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長屋王の変と藤原四子の全滅――八年後に返ってきた「祟り」の話

奈良時代の政変のなかでも、これほど短時間で、これほど徹底的に、ひとつの家が消えた事件はない。密告があってから当主が死ぬまで、たったの中二日。裁判らしい裁判もなく、弁明の記録も残らず、妃も子どもも一緒に首をくくった。そして八年後、その事件で得をしたはずの四人の兄弟が、数ヶ月のうちに全員死んだ。当時の人がこれを何と呼んだかは、想像がつくと思う。

## 密告状が一枚、それだけで王家は丸ごと消えた
まず、この事件のいちばん怖いところを先に言っておく。長屋王を殺したのは戦争でも反乱でもない。密告だ。それも、宮廷の中枢にいた大物からのものじゃない。左京に住む従七位下の漆部造君足という、はっきり言って歴史の表舞台にはいっさい出てこないレベルの下級官人と、中臣宮処連東人という同じく無名の男、この二人が朝廷に駆け込んで訴え出た。それだけで、正二位左大臣、天武天皇の孫にして天智天皇の孫でもあるという当時の日本でいちばん血筋の重い皇親政治家が、四十代なかばで死ぬことになった。
告発の中身は一行で足りる。長屋王はひそかに左道を学び、国家を傾けようとしている。正史の『続日本紀』にはその趣旨がそのまま漢文で残っていて、左大臣正二位長屋王ひそかに左道を学び、国家を傾けんと欲す、と告げたと書かれている。左道というのは要するにまっとうな道から外れた術、呪術や邪法のことだ。国を呪い殺そうとしている、という告発だと思えばいい。証拠は書かれていない。誰がどこで何を見たのかも書かれていない。取り調べのやりとりも書かれていない。正史が伝えるのは、告発があった、兵が囲んだ、死んだ、という三点だけ。この記録の薄さ自体が、後の世の人間が「これはおかしい」と思い続ける最大の理由になった。
しかもこの告発、九年後に朝廷自身が公式に「嘘だった」と認めることになる。誣告、つまり事実無根の告発だったと正史に書かれてしまう。国家が自分で処刑しておいて、あとから自分でそれを冤罪だと認めた。奈良時代の政変にはいくつも似た構図があるけれど、ここまできれいに自白しているケースは珍しい。

## 神亀六年二月十日、夜のうちに都の出入口が全部閉まった
日付を追っていく。神亀六年、西暦でいうと七二九年の二月十日。この日、君足と東人の密告が朝廷に届いた。ここからの動きが、とにかく速い。
朝廷はその日の夜のうちに、三関を固めた。三関というのは、東国へ抜ける伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発、この三つの関所のこと。ここを封鎖するのは、天皇の死や国家の非常事態のときにやる特別措置だ。要するに、誰も都から東へ逃がさない、東から誰も入れない、という宣言。密告を受けてから数時間でこれをやっているということは、少なくとも決定する側にはためらいがなかったということになる。
同じ夜、式部卿従三位藤原宇合を筆頭に、衛門佐の佐味虫麻呂、左衛士佐の津島家道、右衛士佐の紀佐比物といった面々が、六衛府の兵を率いて動いた。目的地は平城京左京三条二坊。長屋王の邸宅である。ここで押さえておいてほしいのは、藤原宇合が藤原不比等の三男、つまり藤原四子のひとりだという事実だ。四人兄弟のうちのひとりが、直接、軍を率いて政敵の家を囲んでいる。これは政治的な手続きの体裁を借りた軍事行動で、しかも指揮官の名前がこれ以上ないほどわかりやすい。
想像してみてほしい。二月の平城京、まだ寒い。日はとっくに落ちている。四町分、面積にして六万から七万平方メートル前後という都でも指折りの広大な邸宅、そこには当主一家だけでなく、家政機関の役人、職人、下働き、警備の帳内、山ほどの人間が住み込みで暮らしている。その塀のまわりを、松明を持った衛府の兵がぐるりと取り囲んでいく。門は閉ざされ、誰も出られない。中にいる人間は、何が起きているのか、その時点ではまだ正確にはわかっていない。外から声はかけられただろうが、正史はそれすら書いていない。
長屋王本人がその夜どう振る舞ったのかは、まったくわからない。抵抗した形跡はない。兵が門を破ったという記述もない。囲まれたまま、夜が明けた。

## 二月十一日、六人の顔ぶれを見た瞬間に全部わかったはずだ
翌十一日、包囲された邸に朝廷の使者が入る。この顔ぶれが、この事件のいちばん雄弁な部分かもしれない。
一品舎人親王。天武天皇の子で、当時の皇親の最長老格、『日本書紀』編纂の総責任者でもあった人物。新田部親王。同じく天武天皇の子。大納言正三位多治比池守。中納言正三位藤原武智麻呂。ここでまた藤原が出てくる。武智麻呂は不比等の長男、藤原四子の筆頭だ。さらに右中弁の小野牛養、少納言の巨勢宿奈麻呂。合計六人。
この六人が、罪を糾問するために邸に入った。名目は取り調べだが、実質的には何だったのか。皇親の最高権威を二人並べているのは、これが藤原氏の私闘ではなく国家の正式な決定であるという体裁を作るためだろう。そして実務の中心に武智麻呂がいる。外を宇合の兵が固め、中に武智麻呂が入っていく。兄弟で表と裏を押さえているような配置だ。
長屋王が何を言ったのか、六人が何を問うたのか、記録はゼロ。この空白がまた不気味で、後世の作家や研究者はここを想像で埋めたくなる。ただ、確かなことがひとつある。左大臣は正二位、位で言えばこの六人の誰よりも上だ。その人物が、自分より下位の者たちに邸の中で尋問される。この時点で政治的な決着はついている。長屋王ほどの政治家が、それを読み違えたとは思えない。

