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ギョベクリ・テペ――麦を育てる前に、人類はなぜ神殿を建てたのか

トルコ南東部の丘に埋まっていたのは、農耕より千年古い巨大な石の環だった。順番が逆なんだよな。その話をする。

太鼓腹みたいな丘に、とんでもないものが埋まっていた

トルコ南東部、シリア国境まで車で一時間ちょっとという場所にシャンルウルファという街がある。旧約の伝承ではアブラハムの生誕地とされ、聖なる鯉の泳ぐ池がある古い街だ。その市街から北東へ十五キロほど、石灰岩のごつごつした尾根を登っていくと、こんもり盛り上がった丘がひとつある。地元の農民はそこを「ギョベクリ・テペ」と呼んでいた。トルコ語で「太鼓腹の丘」。

クルド語では「願いの丘」を意味する呼び名も伝わっていた。要するに、そのへんにいくらでもある名もない小山だったわけだ。

ところがこの丘、中身が全部人工物だった。高さ十五メートルほどの盛り上がりは自然の地形じゃない。石と土と骨と石器の詰まった、人が作った山だ。そしてその内部から、直径十メートルから二十メートルほどの石の環がいくつも出てきた。環を作っているのはT字型に削り出された巨大な石柱で、高さは五メートル半前後、中心には特に大きな二本が向かい合って立つ。年代を測ったら紀元前九六〇〇年。今から一万一千六百年ほど前だ。

エジプトのピラミッドより七千年、ストーンヘンジより六千年古い。人類がまだ麦を育てていない時代の建造物である。

最初にこれを見せられたとき、多くの考古学者が反応に困ったという話が伝わっている。というのも、教科書に書いてあった順番と真逆だからだ。農耕が始まる、食料が余る、人口が増える、階層ができる、余剰の力で神殿を建てる。ずっとそう習ってきた。ギョベクリ・テペはその順番をひっくり返してしまった。

一九六三年、みんな見逃していた

実はこの丘、一九六〇年代にすでに一度「調査されて」いる。イスタンブール大学とシカゴ大学の合同踏査隊が、南東アナトリアの遺跡を片っ端から地図に落とす仕事をしていて、一九六三年にギョベクリ・テペにも登った。ピーター・ベネディクトという研究者が記録を残している。丘の表面にはやたらと燧石の破片が散らばっていたし、削られた石灰岩の板も突き出ていた。

で、彼らはどう判断したか。「ビザンツ期あたりの墓地だろう」。地表に出ていた石板を墓石だと思ったのだ。石板の正体は、地中に六メートル近く埋もれた巨大なT字柱の、てっぺんの数十センチだった。丘のてっぺんには農民が畑を耕していて、邪魔な石は割って端に寄せていた。実際、いくつかの柱には近代の割れ目が残っている。

この見逃しは笑い話にされがちだけど、正直しかたない面もある。誰も「一万年以上前に巨石建造物がある」なんて発想を持っていなかった。持っていない仮説は、目の前にあっても見えない。考古学ってそういうところがあるんだよな。丘はそれから三十年、また眠った。

シュミットが石ころを拾った日

一九九四年、ドイツ考古学研究所のクラウス・シュミットがその踏査記録を読んでいた。彼は一九五三年十二月十一日、ドイツ・フランケン地方のフォイヒトヴァンゲン生まれ。エアランゲンとハイデルベルクで先史考古学と地質学・古生物学を学び、一九八三年に博士号を取っている。

彼には下地があった。一九八〇年代、ハラルト・ハウプトマンの下でネヴァル・チョリという遺跡を掘っていたのだ。ユーフラテス上流のこの集落からは、やはりT字型の石柱を立てた不思議な建物が出ていた。人間の腕らしきレリーフのついた柱、鳥に頭を掴まれた人像。九千年紀の先土器新石器時代の遺跡だ。ただしネヴァル・チョリはアタテュルク・ダムの湛水で水没することが決まっていた。

シュミットは沈む遺跡を掘りながら、「これは一つだけの変異じゃない。同じものが他にもあるはずだ」と考えていた。

そして彼はシャンルウルファ周辺の踏査カードをひっくり返し、ギョベクリ・テペの「墓地」の記述に引っかかった。一九九四年、現地に登る。丘に散らばる燧石の量を見て、地表に出た石板の断面を撫でて、彼は悟った。後年の回想として広く伝わっているのは、こんな趣旨の言葉だ。この場所には二つの選択肢しかない、すぐに立ち去って誰にも言わないか、残りの人生をここに捧げるか。彼は後者を選んだ。

翌一九九五年、シャンルウルファ考古学博物館との共同で発掘が始まる。

T字の柱は、たぶん人間だ

掘り始めてすぐ、柱の全体像が見えてきた。上端が横に張り出したT字型。ただの十字ではない。よく観察すると、柱の細い面には人間の腕が浮き彫りにされている。肘が曲がり、前腕が正面に回り込み、指の細い手が腹の前で合わさる。腰には帯が巻かれ、その帯には記号らしきものが並ぶ。帯からは布かキツネの毛皮らしきものが垂れ下がっている。ふんどしだ。

