3月13日、高輪の薩摩藩邸
1868年3月13日。高輪の薩摩藩邸に、勝海舟が足を運んだ。迎えたのは西郷隆盛だ。江戸への総攻撃は、新政府軍の軍議で、2日後の15日に決まっていた。この記事の日付は、すべて当時の旧暦で書いていく。
ちなみに旧暦の日付は、いまの暦に直すと3週間ほどずれる。総攻撃の予定日だった3月15日は、新暦なら4月7日にあたる。江戸城が開かれた4月11日は、新暦の5月3日だ。
舞台は幕末の江戸。大都市が戦場になる寸前。この会談のあと攻撃は中止され、江戸城は戦闘なしで新政府へ引き渡される。これが世に言う無血開城だ。大都市が戦場になる事態を避け、その後の日本の歩みを左右するほど重要な交渉だった。
「二人だけが知る密約があった」という話も根強い。徳川家の存続、薩摩への利権、幕府の埋蔵金まで、いろいろな説が語られてきた。正直、筋書きとしては面白い。ただ、実際の交渉条件と後世の想像は、分けて見なければならない。無血開城は秘密の一言で決まったのでなく、複数の交渉と政治判断が重なった結果だった。
当時の江戸は、100万人ほどが暮らす大都市だったと言われる。想像してみてほしい。ここが火の海になれば、犠牲は武士だけで済まず、町の暮らしそのものが焼けてしまう。町人も商人も、長屋の子どもも巻き込まれる。だから交渉の中身を、順番に追いかけてみたい。
鳥羽・伏見の敗戦から、寛永寺の謹慎まで
発端は鳥羽・伏見だ。1月3日に始まった戦いで、旧幕府軍は新政府軍に敗れた。兵の数だけなら、旧幕府軍が1万5千ほど、新政府軍が5千ほどで、旧幕府側が大きく上回っていたと言われる。それでも負けた。新政府側に錦の御旗が上がり、旧幕府軍は朝敵の立場に置かれたのが痛手。
徳川慶喜は6日の夜に大坂城を出て、軍艦で江戸へ戻った。大坂には、多くの家臣が置き去りにされた形。慶喜は水戸徳川家の生まれで、尊王の空気の濃い家で育った人だ。朝廷に弓を引く形になったことが、本人にはよほどこたえたらしい。
江戸へ戻った慶喜は、2月12日に上野の寛永寺へ入って謹慎した。戦う気はないと、態度で示したわけだ。新政府は東征軍を進め、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任じられた。西郷はその大総督府で、参謀の席にいる。
軍勢は東海道、東山道、北陸道の3方面に分かれて東へ向かった。3月6日には駿府の大総督府で軍議が開かれ、江戸への総攻撃は3月15日と決まる。慶喜は寛永寺で謹慎し、東征軍は江戸へ迫り、総攻撃の日取りまで決まっている。江戸の町では、戦闘への不安が日ごとに濃く広がっていった。切迫した状況。
勝海舟という男の立ち位置
旧幕府側で交渉を担ったのが勝海舟だ。勝は1月に陸軍総裁へ就き、旧幕府の陸軍を預かりながら、恭順を決めた慶喜のもとで新政府との窓口にもなった。戦って負けた側が、勝者の軍勢を前に、頭を下げて話をつける。その役目は、軽くなかったはずだ。
勝の隣には、会計総裁の大久保一翁がいた。二人は幕府の中で、徳川家の面目を保ちながら戦わずに収める道を探った仲間だ。一方で、幕府の面子を守るためにあくまで戦うべきだと唱える幕臣も、少なくなかった。主戦論の中心にいた小栗忠順は、1月のうちに罷免されている。意見は割れていた。
勝はもともと、貧しい御家人の家から身を起こした人だった。幕府の軍艦咸臨丸で太平洋を渡り、のちには神戸に置かれた海軍操練所を預かる立場にもなる。坂本龍馬が弟子として出入りしたのも、この時期の話だ。幕府の中にいながら、幕府の外の人間と平気でつき合う変わり者だった。
そういう勝だから、薩摩の西郷とも話が通じたのだろう、と言いたくなる。だが、これは後づけの見方だ。変わり者だったから話が通じた、と決めつけるには材料が足りない。確かなのは、二人に以前からの縁があったことのほうだ。
