イスタンブールの丘の上に、トプカプ宮殿という建物がある。オスマン帝国のスルタンが四百年住んだ場所だ。帝国が消えて共和国になり、宮殿は博物館に改装されることになった。地味な話に見えるが、ここからが本番だ。その改装作業の最中、1929年の秋に、誰も見向きもしなかった書類の束の中から、一枚のガゼルの皮が出てきた。
そこには世界地図が描かれていた。日付は1513年。ヨーロッパ人が新大陸に到達してから、たった21年後の地図だ。
そしてその地図の下の方に、あるはずのない大陸が描かれている――かもしれない。
宮殿の物置から、ガゼルの皮が出てきた
まず、発見の場面から丁寧に見ていこう。ここを飛ばして「南極が描かれてた!」から話を始める人が多すぎるんだが、実はこの発見の経緯自体がめちゃくちゃ面白い。
1923年にトルコ共和国が成立して、スルタン制は消えた。トプカプ宮殿は1924年に博物館になる。膨大な蔵書と文書が眠っていたが、当時のトルコには、それを整理する金も人手もなかった。そこに関わってきたのがドイツ人の神学者、グスタフ・アドルフ・ダイスマンだ。この人は本来、新約聖書のギリシャ語研究で名を上げた学者で、地図の専門家でも何でもない。
だがイスタンブールの写本群の価値に気づき、ロックフェラー財団から保存事業の資金を引っ張ってきた。
博物館の館長はハリル・エドヘム・エルデム。オスマン考古学界の名門の出で、彼はダイスマンに対して、イスラム系以外のコレクションへの前例のないアクセスを許可した。ここが決定的だった。正直、ここで前のめりになるところだ。ダイスマンは、征服王メフメト2世が地理学に強い関心を持っていたことを知っていた。
だから館長に頼んだんだ。「見落とされている地図があるはずだ。探してくれないか」と。
ハリル・エドヘムが宮殿の奥から引っ張り出してきたのが、放置されたままの資料の束だった。その中に、見慣れない羊皮紙の地図が一枚。それが、いま我々が「ピリ・レイスの地図」と呼んでいるものだ。
正体を見抜いたのは東洋学者のパウル・カーレだった。彼は書き込みを読み、そこに「コロンボの地図」への言及があることに気づく。カーレは1931年、ライデンで開かれた東洋学者会議でこの発見を発表した。世界中の新聞が飛びついた。ちなみに、これは当時の新聞にとって一面級のネタだ。
トルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクみずからが、地図の出版と研究を後押しした。滅びたばかりの帝国が、失われた偉大さの証拠を手に入れた瞬間でもあったわけだ。
現物は今もトプカプ宮殿博物館図書館にある。レヴァン・キョシュク・コレクションの整理番号1633。ガゼルの皮に八色で描かれ、縦87センチ、上辺の幅63センチ、下辺の幅41センチ。上と下で幅が違うのは、破れて欠けているからだ。元の地図は縦140センチ、横165センチほどあったと推定されていて、現存するのはおよそ三分の一。
インド洋を描いていたはずの右半分は、まるごと消えている。光に弱いので常設展示はされていない。研究者もふつうはデジタル画像で見る。
海賊の甥として生まれ、カイロで首を斬られるまで
描いた男の話もしておかないとフェアじゃない。
ムヒッディン・ピーリー、通称ピーリー・レイース。「レイース」は船長・提督を意味する称号だ。生年は1465年から1470年のあいだ、生まれはガリポリ。当時のオスマン海軍の一大拠点である。
彼のキャリアを決定づけたのは叔父のケマル・レイースだった。この叔父、要するに私掠船の親玉である。地中海でスペイン船を襲い、レコンキスタで追い詰められたグラナダのイスラム勢力に加勢した男だ。後にオスマン正規海軍に取り込まれた。ピーリーは1481年ごろから叔父の船に乗り、自身も船長になった。
1499年のゾンキオ沖海戦では、オスマン側270隻のうちの一隻を指揮している。叔父ケマルは1510年か1511年、サモス島の近くで船もろとも沈んで死んだ。
叔父を失ったピーリーはガリポリに引っ込み、そこで机に向かう。彼が集めた海図、聞き取った船乗りの証言、自分の航海記録。それを一枚にまとめる作業を始めた。完成したのが1513年の春である。
彼はこの地図をすぐに献上したわけじゃない。1517年、セリム1世がエジプトを征服してカイロに入ったとき、そこで献上したとされる。スルタンがどう反応したかの記録はほとんど残っていない。オスマン帝国はこの時期、大西洋への進出にさほど興味を示さなかった。ピーリーの野心――帝国を大航海時代のプレイヤーにするという野心――は、宮廷にはあまり刺さらなかったらしい。
その後の人生も濃い。彼は『キターブ・バフリエ』、つまり『航海の書』という地中海の水路誌を書いた。1521年に初版、1526年に大宰相パルガル・イブラヒム・パシャのために増補版。これが後世えげつない人気を博して、写本が40種類以上、収録された海図は総計5700枚を超える。実のところ、専門家の世界ではこっちの方が彼の代表作だ。
