ナポリから電車で三十分ちょっと。海が見える丘のふもとに、まるごと一つ、街が転がっている。
屋根はないが壁はある。道には轍が残っている。パン屋の窯には、焼き上がったまま二千年放置されたパンが入っていた。居酒屋のカウンターには、客が最後に落としていった小銭が散らばっていた。そして道端には、人のかたちをした白い石膏が、両手で顔を覆ったまま倒れている。
ポンペイの話をしよう。歴史ミステリーというジャンルで、これ以上の題材はそうそうない。なにしろ、ここには「その日」が丸ごと残っているんだよな。
普通、遺跡というのは何百年もかけてゆっくり衰退した街の残骸だ。ゴミが積もり、住人が引っ越し、石材が持ち出され、記憶が薄れていく。ポンペイは違う。ある日の午後、いきなり全部が止まった。片付ける暇もなく、逃げる準備もなく、言い訳もなく。犬の首輪も、落書きの下ネタも、選挙のポスターも、全部そのまま。
しかもこの街、掘れば掘るほど話がややこしくなる。噴火した日付すら確定していない。犠牲者が何で死んだのかも決着していない。石膏像の中身が誰なのかも、二〇二四年のDNA解析でひっくり返った。呪いの噂まである。世界一有名な遺跡のくせに、世界一議論が多い。順番に見ていこう。
その日の朝、街は完全にいつも通りだった
西暦七九年の、ある晴れた日の朝。
ポンペイはローマ帝国カンパニア地方の、そこそこ栄えた地方都市だった。人口は一万一千から一万五千くらい、多く見積もる説でも二万に届かない。ヘルクラネウムを合わせても二万数千といったところ。港湾都市で、ワインとガルム、つまり魚醤の産地で、有力者の別荘地でもあり、ローマの金持ちが夏を過ごしに来る場所でもあった。
朝は日の出とともに始まる。パン屋は前の晩から仕込んで、石臼をロバに引かせて粉を挽く。ポンペイでは少なくとも三十軒以上のパン屋が確認されている。石臼はどれも黒い溶岩石でできていて、これがまた皮肉な話なんだが、ヴェスヴィオが過去に吐き出した溶岩を切り出したものだ。街の人間は、自分たちを埋めることになる山の石で、毎朝パンを焼いていた。
通りにはテルモポリウム、つまり立ち食いの軽食屋がびっしり並んでいた。カウンターに大きな壺が埋め込まれていて、そこに豆やスープや煮込みが入っている。ローマ人の庶民の家には台所がないことが多いから、外で食べるのが当たり前だった。今でいうコンビニと立ち食いそばの中間みたいなものだ。
二〇二〇年に完全な形で発掘されたテルモポリウムからは、アヒル、ヤギ、豚、魚、カタツムリの痕跡が壺の中から検出されている。カウンターの前面には鮮やかなフレスコ画が描かれていて、ニンフや家鴨や、ひもに繋がれた犬の絵まであった。犬の絵の横には、誰かが後から落書きを彫り込んでいる。人をからかう下品な一言だ。二千年前も今も、飲食店の壁に落書きする奴はいる。
洗濯屋も繁盛していた。ローマの洗濯屋は尿を使って毛織物の油を抜く。街角に壺を置いて通行人に用を足させ、それを回収していた。臭かっただろうな。皇帝ウェスパシアヌスがこの尿に税をかけて、息子に嫌な顔をされたとき「金に匂いはない」と言い返した話は有名だが、その皇帝が死んだのが七九年六月。ポンペイが埋まる二か月前だ。街は新しい皇帝ティトゥスの治世の一年目を生きていた。
そして街は、まだ壊れかけていた。
十七年前の六二年、六三年説もあるが、大きな地震がカンパニア一帯を襲っている。神殿も、公共浴場も、水道橋も壊れた。ポンペイは十七年かけて修復を続けていて、七九年の時点でもまだ工事中の建物があちこちにあった。足場が組まれ、モルタルが練られ、壁に下書きの線が引かれていた。この「工事中」という状態が、後に日付論争の重要な証拠を生むことになる。
山が空に幹を生やした、正午すぎ
前兆はあった。数日前から井戸や泉が干上がったという話が伝わっている。小さな地震も続いていた。
ただ、ポンペイの住人にとって地震は日常だった。十七年前の大地震以来、揺れは珍しくもなんともない。誰も逃げなかった。そもそもヴェスヴィオが火山だという認識すら、当時の人々には薄かった。山の斜面はブドウ畑になっていて、地理学者ストラボンが「かつて火を噴いた形跡がある」と書いてはいたが、生きている火山として警戒されてはいない。前回の大噴火は紀元前一八〇〇年ごろ、青銅器時代のことだ。人間の記憶に残る時間ではない。
そして正午をすぎたころ、山が破裂した。
小プリニウスの手紙によれば、彼の母が異様な雲に気づいたのが「第七時ごろ」、つまり現代の午後一時前後。彼らがいたのはミセヌム、ナポリ湾の反対側の岬で、ヴェスヴィオから約二十九キロ離れている。二十九キロ先から見えるサイズの雲だったということだ。
噴煙柱は成層圏まで駆け上がった。研究者の推定では最終的に高度三十三キロメートル。噴出率は毎秒百五十万トン。総エネルギーは広島と長崎の原爆の熱エネルギーの十万倍に相当するという計算もある。数字が大きすぎて実感が湧かないが、要するに山の頂上に開いた穴から、超音速に近い速度でマグマの破片と火山ガスが噴き上がり続けたということだ。
小プリニウスはこの雲の形を、忘れがたい比喩で書き残した。イタリアカサマツ、傘のように広がる松の木だ。まっすぐ幹のように立ち上がって、上のほうで枝分かれして広がる。地中海沿岸に行くとあの独特の松が生えているが、噴煙柱の形容としてこれ以上正確なものはない。
この記述があまりに的確だったので、後世の火山学者はこのタイプの噴火そのものを「プリニー式噴火」と名付けた。人名が火山学の専門用語になった珍しい例だ。ついでに、噴煙柱がさらに巨大化したものを「ウルトラプリニー式」と呼ぶ。十七歳の少年が書いた一行の比喩が、二千年後の学術用語になっている。
軽石が降る、屋根が落ちる、十八時間
噴煙柱が立ち上がると、上空に運ばれた軽石と火山灰が風下に落ち始める。この日、風は北西から南東へ吹いていた。ヴェスヴィオの南東十キロ。そこにポンペイがある。ヘルクラネウムは西側にあったので、この段階ではほとんど降灰を受けていない。ポンペイの運の悪さは、風向きで決まった。
最初に降ってきたのは白い軽石だった。軽石は名前の通り軽い。水に浮くほどスカスカで、握れば砕ける。だから最初のうちは、それほど恐ろしくは見えなかったはずだ。バラバラと屋根を叩く音がして、道に白い粒が積もっていく。
この段階で逃げた人はたくさんいた。ポンペイの犠牲者数が人口に対して意外と少ないのは、初期の数時間で大勢が南の海岸方向へ逃げたからだ。
だが軽石は止まらなかった。一時間に十五センチから二十センチのペースで積もり続けた。数時間で腰まで、半日で屋根まで。しかも途中から、白い軽石に混じって灰色の軽石が落ちてくるようになる。マグマの組成が変わったサインで、こちらのほうが密度が高い。屋根に積もる荷重が急激に増えていく。
そして屋根が落ち始めた。
ポンペイの家屋の屋根は瓦と木材だ。数トンの軽石が乗れば持たない。梁が折れ、瓦が落ち、天井が抜ける。家の中に籠もっていた人たちが、ここで大勢死んだ。ポンペイで発見された遺体のうち約三十八パーセントは、軽石の降下堆積層の中から出ている。そしてその大半が建物の内部だ。外に出るのが怖くて家に留まった人が、屋根に潰された。逃げるか残るかの判断が、そのまま生死を分けた。
しかも外は真っ暗だった。噴煙柱が太陽を完全に塞いでいた。小プリニウスは、他の場所ではもう日が昇っていたが、そこでは最も深い夜よりも濃い闇が支配していた、と書いている。松明の火は火山灰に飲まれ、灰の中を歩くのは膝まで雪の積もった道を進むようなものだった。実際、彼は降り積もる灰を「雪の毛布のようだった」と表現している。
軽石の雨は十八時間から二十時間続いた。この間にポンペイの上には約二・八メートルの軽石が積もった。街の一階部分は完全に埋まっていた。
深夜、熱い雲が坂を駆け下りてきた
翌日の未明。噴煙柱が自重を支えきれなくなり、崩壊した。
これが本当の殺し屋だ。火砕サージ、そして火砕流。超高温のガスと火山灰と岩片が混ざった濁流が、重力に従って山の斜面を駆け下りる。時速百キロを超える。地形に沿って流れるが、勢いがあれば壁も乗り越える。逃げるという概念が通用しない。
