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掘り出された和宮の棺に、左手首から先がなかった――増上寺改葬調査が生んだすり替え説の全部

昭和三十四年二月五日、東京・芝。増上寺の徳川将軍家墓所の一角で、石室の蓋が二枚、ゆっくりと外された。中から出てきたのは腐って崩れかけた檜の棺と、泥に埋もれてほとんど白骨になった小柄な女性だった。皇女和宮、静寛院宮。江戸城無血開城の陰の立役者だ。

そして骨を並べていった学者たちは、最後まで見つからないものがあることに気づく。左手首から先が、ない。おまけに棺の中からは一枚のガラス板が出てきて、それが湿板写真だと分かった翌日には、写っていた男の姿がきれいさっぱり消えていた。

この二つの事実だけで、日本の歴史ミステリーはひとつ丸ごと生まれてしまったんだよな。今日はその全部を話す。

芝の森が更地になる、その前にやっておくことがあった

まず舞台の話をさせてくれ。増上寺は浄土宗の大本山で、徳川将軍家の菩提寺のひとつだ。上野の寛永寺と半分ずつ将軍を預かる格好になっていて、増上寺には二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂と、甲府宰相の綱重が眠っている。正室では崇源院、天英院、広大院、天親院、そして静寛院宮。側室まで含めると三十八名だ。

戦前はこの人たちのために、大殿の南北に極彩色の霊廟がずらりと建ち並んでいた。国宝級の建築群だったと伝わる。

それが昭和二十年五月の空襲で焼けた。焼け残った土地は戦後の混乱の中で切り売りされ、霊廟跡地は国土計画興業の手に渡ることになる。あの一帯に東京プリンスホテルが建つのは、その流れの先だ。つまり将軍たちの墓の上にホテルが建つ。だったら掘り出して、調べて、火葬して、まとめて改葬しようという話になった。

学術的にはとんでもない機会だった。埋葬から百年も経っていない上流階級の遺体が、記録つきでまとまって出てくる。こんな条件はまずない。

指揮を執ったのは東京大学の人類学者、鈴木尚。染織は山辺知行、遺品と発掘の経過は東京国立博物館の矢島恭介が担当した。歯は佐倉朔。文化財保護委員会が中心になって、昭和三十三年の夏から三十五年一月まで、足かけ三年がかりの調査になる。

結果は昭和四十二年十二月、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』として東京大学出版会から刊行された。本文四百三十八ページ、図版百二ページ、菊倍判の分厚い報告書だ。鈴木はのちに昭和六十年、これを一般向けに噛み砕いた『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』を同じ東大出版会から出している。すり替え説の材料は、ほぼ全部この二冊から出ている。ここ、大事なところだ。

十二月二十日、静寛院の宝塔が崩されはじめる

和宮の墓の発掘は、報告書の九ページに日付つきで残っている。読むと現場の空気がそのまま伝わってくるので、順に追う。

昭和三十三年十二月二十日、静寛院墓の解体に着手。宝塔と基壇の石組みを外していくと、石組みの中から朱書きの文字が出た。「御地盤枕」「長一丈三尺」。明治十年に石工が書き込んだ寸法だ。

翌二十一日、宝塔正面の階段を取り外す。二十六日、石室が姿を現し、その場で規模を実測。二十七日には朝日新聞と毎日新聞、それに捕物作家クラブの面々が見学に来ている。捕物作家クラブというのがいい。時代小説を書く連中が、皇女の墓が開くというので芝まで見に来たわけだ。当時の報道陣はかなり自由に発掘現場の内側まで入り込んでいたと、報告書にも書かれている。世間の関心はそれなりに高かった。

二十九日、石室内の状況調査。蓋石を二枚取り除いたところで、内部の腐食がひどく、棺をそのまま取り出すのは無理だと判断される。三十日、基壇の柵を外し、石室に流れ込んでいた土砂を掻き出す。ここで年が明ける。

そして昭和三十四年二月五日。徳川宗家十七代当主の徳川家正が立ち会いのもと、棺の蓋を開けることになった。将軍たちの棺を開けるときと同じ手順を踏んだ、と報告書は淡々と書いている。子孫が見守る前で先祖の棺を開ける。そういう儀式めいた重さのある日だった。

この頃から新聞や週刊誌が徳川将軍墓の記事や和宮の生涯の読み物を載せはじめ、騒ぎはさらに大きくなる。三月に入って調査団と朝日新聞に例の投書が届き、三月二十日、静寛院墓の調査が終わった。約三か月だ。

銅の棺がない。いきなり檜が出てきた

棺を開けた翌日、昭和三十四年二月六日の朝日新聞朝刊九面に記事が出た。見出しは「『皇女和宮』のお墓発掘 遺体はほとんど白骨化」。

中身は、五日に和宮の墓が開けられたこと、蓋石に墓誌銘が刻まれていたこと、石灰が詰められていたが銅棺はなく、いきなり檜の棺が出てきたこと、その木棺の寸法、木棺は腐ってボロボロだったこと、遺体は泥の中に埋もれてほとんど白骨化し原形をとどめていない模様であること。そして五日中に分かったこととして、こう書かれている。

和宮の身長は百五十センチぐらいで当時の女性としてはふつう、家茂の墓の方に北枕にして眠っていた、石櫃の蓋はセメントで目張りしてあって近代的だった。

銅棺がなかったというのは、実はけっこう引っかかるポイントだ。将軍やその正室クラスは木棺を銅棺で包むのが通例で、それがあるから内部が保存されやすい。和宮にはそれがなかった。だから水と泥が入り込み、木棺は崩れ、遺体は泥に沈んだ。

皇族の出でありながら副葬品もほとんどない、驚くほど質素な墓だった。明治十年、徳川家は静岡に移されて力を失い、当主の家達はイギリス留学中で、喪主は代行の松平確堂が務めている。新政府は当初この葬儀を神式でやるつもりだったが、「家茂の側に葬ってほしい」という和宮の遺言を宮内省に通したのが山岡鉄舟と勝海舟だったと言われる。鉄舟は葬儀委員長も務めた。そういう事情の詰まった、簡素な墓だったわけだ。

なお注意しておくと、この二月六日の記事に左手の話は一切出てこない。泥だらけの棺の中でどの骨があってどの骨がないかなんて、その時点では誰も気にしていない。左手首がないと分かるのは、骨を洗って並べて計測する、ずっと後の段階だ。