1528年には二枚目の世界地図も描いた。こちらは北西の隅しか残っていないが、1513年版より格段に正確で、しかも「わからない場所は空白のまま」にしてある。想像で埋めるのをやめたわけだ。この事実は、後の南極論争でけっこう効いてくる。
晩年は悲惨だった。1547年、80歳前後でインド洋艦隊の総司令官に任命される。1548年2月26日にアデンを攻略。1549年1月にはポルトガル艦隊を撃退。1552年4月、スレイマン大帝からホルムズ島の攻略を命じられ、ガレー船25隻と兵850人で出撃した。
マスカットを一か月の包囲の末に落としたが、ホルムズでは城壁を破りかけたところで火薬が尽きる。バスラからの補給が来なかったのだ。1552年10月に包囲を解き、略奪品を積んで撤退した。
これが命取りになった。ケシュム島で奪った金をめぐる収賄疑惑が持ち上がり、「賄賂を受け取って包囲を解いた」という罪状を着せられる。ムスリムの土地を荒らしたことも批判された。1553年の暮れ、カイロで斬首。享年およそ83歳から88歳。
歴史家の多くは、この罪状の正当性を疑っている。
四百年後、彼が若い日に描いた一枚が、宇宙人だのアトランティスだのの話に引きずり込まれることになるとは、本人も思っていなかっただろう。
「私はコロンボの地図を手に入れた」――地図が自分で喋る
ここがこの地図の異常なところなんだが、ピーリー・レイースは地図の余白に、自分がどうやってこれを作ったかを書き残している。しかも、めちゃくちゃ具体的に。
書き込みは全部で30個。29がオスマン・トルコ語、1つがアラビア語の奥書だ。地名は117個ある。奥書の筆跡は、専門の書家ではなくピーリー本人のものだろうと見られている。
一番有名なのが、出典を列挙した凡例だ。彼はこう書いている。約20枚の海図と世界図がある。そのうち8枚は「ジャフェリエ」と呼ばれるもの。これは学者の間でアラビア語を経由したプトレマイオスの『ゲオグラフィア』の系統だと解釈されている。
加えてインド・シナ海域を描いたアラビア語の地図が1枚。ポルトガル人が新しく描いた地図が4枚。そして、西方の地域についてはコロンボが描いた地図が1枚あった。これらを突き合わせ、比較して一枚にまとめた、と。合計を数える流儀によって「33枚」とも「34枚」とも言われる。
つまりこの地図は、ピーリー・レイースが自分の目で見た世界の記録ではない。彼自身が「これは編集物です」と明言している。この一点が、後の議論のすべての出発点になる。オーパーツ派も懐疑派も、ここまでは合意しているんだ。争っているのは「じゃあその元ネタは何だったのか」の一点である。
コロンブスに関する凡例はもっと長い。ピーリーは、ジェノヴァの「異教徒」コロンボという男が西方の海に土地があると書かれた本を手に入れたと書いている。続けて、その男がジェノヴァの有力者に断られてスペインに行き、ようやく船を得た――という経緯も書いている。年号はヒジュラ暦896年、西暦でいえば1490年から91年ごろ。現地の人々がガラス玉や輪と金を交換してくれた、という交易の描写まである。
そしてダメ押しがこれだ。叔父ケマル・レイースが捕らえたスペイン人の奴隷が、自分はコロンブスの航海に三度同行したと語った、と書いてある。
伝聞の伝聞だ。史料としては危なっかしい。だが、この地図に描かれたカリブ海の形が、その主張を裏書きしてしまっている。
キューバがアジアにくっついている、という決定的な指紋
ピーリー・レイースの地図では、キューバが島として描かれていない。中米の陸塊と一体化して、大陸の一部になっている。
これは間違いだ。だが、ものすごく意味のある間違いなんだ。
コロンブスは死ぬまで、自分が到達したのはアジアだと信じ込もうとしていた。1494年、彼はキューバ沿岸に船を停め、公証人を立ち会わせて、乗組員全員に宣誓させている。「キューバはアジア大陸の一部である」と。これに異を唱えた者には罰金1万マラベディーと、舌を切り落とす刑を科す、という条件つきだ。正気じゃない。
だがそれくらい、彼はこの解釈にしがみついていた。
その狂った確信が、そのままピーリー・レイースの地図に写っている。イスパニョーラ島は南北に細長く縦に描かれている。これは当時のヨーロッパ人が描いた「チパング」、つまりマルコ・ポーロの日本の描き方とそっくりだ。コロンブスは航海日誌に、イスパニョーラのことを現地人が「シバオ」と呼ぶチパングだと書いている。しかも、イスパニョーラ西岸のゴナーヴ湾という特徴的な入り江が地図に無い。
コロンブスは島の西岸を探検していないからだ。
とどめが地名である。南岸のある区間に「オルノファイ」という地名が書かれている。この地名はコロンブスの記録にしか出てこない。他のどんな地図にも載っていない。
地図学者のグレゴリー・マッキントッシュは、この一帯の描写を「これらの島々に関する、最も初期の、最も原始的で、最も未熟な地図表現」だと評価した。彼はこの部分の元図が1495年から96年ごろ、コロンブス本人かその監督下で作られたものだろうと結論している。
