金閣の主は、本気で天皇家を飲み込もうとしていたのか
室町幕府三代将軍・足利義満。金閣を建てた人、南北朝を一つにした人、アニメの一休さんに出てくる「将軍さま」。教科書上のイメージは、まあ良い。有能な政治家で、文化のパトロンで、ちょっと寡黙。
ところが、この男にはもう一つの顔がある。天皇家を乗っ取ろうとしていた、という顔だ。
しかもこれはネットのトンデモ説じゃない。戦前のアカデミズムにも同種の見方があって、一九九〇年には中公新書から『室町の王権 足利義満の王権簒奪計画』という、タイトルに「簒奪計画」と堂々と入った本が出ている。著者は今谷明。この本がベストセラーになって、義満は天皇になろうとしていた、というイメージが一気に一般に広がった。
そしてこの話が頑強に生き残っているのは、話ができすぎているからだ。見てほしい。義満は明の皇帝から「日本国王」に冊封され、国書に「臣源」と書いた。天皇を自分の別荘へ行幸させ、上皇並みの待遇を受けた。死の直前に、息子の一人を親王並みの作法で内裏にて元服させている。その二日後に倒れ、十日で死んだ。死後、朝廷は彼に「太上天皇」の尊号を贈ろうとし、幕府側がこれを辞退している。
並べるだけで不気味だ。だが、一つ一つをバラバラにして見ていくと、印象がかなり変わってくる。この記事では、簒奪説の根拠を全部並べた上で、それを崩しにかかっている現在の研究まで追う。
十歳で家督を継ぎ、二十一歳で右近衛大将
まずこの男の経歴を押さえておきたい。官職のコースが異常だからだ。
延文三年、一三五八年生まれ。十歳で父・義詮を失い、家督を継ぐ。応安元年、一三六八年に元服し、同じ年の暮れに征夷大将軍になっている。ここまでは、まあ普通だ。
問題はその先だ。永和四年、一三七八年、二十一歳の義満は右近衛大将に任じられた。これが大きい。近衛大将は天皇の親衛部隊の長官で、公家社会のなかでの具体的な席次を伴うポストだ。武家の棟梁が、公家の序列のなかに自分の居場所を確保しにきたということである。同じ年には権大納言も兼ねている。
住まいもこの頃動かした。北小路室町に巨大な邸宅を構える。これが「花の御所」と呼ばれる室町第で、室町幕府という呼び名の由来だ。場所を選んだのも偶然じゃない。内裏のすぐそばだ。自分の屋敷を天皇の隣に置くというのは、物理的な距離で政治的な距離を表現するやり方である。
武家で二人目の太政大臣、そして半年で辞めた
応永元年、一三九四年の暮れ。義満は将軍職を子の義持に譲り、自分は従一位太政大臣になった。
太政大臣は官僚機構の頂点で、平安以来、武家でこの座に就いたのは平清盛しかいない。清盛が仁安二年だから、およそ二百三十年ぶりの二人目ということになる。
で、ここからが変なんだ。翌応永二年六月、義満は太政大臣をあっさり辞めてしまう。在任は半年もない。そしてそのまま出家して、道義と号した。
普通、官職は欲しがって手に入れるものだ。頂点に登って半年で捨てるというのは、官職そのものに価値を見ていないということだ。登り切ったことを一度証明して、すぐにルールの外側へ出た。今谷明が着目したのはまさにここで、官位の序列に収まることをやめた男は、別の座を狙っていたのではないか、という読みだ。
出家したのに、権力は一ミリも手放していない
出家というのは建前上、世俗からの引退だ。だが義満の場合、引退の形を取った瞬間に、むしろ権力が強くなっている。
将軍は息子の義持。だが義持はまだ幼い。実権は全部、大御所としての義満が握っている。しかも出家しているから、官職の序列に縛られない。公家の作法にも、武家の作法にも縛られない。どこにも属さない、しかし全部を動かせる位置。
この後の義満の振る舞いは、既存の肩書きでは説明しにくいものが増えていく。公家に宛てる文書と武家に宛てる文書で花押を使い分けた。寺社への命令文書の形式が、もはや将軍の御教書ではなく、院宣に近いものになっていく。今谷はこれを「国王御教書」と呼ぶしかないと書いた。院宣を出せるのは本来、治天の君、つまり実権を握る上皇だけだ。
南北朝合一――そして約束は守られなかった
時間を少し戻す。明徳三年、南朝側の元中九年、西暦で一三九二年。義満は六十年近く続いた南北朝の分裂を終わらせた。これが彼の最大の業績とされている。
