奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

ツタンカーメンの呪い――黄金の柩を暴いた者たちに忍び寄った死

黄金の柩が開いた日から、話は始まる

1922年11月、エジプトの王家の谷。三千年以上ものあいだ、盗掘者の手からも砂漠の熱風からも守られ続けてきた少年王の墓が、ついに開かれた。開けたのは、ひとりのイギリス人考古学者である。

ハワード・カーター。長年の失意の発掘生活の果てに、この男は黄金で埋め尽くされた副葬品の山と、静かに眠るツタンカーメン王のミイラを発見する。世界中の新聞が「世紀の発見」を熱狂的に報じた。

ところが、その熱狂は長くもたなかった。発見からわずか数か月後、資金提供者であったカーナヴォン卿が謎の高熱に倒れ、あっけなく息を引き取ったのだ。

この報せは瞬く間に姿を変える。「ファラオの呪い」という恐怖の物語だ。以後、発掘に関わった人々が次々と不審な死を遂げていく――そんな都市伝説が世界中を駆け巡ることになる。

墓の入口には侵入者を呪う警告の文字が刻まれていたという噂。著名な作家が真顔で「邪悪な力」の存在を語ったという逸話。そして、原因不明のまま倒れていく関係者たち。

科学が急速に発展しつつあった20世紀初頭に、なぜこれほどまでに「呪い」という前近代的な物語が人々の心をつかんだのか。発掘の瞬間から現代のネット社会における語られ方まで、余すところなく辿っていきたい。

執念が黄金の扉をこじ開けるまで

物語の始まりは、20世紀の初頭にまで遡る。イギリスの貴族ジョージ・ハーバート、第五代カーナヴォン伯。自動車事故による後遺症の療養のため、エジプトに滞在するようになった資産家であった。

エジプトの乾いた空気と考古学の魅力に取り憑かれた伯爵は、やがて自らも発掘事業のパトロンとなることを決意する。金はある。あとは掘る人間だ。

そこで白羽の矢が立ったのが、地味で無名の考古学者ハワード・カーターだった。若い頃からエジプト考古局で発掘技術を磨き上げた実務家である。

このカーターという男、王家の谷にはまだ発見されていない王墓が眠っているはずだという確信を、誰よりも強く抱いていた。特に彼が執着していたのは、当時ほとんど記録の残っていなかった少年王ツタンカーメンの存在だった。

カーナヴォン卿の資金提供のもと、二人の発掘は1907年頃から本格的に始まる。ところが、来る年も来る年も成果らしい成果は上がらない。空しく過ぎていくのは長い年月だけだった。

第一次世界大戦を挟み、発掘資金は湯水のように消えていき、カーナヴォン卿の忍耐も限界に近づいていた。1922年、伯爵はカーターにこう告げたと伝えられている。今シーズンで結果が出なければ支援を打ち切る、と。

ほとんど最後通牒である。まさに崖っぷちだ。それでもカーターは諦めなかった。

そして1922年11月4日。発掘隊の水汲み少年が偶然に岩を掘り返していたところ、地中に埋もれた階段の一段目を発見する。カーターの胸は高鳴った。

階段を掘り進めると、封印されたままの扉が現れた。扉に残っていたのは、王家の墓所であることを示す封印の跡である。

カーターはすぐにイギリスにいたカーナヴォン卿へ電報を打った。伯爵は娘のエヴリン・ハーバートを伴って、急遽エジプトへと駆けつけた。そして11月26日、ついに運命の瞬間が訪れる。

カーターは石壁に小さな穴を開け、蝋燭の灯りを差し込んで内部を覗き込んだ。背後で固唾を飲んで見守るカーナヴォン卿が「何か見えるか」と尋ねる。カーターはしばらく沈黙したのち、震える声でこう答えたという。

「はい、素晴らしいものが見えます」

この一言は、後に考古学史上もっとも有名な台詞のひとつとして語り継がれることになる。穴の奥では、黄金の玉座や獣の像、無数の副葬品が炎の反射できらめいていた。それが山のように積み上げられていたのだ。

埋葬室そのものへ足を踏み入れるまでには、さらに数か月を要した。1923年2月、関係者や賓客が居並ぶ中、儀式めいた厳粛な雰囲気とともに石棺を覆う壁が慎重に取り壊されていく。

世界中の記者たちが、固唾を飲んでこの様子を見守った。発見のニュースは瞬く間に世界中を駆け巡り、大センセーションとなったのである。

伯爵が死んだ日、新聞は何を書いたか

黄金の発見に沸き立つ世界とは裏腹に、暗い影は思いのほか早く忍び寄っていた。1923年3月、カーナヴォン卿はエジプトで蚊に刺された頬の傷を、髭剃りの際にうっかり切ってしまう。