## 二月十二日、王は死に、妃も子どもも死んだ
そして十二日。長屋王は自害した。『続日本紀』は王が自尽したと記す。後世の説話では毒を仰いだとも伝わる。同じ日、妃の吉備内親王が首をくくり、その子である膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王も同じように死んだ。
ここは何度読んでも重い部分だ。吉備内親王は元明天皇の娘で、草壁皇子の子。つまり聖武天皇の父方の血筋にきわめて近い、正真正銘の皇女である。彼女は誰かに罪を問われたわけではない。実際、天皇は事件の翌日に出した詔で、吉備内親王には罪がないと明言している。罪がないと分かっている人間が、それでも死んでいる。子どもたちも同じだ。膳夫王以下の四人は、母が皇女、父が左大臣という、当時としては最上級の血を引く若者たちだった。彼らが自ら縄をかけた。
家の中で何が起きていたのかは書かれていないが、外は兵に囲まれ、中には尋問の使者が来て、当主が死んだ。その状況で妻と子が続いたという事実だけが残る。奈良時代の政変で家族が丸ごと死ぬケースは他にもあるが、これほど短時間で、しかも一日のうちに一族の中核が消えた例はほとんどない。
翌十三日、遺体は生駒山に葬られた。現在、奈良県生駒郡平群町梨本に宮内庁が長屋王墓として治定している塚があり、そのすぐ近くに吉備内親王墓とされる塚もある。長屋王墓のほうは直径十五メートル、高さ一メートル半ほどの円墳状の小さな塚で、明治三十四年に治定された。江戸中期の『大和志』の段階で、梨本の二つの塚が夫妻の墓だと地元では言い伝えられていたらしい。命日にあたる時期には墓前で祭りが営まれてきた。ちなみにこの塚の下には六世紀前半の前方後円墳が埋もれていることが後の調査でわかっていて、長屋王の埋葬と古墳との関係は今もはっきりしていない。

## 生き残った人間と、生き残らなかった人間の線引き
事件のあと、朝廷は長屋王家の人間を洗った。九十七人が捕らえられ、うち七人が流罪、残る九十人は放免された。この処分の軽さは、逆に事件の性格を照らし出している。本気で国家転覆の陰謀があったと思っているなら、九十人も無罪放免にはしない。目的は長屋王という個人と、その直系の一部を消すことだった、と読むほうが素直だ。
そしてもうひとつ、決定的に意味深な事実がある。長屋王の子のうち、藤原不比等の娘である藤原長娥子が産んだ安宿王、黄文王、山背王らは死んでいない。生き延びて、のちに官人としてキャリアを歩んでいる。死んだのは吉備内親王が産んだ子だけだ。つまり、皇位継承の可能性を持つ血筋の側だけが、きれいに消されている。藤原の血が入っている子は残された。この線引きの露骨さが、藤原氏黒幕説を何百年も支え続けている最大の物証と言っていい。
密告した二人には褒美が出た。君足には外従五位下という位が与えられ、封戸三十戸と田十町が支給されたと伝わる。従七位下の下級官人が一足飛びに五位、つまり貴族の入口に届いたわけだ。位階というのは奈良時代においては人生そのもので、五位と六位の間には収入も待遇も子孫の扱いもまったく違う壁がある。その壁を、密告一本で越えた。これを「まっとうな功績への報酬」と読むか「口封じ込みの成功報酬」と読むかで、この事件の見え方は変わってくる。

## そもそも「左道」って何をやったことになっていたのか
告発の核心である左道について、もう少し掘っておきたい。ここが曖昧なままだと、事件の輪郭がぼやける。
律令の規定では、呪詛によって人を害する行為は重罪だった。特に天皇や皇太子を呪うことは、謀反や大逆に並ぶ扱いを受ける。だから左道を学んで国家を傾けようとしたという告発は、法的にはいちばん重いところを突いている。逆に言えば、証拠を出しにくいものでいちばん重い罪を作れる、という便利な罪名でもある。人を刺したなら死体が出るが、呪ったという告発に物証はいらない。密告者の証言だけで成立してしまう。
後世の説話が伝えるところでは、この告発の背景に、神亀五年に夭折した聖武天皇の皇子、いわゆる基王の死があったとされる。生後まもなく皇太子に立てられ、一年たたずに死んだこの皇子の死を、長屋王が呪い殺したのだ、という筋書きだ。ただし『続日本紀』にはそこまで具体的には書かれていない。皇子の死と告発を結びつけるのは、後の時代の解釈が混ざっている可能性が高い。それでも、時系列としては神亀五年の秋に皇子が死に、その翌年の二月にこの告発が来ている。当時の人がこの二つを結びつけて噂したとしても、まったく不思議ではない。
そして肝心なのは、告発の中身が九年後に公式に否定されるという事実だ。天平十年、大伴子虫という官人が、囲碁を打っている最中に中臣宮処東人を斬り殺すという事件が起きる。子虫はかつて長屋王に仕えていて、恩を受けていた。碁盤を囲みながら話が事件のことに及び、激高して斬ったと伝わる。そしてこの記事を書いた『続日本紀』の筆は、東人のことを「長屋王を誣告した人物」と記した。誣告、つまり事実無根の訴えである。国家の正史が、自分たちが処断した事件を偽りだったと書いてしまった。しかも殺した子虫は、記録を読む限り厳しくは咎められていない節がある。朝廷の空気が、この九年で完全に変わっていたということだ。