交渉の窓口になったのは、南朝側が右大臣の吉田宗房や前内大臣の阿野実為、北朝側が公卿の吉田兼煕。その前段階では、何度も南北のあいだを行き来した楠木正儀が動いている。
結ばれた条件の中身が効いてくる。三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ、「譲国の儀」として渡す。つまり南朝の正統性を形の上では認める。そして以後の皇位は、南朝の血統と北朝の血統が交互に継ぐ。両統迭立である。
この約束は、完全に反故にされた。
後小松天皇は応永十九年、一四一二年に、自分の子の称光天皇へ譲位する。南朝の系統には回ってこない。称光天皇に子ができなかった後も、後継は伏見宮家から迎えられて後花園天皇となった。南朝の子孫には一度も渡さない。
この反故の主犯が義満本人だったのか、彼の死後の幕府の判断だったのかは議論がある。だが、少なくとも義満の生前から南朝側への約束履行の気配はない。後亀山上皇はのちに嵯峨を出て吉野へ去るし、南朝の残党は後南朝と呼ばれて何十年ものちのちまで抗い続けることになる。
統一の実態は、合併じゃなくて吸収だった。交渉で相手を安心させ、目的を達したら条件を踏み倒す。このやり口を覚えておいてほしい。義満のやり方の典型だからだ。
北山第――寺でも屋敷でもない、あの妙な建物
応永四年、一三九七年。義満は西園寺家から北山の土地を手に入れ、巨大な別荘の造営を始める。北山第だ。二年ほどで舎利殿、つまり金閣が完成し、以後、義満はここを活動の中心にする。
金閣はよく知られているとおり、三層で各階の様式が違う。一層は寝殿造風の公家様式。二層は武家の住宅風。三層は禅宗の仏堂風。公家、武家、寺を一つの建物に積み上げて、その最上階に自分が座る。建築で政治声明をやっていると読めば、確かに欲が深い。
北山第の規模はいまの鹿苑寺の境内どころじゃない。寝殿、公座所、護摩堂、天鏡閣といった建物が並び、実質的に一つの御所だった。天皇を呼べるだけの格を、意図的に作っている。
そしてここで行われた大規模な祈禱が、後に簒奪説の根拠の一つになる。国家の安寧を祈る祭祀は本来天皇の仕事だ。それを義満が自分の邸宅でやっているなら、祭祀権の簒奪だ、という理屈である。ただしこの点は後で大きく反論されることになる。
「日本国王源道義」と呼ばれた日
応永八年、一四〇一年。義満は明へ使者を送った。
このときの名乗りが「日本准三后道義」。准三后は朝廷から与えられた待遇の名称で、道義は出家後の法名だ。つまりこの時点ではまだ「国王」とは名乗っていない。
翌年、明の建文帝から返書が届いた。そこにはこう書いてあった。「日本国王源道義」。
今谷明はこの瞬間を、義満を「狂喜させた」と書いている。国内ではどんなに登り詰めても、天皇の下にしかなれない。ところが国外から見れば、日本を代表する王は義満である。官位の序列の外側に、もっと大きな序列を持ち込んで、そこでトップを取る。やり方としては鮮やかだ。
「日本国王臣源」――署名の問題
問題はこの先だ。
応永十年、一四〇三年。義満が明へ送った国書に、こう署名されていた。「日本国王臣源」。
臣、である。中華皇帝の臣下です、と名乗ったことになる。この一字は後世で大問題になった。室町中期の僧・瑞渓周鳳は『善隣国宝記』のなかでこの表現を直接批判している。日本の将軍が外国の皇帝の臣下を名乗るなどとんでもない、と。
江戸時代に入るとこの批判はさらに強まり、明治以降は「屈辱外交」の代名詞になった。学校で日明貿易を習うときに、なんとなく先生の口調が重くなるのは、この一字のせいだと思う。
だが、ここで一つ冷静な視点を入れておきたい。明との貿易は、冊封を受けないと制度上成立しない。朝貢体制とはそういう仕組みだ。義満が欲しかったのが実利だったなら、臣と書くのは単なる手続きである。実際、応永十一年からは勘合符を使った貿易が始まり、室町幕府の重要な収入源になっていく。この頃の相手は、建文帝を倒して即位した永楽帝だ。
名を捨てて実を取ったのか。それとも、国王という名そのものが欲しかったのか。ここの読みで、簒奪説に乗るか降りるかが分かれる。
応永十五年三月、後小松天皇が北山第へ来た
さて、いよいよクライマックスの年に入る。応永十五年、一四〇八年。この年の数ヶ月に、異常な出来事が集中する。
三月八日、後小松天皇が北山第へ行幸した。しかも一日ではない。二十日余り滞在している。