深夜から明け方にかけて、六回の火砕サージがヴェスヴィオから放出されたと考えられている。研究者はこれをS1からS6と番号を振って区別している。最初のいくつかは山の北西側、つまりヘルクラネウム方向に流れた。
ヘルクラネウムはポンペイより山に近い。距離にして七キロほど。だから軽石の被害はほぼ無かったのに、火砕サージには真正面から襲われた。
ヘルクラネウムの街は、最終的に二十メートルから二十五メートルの火砕流堆積物に埋まった。ポンペイの四メートルとは桁が違う。しかもこの堆積物は時間とともにコンクリートのように固まったので、後の発掘は掘るというより削岩に近い作業になる。その代わり、木製の家具、扉、寝台、階段、二階部分の構造といった有機物が炭化した状態で残った。ポンペイでは失われたものが、ヘルクラネウムには残っている。
そして三回目か四回目のサージが、ついにポンペイに到達した。壁を薙ぎ倒し、まだ立っていた建物の上部を破壊し、街に残っていた人間を一瞬で殺した。ポンペイの犠牲者の残り六十二パーセントは、この火砕サージの堆積層から出ている。
温度の推定値はいくつかある。ザネッラらが二〇〇六年に発表した研究では、瓦や漆喰の破片の磁気を測ることで当時の温度を逆算した。最初のサージが到達した際の温度は摂氏百八十度から二百二十度、二回目は二百二十度から二百六十度。場所によっては三百度から三百六十度に達した。崩れた屋根の下の部屋では百度程度まで下がっていた場所もある。ヘルクラネウムではもっと高く、四百度から五百度台という推定が出ている。
翌朝、太陽が戻ってきたとき、ポンペイという街は地図から消えていた。丘のような灰の平原があるだけだ。
生き残った人々の一部は掘り返しにきた形跡がある。露出した壁に穴を開けて中の家財を回収した跡が見つかっているし、後の時代に「家の記憶」を頼りに宝を探した盗掘のトンネルもある。だが街そのものが再建されることはなかった。名前だけが古文書に残り、場所は忘れられた。近くの丘は「チヴィタ」、つまり「街」と呼ばれ続けたが、なぜそう呼ぶのかは誰も知らなかった。
十七歳の少年が、二十五年後に書いた二通の手紙
この災害について、当事者の記録が二通だけ残っている。
小プリニウス、本名ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスが、歴史家タキトゥスに宛てて書いた手紙だ。書簡集の第六巻、十六番と二十番。噴火当時、彼は十七歳。手紙を書いたのは事件から二十五年ほど後、西暦一〇四年前後と考えられている。
タキトゥスから「あなたの伯父上の最期を教えてほしい」と依頼されて書いたのが十六番。伯父というのは大プリニウス、あの『博物誌』の著者だ。そして「今度はあなた自身に何が起きたか教えてほしい」と重ねて頼まれて書いたのが二十番。この二通が、古代の火山噴火についての唯一の目撃証言になっている。
十六番はこう始まる。
伯父はミセヌムにいて、艦隊を指揮していた。八月二十四日ごろの第七時、母が異様な形の雲を見つけて伯父に知らせる。伯父は冷水浴を済ませたところで、横になって書物を読んでいた。彼は靴を持ってこさせ、雲がよく見える高台に登った。そこで例のカサマツの比喩が出てくる。
ここからが大プリニウスらしいところなんだが、彼は「これは学者として観察すべき現象だ」と判断して、小型の船を用意させる。純粋な好奇心だ。小プリニウスにも一緒に来るかと誘うが、少年は「勉強があるので」と断っている。この一言が彼の命を救った。もし十七歳の彼が伯父についていっていたら、この手紙は存在しない。
そこへ急報が入る。レクティナという女性からの救援要請だ。彼女はバッススの妻で、ヴェスヴィオのふもとに住んでいて、逃げ道は海しかないという内容だった。
ここで大プリニウスの目的が変わる。観察のための小型船ではなく、四段櫂船を出す。学術調査から救助活動への切り替えだ。手紙にはこう書かれている。彼は英雄として、自らが学者として向かおうとしていたその場所へ急いだ。
海が浅くなっていて岸に近づけない。熱い軽石と焦げた石が船に降ってくる。操舵手が引き返しましょうと進言したとき、大プリニウスが言ったとされる台詞が「幸運は勇者に味方する。ポンポニアヌスのところへ舵を取れ」だ。ラテン語のフォルテス・フォルトゥーナ・イウウァト。この言い回しはローマの諺として既にあったものだが、この場面で使われたことで有名になった。
伯父はなぜ、帰ってこなかったのか
ポンポニアヌスは友人で、スタビアエにいた。ポンペイから南に四・五キロ、ヴェスヴィオからは十六キロ。すでに荷物を船に積んで逃げる準備をしていたが、風向きが逆で出港できなかった。皮肉なことに、その同じ風が大プリニウスの船を運んできた。
大プリニウスは友人を抱擁し、落ち着けと励まし、そして風呂に入った。
これは演技だ。恐怖に怯える人々の前で平然と振る舞ってみせることで、場を落ち着かせようとした。風呂の後で食事をし、機嫌よく談笑した。あるいは機嫌よく見えるように振る舞った、と甥は書いている。この二重の書き方が絶妙で、小プリニウスは伯父を英雄として描きながら、同時に「彼は演じていたのかもしれない」という余地も残している。
そして彼は寝た。かなりの肥満体で、鼾が大きく、廊下を通る人にもはっきり聞こえたという。この描写があるおかげで、この場面には妙な生々しさがある。外では家が揺れ、庭には軽石が積もり続けている。中では老人が大鼾をかいて眠っている。
夜半、軽石が積もりすぎて部屋から出られなくなりそうだったので、彼を起こした。全員で庭に出て相談する。建物の中は倒壊の危険がある。外は落石の危険がある。彼らは外を選んだ。そして枕を頭に載せて布で縛りつけた。降ってくる軽石から頭を守るためだ。古代ローマ人がとった防災行動の記録として、これは実に生々しい。
海に出られるか確かめに浜へ降りたが、波は荒れたままだった。大プリニウスは広げた敷布の上に横になり、水を求めて二度飲んだ。やがて硫黄の臭いを伴う炎の気配が近づき、周囲の人々は逃げ出す。彼は立ち上がろうとして、二人の奴隷に支えられ、そして倒れた。もう起き上がれなかった。
三日目、堆積物が落ち着いてから彼の遺体が見つかった。外傷はなく、衣服も乱れていなかった。死んでいるというより眠っているように見えた、と甥は書いている。
死因については昔から議論がある。小プリニウスは、伯父はもともと気管が弱く、硫黄を含んだガスに耐えられなかったのだろう、と書いた。だがスタビアエは噴火口から十六キロ離れている。そこまで致死的な火山ガスが到達したかどうかは疑問視されている。有力なのは、肥満体で高齢――五十五歳か五十六歳だ――、極度のストレス、火山灰に汚染された空気、そこに心臓発作か脳卒中か喘息発作が重なったという説だ。
スエトニウスは別バージョンを伝えていて、苦痛から逃れるために奴隷に自分を殺すよう頼んだと書いているが、甥の手紙にそんな記述はない。当時から美化と脚色の綱引きがあったということだ。
一方、二十番の手紙、つまり小プリニウス自身の体験も相当なものだ。
ミセヌムでも夜通し揺れが続き、明け方には母と一緒に街を出た。すると馬車が平地なのに勝手に転がり出す。海は引いて、干上がった浜に魚が取り残されていた。津波の前兆だ。海が自分自身の上に巻き戻り、岸から追い立てられるようだった、と彼は書いている。
やがて黒い雲が追いかけてきて、光が消えた。彼はこう記録している。母は自分を置いて逃げろと言い、自分は母の手を取って引っ張り、母を残して助かるくらいなら死んだほうがましだと答えた。灰が降り積もり、何度も立ち上がって体を振らないと生き埋めになりそうだった。周りでは女が泣き叫び、子供を呼ぶ声、親を呼ぶ声が飛び交い、神々はもう存在しない、これが世界の終わりの永遠の夜だ、と叫ぶ者がいた。
この一節が、この手紙を単なる災害報告以上のものにしている。二千年前の人間が、暗闇の中で世界の終わりを見たと信じた瞬間の記録だ。
八月二十四日か、十月十七日か
さて、ここからが本格的な論争パートだ。ポンペイが埋まった日付は、実は確定していない。
伝統的には八月二十四日ということになっている。根拠は小プリニウスの手紙の写本にある「ノウェンブレス・カレンダエの九日前」という記述、つまり八月二十四日だ。この日付が広く定着したのは、一五〇八年に印刷された版によるところが大きい。
