1284年の夏至の直後、ドイツの内陸にある人口数千人の小さな町から、130人の子どもが一度に消えた。
これはおとぎ話の書き出しじゃない。町が自分の手で書き残した記録の書き出しだ。しかもその町は、この日を基準にして年号を数え直しはじめた。「子どもたちが去ってから何年」という数え方で公文書を書いた町が、ヨーロッパに実在したのである。
この記事は、その一件を最初から最後まで、分かっている限り全部たどる。
まず、あの日に何が起きたのか
1284年6月26日。カトリックの暦でいうところの聖ヨハネと聖パウロの日だ。夏至の祝祭である聖ヨハネの日から数えて2日後にあたる。
中世の北ドイツにおいて、この時期は一年でいちばん空気が緩む季節だった。麦は実りかけ、日は驚くほど長く、夜が来ないような明るさが続く。町の外の丘ではかがり火が焚かれ、若者が火を飛び越え、笛と太鼓が鳴り、聖職者が眉をひそめるくらいには騒がしい。ハーメルンもそういう町だった。
その日の朝、あるいは昼過ぎ、町に見慣れない男が現れた。最古の記録が伝える彼の姿は、ひとつだけはっきりしている。色とりどりの服を着ていた、ということだ。
この「色とりどり」が後の時代に「まだら」と訳され、日本語では「笛吹き男」の代名詞になった。年齢は30歳ほど。容姿は端麗だったと書かれている。男は橋を渡って町に入ってきた。ハーメルンはヴェーザー川に面した町で、川と橋は町の生命線だ。よそ者は必ず橋か門を通る。彼も例外ではなかった。
男は銀の笛を取り出して吹きはじめた。町じゅうを歩きながら吹いた。すると子どもが出てきた。一人、二人ではない。家から、路地から、市場から、次々に出てきた。数は130。
彼らは男の後ろについて歩き出した。列は東の門、つまりオスター門を抜けた。門を出た先に、コッペンと呼ばれる場所がある。丘とも、処刑場のあった小山とも、まったく別の地名とも解釈されてきた土地だ。子どもたちはそこへ向かい、そして消えた。
消えた、というのは比喩ではない。記録がそう書いている。どこへ行ったか誰も知らない。誰も戻ってこなかった。捜索が行われたかどうかすら書かれていない。ただ、いなくなった。
母親たちは町じゅうを走り回り、あらゆる方角に人をやったと後代の記述は伝えるが、これは物語が育ったあとの脚色の可能性が高い。同時代に近い記録が伝えるのは、もっと乾いた事実だけだ。130人。6月26日。色とりどりの服の男。以上。
生き残った子どもたちの話
後代の伝承には、ついていかなかった子どもが数人いたことになっている。この部分は史料的な裏づけがきわめて弱い。だが伝説としては最も強く残った部分でもあるので、まず紹介しておきたい。
ひとりは目が見えなかった。彼は列についていったが、途中で見失った。どこへ行ったかは分からないが、道中の様子は語れた。もうひとりは口がきけなかった。彼は場所を指し示すことはできたが、何が起きたかを語ることができなかった。
この二人の組み合わせが恐ろしくよくできている。片方は場所を知らないが語れる。もう片方は場所を知っているが語れない。二人合わせても真相にならない。伝説というのは、こういう構造をわざと作る。
三人目は、上着を忘れて取りに戻った少年だ。彼が引き返して戻ってきたとき、列はすでに丘の中へ消えたあとだった。彼だけが助かり、そして一生、自分だけが取り残されたという事実を抱えて生きた。この「上着を取りに戻った子」というモチーフは、後の文学が愛した。取るに足らない偶然が生死を分ける、という話の型だからだ。
もうひとつ、後代のバージョンで足されたのが「足の悪い子」だ。彼は列に追いつけなかった。イギリスの詩人ロバート・ブラウニングが19世紀に書いた韻文版では、この足の悪い少年が主役級の重みを与えられている。
彼は取り残されたことを喜ばない。むしろ、みんなが行った先には楽園があったはずなのに自分だけが入れなかったと嘆く。ブラウニングはここで話の意味をひっくり返した。子どもの消失は悲劇ではなく、置き去りにされた者の悲劇なのだ、と。
ただしブラウニングは日付を1376年7月22日にしており、これは完全に彼の創作である。今も英語圏で「ネズミ捕りの日」が6月26日と7月22日の二つに割れているのは、この詩のせいだ。
最古の証拠その1――マルクト教会のステンドグラス
さて、ここからが本題だ。この話は本当に記録に残っているのか。答えは、残っている。しかも複数、種類の違う形で。
いちばん古いとされるのが、ハーメルンのマルクト教会に設置されていたステンドグラスだ。制作は1300年頃と考えられている。事件からわずか十数年後ということになる。
ここが効いてくるんだよな。おとぎ話は普通、事件のあとに何世代もかけて育つ。だがハーメルンでは、事件のすぐあとに、町がいちばん金をかける場所、つまり教会の窓に、この出来事が焼き付けられた。
窓に描かれていたのは、色鮮やかな衣装をまとった笛吹きの男と、白い衣を着た複数の子どもたちだった。白い衣というのが引っかかる。中世の図像で白い衣は、洗礼、あるいは死者、あるいは殉教者を示すことが多い。つまりこの窓を作った人々は、子どもたちがすでにこの世にいないと考えていた可能性がある。祝祭の絵ではない。追悼の絵だ。
このステンドグラスは1660年に破壊された。理由については、教会の改修とも、破損とも言われる。ただ幸運なことに、破壊前にこの窓を模写した記録が残っており、17世紀の複製図が伝わっている。
さらに、1572年には当時の市長フリードリヒ・ポッペンディークが同じ図柄の窓を新たに作らせており、それを1592年に描き写した絵も残っている。つまり我々は、失われた原物を三重の写しごしに見ていることになる。伝言ゲームではあるが、伝言の各段階に日付が入っている伝言ゲームだ。
そして現在、マルクト教会には復元されたステンドグラスがある。古い記録に基づいて作り直されたものだ。行けば見られる。700年前の窓の、写しの写しの、そのまた再現。それでも、色とりどりの男と白い子どもたちという構図だけは、頑固に生き延びている。
最古の証拠その2――リューネブルクの写本
文章として現存する最古のものは、リューネブルクに伝わる一冊の写本の余白にある。
この写本の本体は、ハインリヒ・フォン・ヘルフォルトという14世紀の年代記作者が書いた著作で、その写しにあたる。ハインリヒは1370年前後に活動した人物で、彼の年代記は当時の北ドイツで広く読まれた。
