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上杉謙信女性説――軍神に隠された性別の謎

越後の龍、その生涯――「軍神」上杉謙信の物語

享禄三年(1530年)、越後守護代・長尾為景の子として虎千代は生まれた。幼くして城下の林泉寺に預けられ、住職・天室光育のもとで学問と禅を叩き込まれた。兄・晴景の跡を継いで長尾家の家督を継承したのは十九歳のとき。

以後、元服して長尾景虎と名乗った。やがて関東管領上杉憲政から上杉の名跡と関東管領職を譲られて上杉政虎、将軍足利義輝から偏諱を受けて上杉輝虎。晩年には出家して不識庵謙信と号した。

とにかく名前が多い。生涯にわたって、この人物は名を変え続けた。後世「軍神」「越後の龍」と呼ばれ、数々の伝説に彩られることになる上杉謙信その人だ。謙信の生涯を貫くのは、川中島における宿敵・武田信玄との五度にわたる対峙だ。

舞台は永禄四年(1561年)の第四次川中島合戦。謙信自らが単騎で信玄本陣に斬り込み、床几に座る信玄に太刀を浴びせたという「三太刀七太刀」の逸話が広く語られている。史実としての勝敗は判然としない。それでもこの一戦は日本合戦史上でも屈指の激戦として記録された。後世の講談・浮世絵・軍記物の題材として繰り返し再生産されてきた。

戦は川中島だけで終わらない。関東への出兵も十度を超えた。小田原城を包囲して関東管領の職を継承する儀式を鶴岡八幡宮で執り行うなど、その軍事行動は北陸から関東にまで及んだ。謙信は生涯にわたって正室を迎えず、側室も置かず、実子を一人も残さなかった。これが私生活における最大の特徴だ。

問題は跡継ぎだ。家督は姉・仙桃院の子である上杉景勝と、後北条氏から迎えた養子・上杉景虎(北条氏康の子)の二人の養子に委ねられた。この後継者問題こそが、謙信の死後に勃発する「御館の乱」という骨肉の争いの火種となった。

話は最期へ飛ぶ。天正六年(1578年)三月、謙信は越後・春日山城内で倒れ、数日後に息を引き取った。享年四十九。当時の記録『当代記』にはその死因が「大虫」と記されており、これが後世いくつもの解釈を生む種となる。

通説として確認されている記録

史料上、謙信について確認できる事実は次の通りだ。生涯不犯(女犯を絶つ誓い)を立てていたという逸話は、江戸期の軍記物や地元に伝わる伝承として広く流布している。こちらは毘沙門天への深い信仰と結びつけて語られてきた。謙信が合戦中であっても定期的に体調を崩し、陣中から一時的に姿を消していたという記録が、複数の逸話集に見える。この点も事実として扱われている。

その頻度や症状の詳細は、史料によって記述が揺れている。後世の脚色が多分に含まれている、というのが大方の見方だ。まあ、話半分で聞くのがいい。謙信の肖像画は時代によって描かれ方が大きく異なることも、確認されている記録だ。

最古とされるのは米沢・上杉神社所蔵の慶長期の肖像。こちらはふっくらとした頬立ちで、穏やかな面差しに描かれている。後世(江戸中期以降)に量産された肖像画の多くは、無精ひげを蓄えた精悍な武将として描かれる傾向が強い。まるで別人だ。これは単純な年代・画風の違いとも、あるいは為政者としてのイメージ形成の変化とも説明されており、確定的な結論は出ていない。

次は死因の話だ。江戸時代の軍学者・宇佐美定祐が著した『北越軍談』系統の史料では、「厠(トイレ)で倒れた」とする記述が広まった。これが「大酒飲みの謙信が厠で脳卒中を起こした」という通俗的なイメージの源になった。

ここで話が変わる。近年の研究では、当時の「閑所」という語に便所以外の用法があったことが指摘されている。書斎や居室など、人が一人で過ごす部屋全般を指す用法だ。謙信が書斎で倒れたとする解釈のほうが実態に近いとする見方も有力になっている。

異説――「上杉謙信女性説」の詳細な論拠

ここからが本番だ。こうした謎めいた記録を土台に、「上杉謙信は実は女性だったのではないか」という大胆な仮説が唱えられてきた。この説を最初に大々的に世に問うたのは、独特の歴史観で知られる小説家・八切止夫だ。八切は昭和四十年代に発表した著作の中で、複数の状況証拠を積み重ねてこの仮説を展開した。後年には単行本としてまとめて刊行した。

以来、この説は「トンデモ史観」と切り捨てられながらも、なぜか繰り返し再燃し、令和の現在に至るまで根強い人気を保っている。正直、しぶとい。女性説を支える論拠として頻繁に引用されるのが、いわゆる「スペイン文書」だ。

