東京都千代田区大手町。皇居のすぐそば、超高層ビル群にぽっかりと空いた一角がある。そのど真ん中に、平将門の首塚が、周囲のビルに押しつぶされもせずひっそりと佇んでいる。ひっそりと、それでいて周囲の高層ビルをまとめて黙らせてしまうような、圧倒的な存在感をそこから放っている。妙な場所だ。
地価にして坪数千万円とも噂される、日本屈指の一等地だ。それでいて、誰もこの土地を再開発しようとしない。一等地なのに、だ。いや、正確に言えば「できない」のだという。
平安時代の半ばに朝廷へ反旗を翻し、関東の地に独自の王権を打ち立てた末に非業の死を遂げた武将、平将門。その首を祀ったとされるのがこの塚だ。怨霊のなかの怨霊。千年以上の時を経てなお畏怖され続けている、日本三大怨霊の一柱だ。
関東大震災後に相次いだ工事関係者の死。占領軍GHQによる撤去計画の頓挫。周辺ビルの窓の向き。現代のビジネスパーソンがいまだに絶やさない参拝。
祟りか、偶然か、それとも都市が寄ってたかって育てた集合的な畏怖の物語なのか。ここからが本題だ。国内屈指のこの怪異スポットを、首が飛んだという伝説から現在の運用実態まで、ひとつずつ見ていく。
ビル群にぽっかり空いた、誰も触れない一区画
将門塚の正式な名は「史蹟将門塚」。看板だけの伝説スポットとは言えない、東京都の指定旧跡にもきちんと登録された、由緒ある史跡だ。所在地は千代田区大手町一丁目。番地のある怪異だ。三井物産本社ビルや大手町ワンタワーなど、日本を代表する大企業のオフィスビルが林立する一角にある。
周囲には日本銀行本店があり、その先には大手町の金融街がびっしりと広がる。皇居までも指呼の距離だ。まさに日本の中枢というべき立地だ。金と権力の交差点。
にもかかわらず、この一区画だけは高層ビルの建設対象から外されている。オフィスビルの谷間に残っているのは、こんもりと盛り上がった塚と、その前に据えられた小さな祠だけだ。絶えることのない供物と、線香の煙。磨き上げられたガラス張りのビル群のただ中で、そこだけぽっかりと、異質な空間ができあがっている。
この土地に古くから残る言い伝えでは、塚の下に祀られているのは、ほかでもない平将門その人の首だという。平安時代中期に「新皇」を自称し、関東で独立国家の樹立を試みた末に討たれた武将だ。京都で晒し首にされたその首が、はるか東の故郷・関東を目指して夜の空を飛び、この地に落下した。首だけが、ここにいる。そんな伝説が、塚の由来として今日まで伝わっている。
以来、この地では天変地異や疫病、そして塚を粗末に扱った者たちへの祟りが繰り返し語られてきた。江戸時代には既に「触れてはならぬ地」として畏怖され、その感情は今も薄れることがない。明治、大正、昭和、平成、令和と、時代の名前が何度架け替えられても、この一角に対する扱いだけは変わらないままだ。ビルとビルの隙間で独特の緊張感を保ち続けているのが、日本経済の心臓部・大手町というこの土地だ。
新皇を名乗った男と、京から飛んできた首
物語は10世紀、平安時代中期の関東に遡る。桓武天皇の血を引く名門、桓武平氏の一族に平将門は生まれた。血筋は申し分ない。若くして京へ上り、藤原忠平のもとに仕え、それから生まれ故郷である坂東(関東)へと戻る。
故郷で待っていたのは、伯父である平国香をはじめとする一族との、土地をめぐる血みどろの所領争いだった。身内の争いだ。935年、その一族争いのただ中で、将門は源護の子・源扶らの一党に襲撃される。これを返り討ちにし、伯父の国香を焼死させてしまう。
以後、一族間の抗争は泥沼化した。この男が、めっぽう強い。将門はたびたび朝廷から召喚を受けながらも、その武勇と機略でこれをのらりくらりと切り抜けていった。転機が訪れたのは940年、天慶3年正月だ。