つまりピーリー・レイースは嘘をついていなかった。彼は本当に、失われたコロンブスの海図の写しを持っていたのだ。これだけでも歴史的には大事件である。現存するコロンブス自身の海図は一枚も無い。この地図は、その亡霊を捕まえた唯一の網なんだ。
そしてこの「地図が言っていることは本当だった」という実績が、次の主張の説得力を、必要以上に押し上げてしまうことになる。
地図の下の端で、大陸が右に曲がっている
問題の部分に行こう。
南アメリカ東岸を南に下っていくと、ある地点で海岸線が突然、東へ向かって曲がる。そのまま地図の下辺に沿って、右へ、右へと伸びていく。そこには陸地があり、山があり、川があり、動物が描かれている。
この「東に折れ曲がった陸地」を、南極大陸だと言い出した人間がいた。
素直に見れば奇妙な形だ。南米の先端はマゼラン海峡でぷつっと終わり、その南にはドレーク海峡という広い海があって、その先にようやく南極半島がある。ところがピーリー・レイースの地図では、南米と南の陸地が地続きになっていて、海峡が無い。
オーパーツ派の読みはこうだ。南米と南極はかつて陸続きに近かった。あるいは古代の測量者は、氷に覆われる前の南極の海岸線を実測していた。地図の下辺に沿って伸びるあの陸地は、南極大陸のクイーン・モード・ランド、プリンセス・マーサ海岸である――と。
懐疑派の読みはもっと身も蓋もない。羊皮紙が足りなかったんだよ、と。
南極説を最初に言い出したのは、地図学者ではなかった
ここは正確にやろう。この話で一番大事なパートだ。
1929年の発見から1950年代前半まで、この地図に南極が描かれているなどと言った人間は、一人もいない。カーレも、トルコの研究者も、欧米の地図史家も、誰も言っていない。彼らが騒いだのは、あくまで「コロンブスの失われた海図の写しが含まれている」という点だった。
南極説をひねり出したのは、アーリントン・H・マラリーという人物である。土木技師で、アマチュア考古学者。コロンブス以前に大西洋を横断した文明があったと信じるタイプの人だった。1950年代半ば、彼は地図の座標グリッドを引き直すという作業を始める。そして、そうやって再配置した結果が近代の地図に匹敵する精度を示した、と主張した。
彼のグリッド操作の中で、地図の下辺に沿って伸びる陸地は「南極」に読み替えられた。強引と言えば強引な話だ。1956年には、この主張がジョージタウン大学のラジオ番組で取り上げられた。南極での観測経験を持つイエズス会の地震学者ダニエル・リネハン神父らが同席する場で、この件は議論された。学術的な査読を経た主張ではない。
だが、いかにも権威のありそうな舞台に乗ったことで、話は転がり始めた。
そして、マラリーの主張を拾い上げ、一冊の本に仕立て上げて世界に売った男が現れる。
ハプグッドという歴史教師の、二十年におよぶ執念
チャールズ・ハッチンズ・ハプグッド。1904年5月17日生まれ。1956年から1966年までニューハンプシャー州のキーン州立大学で教えていた。専門は世界史、アメリカ史、人類学、経済学、科学史。要するに、地質学者でも地図学者でもない。
彼のキャリアの転換点は、スプリングフィールド大学で教えていたときに学生から受けた質問だった。「失われた大陸ムーって、あるんですか」。ハプグッドは学生たちとアトランティス調査を始め、そこから地球規模の激変説にのめり込んでいく。
1958年、彼は『地球の移動する地殻』を出す。この本の主張は、大陸そのものが動くのではなく、地殻全体が核の上をずるっと滑る、というものだ。プレートテクトニクスを否定し、代わりに「地殻移動」を置いた。極地に氷が偏って溜まると重心が狂い、あるとき地殻がまるごと滑って、極地が温帯に、温帯が極地に移る。これがマンモスが凍りついた理由であり、氷河期の正体である――と。
この本には序文が付いている。書いたのはアルバート・アインシュタインだ。この事実がとにかく強い。ハプグッド説を語るとき、ほぼ必ず「アインシュタインが序文を書いた」が枕詞になる。ただし正確に言えば、アインシュタインは「この着想は独創的で、もし正しければ地表の歴史に関わるすべてに重要な意味を持つ」といった趣旨を書いた。
だが、検証を済ませて保証したわけではない。それでも、二十世紀最大の物理学者の名前が表紙の内側に載っている本は、それだけで武器になる。
1966年、ハプグッドは『古代の海の王の地図』を出す。副題は「氷河期の高度な文明の証拠」。ここで彼は、ピーリー・レイースの地図や1531年のオロンテウス・フィナエウス図を俎上に載せた。地味に壮大な作業だ。メルカトル、ブアシェ、ハジ・アフメド図なども次々に載せた。
そして、「これらはすべて、はるかに古い、はるかに正確な原図の劣化コピーである」と論じた。
そして原図を作ったのは誰かというと、紀元前4000年よりも前に地球全体を測量していた、名前も残っていない航海文明だという。その知識はミノア人やフェニキア人を経てアレクサンドリア図書館に集積された。図書館が焼けた後も断片は写本として生き延び、コンスタンティノープル経由でピーリー・レイースの机の上に届いた――という壮大な伝言ゲームの図式だ。