西郷の側にも、事情はあった。薩摩藩の下級武士の家に生まれ、藩主だった島津斉彬に見出されて政治の表舞台へ出た人だ。斉彬の死後は、島流しの憂き目にも遭っている。苦労人でもある。
そこから戻って、薩摩を新政府軍の中心にまで押し上げた一人。前線で兵を動かす責任者であり、政治の駆け引きにも通じた立場だった。
駿府へ走った山岡鉄舟
旧幕府側で交渉を担った勝海舟だが、いきなり西郷と会ったわけじゃない。先に動いたのは山岡だ。慶喜の意向を伝える山岡鉄舟が、先に駿府で西郷と面会している。山岡は慶喜が恭順する意思を示し、助命や徳川家の扱いについて話し合った。
山岡は幕臣で、剣と禅の腕で知られた大柄な男。駿府に着いたのは3月9日ごろだと伝わる。勝が書いた西郷あての手紙を預かり、それを携えて東海道を下っていった。道案内には、薩摩藩士の益満休之助が付いた。益満は江戸の薩摩藩邸が焼き討ちされたとき捕らえられ、勝のもとに預けられていた男だ。
焼き討ちは前の年の12月25日のこと。江戸市中で薩摩側の浪士が騒ぎを起こしたことへの報復で、鳥羽・伏見の戦いを呼ぶ引き金の一つになったと言われる。西郷はその騒ぎを裏で指示していた、と語られることもある。つまり西郷は、江戸を揺さぶった側でもあった。
駿府の大総督府へ向かう道すがら、山岡が「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へ罷り通る」と声を上げて進んだ、という逸話が語り伝えられている。出どころは山岡自身の談話らしい。本人が話を盛った可能性も、頭の隅に置いておきたい。
西郷が示した条件は、7つあったと伝わる。まず慶喜は備前藩へ預ける。江戸城は明け渡し、軍艦と武器も渡してもらう。城内に住む家臣は向島へ移して謹慎させる。ざっと、そんな中身だった。
残りの条件は、慶喜を補佐した者たちの調べと処罰、そして暴れる者の鎮圧だ。どれも、負けた側にとっては重い。特に主君を他家へ預けるという一条は、家臣たちの誇りを逆なでした。
山岡は、慶喜を備前藩へ預ける一条だけは受けられないと突っぱねた。山岡自身の談話では、西郷は主君を差し出せない気持ちを汲んで折れたことになっている。この接触によって、武力衝突を避けるための条件が整理され始めた。
山岡の駿府行きで条件の骨組みが見え、そのうえで勝と西郷が江戸で顔を合わせる流れになった。順序をたどると、会談は話し合いの出発点ではなく、積み上げた交渉の仕上げの場だったとも言える。
表で動いていた人たち
絵にはなる。勝と西郷の会談だけを「二人の英雄がその場で江戸を救った」と描くのは単純すぎる。慶喜の恭順、新政府内部の判断、山岡の交渉など、すでに複数の動きが進んでいた。勝と西郷の会談は、慶喜の恭順や山岡の交渉が積み重なった上で開かれたものとして見たほうが、筋が通る。
徳川家の存続を願う手紙は、男たちの交渉とは別に、大奥の奥向きからも届いていた。13代将軍の妻だった天璋院と、14代将軍の妻だった静寛院宮が、東征軍へ嘆願を送ったと伝わる。天璋院は薩摩の島津家の出で、静寛院宮は孝明天皇の妹にあたる。どちらも新政府側の有力者と縁が深い女性で、願いの重みは小さくなかった。
こうした働きかけは、すべて表のものだ。誰が誰にどんな頼みごとをしたか、手紙や記録でたどれるものも少なくなく、隠された密談の気配はそこにない。新政府の中には、慶喜に厳しい処分を求める声が強かった。そこへ表の嘆願が積み重なり、西郷の判断が少しずつ動いた。
勝と西郷は、この会談が初対面ではない。1864年に大坂で顔を合わせている。このとき勝は、幕府の力だけに頼らず、有力な藩が集まって国を動かすべきだという趣旨の話をしたと伝わる。西郷は大久保利通へ宛てた手紙に、初めは勝を打ち負かすつもりで出かけたのに、すっかり頭を下げてしまった、という意味のことを書いている。互いの腹の内を、ある程度は知っている間柄。
