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🔥 石川五右衛門は実在したのか ― 釜茹での大泥棒、その正体をめぐる四百年の謎

三条河原の大釜

京都の三条河原に、巨大な鉄の釜が据えられた。中身は煮えたぎる油。いや、熱湯だったと伝える話もある。そこへ放り込まれたのが、天下の大泥棒とうたわれた石川五右衛門だったというから穏やかじゃない。

歌舞伎や講談でおなじみの顔で、今でも義賊として好かれている男だ。でも、本当にいたのか。後の世がこしらえた架空のヒーローだった線も、まだ捨てきれない。安土桃山の乱世にふっと姿を見せ、豊臣秀吉という絶対の権力者に牙をむいた盗賊なんだよな。

処刑の舞台になった三条河原は、鴨川にかかる三条大橋のそばにある。ここがその現場だ。この橋は天正17年、1589年に秀吉の命で架け替えられた。橋柱は63本すべてが石で、石柱の橋のはしりだったという。処刑のわずか5年前に生まれ変わった橋の近くで、あの釜が煮えていた。

罪人を見せしめにする場として、この河原は何度も使われた。翌年の文禄4年には、秀次事件が起きる。豊臣秀次の首がここにさらされ、一族も処刑された。血なまぐさい河原だった。

丹後の名家から転がり落ちた次男

幼名は五郎吉と伝わる。生まれは弘治4年、西暦でいえば1558年ごろだという。出自の話は入り乱れているけれど、いちばん有名なのは、丹後国、今の京都府北部にいた豪族、丹後石川氏から出たという説だ。

丹後石川氏は、守護大名の一色氏で家老を務めた名家だった。天正10年、1582年に当主の石川左衛門尉秀門が、細川藤孝、のちの幽斎の手で謀殺される。藤孝は秀吉の謀略を引き受けて動いたと伝わり、当主を失った居城の伊久知城も、そのまま落ちた。

この騒ぎのなかで、秀門の次男とされる五良右衛門が城を逃げ出した。後に盗賊の石川五右衛門を名乗ったのが、この男だという。父の死の裏に秀吉の策略があった。だから豊臣家を憎んだ。そういう筋書きだ。

名家が落ちぶれ、父は無残に殺され、息子は流れ流れて悪の道へ落ちていく。判官びいきの心にはたまらない悲劇の組み立てで、五右衛門人気の根っこはここにあると言いたくなる。伊久知城の近くには、五良右衛門の姉の子孫が代々続いたという話まで残る。

出自にはもう一つ、三好氏の家臣、石川明石の子だったという説がある。体が大きく、30人力の怪力で、16歳のときに主家の宝蔵を破った。番人3人を斬り、黄金造りの太刀を奪って逃げ、そのまま諸国をさまよいながら、盗みを重ねる暮らしに入ったという。こちらは豪傑の盗賊伝そのものだ。

伊賀で忍術を仕込まれた抜け忍

人気の忍者説もある。五郎吉は幼いころから非行を繰り返し、14、5歳で両親を亡くしたという。19歳のころの動きには諸説があって、伊賀へ渡って忍者の弟子になった筋もあれば、奉公先の男の妻と駆け落ちした筋もある。

忍者説の師匠は百地三太夫。百地丹波という名でも出てくる頭領だ。ところが五郎吉は、師匠の妻とできてしまった。

しかも妾まで殺して、伊賀から姿をくらましたという。ひどい話だ。弟子としては最悪の部類に入る。

忍びの技を持った抜け忍が、その腕を盗みに使い回し、京と大坂をまたにかける大盗賊団の頭へのし上がる。この設定は後の忍者物語や大衆芸能で何度も使われた。五右衛門といえば忍者の大泥棒、という今のイメージが、これで固まった。まさに決定打。

ただ、この師匠の足もとがどうにも怪しい。百地三太夫が初めて顔を出すのは、石川五右衛門を主役にした江戸の実録本、賊禁秘誠談のなかだったらしい。伊賀の喰代、今の三重県伊賀市にあった百地氏の伝承を借りて、そこへ五右衛門を組み込んだ形だという。