問題はその余白だ。1430年から1450年頃、誰かがこの写本に一節を書き足した。ラテン語の散文で、内容はこうだ。
30歳ほどの若い男がハーメルンにやってきた。彼は非常に見目がよく、着ている服は色とりどりで、見た者は誰もが目を奪われた。男は橋を渡り、門を通って町に入った。そして銀の笛を取り出し、町じゅうを歩いて吹いた。笛の音を聞いた子どもたちは、130人が男のあとを追った。彼らは東の門を出て、処刑場のあたりから丘のほうへ向かい、そこで消え失せた。
短い。短いんだけど、情報の密度がすごい。人数の130、日付の6月26日、色とりどりの服、銀の笛、橋、門、そして消失。後の伝説を構成する要素のほとんどが、この段階ですでに揃っている。
そして、揃っていないものが一つある。ネズミだ。ネズミは一言も出てこない。
この写本の記述が1430年から50年頃であることは、書体の分析から推定されている。事件から150年ほど後だ。近くはない。だが中世の記録としては悪くない距離感で、しかもこれが現存最古というだけで、書き手はもっと古い記録を参照していた可能性が高い。実際、この記述は後述する合唱書の失われたラテン語詩を写したものではないか、という説が根強くある。
最古の証拠その3――デカン・リューデの合唱書
1384年頃、ハーメルンの聖堂参事会員デカン・リューデという人物が、一冊の合唱書を所持していたと伝えられる。合唱書というのは典礼で歌う聖歌の楽譜と歌詞を綴じた本だ。その本の表紙裏、あるいは冒頭のページに、ラテン語の韻文が書かれていた。そしてその韻文は、事件の目撃証言だったという。
書いたのは、デカン・リューデの祖母だとされる。祖母が事件を目撃し、その記憶を韻文にして書き残し、孫の代までその本が伝わった。これが本当なら、我々は目撃者から二世代しか離れていない証言を手にしていたことになる。
していた、と過去形で書くのは、この合唱書が現存しないからだ。18世紀までは存在が確認できたらしい。1761年に、この韻文を書き写したという記録が残っている。だが原本そのものは行方不明になった。戦争か、火事か、単に散逸したのか。中世の写本が消える理由はいくらでもある。
残されたのは、写しの写しに書かれた数行のラテン語詩だけだ。内容は簡潔で、130人の子どもが魔術師によって町から連れ出され、コッペンのあたりで失われた、という趣旨のことを詩の形で述べている。
ここで使われている単語が興味深い。男は「笛吹き」ではなく「魔術師」と呼ばれている。中世において、音楽で人や動物を操る者は、しばしば悪魔的な力の持ち主とみなされた。この呼び方が原初のものなのか、後の書き写しの段階で変わったのかは分からない。分からないことだらけだが、それでもこの一件が15世紀以前に文字として存在していたことの傍証にはなる。
最古の証拠その4――「我らの子らが去りて百年」
そして、いちばん背筋が寒くなるのがこれだ。
ハーメルン市の記録に、1384年の日付で、次の趣旨の一行がある。我らの子らが去りて、百年。
たったこれだけ。説明がない。何が起きたのかも書いていない。書く必要がなかったからだ。読む人は全員知っている。市の記録に「百年」とだけ書けば通じる程度には、この出来事は町の共通記憶だった。100年経ってなお、説明抜きで通じる事件。それがどれほどの重さかは、想像するしかない。
さらに恐ろしいのは、ハーメルンの町がこの日を紀元にして年を数えたという事実だ。
中世都市の公文書は普通、キリスト紀元か、あるいは君主の在位年で日付を記す。ところがハーメルンでは、市の布告や記録の一部が「子どもたちが去ってから何年」という形式で書かれた。つまり町にとって、この事件はキリスト紀元と並ぶ時間の原点になった。そこまでする。
町の年代記そのものが、この事件から始まっているとも言われる。ハーメルンには事件以前の連続した年代記がほとんど残っていない。だから正確には「残っている記録がこの事件から始まる」というだけかもしれない。それでも、町の歴史意識がここを起点にしていたことは動かない。
石に刻まれた三つの碑文
紙は燃える。ガラスは割れる。でも石はしぶとい。ハーメルンには、この事件を刻んだ石の碑文が複数ある。
最も有名なのが、通称ラッテンフェンガーハウス、つまり「ネズミ捕り男の家」と呼ばれる建物の壁面だ。建てられたのは1602年から1603年。ヴェーザー・ルネサンス様式の見事な石造建築で、今は町の目抜き通りに立っている。
ここに中低ドイツ語で碑文が刻まれている。1284年、ヨハネとパウロの日、すなわち6月26日、色とりどりの服を着た一人の笛吹きによって、ハーメルン生まれの130人の子どもが誘い出され、コッペンのそばで失われた、という内容だ。
注意してほしいのは、この建物が事件と直接の関係を持たないことだ。1602年の建物である。事件から300年以上あとに建てられた民家に、なぜ事件の碑文が刻まれるのか。答えは単純で、当時のハーメルン市民にとって、この事件が町のアイデンティティそのものだったからだ。新築の家の壁に、町でいちばん重い記憶を刻んだ。
もう一つが、ホーホツァイトハウス、つまり「婚礼の家」と呼ばれる市の公共建築だ。1610年から1617年にかけて建てられた。ここにも同趣旨の碑文がある。キリスト降誕より1284年、ハーメルン生まれの130人の子どもが一人の笛吹きにたぶらかされ、失われた、と。
三つめは、1556年の新門の礎石だ。ここには計算式めいた文言が刻まれていた。魔術師が130人の子どもをこの町から盗み出してから272年後に、この門は建てられた、と。1284に272を足すと1556になる。日付を書く代わりに引き算をさせる。この町の時間感覚が本当に事件を基準にしていたことの、いちばん露骨な証拠だ。門そのものは後に取り壊されたが、記録は残った。
ブンゲローゼ通り――太鼓を打たない道
そして、実在の地名の話をしたい。ハーメルンの旧市街に、ブンゲローゼ通りという道がある。名前の意味は「太鼓のない」「音のない」だ。中低ドイツ語で太鼓を意味する語に否定の接尾辞をつけた形になっている。
この通りは、子どもたちが最後に目撃された場所だとされる。オスター門へ向かう道筋の一部だ。そしてこの通りでは、音楽を演奏してはいけない。踊ってもいけない。
これは伝承ではなく、現在も生きているローカルルールだ。婚礼の行列がこの通りを通るとき、楽隊は演奏をやめる。葬列も同じだ。町を挙げての祭りのときですら、この一区画だけは音が止まる。