初対面の相手に、江戸100万人の命運を預ける交渉はできない。4年前に一度向かい合い、互いの人柄を測り終えていたからこそ、短い会談で話が進んだ、と考えるほうが自然だ。顔見知りだったことは、会談の空気を考えるうえで見落とせない。顔見知りの強み。ただし、それが密約の証拠になるわけでもない。
3月13日と14日、江戸で示された条件
勝と西郷は3月13日と14日に江戸で会談した。13日は高輪、14日は田町の薩摩藩邸だったと伝わる。ここからが本番だ。旧幕府側は江戸城を明け渡し、慶喜を水戸で謹慎させ、武器や軍艦を扱うことなどについて条件を示した。新政府側はこれを受け、翌15日に予定されていた総攻撃を中止した。
山岡に示された備前藩への預け、という話は、ここで水戸での謹慎に変わっている。備前へ預けられるのと水戸で謹慎するのとでは、徳川家にとって大きな違いだった。水戸は慶喜の実家の水戸徳川家がある土地だ。まだ身内の土地。遠い他家へ預けられるより、ずっと受け入れやすい。
旧幕府側が示した条件には、一つの狙いがあったとも読める。徳川家を残し、慶喜の命を守り、家臣たちが路頭に迷わない形を作ることだ。そのために、城も軍艦も武器も、いったんは渡す姿勢を見せる必要があった。差し出せるものを先に差し出して、守りたいものを最後まで手放さない。交渉の組み立ては、そういう順番。
決めたのは西郷だけか。西郷一人がすべてを最終決定したわけじゃない。西郷は前線の責任者として攻撃延期を判断できても、徳川家の処分などは新政府内で改めて決める必要があった。西郷がその場で動かせたのは攻撃の延期までで、徳川家の処分のような中身は、会談のあとに新政府の中で詰められていった。
西郷は14日の会談のあと、駿府の大総督府へ戻る。そこから京都へ上り、朝廷の側に処分の案を諮ることになる。江戸で二人が話し合っても、結論を最終的に決める場所は、京都の朝廷と新政府の中枢という別の所にあった。当時の政治は、それほど何段にも分かれていた。
4月4日の勅使と、4月11日の開城
会談後も条件の調整は続き、江戸城が正式に引き渡されたのは4月11日。3月の会談から数えると、ひと月近くが空いている。その間、江戸の町人も旧幕臣も、先行きの見えない不安のなかで待たされた。待つ日々は長い。
4月4日には、勅使の橋本実梁らが江戸城に入った。副使は柳原前光。新政府の方針は、そこで徳川側へ正式に伝えられる。江戸城の明け渡しや軍艦、武器の引き渡しといった条件も、あらためて示された。
慶喜は死罪を免れ、江戸を離れて水戸で謹慎する処分と決まった。徳川側でこれを受けたのは、田安家の当主だった田安慶頼。
4月11日。慶喜は寛永寺を出て、水戸へ向かった。同じ日に江戸城が新政府へ引き渡された。260年以上続いた将軍の城が、戦わずに主を替えた瞬間。
江戸城は、代々の将軍が居城としてきた場所だった。それを戦わずに渡すと決めた旧幕臣たちの胸の内は、記録からは読み切れない。納得して従った者もいれば、悔しさを抱えたまま城を出た者もいる。足取りは人によって違った。
結末はこうだ。徳川慶喜は助命され、徳川宗家は田安亀之助、のちの徳川家達へ引き継がれた。のちに徳川家は静岡で存続する。新しい領地は70万石で、静岡藩と呼ばれた。亀之助はその田安慶頼の三男で、まだ幼い子どもだった。
結果だけ見れば、勝が求めた方向に近い。ただ、それは会談の裏で秘密の保証が交わされた証拠でなく、表に出た交渉と、その後の政治決定でも説明できる。徳川家が生き残った理由は、会談の裏の約束を持ち出さなくても、表の記録だけで十分に語れる。
江戸は焼けなかった、でも戦は終わらなかった
無血開城と聞くと、そこで戦が終わったように思える。実際は違った。江戸城が開いたあとも、旧幕臣の不満は、くすぶったまま。火種は残る。
彰義隊は、旧幕臣の有志が2月に結成した部隊で、慶喜の警護を掲げていた。やがて上野の山に集まり、新政府軍と向き合う形になる。