同時代の史料に、三太夫の名は出てこない。伊乱記のような軍記物にも、百地氏の系譜にも見えない。天正伊賀の乱で織田方と戦った百地丹波と同じ人物だとする根拠も、特に見当たらない。大正の立川文庫になると、三太夫は霧隠才蔵の師匠にまで仕立てられた。

狙うのは権力者の蔵だけ

盗みの的になったのは、主に寺社や公家、それに豊臣政権につながる権力者たちだったという。庶民からは奪わなかった、とも伝わる。ここが肝心なところだ。

当時の庶民にとって、豊臣政権は手放しで喜べる相手じゃなかった。検地や刀狩りと、締めつけが立て続けにやってくる。不満を抱えた人も少なくなかった。そんな空気のなかで、権力者の蔵から金銀を抜いていく五右衛門は、いつの間にか義賊として語られるようになった。

金の鯱を盗もうとした、という話もある。名古屋城だとも大坂城だとも伝わるが、これは別の盗賊の話が混ざったものらしい。大泥棒の名前には、よそのエピソードまで吸い寄せられていく。

秀吉の枕元で鳴いた香炉

山場は秀吉暗殺未遂の一件だ。狙ったのは天下人の命だ。依頼主は、豊臣秀次の家臣だった木村常陸介。五右衛門は夜の闇にまぎれて、伏見城の秀吉の寝所へ忍び込んだ。聚楽第だったと伝える話もある。

枕元には千鳥の香炉が置かれていた。これが侵入者の気配を察してひとりでに鳴き出し、その音で五右衛門はあっさり捕まったという。いかにも講談好みの、出来すぎた展開だよな。捕まった配下の一人が、悪事も部下も洗いざらい白状した、という筋書きまで付いてくる。

依頼主とされる木村常陸介は、五右衛門の処刑の翌年、秀次事件に巻き込まれた。秀次をかばったことで連座の罪に問われ、文禄4年7月15日、摂津国茨木の大門寺で自害を命じられた。大門寺には、血染めの経帷子が今も伝わる。

捕まえた人物にも別の話がある。一色軍記には、伏見城の築城にかかわっていた仙石秀久が、五右衛門を捕らえたと書かれているらしい。ところが、あとで触れる豊臣秀吉譜は、京都所司代の前田玄以が捕らえたと記す。誰の手柄だったのか、書き手によってばらばらだ。

捕まった五右衛門とその一族は、見せしめとして三条河原へ引き出された。引き回しの途中、四条寺町にあった大雲院の前に差しかかると、住職の貞安が引導を渡したという。処刑は文禄3年8月24日、西暦でいえば1594年10月8日の出来事だと伝わる。12月12日とする説もあって、日付までは固まっていない。

釜の中で我が子をどうしたのか

処刑のとき、幼い我が子まで道連れにされた。この逸話がとくに人の涙を誘ってきた。ここで話が二つに割れる。ある話では、五右衛門は釜の中で子を頭の上に持ち上げ続け、自分が息絶えるまで熱から守ろうとしたという。

別の話では逆になる。子を苦しませたくなかった五右衛門が、自分の手で釜の底へ沈めたというんだ。処刑を描いた絵師の記録から、こちらが有力と見る向きもある。熱さに耐えかねて子を下敷きにした、という話まである。

ただ、話はそこで終わらない。五右衛門の娘とされる人物が武士に嫁いでいた、という記録も残る。そうなると、釜で死んだ子どもが誰だったのかさえはっきりしない。矛盾を抱えたままの逸話。

国立国会図書館のレファレンス事例に、鹿児島県立図書館が答えた記録がある。息子を持ち上げた話を裏づける一次資料は、確認できなかったという。出どころは後の浄瑠璃や歌舞伎の演出で、芝居が先にあって話が広まった、というのが答えだった。

辞世の句は誰が詠んだのか

処刑を前に詠んだという辞世の句も有名だ。石川や、浜の真砂は尽くるとも、世に盗人の種は尽くまじ。本当に五右衛門の歌か。世に盗人の種は尽きない、という開き直りめいた啖呵が、権力に屈しない反骨の男という五右衛門像を決めてしまった。