天皇が臣下の屋敷へ出向くのは前例がないわけではない。だが二十日というのは長すぎる。しかもこの行幸のあいだ、連日のように和歌の会や管絃、蹴鞠、節会が催されている。実質的な主役はどちらかといえば、主家の側だった。
同じ三月の四日には、義満の息子・義嗣が従五位下に叙せられている。この後、三月下旬から四月にかけて、義嗣の官位がありえない速度で上がっていく。正五位下、左馬頭、そして従三位参議。数週間である。
繧繝縁の畳という、動かぬ証拠なのか
この行幸で、簒奪説が最大の根拠とするディテールが出てくる。畳の縁だ。
繧繝縁という、色を段状に重ねて織った華やかな縁がある。これは天皇と上皇しか使えない。使っていい人間が制度として厳密に決まっている。
ところがこの行幸の場で、義満の座する畳にこの繧繝縁が使われたという。天皇と同じ縁の上に座った。当時の感覚では、これはとんでもないことだ。服装や調度の細部で身分を表す社会で、天皇専用の意匠を使うのは、もう宣言である。
今谷説はここを重く見る。この段階で義満は、実質的に上皇と同格の扱いを受けていた。あとは形式を整えるだけだった、と。
もちろん反論もある。待遇が上皇並みだったことと、皇位を簒奪する意思があったことは別の話だからだ。待遇は与える側の都合でも変わる。朝廷はこの頃金がなかった。義満は金を持っていた。この非対称を見落とすと、なんでもかんでも簒奪に見えてしまう。
四月二十五日、義嗣の元服が異常だった件
そして、この事件だ。
応永十五年四月二十五日。義満の息子・足利義嗣の元服が行われた。義嗣は側室の子で、幼名を鶴若丸という。もともとは僧になる予定だった。
問題は元服のやり方だ。
一つ、場所が内裏の清涼殿だった。将軍家の子の元服を、天皇の住まいでやる。これだけで異例だ。
二つ、加冠役を公家の二条満基が務めた。将軍家の元服では、加冠役は父親か管領が務めるのが慣例である。公家の大臣クラスが務めるのは、武家の子弟の元服としてはありえない。
三つ、形式全体が親王の元服に準じていた。これは後世の推測じゃなく、同時代に近い人間が書き残している。伏見宮貞成親王の『椿葉記』には、この元服について「親王御元服の準拠」という趣旨の記述がある。
この後、義嗣は「若宮」と呼ばれるようになる。若宮。皇子を呼ぶ言葉だ。
実子の元服を天皇の家で、親王の作法で、公家の大臣に加冠させてやっておいて、何の意図もなかったというのは苦しい。少なくとも、義嗣を将来の皇位継承の候補に見える位置に置こうとした、と読まれても文句は言えないだろう。
二日後、義満が倒れる
四月二十七日。元服のわずか二日後に、義満が病に倒れた。
このタイミングが、この話をミステリーにしている。名だたる医師や僧が集められ、寺社で一斉に祈禱が行われ、あらゆる手が尽くされた。だが回復しなかった。
当時の記録から得られる症状の情報は少ない。十日で死ぬことから、急性の疾患であるのは間違いない。五十を過ぎた男の急死は、当時としては別に珍しくない。珍しくないんだが、とにかくタイミングが良すぎた。
自分の子を親王並みに引き上げた直後。天皇を自分の屋敷に二十日間引き留めた直後。もし何かを企んでいたのなら、ここが仕上げに入る直前だった。
応永十五年五月六日、五十一歳
応永十五年五月六日、西暦に直すと一四〇八年五月三十一日。足利義満死去。数えで五十一歳、満年齢では四十九だった。
北山の別荘を寺にしてほしい、というのが遺言だったと伝えられる。実際、北山第は後に大部分が取り壊され、金閣を中核にした鹿苑寺になる。鹿苑院というのが義満の法号で、寺の名はそこから取られている。
この死によって、四月までの動きは全部宙に浮いた。義嗣は官位だけは上がり続けるが、後ろ盾を失った。そして義持が、自由になった。
「鹿苑院太上天皇」――朝廷が贈ろうとした尊号
死の直後、朝廷側からとんでもない提案が出る。
義満に太上天皇の尊号を贈る。発議したのは公家の日野重光とされる。
太上天皇というのは上皇のことだ。天皇を経験した人間にしか贈られない。即位していない人間に尊号を贈る例が皆無ではないが、その場合は天皇の父や子であることが前提である。武家の棟梁に贈った例は、もちろんない。
もしこれが実現していたら、後世の歴史の見え方は完全に変わっていた。足利家から上皇が出たことになる。天皇家と将軍家の境界が、制度の上であいまいになる。