この慣習がいつからあるのかというと、通り名自体は1427年の文書にすでに現れている。事件から140年ほど後だ。名前がついたということは、その頃には「音を出してはいけない道」という認識が定着していたことになる。
この事実が持つ意味は大きい。伝説というのは普通、語りとして残る。だがハーメルンでは、語りが都市空間そのものに刻まれた。道の名前になり、行動規範になり、700年間守られ続けた。町が毎日、無言で追悼している。
観光客はここを通っても何も感じないだろう。ただの細い道だ。だがその静けさは、制度として維持されている静けさだ。
ネズミはいつ紛れ込んだのか
ここで、多くの人が「え」と言う話をする。ネズミは、後から足された。
最古の記録群のどこにも、ネズミは出てこない。ステンドグラスにもいない。リューネブルクの写本にもいない。1384年の一行にもいない。碑文にもいない。300年近くのあいだ、この話は「色とりどりの服の男が笛で子どもを連れ去った」という一点だけで語られてきた。ネズミ退治の契約も、報酬の踏み倒しも、復讐の動機も、全部なかった。
ネズミが最初に現れるのは16世紀半ばだ。1556年にヨープス・フィンツェリウスという著述家が印刷物でこの話に触れたのが最初期の印刷例とされる。そして1559年から1565年頃に書かれたツィンマー家の年代記、いわゆるツィンマーシェ・クロニクに、ネズミ退治のくだりが登場する。これが現存する最古のネズミ入りバージョンだと考えられている。
以後、16世紀後半にはカスパー・ゴルトヴルム、ヨハン・ヴァイヤー、アンドレアス・ホンドルフ、ルーカス・ロシウス、ハインリヒ・ビュンティング、ゲオルク・ロレンハーゲンといった著述家が次々にこの話を書き、そのたびにネズミが定着していった。
なぜ足されたのか。実務的な理由がある。
16世紀のドイツの都市は、穀物倉庫の鼠害に本気で困っていた。そして、ネズミ捕りを職業とする遍歴の男たちが実在した。彼らは町から町へ移動し、笛や太鼓や独特の呼び声で鼠を集めると称して報酬を得た。今でいう害虫駆除業者の原型だが、当時の身分としては極めて低い。定住地を持たず、名誉を持たない人々の一群だった。
つまり、笛を吹く得体の知れないよそ者、という原初のイメージに、同時代に実在した職業のイメージが重なった。
しかもネズミを足すと、話が劇的に良くなる。動機が生まれるからだ。報酬を踏み倒された男が復讐する。因果応報の物語になる。町の側に落ち度ができる。理由の分からない不条理な喪失が、理由のある罰に変わる。
人間は理由のない喪失に耐えられない。だから理由を足した。ネズミの追加は、ハーメルンという町が数百年かけて行った、集団的な意味づけの作業だったと言っていい。
ちなみに、笛の音でネズミが操れるかという点については、後年に真面目な検証が行われている。中世の笛が出せる周波数帯では、鼠を誘引する効果は確認されなかった。まあ、そうだろうな、という結論ではある。
グリム兄弟が伝説を固めた
そして1816年。ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟が、『ドイツ伝説集』を刊行する。童話集のほうではない。伝説集のほうだ。この中に「ハーメルンの子どもたち」という一篇が収録された。
グリム兄弟がやったことは、創作ではなく編集だ。彼らは1586年から1814年までに刊行された十数種類の文献を集め、それらを突き合わせて一つの決定版を作った。この作業自体は極めて学術的で、彼らは典拠も注記している。だが結果として起きたのは、無数にあったバリエーションの一本化だった。
グリム版の筋はこうだ。
1284年、奇妙な身なりの男がハーメルンに現れ、自分はネズミ捕りだと名乗る。報酬を条件にネズミを退治すると申し出る。市民は同意する。男は小さな笛を吹き、町じゅうのネズミがついてきて、ヴェーザー川に入って溺れる。
ところが仕事が終わると市民は約束の金を払わない。男は怒って町を去る。そして6月26日、聖ヨハネと聖パウロの日、男は再び現れる。今度は狩人の装いで、恐ろしい顔をして、奇妙な赤い帽子をかぶっている。彼が笛を吹くと、今度は子どもが出てくる。4歳以上の男女が多数、市長の娘まで含めて、彼のあとを追う。列はオスター門を出て、ポッペンベルクと呼ばれる丘に入り、消える。数は130人。
グリム版で初めて「赤い帽子」と「狩人の装い」と「市長の娘」が固定された。ポッペンベルクという地名もここで前面に出る。そして、子どもたちは洞窟を通ってトランシルヴァニアに出たのだ、という後日談も併記される。この一冊が英訳・和訳され、世界中に広まった。今日われわれが知っている「ハーメルンの笛吹き男」は、ほぼ完全にグリム版だ。
なお、グリム兄弟より少し前、1803年にゲーテが「ネズミ捕り男」という短い詩を書いている。こちらは事件性を消し、女子どもをたぶらかす色男としての笛吹きを歌った軽妙な作品で、伝説がすでに素材として自由に使われはじめていたことを示している。
説を一つずつ検討するその1――東方植民説
ここからは、じゃあ何が起きたのかという話をする。現在いちばん支持されているのが東方植民説だ。
13世紀のドイツは人口が膨張していた。西部の農地は飽和し、次男三男が食えない。一方で東方、つまりエルベ川の向こう、ブランデンブルク、ポンメルン、プロイセン、メーレン、そしてハンガリー領トランシルヴァニアには、開墾されていない土地が広がっていた。1227年のボルンヘーヴェトの戦いでデンマーク勢力が後退すると、バルト海南岸が一気に開けた。領主たちは人手を欲しがった。
そこで登場するのがロカトールと呼ばれる人々だ。日本語にすると入植請負人、あるいは移民斡旋業者になる。彼らは領主から委託を受け、北ドイツの町や村を回って入植者を集めた。契約はかなり有利だった。数年間の免税、自由な土地保有、自治権。彼らは目立つ服装をして町に現れ、口上を述べ、時には楽器を鳴らして人を集めた。
ここで「色とりどりの服を着て笛を吹く男が、町の若者を連れて出ていった」という光景が、突然きわめて現実的なものになる。
具体的な人物名も候補に挙がっている。ニコラウス・フォン・シュピーゲルベルクという人物は、13世紀後半にポンメルン方面への入植を組織したとされ、ハーメルン近郊のシュピーゲルベルク伯家との関係から名前が挙がる。また、オルミュッツ司教ブルーノ・フォン・シャウエンブルクは大規模な東方入植を推進した人物で、彼の代理人が北ドイツで勧誘活動をしていた記録がある。オルデンブルク系の貴族が勧誘者だったという伝承もあり、これらの名前が地元の口承と結びついて、笛吹き男の実像とされてきた。