自著の中でハプグッドが最大の切り札として使ったのが、次に紹介する二通の手紙である。
一通目、オールマイヤー中佐の返信
ハプグッドは学生を動員して地図を分析させたあと、その結果を持ってアメリカ空軍に問い合わせた。マサチューセッツ州ウェストオーバー空軍基地の第8偵察技術飛行隊。空中写真から地図を起こすのが本職の部隊である。
1960年7月6日付で返ってきた返信の署名は、ハロルド・Z・オールマイヤー中佐。要旨はこうだ。
地図の下部がクイーン・モード・ランドのプリンセス・マーサ海岸とパーマー半島を描いているという主張は、妥当であると考えられる。その部分に示された地理的細部は、1949年にスウェーデン・イギリス・ノルウェー合同南極観測隊が実施した氷冠上部からの地震波探査の結果と比較された。両者は驚くほどよく一致している。このことは、その海岸線が氷冠に覆われる前に測量されていたことを示唆する。
この地域の氷は現在およそ1マイルの厚さがある。1513年時点の地理学的知識の水準と、この地図上のデータをどう整合させればよいのか、我々には見当がつかない。
これはとんでもない一撃だった。これはアマチュア研究家の思いつきではない。現役の空軍将校が公式の便箋で、「この地図は氷の下の地形と一致する」「1513年の知識では説明がつかない」と書いてしまったのだ。以後六十年以上、南極説を語るあらゆる本、番組、動画が、この一通を引用し続けている。オカルト界隈におけるこの手紙の重みは、聖遺物に近い。
ただし冷静に読むと、この文面は「妥当と思われる」「示唆する」「見当がつかない」という言葉で構成されている。断定は一つもない。そして決定的なのは、オールマイヤーが比較対象にした1949年の探査が、南極大陸のごく一部を横切る一本の測線に過ぎなかったことだ。この点は後で潰す。
二通目、バローズ大尉と「疑いの余地なく」
1961年8月14日付で、同じ第8偵察技術飛行隊から二通目が届く。署名はロレンツォ・W・バローズ大尉、地図製作課長。今度はオロンテウス・フィナエウス図が主題だった。
バローズはまず、オールマイヤーの見解を追認する。ピーリー・レイースの地図の南部にはクイーン・モード・ランドのプリンセス・マーサ海岸が真に表現されていると認められる、と。そのうえで、1531年のオロンテウス・フィナエウス図についても触れた。そこに示された地理的特徴の正確さは、この地図もまた南極の正確な原図から編集されたものであることを疑いの余地なく示唆している、と書いた。
さらに、この地図が採用しているコルディフォーム、つまり心臓形の図法は高度な数学と球面三角法を要求するものである。当時の水準では説明が難しいという趣旨のことも述べている。
これでハプグッドの本は完成した。空軍が二度にわたって「これは説明がつかない」と言った、という体裁ができあがったからだ。
だがここで一つ、絶対に押さえておくべき事実がある。この分析は、空軍の公式プロジェクトではない。ハプグッド自身の記述によれば、これは基地の地図製作課の面々が、勤務時間外に、趣味として行った検討だった。つまり「アメリカ空軍が認めた」わけではない。「アメリカ空軍で働いている地図の専門家たちが、休みの日に見てくれて、面白いねと言った」が実態に近い。
この距離感の差は、後の議論では跡形もなく消し飛ぶことになる。
デニケンが宇宙船を持ち込んだ
1968年、スイスのホテル経営者エーリッヒ・フォン・デニケンが『未来の記憶』を出す。世界で数千万部を売った、古代宇宙飛行士説の教典だ。
デニケンはハプグッドの南極説を、そっくりそのまま拝借した。そのうえで、彼らしい飛躍を一発かました。ピーリー・レイースの地図の歪み方は、球体である地球を非常に高い高度の一点から見下ろしたときに生じる歪みに似ている。彼はそう言い出したのだ。彼の見立てでは、地図の中心はカイロ上空あたりになる。
だから元図は、地上ではなく、上空から撮られた。撮ったのは宇宙船である。
この論法には、地図学的な検証はほとんど無い。だが、めちゃくちゃ絵になる。オスマンの提督が持っていた古い羊皮紙、そこに写り込んだ宇宙からの視点。この一枚の絵が、以後半世紀にわたってテレビ番組と雑誌のグラビアを埋め続けた。
デニケン以外にも、UFO研究家のドナルド・キーホーなどが同じ話を繰り返した。そして1995年、グレアム・ハンコックが『神々の指紋』を書く。この本は世界的な大ベストセラーになり、その序盤の目玉として、ピーリー・レイースの地図とオールマイヤーの手紙が置かれた。ハンコックは南極を「失われた文明の本拠地そのもの」に格上げした。
地殻移動によって温暖な土地が極地に運ばれ、そこにあった文明が氷の下に埋まった、という物語である。アトランティスと南極が、ここで正式に接続された。
日本では1970年代の超常現象ブームの中で紹介され、「南極大陸が描かれたオーパーツ」として定着した。教科書に載る話ではないが、オカルト入門書には必ず出てくる。オーパーツ四天王みたいな扱いを受けている時期もあった。
地図学者たちの、静かで容赦ない解体作業
さて、反撃側だ。