つまりT字柱は抽象化された人体で、横棒の部分は頭である。顔はない。目も鼻も口も彫られていない。ただの平らな板だ。この「顔を描かない」という選択が不気味なんだよな。彼らは動物なら異様に写実的に彫れた。ハゲワシの羽の一枚一枚、イノシシの牙のカーブ、ヘビの鱗。技術の問題じゃない。描かないと決めていたのだ。

環の中心には、他より一回り大きい二本の柱が向かい合って立つ。高さ五メートル半、重さは十トンを超える。周囲を取り巻く十数本の柱は、石壁とベンチでつながれ、みんな中心の二本のほうを向いている。人間の形をした石が、円になって、中央の巨大な二人を囲んで立っている。そう思って写真を見ると、けっこう来るものがある。

円がひとつ、またひとつ、そして二十

発掘で姿を現した円形の囲いには、A、B、C、Dとアルファベットが振られた。もっとも保存がよく、有名なのが囲いDだ。直径二十メートル近く、中心柱の高さ五メートル半、周囲に十一本の柱。囲いCはさらに大きいが、後世に大きく掘り返された痕がある。

そして地中レーダーと磁気探査をかけたら、丘の下にまだ十六前後の円が眠っていることが分かった。柱の総数は二百本を超えるとみられている。三十年掘って、まだ全体の数パーセントしか出ていない。この「まだ大半が地面の下」という状態が、想像をふくらませる燃料になっているのは間違いない。

石を切り出した現場も残っている。丘の周りの石灰岩の露頭には、柱を削り出そうとして途中でやめた痕がいくつもある。中でも有名なのが、長さ七メートル近い未完成の巨大柱だ。完成していれば五十トン級。母岩から切り離す最後の段階で割れたのか、放棄されている。石器しか持たない人々が、鉄も車輪も家畜の牽引力もなしに、これを削り、運び、立てた。何百人かが何週間か、飯を食いながら働かないと無理な仕事だ。

麦を育てる前に、神殿があった

ここが一番の爆弾だ。ギョベクリ・テペの最下層、第III層は先土器新石器A期、紀元前九六〇〇年から八八〇〇年ごろ。この時代、この地域の人間はまだ野生の植物を採り、ガゼルやオーロックスを狩って暮らしていた。遺跡から出る動物骨はほぼ全部が野生種だ。家畜化された羊も山羊も牛もいない。栽培化された麦の痕跡も、少なくとも初期の層には見当たらない。

つまり狩猟採集民が、これを建てたのだ。

そしてもう一つ、鳥肌が立つ事実がある。現代のヒトツブコムギ(アインコルン)の野生原種の遺伝的な故郷を辿ると、ギョベクリ・テペから三十キロほどの位置にあるカラチャダー山の斜面に行き着く、という研究がある。世界最古の栽培麦の生まれた場所が、世界最古の巨石建造物の目と鼻の先にあるわけだ。

シュミットの解釈はこうだった。順番は逆だった。まず聖なる場所ができた。そこに広い範囲から人が集まるようになった。何百人分もの飯を用意する必要が生まれた。野生の麦を刈って運んで、そのうち種を播くようになった。神殿が農業を呼んだ。「最初に神殿があり、そのあとに町ができた」。彼はそう言い続けた。証明されたわけじゃない。でも、あの丘に立ってその話を聞かされたら、けっこうな確率で信じたくなると思う。

ハゲワシ、サソリ、イノシシ、そしてヘビ

柱に彫られた動物のラインナップが、また性格が悪い。かわいい動物がほとんどいないのだ。

ヘビが大量にいる。一本の柱の面いっぱいに、うねうねと何十匹も這っている。サソリがいる。クモがいる。ムカデがいる。イノシシは牙をむいて口を開け、勃起した状態で彫られているものもある。ハゲワシは翼を広げ、首を伸ばしている。ライオンかヒョウらしき大型のネコ科は、柱の側面を頭から駆け下りてくる姿勢で、爪と牙をあらわにしている。オーロックス、ガゼル、ロバ、ツル、トキ、アヒル。

食用になる草食獣も出てはくるのだが、遺跡から出る食べかすの骨の割合とは全然合わない。彼らはガゼルをたくさん食っていたのに、彫るのは毒虫と猛禽と猛獣に偏っている。食べるものと彫るものは別だった、ということだ。

おもしろいのは、囲いごとに主役の動物が違うこと。囲いAはヘビ、囲いBはキツネ、囲いCはイノシシ、囲いDは鳥類が目立つ。ドイツ考古学研究所のチームは、これを「別々の集団が別々の囲いを担当し、それぞれの紋章を彫った」可能性として提示している。氏族のトーテムみたいなものだ。この読みは、後で出てくる星座説への強力なカウンターにもなっている。