## 通説はシンプルで、そして残酷なほど筋が通る
では誰が仕組んだのか。通説は、藤原不比等の四人の息子たちだ。武智麻呂、房前、宇合、麻呂。いわゆる藤原四子。
背景から整理すると、養老四年に不比等が死んだあと、政権の頂点に立ったのは長屋王だった。右大臣、そして左大臣として、三世一身法を出し、百万町歩の開墾計画を立て、調の免除といった政策を打ち出す。皇親政治の全盛期で、藤原氏は一時的に押し込まれる。父の残した権力の座を取り返したい四兄弟にとって、長屋王は文字通り目の上のたんこぶだった。
そこに、決定的な争点が生まれる。光明子の立后だ。光明子は不比等の娘で、聖武天皇の夫人。彼女を皇后に立てたい、というのが藤原側の悲願だった。ところが当時の慣例では、皇后は皇族から出すものとされていた。臣下の娘が皇后になった前例がない。この壁を破るには、朝廷内で「それは筋が通らない」と正面から反対できる人物を黙らせる必要がある。そして、その反対を口にする資格をいちばん強く持っていたのが、天武の孫であり皇女を妻とする左大臣、長屋王だった。
時系列を並べると、これがもう露骨としか言いようがない。神亀四年に光明子が皇子を産み、その皇子は生後すぐ皇太子に立てられ、翌年に死ぬ。神亀六年二月に長屋王が死ぬ。そして同じ年の八月、元号が天平と改められ、光明子が皇后に立てられる。長屋王の死から半年である。半年だ。邪魔者が消えて半年後に、消したとされる側の悲願が実現している。これを偶然と言い張るのは、正直かなり難しい。
さらに宇合が兵を率い、武智麻呂が邸に入ったという配置がある。動機、機会、実行者、そして結果。刑事ドラマなら一時間で終わる。

## ただ、通説をきれいに信じきれない理由もある
とはいえ、この筋書きを丸呑みするのは研究の世界では慎重にされている。理由はいくつかある。
まず、藤原四子だけの意志で、天皇の裁可なしにこれだけの軍事行動ができたのかという問題。三関固守も、六衛府の兵の動員も、皇親を使者に立てることも、天皇の権限に触れる。となると聖武天皇自身が、少なくとも承認していた、あるいはもっと積極的に関与していた可能性が出てくる。聖武にとっても長屋王は、血筋の上で自分より正統に見えかねない厄介な存在だった。母が藤原宮子である聖武は、当時「皇統としての正統性が弱い」という視線に晒されていたという見方がある。だとすれば、これは藤原氏の陰謀というより天皇を含む体制側の粛清だった、と読むこともできる。
次に、舎人親王と新田部親王という皇親の重鎮が使者に加わっている点。彼らが藤原の言いなりだったとは考えにくい。皇親のなかでも長屋王のひとり勝ちが続くことへの不満があった、つまり皇親対藤原という単純な対立ではなく、皇親の内部にも長屋王を切りたい勢力がいたという読みも成り立つ。
三つめに、長屋王が本当に何かをやっていた可能性も、ゼロとは言い切れない。当時の貴族が呪術的な行為にまったく縁がなかったわけではないし、皇子の死のあと何らかの祈祷や呪法に関わっていたのを、悪意ある解釈で告発された、という中間的なシナリオもありうる。ただしこれを裏づける史料はない。あくまで可能性の話だ。
四つめ、密告者への恩賞の扱いも解釈が割れる。恩賞が出たのは事件を正当な摘発として処理した以上、手続き上は当然でもある。もっとも、その後に東人が斬られて誰も本気で咎めなかったこと、正史が誣告と書いたことを考えると、朝廷の中でこの摘発が「なかったことにしたい過去」に変わっていったのは間違いない。
結局のところ、確実に言えるのは、告発の中身は偽りだったと国家が認めた、そして長屋王の死によって藤原氏の悲願が実現した、この二つだけだ。誰が何をどこまで仕組んだのかは、記録の空白の向こう側にある。

## 八年後、四人の兄弟が数ヶ月で全員いなくなった
ここからが、この話の本題と言ってもいい部分だ。
天平七年、西暦七三五年。九州北部、大宰府の管内で天然痘が発生する。感染源については諸説あり、大陸から帰った使節が持ち込んだという見方が有力視されてきた。この疫病はいったん小康状態になったあと、天平九年、七三七年に全国規模で爆発した。都も例外ではない。政務は止まり、朝堂は空席だらけになった。推計では、当時の日本の総人口の二割五分から三割五分が死んだとされる。人数にして百万から百五十万人。地域によってはそれを大きく上回った。国家の背骨が折れるレベルの災厄だ。
そのなかで、藤原四子は全員死んだ。四月に房前が死に、七月に麻呂と武智麻呂が死に、八月に宇合が死んだ。同じ年、数ヶ月のうちに、政権を握っていた四兄弟がひとり残らず消えた。長男も次男も三男も四男もである。
この事実が持つインパクトは、現代の感覚では測りきれない。疫病だから当然じゃないか、と我々は思う。実際そのとおりで、疫病は貴族も庶民も選ばずに殺した。四子以外にも高位の官人が大量に死んでいる。だが、当時の人々にとって、疫病は自然現象であると同時に「誰かの意志」でもあった。怨みを持って死んだ者の気が世を乱す、という理解の枠組みが、この時代にはすでにあった。
そして八年前、彼らが囲んだ家では、当主と皇女と四人の王が同じ日に死んでいる。裁判もなく、罪もなく。この二つを結びつけるなという方が無理だ。