決定的なのは地名学の証拠だ。
言語学者ユルゲン・ウードルフは1990年代にこの問題に取り組み、ハーメルン周辺の地名が東方の入植地に移植されている例を大量に見つけた。ハーメルン近郊のハーメルシュプリンゲという地名が、ブランデンブルクのウッカーマルクにハンメルシュプリングとして現れる。ハーメルン近くのベーフェルンゲンが、ベルリン近郊にベーフェリンゲン、ポーランド領にベヴェリンゲンとして現れる。プリークニッツやウッカーマルクの村名に、ハーメルン周辺の地名が異様な密度で集中している。
さらにウードルフは、ハーメルン特有の姓が現在のポーランドの電話帳に残っていることまで確認している。移民は地名と姓を持っていく。それが動かぬ足跡になる。
反証もきちんと挙げておく。ここを飛ばすと、ただの気持ちのいい話になってしまうからだ。
まず、東方植民説は「なぜ130人という具体的な数字なのか」を説明しない。集団移住なら家族単位のはずで、記録が「子ども」を強調する理由が弱い。もっとも、中世ドイツ語で町の住民を「町の子ら」と呼ぶ用法はあり、これが誤読された可能性は指摘されている。
第二に、1284年前後のハーメルンから大規模な入植団が出たという直接の文書が、いまだに一通も見つかっていない。ウードルフの証拠はすべて間接的で、地名の類似は偶然の一致でも説明できるという批判は消えない。
第三に、もし自発的な移住なら、なぜ町は300年にわたってそれを喪失として悼み続けたのか。移住は悲劇ではない。ここが最大の弱点だ。
説その2――少年十字軍説
1212年、フランスとドイツで、子どもと若者の群れが聖地奪還を目指して南下したとされる事件がある。いわゆる少年十字軍だ。ドイツ側では、ケルン近郊のニコラウスという少年が率いたとされ、アルプスを越えてイタリアに達したが、多くが行き倒れになるか、地中海の港で船に乗せられて行方不明になったと伝えられる。
この事件とハーメルンを結びつける説は古くからある。宗教的熱狂に駆られた集団が指導者に率いられて町を出ていく、という構図が完全に一致するからだ。しかも6月26日という日付は、夏至の祝祭の直後で、宗教的高揚が最高潮に達する時期にあたる。行列を組んで歌いながら町を出る巡礼団が、そのまま帰ってこなかった。これなら「笛吹き男」は聖歌を先導する指導者ということになる。
さらに、ハーメルンの子どもたちがトランシルヴァニアに現れたという伝承と、十字軍的な東方への移動を重ねる読み方もある。13世紀にはハンガリー王国が異教徒との境界地帯に入植者を求めており、宗教的動機と経済的動機は簡単に混ざる。
反証は明確で、年代が合わない。少年十字軍は1212年、ハーメルンは1284年。72年のずれがある。
これを「同種の運動が13世紀を通じて散発的に起きていた」と読み替えれば説明は可能だ。だがそうすると今度は、1284年前後に該当する運動の記録がまったく存在しないという問題にぶつかる。中世ヨーロッパで数百人規模の巡礼団が動けば、通過した町の年代記に必ず何か残る。何も残っていない。
加えて、最古の記録が男を「魔術師」と呼んでいる点も、宗教的指導者説とは相性が悪い。教会が主導した巡礼なら、悪魔的なニュアンスで語られる理由がない。
説その3――舞踏病・エルゴタミン中毒説
中世ヨーロッパには、集団が突然踊り出して止まらなくなるという奇怪な現象が繰り返し記録されている。舞踏病、あるいは踊りの流行病と呼ばれるものだ。
1237年にはエルフルトで大勢の子どもが踊りながら町を出て、隣町のアルンシュタットまで20キロ以上を踊り続けたという記録がある。1374年にはライン川流域で大規模な発生があり、1518年のシュトラスブルクの事例は数十人の死者を出したとされる。
この現象を1284年のハーメルンに当てはめると、話は驚くほどきれいにはまる。夏至祭の高揚、笛や太鼓の反復リズム、集団的なトランス状態。子どもたちは踊りながら町を出て、止まれなくなり、力尽きて倒れた。あるいは川に落ちた。笛吹き男は、その先頭で楽器を鳴らしていた楽師そのものだ。
医学的な説明として持ち出されるのが麦角中毒だ。ライ麦に寄生する麦角菌には、エルゴタミンをはじめとするアルカロイドが含まれる。これを含んだパンを食べると、血管収縮による四肢の壊死や、強烈な幻覚、痙攣を起こす。中世ヨーロッパで聖アントニウスの火と呼ばれた病がこれだ。幻覚状態の集団が音楽に引き寄せられて町を出る、というシナリオは、生理学的には成立しうる。
反証もはっきりしている。
まず、舞踏病の事例はいずれも「町の中で起きて、町の中で終わる」ものが大半で、参加者が消息を絶つケースはほとんどない。踊り疲れて倒れた人間は、その場に残る。死体が残る。ハーメルンの記録が徹底して伝えるのは、死体が見つからなかったという事実だ。
次に、麦角中毒は年齢を選ばない。同じパンを食べた大人も同じ症状を出すはずで、子どもだけが130人という選択性が説明できない。さらに、麦角中毒の集団発生は激烈な身体症状を伴うため、町の記録に病として記載されるのが普通だ。ハーメルンの記録には病の気配が一切ない。
説その4――児童誘拐・人身売買説
最も陰惨で、最も現代人に響く説がこれだ。笛吹き男は誘拐犯だった、というものである。
アメリカの歴史著述家ウィリアム・マンチェスターは、笛吹き男が実在の児童性犯罪者であり、130人の子どもを町から連れ出して殺害したという説を書いた。中世においてよそ者の芸人が子どもに接近するのは容易であり、当時の捜査能力ではこれを追跡できなかった、という論旨だ。
より穏当な変種として、人身売買説がある。13世紀の地中海世界では奴隷貿易が活発で、東欧やバルカン経由の人身売買ルートが実在した。少年十字軍の子どもたちが港で船に乗せられて売られたという伝承もこれと連動する。組織的な人買いが、祭りの混乱に乗じて子どもを集めた、という筋書きだ。
反証は、まず史料側から来る。マンチェスターは自説の典拠をまったく示していない。中世史の専門家からは、根拠を欠いた現代的投影だと批判されている。