四三号柱――首のない男とハゲワシ

ギョベクリ・テペで一番有名な石。囲いDの壁に組み込まれた四三号柱、通称「ハゲワシの石」だ。ネット上では「四四号柱」と書かれていることもあるが、正しくは四三号柱。混同されやすいので先に書いておく。

この一枚の石には、異様に密度の高い絵が彫られている。上段には翼を大きく広げたハゲワシが立ち、その翼の上に丸い円盤が乗っている。太陽か、月か、あるいは何かの球体か。ハゲワシの隣にはトキらしき鳥が並ぶ。中段にはサソリ。そして右下、サソリの隣に、首のない人間がいる。頭がないのに、男性器だけがはっきり勃起した状態で彫られている。腕を上げているようにも、落ちていくようにも見える。

さらに柱の上端には、取っ手のついた袋のような形が三つ並んでいる。「ハンドバッグ」と呼ばれるやつだ。メソポタミアやメソアメリカの図像にも似た形があるので、古代文明系の界隈では長年おなじみのアイテムになっている。

この一枚で全部そろっているのだ。死、猛禽、毒虫、天体、そして生殖。何を意味しているのか、真面目に考えれば考えるほど分からなくなる。分からないから、みんなが好き勝手な意味を投げ込む器になった。

頭蓋骨に刻まれた、まっすぐな溝

二〇一七年六月二十八日、ドイツ考古学研究所のユリア・グレスキーとユリアーネ・ヘルム、リー・クレアらが『サイエンス・アドバンシズ』に論文を出した。タイトルは「ギョベクリ・テペの改変された頭蓋は新石器時代の頭蓋崇拝の新たな形態を示す」。これがまた、いい感じに怖い。

遺跡からは七百点あまりの人骨片が出ている。そのうち頭蓋骨の破片を丹念に見ていったところ、三個体分の頭骨に、明らかに人の手で入れられた深い溝が見つかった。石器で、生の骨に、ノコギリのように何度も往復させて刻んだ跡だ。溝は頭のてっぺんから前へ、まっすぐに走っている。うち一点には、穿孔された穴まで開いていた。

研究チームの読みはこうだ。この溝は装飾ではなく、ひもを引っかけるための加工だったのではないか。穴に紐を通して吊るす。柱の梁から、あるいはT字柱そのものから、頭骨を吊り下げていたのではないか。

先土器新石器時代の西アジアでは、遺体の頭部を切り離して別に保管する習慣が各地で確認されている。イェリコでは頭骨に漆喰を盛って顔を復元し、目に貝殻をはめ込んだものが出ている。ネヴァル・チョリでも頭骨は特別扱いされていた。ただ、ギョベクリ・テペの「深い溝を刻んで吊るす」タイプは他に例がない。だから「新たな形態」なのだ。四三号柱の首なし人間と、実際に出土した加工頭骨。

この二つが同じ丘から出てくると、さすがに背筋が寒くなる。

そして彼らは、自分たちで埋めた

ギョベクリ・テペがこんなに良い状態で残っている理由は、はっきりしている。埋まっていたからだ。囲いの内部は、石灰岩の礫、砕けた石器、動物の骨、灰、そして砕けた石像の破片が混じった土で、天井までみっちり詰まっていた。量にして三百から五百立方メートル。ダンプカー何十台分だ。

長らく、これは意図的な「埋葬」だと説明されてきた。役目を終えた聖なる建物を、儀式的に葬った。だからこそ丘は太鼓腹のように膨らんだのだ、と。この説明はドラマチックで分かりやすく、一般向けの記事にも大量に流れた。

ただ最近の発掘チームはもう少し慎重になっている。堆積の内部構造をよく見ると、一度にドサッと埋めたのではなく、斜面から流れ込んだ土砂や、上に建て増しされた建物からの廃棄物が、長い時間をかけて溜まった部分がかなりあるらしい。柱が抜き取られて別の囲いで再利用された形跡もある。建てて、壊して、埋めて、また建てる。

丘は一回の儀式で封印されたのではなく、何百年もかけてぐちゃぐちゃに更新され続けた現場だった、という見方だ。

個人的には、こっちのほうがむしろ怖い。整然とした儀式より、何世代も何世代も同じ丘で石を立てては壊し続ける執念のほうが、人間くさくて重い。

石の桶に残った、ビールらしき痕跡

何百人も集まったなら、飯と酒はどうしたのか。これについても物証がある。遺跡からは石をくり抜いた大型の容器が見つかっていて、最大のものは容量百六十リットル前後。その内壁からシュウ酸塩の残留が検出された。シュウ酸塩は、穀物を水に浸して発酵させたときに沈着する物質だ。

つまり、麦か何かの穀物を大量に仕込んで、発酵飲料を作っていた可能性が高い。世界最古のビール醸造の候補地のひとつということになる。栽培はまだしていない。野生の麦を刈って集めて、それを潰して水に漬けて、ぬるい酒を作って、みんなで飲んだ。石の環の中で。ハゲワシとサソリに囲まれて。