問題は、この手紙が印刷されるまでに十四世紀分の手書き写本を経ているという点だ。ローマ数字の日付というのは写し間違えやすい。写本ごとに日付が違っていて、写本研究者が挙げる候補は八月二十四日、十月三十日、十一月一日、十一月二十三日の四通りある。どれが原文だったのか、写本からだけでは決着しない。
そこで考古学と自然科学の出番になる。秋派の証拠は積み重なっている。
まず、遺跡から出てくる果物だ。炭化した状態で見つかったものの中に、ザクロ、イチジク、栗、クルミ、乾燥ブドウがある。ザクロと栗は秋の実りだ。八月にはまだ熟していない。さらにワインの醸造施設で、ブドウの搾汁が発酵の途中の状態で見つかっている。ブドウの収穫と仕込みはカンパニアでは九月から十月だ。八月二十四日にはまだ始まっていない。
次に、犠牲者の服装だ。石膏型に残った衣服の痕跡を見ると、厚手の重ね着をしている遺体が少なくない。真夏のナポリ近郊で、あの気候であの服は着ない。
そして貨幣。ポンペイで見つかったティトゥス帝の銀貨に、皇帝が第十五回の歓呼を受けたことを示す刻印があるものが含まれていた。この称号を得た時期を逆算すると、九月八日以降でないと辻褄が合わないという主張がある。ただしこの銀貨の読み取りには摩耗の問題があり、反論もある。
とどめが二〇一八年十月に出た。
レギオ5、つまり第五地区の新規発掘現場、「庭園付きの家」と呼ばれる建物の壁で、木炭で書かれた落書きが見つかった。内容は「ノウェンブレス・カレンダエの十六日前」、換算すると十月十七日。しかも「彼は食べ物に度を越して耽った」といった、大した意味のない日常の一言が添えられていた。おそらく改装工事に来た職人が、休憩中に書いたものだ。
木炭の落書きというのは極めて壊れやすい。壁を触ればこすれて消える。何年も残るものではない。だからこの日付は、噴火のごく直前に書かれたと考えるのが自然だ。だとすれば噴火は十月十七日より後になる。当時のイタリア文化相はこれを「特別な発見」と呼び、日付の書き換えを示唆した。
とはいえ、これで決着したわけではない。反論もある。
落書きが記した日付が「書いた当日」を意味するとは限らない、という指摘だ。約束の日、支払いの期日、記念日を書いた可能性もある。二〇二二年には、プリニウスの記述と天文学的・気象学的条件を精査して、八月二十四日以外を支持する証拠はプリニウスの手紙からは得られない、と結論する論文も出ている。同じ二〇二二年に、複数分野の共同研究が「十月二十四日から十一月一日の間」と結論づけたが、これもまた反論を受けた。
現在、ポンペイ考古学公園の公式見解は慎重で、「秋の可能性が高い」という言い方に落ち着いている。教科書は八月二十四日のままのものも多い。二千年前の一日の日付が、二十一世紀の学界で今も揉めている。
一七四八年、鍬の先が壁に当たった
街が忘れられていた期間は長い。だが、完全に忘れられていたわけでもない。
一五九二年、建築家ドメニコ・フォンターナが地下水路を掘っていて、古代の壁にぶつかった。壁画も碑文もあった。彼はそれを記録し、そして黙っていた。理由は諸説あるが、壁画の内容が当時の道徳観からするとまずかったからだとも、水路工事を止めたくなかったからだとも言われる。いずれにせよ、この時点でポンペイは再発見されかけて、また埋め戻された。
本格的な発掘の号砲は一七三八年に鳴った。場所はポンペイではなくヘルクラネウムだ。
ナポリ王カルロ・ディ・ボルボーネ、後のスペイン王カルロス三世が、レジーナ近郊に夏の宮殿を建てようとして、地下から古代の劇場が出てきた。実はその三十年ほど前、一七〇九年にデルベーフ公という人物が井戸を掘っていて古代彫刻を掘り当てている。有名な「ヘルクラネウムの女性たち」の彫像はこのとき出たもので、現在はドレスデンにある。
そして一七四八年、スペイン人の軍事技師ロクエ・ホアキン・デ・アルクビエレが、今度はポンペイの地面に手をつけた。当時はまだそこがポンペイだと分かっていない。ようやく街の名前が確定したのは一七六三年八月二十日、「ポンペイ人の共同体」と刻まれた碑文が出土したときだ。街が埋まってから千六百八十四年後に、街は名前を取り戻した。
初期の発掘は、率直に言って発掘ではなく宝探しだった。
壁画を見つけると、額縁のように四角く切り取って剥がし、王宮の博物館へ運ぶ。残りの壁は放置するか埋め戻す。彫像も、モザイクも、金貨も、価値のありそうなものだけ抜いていく。ヘルクラネウムではカール・ヴェーバーが一七五〇年代にトンネルを掘り進めた。地下二十メートルの固まった火砕流を、坑道方式で貫通させたわけだ。
パピルス荘が見つかったのもこのときで、一七五二年から五四年にかけて、炭化した巻物が大量に回収された。真っ黒に焦げた棒切れのようなもので、開こうとすれば砕ける。二百七十年間読めなかったこの巻物は、二〇二三年から二四年にかけて、X線CTと機械学習を組み合わせた「ヴェスヴィオ・チャレンジ」という国際コンテストで、ついに内側の文字が非破壊で読み出された。哲学者フィロデモスによる、快楽と音楽についての議論らしい文章だった。二千年越しの読書だ。
盗掘も絶えなかった。公式発掘の裏で私掘が横行し、遺物は骨董市場に流れた。この構造は現代まで続いていて、二〇一七年にはポンペイ北方のチヴィタ・ジュリアーナで、盗掘者が掘ったトンネル網が発見されている。彼らは別荘の地下を掘り抜いて遺物を抜き取っていた。皮肉なことに、この盗掘対策の緊急発掘が、後述する重要な発見につながる。
フィオレッリの思いつき――空洞に石膏を流す
ポンペイの発掘史を二つに割る人物がいる。
ジュゼッペ・フィオレッリ。一八二三年六月七日ナポリ生まれ、一八九六年一月二十八日ナポリ没。彼は一八六〇年から七五年まで発掘の責任者を務めた。一八六三年からはナポリ国立考古学博物館の館長も兼ねている。
彼がやったことは三つある。
一つ目、掘り方を変えた。それまでは横から坑道を掘って、目当てのものだけ抜き取っていた。フィオレッリは上から順に、層ごとに剥がしていく方式に切り替えた。上階の構造も、崩落の順序も、堆積の重なりも全部記録しながら降りていく。今でいう層位学的発掘の走りだ。宝探しを考古学にした。
二つ目、住所を作った。街を「レギオ」、つまり地区に分け、その中を「インスラ」、街区に分け、さらに個々の建物に番号を振った。レギオ5の第三街区の六番、といった形で、遺跡内のあらゆる地点が一意に特定できる。この住所体系は今も現役だ。二〇一八年の木炭落書きが「レギオ5」で見つかった、と言えるのはフィオレッリのおかげである。
三つ目。これが一番有名で、一番議論を呼ぶやつだ。
発掘中、灰の層の中に人の形をした空洞が出てくることがあった。作業員は昔からこれに気づいていた。人体が火山灰に包まれ、その灰が固まり、中の遺体だけが分解して消える。残るのは、人のかたちをした空っぽの型だ。骨だけがカラカラと底に落ちている。それまで、この空洞は掘り進むうちに崩されるだけの存在だった。
一八六三年二月、フィオレッリは石膏を流し込んだ。
現場は「骸骨の路地」と呼ばれる場所で、四人分の空洞が並んで出てきた。石膏が固まるのを待って周囲の灰を注意深く取り除くと、そこに人間が現れた。骨格標本ではない。ミイラでもない。表情があり、姿勢があり、衣服のしわがあり、髪型があり、サンダルの紐まである、その瞬間の人間そのものが出てきた。
これは考古学の技術であると同時に、二千年前の死に顔をいきなり目の前に差し出す装置でもあった。ヨーロッパは震撼した。ポンペイは学術的な遺跡から、感情を揺さぶる場所へと性質を変える。
以後、確認されているだけで千体を超える犠牲者の痕跡が記録され、そのうち百体以上が石膏で型取りされた。二〇〇三年時点の集計で、灰の中から約千四十四体分の型が確認され、それとは別に散在する骨が百体分ほど見つかっている。
有名な型がいくつもある。うつ伏せで顔をかばう「ラバ引き」。抱き合うように倒れた「二人の乙女」。座り込んで両手で顔を覆う男。妊婦。腕輪をつけた女。逃げ遅れて折り重なった十三人が出た「逃亡者の庭」。それぞれに名前と物語がついて、ガイドブックに載り、絵葉書になった。