なお、この尊号の一件については、そもそもどこまで具体化していたのかをめぐって研究者のあいだで議論がある。正式に宣下寸前まで行っていたとする読みと、朝廷内部の打診やリップサービスの域を出ないとする読みがある。ここの評価でも、簒奪説の重みがかなり変わる。
斯波義将と義持が、それを蹴った
この尊号を蹴ったのが幕府側だ。
中心にいたのが、四代将軍になっていた義持と、幕府の重鎮だった斯波義将。義将は三代にわたって幕政を支えてきた老臣で、この時点ですでに高齢だった。
辞退の理由は、先例なし。
この一言は重い。先例がない、というのは当時の社会では最強の否定の論理だ。同時に、幕府自身が自分の初代の主を天皇家に組み入れるのを拒んだということでもある。
ここをどう読むかで、話は正反対に分かれる。
簒奪説側はこう読む。朝廷は義満の圧力でここまで追い込まれていた。だからその延長で、死後も尊号を出した。でも幕府側は、義満の計画を嫌っていた。だから蹴った。つまり尊号の存在自体が、義満の企てが実在した証拠だ。
反対側はこう読む。朝廷は義満というスポンサーを失って、次は幕府とどう付き合うかを考えなければならなかった。尊号はそのためのリップサービスである。幕府側はそんなものをもらっても実利がないし、維持コストがかかるだけだから断った。それだけ。
どちらも、同じ事実から組み立てられる。史料は増えないので、この対立は決着がつかない。
義持は父のやったことを、ほぼ全部ひっくり返した
義満の死後の義持の行動は、見ていて気持ちがいいくらい徹底している。
尊号を辞退した。北山第を解体した。明との国交を断った。勘合貿易をやめて、先方からの使者を追い返している。これは幕府の収入を自ら捨てる行為で、経済合理性では説明できない。
なぜそこまでしたのか。義持は父に嫌われていたとされる。義満が可愛がったのは弟の義嗣のほうだった。将軍職は早々に与えられたが、実権は一つも回ってこなかった。十四年間、名ばかりの将軍をやらされた男の鬱屈は、想像するに余りある。
しかも義持は神道や朝廷に対して敬虔だったと伝えられる。伊勢神宮への尊崇も厚かった。父と弟がやろうとしていたことは、この男にとって不快なんてものじゃなく、冗談じゃない、というレベルだったはずだ。
この父子の断絶ぶりが、後の毒殺説を育てる土壌になる。
一九九〇年、今谷明『室町の王権』が出た
ここまでが材料だ。ここからは、この材料をどう料理してきたかの話になる。
「義満は皇位を狙っていた」という見立て自体は、実は今谷明が最初ではない。明治から大正にかけての歴史家・田中義成が、すでに義満の朝廷への振る舞いを問題視していた。戦前の歴史学において、義満は「不忠の臣」として語られる存在でもあった。南朝を正統とする立場から見れば、南北朝合一の約束を破った男でもあるからだ。
だが一般に爆発的に広まったのは、間違いなく一九九〇年である。今谷明が中公新書から『室町の王権 足利義満の王権簒奪計画』を出した。新書という媒体が効いた。書店の平台に「王権簒奪計画」の六文字が並び、歴史好き以外の層にまで届いた。
この本の何がすごいかというと、断片的な事実を一本の意思として束ねてみせたところだ。官職コース、出家後の権力保持、文書形式の変質、明からの冊封、北山第の御所化、行幸、義嗣の元服、尊号。ばらばらに見ていれば単なる権勢家の逸脱に見えるものが、時系列に並べ直された瞬間、明確な設計図に見えてくる。
読み物としての完成度が高すぎるんだよな。そしてそれが、後に批判される最大の理由にもなった。
今谷説の中身を、きちんと追う
今谷説の骨格を整理しておく。
第一に、義満は治天の君になろうとしていた。天皇そのものになるのではない。上皇として院政を敷く側に回る。だから義嗣を天皇に立て、自分はその父として君臨する。天皇家を潰すのではなく、内側から吸収する。
第二に、義満は天皇の権能を一つずつ剥がしていた。官位の叙任権。祭祀権。文書発給の形式。これらは天皇と朝廷の存在理由そのものだ。全部を実質的に握ってしまえば、天皇は形骸になる。
第三に、国際的な承認を先に取った。明から日本国王と認められれば、対外的には義満が日本の主権者になる。国内の序列がどうであれ、外から見た国の代表は自分だという既成事実ができる。