ほんの小さな傷だ。それがやがて化膿し、丹毒と呼ばれる細菌感染を起こして高熱を招いた。肺炎まで併発した伯爵は、4月5日、カイロのホテルで息を引き取った。

もともと伯爵の身体は、自動車事故以来ずっと弱かったのだ。この程度の感染症でも命取りになり得たというのが、医学的には自然な経過である。

ところが、世界的発見の立役者があまりにも早く、あまりにも唐突に世を去った。この事実は、当時の新聞社にとって恰好の題材となった。ここからが呪いの本番だ。

とりわけセンセーショナリズムを重視する一部の新聞に、遠慮というものはない。「ファラオの呪いが伯爵を襲った」という見出しを次々と打ち出し、真偽の定かでない逸話までもが尾ひれをつけて報じられていく。

伯爵が死亡した瞬間、カイロの街全体が原因不明の停電に見舞われたという噂。遠くイギリスの邸宅で飼っていた伯爵の愛犬が、同じ時刻に遠吠えをあげて死んだという逸話。そんな話までもが、まことしやかに語られるようになった。

さらに人々の恐怖を決定的にしたのが、例の警告文の噂である。墓の入口付近に「ファラオの眠りを妨げる者に死の翼が触れるであろう」という趣旨の一節が刻まれていた、というのだ。

実際には、こうした碑文が墓の入口で確認された記録は存在しない。現地調査を行った研究者たちも、発掘記録や写真の中にそのような一節を見つけることはできていない。

多くの研究者はこう結論づけている。「警告の呪文」自体が、新聞記者や小説家による後付けの創作ではないか。あるいは他の墓の副葬品に記された、一般的な宗教的文言の誤伝であった可能性が高い、と。

それでも、この物語に信憑性を与えてしまった人物がいる。当時絶大な人気を誇っていた作家、アーサー・コナン・ドイルの発言だった。

シャーロック・ホームズの生みの親であり、晩年は心霊主義に深く傾倒していた男である。ドイルは記者からの取材に対し、カーナヴォン卿の死についてこんな趣旨の発言をしたと伝えられている。

「目に見えない邪悪な精霊、いわゆるエレメンタルのような存在が、王墓を守るために発動した可能性がある」

世界的名声を持つ作家の口から語られた言葉だ。新聞各紙はこれを大々的に引用し、「呪い」という物語に一気に科学を超えた権威を与えることになった。

こうして、ひとりの資産家の不運な感染症死は、瞬く間に世界中で語られる「ファラオの呪い」という伝説へと膨れ上がっていったのである。

本当に何人が死んだのか、数えてみる

伝説が独り歩きするうちに、実に恐ろしげな数字までもが語られるようになった。発掘に関わった22人が1930年までに死亡し、生き残ったのはわずか1人だけだった、というものである。

「呪いの犠牲者」として名前が挙がる人物は、実に多岐にわたる。カーナヴォン卿本人はもちろん、話はそこで終わらない。

アメリカ人実業家ブルース・イングラムは、ミイラの手を使ったペーパーウェイトを土産として受け取った。その直後、自宅が火災や洪水に見舞われたとされる。鉄道王ジョージ・ジェイ・グールドは、墓を訪問した後に肺炎で急死したとされている。

カーナヴォン卿の異母弟オーブリー・ハーバートも数に入っている。発掘現場にも出入りしていたこの人物は、原因不明の敗血症で死亡した。発掘隊の一員だったアーサー・メイスは体調を崩し、そのまま衰弱死している。

極めつけがエジプト学者リチャード・ベセルだ。ロンドンのクラブで突然死し、彼の父親までもがその後まもなく投身自殺を遂げたという。まるで疫病のように死が連鎖していったかのごとく語られてきたわけだ。

しかし、こうした「死のリスト」を冷静に検証した研究者たちの調査結果は、伝説とはまったく異なる姿を浮かび上がらせている。

実際に埋葬室の開封という決定的な瞬間に立ち会った関係者のうち、その後1年以内に死亡したのは誰か。カーナヴォン卿ただひとりであった。

発見者本人であるハワード・カーターは、その後も長くエジプト考古学に携わり続けた。1939年に64歳でリンパ腫のため亡くなるまで、格別「呪われた」様子もなく天寿を全うしている。