出どころは異国の文書。スペイン国王フェリペ二世に宛てられたとされる報告書の中に、次の趣旨の記述がある。「会津の上杉家はその叔母(tia)が佐渡で得た黄金を多く所有している」。この「叔母」こそが上杉景勝から見た謙信であり、謙信女性説の物的証拠だと主張される。

この文書そのものの原本所在は明確でない。スペイン語の「tio(叔父)」の誤記・誤読ではないか、という指摘も語られる。佐渡金山の本格開発がそもそも謙信没後の慶長年間だ、という時系列の矛盾も同時に語られる。いわば「諸刃の剣」的な論拠だ。第二の柱は、死因とされる「大虫」の解釈だ。

読み替えが大胆。八切説では、この語を女性特有の症状、すなわち月経に関連する隠語として読み替える。謙信は更年期の不調によって命を落としたのだと、この説は主張する。合戦中にたびたび見られた原因不明の腹痛も、この月経周期説と結びつけて語られやすい。第三に、前述の生涯不犯の誓いと実子皆無そのものが、「女性であったからこそ子を生せなかった」のだとする解釈に転用される。

今度は着物と唄。第四の傍証は、米沢に伝わる謙信所用と伝えられる小袖が、女性好みとされる意匠・色柄であることだ。越後に伝わるごぜ唄(瞽女唄)の歌詞に、謙信の女性性を仄めかすような一節があることも傍証に数えられる。

ネット・創作物における広がり

この仮説は学術的な支持をほぼ得られなかった。創作の世界となると話は別だ。エンターテインメントの世界では長らく愛され続けてきた。漫画家・東村アキコによる『雪花の虎』は、謙信女性説を正面から採用した。幼くして父を失い、女であることを隠して男として生き、家督を継いでいく苦悩の生涯を描いた話題作として知られる。

ゲームの世界でも、『戦国BASARA』シリーズは謙信を中性的・両性具有的なキャラクターとして描いた。女性声優を起用することで、独特の存在感を演出した。流れは止まらない。ソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』でも、女性のサーヴァントとして謙信が実装された。この解釈は若い世代のあいだで一気に一般化した。

ネット小説も負けていない。「小説家になろう」やカクヨムなどの投稿サイトには、「おんな謙信」を題材にした二次創作・オリジナル小説が多数投稿されている。歴史のロマンとジェンダーというテーマが、今も新しい書き手を惹きつけ続けている。

掲示板・ブログでの考察の様子

歴史系まとめサイトや過去ログを覗くと、この話題は定期的に盛り上がりを見せる鉄板ネタの一つになっている。書き込みはこんな調子だ。

「謙信女性説はロマンがあるけど、スペイン文書が眉唾すぎる」。「大虫を月経って読むのは国語的に無理があるだろ、寄生虫か何かの誤記の方が自然」。「そもそも生涯不犯なんて武将は他にもいるし、跡継ぎ問題を避けるための政治的判断と考えた方がしっくりくる」。こんな書き込みが並ぶのが定番だ。

逆の声もある。「肖像画の顔つきが時代でこんなに違うのは単純に不自然」。「毘沙門天に妻を娶らないと誓った逸話自体、話としてよくできすぎている」。状況証拠の積み重ねに引き込まれる、こうした声も根強い。

個人ブログでは、「女性説を真面目に検証してみた」という体裁の長文記事が多数書かれる。これがまた長いんだよな。コメント欄では「ロマンとして好き」「史実としては無理筋」の二派に分かれ、延々と議論が続く光景がしばしば見られる。

現在の学術的評価と反証点

現在の歴史学界における評価は、女性説に対しておおむね否定的だ。根拠とされるスペイン文書自体、実在性・原文が確認できない。史料批判に耐えるものではない、という扱いだ。「大虫」についても、当時の辞書・用例をあたる限り、月経を指す語義は確認されていない。寄生虫や腹部疾患を示す言葉として解釈するのが自然だ、とされる。

独身の件はどうか。生涯不犯についても、性別の証拠とはなり得ないという指摘がある。単に生涯独身を貫いたという意味であり、女犯厳禁を掲げる仏門的な誓いを立てた武将は謙信に限らず他にも例がある、という理屈だ。

謙信は女人禁制の高野山にたびたび登嶺し、出家得度も行っている。これは当時の記録・寺院側の対応からしても、女性であればひどく不自然な行為だ。女性説にとって大きな不利材料とみなされている。上杉家廟所に眠るとされる遺骨についても、家系の尊厳を理由に学術的な鑑定調査は行われていない。決定的な証拠は今も得られていない。

関連する史跡・伝承地

謙信ゆかりの史跡には、居城であった新潟県上越市の春日山城跡(国指定史跡)がある。幼少期を過ごし、後に廟所ともなった林泉寺もそうだ。長野県長野市にある川中島古戦場史跡公園も、その一つ。家督を継いだ景勝が国替えとともに移した、山形県米沢市の上杉家廟所や上杉神社も並ぶ。