さらに構造的な問題がある。130人という規模だ。一人の人間が130人の子どもを一度に連れ去って処理することは物理的に不可能で、大規模な組織と輸送手段が必要になる。中世の内陸都市で、それだけの人員と馬車と船が動けば、必ず目撃される。そして人身売買であれば、売られた先に記録が残る。奴隷は商品であり、商品には帳簿がつく。その帳簿がどこにも出てこない。
ただし、この説には捨てがたい部分もある。それは、町がなぜこの出来事を恥として扱った形跡を残しているか、という点だ。ブンゲローゼ通りの沈黙は、追悼にしては過剰に見える。町が語りたくない何かがあったのではないか、という直感は、多くの人が抱いてきた。
説その5――ペスト説はなぜ否定されるのか
一般向けの本で今でもよく見るのが「実はペストで子どもが大量死したのを、伝説が覆い隠した」という説明だ。ネズミが出てくることもあって、いかにも説得力がありそうに見える。だが、これは端的に成立しない。
理由は単純で、年代が合わない。ヨーロッパを襲った黒死病、すなわち大流行のペストが到達したのは1347年から1350年にかけてのことだ。ハーメルンの事件は1284年。60年以上早い。1284年の北ドイツにペストの記録はない。
さらに致命的なのが、ネズミの登場時期だ。前述のとおり、この話にネズミが入ったのは16世紀半ば以降である。つまりペスト、ネズミ、笛吹き男という連想は、ペスト大流行を経験した後の世代が、後から物語に持ち込んだものだ。因果が逆になっている。ネズミがいたからペストを疑うのではなく、ペストを知っている人間がネズミを話に足したのだ。
ペストではなく別の疫病、たとえばハンセン病や麦角中毒による大量死を想定する説もある。ハーメルンの研究者リヒャルト・ザリンガーは、130人の子どもが病で死に、市壁の外に埋葬されたのだという説を唱えた。市壁の外に埋葬するというのは、伝染病死者や、共同体の正規の成員として扱われなかった者に対する処置だ。これなら「町から出ていって帰ってこなかった」という記憶の形と辻褄が合う。
だがこの説にも決定的な弱点があって、130人が一度に死ぬような疫病が発生すれば、周辺都市の記録に必ず残る。北ドイツ全域の年代記に、1284年の疫病の記述はない。
説その6――ゼデミュンダーの戦い説
もう一つ、地元の歴史に根ざした説がある。1749年にクリストフ・フリードリヒ・ファインという歴史家が提唱したもので、18世紀から19世紀にかけては定説の座を占めていた。
背景はこうだ。1259年、フルダ修道院長がハーメルンに対する支配権を銀500マルクでミンデン司教に譲渡した。ハーメルン市民はこれに激怒する。せっかく手にしかけた都市の自治が、頭越しに売り飛ばされたからだ。市民は武装して抵抗した。そして1260年7月28日、デイスター門の南、ゼデミュンダーという廃村の近くで、ハーメルンの市民軍とミンデン司教軍が激突した。
結果は惨敗だった。市民軍は壊滅し、生き残った者はミンデンに連行されて捕虜になった。町からごっそり若い男が消えたのだ。ファインの説は、この敗戦の記憶が変形して「子どもたちが消えた」という伝説になったのだ、というものである。
ちなみにこの戦いのあと、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公のアルブレヒト一世とヨハン一世が仲介に入り、ハーメルンは司教権の半分を公家に移すことで一定の自立を得た。1277年にはアルブレヒト一世によって公領内の主要都市に格上げされている。つまりハーメルンは、事件のわずか7年前に都市としての地位を確立したばかりだった。
反証は年代のずれだ。1260年と1284年では24年離れている。伝説が年号を間違えたと考えることは可能だが、ハーメルンは日付を6月26日と特定し、しかもそれを紀年の基準にまでした町だ。その町が24年もずらして記憶するというのは考えにくい。加えて、ゼデミュンダーで失われたのは成人男性であって「4歳以上の子ども」ではない。
この説は現在ではほぼ支持されていないが、19世紀にはこれが解決済みの謎として教科書に載っていた時期がある。定説というものの脆さを示す好例だ。
説その7――地滑り、沼、そして川
もっと即物的な説もある。事故説だ。
一つは地滑り説。ハーメルンの南東にコッペンブリュッゲという土地がある。名前にコッペンが入っているのは偶然ではないかもしれない。この一帯は石灰岩質の丘陵で、陥没や地滑りが起きうる地形だ。祭りに浮かれて丘に登った子どもたちが、崖崩れか陥没に巻き込まれて生き埋めになった。それなら死体が出てこない理由も説明できるし、山の中に消えたという伝説の形とも一致する。異教的な祭祀集団に率いられて森へ入り、そこで災害に遭ったのだという変種もある。
二つめは沼への転落説。夏至のかがり火の風習では、火を囲んで踊り、火を飛び越える。暗がりで集団が動けば事故は起きる。パニックが起きて、集団が湿地に踏み込み、抜け出せなくなった。
三つめはヴェーザー川だ。ハーメルンは川の町であり、川で溺れることは日常的なリスクだった。船が転覆したという説もある。130人を一度に運ぶ船はハーメルンの規模では想定しにくいが、渡し舟が複数出ていたなら不可能ではない。
これらの説に共通する強みは、死体が出ない理由を自然に説明できることだ。そして共通する弱みも同じで、それだけの規模の災害が起きれば町の記録に災害として残るはずだ、という点にある。ハーメルンの記録は一貫して「男が連れていった」と書いている。事故ではなく、行為として記録されている。ここを軽視すべきではない。
阿部謹也が変えた読み方
日本語で本気でこの問題を考えた人がいる。歴史学者の阿部謹也だ。1974年に平凡社から刊行された『ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界』は、日本の西洋中世史研究の風景を変えた一冊で、今も文庫で読み継がれている。
阿部のアプローチが画期的だったのは、何が起きたかを突き止めようとしなかった点にある。いや、正確に言えば、彼もドイツの先行研究を丹念に検討して諸説を吟味している。だが本の重心はそこにない。彼が問うたのは、なぜこの出来事が伝説になったのか、そしてなぜ笛吹き男という形をとったのか、という問いだった。
彼が焦点を当てたのが、遍歴楽師という存在だ。
中世ドイツの社会には、名誉を持たない人々と呼ばれる階層があった。処刑人、皮剥ぎ、墓掘り、遍歴の芸人、そして楽師。彼らは土地に根ざした共同体に属さず、ギルドにも入れず、市民権も与えられず、教会墓地への埋葬すら拒まれることがあった。移動しながら生きるという、それだけの理由で共同体の外に置かれた人々だ。