将門と親しかった藤原玄明という男が、よりによって朝廷の出先である常陸国府を攻撃する。これに巻き込まれる形で、将門は常陸国府軍三千を真正面から撃破。国府が落ちた。国司の権威そのものだった印綬(国司の印と徴税の権限を示す綬)まで、そっくり奪い取ってしまう。これはもはや朝廷への明確な反逆行為だった。
後戻りのできなくなった将門は、家臣・興世王の進言もあり、下野・上野の国府を次々と攻略。坂東八カ国を制圧するに至る。関東は将門のものになった。ついに、八幡大菩薩と菅原道真の霊による神託が下ったとして、将門は「新皇」を自称した。政庁を構えたのは岩井、現在の茨城県坂東市だ。
これは日本史上、天皇に対抗する形で独自の王権樹立を宣言した、前例のない事件だった。ところが栄華は長くは続かなかった。941年2月、将門討伐を命じられた平貞盛と、下野国押領使・藤原秀郷が連合軍を編成し、進軍を開始する。
将門方はこの時すでに兵の多くを帰農させており、手勢は千人にも満たなかったという。緒戦では北から吹きつける風がまるごと味方につき、数で劣っていたはずの将門軍がはっきりと優勢に立った。ところが戦の途中で、突然風向きが南風に変わる。風が裏切った。形勢は一気に逆転する。
追い詰められた将門は奮戦する。飛来した一本の矢が額に命中し、あえなく討死した。矢一本だ。享年38。関東一円を席巻した英雄の最期は、拍子抜けするほど呆気ない幕切れだった。
ここからが伝説の領域だ。討たれた将門の首は京都へ運ばれ、都大路に晒し首として高々と掲げられた。ところが数日、数週間経っても、その首は腐ることなく生々しい形相のまま、爛々と目を見開き続けていたという。
夜になると、首はカッと目を見開いた。「我が胴体はどこにあるか。もう一度つないで戦をせん」。そう叫び続けたと伝わる。腐りもせず、夜ごと胴体を求めて叫び続けるその首を前にして、都の者たちはこの怪異に震え上がった。
ある晩、都大路に晒されたままだったその首は、白い光を放ちながら、ゆっくりと宙に舞い上がった。首が、飛んだ。東の空、故郷である関東を目指して飛び去っていったという。首は幾つもの土地を経由しながら関東へと向かい、力尽きて地上に落下した場所こそが、現在の千代田区大手町だという。
首が落ちた瞬間、辺りは真昼にもかかわらず夜のように暗くなり、地の底から地鳴りが轟いたという。真昼が、夜になった。恐れおののいた村人たちは、この地に塚を築いて丁重に将門の首を祀った。これが将門塚の起源だという。
ちなみに、体は下総国、現在の茨城県・千葉県周辺に葬られたとも伝えられる。体と首が離れ離れになった土地、という意味合いから、「神田(からだ)」という地名が生まれた。首と体は、別々だ。そんな説も、まことしやかに語られている。
村を苦しめた怨霊と、それを鎮めた一人の僧
塚が築かれたのちも、この地は「武蔵国豊嶋郡芝崎村」と呼ばれた。村は災難続きだった。住民たちは長きにわたり、将門の怨霊に苦しめられ続けたと伝わる。疫病の流行や不作が続くたび、村人たちは顔を寄せ合って「将門公の祟りである」と噂し合った。
転機が訪れたのは鎌倉時代末期、1307年(徳治2年)だ。時宗の遊行二祖・他阿真教という僧が、諸国をめぐる旅の途中でこの芝崎村の地を訪れた。ここで流れが変わる。将門に「蓮阿弥陀仏」という法名を授け、板碑を建立したうえで手厚く供養した。
将門の怨霊は、これでようやく鎮まったという。近隣にあった天台宗寺院・日輪寺は時宗に改宗されて「芝崎道場」となった。以後、将門信仰を伝承する拠点となっていった。
江戸時代に入ると、この地は徳川幕府の膝元、江戸城の目と鼻の先という、とんでもなく重要な立地となる。江戸城の目と鼻の先でありながら、それでもなお、塚は取り壊されることなく保存され続けた。幕府も手を出さない。「触れてはならない霊地」として、庶民の間にも広く知れ渡った。