## 当時の人はどこまで本気で「祟り」と思っていたのか
ここは慎重に書きたい。同時代の公文書に「これは長屋王の祟りである」と明記した一次史料があるわけではない。祟り説がはっきり文字になって残るのは、もう少し後の時代の説話や、後世の歴史叙述においてだ。だから「当時の人は全員そう信じていた」と断言するのはやりすぎになる。
ただし、朝廷の行動を追っていくと、無視できない動きがいくつも出てくる。
四兄弟が死んだ天平九年の十月、朝廷は長屋王の遺児たち、生き残っていた安宿王らを一挙に昇叙している。八年前に父を追い詰めた朝廷が、四子が全滅した直後に、その父の子どもたちの位を上げた。政治的な人事のバランス取りと説明することもできるが、タイミングがあまりにも良すぎる。
また、光明皇后が主導した大規模な写経事業、いわゆる一切経の書写も、罪の意識と結びつけて語られてきた。聖武天皇がのちに国分寺と国分尼寺の建立を全国に命じ、東大寺の大仏造立という国家事業に突き進んだのも、疫病と社会不安への対応であると同時に、鎮魂と贖罪の色を帯びていたと読む研究者は多い。あの巨大な仏像は、単なる信仰の記念碑ではなく、数え切れない死者と、消された一族への、国家規模の詫び状だったのかもしれない。
そして、九年後に正史が「誣告」と書き、密告者を斬った男が事実上お咎めなしになったこと。これはもう、朝廷の空気そのものが変わっていた証拠だ。何かまずいことをした、という感覚が上層部に共有されていなければ、こういう記述と処理にはならない。
祟りという言葉を使ったかどうかは別として、この事件は間違っていた、そのつけが回ってきている、という感覚は当時からあった。そう考えるのが自然だと思う。

## 正史に載らないもうひとつの物語
『日本霊異記』という平安初期の仏教説話集がある。ここに、長屋王の事件が正史とはまったく違う形で書き残されている。読み物としてはこちらのほうが圧倒的に生々しい。
説話によると、事件の直前、元興寺で大きな法会が開かれていた。そこで供養の食事を配っていた際、みすぼらしい身なりの沙弥、つまり下級の修行僧が作法をわきまえずに列に紛れ込んだ。それを見た長屋王が、手にしていた象牙の笏でその僧の頭を打った。僧の頭は割れて血が流れ、僧は姿を消した。そしてその二日後、長屋王は讒言によって謀反の疑いをかけられ、破滅する。仏に仕える者を打った報いだ、という因果応報の物語になっている。
さらにこの説話は、正史が書かない後日談を伝える。一族の遺骨は焼かれ砕かれて都の外に撒かれ、王の骨だけは遠く土佐国へ流された。ところがその土佐で人が大勢死に、土地の人々が「これは王の気だ」と朝廷に訴えた。そこで骨は都に近い紀伊国の海部郡、椒抹村の沖にある島へ移された、という。
この後半部分がすごい。骨が置かれた土地の人間が死ぬ、と言っているのだ。生駒山に葬ったという正史の記述とは真っ向から食い違うわけだが、説話の作者が伝えたかったのは、遺骨の物理的な移動ルートではなく、この人の死が土地に災いをもたらすほどの怨みを含んでいた、という感覚のほうだろう。
面白いことに、この説話に対応する場所が実在する。和歌山県有田市の沖ノ島、その対岸の初島町に椒古墳と呼ばれる古墳があり、明治の終わりごろに発見されて以来、地元では長屋王の墓として祀られてきた。墳丘の頂には長屋王の霊跡を示す碑まで建てられている。時代的には長屋王の生きた時代よりずっと古い古墳なのだが、説話が土地の記憶と結びつき、実在の塚に名前を与えてしまった。物語が現実の地面に着地した例と言っていい。

## 一九八六年、デパートの工事現場から四万点の木簡が出た
ここから時計の針を一気に千二百五十年ほど進める。
昭和六十一年、一九八六年。奈良市二条大路南、平城宮跡の南東にあたる一帯で、大型商業施設の建設に先立つ発掘調査が始まった。この場所は平城京の左京三条二坊にあたる。調査は一九八九年まで続いた。
そして一九八八年、調査区の一角、屋敷の東門のすぐ内側に掘られた南北方向の溝状の遺構から、木簡が出た。それも、想像を絶する量が出た。報告される数字は資料によって幅があるが、この地点だけでおよそ三万五千点から四万点。周辺の調査を含めれば十万点に迫るとも言われる。日本の考古学史でも屈指の大量出土だ。
木簡というのは、紙が貴重だった時代に文字を書きつけた木の札のこと。荷物につけた荷札、物品を出し入れした伝票、役所の記録の下書き、練習用の落書きまで、あらゆるものが含まれる。使い終われば削って再利用し、最後はゴミとして溝に捨てられる。つまり木簡が大量に出るということは、そこにゴミを捨てるほど大量の文書事務が日常的に行われていた、ということを意味する。
出土した木簡の年代は、和銅から霊亀年間、七一〇年代のものに集中していた。そして、そこに記された内容から、この屋敷の主が誰であったかが特定された。長屋王の邸宅である。発掘調査によって、平城京のなかの一区画の住人を名指しで確定できた例は、それまでほとんどなかった。この一点だけでも、この調査は歴史学の教科書を書き換えた。