電灯に透かしたガラス板に、立烏帽子の若い男が浮かんだ

さて、本題のひとつめ。副葬品がほとんどないその棺の中で、たった一つ見つかったものがある。遺体の両前腕のあいだ、ちょうど胸の上で抱きかかえるような位置に、土にまみれた一枚のガラス板が置かれていた。

現場では誰もこれを重視しなかった。泥のついたガラスの板だ。研究分担者がそのまま研究室に持ち帰り、整理のために電灯の光に透かしてみた。すると、そこに像が浮かんだ。長袴の直垂に立烏帽子をつけた、若い男子の姿。鈴木尚が『骨は語る』に書いているのは、この場面だ。湿板写真だった。

翌日、研究室でもう一度覗いてみたら、写真の膜面が消えていた。ただのガラス板になっていた。それだけだ。鈴木の記述はあっさりしている。

だがこの数行が、その後半世紀以上にわたって日本中の歴史好きを悶絶させ続けることになる。伝聞が重なるうちに話は少しずつ形を変えていって、「正装の男の姿が浮かんだかと思うとスッと消えた」という怪談じみた書かれ方をしている本もある。史実としての一次記述は鈴木のものだと思っておいていい。

写っていた男は誰か。候補は二人いる。ひとりは夫の徳川家茂。和宮と同い年の一八四六年生まれで、一八六六年に大坂城で死んでいる。烏帽子に直垂は武家の装束だから、素直に考えれば家茂だ。ただし家茂の写真は現存が確認されていない。

もうひとりは元婚約者の有栖川宮熾仁親王。一八三五年生まれで、幕末から明治にかけての写真が何点も残っている。そして皮肉なことに、彼は東征大総督として、和宮のいる江戸城を攻める側の総大将になった男だ。ほかに兄の孝明天皇じゃないかという声もある。だが和宮自身の遺言で徳川家の墓所に葬られている以上、熾仁説はやや無理があるという評価が一般的だ。

消えた膜の正体は、たぶん怪奇でも呪いでもない

湿板写真というのは、ガラス板にコロジオンという溶液を塗って感光乳剤を載せ、まだ湿っているうちに撮影して、乾く前に現像してしまうという、とんでもなく手間のかかる方式だ。発明は一八五一年。乾板が実用化されるのが一八七一年頃だから、家茂が死んだ一八六六年時点で日本にあった写真技術といえば、まず湿板だ。日本には安政年間に入ってきていて、上野彦馬が文久二年に長崎で、下岡蓮杖が横浜で写真館を開いている。

だから幕末の日本で、若い男が装束を着けて湿板で撮られること自体は、まったく不思議じゃない。

では、なぜ膜が消えたのか。理由はたぶん退屈なほど物理的だ。コロジオン膜はガラスに乗っているだけで、接着力が弱い。長年泥水に浸かって膨潤していたところに、乾燥と光が加わった。膜が剥離して流れたか、あるいは定着が甘い状態で光を浴びて銀が飛んだか。

八十年間、真っ暗で湿った石室の中だけが、あの膜にとって安定した環境だった。開けた瞬間から、消滅へのカウントダウンが始まっていたわけだ。ロマンチックさは減るが、こっちのほうが怖いと思う。誰も悪くないのに、二度と取り返せない。

そして、左手首から先がなかった

骨の話にいく。和宮の遺骨から分かったことは、けっこう細かい。

四肢骨から復元した身長は百四十三・四センチ。新聞が速報で「百五十センチぐらい」と書いたのより、さらに小さい。推定体重は三十四キロ。頭蓋骨の計測からは、顔の幅が狭くて立体的、鼻の幅が狭くて鼻筋が通っている、額がかなり広い、そして少し反っ歯。歩き方は内股だったと推定されている。頭髪は驚くほど豊かで、真っ黒に残っていた。

骨は細工物のように華奢で、鈴木の本の写真を見た読者が「骨になってまで繊細で高貴」と感想を書き残しているほどだ。

血液型は毛髪を使って判定された。報告書の四百三十五ページにこうある。十回以上判定を繰り返した、A型血球の凝集はやや強く認められたが、B型血球もわずかに凝集したため、A型かAB型のいずれであるかの決定は下しえない。結果としてA(B)型という書き方になった。ちなみに他の被葬者の血液型判定には陰毛が使われている例もある。八十年後に自分の体毛が学術書に載る覚悟、あなたにあるか。

そのうえで、報告書は書いた。左手の手首から先の骨が、いくら探しても発見されなかった。

人間の手首から先というのは、手根骨が八個、中手骨が五個、指骨が十四個。片手で二十七個の小さな骨の集合体だ。それが揃って見つからない。しかも右手はあった。晩年に何かの事件に巻き込まれたのか、それとも秘められた出来事があったのか、今となっては判断のしようもない。鈴木はそう書いて筆を止めている。

学者としては、これが誠実な書き方だ。だがこの「判断のしようもない」という一行の空白に、その後あらゆる説が流れ込むことになる。

誰も、その左手を描かなかった

追い打ちをかけたのが、和宮の肖像だ。伝わっている肖像画を並べていくと、左手首から先が描かれていない。袖に隠れているか、画面から外れているか、とにかく写っていない。増上寺にある和宮の像も、日本女子会館の像も、左手が不自然に隠れている。偶然にしてはできすぎている、というのが説の側の言い分だ。

反対側の説明もちゃんとある。当時の美意識では手は小さく、あまり見せないほうが上品とされた。皇族の正装である十二単の作法では、そもそも左手を袖から出さない。明治期の記念写真でも手を袖に入れるポーズは流行していた。だから左手が見えない肖像が多いのは、様式の問題であって欠損の証拠にはならない。

この反論はかなり強い。ただ、それでもなお「なぜ右手ばかり出ているのか」という問いは残る。この手のミステリーは、決着しないところに生命力があるんだよな。

差出人のない二通の手紙が、調査団に届いた

ここからが証言の話だ。まず一件目、これが一番ぞっとする。

発掘が進んでいた昭和三十四年、調査団と朝日新聞あてに二通の投書が届いた。一通目の日付は二月五日。和宮の棺が開けられた、まさにその日だ。差出人は匿名。文面によれば、書いたのは五十八歳の女性で、幼い頃に母から聞かされた話だという。

要旨はこうだ。和宮は箱根の山中で浪人たちに襲われ、御手廻りの者たちが木刀か何かを手に戦ったものの、道具が足りず、和宮は自害された。その後、一切を秘して事を運び、書き手の祖母は里に帰った。祖母は後年、和宮の墓所を拝したとき、玉石をいただいて大切に持っていたという。その品も書物も、昭和二十年春の疎開のときに、もう日本も終わりだと考えて他の書類と一緒に焼き捨ててしまった。だから証拠はない。