宴会は労働力を集める最強の装置だ。人類学では祝宴と共同労働の関係が繰り返し論じられてきた。誰かが「石を運んでくれ、酒と肉は出す」と言った。それが一万一千年前だった。そう考えると、この遺跡がぐっと身近になる。

「あれ、神殿じゃなくて家じゃないの?」という冷や水

シュミットの「世界最古の神殿」というフレーズは強烈に効いた。効きすぎた、という批判もある。二〇一一年、トロント大学のE・B・バニングが『カレント・アンソロポロジー』に論文を出した。タイトルは「これほど立派な家」。皮肉が効いている。

バニングの主張はこうだ。まず「聖と俗」をきれいに分ける発想自体が近代のもので、新石器時代の人々に当てはめる根拠がない。西アジアの初期新石器の集落では、住居と儀礼の場が同じ建物の中に同居している例がいくらでもある。ギョベクリ・テペの囲いからは、日常的な石器も、動物を解体した骨も、火を使った痕跡も出ている。人が住んでいた形跡があるのだ。

だとすればこれは「神殿」ではなく、装飾のとんでもなく派手な共同住居ではないか。

発掘チームはこれに反論している。囲いの内部には、通常の住居に必ずある炉や貯蔵ピットが規則的には見つからないこと、柱に施された図像の複雑さが日常の家のレベルを超えていること、そもそも一つの丘に二十も似た構造が集中するのは居住地としては不自然なこと。

決着はついていない。というか、最近の見取り図はもっと入り組んでいて、「特殊建造物」と居住区がひとつの集落の中で共存していた、という理解に落ち着きつつある。神殿か家かの二択がそもそも間違いだった、という話だ。ロマンとしてはちょっと寂しいが、そのぶん現実味はある。

シュミットの、あまりに突然の死

二〇一四年七月二十日、クラウス・シュミットが亡くなった。六十歳。休暇中、水泳をしている最中の心臓発作だったと伝えられている。発掘の指揮を執り続けたまま、あまりに急な死だった。

彼はギョベクリ・テペを世界に知らしめた張本人であり、同時に「神殿が先だった」という強い仮説を打ち出した人でもある。二〇〇六年にはドイツ語で『彼らは最初に神殿を建てた』という一般向けの本を出し、これがヨーロッパで広く読まれた。学界の内側では慎重な言い回しを守りつつ、外に向けてはきわめて雄弁だった。

そして「発見者が急死した」という事実は、当然のようにネットの燃料になった。呪いだ、消されたんだ、都合の悪いものを掘り当てたからだ。ツタンカーメンの発掘団のときと同じ構図である。断っておくと、六十歳の男性が心臓発作で亡くなるのは、悲しいけれど統計的にごくありふれた出来事だ。それでも人は物語を作る。むしろ、物語を作らずにいられない生き物なんだよな。

彼の死後、発掘の指揮はドイツ考古学研究所のリー・クレアらに引き継がれ、二〇一八年にはギョベクリ・テペがユネスコ世界遺産に登録された。

東へ四十六キロ、カラハン・テペが出てきた

ギョベクリ・テペが唯一無二だという前提は、もう崩れている。

ギョベクリ・テペから東へ四十六キロほど、ヤームルル村の近くの丘に、カラハン・テペという遺跡がある。一九九七年、ハッラン大学のバハッティン・チェリクが踏査で見つけていた。地表に出ているT字柱の頭だけで二百六十六本以上が数えられたという。長いあいだ手つかずだったが、二〇一九年からイスタンブール大学のネジミ・カルルの指揮で本格的な発掘が始まった。

出てきたものが強烈だった。岩盤を直接掘り込んで作られた部屋。その床から、細長い柱が十一本、垂直に生えている。柱は上に向かってわずかに膨らみ、先端に環状の刻みが入っている。誰がどう見ても男性器を模した柱だ。そして部屋の奥、岩壁から、人間の頭部が首を突き出すようにして生えている。蛇のような細い胴が壁を這い、顔は十一本の柱のほうを向いている。首から下は岩の中だ。

この部屋の写真が公開されたとき、世界中の考古学関係者がざわついた。ギョベクリ・テペの抽象的で顔のないT字柱とは、まるで表現の文法が違う。しかも年代はほぼ同時期か、むしろ少し古い可能性がある。二〇二三年九月には、二・三メートルの座った男性像も見つかった。両手で自分の男性器を掴んだ姿勢で、肋骨が浮き出るほど痩せている。生と死のあいだにいる誰かに見える。

タシュ・テペレル――丘は十二あった

カラハン・テペだけではない。二〇二一年、トルコ文化観光省が「タシュ・テペレル(石の丘々)」という大型プロジェクトを立ち上げた。シャンルウルファ県を中心に、同じ文化圏に属するとみられる十二ほどの遺跡を、一括して調査するという計画だ。