一九八四年には、アメデオ・チンクエという技師が透明樹脂を使う手法を試みた。石膏だと中の骨が見えなくなるが、樹脂なら透けるので、骨も一緒に観察できる。ただし樹脂は高価で扱いが難しく、数体しか作られていない。「樹脂の貴婦人」と呼ばれる型がそれだ。
二〇一五年には、石膏像のCTスキャンプロジェクトが始まった。石膏の中の骨を非破壊で見る試みで、歯の状態から犠牲者の年齢や健康状態が分かるようになった。虫歯が驚くほど少ないという結果が出ていて、ローマ時代の食生活は糖分が少なかったんだな、という話になっている。
犬の話をしないわけにはいかない
ポンペイの石膏像で世界一有名なのは、たぶん人間ではない。犬だ。
一八七四年、ウェソニウス・プリムスの家、通称「オルフェウスの家」の玄関近くで、犬の空洞が見つかった。石膏を流すと、身をよじって仰け反り、四肢を突っ張った犬が出てきた。首輪をしている。
首輪をしていたということは、この犬は繋がれていたということだ。飼い主が逃げるとき、鎖を外してやらなかった。あるいは外す余裕がなかった。
犬は積もっていく軽石から逃れようとして、鎖の届く範囲でひたすら上へ上へと登ろうとしたと考えられている。だから最終的な姿勢が、あの独特の仰け反った形になる。首輪の位置と体の角度から、鎖が首を絞めた可能性も指摘されている。
この一体が、ポンペイという場所の残酷さを人間の遺体以上に伝えてしまう。人間の型には「逃げなかった判断」という余地があるが、犬にはそれすらない。展示ケースの前で立ち止まる客が一番多いのはこの犬だという話は、現場のガイドが口を揃えて言う。
ちなみにポンペイには犬にまつわるものが他にもある。「悲劇詩人の家」の玄関のモザイクには、鎖に繋がれた黒い犬と「カウェ・カネム」、つまり「犬に注意」の文字がある。世界最古の「猛犬注意」の看板だ。二千年経っても人類の玄関事情は変わっていない。二〇二〇年に発掘されたテルモポリウムのカウンターにも、ひもに繋がれた犬の絵が描かれていた。
ヘルクラネウムの船着場、三百人分の夏
長いあいだ、研究者はヘルクラネウムについてある誤解をしていた。遺体がほとんど出てこないので、住民は全員うまく逃げたのだろう、と考えられていたのだ。ポンペイの悲劇に対する、ヘルクラネウムの幸運。そういう対比で語られていた。
一九八〇年、その物語が崩れた。
考古学者ジュゼッペ・マッジが率いる調査隊が、古代の海岸線にあたる場所を掘っていた。そこに、アーチ形の石造りの倉庫が並んでいた。フォルニチ、船着場のボートハウスだ。天井の梁の構造から、船を吊り下げて保管していたと考えられている。
その中に、人がいた。
最初の発表で五十五体以上。九〇年代の調査で二百九十六体。最終的に三百四十体前後が確認された。密度は場所によって一平方メートルあたり三体。アーチの奥に身を寄せ合い、抱き合い、子供を抱え、壁際に折り重なっていた。
これは何を意味するか。住民は逃げていなかった。海から船で脱出しようとして、船着場に集まって待っていたのだ。夜だ。風は逆で、海は荒れていた。船は出せない。だから彼らはアーチの下に避難して、夜明けを待った。子供を抱いて、荷物を抱えて、朝が来れば船が出せると信じて。
そこに火砕サージが来た。
彼らの死は一瞬だった。骨の状態から、それが分かる。焼け方が尋常ではない。頭蓋骨が内側からの圧力で割れているものがある。手足の骨が縮み、関節が異常な角度で固まっている。これは長い苦悶の結果ではない。あまりの高温で、筋肉のタンパク質が瞬時に凝固して収縮した結果だ。医学用語で言う死後硬直の一種、熱による筋収縮の姿勢である。
彼らのうち何人かには名前らしきものがついている。一九八二年に見つかった「指輪の女」は、エメラルドとルビーの指輪をはめ、腕輪をしていた。裕福な女性だったらしい。
同じ年、砂浜で発見された二十六番の骨格は、短剣と装飾された剣帯を身につけ、道具袋を持っていた。兵士だ。あるいは船大工か。二〇二一年に発表された分析では、この人物は救助活動に来ていた可能性が高いとされている。ミセヌムから来た艦隊の一員かもしれない。だとすれば、大プリニウスの部下だ。彼は逃げてきたのではなく、助けに来て死んだことになる。
脳がガラスになった男をめぐる、学者たちの喧嘩
二〇二〇年、ヘルクラネウムから出た一件のニュースが世界中を駆け巡った。
コッレギウム・アウグスターリウム、皇帝崇拝の集会所として使われていた建物がある。その奥の小部屋の木製寝台の上に、うつ伏せで倒れた男性の遺骸があった。二十代前半とみられる。この建物の管理人だったのではないかと推定されている。
ナポリ大学のピエル・パオロ・ペトローネらの研究チームが、この男性の頭蓋骨の内部から、黒くて光沢のあるガラス質の破片を回収した。分析すると、タンパク質と脂肪酸が検出された。人間の脳や髪の毛に含まれる成分だ。彼らはこう結論した。この男性の脳組織は、超高温にさらされて液化し、その後の急冷によってガラス化した、と。
有機物のガラス化というのは自然界ではまず起きない。ガラスになるには、極端に速い加熱と、極端に速い冷却が両方必要だ。研究チームの計算では、摂氏五百二十度前後まで一気に加熱され、その後急速に冷えたことになる。彼らは、これが火砕流本体ではなく、その前を走る高温の灰雲によるものだと推定した。灰雲は薄いので通り過ぎるのが速く、急冷が起きうるからだ。
ここまでは大ニュースだった。だが、二〇二四年に反論が来る。
批判派の言い分はこうだ。人間の脳は水分が八割近くある。液体をガラス化させるには、常識外れの速度で冷やす必要がある。埋没した状態でそんな冷却速度は出ない。それに、遺体の他の部分は炭化しているのに、脳だけがガラス化するというのは物理的に整合しない。検出されたガラス質は、木材や土壌由来の有機物が変質したものではないか。
再反論も出た。二〇二五年、『サイエンティフィック・リポーツ』に掲載された論文で、研究チームは追加の分析結果を示した。ガラス転移温度の測定、走査電子顕微鏡による微細構造の観察、そして周囲の堆積物との比較。彼らの主張は、この物質のガラス転移温度は摂氏五百十度前後で、周辺の堆積物には同種の物質が一切見つからない、つまり局所的な現象であり、脳由来と考えるのが最も整合的だ、というものだった。加熱は火砕流本体ではなく先行する高温灰雲によるもので、その後の急冷は室温への曝露で足りる、と。
決着はついていない。ただ、この論争のおかげで分かったことがある。ヘルクラネウムを襲った熱がどれほど異常だったか。そして、二千年前の一人の若者の頭蓋骨の中身をめぐって、二十一世紀の科学者が本気で殴り合うだけの価値がある、ということだ。
熱で死んだのか、息が詰まったのか
もう一つ、長く続いている論争がある。ポンペイの犠牲者たちは、何で死んだのか。
古いイメージはこうだ。火山灰が降り積もって、口と鼻を塞いで、窒息した。苦しみながらゆっくり死んだ。石膏像の苦悶の表情、顔を覆った手、丸まった体。それは呼吸を求めてもがいた末の姿だ。この解釈が十九世紀から二十世紀にかけて主流だった。石膏像が発する感情的なインパクトの大部分は、この物語に支えられている。
ところが二〇〇〇年代以降、熱の証拠が積み上がってきた。ザネッラらの磁気研究による温度推定、ヘルクラネウムの骨の状態、そして石膏像の姿勢そのものの再検討だ。
決定打とされたのが、石膏像に見られる特有のポーズだった。
肘と膝を曲げ、拳を握り、体を反らせる姿勢。これは「ボクサー姿勢」と呼ばれるもので、焼死体に典型的に現れる。高温で筋肉のタンパク質が凝固し、屈筋のほうが伸筋より強いために、関節が曲がった状態で固まる。これは死んだ後に起きる現象だ。つまり、苦悶の表情に見えるものは、苦悶していた証拠ではない。すでに死んだ体が、熱で勝手にそういう形になっただけだ。
第四のサージが到達した際、ポンペイ市内の温度は摂氏三百度に達したという推定がある。三百度の空気を一呼吸吸えば、気道が即座に焼ける。意識が消えるまでコンマ数秒だ。臓器と血液が瞬時に蒸発する、という表現を使う研究者もいる。
この結論は、残酷であると同時に、ある種の救いでもある。ポンペイの人々は、長く苦しんで死んだのではなかった。少なくとも火砕サージに巻き込まれた六十二パーセントの人々に関しては、そうだ。
