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二卿事件――明治4年、二人の公卿が企てた「天皇奪還」クーデター未遂

明治維新の直後、天皇を東京から奪い返そうとした男たちがいた。しかも武士ではない。公卿だ。名を愛宕通旭と外山光輔という。計画は露見し、二人は切腹させられた。連座して捕まった者は三百三十九人。当時の記録はこれを「安政以来の大獄」と呼んだ。それだけの規模の事件なのに、教科書ではまず見かけない。西南戦争や佐賀の乱の陰に、すっぽり隠れてしまった話だ。

天皇が去った京都で、公家たちが腐っていた

まず、当時の京都の空気を思い浮かべてほしい。明治二年、天皇が東京へ移った。千年の都は一気に寂れる。公家町の屋敷は主を失い、御所まわりの通りには空き店が目立つようになった。住民は困窮し、都としての誇りだけが残った。

公卿たちの気分はもっと悪い。新政府の実権を握っているのは薩長の下級武士だ。禁門の変以来、公家は政治の中枢から遠ざけられていた。「天皇の藩屏」を自任してきた連中が、蚊帳の外に置かれている。この苛立ちが、やがて刃物に変わっていく。

愛宕通旭は当時二十五歳前後。明治二年五月に神祇官判事の職を失い、失意のまま京都へ戻っていた。「今の華族は柔弱で遊惰に流れている」と嘆いていたらしい。そんな彼のもとに出入りしていたのが、上立売町に住む国学者・比企田源二だ。この男の主張が過激だった。建言が通らないなら、兵を挙げて天皇を西京へお迎えするしかない。愛宕は明治三年八月、この計画の盟主になることを引き受ける。

日光を焼くか、居留地を襲うか

愛宕のまわりには人が集まった。家臣の安木劉太郎、田畑町に住む古賀十郎。古賀は秋田藩士の中村恕助と誼を通じ、秋田を挙兵の拠点にしようと動いていた。計画の骨子はこうだ。日光を占拠し、東京に火を放つ。混乱に乗じて天皇を京都へ連れ去る。書いていて背筋が寒くなる規模の話である。

ところが、同じことを考えていた公家がもう一人いた。外山光輔だ。こちらの構想はさらに過激で、京都と大阪を占拠し、神戸の外国人居留地を襲うというもの。家臣の高田修が中心になり、高野山を根城にする十津川郷士や阿波藩の脱藩士とも接触していた。さらに久留米藩に匿われていた反政府浪士の先鋭、大楽源太郎とも気脈を通じている。

外山の動機については、こう伝えられている。先帝・孝明天皇は根っからの攘夷主義者だった。それなのに新政府は開国路線をひた走っている。この憤りが彼を動かしたという。幕末の攘夷思想が、維新のあとも形を変えて生き残っていたわけだ。

東京の料亭で、二つの計画が一本になった

明治四年二月上旬、東京の元柳町にある料亭に、秋田・久留米・高知などから十数名の不平士族が顔をそろえた。歴史家の石井孝はこの集まりを「士族反対派の総集会」と評したという。

ここで愛宕案と外山案が初めて交わる。日光占拠・東京放火と、京坂占領・居留地襲撃。まったく別に温められていた二つの計画が、一つの盟約へと溶け合っていく。最終的に名を連ねたのは二十七名。盟主には外山を戴くところまで話が進んだ。もしこれが動いていたら、廃藩置県を目前に控えた明治政府の屋台骨は、本気で揺らいでいたかもしれない。

久留米が丸ごと巻き込まれた

事件のもう一つの震源が久留米藩だった。この藩には江戸後期から水戸学と尊王思想が根を張り、「天保学派」という一大勢力ができていた。安政年間には真木保臣らの「外同志」が嘉永の大獄で失脚し、禁門の変で真木が敗死したあとは、水野正名が尊攘派の顔になる。大政奉還後、水野は藩の実権を握り、応変隊・七生隊という私兵まで抱えていた。

明治三年九月、山口藩の奇兵隊の反乱に加担して敗れた大楽源太郎が、久留米へ転がり込んでくる。応変隊幹部の小河真文らがこれを匿った。大楽は外山とつながり、政府転覆計画の一員になっていく。藩が藩ぐるみで火薬庫を抱え込んだようなものだ。

三月、糸がほどけるように露見していく

明治四年三月、東京では参議・広沢真臣が何者かに暗殺されたばかりだった。政府中枢はぴりぴりしている。その捜査の過程で、二卿の計画も次第に表へ出てきた。

三月七日、まず外山が捕縛される。三月十日には東京の久留米藩邸が押収され、藩知事・有馬頼咸は謹慎・幽閉の身になった。三月十三日、熊本藩の兵が久留米城に乗り込んで接収する。一藩が実力で押さえ込まれるという、尋常でない事態だ。逃げた大楽源太郎は、結局のところ藩士の手で斬殺された。三月十四日には愛宕も捕らえられ、連累として三百三十九名が検挙される。