明治維新後、東京の中心部は近代的な官庁街・オフィス街として整備されていく。その中でもこの一角だけは、奇妙なほど手つかずのまま取り残される。度重なる都市開発の波の中で、この塚を取り壊そうとする計画は、これまでいくつも持ち上がった。ところが、そのたびに不可解な事故や死者が続出し、計画はそこで頓挫することを繰り返してきた。毎回、潰れる。
これから語る関東大震災後の一件と、GHQによる一件は、その中でも特に有名な二大エピソードだ。
塚を潰した大蔵省に何が起きたか
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が首都圏を襲い、東京の街は壊滅的な被害を受けた。一面が焼け野原だ。将門塚も震災で崩れ、焼け落ちた建物が折り重なる周辺一帯の区画整理が急務となった。当時この土地を管轄していた大蔵省(現在の財務省)は、震災で焼失した庁舎の仮庁舎を、この一帯に建設する計画を立てる。
学術的な調査という名目で塚を発掘したところ、地下から石室のようなものが確認されたと伝わる。それでも工期のほうを優先した大蔵省は、地下から出てきた石室らしきものごと、結局この塚を取り壊した。跡地には仮庁舎を建設してしまった。塚を潰して庁舎を建てたこの一連の仕打ちが祟りの引き金になったと、まことしやかに語られている。
仮庁舎完成からほどなくして、当時の大蔵大臣であった早速整爾(さっさかせいじ)が原因不明の病に倒れた。発病からわずか3カ月足らずで、この世を去った。享年57。
これを皮切りに、大臣から現場の職員まで、工事や庁舎に関わった人間が次々と体調を崩す。噂では「大臣以下14名が2年以内に死去した」とまで語られるようになる。今度は足だ。ほかにも多くの幹部職員が、なぜか足ばかりを負傷する怪我に見舞われたともいう。
庁内では「これは将門公の祟りに違いない」という声が、誰からともなく、まことしやかに囁かれ続けた。祟りだ、と。事態を重く見た大蔵省は、昭和2年(1927年)、ついに仮庁舎を取り壊し、塚を元の姿に復元した上で、盛大な鎮魂の供養を執り行った。
後年の史料調査では、早速大蔵大臣の死は仮庁舎建設から3年後の1926年だ。工事責任者であった臨時建築部長・矢橋賢吉の死は、4年後の1927年。いずれも建設直後とは言えない。そう指摘されている。
1940年に発生した庁舎火災も、建設から実に17年後の出来事だ。その日都内では20カ所以上の落雷被害が発生しており、そのうちの一つに過ぎなかった。落雷だ。そんな冷静な検証もある。
それでも、こうした「時系列のズレ」を差し引いてなお、当時この一件は「将門公の祟り」として広く喧伝された。庁舎移転という具体的な行動にまで結びついた、その事実の方がよほど重い。それこそが、この伝説の本当の恐ろしさだ。
ブルドーザーが横転した、あの日
太平洋戦争が終結し、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれた。かつて仮庁舎の建った大蔵省の敷地を含む大手町一帯も、そっくりそのままGHQに接収された。都心の一等地にぽつんと残る古びた塚。合理主義を重んじる占領軍の目には、都心にへばりついたただの「使えない空き地」にしか映らなかった。
GHQは駐車場を整備する目的で、この塚を整地して取り壊す計画を立てた。日本側の関係者からは「その塚には手を出さない方がいい」という警告が、事前にあったとも伝えられる。ところが占領軍は、まるで取り合わなかったという。
計画実行の当日、一台のブルドーザーが重い音を立てながら、あの塚の撤去作業に取りかかった。ところが作業の最中、突如としてブルドーザーが横転する。運転していた日本人作業員がその下敷きとなって死亡するという、あまりに痛ましい事態が起きた。人が、死んだ。