だが全員がそうだったわけではない。軽石の降下で家に閉じ込められ、屋根の崩落で死んだ三十八パーセントは違う。彼らは十数時間、暗闇の中で、屋根を叩く音を聞き続けていた。逃げるべきか残るべきか、家族と議論しただろう。そして屋根が抜けた。この人たちの死は、熱の一瞬ではない。
さらに、ボクサー姿勢説にも反論がある。すべての石膏像がこのポーズをしているわけではない。眠るように横たわっている型もある。膝をついて座り込んだ型もある。姿勢の多様性は、死のタイミングと状況の多様性を示していて、単一のメカニズムに還元するのは乱暴だ、という指摘だ。おそらく正解は「場所と時間によって違った」であり、それは学問的にはつまらないが、たぶん一番正しい。
型を取ること自体が、許されるのか
近年になって、まったく別の角度からの議論が強くなっている。倫理の問題だ。
石膏像は遺体である。厳密に言えば遺体そのものではなく遺体の周りにできた空洞の複製だが、多くの場合、内部には実際の骨が残っている。人骨を含む造形物を、ガラスケースに入れて、入場料を取って、世界中の観光客に見せている。これは死者の尊厳に対してどうなのか。
問題を複雑にしているのは、展示のされ方だ。一部の石膏像は長らく、通路の脇に無造作に置かれていた。屋外に放置され、風雨にさらされていた時期もある。土産物屋の隣に並んでいたこともある。二〇一五年から一六年にかけて、複数の石膏像が世界各地の巡回展に貸し出され、集客の目玉になった。エンターテインメント化しているのではないか、という批判が出た。
さらに、名付けの問題がある。「二人の乙女」「母と子」「恋人たち」といった名前は、後世の人間が姿勢から想像してつけたものだ。物語が先にあって、遺体がそれに当てはめられている。十九世紀の道徳観、性別役割、家族観が、そのまま名前として二千年前の死者に貼り付けられてきた。
そしてこの点について、二〇二四年に決定的なデータが出た。
ハーバード大学、マックス・プランク研究所、フィレンツェ大学らの共同チームが、石膏像に含まれる骨から古代DNAを抽出して解析した。結果は、いくつもの定番の物語を壊した。
「黄金の腕輪の家」で見つかった四人の遺体は、長らく両親と二人の子供の一家として語られてきた。DNAは、四人が互いに血縁関係にないことを示した。腕輪をつけて子供を抱いていると解釈されてきた「母親」は、遺伝的には成人男性だった。
「二人の乙女」として知られる、抱き合うように倒れた二体。少なくとも一方は男性だった。姉妹とも母娘とも解釈されてきたペアだが、遺伝的な血縁もなかった。
さらに、遺伝的な祖先の分析からは、ポンペイの住民が地中海東部を中心とした極めて多様な出自を持っていたことが示された。ローマ帝国の港湾都市が、人の出入りの激しい国際都市だったという歴史的理解を、遺伝子が裏付けた形になる。
研究チームは、この結果は個々の物語を否定するためのものではなく、我々が過去に自分たちの期待を投影してきたことを示すものだと述べている。ポンペイ考古学公園の所長ガブリエル・ズフトリーゲルも、科学的データによって解釈を更新し続ける必要性を強調した。
石膏像は死者の記録であると同時に、それを見る側の時代の鏡でもあった。二世紀近く、我々は自分の見たいものを二千年前の白い形に見ていたことになる。
壁が語る、庶民の声
ポンペイの本当の面白さは、彫像でも壁画でもない。落書きだ。
古代ローマの都市では、壁は公共の掲示板だった。選挙の呼びかけ、店の宣伝、恋の詩、悪口、下ネタ、九九の練習、剣闘士の成績、そして「ここに来た」というだけの記録。ポンペイで発見され記録された落書きは一万数千点にのぼる。文字を書ける人間が、我々が想像していたよりずっと多かったということでもある。
いくつか読んでみよう。
バシリカ、つまり公会堂の壁にあった一文が個人的に一番好きだ。壁よ、これほど多くの人間のくだらぬ落書きを支えていながら、まだ崩れ落ちていないとは驚きだ。
落書きだらけの壁に、落書きで文句を言っている。この皮肉のセンスは、現代のインターネットの掲示板と何も変わらない。しかもこの一文は複数箇所で見つかっていて、要するにコピペされて流行っていた。二千年前のバズった書き込みだ。
別の壁には、ガイウス・プミディウス・ディフィルスがここにいた、とだけ書かれ、日付が添えられている。観光地の柱に名前を彫る行為は、少なくとも二千年の伝統がある。ちなみにポンペイの壁には、後世の発掘作業員や十九世紀の旅行者が彫った落書きも混ざっていて、専門家はそれを見分ける作業もしなければならない。落書きの上に落書きがある。
剣闘士絡みの落書きも大量にある。トラキア人剣闘士ケラドゥスについて、娘たちのため息の的、若い娘たちの憧れ、といった書き込みが兵舎の壁に残っている。ファンによる落書きなのか、本人か興行主による自己宣伝なのかは分からない。どちらでも面白い。剣闘士の成績表のような落書きもあって、誰が何勝したか、誰が助命されたかが記録されている。スポーツ新聞の役割を壁が果たしていた。
そして選挙だ。
ポンペイの外壁には、赤や黒の絵の具で書かれた選挙告示が二千八百件以上残っている。造営官にはマルクス・ケリニウスを、若く、慎み深く、清廉な人物である、といった真面目なものから、ふざけたものまである。泥棒たちがこぞってこの候補を推薦する、という一文が残っていて、これは対立陣営による嫌がらせだと考えられている。ネガティブキャンペーンも二千年前からある。
さらに面白いのは、女性名義の推薦がいくつもあることだ。ローマの女性に参政権はないが、街の顔役としての影響力はあった。パン屋の女将や、宿屋の女主人が候補者を推している。
娼館の壁、パン屋の窯、闘技場の乱闘
ルパナーレと呼ばれる建物がある。ポンペイで確認されている中で最大の娼館だ。二階建てで、部屋数は十。一階の各室には煉瓦を積んだ台があり、そこにマットレスを敷いて使った。扉はなく、カーテンレールの跡もない。明かり取りの小窓があるだけだ。
廊下の壁、部屋の入口の上には、性行為を描いた絵が並んでいた。かつては「メニュー表」だと説明されていたが、現在の研究者はそう考えていない。位置が高すぎるし、描かれている場面は理想化されていて、実際の営業内容とは無関係だろうというのが有力な見方だ。装飾であり、雰囲気づくりであり、店の格を演出する広告に近い。
ただ、この建物で本当に読むべきなのは絵ではなく落書きのほうだ。
ルパナーレの壁からは百五十点以上の書き込みが記録されている。ラテン語、ギリシャ語、そして地元の言語であるオスク語が混ざっている。多国籍な客層だったということだ。内容は自慢話、感想、名前の書き付け、日付、そして商売の記録らしきもの。この建物で働いていた人々の多くは奴隷か解放奴隷で、ギリシャ系や東方系の名前が目立つ。落書きに残る名前が本名なのか源氏名なのかも分からない。
そこで働いた人たちの生活は過酷だったはずだ。部屋は狭く、暗く、扉もない。この場所を「面白いスポット」として消費するのは簡単だが、書き残された名前の一つ一つは、ここで働いて生きていた人間のものだ。落書きは楽しいが、その裏側は楽しくない。
パン屋の話に戻ると、ポンペイで最も有名な炭化パンは、モデストゥスという人物の名の焼印が押された状態で見つかっている。円盤状で、放射状に八つの切れ目が入っている。切り分けやすいようにという工夫で、この形は今のイタリアの一部地域のパンにも残っている。窯から出したまま、あるいは出す直前で止まった。パン職人はどこへ行ったのか。
そして円形闘技場だ。紀元前七〇年ごろに建てられた、現存する最古級のローマ式円形闘技場で、収容人数は二万人とされる。街の人口より多い。近隣の町からも客を集めていたからだ。
西暦五九年、ここで大事件が起きた。
剣闘士の興行の最中、ポンペイ市民と隣町ヌケリアから来た観客の間で口論が始まり、それが投石になり、抜刀に発展した。タキトゥスの『年代記』第十四巻に記録が残っている。多数の死者と負傷者が出て、事態はローマの元老院にまで報告された。処分は重かった。ポンペイでの剣闘士興行を十年間禁止。首謀者は追放され、興行主のリウィネイウス・レグルスも処罰された。
面白いのは、この事件を描いたフレスコ画がポンペイの民家から見つかっていることだ。闘技場の外壁と内部が俯瞰で描かれ、観客席と階段と外の広場で人々が殴り合っている。誰かがこの騒動を絵に描いて、自分の家の壁に飾った。地元の伝説として語り継ぎたかったのだろう。サッカーのフーリガン騒動をリビングの壁に描くようなものだ。
