたのは、1942年8月7日の早朝だった。基地は騒然となる。零戦隊はほとんど準備が整わないまま、片道だけでも1000キロを超える長距離進攻へ、いきなり投入されることになった。
坂井の零戦も編隊を組み、ソロモン諸島の上空を南へ下っていく。眼下に米軍の輸送船団が浮かんでいて、その上の空には、すでに幾筋もの黒煙が立ちのぼっているのが見えた。そこで8機の編隊が目に入る。
翼の形や動きの鈍さから見て、戦闘機じゃないと判断すべき相手だった。ところが坂井は極度の興奮の中でこれを敵戦闘機だと取り違え、格好の獲物とばかりに背後上方から一気に距離を詰めた。痛恨の見落としだ。
機影の正体は、SBDドーントレス急降下爆撃機の編隊だった。後ろの座席には旋回機銃を構えた銃手が座っていて、8機ぶん、計16挺の機銃が近づく坂井機へいっせいに火を噴いたんだ。罠に飛び込んだ格好だ。
坂井はひるまずに撃ち返し、まず2機を撃破する。その直後、風防ガラスを撃ち抜いた一発が、坂井の右側頭部をかすめるように直撃した。頭蓋骨に亀裂が入るほどの衝撃で、右目はほとんど見えなくなり、左半身は麻痺して動かなくなった。一瞬の出来事だ。
強い風圧が吹き込んでくる中、坂井の意識は何度も途切れかけた。右目から流れ込む血で視界の半分が赤く染まり、それでも坂井は右手一本だけで操縦桿を握りしめて離さなかった。右手だけが頼りだ。
意識の底で、坂井は叱られた気がした。「そんな傷で死ぬのか、意気地なし」と叱る亡き母の声を聞いたように感じたと、坂井は後年くり返し語っている。語るたびに言葉は少しずつ違っていて、「そのくらいの傷で」と伝わる版もある。母はもう世を去っていた。
それでも、その声だけが坂井を現実につなぎとめる命綱になった。これが本人の述懐だ。姿のない母親に叱り飛ばされながら、血まみれの男が片手で操縦桿を握っている光景を想像してみてほしい。
坂井は布切れで傷口を押さえて止血を試み、輸送船団の対空砲火をかいくぐって、どうにか進路をラバウルへ向けた。そこからが長い。何度も気が遠くなり、そのたびに機体の傾きでハッと我に返る。それを繰り返しながら、560浬(約1000キロ)という途方もない距離を、およそ4時間47分かけて飛び続けたとされる。
ラバウルの基地では、無線も通じないまま消息を絶った坂井機は、もう戦死扱いになっていた。ところが夕刻。燃料計の針がほぼゼロを指したまま、一機の零戦がふらつきながら、ゆっくりと滑走路へ降りてきたんだ。
エンジンが完全に止まったのは、機体が滑走路の上で止まった直後だったと伝えられている。止まる寸前だったという言い方も残っていて、どちらにしても紙一重だ。整備員たちが駆け寄って目にした坂井は血まみれで、生きていること自体が信じがたい光景だったという。鳥肌ものだ。
昼間の星と、ポートモレスビーの弔いのロール
坂井の逸話には、このガダルカナル生還譚と並んで語られる「視力伝説」がある。負傷のあと右目はほぼ失明状態になったとされるのに、それでも抜群の射撃精度を保ち続けたらしい。昼間でも星が見えるほどの視力だった、という話まで生まれた。いかにも伝説っぽい。
加藤寛一郎の分析は、坂井が事前に星座表で天体の位置を頭に入れておき、それを踏まえて話していたのではないか、というものだ。超人的な視力を疑う話というより、周到な準備と経験に裏打ちされた腕前として捉え直す見方だ。職人っぽい話になる。
もう一つの有名な逸話が、ポートモレスビー上空の弔いのロールだ。1942年8月のガダルカナル戦線で戦死した僚機の霊を弔うため、坂井が編隊を組んでバレルロールを行ったという場面になる。映像化もされたほど印象的な場面だ。たしかに絵になる。
ただ、このロールを共にしたとされる僚機はみな戦闘で戦死していて、当人たちの証言で裏づけることができない。裏が取れないわけだ。戦後になって編集者やライターの手で物語として磨き上げられたんじゃないか、という指摘もある。
血まみれの男を見た人たち
坂井の生還を目の当たりにした整備員や同僚パイロットの証言は、断片的ながら、いくつかの戦記や回想録に残っている。ふらつきながら降りてきた機体から、坂井はほとんど自力で降りられなかったそうだ。助け起こしたのは整備員だ。
その整備員は後年のインタビューで、こんな趣旨の話をしているとされる。「てっきり戦死したと思っていた男が、血まみれのまま生きて帰ってきたときの衝撃は忘れられない」。重い言葉だ。
こうした「護られたパイロット」の話は、坂井の専売特許じゃない。太平洋戦争の不思議な話を集めた短編集には、戦死した戦友の声に導かれて敵弾をかわした僚機搭乗員の話が入っている。正体不明の友軍機に窮地を救われた体験談もある。それも一つや二つじゃない。
極限の中で交わされた声、聞こえるはずのない音、視界の端に一瞬だけ映った何か。生きて帰った兵士たちは、そんな断片的な感覚を何度も口にした。どれも断片だ。それが語り重ねられるうちに、一人ひとりの体験はやがて「守護」の物語として結晶のように固まっていった。
ネットの住人は、驚きながらも疑っている
考察好きの集まる場所では、話がもっと辛口になる。ニコニコ大百科やpixiv百科事典の坂井三郎の項目には、伝説と実像のギャップを扱う記述がぶ厚く積み上がっている。読み応えは十分。
撃墜数64機は実際には公認28機で、アメリカ側のライターが宮本武蔵の決闘数になぞらえて誇張したのでは、という指摘がある。僚機を一人も死なせなかったという主張も俎上に載る。戦闘詳報に残る戦死や未帰還の記録と照らし合わせ、食い違いを丹念に洗い出す書き込みが目立つ。執念がすごい。
掲示板の反応も一枚岩じゃない。「頭を撃たれて4時間半飛び続けるとか漫画かよ」というツッコミ。「でも実際に生きて帰ってきたのは事実だから凄すぎる」という感嘆。超人的な生還劇への驚きと、本人の語りには盛りが入っているという冷めた検証が、同じ場所に並んでいる。
人物像への目も厳しい。戦後、坂井が教官として精神論や体罰を重んじる指導をしていて、若いパイロットから敬遠されていたという証言がある。晩年には特定の商法の広告塔として名前を貸し、物議を醸したという話も出てくる。伝説の主人公が癖の強い生身の人間だったからこそ、かえってこの生還劇に厚みが出ている、と読むこともできそうだ。
餓島とラバウル、極限の空の距離
坂井が撃たれたガダルカナル島は、1942年8月の米軍上陸をきっかけに、太平洋戦争でいちばん長い消耗戦の舞台になった島だ。日本側では「餓島」なんて凄惨な当て字で呼ばれた。補給が途絶え、飢えが将兵を苦しめ続けた戦場だった。名前がすべてを語る。
ラバウルは日本海軍航空隊の一大拠点で、南東方面のあらゆる作戦の出撃基地になっていた。片道1000キロという進攻距離そのものが当時の零戦の航続距離の限界に近く、パイロットたちは長い緊張を強いられ続けた。遠すぎる距離だ。
この遠さを思うと、あの4時間47分の重みが変わってくる。坂井の生還劇は、こうした過酷な戦場という現実の土台の上に成り立った、本当にぎりぎりの奇跡だった。燃料計は、ほぼゼロだった。