単なる機械の不調として片付けるには、このタイミングはあまりに不可解すぎる。しかもこの「祟りによる犠牲」、初めてではなかったのだ。そのことも、関係者を震撼させた。というのも、この時もまた「触れてはならない場所に触れた報い」として、まことしやかに語られたからだ。前述の大正・昭和初期の大蔵省の一件と、まったく同じ構図になる。
事故の報を受けたのが、当時この界隈の町内会長であった遠藤政蔵という人物だ。この塚はただの土くれとは違う、千年にわたって将門公を祀ってきた由緒ある史跡だ。遠藤はそうGHQ側に懸命に陳情したと伝わる。
占領軍という絶対的な権力を相手に、一介の町内会長が命がけでこの塚の保存を訴えた。この逸話はいまも語り草だ。あの占領軍が折れる。GHQは撤去計画を撤回した。塚はその後も現在に至るまで、あの一等地のど真ん中にひっそりと存在し続けることとなった。
もしこの時、陳情が聞き入れられていなければ、将門塚は今ごろ跡形もなく消え去っていたかもしれない。この一連の出来事は、単なる偶然の事故というにはあまりにも出来過ぎているように思えてならない。偶然にしては、だ。
なぜか足を怪我する、という現場の噂
戦後から高度経済成長期にかけて、周辺の再開発工事のたびに、ある噂が絶えなかった。将門塚に近い区画を担当した作業員の間で、「なぜか足を怪我する人間が続出する」というのだ。やはり足だ。複数の伝承系サイトや取材記事が、そう伝えている。
ある工事関係者は、塚からごく近い区画で、現場でいちばん神経を使う基礎工事を担当した。その際、重機の操作ミスで資材が落下し、あわや大事故になりかけた、と証言している。幸い大きな怪我には至らなかったものの、現場の空気が明らかに「おかしかった」と振り返る声もある。
工事責任者の間では、塚に近い区画の作業に入る前に、必ず簡単なお祓いや挨拶をする。手順を飛ばす者はいない。そんな慣習がいまも、暗黙のルールとして残っているという。
クビを斬られたくない人々が並んだ昼休み
2010年代半ば、名の知れた国内外の大企業でも、情け容赦のない人員整理、つまりリストラが相次いだ。クビが飛ぶ時代だ。その時期、大手町界隈で働く会社員たちの間で、将門塚への参拝がちょっとしたブームになった。
「クビを斬られたくない」。その切実な願いから、「首塚だけにこれ以上クビを斬られない」という語呂合わせの願掛けが広まった。昼休みには、スーツ姿のビジネスパーソンが列をなして参拝する光景が見られたという。
塚の周囲には、「無事にカエル」の語呂にちなんだ蛙の置物が多数奉納されている。蛙だらけだ。海外赴任者の安全な帰国や、左遷からの返り咲きを願う人々の思いが、この一角に今も積み重ねられている。
ある大手商社の社員は、こう語ったという。「異動の内示が出る前には必ずお参りする。効果があるかは分からないが、お参りしないと落ち着かない」。
六度も手を入れられ続ける、異例の史跡
塚の維持管理をやっているのは「史蹟将門塚保存会」だ。三井物産をはじめ、この一角にガラス張りのビルを構える周辺の大企業が、そこに名を連ねている。錚々たる顔ぶれだ。関係者によれば、塚周辺の清掃は日常的に行われているという。参拝者が絶えることのないよう、線香や供物置き場も定期的に整えられている。
2020年から2021年にかけては、第6次となる大規模な改修工事がこの塚で実施された。1961年の第1次整備工事から数えて、実に六度目の改修だ。これほど頻繁に手が入れられている都心の史跡は、他に類を見ない。異常な頻度だ。
2020年からの改修にあたっては、供物や物品を直接そこへ置いていく奉納が禁止されている。そのかわり、九曜紋(平将門の家紋とされる紋)が刻まれた賽銭箱への献金は、引き続き受け付けられている。物はだめ、金はいい。