5月15日、その彰義隊が新政府軍に攻められた。戦いは1日で決着がつく。上野の周辺は焼け、寛永寺の伽藍の多くも失われた。死者も多く出た。江戸が無傷だったわけではない。
8月には、旧幕府の軍艦を率いた榎本武揚が品川沖を離れ、北へ向かった。条件にあった軍艦の引き渡しは、すべてが済んだわけではなかったのだ。戦いは東北から箱館へと移っていく。決着がつくのは、翌1869年になってからだ。
城を渡した4月11日の夜には、旧幕府の歩兵を率いる大鳥圭介らが、すでに江戸を抜け出している。城は開いても、戦う意志を捨てない者たちが、江戸の外へ流れ出ていった。戦場は外へ移る。
それでも、江戸の中心部が新政府軍の総攻撃を受けずに済んだ意味は、やはり大きい。100万人が暮らす町が丸ごと焼けてしまう事態だけは、避けられた。無血開城という呼び名は、江戸城の引き渡しについての言葉だと考えておくのがいい。
その年の7月には、江戸の名が東京と改まった。東の京、という意味を込めた名だ。10月には天皇が東京に入り、江戸城は皇居になっていく。将軍の城は、その後の日本の中心として使われ続けた。壊されずに残ったことも、開城の結果の一つだ。
パークスの意見は決定打だったのか
ここで外国の影が出てくる。イギリス公使ハリー・パークスが江戸攻撃に反対し、新政府へ圧力をかけたため総攻撃が止まった、という説もある。大都市での戦闘は、外国人の安全や貿易に影響する。外国公使が情勢へ強い関心を持っていたことに不思議はない。
鳥羽・伏見の戦いのあと、各国の公使は2月に局外中立を宣言している。新旧どちらの味方もしない、という立場だ。公式には中立。表向きは、江戸攻撃を止めさせる側に回れない立場だったことになる。
横浜は貿易の町。外国人の居留地があり、貿易の拠点になっていた。江戸が戦場になれば、そこへの影響は避けられない。戦火が上がれば居留地の商人にも累が及ぶだけに、各国の公使が成り行きを気にしたのは当然だ。
パークスが旧幕府側を完全な降伏者として一方的に処罰することへ否定的な意見を示した、という説明はある。証拠となると話は別。その発言だけで西郷が方針を変えたと証明する決定的な記録はない。慶喜の恭順や山岡との交渉はすでに進んでおり、外国側の意見は複数ある判断材料の一つだったと見るほうが無理がない。
答えは両方だ。江戸無血開城を日本人同士の美談だけに閉じる必要もなければ、イギリスが命じて実現したと置き換える必要もない。当時の日本が外国との関係を無視できなかったことと、国内交渉が積み重なっていたことは両立する。
密約説はどこまで裏づけられるか
定番から行こう。密約説の中でよく語られるのは、江戸城を渡す代わりに徳川家の存続を保証した、というものだ。徳川家の扱いは交渉の中心課題であり、秘密にしなければならない条件とは違う。書面に残らない個人的な約束があった可能性までは否定できないが、具体的な密約文書は確認されていない。
薩摩藩へ幕府の貿易利権や財産を渡したという説は、さらに裏づけが弱い。埋蔵金まで絡んでくる。江戸城の金蔵や徳川埋蔵金の場所を教えたという話も、別の人気伝説と結びついたものだ。
埋蔵金の伝説といえば、群馬の赤城山がよく知られる。幕府の金が山中に埋められた、という話だ。勘定奉行を務めた小栗忠順の名が、そこへ結びつけられて語られる。小栗は勝と意見が合わず、のちに新政府軍の手で斬られた人物だ。
結果から逆算して「得をした者がいたのだから取引があったはずだ」と考えるだけでは、史実にはならない。勝はのちに新政府へ出仕し、参議や海軍卿といった要職まで務めた。その出世を取引の見返りと見る向きもある。だが、これも出世の事実から密約を逆算しただけだ。
物騒な説もある。勝が江戸市中を焼く焦土作戦を用意し、それを西郷への圧力に使ったという説もある。勝が最悪の場合に備えて抵抗策を考えていた可能性は論じられているが、会談で具体的に脅したと確認できる記録とは別だ。準備、構想、実際の発言を一つにまとめないほうがいい。混ぜてしまえば、どんな話でも密約の証拠に見えてくるわけだ。