残念に思っている。

そのうえで手紙はこう続ける。戦後、小説に芝居に、和宮の御最後を有栖川宮との思い出だけを胸に亡くなられたような場面で見せているのを心外に思ってきた。徳川家の記録にはこの御最後のことが正しく載っているだろうか。皇室も徳川家も、現在では何も伏せることはないと思う。崇高な御一生を過ごされた和宮様を、正しく維新史を飾る一頁に伝えたらどうか。御発掘の有様を見て心から迸るものがあったので乱筆を走らせた。

私はやがて五十八の老女、他出もあまりせずにおりますので、何かと出づらわしさを避け、匿名で申し上げますことをお許しください。

二通目は二月二十七日付で、宛先は鈴木尚本人。冠省、二月五日付の書はご覧いただけたでしょうか、と始まる。その後研究が進んでおられることと存じますが、和宮様に刃の痕跡などあったか等、思いを維新の昔に馳せております。私は単なる興味本位ではなく、歴史の真実をいくらかでも再現したならと愚考している者でございます。

先生の御発表がどういう研究誌にいつ頃なされるのか存じませんが、何とかして一読したいと思っております。見聞はラジオと朝日新聞だけを毎日定めておりますので、先生の尊い御研究を拝見できるか心細い思いでございます。

執拗ではあるが、下品ではない。物を知っている人の文章だ。

鈴木尚はこの二通を捨てなかった。それどころか『骨は語る』のあとがきに全文を収録した。学術報告書の著者としては異例のことだ。報告書本文では、投書が来たという事実だけが「三月○日」と日付を伏せた形で記録されている。日付が空白なのは、たぶん現場で日を控えていなかったからだろう。だが鈴木は、この匿名の老女の声を歴史から消さなかった。そこには、骨だけでは分からないことがあると知っている人間の判断がある。

女官の日記が残した、大奥の氷点下

二件目の証言は、和宮に付き添って京から下った女官、庭田嗣子のものだ。宰相典侍の称号を持ち、江戸下向を命じられたときは抵抗したが逆らいきれず、和宮と一緒に江戸城へ入った。その庭田が京都へ送った書状が残っていて、大奥の空気がそのまま書き込まれている。

要旨はこうだ。天璋院が無礼である。天璋院は和宮に面会しても会釈も礼もせず、普通の姑と同じように接しようとする。しかも天璋院は茵の上に座り、和宮には敷物もなかった。和宮側近に与えられた部屋は暗く、八畳二間しかない。大奥の者たちとの折り合いも悪く、和宮が涙したこともあった。降嫁の条件として出したはずの御所風の暮らしはほとんど守られず、父・仁孝天皇の年回忌のための上洛も延期された。

読むと分かるが、これは悪意の記録というより、文化摩擦の記録だ。公家社会では嫁の位が高ければ、姑でも上座には座らず、双方が敷物を使うのが普通だった。武家では嫁は嫁だ。前提が違うから、同じ振る舞いが一方には礼、もう一方には侮辱になる。しかもヒートアップしたのは本人たちよりお付きの者たちだった。

この庭田嗣子の書状は、のちに和宮の「変化」を論じるときの重要な材料になる。京都から来たばかりの和宮の周囲は、これほど張り詰めていたのだ、と。

勝海舟が語った、草履の話

三件目は勝海舟だ。『海舟語録』と『氷川清話』に、和宮と天璋院についての談話が残っている。これがまた、すり替え説の中心に据えられることになる。

まず不仲の話。天璋院と和宮は初めは大層仲が悪かった、会いなさるまではね、お付きのせいだよ、と勝は言う。初め和宮が入らしたとき、御土産の包み紙に「天璋院へ」とあったそうな。いくら上様でも徳川氏に入らしては姑だ、書き捨ての法はないといって、お付きが不平をいったそうな。それであっちですればこっちでもするというように競って、それはひどかったよ。

宛名の敬称ひとつで大奥が二派に割れた、という話だ。

そして問題の場面。あるとき浜御殿へ天璋院と将軍と和宮の三人でいらしたが、踏石の上にどういうものか天璋院と和宮の草履を上げて、将軍の分だけ下に置いてあったよ。天璋院は先に降りられたがね、和宮はこれを見て、ポンと飛んで降りて、自分のを除けて将軍のを上げてお辞儀なすったそうで、それでぴたと静まったよ。

いい話だ。皇女が将軍の妻として夫を立てた瞬間で、天璋院もこれで和宮を見直したと伝わる。だがこの「ポンと飛んで降りて」の五文字が、二十世紀後半に爆弾になる。

有吉佐和子のところへ、新倉家の女性が訪ねてきた

そこで登場するのが有吉佐和子だ。一九三一年生まれ、『紀ノ川』『恍惚の人』『複合汚染』のあの有吉である。

彼女は前から和宮に引っかかっていた。降嫁をあれほど泣いて嫌がった娘が、江戸へ来た途端に人が変わったように徳川の嫁として振る舞いはじめる。しかも幼少期から足が不自由だったと伝わる人物が、縁側からポンと飛び降りて草履を直す。おかしいだろう、と。

そこへ、ひとりの女性が訪ねてきた。幕末に武蔵国高田村の名主だった豪農、新倉家の一婦人である。『和宮様御留』のあとがきに、有吉はその人の言葉をこう書き留めている。和宮様は私の家の蔵で縊死なすったのです。御身代りに立ったのは私の大伯母でした。増上寺のお墓に納っているのは和宮様ではありません。

このことは、戦前は決して他家の人の耳に洩らしてはならないと戒められてきましたが、時代も変わったことですし、何より、私の家で亡くなったお方の御供養がしたいと思ってお話しました。板橋本陣で入れかわったのです。新倉家には、薩摩の藩士がよく出入りしていたようですが。宮様が死なれて以来、家運が傾いて、屋敷跡が現在は目白の学習院になっています。

これが四件目の証言だ。真偽は分からない。裏づけもない。だが小説家にとっては、これは天から降ってきた贈り物だった。板橋本陣という具体的な地名、大伯母という具体的な続柄、学習院という検証可能な地理。物語が立ち上がるのに必要な部品が全部そろっている。

フキという名の、いなかった少女

『和宮様御留』は文芸雑誌『群像』に一九七七年一月号から一九七八年三月号まで連載され、同年に講談社から単行本になった。第二十回毎日芸術賞を受賞し、単行本はベストセラーになる。連載中から「和宮替え玉説」という看板が反響を呼んだ。