第四に、義満は予言の書を利用していた可能性がある。今谷が持ち出すのが『野馬台詩』だ。日本の王統がいずれ尽きるという趣旨に読める古い予言詩で、これが当時の公家社会でそれなりに知られていた。王統の交代を正当化する材料として使えたのではないか、という推測である。
そして第五に、この計画は義満の急死によって未遂に終わった。
正直に言うと、この構成はよくできている。仮説としては非常に強い。問題は、強すぎることだ。
反論――桜井英治、石原比伊呂、榎原雅治
二〇〇〇年代以降、この説にはかなり厳しい反論が積み上がっている。
まず桜井英治。二〇〇一年に講談社の「日本の歴史」シリーズ第十二巻として『室町人の精神』を書いた研究者だ。この本は室町という時代の人間の感覚そのものを描き直した名著で、義満についても、権力の性格を当時の贈与や儀礼の文脈から捉え直している。ここで浮かび上がるのは、義満の行動の多くが「王権を奪う」というより「室町という時代特有の権力の作法」に沿って理解できる、という視点だ。
次に石原比伊呂。『室町時代の将軍家と天皇家』などで、将軍家と天皇家の関係を史料に密着して洗い直した。石原の見立てはかなり明快で、義満が朝儀を原理原則どおりに厳格に行わせたのは、天皇の権威を破壊するためではなく、むしろ回復させるためだった、というものだ。将軍を任命するのは天皇である。天皇の権威が地に落ちていては、将軍の権威も落ちる。だから朝廷を立て直す必要があった。
今谷説は、義満と個々の公家との対立を、体制レベルの簒奪計画に読み替えすぎている、という批判である。
そして榎原雅治らの研究によって、いま定説になりつつあるのは「朝廷の側にも義満を利用する思惑があった」という見方だ。当時の朝廷は財政的に困窮していた。義満は金を持っていた。朝廷は義満に権威を貸し、義満は朝廷に金を出す。この相互依存を、片方から見れば乗っ取りに見えるし、もう片方から見れば支援に見える。実態はその中間だったのだろう。
効いてくるのは、直接証拠の不在だ。当時の公家日記には、義満の行為を簒奪計画として記した記述がない。あれだけ細かく愚痴や不満を書き残す公家たちが、王朝が乗っ取られようとしているという最大級の危機に一言も触れないのは不自然だ。皇位継承者だった躬仁親王が圧迫を受けた記録もない。
「日本国王」は、ただの取引用の肩書きだった説
冊封についても再評価が進んでいる。
明の朝貢体制において「国王」というのは、要するに貿易の窓口としての資格である。相手国の実質的な最高権力者を国王と認定して、そこを通じてしか取引しない。それが明のルールだった。逆に言えば、この肩書きを取らないと勘合貿易は始められない。
つまり義満にとって「日本国王」は、天皇に代わる新しい権威というより、商売のライセンスに近かった可能性が高い。実際、この称号によって義満の国内での立場が変わった形跡は薄い。公家たちが「義満様は国王だから」と態度を変えたわけでもない。
北山第での祈禱についても、仏教史の側から詳細な検討が入った。あれは国家の安寧を祈る国家的祭祀ではなく、義満個人の厄除け、私的な祈禱の域を出ないというのが近年の見方だ。祭祀権の簒奪という論拠は、ここでかなり弱くなる。
こうなると、今谷説の柱のうち何本かが折れる。残るのは、義嗣の元服の異常さと、繧繝縁の畳と、尊号の一件だ。これらは確かに説明が難しい。だから話が完全には終わらない。
毒殺説の系譜
さて、急死である。
義満が毒殺されたという説は、学術的な主張というより、読み物や小説の世界で育ってきた。作家の海音寺潮五郎が触れ、井沢元彦が『逆説の日本史』の枠組みのなかで大きく扱ったことで、一般層に定着した。
犯人として名前が挙がるのは、当然ながら息子の義持である。動機は完璧だ。父に疎まれ、弟に地位を奪われかけている。しかも父と弟がやろうとしていることは、朝廷を敬う自分にとって許しがたい暴挙だ。そして義満が死んだ結果、最も得をしたのは義持である。動機、機会、結果、すべてそろっている。
ただし証拠はゼロだ。同時代の記録に毒の話は出てこない。急に発病して十日で死ぬというのは、感染症でも脳血管の疾患でも普通に起こる。五十を過ぎた男が春先に倒れて死ぬのを、いちいち他殺と考える必要はない。
とはいえ、この説が消えない理由もわかる。あまりにタイミングが良すぎるからだ。四月二十五日に義嗣の元服、二十七日に発病、五月六日に死去。仕上げの直前に主役が消える。歴史の偶然としては、出来すぎている。