## 木簡が語る、王家のとんでもない日常
そして、内容がまた面白い。政治史の教科書には絶対に載らない種類の情報が、山のように出てきた。
まず氷だ。長屋王家は氷室を持っていて、冬のあいだに氷を切り出して山中の穴に貯蔵し、夏に取り出して使っていたことが木簡から分かった。奈良時代の夏に、冷たい氷を口にできる人間が何人いたと思うか。エアコンも冷蔵庫もない盆地の奈良で、真夏に氷を削って食べる。これがどれほどの特権かは説明するまでもない。
犬もいた。王家で犬を飼っていた記録が残っている。犬に与える米の記録まで出てくるあたりが、なんとも生活感がある。ペットなのか、番犬なのか、狩猟用なのか、そこは議論があるが、少なくとも屋敷の中に犬がいて、その餌のために正式な伝票が切られていたのは確かだ。
鶴もいた。屋敷で鶴を飼い、その餌の支給記録が木簡に残る。庭に鶴がいる屋敷。これはもう、生活というより風景の話だ。氷を食べ、犬を撫で、庭には鶴。この情景を思い浮かべたうえで、あの二月十二日の話をもう一度読み返すと、落差がきつい。
そして人間の数。木簡には、屋敷で働く人々に米を支給する伝票がとにかく大量にある。米一升、米五斗といった具体的な数量が、日ごとに、部署ごとに切られている。鋳物師、銅を扱う職人、皮を加工する者、沓を縫う者、織物を作る部署、酒を造る部署、家政を統括する部署。医者もいれば僧も尼もいる。下級の従者である帳内や仕丁や少子といった身分の人々の名前も並ぶ。屋敷はひとつの巨大な職場であり、工房であり、役所だった。
さらに、屋敷に食料を送り込んでくる領地のネットワークも見えてくる。大和の各地に御田や御薗があり、周防からは塩が届き、信濃の牧に関わる記録まで残る。全国から物が集まってくる回路が、この一区画に接続されていた。
奈文研の研究者が指摘して面白かったのは、この家政機関がほとんど「律令国家のミニチュア版」として機能していた、という視点だ。長屋王家で働いていたのは私的な使用人だけではなく、国から配属された役人でもあった。だから長屋王家の運営を追うと、当時の国家運営の仕組みそのものが縮尺模型のように見えてくる。個人の家のゴミが、国家の制度史を解く鍵になった。

## 「長屋親王」と書かれた札の不思議
木簡のなかには、研究者を軽くざわつかせたものもある。長屋親王宮、という表記の木簡が、それなりの数出てきたのだ。
制度上、長屋王は親王ではない。親王というのは天皇の子に与えられる称号で、天皇の孫である長屋王は王どまりのはずだ。ところが、彼の屋敷に出入りしていた実務の現場では、日常的に彼を親王と呼び、そう書いていた。
これをどう読むか。単なる敬称のインフレ、現場の慣用にすぎないという見方もある。一方で、当時はまだ親王と王の区別が制度として固まりきっておらず、実態としては皇子に準ずる扱いを受ける人物がいた、という制度史的な議論にもつながる。そしてもうひとつ、この人物がまわりから「天皇の子に準じる存在」として認識されていた、という空気の証拠として読むこともできる。もしそうなら、藤原氏が彼を危険視した理由がより具体的に見えてくる。皇位に届きうる血筋の人が、実際に周囲から皇子並みに扱われていたのなら、それは政治的に相当まずい状況だ。
千三百年前の事務員が何気なく書いた四文字が、事件の動機の深さを補強してしまう。木簡というのは本当に恐ろしい史料だと思う。

## 掘り返した土地に建った建物は、十年ちょっとで消えた
さて、話を現代に戻す。ここからが、この事件がいま怪談として語られている理由だ。
発掘調査で予想外の大量出土があったため、建設スケジュールは大きくずれた。当初は一九八九年の早い時期に開業する予定だった百貨店は、調査が同年の秋まで延びたことで、開業が十月にずれ込んだ。総投資額は八百五十億円規模とも報じられた大型店で、奈良で最大級の本格的な都市型百貨店という触れ込みだった。開業前には敷地内に王の霊を鎮めるための祠が建てられたと伝えられている。この祠の話は、後の噂の広がりにおいてかなり効いてくる。
その百貨店は、二〇〇〇年の暮れに閉店した。親会社の経営破綻に伴う整理のなかで、最寄り駅から徒歩二十分という立地の悪さもあって、存続対象から外れた。開業から十一年ちょっとだ。
建物はそのまま残り、二〇〇三年に別の大手小売業者の店舗として再出発した。しかしこちらも業績が振るわず、二〇一七年に閉店する。今度は十四年ほど。二〇一八年の春、同じ建物は複合商業施設として三たび生まれ変わり、現在に至っている。
同じ場所で、大型店が二つ続けて撤退した。しかもそこは、千三百年前に一族が皆殺しのように消えた屋敷の跡地で、建設のときには四万点の木簡というかたちで当時の生活の記録が掘り返されている。この条件が揃えば、人が何を言い出すかは決まっている。
念のため、はっきりさせておきたい。ここで名前の出る企業や施設が実際に何かに祟られている、という主張をするつもりは一切ない。撤退にはそれぞれ現実的な理由がある。それを踏まえたうえで、そういう噂が語られてきたという事実そのものを記録として扱っている、という立場だ。