主人公はフキ。和宮が育った橋本実麗邸の下女だ。京の町方に生まれた捨て子という設定で、完全な架空の人物である。実麗の妹で和宮の生母である観行院の目にとまり、桂の御所に上げられる。そこからフキは和宮の居室に潜み、和宮のお下がりを食べ、声も出せない日々を送る。文久元年四月二十一日、橋本邸に里帰りする和宮の輿にフキも一緒に乗り込む。だが帰りの輿に宮の姿はない。その日からフキは和宮になる。

乳人の少進にかしずかれ、拝謁を受け、読めない字の手習いをさせられ、茶道の稽古で行儀作法を身につけさせられる。庭田嗣子や能登命婦が自分の正体に気づいているのではないかと怯えながら、閉じ込められ、縛られ、本来の快活さを失っていく。

京を発ったフキは、行列の中に唯一心を許していた少進がいないことに気づいて動揺する。食事も喉を通らない。十一月十日、板鼻本陣に着いたフキは、京での後始末を済ませて追いついてきた少進の姿を見つけ、緊張の糸が切れる。「あて、宮さんやおへん」。

泣き叫ぶフキを抱えて途方に暮れた観行院たちは、ついに岩倉具視を呼び入れる。岩倉の手配で新しい替え玉が用意された。高田村名主・新倉覚左衛門の娘、宇多絵。板橋本陣で入れ替わり、替え玉の替え玉として大奥へ入る。フキは新倉家に運び込まれ、その翌朝、思わぬ最期を迎える。

作者はあとがきで、この作品を「赤紙一枚で招集され、何も知らされないまま軍隊にたたき込まれ、適性をもたぬままに狂死した若者たちへの鎮魂歌」だと書いている。和宮降嫁を太平洋戦争と重ねたわけだ。狂ったフキの叫びだけが真実で、なおも彼女を「宮様」と呼び続ける周囲の言葉が「正常なる虚偽」である。この構造が効いて、小説として傑作になった。

舞台化は一九八〇年と八一年に竹下景子主演で行われ、テレビドラマも二度作られている。大竹しのぶがフキを演じ、観行院を森光子、岩倉具視を財津一郎がやった版と、フキを斉藤由貴、観行院を司葉子、岩倉を山城新伍がやった版だ。

有吉が並べた四つの矛盾

問題は、有吉が「これは小説です」で止まらなかったことだ。あとがきで替え玉説の真実性を改めて主張し、NHKの『歴史への招待』にまで出演して、日記の文体の変化といった新しい論拠まで足して自説を語った。骨子はこうだ。

ひとつ、高田村の新倉家ゆかりの人から替え玉説を直接聞いた。ふたつ、勝海舟『氷川清話』にある草履のエピソードは、足が不自由だったという京都時代の記録と矛盾する。ただし有吉自身、のちに『氷川清話』そのものの信憑性は否定している。みっつ、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』によれば和宮の足に異常はないのに、左手首が発見されなかった。肖像画はいずれも左手首を描いていないから手首がなかった可能性は高い。

しかしそれでは、京都でやったことになっている茶道の稽古ができないではないか。よっつ、和宮の遺骸から出た遺髪と、夫・家茂の内棺に納められていた遺髪が一致しない。増上寺の和宮の髪は赤茶けていて、家茂の棺の黒髪とは別物だ。

さらに有吉は、これに前例の話を足した。和宮降嫁の十五年前に、実際に替え玉が使われた例があった。しかもそれを実行したのが、観行院の伯母にあたる勝光院という人物だった。身近にそういう先例と実行者がいたなら、観行院が娘のために同じ手を使うのも自然の流れではないか、と。

三と四が骨から出た論拠、一が口承、二が同時代の談話、そして前例。並べ方はうまい。うますぎるくらいだ。

角田文衛の反撃

歴史学の側は黙っていなかった。代表的な反論が、古代学の泰斗として知られる角田文衛の「和宮身替り説を駁す」。昭和五十三年、つまり一九七八年十月の雑誌『歴史と人物』に掲載された。単行本が出た年に、もう真正面から論駁が出ているわけだ。連載中から反論はかなり唱えられていたという。

面白いのは、有吉がそれに一々答えなかったことだ。彼女は繰り返しこう言っている。小説にとって一番大切なのは、これが本当か嘘かということではなく、これがどれだけリアリティをもっているか、読者をどれだけ説得できるかというところに小説の値打ちがあるわけです、と。文芸評論家の篠田一士も文庫解説でこの作品を絶賛し、あくまで一篇の小説として読むべきだと書いた。

作者本人はあとがきで史実性を主張しながら、批判に対しては「小説だから」の位置に退避する。この二枚腰が、説の寿命をさらに伸ばした。批判しても本体に届かないんだよな。

有吉佐和子は一九八四年八月三十日、五十三歳で亡くなっている。連載終了から六年後だ。

派生説その一、降嫁の前にすり替わっていた説

ここから派生説を一つずつ潰していく。まずオリジナルに一番近い形が、降嫁前すり替え説だ。文久元年、京都を発つ前後の段階で本物の和宮は入れ替わっており、中山道を下ったのは別人だったという筋である。有吉の小説がまさにこれで、しかも二段構えにしてある。京で入れ替わったフキが板鼻で壊れ、板橋本陣で宇多絵に交代する。

この説の強みは、和宮を本当に知っている人間が江戸には一人もいなかったという点にある。幕府にとって大事なのは「皇女が将軍家に嫁いだ」という事実そのものであって、中身の照合ではない。公武合体という政治的装置が機能しさえすればよかった。だから偽物かどうかを詮索するのは、幕府にとってむしろマイナスだった、という理屈だ。

当時からすでに「嫁いできた和宮は替え玉らしい」という噂があった、われわれには替え玉でも本物でも変わらない、和宮が幕府方に嫁いだという事実が大切なのだ、と当時の人が言っていた、という伝えもある。

弱みも明確だ。降嫁行列は総勢三万人、隊列は五十キロに及び、警護に十二藩、沿道警備に二十九藩が動員された。史上最大級の花嫁行列だ。しかも和宮の生母・観行院、乳母、女官たちが同行している。全員を騙し通すか、全員を共犯にするか、どちらかしかない。

加えて、明治に入って和宮は京都で明治天皇と対面しているし、東京に戻ってからは麻布の邸に天皇・皇后の行幸を受け、天璋院や勝海舟と行き来している。子供の頃から知っている人間だらけの環境に、偽物が十六年間まぎれ込めるだろうか。