発掘に同行した写真家ハリー・バートンも、埋葬室の開封時に居合わせた技師アーサー・キャレンダーも同じだ。それぞれ十分に年齢を重ねてから世を去った。

カーナヴォン卿の娘エヴリン・ハーバートに至っては、1980年、78歳まで存命であった。父とともに墓へ足を踏み入れた、最初の人物のひとりである。

1930年代に行われたある統計調査も残っている。発掘や埋葬室開封の現場に居合わせた関係者たちの死亡時の平均年齢は、およそ70歳前後であったと算出された。当時のイギリス人男性の平均寿命を大きく上回る数字だ。

つまり、「呪い」という物語が成立するために不可欠だったはずの「異常な死亡率」そのものが、統計的にはまったく裏付けられていない。これが現在もっとも広く受け入れられている見解なのだ。

カビか、放射線か、それとも呪術か

呪いという超自然的な説明は、学術的にはほぼ否定されている。それでも残る問いがある。ではなぜ、カーナヴォン卿をはじめとする一部の関係者は本当に体調を崩したのか。

この問いに答えようとする仮説が、科学とオカルトの中間あたりからいくつも提唱されてきた。もっとも有名なのが、墓の内部に潜んでいた微生物による感染症説である。

三千年以上にわたって密閉されていた墓の中では、副葬品に付着した有機物が格好の栄養源になる。そこでアスペルギルス属をはじめとするカビや細菌が繁殖している可能性が指摘されてきた。

医学専門誌『ランセット』に発表されたある仮説は、こうだ。カーナヴォン卿はこうした真菌の胞子を吸い込んで肺に感染した。それが体内で長期間潜伏したのちに活性化して発症したのではないか。

乾燥した副葬品の中で長い眠りについていた胞子。密閉空間の扉が開かれた瞬間、それが空気中に舞い上がる。抵抗力の落ちていた伯爵の肺を蝕んだのだとすれば、これはこれで十分に恐ろしい話だ。

しかも、まるきりの絵空事でもない。実際に古代の墳墓を発掘した考古学者たちの間で、原因不明の呼吸器疾患が報告された例も存在する。

もう一つの興味深い説が、放射性物質説である。一部の研究者は、墓の中に安置されていた玄武岩製の容器や周囲の石灰岩に注目した。そこから通常より高いレベルの放射線やラドンガスが検出されたと主張している。

ここから話は一気に大胆になる。古代エジプトの神官たちが墓を暴く者への罰として、意図的に放射性の高い鉱物を選んで埋葬室に配置していたのではないか。そんな仮説さえ提唱されているのだ。

この説を唱える論者たちが根拠として引用するのは、複数の古代墳墓の壁面に刻まれた警句である。治療できない病によって死に至るであろう、という趣旨のものだ。

ただし、こうした碑文がツタンカーメン王墓そのものに存在したという直接的な証拠はない。類似の警句が他の墳墓に見られるという傍証にとどまっている点には、注意が必要だろう。

そして、これらの合理的説明とはまったく別の次元で語られ続けているものがある。古代エジプトの神官や呪術師が施したとされる本物のネクロマンシー、すなわち死者を守るための呪術説だ。

古代エジプトにおいて、死とミイラ化の儀式は極めて重要な宗教的行為だった。王の眠りを妨げる者には神々の怒りが下る。その信仰が単なる比喩ではなく、現実の力として信じられていた可能性。それは否定できない、とオカルト愛好家たちは主張する。

科学が説明できない部分にこそ古代の魔術が働いているのだ。この語り口は、100年以上経った今もなお根強い支持を集め続けている。

ミイラ映画と「ムー」が育てたもうひとつの呪い

ツタンカーメンの呪いという物語は、発見から間もない時期から大衆娯楽の格好の題材として消費され続けてきた。もっとも象徴的なのが、1932年に公開されたハリウッド映画『ミイラ再生』である。

ボリス・カーロフが演じるのは、甦った古代エジプトの神官イムホテップ。盗掘者たちに次々と復讐を遂げていくという筋書きだ。ツタンカーメン発掘とその後の「呪い」報道が世間を席巻していた空気を、色濃く反映した一本である。

この一本が、以後長きにわたって「ミイラ映画」というジャンルそのものを確立する原点となった。系譜は1999年の『ハムナプトラ』シリーズや、その後のリブート作品にまで受け継がれている。

墓を暴いた者には天罰が下る。このモチーフは、今なおハリウッド映画の定番プロットのひとつであり続けている。

「発掘者を呪う王墓」という物語の型は、ツタンカーメン以外の古代遺跡にまつわる怪異譚とも頻繁に比較される。たとえば中国の秦の始皇帝陵だ。水銀の川が流れる地下宮殿に足を踏み入れた者は命を落とす、という伝承が語られてきた。