なお、この十年の禁止令は満期まで続かなかった。六二年の大地震で闘技場自体が損傷し、その修復を地元の有力者クスピウス・パンサ父子が請け負った。修復と引き換えに禁止が解除されたと考えられている。街の名誉より復興と娯楽が優先された。実に人間らしい。
グランドツアーと、鍵のかかった部屋
十八世紀後半から十九世紀、ヨーロッパの上流階級の子弟には「グランドツアー」という通過儀礼があった。教育の総仕上げとして、大陸を旅して古典古代の遺跡を巡る。ナポリはその重要な目的地で、ポンペイとヘルクラネウム、そして噴煙を上げるヴェスヴィオ山がセットで組み込まれていた。
当時のヴェスヴィオは頻繁に活動していて、夜になると火口が赤く光った。旅行者たちはガイドを雇って登り、火口を覗き込み、溶岩で卵を焼いて食べたりした。そして翌日は死者の街を歩く。生きている火山と、その火山に殺された街を続けて見る。この体験が、ロマン主義の想像力に決定的な燃料を注いだ。
ゲーテは一七八七年にポンペイを訪れて、世界には多くの災厄が起きたが、これほど後世の人間を喜ばせたものはほとんどない、と書いた。ずいぶん不謹慎だが、正直でもある。
問題は、遺跡から出てくるものの一部が、当時の道徳観では「見せられないもの」だったことだ。
ローマ人にとって性的な図像は珍しいものではない。豊穣と幸運の象徴として、パン屋の入口にも、浴場の脱衣所にも、庭のランプにも、堂々と描かれ、彫られていた。それを十八世紀のカトリック王国の宮廷が発掘してしまった。
対応は「隠す」だった。一八一九年、フランチェスコ一世が家族を連れて博物館を見学し、こうした展示に困惑した結果、問題の品を一室にまとめて鍵をかけるよう命じた。ナポリ国立考古学博物館の「ガビネット・セグレート」、秘蔵陳列室の誕生だ。閲覧は「成熟した年齢と品行方正な道徳を持つ人物」に限られ、許可証が必要だった。要するに紹介状を持った紳士だけ。
この部屋の扱いは政治情勢とともに揺れ動いた。開いたり、閉じたり、壁で塞がれたり、また開いたり。イタリア統一の前後で開放されたが、その後また閉ざされた。完全に一般公開されたのは、なんと二〇〇〇年のことだ。ただし今も未成年は保護者の同伴が必要とされている。百八十年間、鍵をかけ続けた。
つまり、ポンペイという遺跡は、掘り出した側の社会が何を見たがり、何を見たくないかを、そのまま映し出してきた。街は二千年前のままだが、街の見せ方は常に現代の産物だった。
呪いの噂と、返送されてくる小包
さて、オカルト方面の話だ。ポンペイには「呪い」の噂がある。
内容はシンプルだ。遺跡から石を持ち帰ると、不幸になる。
この噂がいつ生まれたのかははっきりしない。ただ、確実に言えるのは、ポンペイ考古学公園には毎年、世界中から小包が届き続けているということだ。中には遺跡から持ち出された石やモザイクの欠片やタイルが入っていて、多くの場合、謝罪の手紙が添えられている。数は年間で百件規模になる年もあるという。公園側はこれらを保管しており、返送品と手紙を集めた展示が組まれたこともある。
最も有名なのが二〇二〇年の一件だ。
カナダ在住のニコルと名乗る女性から、ナポリの旅行会社を経由してポンペイ考古学公園に小包が届いた。中身はモザイクのタイル二枚、陶器の破片二つ、アンフォラの一部。彼女がポンペイを訪れたのは二〇〇五年、当時二十代前半だった。
手紙にはこう書かれていたと報じられている。自分は歴史の一部を所有したかった、誰も持っていないものが欲しかった、と。そして、それを持ち帰ってからの十五年間に何が起きたかを綴っていた。二度の乳がん、両乳房の切除手術、そして経済的な破綻。
彼女は書いた。この品々は呪われている。持ち帰るべきではなかった。どうか返させてほしい。私たちの家族が受けた呪いを解いてほしい。そして、これを読んでいる人へ、遺跡から何も持ち出さないでほしい、と。
同じ小包に、別の夫婦からの返送品も同封されていたと報じられている。彼らはただ、持ち出したことを後悔している、許してほしい、と書いていた。
もう一件、印象的な手紙がある。数年前に返送された石に添えられていた文面で、書き手は自分がまだ若く軽率だった頃にポンペイから石を持ち帰り、その後に家族を次々と病気で失い、事業に失敗したと書いていた。因果関係を証明する方法は何もない。ただ、その人はそう信じ、何十年も持ち続けた石を、わざわざ国際便で送り返してきた。
さらに別の返送品には、こういう趣旨のことが書かれていたという。あのとき自分が持ち帰ったのは石ではなく、誰かの死の一部だった。それをずっと家の棚に置いていた。気づいてから、家の中で目が合うたびに寒くなった、と。
冷静に見れば、これはよく知られた心理現象だ。人は不幸の原因を求める。乳がんも、失業も、家族の死も、それ自体には理由がない。理由のない不幸は耐えがたい。だから、二十年前の小さな罪悪感が、後付けの説明として選ばれる。同種の話はハワイのペレの呪い、オーストラリアのウルル、アリゾナの化石の森など、世界中の観光地にある。どこも「持ち帰るな」と警告し、どこにも謝罪の手紙が届く。
だが、それでもこの現象には意味がある。人は自分がやったことを覚えている。二十年経っても覚えている。石は何もしないが、罪悪感は確実に何かをする。そして、この噂のおかげで実際に遺物が返ってきているのも事実だ。呪いは考古学的には無根拠だが、文化財保護的には有能だ。
ポンペイ考古学公園の元所長マッシモ・オサンナは、こうした返送について、盗まれた品は文脈を失った時点で学術的価値の大半を失うと語っている。どの部屋のどの床から剥がれたタイルなのか分からなければ、それはただの石だ。持ち出しは、物を奪うだけでなく、情報を殺す行為でもある。
念のため書いておくが、遺跡から何かを持ち帰るのは犯罪だ。呪いを信じるかどうかとは無関係に、やってはいけない。
いま、地面の下から出てきているもの
ポンペイの発掘は終わっていない。しかも、いま一番面白い時期に入っている。
一九九九年、当時の監督官ピエトロ・ジョヴァンニ・グッツォが新規発掘の凍結を決めた。理由は単純で、掘りすぎたからだ。掘り出した遺構が保存できずに崩れていく。二〇一〇年には剣闘士の兵舎が豪雨で崩落して国際的なスキャンダルになった。掘る技術より、掘った後を守る技術のほうが足りていなかった。
方針は「掘らない」ことになった。ポンペイの推定総面積の約三分の一は今も未発掘のままで、これは意図的に残されている。地中にあるほうが安全だからだ。未来の技術のために取っておく、という考え方でもある。二十年後、五十年後の考古学は、今より遥かに多くの情報を土から引き出せるだろう。
その凍結が二〇一七年に部分的に解除された。理由も明確で、未発掘部分と発掘済み部分の境界の斜面が崩れ始めていたからだ。この斜面を安定させるためには、境界付近を整理して掘る必要があった。この工事のような発掘が、レギオ5で行われた。
そして、出るわ出るわの大当たりになる。
二〇一八年、例の木炭落書きが出た。日付論争を揺るがすやつだ。同じ年、鮮やかな「レダと白鳥」のフレスコが出た。壁の中から、二千年前の絵の具の発色そのままに、鮮やかな青と赤が出てきた。
二〇一九年から二〇年にかけては、テルモポリウムが完全な状態で出た。カウンターの絵も、壺の中身の残滓も、店の裏で見つかった遺体も。二〇二〇年には、犠牲者二体の石膏型が、チヴィタ・ジュリアーナの別荘から出ている。一人は四十代の裕福な男性、もう一人は十八歳から二十三歳ほどの若者で、衣服の質と骨に残る重労働の痕跡から、主人と奴隷ではないかと推定された。二人は同じ部屋で、数メートルの距離で死んでいた。
二〇二一年、同じチヴィタ・ジュリアーナから儀式用の四輪馬車が出た。鉄と青銅と錫で装飾され、エロティックな図像のメダリオンがついた豪奢なものだ。ほぼ完全な形で残っていた。この現場は元々、盗掘者のトンネル対策で緊急発掘された場所だ。盗掘者はこの馬車のすぐそばまで掘り進んでいて、あと数十センチずれていたら破壊されていた。
そして同じ年、隣の部屋から「奴隷部屋」が出た。