地図史研究者のグレゴリー・C・マッキントッシュは、2000年に一冊の研究書を出した。書名は『1513年のピリ・レイス図』、まるごとこの地図に費やした本である。オーパーツを叩き潰すためではなく、地図そのものを地図として読むための本だ。だが結果として、南極説はここでほぼ息の根を止められている。
マッキントッシュの指摘はいくつもあるが、核心は三つだ。
第一に、精度の神話。「ピリ・レイス図は、しばしば言われるような16世紀で最も正確な地図ではない。その後の87年間に作られた世界地図の中には、精度でこれをはるかに凌ぐものが、それこそ山ほどある」。これがマッキントッシュの評価である。この地図の価値は精度ではなく、コロンブスの原図を保存している点にある。
実際、南米の輪郭は当時としては良い出来だ。だが、カリブ海は原始的だし、キューバは大陸にくっついているし、伝説の島アンティリアが実在するかのように描かれている。
第二に、南の陸地の正体。「ピリの南の陸地と南極大陸のあいだには、ほとんど、あるいはまったく類似がない。共通しているのは、どちらも大西洋の南にあるという点だけだ」。マッキントッシュは、あれが16世紀に広く信じられていた「テラ・アウストラリス」、つまり未知の南方大陸の図像だと結論した。そこにはポルトガル人が南米南部で得た断片的な報告も混ざっている、と結論した。
第三に、ハプグッドの手つき。マッキントッシュは、ハプグッドが地図に書かれた地名を無視していた過程を具体的に示した。ハプグッドはまた、海岸線を切り貼りして現代の地図に合うよう並べ替えてもいた。ハプグッドは地図を四つの領域に分け、それぞれに縮尺も向きも異なる別々のグリッドを当てはめている。あるグリッドは約79度回転させられ、別のグリッドは反時計回りに約40度回された。
その改造の結果として現れた形を、彼は「南極」と呼んだのだ。南極を見つけたのではない。南極が出てくるまで曲げたのである。
三十の凡例が、南極説を静かに殺す
そして、これが個人的には一番好きな反証なんだが――地図に書いてある文字を読めばいい、という話がある。
問題の南の陸地の上には、ピーリー・レイース本人による書き込みがある。そこには何と書いてあるか。
「この地は荒れ地である。あらゆるものが荒廃している。大きな蛇がいると言われる。このためポルトガルの異教徒たちはこの岸に上陸しなかった」。そして、この一帯は「非常に暑い」とも書かれている。
暑いのだ。
南極ではない。灼熱の砂漠と大蛇の土地である。別の書き込みには「最近発見されたが、まだ完全には知られていない南の地」という趣旨の記述もある。「まだよく知らない」と本人が書いている場所を、古代の精密測量図の写しだと主張するのは、さすがに無理がある。
地名の話も効く。地図上の117の地名は、そのほとんどが中世末期のポルトラーノ海図の系譜にたどれるもので、読める。そして南に向かって地名をたどっていくと、最も南に位置する特定可能な地点は、アルゼンチンのプエルト・サン・フリアンあたりになる。マゼランが越冬した、あの港だ。そこから先は、当時の船乗りにとっては未知の海域であり、地図の上では想像と伝統の領域になる。
つまりこの地図の南の端に描かれているのは、南米の南部海岸と、それに継ぎ足された「あるはずだと信じられていた南方大陸」だ。羊皮紙の下辺に突き当たった海岸線が、行き場を失って東に折れ曲がっているようにも見える。これは当時の地図では珍しい処理ではない。
氷の下の地形は、「氷のない南極」ではない
もう一段、科学の側からの反証がある。これが決定打だ。
地質学者のポール・ハインリックが指摘したのは、ハプグッドとオールマイヤーが犯した根本的な取り違えである。二人は「氷の下の地形図」と「氷が無かった時代の南極の地形」を同じものとして扱った。だが、これは同じではない。
南極の氷床は、体積にしておよそ2900万立方キロメートル。この途方もない重さが、下の大陸をぐいぐい押し下げている。場所によって900メートル以上、地殻が沈み込んでいる。だから氷を取り除いた瞬間の地形図と、氷が無い状態で数千年たった後の地形は、まったく別物になる。氷が消えれば大陸は跳ね上がる。
これを後氷期のアイソスタシー的隆起という。氷床の重みで海面下に沈んでいる盆地の多くは、氷が無ければ陸地だ。ハプグッドが「一致した」と喜んだ海岸線は、そもそも比較対象として成立していない。
さらに、オールマイヤーが根拠にした1949年のスウェーデン・イギリス・ノルウェー合同観測隊の探査がある。この探査は大陸の1パーセントにも満たない範囲しかカバーしていない。地図に描かれた領域の実に99.9パーセントについて、比較すべきデータが存在しなかった。その後、南極の氷床下地形は衛星と航空機による大規模な調査で徹底的に測られた。
だが、ピーリー・レイースの地図の南部とも、氷を除去した想定海岸線とも、有意な類似は見つかっていない。