南米に目を移せば、インカやマヤの遺跡でも似た話が残っている。黄金を持ち出した探検家が次々と非業の死を遂げた、という都市伝説が各地にあるのだ。

これらに共通するのは、翻訳の構造である。「王侯の権威と死者への畏怖」という古代文明特有の観念。それが近代人の想像力によって、「呪い」という分かりやすい物語へと翻訳し直されている。

その意味で、ツタンカーメンの呪いは「王墓怪談」というジャンルのいわば元祖的存在だ。日本においても、この物語は昭和期のオカルトブーム以来、繰り返し取り上げられてきた定番ネタのひとつである。

1970年代から80年代にかけての「ムー」をはじめとするオカルト雑誌。少年向けの「恐怖の都市伝説」系書籍。そこではツタンカーメンの呪いが、幽霊屋敷やUFO、ネッシーと並ぶ定番コンテンツとして繰り返し特集された。

犠牲者の数が誇張されて紹介されることも珍しくなかった。まあ、そのへんの盛り方も含めて、当時の空気だったのだろう。

テレビの世界でも扱いは手厚い。ナショナルジオグラフィックによるドキュメンタリー番組は、日本語吹き替え版が繰り返し放送されてきた。深夜のオカルト特番やバラエティのミステリーコーナーでも、定番の題材として扱われ続けている。

近年では動画配信サービスでも、ツタンカーメンの呪いをテーマにしたドキュメンタリー作品が視聴できる。漫画やアニメの世界でも、少年探偵ものやアクション作品の中でこの伝説がモチーフとして取り入れられる例は数多い。

世代を超えて、「古代エジプトの呪い」という記号そのものが、日本の大衆文化の中にしっかりと根付いている。そう考えていいはずだ。

令和のネット民は、この話をどう遊んでいるか

インターネットとSNSが発達した現代においても、ツタンカーメンの呪いは定期的に話題として再燃し続けている。YouTubeの都市伝説系チャンネルや考察系動画を覗けば、それがよく分かる。

「古代エジプトの呪いは本当に存在したのか」「墓を開けた人々の命を奪ったものとは何か」。この手のタイトルの動画が繰り返し投稿されており、いずれも再生数を稼ぐ鉄板ネタとして扱われている様子がうかがえる。

面白いのはコメント欄だ。「カビ説が一番現実的で怖い、目に見えない敵というのがリアル」という理系寄りの意見が並ぶ。その隣には「統計的には呪いなんて存在しないとわかっていても、なぜかロマンを感じてしまう」という感情重視の意見が混ざる。

まとめサイトや掲示板文化の中でも、この話題はたびたび取り上げられてきた。「結局カーナヴォン卿以外はほとんど長生きしてるし、都市伝説のいい見本だよな」という冷静な指摘も寄せられる。

一方で、単純な否定では割り切れない魅力を感じ取る書き込みも根強く見られる。「でも当時世界中の新聞が一斉に呪いだと騒いだのには、何か理由があったんじゃないか」。あるいは「コナン・ドイルほどの知性派がわざわざ発言したのは無視できない」。

近年の反応はもっと軽やかだ。放射性物質説や真菌説は、科学系のまとめメディアやSNSでも紹介されている。そのたびに「古代エジプト人が罠を仕掛けていたなんてロマンがありすぎる」という声が上がる。

「これもう呪いじゃなくてブービートラップじゃん」という書き込みまで出てくる。オカルトと科学の境界線そのものを楽しむような反応が、目に見えて増えてきた。

総じてネット上の論調はこうだ。呪いという言葉自体はメディアが作り上げた誇張である、とみんな理解している。そのうえで、誇張が生まれた背景にある偶然の重なりや古代文明への畏怖そのものを、エンターテインメントとして味わい尽くす。

ある種の成熟した楽しみ方へとシフトしているように見受けられる。100年前の新聞が生み出した扇情的な物語は、姿を変えながらも、令和の時代のスクリーンの中でなお生き続けているのである。

こうして辿ってきたように、この物語の発端は、ひとりの資産家の不運な感染症死だった。そこへ扇情的な新聞報道と著名人の発言、そして人々の古代文明への根源的な畏怖が幾重にも折り重なった。生まれたのが、20世紀最大級の都市伝説のひとつである。

統計的に見れば、呪いの実在を裏付ける証拠はほとんど存在しない。それでもなお、カビや放射線といった「もうひとつの真実」が発見されるたびに、この物語は新たな装いをまとって蘇り続けてきた。

真実と虚構の境界が曖昧なまま語り継がれるからこそ、なのだろう。黄金の柩に眠るあの少年王は、発見から一世紀を経た今もなお、私たちの想像力を強く捉えて離さない。

タイトルとURLをコピーしました