## ネットはこの符合をどう遊んだか
二〇一七年、二軒目の大型店の閉店が報じられたとき、ネット上には「長屋王の呪いか」という言葉が一気に湧いた。ニュースサイトがその現象自体を記事にするくらいの規模で盛り上がった。
語られ方には、いくつかのパターンがある。いちばん多いのが、素朴な符合の指摘だ。あそこは長屋王の屋敷跡で、掘ったら木簡がわんさか出てきて、それを潰して建てた店が二つ続けて消えた、やっぱりそういうことなんじゃないか、という言い方。これはオカルトを信じているというより、歴史のスケールと現代の商業のスケールが一枚の土地の上で重なった、その気持ち悪さを面白がっている感覚に近い。
次に多いのが、地元民の冷静なツッコミだ。あそこは駅から遠い、車がないと行けない、駐車場はあるけど周りに競合が強すぎる、というやつ。近隣には駅直結の大型商業施設や郊外型のモールがあり、立地条件で明確に負けていた。呪いより先に交通と商圏の話をしろ、というのはまったく正しい。
三つめに、祠の話をめぐる語り。開業前に建てられた祠がその後どうなったのか、ちゃんと祀られているのか、という話題が定期的に浮上する。施設側が日々きちんとお参りをしているという趣旨の対応をしたと報じられたこともあり、それがまた話題を呼んだ。この、当事者が真面目に対応すればするほど噂が具体性を帯びていく現象は、この手の都市伝説の典型パターンだ。
四つめに、歴史クラスタの補足合戦。長屋王の変の詳細、四子全滅の年代、日本霊異記の説話、木簡の内容といった知識が、噂のスレッドに次々と投げ込まれていく。この流れがまた面白くて、オカルトの話題から入ってきた人が、いつの間にか奈良時代の政変史をそこそこ正確に覚えて帰っていく。祟り話が歴史の入口として機能している。
五つめとして、皮肉屋の視点もある。祟られているのは土地じゃなくて日本の地方百貨店業界のほうだろう、という指摘。実際、この二十数年で全国の地方百貨店が次々と消えていったことを考えると、この土地の二連敗はむしろ全国的な傾向のなかの一例にすぎない。この身も蓋もない見方が、話題のなかにきちんと混ざっているのがネットの健全なところだ。

## 反証と、まだわかっていないこと
ここで、冷たい水をかけておく必要がある。
まず、四子の死が長屋王と因果的に結びつく根拠はゼロだ。天平九年の疫病は日本の人口の三割前後を奪った歴史的なパンデミックで、都の高位貴族が集中的に死んだのは、彼らが人の多い都に住み、参内し、外交使節や地方からの報告者と接触する立場にあったからだ。四人が兄弟で同じ屋敷群、同じ職場、同じ会議に出ていれば、感染はまとめて起きる。むしろ全滅しないほうが不思議なくらいの環境だった。祟りではなく飛沫の話である。
次に、祟りという言葉での当時の記録は、思われているほど直接的ではない。同時代の公文書に長屋王の怨霊の名を挙げた明確な一文があるわけではなく、祟りとしての語りは後の時代の説話や解釈のなかで形を得ていく。朝廷の一連の鎮魂的な動きも、疫病と社会不安への対応という説明で相当程度カバーできてしまう。
三つめ、告発の中身が具体的に何だったのか、これは今も分かっていない。左道という言葉の抽象度が高すぎて、実際に何が問題視されたのか復元できない。証拠がなかったのか、あったが消されたのか、そもそも取り調べが形式だけだったのか。空白だ。
四つめ、六人の使者が邸で何を話したのかも空白。長屋王が何かを言い残したのかも不明。彼の最後の言葉として伝わるものは、後世の創作の域を出ない。
五つめ、遺骨の行方については正史と説話が食い違っている。生駒山に葬られたのか、焼いて散骨されたのか。宮内庁が治定している墓の下から出てくるのは六世紀の古墳で、長屋王本人の埋葬を考古学的に確認したわけではない。和歌山の伝承地も、時代が合わない古い古墳だ。つまり、あれだけ屋敷の暮らしが細かく分かっているのに、本人の骨がどこにあるかは分かっていない。
六つめ、商業施設の撤退については、経営判断と立地条件と業界全体の構造変化で説明できる。ここを超自然で埋める必要はまったくない。
この六つを踏まえたうえで、それでもこの話が面白いのはなぜなのか、という話に進みたい。

## なぜこの話は千三百年たっても人を掴んで離さないのか
理由はいくつもあるが、私は三つだと思っている。
ひとつめは、記録の空白の形が美しすぎることだ。密告があった、囲んだ、死んだ、葬った。この四行の間に、本来あるべきものが全部抜けている。取り調べの内容も、証拠も、弁明も、動機の説明もない。人間の脳は空白を埋めたがるようにできているから、この形の記録を見せられると自動的に物語を作り始める。しかも九年後に国家自身が「あれは嘘の告発だった」と書いてしまっている。空白があって、そこに「間違いだった」という後日談がついている。物語のための土壌としてこれ以上ない。
ふたつめは、報いの形が完璧すぎることだ。加害者とされる四人が、八年後に一人残らず死ぬ。順番に、数ヶ月のうちに。もしこれを小説で書いたら編集者に「できすぎ」と言われて直される。現実がフィクションの構成力を超えてしまった瞬間で、その居心地の悪さが人を惹きつける。しかも、その報いには合理的な説明がちゃんとあって、疫病という誰にでも降りかかる災厄だった。合理的に説明できるのに、それでも符合が気持ち悪い。この二重底が、この話の中毒性の正体だと思う。
みっつめは、地面が残っていることだ。ふつう、千三百年前の政変は文字の中にしかない。ところがこの事件には、当事者の屋敷の跡が残っていて、そこから四万点の生活記録が出てきて、その上に現代の建物が建っていて、その建物の商売がうまくいかなかった。事件が、現在も踏める地面につながっている。氷を食べ、犬を飼い、庭に鶴を放していた人の暮らしが、木の札という形で確認できて、その同じ座標で今も人が買い物をしている。この時間の重なり方が異様なんだ。祟りを信じるかどうかとは別に、あの場所に立つと妙な感覚になる、という感想が多いのは、そういう構造のせいだと思う。
長屋王の話が怪談として強いのは、幽霊が出るからではない。証拠が残りすぎているのに、肝心のところだけ抜けているからだ。