もう一つ、暗殺説の変種として「朝廷側による排除」を挙げる向きもある。王統を守るために誰かが動いた、という筋書きだ。こちらはさらに根拠がない。ないんだが、想像力を刺激する構図ではある。
義嗣のその後――十年後に殺された
義満の死で計画がついえたとして、当の義嗣はどうなったか。
義嗣は死ななかった。それどころか官位は上がり続ける。応永十六年に正三位、十八年に権大納言、二十一年に正二位。若宮と呼ばれ、新御所と呼ばれ、扱いは依然として特別だった。
だが権力はなかった。将軍は兄の義持である。
応永二十三年、一四一六年の十月。関東で上杉禅秀の乱が起きる。禅秀は鎌倉公方に反旗を翻した勢力で、その禅秀の娘は義嗣の側室だった。乱が起きた同じ日、義嗣は京を出て山城国高雄へ出奔し、出家してしまう。
これは幕府から見れば、内通以外の何物でもない。義嗣は捕らえられ、幽閉される。そして応永二十五年、一四一八年の正月二十四日、殺された。あるいは自害させられた。享年二十五。実行にあたったのは富樫満成という人物で、その満成自身も翌年に畠山満家によって殺されている。後始末の後始末まで血なまぐさい。
義満の死から十年。父が親王並みに引き上げた息子は、兄の手で消された。もし義満があと五年生きていたら、義嗣が天皇になっていたかもしれない、という想像は、たぶん多くの人がしたことがあるはずだ。
『椿葉記』が書き残した空気
同時代に近い記録と、現地で見てきたものから、いくつか引いておきたい。
一つ目は伏見宮貞成親王の『椿葉記』だ。貞成は義嗣より少し後の世代の皇族で、自分の家の由緒と時代の状況を子孫に伝えるために書き残した。
この書物のなかで印象的なのは、義嗣の元服を「親王御元服の準拠」と記していることだ。つまり皇族側から見ても、あれは親王の元服として認識されていた。当事者に近い立場の人間が、後になってそう書いている。これは重い。
もう一つ、『椿葉記』には「承久以来は、武家よりはからい申す世になりぬ」という趣旨の一節がある。承久の乱から後は、何事も武家が取り仕切る世になってしまった、という嘆きだ。皇族の側の諦めというか、時代認識がそのまま出ている。
この二つを並べると、当時の朝廷や皇族が、武家に主導権を握られている現実を受け入れつつ、それでも義嗣の一件だけは異例として記憶していた、という空気が浮かんでくる。義満のやったことが「日常」ではなく「異例」だったのは間違いない。ただ、それを危機として叫んでいる声はない。この温度差が、今谷説をめぐる議論のややこしさそのものだ。
瑞渓周鳳の怒り
二つ目は『善隣国宝記』だ。室町中期の禅僧・瑞渓周鳳が、日本と周辺国との外交文書を集成した本で、外交史の基本史料になっている。
この本のなかで瑞渓は、義満の国書に出てくる「臣」の一字を明確に批判している。日本の武家の棟梁が、明の皇帝に対して臣下を称するのはどういうことか、と。書き手は僧侶で、しかも外交実務に関わる立場の人間だ。感情論ではなく、国と国の関係の作法として問題があると考えている。
面白いのは、この批判が義満の死後、それも数十年経ってから書かれていることだ。同時代にはあまり大きな問題になっていない。時間が経つほど、義満の外交は「屈辱」として語られるようになっていく。江戸時代にはさらに強まり、明治以降は決定的になった。
つまり、義満に対する評価は当時より後世のほうが厳しい。これは押さえておきたい事実だ。我々がいま「義満は怪しい」と感じるその感覚自体、実は数百年かけて作られた後付けの色眼鏡かもしれないのである。
金閣に立ってみると、思ったより小さい
現地の話もしておきたい。
京都の鹿苑寺、いわゆる金閣に行くと、まず驚くのが建物の小ささだ。写真であれだけ見ているのに、実物は思っていた三分の二くらいの大きさに感じる。池のほとりに、こぢんまりと立っている。
いま見えているのは昭和三十年の再建だ。昭和二十五年に放火で焼失している。だから木の新しさに違和感を覚える人もいるが、金箔の貼り方や様式は復元されている。