派生説その二、明治二年に殺されて別人が立てられた説

もっと過激な派生が、明治期すり替え説だ。加治将一の小説『幕末 戦慄の絆 和宮と有栖川宮熾仁、そして出口王仁三郎』が代表格で、こちらは和宮が明治のどこかで暗殺され、以後の「和宮」は仕立てられた別人だとする。調査団に届いた匿名の投書、つまり箱根の山中で襲われて自害したという話を、明治二年の京都行きの途上に読み替える解釈もある。

この線だと、明治十年に塔ノ沢で亡くなったという公式記録そのものが偽装ということになる。

支えとして持ち出されるのが、明治以降の和宮に関する記録の薄さだ。同時代の天璋院は明治十六年に亡くなったとき、沿道に一万人が集まり「天璋院葬送之図」まで描かれている。江戸城無血開城の立役者である和宮のほうは、薨去から埋葬までの記録がびっくりするほど乏しい。庶民の反応も分からない。だから隠したいことがあったのだ、と読む。

ただ、これも決め手を欠く。記録が薄い理由は、和宮が明治政府にとって扱いに困る存在だったこと、徳川家が没落していたこと、当主の家達が留学中で喪主が代行だったことで、だいたい説明がついてしまう。それに山岡鉄舟が薨去の前日に危篤の報を受けて塔ノ沢に見舞いに駆けつけ、最期を看取った一人となり、宮内省に電報を打ち、葬儀委員長まで務めている。

鉄舟と勝海舟が揃って一枚噛んだ偽装、というのはさすがに絵として大きすぎる。

派生説その三、そもそも遺体を取り違えている説

三つめ。増上寺の墓所は空襲で焼け、戦後は荒れていた。石室に土砂が流れ込むほどの環境だ。だったら発掘された遺体が本当に和宮のものかどうかも怪しい、という説がある。取り違え説だ。

この線が持ち出す材料は、報告書に書かれた足の所見である。京都時代の記録では和宮は関節炎のようなもので足が不自由だったとされるのに、発掘された骨には足の異常が見られない。つまり骨の主は和宮ではない、と。

だが、これは反論が用意しやすい。まず、墓誌銘を刻んだ蓋石が石室にちゃんと載っていた。

「二品内親王諱親子幼稱和宮」で始まり、仁孝天皇第八皇女であること、生母が橋本経子であること、弘化三年閏五月十日に外祖父・橋本実久邸で誕生したこと、文久元年四月に内親王宣下を受けたこと、家茂の死後に薙髪して静寛院宮と号したこと、明治六年二月に二品に叙されたこと、明治十年八月に水腫を患って相模の塔沢で療養したが癒えず、九月二日に客館で薨じたこと、寿三十一年であることまで刻まれている。

被葬者の同定という点では、これ以上ないほど強い物証だ。

そして足の不自由さのほうは、どの程度の症状だったのか、そもそも生涯続いたのか、骨に痕跡が残るレベルだったのか、どれもはっきりしない。骨に出ないタイプの障害はいくらでもある。

派生説その四、左手首は儀礼として別に納められた説

四つめが、個人的にいちばん筋がいいと思っている説だ。左手首から先は、生前から欠けていたのでも、事件で失われたのでもなく、埋葬の作法として別扱いされたのではないか、という見方である。

近世の上流階級の埋葬には、生前に抜けた歯や切った爪、髪、臍の緒などを保存しておいて死後に一緒に納めるという風習があった。寛永寺の徳川将軍家御裏方霊廟の調査では、棺の中から生え替わりで抜けた乳歯や、歯周病で脱落した永久歯が出土している。七代家継の棺には九束の女性の髪と、箱に入った約四千個の爪が納められていた。四千個だ。つまり「体の一部を分けて納める」という発想自体は、この階層に確かに存在した。

であれば、身体の一部が別の場所に納められた可能性はゼロではない。

もっとも、この説にも決定的な証拠はない。手首から先だけを分納したという記録はどこにもない。だが少なくとも、「左手首がないから生前に切断された」という短絡を止めるブレーキにはなる。

もっと地味で、たぶん一番正しい説明もある。単純な散逸だ。手根骨、中手骨、指骨は片手で二十七個の小さな骨で、靭帯が朽ちればバラバラになる。銅棺がなく、木棺が崩壊し、石室に土砂と水が流れ込んだ環境だ。小さな骨が泥に紛れ、流れ、あるいは掻き出した土砂と一緒に外へ出てしまった可能性は十分にある。

右手が残って左手が消えたのは、遺体が心持ち左を向いて横たわっていたから、左側の低いほうに泥が溜まったから、という程度の理由かもしれない。地味だが、こういうのがだいたい正解なんだよな。

派生説その五、あの写真は家茂ではない説

五つめ。消えた湿板写真の主が家茂ではない、という説だ。熾仁親王説、孝明天皇説、そして「そもそも誰でもない、装束を着けた別の誰か」説まである。

熾仁説を推す人の気持ちは分かる。婚約者を政治に奪われた皇女が、生涯その面影を抱いて眠った。物語としては最高だ。だが和宮は自分の遺言で家茂の隣に葬られている。熾仁の写真を抱いて家茂の隣に眠るというのは、心理として捻れすぎている。装束の面からも、烏帽子に直垂は武家の装いだ。皇族なら別の装束を選ぶだろう。

ということで家茂説が優勢になる。ただし家茂の確実な写真は一枚も現存しないので、比較検証ができない。湿板はネガから何枚も焼けるという性質があるから、もし同じ原板から作られた別のプリントが今後どこかから出てくれば、話は一気に動く可能性がある。可能性は限りなく低いけれど。

派生説その六、そして「和宮の写真」自体が別人だった話

六つめ。これは説というより、もう決着に近い。

長らく「和宮の唯一の肖像写真」とされてきた一枚がある。降嫁の際に中山道を下る途中、信州の小坂家で休息した折に撮影されたとされるもので、ポジのガラス乾板が金属製の軍扇に収められていた。台紙には「静寛院和宮」の書き込みがある。小坂善太郎元外相の祖母・繁子が一九二八年一月二十七日の日記に、昭憲皇太后に仕えた女官長・高倉寿子に確認したところ和宮であると確認された、と書き残していた。