そして阿部が指摘したのは、この差別が単純な蔑視ではなかった、ということだ。
市民たちは遍歴楽師を見下していた。同時に、恐れていた。祭りには彼らが必要だった。彼らの音楽なしに婚礼も市も成立しなかった。共同体の外にいる者が、共同体の最も高揚した瞬間を演出する。この構造的なねじれの中に、差別する側の怯えがある。阿部はそこを執拗に掘った。
だから、笛吹き男が色とりどりの服を着たよそ者として記憶されたことには必然性がある。町の外から来て、音楽で人を動かし、そして子どもを連れて消える。それは中世都市の集合的な恐怖が結晶した形だ。実際に何があったにせよ、その出来事を語る器として、遍歴楽師のイメージが選ばれた。
阿部はさらに、都市の周縁に置かれた人々、寡婦や孤児や貧民の位置にも目を向けた。1284年のハーメルンで、いなくなって最も痛みの少ない人間は誰か。移住を勧められて最も応じやすい人間は誰か。そういう社会史的な問いを立てた。
彼の著作は、日本の読者に「歴史学は事件を解くだけの学問ではない」と教えた本でもある。日本中世史の網野善彦が論じた、賤視されながら畏怖される職能民という構図とほぼ同時期に、地球の反対側を対象に同型の議論が立ち上がっていたことは、しばしば指摘される。
研究の現在地
では今、専門家は何を言っているのか。
ハーメルン市立博物館の常設展示は、この問題に対してかなり誠実な立場を取っている。展示は諸説を並べたうえで、東方植民説を最も蓋然性が高いものとして扱いつつ、最終的にはこう結論する。史料が乏しく、かつ多義的であるために、笛吹き男伝説の歴史的核心は完全には解明できない、と。博物館が分かりませんと展示に書くのは、なかなか勇気のいることだ。
研究史そのものも面白い。
この問題に最初に本格的に取り組んだのは、17世紀のザムエル・エーリヒという人物だ。彼が1654年に書いた『ハーメルンの出エジプト』は、伝説は文字どおり真実であり、笛吹き男は悪魔の顕現であると主張した。真剣に、学問的に、悪魔だと論じたのである。
これに対してゼバスティアン・シュピルカーが批判的検討を加え、1659年にはマルティン・ショークが『ハーメルンの寓話』を書いて、歴史的な説明を探す方向を打ち出した。悪魔説から歴史説へ。この転換に約5年しかかかっていないのが、17世紀の知的状況として興味深い。
現代では、地名学者のユルゲン・ウードルフが東方植民説の実証を最も強力に推し進めた。アメリカの民俗学者ヴォルフガング・ミーダーは、伝説の受容史と、ハーメルン出身者がジーベンビュルゲン、つまりトランシルヴァニアの入植に関与した記録を整理している。
トランシルヴァニアのザクセン人が話す方言は、実際にはモーゼル地方やルクセンブルク方面の方言に近いとされ、ハーメルンのある低地ザクセン方言圏とは系統が異なる。だから「トランシルヴァニア方言がハーメルンの方言に似ている」という有名な主張は、言語学的にはかなり分が悪い。それでもこの説が生き延びるのは、グリムが後日談として書き込んだからだ。伝説の力は、時に学説より強い。
議論の場は学界だけではない。ネット上の考察界隈では、この事件は定番の題材であり続けている。人身売買説の生々しさ、東方植民説の意外性、そして「記録に残る集団失踪」という設定の完成度。どの角度から入っても話が持つ。逆に言えば、あらゆる時代があらゆる不安をこの器に注いできたということでもある。
1284年のハーメルンという町
ここで、舞台そのものを見ておきたい。
事件当時のハーメルンは、人口おそらく2000人から3000人程度の小都市だ。ヴェーザー川の左岸に位置し、川を使った穀物の集散地として栄えていた。町の骨格は聖ボニファティウス参事会教会と、マルクト教会である聖ニコライ教会。市壁に囲まれ、門はいくつか。東に開くのがオスター門だ。
政治的には、前述のとおり、この町はフルダ修道院の支配下から抜け出す途中にあった。1259年の売却騒動、1260年の敗戦、その後の公家との折衝を経て、1277年にようやく公領内の主要都市として認められた。つまり事件の時点で、ハーメルンは市民自治の制度を組み立てはじめたばかりの、まだ若い都市だったわけだ。市参事会があり、参事会員を出す家系が形成されつつあり、ギルドが整いつつある。そういう段階だ。
この文脈は大事だ。若い都市は記録を作りたがる。自分たちの共同体の輪郭を、文書で確定させたいからだ。ハーメルンが事件を執拗に記録し、紀年の基準にまでしたのは、記録という行為そのものが都市の自己主張だった時代の産物でもある。
社会構造としては、参事会に入れる有力市民、その下の手工業者と商人、さらにその下に日雇いと貧民、そして共同体の外にいる名誉なき人々、という層が重なっていた。子どもは労働力であり、家の存続そのものだった。130人を失うということは、次世代の労働力と相続人を同時に失うということだ。
人口2000人の町から130人が消えるという比率を考えてほしい。全人口の5パーセントから6パーセント。しかも一世代の子どもに集中している。町の未来が一日で削られたことになる。
そして、その傷が300年後の新築の家の壁に刻まれ、700年後の道路の名前として生き残っている。
現代のハーメルン
今のハーメルンは、はっきり言ってこの伝説で食っている。そしてそれを隠していない。
町のあだ名は「ネズミ捕り男の町」だ。旧市街の石畳にはネズミの形の金具が埋め込まれ、それをたどると観光ルートになる。土産物屋には、ありとあらゆる形のネズミがいる。ネズミの形のパンまで売っている。ラッテンフェンガーハウスは今もレストランとして営業していて、名物はネズミの尻尾を模した料理だ。悪趣味と言えば悪趣味なんだけど、ここまで突き抜けるといっそ清々しい。
夏の日曜日には、結婚式の家の前の広場で野外劇が上演される。演じるのは市民だ。プロの劇団ではない。町の人が笛吹き男を演じ、町の子どもがネズミと子どもたちを演じる。数十年続いている恒例行事で、水曜日にはミュージカル版も上演される。
6月26日は「ネズミ捕り男の日」として記念される。1284年から数えて725年にあたる2009年には、大規模な記念行事が行われた。町は事件を悼みつつ、同時に祝っている。この二重性はハーメルンの人々自身も自覚していて、地元では時折、悲劇を観光資源にすることの是非が議論になる。