密約の話が広がりやすいのは、会談の中身を直接知る人が限られていたからでもある。同席者の記録が乏しいぶん、空白には好きな物語を書き込める。町で語られた噂、講談で脚色された場面、のちの小説が作った台詞。それらが少しずつ混ざり合って、いつのまにか史実のような顔をしはじめる。
勝の回想だけで場面を組むと、どうなるか
では、その交渉を伝える記録はどうなのか。会談の様子を伝える材料は、勝の後年の回想に偏っている。『氷川清話』などで勝は交渉を何度も語ったが、回想は事件から時間がたっており、自分の役割を強く見せる面も考えに入れないといけない。
西郷本人の説明は少なく、周辺人物の書簡や記録から補うしかない。勝の語りだけを頼りにすれば、会談の場面も交渉での勝の役割も、勝自身の見方に沿った形でしか見えてこない。回想録を読むときは、語り手の立場を頭の隅に置いておきたい。
手がかりは、勝海舟全集に収められた日記や書簡、西郷隆盛全集に集められた西郷の手紙にもある。ただ、会談の中身を細かく書き残したものは乏しい。
『氷川清話』という書名は、勝が晩年に赤坂の氷川町で暮らしたことに由来する。そこで語った談話が、一冊にまとめられた。
勝の談話では、西郷は交渉の席で「江戸城のことは自分が引き受ける」と言って、議論を打ち切ったことになっている。西郷を肝の据わった誠意の人として語る口ぶりが、談話の全体から伝わってくる。ただ、それは勝から見た西郷の姿だ。
慶喜も晩年に、旧臣たちの聞き取りへ応じて昔を語った。その記録は『昔夢会筆記』として残る。もっとも慶喜の語りも、自分の恭順を振り返る立場から出たものだ。一人の証言を、そのまま全体の答えにはできない。
空白は空白だ。記録の偏りは想像を呼ぶが、空白があること自体は密約の証拠にならない。確かに分かるのは、旧幕府側が恭順と城の引き渡しを示し、新政府側が攻撃を見送り、その後の調整を経て江戸城が渡されたことだ。誰か一人の決断や一枚の密約に答えを求めるより、何人もの判断が少しずつ重なって戦闘が回避された、と読むほうが記録とも食い違わない。
積み重ねた判断の先に
決め手は積み重ね。無血開城は、勝と西郷の人情だけで実現した奇跡でも、裏金ですべて決まった陰謀でもない。戦えば双方に大きな損害が出る状況で、慶喜、山岡、勝、西郷、新政府首脳、外国公使らの判断が重なった。密約を探すより、その多段階の交渉を見るほうが、当時の政治の緊張をよく伝えてくれる。
慶喜は謹慎で恭順を示した。山岡は駿府へ走り、条件の下地を作る。勝は江戸で窓口になり、西郷は攻撃の延期を決めた。新政府は京都で処分の中身を詰め、勅使が東海道を下って江戸城に入る。どの場面にも、秘密の約束を必要とする理由は見当たらない。
開城のあとの人びと
慶喜は水戸のあと静岡へ移り、長く謹慎の身で過ごした。晩年の慶喜は、写真や狩りを楽しんで暮らしたと伝わる。謹慎が解かれたのは1869年。のちには公爵の位も受けた。それでも政治の表舞台へは戻らず、1913年に世を去る。
徳川宗家を継いだ家達は、静岡藩の知事に任じられる。成長してからは、貴族院の議長を長く務めた。かつての将軍家の当主が、新しい国の議会で議長席に座る。旧幕臣の中には静岡へ移る者もいれば、江戸に残って商いを始める者もいた。
西郷の死と、勝の一首
新政府の功労者だった西郷は、のちにその新政府に背く側へ回った。1877年の西南戦争だ。西郷は城山で最期を迎えた。江戸で向かい合った二人は、こうして別々の道を歩んだ。
勝は明治の世で海軍の要職や伯爵の位を得て、旧幕臣たちの暮らしを気にかけながら、1899年まで生きた。賊軍の将とされた旧友の名誉を、その死後も気にかけ続けたと伝わる。「ぬれぎぬを干そうともせず子供らが なすがまにまに果てし君かな」。西郷を悼む歌として、勝の作と伝えられている。