注目は米沢だ。米沢の御廟所には、歴代上杉家当主とともに謙信の遺骸(あるいは遺灰)が納められていると伝えられる。女性説の真偽を解き明かす最後の鍵として、しばしば話題にのぼる場所だ。

整理しておこう。上杉謙信女性説には、単独の決定的証拠がない。「生涯不犯」「実子なし」「原因不明の腹痛」「肖像画の相違」「怪しげな異国文書」。複数の傍証を寄せ集めることで、一つの物語として成立している。この点に、この説特有の強度と脆さが同居している。

歴史学的な反証は、個々の論点についてはおおむね有効だ。それでもなお、「なぜ謙信だけがここまで極端に女性を遠ざけた生涯を送ったのか」という根本的な謎そのものは解消されていない。

この説が半世紀近くにわたって語り継がれ、創作物の中で繰り返し再生産され続けている。その最大の理由はここにある、とみるのが自然だ。史実と物語のあわいに揺れる「軍神」の素顔は、令和のいまも読む者の想像力を強く刺激し続けている。

上杉謙信女性説が生まれた根拠

上杉謙信は越後を支配し、川中島の戦いなどで知られる戦国大名だ。一般には男性として記録される。ところが、女性だったという説が20世紀に広まった。周期的な腹痛、死因、衣服、スペイン関係文書の語句などが、根拠として挙げられてきた。各根拠が本当に同時代資料にあるか、一つずつ確かめないと判断を誤る。

毎月の腹痛から。謙信が毎月一定の時期に腹痛を起こしたという説明は、月経の証拠としてよく引用される。日記の原文、日付の連続性、症状の記述を確認せず、後世の伝記がまとめた話を周期表にしてはならない。胃腸疾患、飲酒、別の病気など可能性もあり、症状だけで生物学的性別を決定できない。

死因も決まらない。死因については、脳卒中、胃腸の病気、婦人科疾患など諸説がある。厠で倒れたという逸話も、どの資料に最初に現れるかを確認したい。遺体の医学的検査ができない以上、現代の病名を確定診断として付けることは難しい。

叔母の一語。スペイン語・ポルトガル語の報告に「叔母」を意味する語が使われたという説も有名だ。原文の所在、筆記者、誰を指す代名詞か、翻訳の正確さを確かめないと話は前に進まない。一語の誤読や写本の違いがあれば、女性説の重要な柱は弱くなる。二次資料の訳文だけを反復しないことが大切だ。

念のため言っておく。謙信が生涯妻を持たなかったことや、女性的な衣装を好んだという話も、女性である証拠にはならない。毘沙門天信仰、養子による後継、戦国大名の婚姻政策を含めて考えるべきだ。現代の性別役割を衣服や未婚へ当てはめると、当時の文化を誤る。

書状や系譜、家臣の日記では、謙信は男性の官位・呼称で扱われる。これらが政治的に性別を隠すため統一されたという説には、隠蔽を示す独立資料が必要になる。大勢の家臣と敵対大名が生涯秘密を守ったという筋を、資料がないことだけで支えることはできない。

女性武将の話も出る。女性武将がいたことと、謙信が女性だったことも別の問題だ。井伊直虎や立花誾千代などの例を並べても、可能性の証明にはならない。かといって、戦国期に女性が政治・軍事へ関わった事実を、謙信女性説の否定に利用する必要もない。

DNAで決着、とはいかない。遺骨やDNAを調べれば決着するという提案には、墓所、遺骨の同定、宗教的・倫理的問題がある。発掘許可なく墓を暴くことはできず、性染色体だけで本人が社会的にどの性で生きたかまで分からない。歴史研究は物証だけでなく、同時代の呼称と役割を読む。

魅力は認めたい。女性説は、軍神と呼ばれた人物像へ新しい見方を与える魅力を持つ。「女だから情緒的」「男性を嫌ったから女」のような偏見で物語を補わないことが大事だ。根拠の出典と反論を並べ、未確定の仮説として扱えば、性別当てではなく史料の読み方を考える題材になる。

肖像画も同じだ。肖像画の顔立ちや骨格から性別を判定する説にも限界がある。肖像は理想化され、本人を直接見ずに後世描かれたものもある。細い眉、白い肌、衣装の色を現代的な女性らしさへ結びつけてはならない。甲冑の寸法も、着用者本人の物か、奉納・伝来の経路を確かめないと当てにならない。

漆の噂もある。謙信の遺骸が甲冑姿のまま漆で固められているという話は、墓所内部の非公開性と結びつく。写真や調査記録の有無を確かめず、性別を隠すため開棺できないと断定してはならない。宗教的な墓所保護は、女性説の隠蔽とは別の理由を持つ。

決定打はない。史料に女性を示す決定打がないことと、ジェンダーをめぐる歴史研究が無意味であることは、別の話だ。説が人気を得た時代背景も含め、武将像に何を期待したかを考えたい。

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