複写が小坂憲次から箱根の阿弥陀寺に寄進されている。しかもこの写真、袿の袖からわずかに両手の先を出している。左手が写っているのだ。左手欠損説と真っ向からぶつかる。

ところが古写真研究家の森重和雄が、『歴史通』二〇一一年七月号の「古写真探偵 皇女和宮の真実」でこれをひっくり返した。決め手が凄い。まったく同じ写真が、明治三十五年二月発行の雑誌『太陽』第八巻第二号の口絵「物故諸名士」に、「柳澤明子」として掲載されていたのである。

柳澤明子は大和郡山藩最後の藩主・柳澤保申の正室で、左大臣一条忠香の次女、つまり昭憲皇太后の姉にあたる。亡くなったのは明治三十五年一月八日。雑誌が出るひと月前だ。前月に亡くなった人の追悼口絵で写真を取り違えるとは考えにくい。しかも皇后の姉である。取り違えがあれば苦情が殺到したはずだ。

森重はさらに、写真に写る椅子が清水東谷の写真館で使われていたものだと指摘し、撮影は信州ではなく東京の清水東谷の写真館だと論じた。清水東谷は明治十五年に養子の鈴木東谷に家業を譲って横浜に移っているから、撮影は明治十五年以前。柳澤明子三十六歳頃の写真という仮説になる。

じゃあなぜ高倉寿子は和宮だと言ったのか。単純な記憶違いかもしれない。確認したのは昭和三年、和宮薨去から五十一年後で、高倉は八十九歳だった。あるいはもっと面白い可能性がある。柳澤明子は弘化三年十月二十三日生まれ。和宮は弘化三年閏五月十日生まれ。同い年だ。二人の顔立ちが本当によく似ていたのではないか。

徳川宗家にも同じ写真が「第九六號 静寛院宮御寫真」と書かれた別紙とともに保管されていて、和宮に何度も会っているはずの徳川家達すら和宮だと思っていた節がある。似ていたのだ、たぶん。

そしてここから、また新しい陰謀論が枝分かれする。「柳澤明子こそが和宮の替え玉だったのだ」というやつだ。同い年、公家出身、皇室の作法が身についている、条件は揃っている、夫の柳澤保申が明治十七年に伯爵になり十八年に久能山東照宮の宮司になったのは口止めの見返りだ、と。証拠はゼロだが、こうやって説が説を生んでいく現場が見られるのは、ある意味で貴重だ。

墓誌が刻んだ「三月六日」という不気味な数字

もうひとつ、あまり知られていない引っかかりがある。石室の蓋石に刻まれた墓誌銘だ。

そこには「三月六日護柩還東京、十三日葬于増上寺故将軍之兆域」とある。柩を守って三月六日に東京に還り、十三日に増上寺の故将軍の墓域に葬った、と読める。ところが和宮が塔ノ沢で亡くなったのは明治十年九月二日で、遺骸が東京に還ったのは九月六日、葬儀は九月十三日だ。明治政府の官報もそうなっている。ぴったり六か月ずれている。書き間違いにしては、月だけが六つずれるというのは妙な話だ。

しかも墓誌には死因が「水腫」と書かれている。一般に伝わる脚気とは印象が違う。脚気による浮腫を水腫と表記したと考えるのが穏当だが、こういう小さなズレが積み重なると、人は物語を作りたくなる。

ついでに言うと、和宮の享年も資料によって三十一だったり三十二だったりする。単に数え年と満年齢の違いに見えるが、実はもう一つ理由がある。和宮は嘉永元年八月に「歳替」を行っているのだ。三歳を四歳に改め、誕生日も弘化二年十二月十一日に改訂された。生年が丙午だったので、丙午生まれの女は夫に災いをなすという迷信を避けるためだったとも、父・仁孝天皇の在世中に生年を繰り上げる必要があったためとも言われる。

生母の橋本経子も、十四歳を十六歳に改める歳替をしている。つまり和宮の生年月日は公式に二種類存在する。この時点でもう、記録が揺れる下地は十分にあった。

「橋本」という名前が漂流していく話

ネット上のすり替え説を追いかけていると、しばしば「橋本」という姓が意味ありげに出てくる。整理しておく。

和宮の生母は橋本経子、観行院。その兄が橋本実麗で、和宮はこの橋本邸で育った。小説『和宮様御留』でフキが下女として入るのも橋本実麗邸だ。誕生の場所も外祖父・橋本実久の邸である。つまり和宮の物語における「橋本」は、母方の公家の家名だ。替え玉説を主導したとされる観行院は、この橋本家の人である。ここまでは史実の話。

ところが検索していると、これに昭和・平成のジャーナリスト橋本明の名前が混線してくることがある。一九三三年生まれ、二〇一七年没。共同通信の記者で社会部次長やジュネーブ支局長を務め、学習院初等科から上皇明仁の同級生、いわゆる「ご学友」として知られた人物だ。皇室論では女系天皇容認の立場を取り、『平成の天皇』『平成皇室論』『知られざる天皇明仁』などを書いている。

皇太子時代の逸話を報じて後に本人に否定されたという経歴もあって、皇室ミステリー界隈では名前が出やすい。

だが彼が書いたのは同時代の皇室であって、幕末の和宮ではない。すり替え説の系譜に彼を組み込む語りが出回るのは、同じ「橋本」という姓と「皇室に近い人」というイメージが結びついた、名前の漂流だと考えたほうがいい。ちなみに新倉家の屋敷跡が学習院になったという口承と、学習院出身のジャーナリストという要素が混ざりやすいのも、たぶん一因だ。この手の説がどうやって膨らむかの、いい標本になっている。

掲示板もSNSも、結局「左手」しか見ていない

ネットの反応の話をしよう。二〇〇〇年代前半のインターネット掲示板の時代から、和宮すり替え説は明治天皇すり替え説や孝明天皇暗殺説とセットで語られてきた。岩倉具視が黒幕として全部つなげられ、有栖川宮熾仁が絡み、出口王仁三郎まで出てくる。二〇〇八年の大河ドラマ『篤姫』で和宮の知名度が跳ね上がると、話は一気に一般化した。

現在のネット上の和宮記事を見渡すと、ある研究者気質のブロガーがぼやいていたとおり、中身がほぼ全部同じだ。左手がない、髪のDNAが違う、足が悪かったはずなのに飛び降りた、有吉佐和子が言っていた。この四点セットが金太郎飴のように複製されている。

しかもコピーの過程で情報が劣化する。たとえば「髪のDNA鑑定で別人と判明した」という記述をよく見かけるが、昭和三十三年の調査でDNA鑑定などできるはずがない。実際にやったのは毛髪を用いた血液型判定で、しかも和宮本人の判定はA型かAB型か決めきれずに終わっている。有吉が指摘したのは「遺髪の色と質が一致しない」という肉眼レベルの話だ。それが伝言ゲームで「DNA鑑定」に化けた。

