勝海舟と西郷隆盛は、本当に何を決めたのか
1868年3月、江戸への総攻撃を目前にして、勝海舟と西郷隆盛が会談した。攻撃は中止され、江戸城は戦闘なしで新政府へ引き渡された。これが世に言う無血開城だ。大都市が戦場になる事態を避けた重要な交渉だった。
一方で、「二人だけが知る密約があった」という話も根強い。徳川家の存続、薩摩への利権、幕府の埋蔵金まで、さまざまな説が語られてきた。正直、筋書きとしては面白い。しかし、実際の交渉条件と、後世の想像は分けなければならない。無血開城は秘密の一言で決まったのではなく、複数の交渉と政治判断が重なった結果だった。
駿府で先に道をつけた男、山岡鉄舟
鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、大坂から江戸へ戻り、上野の寛永寺で謹慎した。新政府は東征軍を進め、江戸総攻撃を3月15日に予定する。江戸では戦闘への不安が広がった。
旧幕府側で交渉を担った勝海舟だが、いきなり西郷と会ったわけではない。慶喜の意向を伝える山岡鉄舟が、先に駿府で西郷と面会している。山岡は慶喜が恭順する意思を示し、助命や徳川家の扱いをめぐって話し合った。この接触によって、武力衝突を避けるための条件が整理され始めた。
つまり、勝と西郷の会談だけを「二人の英雄がその場で江戸を救った」と描くのは単純すぎる。慶喜の恭順、新政府内部の判断、山岡の交渉など、すでに複数の動きが進んでいた。
3月13日と14日、江戸で示された条件
勝と西郷は3月13日と14日に江戸で会談した。ここからが本番だ。旧幕府側は江戸城を明け渡し、慶喜を水戸で謹慎させ、武器や軍艦を扱うことなどについて条件を示した。新政府側はこれを受け、翌15日に予定されていた総攻撃を中止した。
ただし、西郷一人がすべてを最終決定したわけではない。西郷は前線の責任者として攻撃延期を判断できても、徳川家の処分などは新政府内で改めて決める必要があった。会談後も条件の調整は続き、江戸城が正式に引き渡されたのは4月11日である。
徳川慶喜は助命され、徳川宗家は田安亀之助、のちの徳川家達へ引き継がれた。のちに徳川家は静岡で存続する。結果だけ見れば、勝が求めた方向に近い。ただ、それは会談の裏で秘密の保証が交わされた証拠ではなく、表に出た交渉と、その後の政治決定でも説明できる。
パークスの意見は決定打だったのか
ここで外国の影が出てくる。イギリス公使ハリー・パークスが江戸攻撃に反対し、新政府へ圧力をかけたため総攻撃が止まった、という説もある。大都市での戦闘は、外国人の安全や貿易に影響する。外国公使が情勢へ強い関心を持っていたのは不思議ではない。
パークスが旧幕府側を完全な降伏者として一方的に処罰することへ否定的な意見を示した、という説明はある。しかし、その発言だけで西郷が方針を変えたと証明する決定的な記録はない。慶喜の恭順や山岡との交渉はすでに進んでおり、外国側の意見は複数ある判断材料の一つだったと見るほうが無理がない。
江戸無血開城を日本人同士の美談だけに閉じる必要もなければ、イギリスが命じて実現したと置き換える必要もない。当時の日本が外国との関係を無視できなかったことと、国内交渉が積み重なっていたことは両立する。
密約説はどこまで裏づけられるか
密約説の中でよく語られるのは、江戸城を渡す代わりに徳川家の存続を保証した、というものだ。しかし徳川家の扱いは交渉の中心課題であり、秘密にしなければならない条件ではない。書面に残らない個人的な約束があった可能性までは否定できないが、具体的な密約文書は確認されていない。
薩摩藩へ幕府の貿易利権や財産を渡したという説は、さらに裏づけが弱い。江戸城の金蔵や徳川埋蔵金の場所を教えたという話も、別の人気伝説と結びついたものだ。結果から逆算して「得をした者がいたのだから取引があったはずだ」と考えるだけでは、史実にはならない。
勝が江戸市中を焼く焦土作戦を用意し、それを西郷への圧力に使ったという説もある。勝が最悪の場合に備えて抵抗策を考えていた可能性は論じられているが、会談で具体的に脅したと確認できる記録とは別だ。準備、構想、実際の発言を一つにまとめないほうがいい。混ぜてしまえば、どんな話でも密約の証拠に見えてくるわけだ。
美談だけでも陰謀だけでもない
では、その交渉を伝える記録はどうなのか。会談の様子を伝える材料は、勝の後年の回想に偏っている。『氷川清話』などで勝は交渉を何度も語ったが、回想は事件から時間がたっており、自分の役割を強く見せる面も考慮する必要がある。西郷本人の説明は少なく、周辺人物の書簡や記録から補うしかない。
記録の偏りは想像を呼ぶが、空白があること自体は密約の証拠ではない。確かに分かるのは、旧幕府側が恭順と城の引き渡しを示し、新政府側が攻撃を見送り、その後の調整を経て江戸城が渡されたことだ。
無血開城は、勝と西郷の人情だけで実現した奇跡でも、裏金ですべて決まった陰謀でもない。戦えば双方に大きな損害が出る状況で、慶喜、山岡、勝、西郷、新政府首脳、外国公使らの判断が重なった。密約を探すより、その多段階の交渉を見るほうが、当時の政治の緊張をよく伝えてくれる。