処分は容赦なかった。小河真文は首謀者として斬首、水野正名は終身禁錮のうえ獄死。久留米藩だけで五十名近くが罰せられている。明治十一年、禁錮を終えた松村雄之進らは多くの藩士とともに福島県へ移り住んだ。故郷を捨てての再起だ。名誉が回復されるのはずっと後で、明治二十五年になってようやく久留米の篠山神社に「西海忠士之碑」が建てられた。

二条城の一室で、公家が腹を切った

そして同年十二月三日、西暦でいえば明治五年一月十二日。愛宕通旭と外山光輔の二人は、京都・二条城の芙蓉之間で切腹を命じられた。

公家が武士の作法で処断される。これは当時としても異例中の異例だった。新政府がここで示したメッセージははっきりしている。旧体制の名門だろうと、反逆と見なせば一切手加減しない。それだけの重さを、二人の死に背負わせたわけだ。

なぜこの事件だけ、きれいに忘れられたのか

二卿事件が歴史の陰に埋もれやすい理由ははっきりしている。佐賀の乱も神風連の乱も萩の乱も、征韓論政変以降の「不平士族の反乱」という枠でまとめて語られる。ところが二卿事件はそれより五年以上早い。士族という身分制度が固まる前の、もっと古い型の反乱なのだ。

だから研究者の多くは、これを士族反乱の先駆けとは見ない。幕末の尊王攘夷運動の、最後の余震として位置づける。公家の自尊心と、開国への反発。維新以前の空気がそのまま噴き出した事件だった、という読み方である。

「天皇の取り合い」だったという見方

尋問調書をもとに整理された記録を読むと、両集団は当初まったく別に動いていた。ところが互いの計画を知ると、すぐさま使者を送り合って手を結んでいる。この身軽さが不気味だ。

京都の公家、遠方の不平藩士、旧幕臣系の浪人。新政府の中核である薩長下級武士層からこぼれ落ちた連中が、「天皇を自分たちの手に取り戻す」という一点だけで、あっさり結びついてしまう。当時、天皇は単なる象徴ではなかった。手にすれば政治的正統性そのものを手にできる、実体のある玉だった。そう思われていたからこそ、こんな取り合いが起きる。

泳がせ捜査だったのでは、という囁き

ネット上でこの事件が語られるとき、必ず顔を出す見立てがある。岩倉具視ら政府中枢に近い勢力が、旧来の公家層や不平士族をわざと泳がせたのではないか、というものだ。計画を実行寸前まで進ませ、一網打尽にする。公家勢力の粛清と反政府分子の一掃を、一度に片づける。

裏付ける史料が示されているわけではない。ただ、三百三十九名という検挙者数の多さと、久留米藩という一藩全体を巻き込んだ処分の不自然さを根拠に、この説を口にする人は少なくない。

もう一つ、この事件はしばしば明治天皇すり替え説のような陰謀論と結びつけて語られる。二卿事件自体はすり替えとは無関係の史実だ。それでも、天皇を奪い返そうとした勢力が実在し、しかもそれが天皇に最も近いはずの公家から出てきたという一点が、陰謀論の側にとっては都合のいい傍証になってしまう。天皇をめぐる争奪戦が現に起きていたのだから、と話が飛ぶわけだ。

石碑の前に立った人たちの声

久留米に住む郷土史好きの人は、こんなふうに書いている。篠山神社の西海忠士之碑の前に立つと、案内板は短いのに、刻まれた名前の数に圧倒される。学校でも習わないこんな大きな事件が自分の町であったのかと、初めて知ったときは背筋が寒くなった、と。

京都の上立売町あたりを歩いたという別の書き手は、比企田源二の屋敷跡とされる場所には案内の石碑ひとつないと記している。今はごく普通の民家が建っているだけだ。この路地から天皇奪還計画が練られていたのかと思うと、静かな住宅街の風景が急に違って見えてくる、という言葉が印象に残る。

歴史系の動画のコメント欄では「西南戦争や佐賀の乱は習うのにこれは初耳だった」「公家が切腹させられたというのがそもそも衝撃」といった反応が目立つ。事件の知名度の低さそのものが、驚きの材料になっているわけだ。研究者からは、京都・久留米・秋田・十津川・高野山という広い範囲をまたぐネットワーク型の計画だった点にこそ価値があるのに、史跡整備がほとんど進んでいないのは惜しい、という評も出ている。

今も残る、あまりに静かな現場

舞台になった土地は今もある。京都の二条城には切腹の場となった芙蓉之間があり、福岡県久留米市の久留米城跡と篠山神社には西海忠士之碑が建つ。奈良の十津川郷、和歌山の高野山周辺は、外山方に協力したとされる十津川郷士たちの拠点として名が挙がる。京都市上京区の上立売町・田畑町は、愛宕のブレーンが暮らしていた界隈として、郷土史好きが訪ね歩く場所になっている。

どこも今は静かな住宅街か観光地だ。百五十年前、ここで天皇奪還の相談が交わされていたことを示すものは、ほとんど何も残っていない。

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