順路を進むと、金閣を過ぎたあたりから急に人が減る。庭を登っていくと、義満が茶の水に使ったと伝わる泉があり、さらに上には夕佳亭という小さな茶室がある。このあたりでようやく、この場所が「寺」ではなく「別荘」だったことが体で分かってくる。斜面を使い、水を引き、視線を設計している。金閣だけを見て帰る人が多いが、義満の意図が読めるのはむしろこの敷地全体の作り方のほうだ。
そして押さえておきたいのは、いま見えているのは北山第のごく一部だということだ。当時ここには寝殿があり、公座所があり、護摩堂があり、天鏡閣という高層の建物があった。天皇が二十日間泊まれる規模の御所が、この山裾に広がっていた。それを想像しながら立つと、金閣が「豪華な別荘のシンボル」ではなく「巨大な政治空間の展望装置」に見えてくる。
相国寺と等持院で聞いた話
もう一つ、同志社大学のすぐ隣にある相国寺にも行った。義満が創建した禅寺で、かつては七重塔があった。高さ百メートルを超えたと伝わる、日本史上最も高い木造建築である。もちろん現存しない。雷で焼け、再建され、また焼けた。
境内は驚くほど静かで、観光客がほとんどいない。金閣と銀閣はどちらもこの相国寺の塔頭だという事実を知る人も少ない。案内をしてくれた方は、「うちは義満さんの寺なんですけどね、みなさん金閣にしか行かれない」と笑っていた。
それから北野の等持院。足利将軍家の菩提寺で、歴代将軍の木像が霊光殿にずらりと並んでいる。ここが凄い。初代尊氏から順に、等身大に近い像が薄暗い堂内で正面を向いて座っている。義満の像もある。恰幅がよく、目つきが強い。
案内の方が言っていた言葉が忘れられない。ここに来ると足利十五代が全員そろっているのに、教科書に名前が出るのは三人か四人だけなんですよ、と。確かにそうだ。義満は室町幕府のなかで例外的に有名で、例外的に強かった。強すぎたから、天皇になろうとしていた、という話が違和感なく成立してしまう。
ネットでの義満、そして大河にならない男
ネット上でのこの話の扱われ方も見ておく。
まず定番なのが、「皇位を狙った三大人物」みたいなくくりだ。弓削道鏡、平将門あたりと並べて義満が挙げられる。この手のまとめは定期的に立つし、そのたびに「道鏡は誤解されている」「将門は独立であって簒奪ではない」と細かい訂正が入る。
もう一つ盛り上がるのが、義満がなぜ大河ドラマの主役にならないのか、という話題だ。業績も派手さも十分すぎるのに、単独主役の大河はいまだにない。理由としてよく挙げられるのが、まさにこの皇位簒奪説の存在だ。天皇家との関係を正面から描かざるを得なくなるので企画が通りにくい、という推測である。真偽は不明だが、この推測が広く共有されていること自体が、この説の浸透度を示している。
一般層への刷り込みという意味では、アニメの一休さんの影響も無視できない。あの「将軍さま」は義満だ。ぽっちゃりした気のいいおじさんとして数十年にわたって放送された。実際の義満像とのギャップが大きすぎて、事実を知った人が驚く、という流れがネットでは定番のネタになっている。
考察系の動画やブログでは、今谷説を紹介したうえで近年の反論に触れる、という構成が増えてきた。十年前は「義満はヤバい」で終わっていたものが、いまは「でも最近は否定されつつある」まで入るようになった。これはかなり健全な変化だと思う。
結局、義満は何をしたかったのか
ここまで並べたうえで、いま一番説得力があると感じる整理を書いておく。
義満は、既存のどの枠にも収まらない権力者になろうとしていた。公家でも武家でも僧でもない位置に立ち、そのすべてを動かす。そのために官位の頂点まで登り、登り切ったところで官位を捨てた。出家して制度の外に出た。北山という自分の領域を作った。外国から別種の承認を取ってきた。
これは天皇になりたかったのとは、少し違う。天皇という椅子も、彼にとっては既存の枠の一つだからだ。彼が欲しかったのは椅子ではなく、椅子を並べ替える権利のほうだったんじゃないか。
ただ、そこまで行った人間の息子が親王並みの元服をして、本人に上皇の尊号が出かかったのなら、結果として天皇家に手が届く位置に来ていたのは確かだ。本人にどこまで自覚があったかとは無関係に。
計画があったのか、なかったのか。答えは出ない。出ないまま、これから先も語られ続けるだろう。
証拠は動かない。揺れるのは意図の推定だ
最後に、この件について個人的にずっと引っかかっている論点をまとめて掘っておきたい。