セフェル・テペ、アヤンラル・ホユック、ハルベツヴァン・テペシ、クルト・テペシ、チャクマク・テペ、ギュルジュ・テペ、サイブルチ。名前だけ並べても実感がわかないと思うが、要するに、あの巨大な石の環を作る文化は一つの丘の奇跡ではなく、南東アナトリアに広がった一つの「世界」だったということだ。

中でもサイブルチから出たレリーフは強烈だった。二〇二二年に報告されたもので、壁の一面に物語らしき場面が彫られている。左には、雄牛と向き合ってガラガラ蛇のような道具を手にした男。右には、両側からヒョウに挟まれ、男性器を掴んだ男。人物が主役で、明確に「場面」を構成している。これまで断片的な記号としてしか読めなかったものが、初めて物語として並んだ瞬間だった。エイレム・オズドアンらが報告している。

この十年で、ギョベクリ・テペは「説明のつかない孤島」から「巨大な文化圏の一角」へと位置づけが変わった。孤島だったころのほうがミステリーとしては美味しかったが、実像はこっちだ。

そして最近、イノシシに色が残っていた

二〇二三年から二四年にかけての発掘で、囲いDから実物大の野生イノシシの石像が出た。長さ一・四メートル、高さ〇・七メートル。四本足で立ち、背中の毛が逆立ち、牙が突き出ている。

驚かれたのは形ではなく、表面だった。赤、黒、白の顔料が残っていたのだ。目のあたりに黒、牙に白、胴に赤。一万一千年ものあいだ土の中で保たれていた。

これが何を意味するか。我々がこれまで見てきたギョベクリ・テペの写真、あの白っぽい石灰岩のモノトーンの世界は、当時の姿ではなかったということだ。柱も、レリーフも、像も、おそらく極彩色に塗られていた。真っ赤なイノシシ、黒く塗られたハゲワシ、白い牙。灰色の厳粛な遺跡というイメージを、いったん頭から捨てないといけない。もっと派手で、もっと野蛮で、もっと祭りだったのだ。

同じ時期、カラハン・テペからは異様にリアルな表情の人物像も出ている。目を見開き、口を引き結んだ顔。彼らは顔を彫れなかったのではなく、ギョベクリ・テペのT字柱では彫らないと決めていた。この対比が、いよいよ効いてくる。

「あの柱には彗星が記録されている」という説

さて、ここからが本題の一つ、トンデモと学問の境界線の話だ。

二〇一七年、エディンバラ大学の工学系研究者マーティン・スウェットマンとディミトリオス・ツィクリツィスが、『地中海考古学・考古計測学』という雑誌に論文を出した。「考古天文学でギョベクリ・テペを解読する」。主張はこうだ。四三号柱に彫られた動物は星座である。ハゲワシは射手座、サソリは蠍座、その他の動物もそれぞれ黄道十二宮に対応する。そして中央の円盤は太陽の位置を示す。

歳差運動を巻き戻して計算すると、この配置は紀元前一〇九五〇年±二五〇年を指す。この年代は、ヤンガードリアス期という寒冷期の開始と一致する。すなわち四三号柱は、彗星の破片が地球に衝突して氷期に逆戻りさせた大災害の「日付印」なのだ、と。

そして首なし人間は、その災害による大量死を表している。

よくできている。星座に見立てられた動物、日付が刻まれた記念碑、忘れられた大災害。物語として完璧すぎるほど完璧だ。この論文はメディアに一気に拡散し、「一万三千年前の彗星衝突が石碑に記録されていた」という見出しが世界を駆け巡った。

「ハゲワシ以上のもの」――発掘チームの反撃

同じ二〇一七年、ギョベクリ・テペの発掘に携わるイェンス・ノトロフ、オリヴァー・ディートリヒ、リー・クレアが、同じ雑誌に反論を載せた。タイトルは「ハゲワシ以上のもの――スウェットマンとツィクリツィスへの応答」。中身は容赦がない。

第一に年代。四三号柱が属する囲いDの放射性炭素年代は、いちばん古く見積もっても紀元前九六〇〇年前後。スウェットマンの言う前一〇九五〇年とは千三百年ほどずれる。つまり「事件から千三百年後に、口伝で正確な日付を保存して石に刻んだ」と主張していることになる。文字を持たない社会で、である。

第二に建築の実態。柱は最初に立てた位置にそのまま残っているわけではない。抜き取られ、運ばれ、別の囲いの壁に組み込み直された柱が複数ある。四三号柱自体、囲いDの壁に「はめ込まれて」いる。天体の配置を記録した記念碑が、後から壁材として使い回されるだろうか。

第三に図像の読み。首なし男には、はっきりと勃起した男性器が彫られている。単なる死者の表現としては、あまりに生きている。先土器新石器の葬制では、遺体をいったん解体して頭部を取り出し、再び別の場所に納めるという複雑な手順が知られている。この図はむしろ、その葬送の過程を描いたものと読むほうが自然だ。