そして年代の問題。ハプグッドは南極が紀元前17000年ごろまで氷が無く、紀元前4000年ごろまで部分的に氷が無かったと考えていた。実際は、氷床コアと海底堆積物の研究によれば、南極大陸が完全に氷から解放されていたのは、少なくとも一千万年以上前。研究によっては三千四百万年前まで遡る。人類どころか、ホモ属が現れるはるか以前だ。
氷の無い南極を測量できた人間は、存在しない。
最後に、ハプグッドの論法そのものにある循環構造も指摘されている。彼は、地図の誤差を「原図が正確だったはず」という前提で補正して除去した。そうやって補正した地図が正確であることを、正確な原図が存在した証拠として提示した。反証のしようがない形になっている。
実際の南極大陸が見つかったのは、いつなのか
背景として、ここも押さえておく価値がある。
そもそも「南に大陸があるはずだ」という発想自体は、ものすごく古い。ギリシャの哲学者たちが、北の「アルクトス」の反対側に「アンタルクトス」があるはずだと考えた。理由は美学と力学だ。北に大きな陸があるなら、南にも釣り合う陸が無いと、地球は傾いてしまうだろう、と。この理屈は真面目に語られ続けた。
あのメルカトルですら、南極側に陸塊を置く理由として「地球がひっくり返らないため」という趣旨のことを書いている。だから16世紀の地図に南方大陸が描かれていること自体は、まったく異常ではない。むしろ描いていない方が珍しい。
実際に人類が南極圏に踏み込むのは、はるか後だ。ジェームズ・クックが1773年1月17日に史上初めて南極圏を横断し、翌年には南緯71度10分まで到達したが、陸は見なかった。ただし氷山の中に岩の破片が混じっているのを観察し、南に陸があるらしいと推測している。
陸地そのものの初認は1820年に集中する。1月27日から28日、ロシアのファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンがヴォストーク号とミールヌイ号で氷の壁を目撃した。本人は陸か氷山か確信が持てなかったが、現在の分析では彼が最初とされる。その二日後の1月30日、イギリスのエドワード・ブランズフィールドがウィリアムズ号でトリニティ半島の「雪に覆われた高い山々」を見た。
11月にはアメリカのナサニエル・パーマーが到達している。
上陸となるともっと遅い。1821年2月7日にアメリカのアザラシ猟船長ジョン・デイヴィスがヒューズ湾に上陸したという記録があるが、確証は無い。議論の余地なく確実な初上陸は1895年1月24日、アデア岬。ヘンリク・ブルの捕鯨航海に同行した6人が上陸した。
つまり、ピーリー・レイースが地図を描いてから、人間が南極大陸を目にするまで307年、確実に足を踏み入れるまで382年ある。この時間差の異様さこそが、南極説の中毒性の正体だ。
掲示板とSNSと、オーパーツ界隈の温度差
ネット上のこの地図の扱いは、なかなか面白い層構造をしている。
まず、テレビ番組やまとめサイト経由の入り口。ここでは今も「1513年に南極が描かれた地図」という見出しがそのまま流通している。切り抜き動画やショート動画では、地図の画像に南極大陸の輪郭を重ねたアニメーションが定番だ。これがものすごく説得力を持って見える。ただしその重ね方は、たいていハプグッドの再構成図を経由したものか、あるいは単に見た目が合うように縮尺と角度を調整したものだ。
次に、懐疑派・地図史クラスタ。海外の考古学系フォーラムや懐疑論サイトでは、この話題はもう完全に「終わった案件」扱いになっている。定型の返しがある。まず「南の陸地の上に暑いと書いてある」、次に「ドレーク海峡が無い」という指摘が来る。次に「南極ならもっと南に描かれるはず」、そして「ハプグッドはグリッドを回転させている」という指摘も続く。
この四点セットで議論が終わる。
そのうえで、玄人筋がいちばん苛立っているのは、南極説そのものよりも、「南極説のせいで、この地図の本当にすごいところが誰にも知られない」という点だ。失われたコロンブスの海図の断片が写っている。オスマン帝国が大西洋の情報をリアルタイムに近い速度で入手していた証拠になる。イスラム世界、地中海、イベリア半島の地理知識が一枚の羊皮紙の上で合流している。
地図史的にはこれだけで一級の宝物なのに、話題はいつも「宇宙人」で終わる。地図学者たちの嘆きには、かなり切実なものがある。
一方、オーパーツ界隈の内部でも温度差はある。硬派な層は「ピーリー・レイースはもう厳しい、オロンテウス・フィナエウス図の方がまだ粘れる」という立場に移動している。逆に、南極そのものへの陰謀論的関心――地下基地だの氷の壁だの――と結びついて、まったく別の生態系に取り込まれていく流れもある。
日本語圏だと、オーパーツを一つずつ検証していく系のブログや動画が近年けっこう充実してきた。「これはオーパーツではない」と結論する記事が上位に来るようになった。ただコメント欄を見ると、「でもコロンブスの地図が写ってるって話の方が面白いじゃん」という反応がある。「暑いって書いてあるのは笑った」という反応もある。そこに「それでも何かあると思いたい」という反応も加わり、だいたい三分の一ずつで並んでいる。
この配分が、この題材の現在地をよく表している気がする。