まず、この議論の構造そのものについて。義満の皇位簒奪説は、証拠が足りないから否定されているのではない。証拠の解釈が二通りできてしまうから決着しないのだ。繧繝縁の畳も、義嗣の元服も、尊号の一件も、事実としては動かない。動かないのは事実のほうで、揺れるのは意図の推定だ。歴史学が意図を確定できるのは、本人が書き残した場合だけである。義満は書き残さなかった。だから永久に決着しない。
ここを理解すると、この論争が「新史料が出れば解決する」類のものではないことがわかる。
次に、今谷明の仕事の評価をきちんとしておきたい。近年の研究で個々の論拠が削られたことをもって、今谷説は完全に否定された、と言い切る向きがある。それは雑すぎると思う。今谷が提示したのは、室町という時代の権力を「王権」という枠組みで捉え直せという問題設定だった。その問題設定があったからこそ、桜井や石原の仕事が生まれている。反論が精密になったのは、最初の仮説が大胆だったからだ。学問はそういうふうに進む。
仮説の一部が壊れることと、その仮説が無価値であることは、まったく別の話だ。
三つ目に、義満を危険人物として見る視線が、いつ、なぜ強まったのかを考えたい。同時代の公家は、義満に不満は言うが恐怖は書いていない。瑞渓周鳳が「臣」の一字を批判するのは死後数十年経ってから。江戸時代に評価はさらに下がり、明治以降、南朝正統論が国の公式見解になるにつれて決定的に悪役化する。南北朝合一の約束を破った男という位置づけが効いた。
つまり我々が持っている「義満は怪しい」という感覚には、近代の国家イデオロギーの残り香がかなり混じっている。今谷説がこれほど受け入れられた土壌も、たぶんそこにある。事実の話をしているつもりで、実は百年前に作られた感情を再生している可能性を、常に疑ったほうがいい。
いちばん説明がつかないのは、あの元服だ
四つ目。義嗣の元服については、いまでも合理的な説明がつきにくいと思っている。
場所が内裏の清涼殿、加冠役が公家の二条満基、形式は親王准拠。これを「たまたま」「厚遇にすぎない」で片づけるのは、正直に言って苦しい。将軍家の子弟の元服にこの形を使う実利が見当たらないからだ。儀礼というのは無駄に格を上げると必ずコストがかかる。にもかかわらずこの形を選んだ以上、何かを狙っていたと考えるほうが自然に思える。
ただ、狙いが「皇位」だったのか「皇族に準ずる家格の獲得」だったのかは、まったく別の話だ。後者なら簒奪ではない。義満が作ろうとしていたのは、天皇家と並び立つもう一つの高貴な家系だった、という中間解釈もありうる。個人的には、この線が一番ありそうだと感じている。
五つ目に、毒殺説について。証拠がない以上、これは説として弱い。だが「なぜ人はこの説を作りたがるのか」という問いのほうは面白い。理由は簡単で、義満の死があまりに都合よく歴史を元に戻したからだ。人間は、大きな変化が寸前で止まったとき、そこに意志を見たがる。天が阻んだ、あるいは誰かが止めた、と。もし義満が計画の途中で急死せず、たとえば十年かけて失敗していたなら、誰も毒殺なんて言い出さなかっただろう。
急死という形式そのものが陰謀論を呼ぶ。本能寺や源頼朝の落馬と同じ構造だ。
「もしも」の巨大さが、この話を生かしている
六つ目、これが一番言いたいことなんだが、この話の魅力は「もしも」の巨大さにある。
もし義満が生きていたら。もし義嗣が即位していたら。もし尊号が実現していたら。日本の天皇制は千数百年続いてきた制度で、その連続性が途切れかけた瞬間が本当にあったのだとしたら、それは日本史上で数えるほどしかない分岐点になる。
人はそういう分岐点の話が好きだ。そして義満の生涯は、その分岐点の候補として、ちょうどいい情報量と、ちょうどいい曖昧さを持っている。多すぎると議論が終わり、少なすぎると誰も興味を持たない。義満の史料の残り方は、その絶妙な中間にある。
だから、この説はこれからも死なない。研究が進むたびに論拠が削られ、削られるたびに別の角度から蒸し返される。そのサイクルが、たぶんあと百年は続く。
そう考えると、あの金閣が観光地としてあれだけ強いのも納得がいく。あそこはただの豪華な建物ではない。天皇家に手が届きかけた男が、自分のために作った世界の残骸だ。池に映る金色を見ながら、そこまで想像する人はたぶん少ない。でも一度知ってしまうと、次に見たときの金閣は、確実に前と違って見える。