三つの寝台。うち二つは大人用で、一つは長さ百四十センチほどの子供用。マットレスはなく、板の上に紐を張った簡素なつくりで、そのうち一つには紐の跡すら残っていない。ただの板だ。部屋には窓がなく、明かりは小さな高窓だけ。壁に装飾はない。床には壺と、道具と、ネズミの骨があった。個人の持ち物を入れる木箱がベッドの下に押し込まれ、部屋の隅には馬具が置かれていた。人が寝る部屋と、馬具の倉庫を兼ねていたということだ。
ポンペイ考古学公園の所長ガブリエル・ズフトリーゲルは、これを「ローマ世界で最も脆弱な階層の日常生活への、稀有な窓」と表現した。ローマ帝国の富の話は昔から山ほど研究されてきたが、その富を支えた人々がどんな板の上で寝ていたかを、我々は今まで知らなかった。
二〇二三年にはさらに別の奴隷部屋が発見され、二〇二五年には彼らの食事の分析結果が出た。ソラマメと果物を中心とした食事で、労働力を維持するための最低限の栄養が意図的に与えられていたことが示唆されている。
二〇二三年には、レギオ9の家からある静物画が出て、世界中のニュースになった。銀の盆の上に載った円盤状のパン生地に、何かがトッピングされている。ザクロかナツメヤシ、そしてスパイスかリコッタらしきもの。見た目が完全にピザだった。
ポンペイ考古学公園は、これはピザではないと丁寧に否定した。トマトはアメリカ大陸原産で、この時代のヨーロッパには存在しない。モッツァレラの証拠もない。だが「ピザの遠い祖先」と呼ぶことはできる、と。イタリアのメディアは大騒ぎになり、ナポリのピザ職人組合までコメントを出す事態になった。
二〇二四年には、レギオ9からトロイア戦争の場面を描いた「黒い部屋」が出た。壁全面が黒く塗られ、その上に神話の場面が描かれている。ランプの煤で壁が汚れても目立たないように黒くしたのだろうと考えられている。実用的な理由から生まれた、異様に格好いい部屋だ。
そして二〇二五年から二六年にかけて、また別の角度の発見があった。噴火の後も、ポンペイに人が住んでいた痕跡だ。
灰の上に建てられた粗末な構造物、火を焚いた跡、掘り返して住み着いた形跡。街が完全に無人になったわけではなく、行き場のない人々が廃墟に潜り込んで、しばらく暮らしていたらしい。過去の発掘ではこの層は「後世の攪乱」として除去されてきた。誰も見ようとしなかったから、見えていなかった。二〇二六年には貞潔な恋人たちの家でパン工房の調査が進み、噴火時に建物内にいたウマ科の動物の骨格が確認された。ロバがパン屋の石臼を引いていた日常が、そのまま止まっていたことになる。
山はまだ、そこにある
ヴェスヴィオは死火山ではない。休火山でもない。活火山だ。
七九年の後も、この山は何度も噴火している。四七二年、一六三一年、一七六七年、一七九四年、一八七二年、一九〇六年。そして直近が一九四四年三月だ。第二次世界大戦の最中で、この地域には連合軍が駐留していた。溶岩流でサン・セバスティアーノとマッサ・ディ・ソンマの集落が破壊され、アメリカ陸軍航空隊の爆撃機八十機以上が降灰で使用不能になった。戦争のさなかに、火山が味方も敵もなく暴れた。
以来八十年以上、山は静かにしている。だがこれは安心材料ではない。ヴェスヴィオは休止期間が長いほど、次の噴火が大きくなる傾向があると考えられている。マグマ溜まりに圧力が蓄積し、火道が固い栓で塞がれるからだ。七九年の噴火の前の休止期間は、およそ七百年だった。
この山は世界で最も監視されている火山の一つだ。
ヴェスヴィオ観測所は一八四一年、両シチリア王国のフェルディナンド二世によって山の斜面に設立された。世界最古の火山観測所である。初代所長はマチェドニオ・メローニ、二代目のルイジ・パルミエーリは電磁式の地震計を開発し、一八七二年の噴火の際には観測所に籠もって観測を続けた。現在は国立地球物理学火山学研究所の一部門として、ナポリに中枢を置き、ヴェスヴィオ、フレグレイ平野、イスキア島の三つの火山地域を常時監視している。地震計、傾斜計、GPS、ガス組成の分析、衛星による地殻変動の観測。異常が出れば即座に警報が出る。
問題は、その山のふもとに人が住んでいることだ。
イタリアの防災当局が設定する「レッドゾーン」、つまり火砕流の到達が想定される最危険区域には、およそ七十万人が暮らしている。ナポリ都市圏の膨張とともに、山の斜面ぎりぎりまで住宅が建った。避難計画は存在する。噴火の兆候が出てから七十二時間で全員を域外へ運ぶという計画だ。バス、鉄道、船を総動員し、各自治体をイタリア国内の別の州とペアリングして受け入れ先を確保している。
計画は精緻だが、機能するかどうかは誰にも分からない。七十万人を三日で動かした前例は人類にない。しかも避難の判断は科学者が出す。空振りに終われば莫大な経済損失と信頼の失墜、判断が遅れれば大量死。二〇〇九年のラクイラ地震で、リスク評価に関わった科学者が刑事訴追された国だ。決断を迫られる側の重圧は想像を絶する。
住民の多くは、この危険を知りつつ受け入れている。ナポリの人々にヴェスヴィオの話を振ると、笑って「あいつはいつも怒っているが、まだ本気じゃない」といった調子で返されることがあるという。危険と共に生きるための諦観とユーモアが、この土地の文化になっている。七九年の住民が地震を日常として受け入れたのと、構造は同じだ。
なぜ人は、二百年以上この街に来るのか
年間の来訪者は約二百五十万人。ポンペイはイタリアで最も混雑する遺跡の一つで、夏の午後はローマの街路が観光客の列で埋まる。ローマのコロッセオも、ギリシャのパルテノンも、規模でも美しさでも上を行くのに、ポンペイに来る人はここでしか得られないものを求めている。
それは「日常」だ。
ローマの遺跡の大半は、記念建造物だ。皇帝が権力を誇示するために建てた凱旋門、神殿、闘技場。壮麗だが、当時の人々の暮らしは映さない。ポンペイは逆で、残っているのは圧倒的に日常のほうだ。台所の鍋。店の看板。子供の落書き。犬の注意書き。壊れたまま修理を待っていた壁。バーのカウンターの染み。財布に入っていた小銭。
そして、その日常が壊れる瞬間が、同時に保存されている。この二つが同じ場所にあるというのがポンペイの特異性だ。普通、災害の記録は破壊の記録だ。何が失われたかは書かれるが、失われる直前に何があったかは残らない。ポンペイでは、失われた側と失われる瞬間が同じ地層に折り重なっている。
もう一つある。ポンペイは、自分ごとにできる災害だ。
古代の戦争や疫病は遠い。だが「昼飯を食べている最中に、空から石が降ってきた」という状況には、想像力が届いてしまう。自分の街で同じことが起きたら、と考えられる。石膏像の一体一体は、逃げるか残るかを判断した誰かだ。その判断を我々は評価してしまう。もっと早く逃げればよかったのに、と思ってしまう。そして次の瞬間、自分だって逃げなかっただろうと気づく。地震が続いていても出勤するし、警報が鳴っても様子を見る。二千年前の彼らと同じ判断をする自信が、我々にはたっぷりある。
ポンペイが人を惹きつけるのは、それが「他人の死」であると同時に「起こりうる自分」でもあるからだ。時間が止まった街というキャッチコピーは、実は正確ではない。止まっているのは彼らの時間ではなく、我々の時間のほうかもしれない。同じ判断を、同じ理由で、繰り返す準備が我々にはある。街はそれを二千年間、白い石膏で指摘し続けている。
拾いきれなかった論点を、まとめて置いておく
ここからは、上で拾いきれなかった論点と、この題材の全体像を改めて整理しておく。ポンペイという場所は情報の密度が異常に高く、一周しただけでは取りこぼしが出る。
まず、日付論争の意味について、もう一段踏み込んでおきたい。
八月か十月か、たかが二か月の違いに何の意味があるのか、と思う人はいるだろう。だがこれは、噴火という事象の理解そのものに関わる。噴火時の風向きは、堆積物の分布を決める最大の要因だ。夏と秋では卓越風のパターンが異なる。もし秋だったなら、堆積のシミュレーションに使うべき気象条件が変わり、噴出量や噴煙柱の高さの推定値も微妙に変わってくる。それは次の噴火のハザードマップに直結する。七十万人の避難計画の基礎データが、二千年前の日付の解釈に乗っかっているわけだ。学者が本気になる理由がある。