学術的な取り組みもある。1984年、事件から700年の節目に、ハーメルン市はネズミ捕り男文学賞を創設した。子どもと若者に向けた優れた文学作品に贈られる賞で、以来定期的に授与されている。伝説を消費するだけでなく、伝説に応答する文化を作ろうという意志が見える。
そして2014年12月、ハーメルンのネズミ捕り男伝承をめぐる文化的実践は、ドイツの無形文化遺産に登録された。物語ではなく、それを語り継ぎ、演じ、道の名前として守り続けてきた営みのほうが遺産として認められた形になる。ブンゲローゼ通りで演奏をやめる、というあの慣習も、その一部だ。
日本での受容
日本におけるこの話の位置は、少し独特だ。
まず童話としての流入がある。明治以降、グリムの伝説集や英語圏の児童文学を通じて「ハーメルンの笛吹き男」は日本に入り、絵本や教科書で広く知られるようになった。約束を破ると恐ろしい報いがある、という教訓話として読まれてきた。
だが日本語圏でこの話の重みを決定的に変えたのが、1974年の阿部謹也の著作だ。この本は専門書でありながら一般読者に強く届き、以後、日本で「ハーメルンの笛吹き男」と言えば、童話ではなく歴史事件として語られる度合いが、他国よりも高い。中世ヨーロッパの差別構造を扱った記念碑的作品として評価され、文庫化されて今も読まれ続けている。日本の読者が「あれは実話らしい」と当たり前に知っているのは、かなりの部分この本の功績だ。
さらに、日本のサブカルチャーはこのモチーフを繰り返し使ってきた。笛の音で群衆を操る存在、子どもだけが連れ去られる街、代償を求める異形の来訪者。漫画、アニメ、ゲーム、小説、あらゆる媒体に変奏がある。ハーメルンという語そのものが作品名やサービス名に使われる程度には、記号として定着している。
面白いのは、日本での受容が「復讐譚としての笛吹き男」よりも「消失事件としての笛吹き男」に寄っていることだ。欧米ではブラウニングの詩の影響で、約束を破った町が罰を受ける話という枠が強い。日本では阿部の本の影響で、原因不明の集団失踪という枠が強い。同じ話が、入り口の違いで別の顔を見せている。
なぜこの話は700年生き延びたのか
最後に、この記事でいちばん書きたかったことを書く。
この話が異様に強いのは、構造が三重に完成しているからだ。
第一に、失われたものが子どもである。共同体にとって最も痛い喪失であり、同時に最も普遍的な恐怖だ。国も時代も宗教も問わず、これは通じる。
第二に、原因が音楽である。音楽は目に見えず、抵抗できず、理屈を超えて人を動かす。中世の人々が遍歴楽師を恐れた理由そのものだ。そして現代でも、扇動者やカルト指導者やアルゴリズムを語るときに、我々は必ずといっていいほど笛吹き男を持ち出す。比喩として完璧に機能してしまう。
第三に、答えが出ない。これが決定的だ。もし1290年頃の文書が発見されて「子どもたちはポンメルンに入植した」と書いてあったら、この話は今日まで生き延びなかった。事件として解決し、地方史の一項目に収まっていただろう。
だが記録は、事件があったことだけを確定させ、理由を一切書かなかった。この設計が、700年分の解釈を呼び込んだ。悪魔説、戦争説、疫病説、移住説、誘拐説、災害説。それぞれの時代が、自分の時代の恐怖を空欄に書き込んだ。空欄がある限り、話は死なない。
そしてハーメルンという町は、その空欄を埋めなかった。埋める代わりに、道の名前にして、家の壁に刻んで、暦の基準にした。理由が分からないまま、記憶だけを制度化した。
これは相当に異常な振る舞いだ。普通、共同体は説明のつかない出来事を忘れようとする。ハーメルンは逆をやった。分からないことを、分からないまま、700年間手渡し続けた。
だから我々は今もこの話をしている。1284年6月26日に何が起きたかは分からない。おそらく永遠に分からない。だが、分からないという事実だけは、町が完璧に保存してくれた。それが、この事件の唯一にして最大の遺産だ。
材料を並べ終えてから、もう一段深く
ここからは、本編で書ききれなかった論点を一気に詰める。読み物として一段深いところに潜る。
まず、史料批判の話をきちんとしておきたい。
この事件をめぐる史料は、大きく三つの層に分かれる。第一層が事件から100年以内、つまり1300年頃のステンドグラスと1384年の市の記録だ。ここには「130人の子どもが去った」という核だけがある。男の描写はステンドグラスの図像から間接的に読めるが、テキストとしての描写はない。
第二層が15世紀、リューネブルクの写本の書き込みだ。ここで初めて、30歳ほどの美しい若者、色とりどりの服、銀の笛、橋と門、そして消失という物語の骨格が文章化される。
第三層が16世紀以降で、ネズミ、契約、報酬の踏み倒し、復讐という因果構造が加わる。
この三層構造を見れば、物語が何をしてきたかが分かる。核は変わっていない。130人という数字と6月26日という日付は、一度も揺れていない。揺れたのは、その周りの説明部分だけだ。
数字と日付が動かないというのは、史料としてかなり誠実な振る舞いだと思う。捏造された伝説は、たいてい数字が膨らむ。130が500になり1000になる。ハーメルンではそれが起きなかった。これは、元になった記録が実務的な性格を持っていたことを示唆する。誰かが、悲しみではなく事務として、人数を数えたのだ。
次に、「子ども」という語の問題に踏み込みたい。
中低ドイツ語で子どもを意味する語は、単に年少者を指すだけではない。共同体の成員、とりわけ従属的な立場の若年成員を広く含みうる。都市の文書で「町の子ら」といえば、市民全般を指す修辞になることもある。
だから最古の記録が言う130人の子どもが、文字どおり幼児から少年少女までを指すのか、それとも15歳から25歳くらいの若年層を指すのかは、実は確定していない。グリム版が「4歳以上」と書いたのは16世紀以降の伝承を踏まえたもので、初期の史料にこの限定はない。
この一点で、事件の見え方はまるで変わる。
もし消えたのが若者たちなら、東方植民説の説得力は跳ね上がる。入植に応じるのは、まさにその年齢層だからだ。相続する土地のない次男以下、結婚資金のない若者、都市で職を得られなかった者。彼らこそがロカトールの標的だった。
そして彼らが集団で出ていけば、町の労働力は激減し、家々の相続計画は崩壊する。それは間違いなく喪失として記録されるだろう。悼まれもするだろう。移住は悲劇ではない、という本編で書いた反証は、この読み方だとかなり弱まる。故郷を捨てて二度と戻らない移住は、残された側にとっては死別と大差ない。