## 速度、家族ぐるみの死、そして事後の公式否認
ここからは総括と、本編に収めきれなかった角度からの追加考察を、腰を据えて書いていく。
まず、この事件を「奈良時代の政変のひとつ」として片づけると本質を見誤る、という話から始めたい。奈良時代には政変が多い。皇位継承をめぐる争いが繰り返され、そのたびに有力者が消えていく。だが長屋王の変には、他とはっきり違う特徴が三つある。速度、家族ぐるみの死、そして事後の公式否認だ。
速度から見ていこう。密告から自死まで中二日というのは、律令国家の手続きとして異常に速い。律令には裁判の手続きがあり、重罪であれば複数の官司が関与し、天皇の裁可を経る段取りがある。それを全部すっ飛ばしている。しかも三関固守という国家非常事態の措置を、密告を受けたその夜に発動している。これは、密告が来てから対応を考えたのではなく、対応が先に用意されていたと考えるほうが自然な速度だ。誰かが引き金を待っていた。その引き金が下級官人二人の訴えだった。この構図が示すのは、密告そのものよりも、密告を待っていた体制の存在のほうが怖いということだ。
次に、家族ぐるみの死。政変で当主が死ぬのは珍しくないが、妻子が同日に全員というのは違う。しかも天皇が翌日に「吉備内親王に罪はない」と詔で明言している。罪がないと国家が認めている人が、その前日に死んでいる。この順序は残酷だ。生かす気があったなら、包囲の段階で伝えることはできたはずだ。伝えなかったのか、伝わらなかったのか、伝えたが本人が選んだのか。ここも空白だが、この空白の中に、当時の政治の温度が凝縮されている気がする。
そして事後の公式否認。九年後、正史が密告者を誣告者と書き、その密告者を斬った男が事実上不問に付される。国家が過去の処断を撤回するというのは、権威の観点からいえば相当に痛い。それでもそう書いたのは、書かざるを得ない空気があったからだ。四子の全滅、疫病による社会の壊滅的な打撃、そのなかで「われわれは何か間違ったのではないか」という感覚が、朝廷の内部で無視できないところまで来ていたのだと思う。
ここで、祟りという概念そのものについて考えたい。現代人は祟りを「超自然的な報復」として理解する。だが古代の人にとって、祟りはもっと社会的な概念だった。秩序が乱れた、道理に反することが行われた、その歪みが世界の側に不具合として現れる。それが祟りだ。だから祟りを鎮めるというのは、幽霊をなだめるという意味と同時に、社会の側の間違いを認めて修正するという意味も持っていた。位を追贈する、遺児を昇進させる、寺を建てる、経を写す。これらは全部、間違いを認めるという政治的な行為だ。
その視点で天平の後半を眺めると、あの時代の異様な宗教政策の連続が違って見えてくる。全国に国分寺と国分尼寺を建てろという命令。大仏を造れという命令。そして、都をあちこちに移して回るという迷走。合理的な政策として説明しようとするとどこか無理が出るこれらの動きは、社会全体が「われわれは何かを踏み外した、それを直さなければ世界が元に戻らない」という感覚に取り憑かれていたと考えると、妙に一貫して見える。疫病で人口の三割が死ぬというのは、そういう心理状態を生むのに十分すぎる出来事だ。長屋王の一件は、その「踏み外し」の象徴として選ばれたのかもしれない。実際に彼が祟ったかどうかとは無関係に、社会が原因を名指しする必要があり、いちばん筋の通る名前がそこにあった。
つまり、祟りの物語は死者が作るものではなく、生き残った側が作るものだ。これは早い時期の怨霊譚から後の時代の大がかりな鎮魂までずっと共通している構造だが、長屋王の場合はその最初期の、まだ形式が固まる前の、生々しい段階の事例として貴重だと思う。後の時代の怨霊は、神として祀られ、社を与えられ、儀礼のなかに回収されていく。長屋王はそこまでの制度化をされていない。祟りとして語られながら、神にはならなかった。中途半端に浮いたままだ。この宙ぶらりんさが、逆に現代まで話が生き残った理由かもしれない。きれいに祀り上げられた霊は、物語としては完結してしまう。完結しなかったからこそ、千三百年後の商業施設の話にまで接続できた。
木簡についても、もう少し踏み込んでおきたい。四万点という数字はよく引き合いに出されるが、数の大きさより中身の性格のほうが重要だ。あれは記録として残そうとして残されたものではない。全部ゴミだ。使い終わって捨てられた伝票、削りかすの木片、書き損じ。誰も後世に伝えるつもりのなかった紙くず、いや木くずである。
歴史というのは通常、残そうとした人の意思を通してしか届かない。正史は、書き残す権力を持った側が、残したいように書いたものだ。だから長屋王の変の記録は薄い。都合が悪いことは書かれない。ところが木簡は違う。捨てられたものだから、編集されていない。誰も、犬に米を何升やったという記録を、後世の歴史家に読ませようとは思っていない。だからこそ、それは嘘をつかない。
この対比が、この事件をやたらと立体的にしている。正史という「作られた記録」からは、政治的な陰謀の輪郭がぼんやりとしか見えない。木簡という「捨てられた記録」からは、その陰謀の被害者の日常が異様な解像度で見える。氷、犬、鶴、酒を造る部署、織物を作る部署、大量の従者、全国から届く物資。屋敷の朝はどれくらいの人数が動いていたのか、夏に氷が届く日はどんな空気だったのか、そういうことまで想像できてしまう。そして、その日常が二月十二日に終わる。