さらに、この論争は「文献史料と物的証拠のどちらを優先するか」という、歴史学の根本問題の教材にもなっている。
二十世紀までの常識では、同時代人が書いた記録が最強の証拠だった。だが小プリニウスの手紙は、原本が存在しない。我々が持っているのは中世の修道院で何度も書き写された写本だ。写字生がローマ数字を見間違える確率は、決してゼロではない。一方、木炭の落書きは書かれた当時のまま二千年間誰にも触られていない。改竄も転写もされていない。物のほうが文字より正直だった、という構図が成立しつつある。ただし物にも解釈が必要で、落書きの日付が何を指すかは結局のところ推測だ。どちらの証拠も単独では決着しない、という不完全さこそが、この論争を生かし続けている。
次に、犠牲者数の問題を整理しよう。
しばしば「ポンペイで二万人が死んだ」と書かれるが、これは誤りだ。二万というのはポンペイとヘルクラネウムを合わせた推定人口であって、死者数ではない。実際に遺骸が確認されているのは、ポンペイで千体強、ヘルクラネウムで三百四十体前後。合計しても千五百に届かない。もちろん未発掘の三分の一にはまだ遺体があるはずだし、街の外で死んだ人、海に流された人、周辺の農村部で死んだ人は数えられていない。研究者の推定は幅が広く、二千人程度から一万人以上まで開きがある。確実に言えるのは、大多数は逃げ切ったということだ。
そしてこの「逃げ切った人々」の話が、実はあまり語られていない。
数千人から一万人以上のポンペイ人が、街を失った難民として周辺都市に流れ込んだ。皇帝ティトゥスは救済に動き、被災地に委員を派遣し、相続人のいない犠牲者の財産を復興資金に充てさせた。ナポリ、クマエ、プテオリ、オスティアといった周辺都市の碑文に、ポンペイやヘルクラネウム出身と分かる家族の名前が現れる。彼らはそこで店を出し、子供を育て、墓を建てた。
街は死んだが、住民は死ななかった。ポンペイの物語は基本的に死者の物語として語られるが、その裏には、灰まみれで生き延びて、二度と帰れない家のことを一生覚えていた何千人もの人生がある。
石膏像の技術的な話も補足しておく。
フィオレッリの手法は完璧ではなかった。石膏を流すとき、空洞の中に残っていた骨は石膏に取り込まれて見えなくなる。つまり型を作った瞬間に、骨からの科学的情報の多くが封印されてしまう。二〇二四年のDNA研究が可能だったのは、石膏から一部露出していた骨や、修復作業中にアクセスできた骨があったからだ。裏を返せば、我々は百五十年間、貴重な人骨資料を石膏で埋め殺してきたとも言える。現在の発掘では、まず空洞をCTスキャンなどで調べ、内部構造を記録してから注入するかどうかを判断する。技術が進むほど、「型を取らない」という選択肢が現実的になっていく。
倫理の議論も、単純な賛否では終わらない。
石膏像の展示をやめるべきだという主張には一定の説得力がある。だが同時に、石膏像があるからこそポンペイは単なる石の遺跡ではなく、人間の物語として世界に伝わった。石膏像がなければ、この街に年間二百五十万人は来ない。その入場料収入が保存修復の財源になっている。死者の姿を見せることで、死者の街が守られている。この循環をどう評価するかは、たぶん答えが出ない。現在のポンペイ考古学公園は、二〇二六年三月から石膏像そのものの歴史と技法を解説する常設展示を始めた。「見せる」から「見せることについて考えさせる」へと、展示の枠組みをずらす試みだと読める。
ヘルクラネウムとポンペイの非対称も、もう一度確認しておきたい。
二つの街は同じ噴火で死んだが、死に方も、残り方も、掘られ方もまったく違う。ポンペイは軽石に埋まったので、有機物は腐って消え、代わりに空洞が残った。ヘルクラネウムは高温の火砕流に埋まったので、有機物は炭化して形が残った。ポンペイでは人体が消えて型になり、ヘルクラネウムでは骨が残った。だから石膏像はポンペイにしかなく、骨の科学分析はヘルクラネウムのほうが進んでいる。木の扉、二階の床、揺りかご、寝台、そして書物。ヘルクラネウムには物が残り、ポンペイには人のかたちが残った。二つを合わせて初めて、ローマの都市の全体像に近づける。
パピルス荘の巻物についても、もう少し書いておく価値がある。
あの別荘の図書室からは千八百巻を超える炭化巻物が回収された。ローマ時代の図書室が丸ごと残っている唯一の例だ。中身の多くはエピクロス派の哲学者フィロデモスの著作だが、まだ開かれていない巻物には何が入っているか分からない。失われたと思われている古代の文献が眠っている可能性がある。ソポクレスの失われた悲劇、リウィウスの散逸した巻、アリストテレスの対話篇。
過去二百七十年、巻物を開こうとする試みはことごとく巻物を破壊してきた。それがついに、X線と機械学習で「読む」段階に入った。しかも、この別荘はまだ大部分が未発掘だ。図書室がもう一つある可能性も指摘されている。二千年前の本棚が、これから開く。歴史ミステリーの現在進行形として、これほど熱い案件もそうない。
反応の話もしておこう。
ポンペイ関連のニュースが出るたび、インターネットは決まったパターンで盛り上がる。DNA研究が「母と子」を否定したときには、学者が感動的な話を壊した、という反発と、そもそも我々が勝手に感動していただけだ、という指摘が衝突した。ピザ状のフレスコのときは、イタリア人が本気で「ピザではない」と主張し、他国のユーザーが「どう見てもピザ」と茶化す構図になった。奴隷部屋が公開されたときは、あの板の寝床の写真が広く共有され、ローマ帝国の栄光を語る言説への冷や水として引用された。呪いの返送品のニュースは定期的にバズるが、コメント欄は「信じないが返すのは正しい」で概ね一致する。
共通しているのは、誰もがポンペイに何かしらの物語を投影していて、その物語が更新されるたびに感情が動くということだ。二千年前の街が、いまだに現代の議論の舞台として機能している。
研究者側の姿勢の変化も見ておきたい。
かつてのポンペイ研究は、壁画の様式分類と建築史が中心だった。上流階級の邸宅、いわゆるドムスの研究が花形で、庶民の住居や職人の工房は後回しにされた。この二十年で重心が完全に移った。いま最も注目されるのは、パン屋の作業動線であり、洗濯屋の水回りであり、奴隷の食事の同位体分析であり、下水道から出る糞石の内容物だ。誰が何を食べ、どこで寝て、どんな寄生虫を持っていたか。華やかさは減ったが、分かることは桁違いに増えた。ポンペイ研究は「美術品のカタログ」から「一つの都市の生活の全解剖」へと変質した。
本当に怖いのは、火山ではない
最後に、この街が突きつけてくるものについて、もう一度書いておく。
ポンペイの本当に怖いところは、火山でも、石膏像でも、呪いでもない。準備の話だ。
七九年の噴火の前、この街には十七年分の警告があった。六二年の大地震で街の半分が壊れ、その後も揺れは続き、井戸が涸れ、家畜が騒いだ。それでも誰も引っ越さなかった。修理して、住み続けて、また修理した。
彼らは愚かだったのではない。合理的だった。引っ越すコストは巨大で、地震はいつものことで、山が噴火するなんて誰も見たことがなかったから。同じ判断を、我々は今日も世界中でしている。活断層の上に街を建て、津波の来る海岸に家を建て、噴火の想定区域に七十万人が住んでいる。
そして噴火が始まってからも、生死を分けたのは判断だった。最初の数時間で逃げた人は助かった。家に留まった人は屋根に潰された。夜まで待って様子を見た人は、火砕サージに焼かれた。逃げた先で助かった人もいれば、海岸で船を待って死んだ人もいる。正解は事後にしか分からない。ヘルクラネウムの船着場で夜明けを待った三百人は、その時点で最も賢明に見える選択をした。屋根のある場所で、海の近くで、家族と一緒に待つ。誰がそれを責められるだろうか。
ポンペイは、災害というものが「災害の知識がない人々」に降りかかるとどうなるかの完全な標本だ。そして我々は、知識がある側だと思っている。だが知識があることと、それに基づいて動くことの間には、二千年経っても埋まらない距離がある。あの白い石膏の形は、我々自身の輪郭でもある。
だからこの街には人が来る。歴史を見に来ているつもりで、たぶん自分を見に来ている。二百年以上、それが続いている。そして地面の下には、まだ三分の一が残っている。話は終わっていない。