さらに踏み込むなら、なぜ町が理由を書かなかったのか、という問いにも答えが出る。書きたくなかったからだ。
若者が大量に町を出たという事実は、その町の統治が失敗したことの証明になる。食わせられなかった。将来を示せなかった。だから若者は色とりどりの服の男の口車に乗って出ていった。市参事会が公式記録に書きたい話ではない。だが人数と日付だけは書かざるを得ない。都市の人口動態は課税と兵役に直結するからだ。
結果として、数字だけが残り、理由が消えた。この読み方は史料の欠落パターンをきれいに説明する。ただし、これはあくまで推論だ。裏づける文書は存在しない。
ロカトール、つまり入植請負人という職業についても、もう少し書いておきたい。
彼らは領主と入植者の間に立つ仲介業者で、契約書を交わして働いた。領主から一定の土地を与えられ、そこに何戸の農家を入れるかを約束する。集めた入植者からは、村長職や免税特権や粉挽き所の独占権といった報酬を得た。つまり彼らは、人を集めれば集めるほど儲かる構造の中にいた。だから宣伝がうまい。目立つ服を着る。楽器を鳴らす。約束をする。東方には土地がある、税はかからない、自分の畑が持てる、と。
現代でいえば、地方移住の斡旋業者と、人材紹介会社と、少し悪質な投資勧誘を足したような存在だ。そして中世の農民や都市下層民にとって、この話はまばゆく響いたはずだ。ここに残っても何もない。向こうには土地がある。行こう。
この決断を、残された親たちは「たぶらかされた」と表現するだろう。実際、最古の記録が使う動詞は、まさに誘い出された、たぶらかされたというニュアンスを持つ。自発的に去ったのではなく、連れていかれた。そう書きたい気持ちは、痛いほど分かる。
コッペンという地名についても整理しておく。
この語は丘の頂、あるいは丸い小山を意味する一般名詞に由来する。だから固有名詞として特定の場所を指すのか、単に「あの丘のあたり」という意味なのかが判然としない。候補地はいくつもある。ハーメルン南東のコッペンブリュッゲ一帯、市の東門の外にあった処刑場の小丘、あるいはヴェーザー川沿いの丘陵地帯。グリムがポッペンベルクと書いたのは、この曖昧さに一つの答えを与えようとした結果だが、これも決め手にはならない。
そして、処刑場という点は無視できない。
中世都市の処刑場は市壁の外、東または北の方角に置かれることが多く、そこは共同体の秩序の境界だった。名誉なき者が働き、名誉なき者が葬られる場所。最古の記録が、子どもたちの消えた地点をこの近くに置いていることには意味があるかもしれない。町の内側から外側へ、秩序から無秩序へ、生から死へ。境界を越えて消えた、という語り方だ。
これは事実の記述というより、中世人の空間認識の反映かもしれない。だが逆に、実際にそこが集合地点だった可能性も否定できない。入植団が集まるなら、市壁の外の開けた場所を使う。
音楽の位置づけについても、もう一段掘りたい。
中世の教会は、器楽演奏に対して一貫して警戒的だった。人間の声は神に捧げられるが、楽器の音は肉体的な快楽を刺激するとされた。とりわけ笛は、古代のパンやサテュロスの連想から、異教的で淫らな楽器と見なされることがあった。遍歴楽師が差別された理由の一部はここにある。彼らは教会が制御できない音を鳴らす人間だった。
だから、この伝説において子どもを連れ去るのが「笛」であることは、単なる道具の選択ではない。教会的秩序の外にある力が、共同体の未来を持ち去ったという構図だ。中世の聞き手にとって、この話は説明を必要としなかったはずだ。笛の音でよそ者についていく、というのは、彼らの世界観の中では十分に起こりうることだった。魔術師と呼ばれた理由もそこにある。音楽は魔術の一種だったのだ。
阿部謹也の議論に戻るなら、彼が最も鋭かったのは、差別する側の心理を分析した点だと思う。
遍歴楽師を蔑む市民たちは、同時に彼らに依存していた。祭りの高揚、婚礼の華やぎ、市の賑わい。それらは全部、外部から来る人間が持ち込むものだった。共同体は自力では祝祭を作れない。外部の力を借りるしかない。そして借りたあとで、貸主を蔑む。
この構造は、中世ドイツに限った話ではまったくない。現代の我々が、どの職業を必要とし、同時にどう扱っているかを考えれば、話は一気に生々しくなる。阿部が日本の読者に届いたのは、たぶんそこだ。
伝説の生存戦略についても、もう少し言葉を足したい。
物語が長く生き延びるには、器としての柔軟性が必要になる。ハーメルンの話は、この点で異常に優秀だ。悪魔の話としても読める。神罰の話としても読める。契約違反への報復譚としても読める。集団移住の記憶としても読める。児童虐待の隠喩としても読める。カリスマ的指導者への警告としても読める。技術やメディアが人を操ることへの不安の表現としても読める。器の形が、注ぐ液体に合わせて変わる。
しかも、この話には教訓を確定させない仕掛けがある。町は約束を破った。それは悪い。だが、罰として子どもを奪うのは正当か。誰も正当だとは言わない。加害者にも被害者にも完全には感情移入できない。この居心地の悪さが、話を消費して終わりにさせない。読者が反芻してしまう。反芻される物語は死なない。
最後に、この事件を追いかけていて何度も戻ってくる感触を書いておく。
ハーメルンの人々は、答えを知らないまま、記憶する方法だけを完成させた。窓に描き、壁に刻み、道に名前をつけ、暦を書き換え、劇にして、賞を作った。7世紀にわたって、彼らは「分からない」を運び続けた。
普通の共同体なら、どこかで説明を作って落着させる。ハーメルンもネズミという説明を一度は作った。だが、その説明が本編ではないことを、町自身がちゃんと知っている。市立博物館が解明できないと展示に書くのは、その証拠だ。
これは、記録という営みの一番いい形かもしれない。分かったことだけを書き、分からないことを分からないまま残す。解釈は後世に投げる。1384年に「我らの子らが去りて百年」と書いた無名の書記が、700年後の我々がまだこの話をしているとは思わなかっただろう。だが彼が余計な説明を書かなかったおかげで、話はここまで来た。
1284年6月26日。ヴェーザー川の橋を渡って、色とりどりの服の男が町に入った。130人がついていった。それから先は、誰も知らない。そして、たぶんそれでいい。