工事の様子を取材したある記者は、現場に入った際に原因不明の金縛りに遭った。そう自身の体験を綴っている。単なる偶然か、それとも千年の祟りが再び目を覚ましたのか。真相は誰にも分からない。
窓は本当に塚を避けているのか
将門塚をめぐる祟り伝説は、インターネット上でもいまだに根強い人気を誇るテーマだ。匿名の掲示板でも、名前の出るSNSでも、この塚をめぐる議論は季節を問わず定期的に盛り上がる。「本当に窓の向きを変えたビルがあるのか」。「大蔵省の一件は本当に祟りだったのか、単なる時代背景による病死の重なりなのか」。
特に有名なのが、周辺の高層ビルの窓やデスクの配置をめぐる話だ。決して塚の方角を向いていない、あるいは塚に背を向けないように設計されている。そんな都市伝説だ。
上空から大手町ワンの敷地を見下ろすと、A棟とB棟にまたがる部分が不自然にくぼんだ台形をしている。まるで塚を避けるようにビルが配置されていることが、上からだとはっきり分かる。この物理的な「くぼみ」こそが、都市伝説に信憑性を与える最大の物証だ。ネットの掲示板でも、たびたび画像付きで紹介されている。
熱に浮かされたような話ばかりが流れる一方で、冷静な立場から祟り伝説を検証する意見も少なくない。前述の通り、大蔵大臣・早速整爾の死は仮庁舎建設から3年後だ。直接の因果関係を示す証拠はない。庁舎火災も建設から17年を経ている。その日都内では多発的に落雷被害が出ていたと、当時の記録が伝えている。
こうした事実を踏まえた見方も根強い。「祟り伝説は後付けの物語であり、当時の人々が偶然の不幸を将門公に結びつけて解釈しただけではないか」というものだ。後付けの物語、という理屈だ。
それでもなお、この伝説は令和の今日まで生き延びている。大企業までもが保存会に名を連ね、塚の維持管理を続けているのが現実だ。正直、その事実そのものが、「祟りが本当にあるかどうか」以上に面白い。
信じるか信じないかは関係ない。「念のため丁重に扱っておこう」という日本人特有の心理が、千年にわたってこの塚を守り続けてきた。それだけの話だ。
どこまでが史実で、どこからが伝説か
将門塚は、伝説だけでできた場所とは違い、東京都の旧跡に指定されている実在の史跡だ。平将門が10世紀に関東で反乱を起こし、最後は藤原秀郷・平貞盛の連合軍に討たれた。反乱そのものは『将門記』をはじめとする史料にも記録された、誰にも動かしようのない歴史的事実だ。ここまでは史実だ。
首が京都から関東へ飛んで戻ったという伝説は、史実というより後世に付加された伝承・霊験譚の色合いが強い。残っているのは、鎌倉時代末期に他阿真教によって供養が行われたという記録だ。遅くとも中世にはすでに、「祟る将門」の信仰が地域に根付いていたことが確認できる。
関東大震災後の大蔵省の一件、GHQによる撤去未遂の一件についても、それぞれ複数の資料・報道・関係者証言がある。「大蔵省が仮庁舎を建てて後に取り壊した」。「GHQによる撤去計画があり中止された」。細部の真偽はいったん脇に置くとして、この大枠の出来事自体は、史実として広く認められている。
死者数や因果関係の細部については、伝承の過程で誇張や脚色が加えられていてもおかしくない。そこが史実と怪異譚の境界線だ。線引きは難しい。いまも多くの取材者や研究者が、そこに関心を寄せている。
今回の追加取材では、大蔵大臣・早速整爾の死が仮庁舎建設の3年後であった点を確認した。1940年の庁舎火災が、都内広域に及んだ落雷被害のうちの一つだった点も裏が取れた。数字は嘘をつかない。祟り伝説の時系列的な誇張が、具体的に裏付けられたわけだ。
2020―2021年の第6次改修工事や、供物禁止・賽銭のみ受付という現行の運用実態も分かった。保存会に三井物産等大手企業が名を連ねる現状も、新たに確認できた。以上が今回の収穫だ。