第四に、そもそも遺跡には六十本以上の装飾された柱がある。そのうち一本だけを選んで星座に当てはめるのは、都合のいい札だけ引くのと変わらない。他の柱にはヘビが五十匹も彫ってあるが、あれは何座なのか。囲いごとに主役の動物が違うという事実も、星座説では説明できない。

このやりとりの後もスウェットマン側は再反論を続け、議論はまだ終わっていない。ただ、遺跡を実際に掘っている側の言い分のほうが、ずっと地面に足がついている。

巨人、超古代文明、ネットの丘

学術的な論争の外側では、もっと自由な世界が広がっている。

グラハム・ハンコックは二〇一五年の『神々の魔術』でギョベクリ・テペを大きく取り上げた。彼のストーリーはこうだ。氷期の終わりに高度な文明が存在した。彗星の衝突でそれは滅びた。生き残った賢者たちが世界各地に散り、農耕と天文と建築の知識を伝えた。ギョベクリ・テペはその賢者たちが遺した「文明再起動の拠点」である。

二〇二二年に配信されたネットフリックスの番組でも同じ趣旨が語られ、遺跡の名前は一気に一般層まで届いた。考古学者たちは公開書簡で強く抗議したが、視聴数の前ではほぼ無力だった。

アンドリュー・コリンズは二〇一四年の著書で、あの丘を「見張り人」たちの拠点だとし、白鳥座と結びつけた。

日本語圏では、もっとカジュアルな形で広がった。「教科書が書き換わる遺跡」「農耕より前に宗教があった」という切り口の解説動画が量産され、コメント欄には「歴史の授業で習ったのは何だったのか」「日本の教科書はいつ直るんだ」という書き込みが並ぶ。ここまでは健全だ。

そこから先が独特で、T字柱の巨大さから「巨人族が使ったテーブルだ」という話が出てくる。柱の腰の帯の記号が「未解読の古代文字」とされ、日本の神代文字と似ていると言い出す人が出てくる。四三号柱のハンドバッグが「ハイテク装置」になり、シュメールの神像やメソアメリカのレリーフに出てくる同じ形と並べられる。埋め戻しは「証拠隠滅」になり、シュミットの急死は「口封じ」になる。

呆れる一方で、なぜこうなるのかは分かる。事実の側があまりに強すぎるのだ。一万一千六百年前、狩猟採集民が五十トンの石を削って人の形の柱を立て、毒虫と猛禽を彫り、頭骨に溝を入れて吊るし、最後に全部埋めた。この事実だけで、たいていの創作より奇妙である。奇妙な事実は、必ず余計な物語を引き寄せる。

一人旅の男が見た、白い服の集団

体験談をいくつか。まずは日本から一人で行った旅行者の話だ。

シャンルウルファの街から車で丘に上がり、ビジターセンターで短い映像を見せられ、シャトルに乗り換えて遺跡に着く。第一印象は「思ったより小さい」だったという。囲いの上には巨大な膜構造の屋根がかかっていて、その下を金属の見学通路がぐるりと回っている。上から見下ろす形になるので、柱の高さが実感しにくい。歩いて回るだけなら三十分で終わるコンパクトさだった。

それでも彼は動けなくなったと書いている。屋根の下は薄暗く、風が膜を鳴らす音と、自分の足音しかしない。眼下では、顔のない石の人間たちが円になって立っている。振り返れば、丘の周囲には何もない乾いた平原が地平線まで続いている。一万年以上前、ここに人が集まってきた理由を考えていたら、時間の感覚がおかしくなったそうだ。

そして彼は、見学通路の端で白いワンピースを着た女性のグループが目を閉じて座り込んでいるのを見た。瞑想していたらしい。ガイドも係員も、特に注意する様子はなかった。ああいう人たちがわざわざここまで来るのも分かる、と彼は書いている。この場所は、科学の話をしていても、どこかで宗教の匂いがする。

〇番のバスで丘へ行った人の記録

もう一人、もっと実務的な記録を残している旅行者がいる。シャンルウルファ市街から〇番のバスに乗り、三十分ほどで遺跡の入口に着いた。朝十時に出て、帰りは十三時の便を狙った。入場はスマートフォンのQRコードで通り、支払いはカードでできた。

彼が数えたところ、その日見学路から見えた円形の構造は五つ。丘の上のほうから中腹に向かって、順に並んでいる。柱に彫られた動物は、上からだと意外に見えにくい。それでも鳥らしき形と、キツネらしき四足獣ははっきり分かったという。訪問は真夏で、屋根の下でも汗が止まらなかった。

おもしろいのは、彼が「遺跡より博物館のほうが衝撃だった」と書いていることだ。シャンルウルファ考古学博物館には、囲いDが実物大で再現されている。柱の下に立てるのだ。見上げると、五メートル半の石が自分に覆いかぶさってくる。上から見下ろしていたときには全く感じなかった圧が、真下から来る。あれは本当に人間の形をしていて、しかも自分よりずっと大きい。