なぜこの一枚だけが、六十年経っても死なないのか
オーパーツと呼ばれたものの多くは、時間とともに静かに消えていく。水晶ドクロは製作年代がほぼ確定した。バグダッド電池は用途の説がまとまってきた。だがピーリー・レイースの地図は、決定的な反証が何度も積み上げられているのに、いっこうに死なない。なぜか。
一つめの理由は、本物だからだ。偽造品ではない。1513年に実在の人物が実際に描いた、公的機関が保管する一級史料である。捏造を疑う必要がまったく無い。ここが他の多くのオーパーツと決定的に違う。
議論の土台が揺るがないから、議論が終わらない。
二つめ。地図が自分で喋ってしまうこと。ピーリー・レイースは「私は古い地図を集めて作った」と自分で書いた。この一文が、あらゆる想像の入り口になる。彼が挙げた出典のうち、コロンブスの地図は本当に実在した。
実在の裏付けが一つ取れてしまったせいで、「じゃあ他の元図はどこまで古いんだ」という問いが、無限に開いてしまう。
三つめ。「見える」ことの暴力性。理屈を百行書いても、地図の下辺の海岸線に南極の輪郭を重ねた画像一枚には勝てない。人間の脳は形を合わせるのが得意すぎる。しかもこの地図は破損していて、南部は特に傷んでいる。
輪郭が曖昧な図形に、我々は勝手に意味を読み込む。
四つめ。手紙という物証。空軍の便箋に書かれた「1513年の知識ではどう説明すればいいのか見当がつかない」という一文は、あまりにも強い。それが勤務時間外の趣味の検討だったという文脈は、引用されるたびに剥がれ落ちていく。権威の残骸だけが独り歩きする。
五つめ、そしてこれが本質だと思うんだが――我々は「歴史がまだ全部わかっているわけじゃない」という感覚を、心のどこかで手放したくないのだ。1929年に、宮殿の物置から本物の失われた地図が出てきた。それは実際に起きたことだ。あんなことがもう一度起きないと、どうして言えるのか。ピーリー・レイースの地図が売っているのは南極ではない。
「まだ出てきていないものがある」という希望である。
真面目な人たちが、真面目に手続きを踏んで、盛大に間違えた話
ここからは、上で並べた事実をもう一段掘り下げて、この百年の言い合いが結局のところ何をめぐる争いだったのかを整理しておきたい。
まず確認しておきたいのは、この論争が「オカルト対科学」という単純な図式ではなかったという点だ。マラリーは土木技師で、コロンブス以前の大西洋横断に本気で取り組んでいた人物だった。ハプグッドは大学で科学史を教えていた教員で、学生を実際に手を動かす調査に参加させた。地道な話だ。空軍に問い合わせの手紙を書き、返信を得た。
手続きとしては、けっこうまともなことをやっている。オールマイヤーもバローズも実在の軍人で、実在の便箋に、実在の署名をした。誰も嘘をついていない。にもかかわらず、結論は間違っていた。
これがこの事例の一番怖いところだ。詐欺でも捏造でもなく、真面目な人たちが真面目に手続きを踏んで、それでも壮大に間違えた。どこで間違えたのかを一つずつ辿ると、現代の我々が日常的にやらかしていることと同じ形が出てくる。
最大の分岐点は、比較対象の設定ミスだ。オールマイヤーは1949年の地震波探査断面と地図を見比べて「驚くほど一致する」と書いた。だが彼が持っていたのは、南極大陸を横切るごく細い一本の測線データである。地図の南部が表現していると主張された範囲の、99.9パーセント以上について、比較すべきデータが存在しなかった。
データが無い領域について「一致した」と感じたなら、それは一致ではなく、人間の側のパターン認識が空白を埋めただけだ。しかも、氷床下の岩盤地形と「氷が無かった場合の地形」は、氷の重みによる沈降を考えれば別物である。900メートル押し下げられた土地の輪郭を、氷解後の海岸線として扱ってはいけない。この二重の取り違えの上に、六十年分の物語が建っている。
次に、ハプグッドのグリッド操作。この部分は、彼の本を実際に開いてみるとよくわかる。彼は地図をいくつかの区画に分け、それぞれに別々の投影格子を当てはめた。ある区画では格子を79度近く回し、別の区画では反時計回りに40度近く回している。回転させた理由は「そうすると現代の地図に合うから」だ。
これは分析ではなく、目標に向けた成形である。しかも彼はこの成形の正当性を、「元になった古代図が正確だったから、正確に戻るはずだ」という前提で説明した。証明したいことを前提に置いて、結論を導いている。この形の議論は、いくらデータを足しても崩れない。崩れないことは強さではなく、検証可能性が無いということだ。
もう一つ、あまり語られない論点を出しておきたい。ピーリー・レイースは1528年に、二枚目の世界地図を描いている。北西の隅しか残っていないが、これが1513年版より明らかに正確なのだ。で、ここが効いてくる。1528年版は「わからない場所を空白のままにしている」んだ。