もっとひどい例もある。ある作家がウェブ連載で、昭和三十四年二月六日の朝日新聞朝刊に発掘調査員の言葉としてこんな記述があると紹介した。曰く、棺の中に横たわる五尺そこいらの華奢な遺体が、心持ち左向きに仰臥して、足を少しくの字に曲げ、膝を合わせ、左手を上に、胸の上で両手を合わせ、いかにも慎み深いきれいな寝姿だった、と。情景としては美しい。だが実際の紙面にそんな記述はない。

しかも「見つからなかったはずの左手」が「左手を上に」と書かれている。実在の記事を確認した人が、これは違うと指摘して回っている。

歴史ファンや研究者側の反応は、おおむね冷ややかだ。有吉の小説は文学として傑作だが史学としては成立しない、というのが標準的な立場である。角田文衛の論駁以来、専門家が正面から取り合うことはほとんどない。一方で、和宮という人が「江戸城無血開城に命を懸けた政治的主体」ではなく「左手のない謎の女」としてだけ消費されている現状に、しんどさを感じている書き手も確実にいる。

左手で最も有名な日本人になってしまった、という皮肉な言い方をしている人もいた。それはそれで、正しい怒りだと思う。

それでも、この話が死なない理由

なぜこの説は半世紀たっても死なないのか。理由は四つあると思う。

ひとつ、物証が「不在」だからだ。左手首から先が「ない」。写真が「消えた」。反証しようがない。あるものは否定できるが、ないものは否定できない。存在しないという事実は、あらゆる説明を等しく受け入れてしまう。学者が「今となっては判断のしようもない」と誠実に書いた一行が、そのまま説の温床になる。

ふたつ、証言が実在するからだ。匿名の老女の投書は本当に届いたし、鈴木尚はそれを本に載せた。新倉家の女性は本当に有吉の家を訪ねてきた。彼女たちの言っていることが事実かどうかは別として、「そういう話を家で語り継いできた人がいる」という事実だけは動かない。伝承の存在は、伝承の内容を裏づけない。だが人間の脳はその二つを区別するのが下手だ。

みっつ、和宮という人物の人生が、そもそも「入れ替えられた人生」だからだ。六歳で熾仁親王と婚約し、政治の都合で解消され、行きたくもない江戸へ三万人の行列で送られ、四年半で夫を失い、二十一で落飾し、実家の朝廷が攻めてくる城を守るために嘆願し、三十一で温泉宿で死ぬ。自分の意思で決められたことがどれだけあったか。

「本当の和宮はどこかで別の人生を生きていたのではないか」という願いは、替え玉説の形を借りた同情なんだと思う。有吉が小説の主人公を和宮ではなく、名もない少女フキにしたのは、たぶんそこを見抜いていたからだ。

よっつ、単純に、絵として強い。泥の中の華奢な骨。抱きかかえられた一枚のガラス。電灯に透かした瞬間だけ現れて、翌朝には消えていた男の顔。ないはずの左手。これを面白がるなという方が無理だ。

三つの層が接着された、ひとつの説

ここからは総括と追加の考察を、腰を据えてやる。

まず、この話の構造をもう一度ばらしておきたい。和宮すり替え説は、ひとつの説に見えて、実は起源も性質もまるで違う三つの層が接着されたものだ。

第一層は口承だ。新倉家の女性が有吉佐和子に語った「和宮様は私の家の蔵で縊死なすった」という話と、調査団に届いた匿名の投書の「箱根の山中で浪人に襲われ自害された」という話。どちらも家の中で母や祖母から聞かされたという形式を取っている。文字にならず、家の外に出してはならないと戒められてきた話。ここには証拠がない代わりに、語り手の切実さがある。

両者は内容が食い違っていることに注意してほしい。片方は板橋、片方は箱根。片方は降嫁の途中、片方は明治。この二つは論理的に両立しない。だが説の側は両方を採用する。矛盾する伝承を並べて使えるというのは、それが検証の対象ではなく信仰の対象になっている証拠だ。

第二層は骨だ。左手首の欠損、足に異常がないこと、身長百四十三・四センチ、遺髪の色。これは実在の学術報告書に書かれた事実で、誰でも図書館で確認できる。この層があるおかげで、説全体が「オカルトではなく科学的根拠がある」という装いをまとう。だが報告書が言っているのは「見つからなかった」であって「なかった」ではない。この一語の差が、説の全重量を支えている。

骨から言えることは骨からしか言えない、と鈴木尚が慎重に線を引いた場所を、後の語り手たちがまたいでいったわけだ。

第三層は文学だ。有吉佐和子の筆力。フキという架空の少女の造形。御所言葉の質感。「あて、宮さんやおへん」というたった一行のカタルシス。第一層と第二層だけなら、この説は郷土史のマイナーな噂で終わっていた。文学が入ったことで、全国区の教養になった。ベストセラーになり、毎日芸術賞を取り、竹下景子が舞台で演じ、大竹しのぶと斉藤由貴がテレビで演じた。

何十万人という人が「和宮は替え玉かもしれない」という前提を頭に入れた状態で、和宮という名前に出会うことになった。順序が逆なんだよな。多くの日本人にとって、史実の和宮より先に、フキが来ている。

この三層構造は、実はほかの有名な歴史ミステリーとも共通する。明智光秀と天海を同一人物とする説も、源義経がジンギスカンになったという説も、口承と物証めいたものと文学の三点セットでできている。共通しているのは、どの説も「歴史上の人物が、記録された人生とは別の人生を生きていてほしい」という願望を核に持っていることだ。人は歴史上の人物が不本意に死ぬのに耐えられない。だから逃がす。

義経は大陸へ逃がされ、光秀は僧になって生き延び、和宮は京都のどこかで熾仁親王のことを思いながら静かに暮らしていたことにされる。すり替え説は、優しさの一形態なんだと思う。歪んだ形の。

反証の側も、きちんと並べておく

次に、反証の側をもう少し丁寧にやっておく。この記事は面白さ優先で書いているが、公平を欠くのは趣味じゃない。

まず左手について。近世の土葬遺体で手足の末端の小骨が欠けるのは、実は珍しい話ではない。手根骨や指骨は小さく、靭帯が朽ちれば容易に散逸する。和宮の墓は銅棺がなく、木棺が完全に崩壊し、石室に土砂が流入していた。しかも発掘の過程で、内部の土砂を取り出す作業が入っている。十二月三十日の記録に「内部の土砂を取り出し」とあるとおりだ。泥ごと外へ出た小骨があったとして、誰も責められない。