あの博物館に寄らずに帰る人は損をしている、と彼は締めくくっている。

発掘に関わった人が漏らした、たった一言

三つ目は、現地の発掘に季節労働で入っていた人物から出た話として、いくつかの記事やインタビューで似た形で語られているものだ。人物は特定しない。

彼が言うには、掘っていていちばん妙な気分になるのは、囲いの中を満たす詰め物を除去していく作業だという。土だけならいい。だがその中には、砕かれた石像の頭が混ざっている。動物の像の脚が混ざっている。人骨の破片が混ざっている。要するに、丘の上で誰かが壊したものが、まとめて放り込まれているのだ。

一つの囲いを掘り下げると、時系列が逆再生される。上のほうには新しい破片、下に行くほど古い破片。掘り進むほどに、この場所で行われていた「壊しては埋める」の反復が、地層として手のひらに現れてくる。

彼は「掃除のあとを掘っている感じがする」と表現したという。誰かが片付けた現場に、一万一千年後にやってきて、ゴミ袋の中身を並べ直している。その言い方が妙に生々しくて、頭から離れないんだよな。祭壇の話でも、神の話でもない。人が使って、飽きて、壊して、捨てた。それが丘になった。

この遺跡が怖いのは、静かだからだ

幽霊も呪いも出てこないのに、ギョベクリ・テペの話にはどこか怖さがつきまとう。なぜだろうと考えていて、いくつか思い当たった。

一つは、顔がないこと。T字柱は明らかに人間なのに、頭には何も彫られていない。彼らは動物なら羽根の一本まで彫れた。それでも人の顔だけは空白にした。あの空白は、見る側が何を投げ込んでもいい穴になっている。神かもしれないし、祖先かもしれないし、死者かもしれない。分からないまま、こちらを見返してこない大量の人型が円になって立っている。

二つ目は、意味が回収されないこと。ヘビが五十匹並んでいる理由を、我々は永遠に知ることができない。文字がないからだ。同時代の記録が一行も存在しない。分からない、で確定している。人間はこの「確定した空白」に一番耐えられない。

三つ目は、時間の桁が壊れていること。この丘が使われていた期間だけで、千五百年ある。ローマ帝国の全期間より長い。そのあいだずっと、誰かが石を削り、誰かが埋め、誰かがまた掘り返していた。我々の歴史感覚がまったく通用しないスケールだ。

広まった理由も似た構造をしている。「教科書がひっくり返る」というフレーズは、それだけで人を動かす。学校で刷り込まれた順番が間違っていたと言われると、他にも間違っているものがあるんじゃないかと疑いたくなる。その隙間に、彗星も巨人も失われた文明も入り込む。ギョベクリ・テペは、実際に一つの常識をひっくり返した。だから、あらゆる常識をひっくり返したい人たちの旗になった。旗にされた丘は、たぶん迷惑している。

「神殿が先」というキャッチコピーは、もう合意ではない

ここまで書いてきて、自分でも整理がついた部分と、いよいよ分からなくなった部分がある。最後にそれを全部並べておく。

まず、いちばん大事な訂正から。「農耕より前に神殿があった」という一行は、キャッチコピーとしては最高だが、そのままの形ではもう学界の合意ではない。二〇二〇年代に入ってからのドイツ考古学研究所の見解は、かなり慎重だ。ギョベクリ・テペからは、日常的な石器も、解体痕のある動物骨も、火を使った跡も、水を溜めるための岩盤加工も出ている。

人がそこで暮らしていた形跡がある以上、「誰も住まない純粋な聖域」という初期のイメージは維持できない。かといってバニングの言うような「ただの派手な家」でもない。今の落としどころは、「特殊建造物と居住区が一つの集落の中で共存していた」というあたりだ。つまりあの円は、村の集会所であり、祖先の家であり、宴会場であり、記憶の装置であり、それらが未分化のまま同居していた場所だった。

近代人の「宗教施設」「住宅」という区分けを、一万一千年前に持ち込んだのがそもそもの間違いだった、という反省である。

ただし、それでシュミットの功績が減るかというと、まったく逆だと思う。彼が「神殿」という強い言葉を選ばなかったら、この遺跡は南東アナトリアの地方紙で終わっていた可能性が高い。学界の内輪だけで慎重に議論されて、四半世紀たっても発掘予算がつかず、いまだに丘の五パーセントも掘れていなかっただろう。強い言葉は、しばしば間違っている。同時に、強い言葉だけが人と金を動かす。