正史が伝えるのは死に方だ。木簡が伝えるのは生き方だ。この二つが同じ人物について同時に揃っている例は、古代史ではきわめて珍しい。だから長屋王は、奈良時代の政治家のなかで飛び抜けて「人間として想像しやすい」存在になった。そして想像しやすい人間の死は、抽象的な政変よりずっと後を引く。
さらに言えば、その木簡が出てきた経緯そのものが物語になっている。あの土地に商業施設を建てようとしなければ、あの規模の調査は行われず、木簡は地中に眠ったままだった。開発があったから発見があった。そして発見があったから工期が延び、投資が膨らみ、地下売場が作れないという設計上の制約まで生まれたと言われている。開発が過去を掘り起こし、掘り起こされた過去が開発の足を引っ張る。この構図は、祟りと呼ぶかどうかは別として、確かに因果的につながっている。超自然を持ち出さなくても、十分にドラマとして成立する。
商業施設の話をもう少し冷静に整理しておくと、この場所の不利は明確だ。最寄り駅から徒歩で二十分前後という距離は、都市型百貨店としては致命的に近い。鉄道でふらっと寄れる場所ではない。そして周辺には、駅に直結した強力な商業施設と、郊外型の大型モールが揃っている。車で行くなら郊外モール、電車なら駅前、という選択肢がある土地で、その中間にある巨大な箱がどう戦うのか。答えは出ている。二度の撤退は、超自然的な力ではなく、立地と業態のミスマッチという教科書どおりの結論で説明がつく。
だがそれでも、この符合を「面白い」と感じる感覚自体は、否定しなくていいと思う。人間は偶然のなかにパターンを見つける生き物で、それは欠陥ではなく、生き延びるために磨かれた能力の副作用だ。同じ土地で二回同じことが起きたら、何かあると思うのが正常な脳の反応である。問題は、その反応を検証せずに結論にしてしまうことだけだ。面白がりつつ、ちゃんと交通アクセスの話もする。この両方をやれるかどうかが、怪談との健全な付き合い方だと思っている。
もうひとつ、日本霊異記の説話について補足しておきたい。あの説話が長屋王を必ずしも被害者として描いていない点は、意外と見落とされている。僧を笏で打ったから報いを受けた、という筋書きは、明確に長屋王を加害者にしている。冤罪の悲劇の主人公ではなく、驕慢の報いを受けた権力者だ。ところが同じ説話の後半では、その骨が土地に災いをもたらす存在として描かれる。加害者として罰せられた人が、罰せられたことによって祟る側に回る。この二重性が面白い。
この構造は、当時の人が長屋王をどう扱っていいか分からなかった証拠に見える。国家が消した人物を、正面から無実の被害者として賛美するのは政治的にリスクがある。かといって、四子が全滅した以上、何もなかったとも言えない。だから、いったん「本人にも落ち度があった」という物語で包んだうえで、それでも祟る、という形にする。妥協の産物としての説話。こういう歪んだ処理の跡が残っているところに、当時の空気の重さが滲んでいる。
長屋王という人物像そのものについても触れておきたい。政治家としての彼は、単なる保守的な皇親貴族ではない。開墾を促す法を出し、租税の負担を軽くする措置を取り、農地政策を動かしている。実務家だ。そして文化人でもあった。彼の邸宅では漢詩の宴が開かれ、外国からの使節を招いて詩を詠み交わす場になっていた。当時の漢詩集にはその宴で作られた作品群が残っている。政治と文化のサロンを主宰する左大臣。木簡が示す屋敷の規模と設備は、その活動を支える器としても納得がいく。
その人物が、下級官人の密告一本で消された。この落差の大きさも、話が語り継がれる理由のひとつだと思う。高い場所にいた人が転げ落ちる話を、人は忘れない。
最後に、この事件から現代の我々が受け取れるものを考えたい。教訓めいた締め方は好きじゃないが、これだけは書いておきたい。
長屋王の変で決定的だったのは、証拠が要らない罪名の存在だ。呪術という、物証を出しようがない行為を罪の中身に据えたことで、告発は反証不能になった。反証できない告発は、告発した時点で勝ちが決まる。この構造は、時代や技術が変わっても形を変えて生き延びる。何を疑われているのか具体的に分からないまま処分が進むという状況は、千三百年前の平城京にも、現代のいろいろな場所にも存在する。
そして、その告発を受けた側の名誉が回復されたのは九年後だ。九年後には、本人も妻も子どもも、とっくにこの世にいない。名誉回復は、生きている人間のためにしか機能しない。国家が「あれは誣告でした」と書いたところで、二月十二日は取り消せない。
この、取り返しのつかなさこそが、この話の中核にあるものだと思う。八年後に四人が死のうが、遺児の位が上がろうが、大仏が建とうが、あの日は戻らない。祟りの物語は、その取り返しのつかなさを人間が飲み込めなかった痕跡だ。誰かが報いを受けたということにしないと、この話は終われない。だから四子の死は祟りとして語られたし、千三百年後の商業施設の撤退までが、なんとなくその物語の続きに組み込まれた。
物語が終われないのは、事件が終わっていないからだ。氷を食べ、犬を飼い、鶴を眺めていた家が、一枚の密告状で消えた。その空白は、四万点の木簡をもってしても埋まらない。だからこの話は、これから先も語られ続ける。奈良の、駅から少し歩くあの場所を通るたびに、誰かが思い出す。それでいいんだと思う。

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