当時の発掘は水洗選別のような現代的手法を使っていない。だから「見つからなかった」は「発掘の網の目から漏れた」でほぼ説明できる。

肖像画に左手がないという論点も、他の同時代の皇族女性や大名家夫人の肖像と統計的に比較しないと意味がない。袖に手を隠した肖像は当時いくらでもある。増上寺や日本女子会館の像は近代以降に作られたもので、その造形者が肖像画を参考にしていれば、同じ「手が見えない」構図を再生産するのは当然だ。証拠が自己増殖している状態と言っていい。

遺髪の不一致については、そもそも家茂の棺に納められた髪が和宮のものだという保証がない。近世の副葬習慣では、複数の人物の髪が納められることも、生前に切った本人の髪が納められることもあった。色や質の違いは、経年劣化の条件差でも簡単に生じる。片方は銅棺つきの環境、片方は泥水に浸かった環境だ。同じ人間の髪でも別物に見えて不思議はない。

草履の逸話については、有吉自身がのちに『氷川清話』の信憑性を否定している。これは決定的だ。自説の柱の一本を、自分で抜いてしまった。勝海舟の談話は、勝が晩年に語ったものを聞き手がまとめたもので、話が盛られているのは有名な話である。そもそも和宮が「幼少から足が不自由だった」という記述自体、どの史料にどう書かれているかを厳密に追うと、けっこう心もとない。

関節炎だったという伝えはあるが、常時歩行困難だったのか、時期によって波があったのかも分からない。十五歳の少女が、四年後に一度だけ縁側から飛び降りることが不可能だと断言できる根拠は、実はどこにもない。

そして最大の反証は、和宮の人生そのものの連続性だ。降嫁から死まで十六年ある。その間、彼女は生母の観行院や乳母、京から連れてきた女官たちと生活を共にしている。庭田嗣子は文久元年から仕えており、書状に生の不満を書き残すほど近い距離にいた。明治二年には京都へ帰り、聖護院に入り、明治天皇と対面している。

明治七年に東京へ戻ってからは、麻布市兵衛町の元八戸藩主・南部信順の屋敷に住み、皇族や徳川一門と幅広く交流した。天璋院とは互いの屋敷を行き来し、勝海舟の家に二人で遊びに行き、ご飯をどちらがよそうかで揉めて勝にしゃもじをもう一本出されて三人で笑った、という話まで残っている。

替え玉が、生母と乳母と女官と天皇と姑と勝海舟を、十六年間だまし通す。しかもその間ずっと和歌を詠み、消息を書き、書風は有栖川流を学んだものだと後世の研究で判定されている。これを成立させるには、日本の政治中枢のほぼ全員を共犯にしなければならない。オッカムの剃刀を持ち出すまでもない。

それでも、この説が生き残るに値する理由

では、この説は完全に価値がないのか。そうは思わない。ふたつの意味で、この説は生き残るに値する。

ひとつは、この説が問いかけている構造の話だ。有吉佐和子が本当に書きたかったのは「和宮は偽物だった」ということではない。あとがきを読めば分かる。彼女は和宮降嫁を太平洋戦争の徴兵と重ねている。国家の都合で、何も知らされないまま、適性もないまま、名前だけの役割に押し込められて壊れていく人間。そういう人間が歴史上に無数にいて、しかも名前が残っていない。

フキという架空の少女は、その無数の人たちの代表として作られた。だから『和宮様御留』は歴史推理小説ではなく、名もない人間のための鎮魂の小説なんだよな。替え玉説はその器として選ばれただけだ。器を史実かどうかで測るのは、たぶん半分読み違えている。

もうひとつは、この事件が「学術調査がどう伝説になるか」の完璧な標本だという点だ。昭和三十三年から三十五年の増上寺調査は、日本の形質人類学史に残る仕事だった。鈴木尚は将軍たちの骨から、江戸時代上流階級の「超現代型」という形質を抽出した。柔らかいものばかり食べ、咀嚼せずに育った結果、顎が退化し、面長になり、歯列が乱れ、虫歯と歯槽膿漏が増える。

庶民が到達するのは未来だろうという顔つきに、二百年前の将軍家はすでに到達していた。これは本当に面白い発見だ。

二代秀忠は骨太で毛深く、戦国武将の面影を残していた。九代家重は歯ぎしりで歯が磨り減り、言語障害があった。八歳で死んだ七代家継の棺には九束の女性の髪と約四千個の爪が納められていた。十四代家茂は甘いものが好きで虫歯だらけで、脚気と虫歯に若い命を削られた。どれも一級の歴史情報だ。

だが世間が記憶したのは、そのどれでもなかった。左手と、消えた写真だけだ。研究者が慎重に「判断のしようもない」と書いた余白に、六十年分の物語が流れ込んで固まった。学術の言葉は謙虚であるほど、外の世界では隙になる。これは科学コミュニケーションの永遠の課題でもある。鈴木尚が匿名の老女の手紙を全文載せたのは、たぶんその危うさを自覚したうえでの誠実さだったのだろうと思う。

あの投書を隠していれば、話はもっと小さく済んだ。隠さなかったから、こうなった。それでも隠さなかった学者を、俺は支持する。

最後に、増上寺の話をして終わりにしたい。現在の徳川将軍家墓所は、かつての霊廟の壮麗さとは似ても似つかない。焼け残った鋳抜門を入口に使い、その奥にまとめて改葬された墓が並ぶ。明治以降に造られた墓は荒削りで不揃いだ。和宮は静寛院として、夫の家茂の隣にいる。遺言のとおりだ。公開時間があり、拝観料がかかり、誰でも入れる。もちろん墓所は宗教施設だから、勝手に立ち入ったり掘り返したりする話ではない。

手を合わせに行く場所だ。

そこに眠っている骨は、身長百四十三・四センチ、体重三十四キロ、豊かな黒髪、少し反っ歯で内股の、細工物のように華奢な女性のものだ。六歳で婚約者を決められ、十五で三万人に囲まれて中山道を下り、二十で夫を失い、二十二で滅びゆく家のために自分の実家へ嘆願書を書き続け、三十一で箱根の温泉宿の一室で息を引き取った。そして棺の中に、たった一枚だけ、若い男の写真を抱いていた。

替え玉かどうかは、正直どうでもいい。あの写真の膜が、もう一日だけ持ちこたえてくれていたら。この話に関して本当に惜しむべきは、それだけだと思う。

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