彼が死んだあとに彼の説が修正されていくというのは、皮肉ではなく、むしろ一番まっとうな敬意の払われ方だ。

彗星説の間違い方は、けっこう知的だ

次に、彗星説について。あの手の説の何が厄介かというと、間違っているのに、間違い方が知的なところだ。歳差運動の計算は本当にできるし、動物と星座の対応も一応の理屈がついている。だから理系の素養がある人ほど「検証可能なモデルじゃないか」と好意的に受け取ってしまう。しかし考古学の反論は、天文計算の中ではなく、その手前の前提にある。あの柱は動かされている。壁材として再利用されている。

年代が千三百年ほどずれている。そもそも同じ遺跡に六十本以上の柱があり、そのうち一本だけを選んで読んでいる。天文計算が正確であることと、その計算を当てはめる対象が正しいことは、まったく別の話だ。ここを飛ばした議論は、どれだけ数式が並んでいても議論になっていない。

そして「彗星説」と「超古代文明説」は、実は別物だということも言っておきたい。スウェットマンは失われた高度文明を主張していない。彼が言っているのは「狩猟採集民が天体観測をして、記憶を石に刻む知性を持っていた」ということで、これはむしろ先史時代の人間を高く評価する立場だ。ところがネット上を流通するうちに、この二つは完全に混ざった。

柱に彗星が記録されている、じゃあ記録した文明があったはずだ、その文明は滅んだ、生き残りが世界中に散った。この滑り台が、あまりに滑らかにできている。滑り台のどこから乗ったかによって、同じ「ギョベクリ・テペは常識を覆す」という言葉が、まるで別の意味になる。

頭蓋骨の話にも、まだ考える余地がある。三個体分の加工痕という数は、実はものすごく少ない。七百点の人骨片のうちの、たった三個体だ。これを「頭蓋骨カルトが社会を支配していた」と読むのは行きすぎで、慎重に言えば「そういう扱いを受けた人が、少なくとも三人はいた」に過ぎない。だが逆に言えば、その三人は特別だったということでもある。全員にやったわけではない。

選ばれた誰かの頭に、石器で線を引いて、穴を開けて、吊るした。敵の首だったのか、偉大な祖先だったのか、あるいは両方が同じ扱いを受けたのか。判断材料がない。ここでも我々は、確定した空白の前に立たされる。

終わりのない反復だった、という読み替え

個人的にいちばん気になっているのは、埋め戻しの再解釈だ。「一回の壮大な儀式で封印した」という物語が崩れて、「何百年もかけて壊しては積み、また建てた」という像に置き換わりつつある。これは地味だが、意味としてはずっと重い。前者なら、終わりがある。文明が閉じて、蓋をして、去った。後者だと、終わりがない。世代が変わるたびに、同じ丘の上で、同じことを何度も何度もやり直した人たちがいる。

柱を抜いて、運んで、また立て直す。前の世代の作ったものを壊しながら、その破片ごと自分たちの床に埋め込む。あれは記念碑ではなく、更新され続ける生き物だった。そう考えると、あの丘の膨らみそのものが、千五百年分の反復の堆積ということになる。

カラハン・テペの出現も、まだ消化しきれていない。あの十一本の柱の部屋は、写真で見た瞬間に体が冷えた。岩盤を掘り込んだ地下空間、床から生えた男性器状の柱、そして壁から首だけ突き出した人間。ギョベクリ・テペの「顔を描かない」美学と真逆だ。同じ文化圏、ほぼ同じ時代、四十六キロしか離れていないのに、表現の文法がここまで違う。ということは、あの地域には複数の異なる流儀が同時に存在していたことになる。

統一された宗教が広まっていたのではなく、丘ごとに違う流儀が競い合っていた。この見取り図のほうが、単一の失われた文明よりよほど生々しい。

腹より先に、物語だったのかもしれない

最後に、なぜこの遺跡がここまで人を惹きつけるのかについて、もう一段だけ踏み込む。ギョベクリ・テペが揺さぶるのは、歴史の年表ではない。人間の順番についての信仰だ。我々は無意識に、まず物質的な条件が整い、それから精神文化が生まれると思っている。食えるようになってから神を考えた、と。ところがあの丘は、腹を満たす技術より先に、意味を作る技術があったかもしれないと言ってくる。

もしそれが本当なら、人間にとっての一次的な欲求は食糧ではなく、集まって、同じものを見上げて、同じ話を共有することだったことになる。腹より先に物語だった、ということだ。

そう考えると、この遺跡をめぐって彗星説や巨人説や超古代文明説が湧いて出るのも、ある意味で筋が通っている。一万一千六百年前の連中は、石を削って自分たちの物語を立てた。二〇二〇年代の我々は、動画とスレッドで自分たちの物語を立てている。材料が違うだけで、やっていることは同じだ。あの丘の前に立った人間が、何かを語らずにいられなくなる。

それは一万一千年前から続いている、この場所の一番古い機能なのかもしれない。だとしたら、いま世界中で量産されているギョベクリ・テペ考察も、遺跡が今も現役で稼働している証拠ということになる。ちょっと出来すぎた話だけど、あながち外れてもいない気がしている。

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