想像上の南方大陸を描いていない。もし彼が古代の超精密な原図を所有していたのなら、十五年後に描いた地図でそれを捨てる理由が無い。むしろ精度を上げた新しい地図で、南方大陸を消したのだ。これは「1513年版の南の陸地は、彼にとっても確度の低い推測だった」ということの、本人による回答に近い。南極説を語る本や動画で、この1528年版に触れているものは、ほとんど見たことがない。
テラ・アウストラリスという概念の歴史も、もっと知られていい。北半球に陸が偏っていると地球が傾く、だから南に釣り合う陸があるはずだ、という発想は古代ギリシャに遡る。この発想はプトレマイオスを経て、ルネサンス期の地図に標準装備として引き継がれた。メルカトルもオルテリウスも、南極域に巨大な陸塊を描いている。オロンテウス・フィナエウスの1531年図が「南極っぽい」形をしているのも、同じ伝統の産物だ。
バローズ大尉が「疑いの余地なく」と書いたコルディフォーム図法にしても、当時のヨーロッパの地図製作者が実際に使っていた技法である。失われた文明を持ち出す必要は無い。要するに、16世紀の地図に南の大陸が載っていることは、謎ではなく約束事だった。約束事を謎だと思うと、そこから先はどこまでも歩いて行ける。
では、この地図には何の価値も無いのか。とんでもない。むしろ逆だ。
現存するコロンブス自筆の海図は、一枚も無い。彼が何をどう見ていたのかを直接示す図像は失われた。その中で、ピーリー・レイースの地図の北西部分だけが、その面影を留めている。キューバが大陸にくっついている異様な描写は、コロンブスが乗組員に舌を切ると脅してまで守らせた「キューバはアジアだ」という思い込みの化石だ。この一致は、とても偶然とは思えなかった。
イスパニョーラが縦に描かれているのは、彼がそこをマルコ・ポーロのチパングだと信じていたことの痕跡だ。ゴナーヴ湾が無いのは、彼が島の西側を見ていないからだ。オルノファイという地名は、彼の記録以外のどこにも存在しない。四つの独立した特徴が、すべて同じ方向を指している。この地図はコロンブスの頭の中を、一部そのまま保存している。
地図史の外側でも意味は大きい。1513年という年に、ガリポリの一人のオスマン人船長の机の上には、ポルトガル人の最新の海図が並べられていた。そこにはアラビア語のインド洋図と、プトレマイオス系の世界図も並べられていた。そこには同時に、スペイン人捕虜の証言と、コロンブスの海図の写しも並べられていた、という事実。これは当時の情報流通の速度と密度を示す、とんでもない証拠だ。
地中海は壁ではなく、情報の高速道路だった。ヨーロッパの大航海時代を「西洋が単独で世界を発見した物語」として語る癖に対する、静かで強力な反例でもある。
そして、この地図には可愛らしい部分もある。西の縁には、中世の世界図や動物誌から引き継がれた怪物たちが描かれている。頭が胸にあるブレミュアエ、犬の頭を持つキュノケファルス、一角のモノケロス、ヤレ、ボナコン。だがピーリー・レイースは、そこに一言添えた。これらは無害な魂である、と。
中世の世界図では、外洋は恐ろしい獣で満ちていて、だから渡ってはならない場所だった。彼はその伝統を、たった一行でひっくり返している。海の向こうは怖くない。行っていい。1513年のガリポリで、彼は明らかにそちら側に立っていた。
皮肉なことに、彼の地図から後世の人々が読み取ったのは、まさに「外洋の向こうに未知の何かがいる」という、彼が否定した感覚の方だった。
最後に、この論争が我々に残したものを考えたい。
ピーリー・レイースの地図をめぐる百年は、一枚の史料が、その史料自身の内容とは無関係な物語を背負わされていく過程の、完璧な記録になっている。地図には「暑い」と書いてある。「大蛇がいる」と書いてある。「まだよく知られていない」と書いてある。それを読める人間は世界中にいたし、翻訳も早い段階で出ていた。
にもかかわらず、六十年にわたって、この地図は氷の大陸を描いたものとして語られ続けた。書いてあることを読むより、輪郭を眺めて何かを思いつく方が、人間には楽しいのだ。
だからといって、南極説に飛びついた人々を笑う気にはなれない。1929年に宮殿の隅から本物の地図が出てきて、そこに失われたコロンブスの海図が写り込んでいた。この時点で、現実の方が十分に物語だった。その現実を経験した世代が、「じゃあもっと古いものが写っていても不思議じゃない」と考えたのは、感情としてはまったく自然な流れだ。
彼らの誤りは想像したことではなく、想像を検証にかけないまま結論にしてしまったことだった。
いま、トプカプ宮殿博物館図書館の整理番号1633は、暗い収蔵庫の中にある。光に弱いので、めったに出てこない。ガゼルの皮に八色で描かれ、元の三分の一だけが残り、右半分――インド洋を描いていたはずの部分――は永遠に失われた。もしその右半分が残っていたら、我々はいま何を議論していただろう。そこにも南の陸地が続いていたのか。
オーストラリアらしきものがあったのか。それとも、ただの空白だったのか。
答えは無い。そして、答えが無いということが、この一枚をこれからも生かし続ける。氷の下の南極は描かれていない。それは確定した。だが、宮殿の物置から本物が出てくることがある、という事実の方は、まだ取り消されていないのだ。