ところが国文学の目で見ると、話は変わってくる。この歌は、古今和歌集の仮名序にある一首の本歌取りらしい。わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海の浜の真砂はよみ尽くすとも。仮名序では、たとえ歌の例として挙げられた歌だ。

後の世の誰かが作った歌だった公算が大きい。それを歌舞伎が見事に使った。楼門五三桐では、巡礼に化けた真柴久吉が上の句を詠み、五右衛門が驚いて手裏剣を打つ。久吉が下の句を継ぐ掛け合いは、山門の場の山場になった。

同じ時代の日記に書かれた一行

実在を考えるうえで大事なのは、死んだのとほぼ同じころに書かれた記録だ。処刑を思わせる書き込みが、いくつもの史料に残る。

公家の山科言経がつけた日記、言経卿記の文禄3年8月24日の条には、こうある。盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。

三条橋間の川原にて成敗なり。同時代の日記だ。史料としての重みが違う。

誰が処刑されたかまでは書かれていない。それでも、同じ日に釜で煎られた者がいたことと、仲間19人が磔にされたことは、この一行で押さえられる。渡邊大門氏の紹介では、鹿苑日録の8月23日の記事にも、三条橋の下で罪人10人が釜茹でにされたとある。

スペイン人の商人、ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが書いた日本王国記にも、似た記述がある。15人の頭目が捕らえられ、京都の三条河原で生きたまま油で煮られたという。ヒロンは安土桃山から江戸初期にかけて、20年ほど日本に滞在した人物だ。

この本に、イエズス会の宣教師ペドロ・モレホンが注釈を付けた。事件は1594年の夏で、油で煮られたのはイシカワ・ゴエモンとその家族9人ないし10人、という趣旨の書き込みだ。名前が出てくるのは、この注釈だ。ローマ字で記されているのには、ぞくっとする。

ただ、これらは五右衛門本人を名指しした記録ではない、という扱いになる。モレホンの注釈には名前が出てくるのに、そう説明する本もある。資料の読み方が揺れているところだ。

名前が文字になるまで

名前がはっきり書かれた早い時期の文献が、江戸初期の儒学者、林羅山がまとめた豊臣秀吉譜で、後の五右衛門像の出発点のひとつになった。成立は1642年。文禄のころ、石川五右衛門という盗賊が強盗や追いはぎ、悪逆非道を働いた。秀吉の命で前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた、と書く。

前田玄以は京都所司代で、寺社の管理や洛中洛外の民政を任された人物だ。そのほか、続本朝通鑑は寛文10年、1670年の成立で、歴朝要紀は天保3年、1832年に草稿ができた。どちらにも、京都三条河原での処刑が記されている。

江戸の中ごろには、実録本の賊禁秘誠談が出てくる。成立は1776年以前だという。五右衛門が盗賊として育っていく過程を武勇伝ふうに描き、小気味よい反逆者に仕立て上げた本だ。この本のなかで、百地三太夫という師匠も生まれた。

南禅寺の山門は、まだ建っていなかった

とくに有名なのが、初代並木五瓶が書いた全五幕の長い歌舞伎、楼門五三桐、さんもんごさんのきりだ。賊禁秘誠談を下敷きにして、安永7年、1778年4月に大坂の角の芝居で初演され、そのときの外題は金門五山桐だった。五右衛門を演じたのは初代嵐雛助。

見せ場は南禅寺山門の場。きらびやかな山門の上で煙管をくゆらせ、絶景かな、絶景かなと大見得を切る姿は、今に残る五右衛門の顔そのものだ。金襴の褞袍に大百日鬘という出で立ちも、この場面で広まった。上演時間は15分足らず。通しで演じられることは珍しく、この一幕だけが独り歩きしてきた。

初演のときの台詞は、今より素っ気なかったらしい。春の眺めは値千両とは小さい譬え、この五右衛門の目からは値万両。それが上演を重ねるうち、小せえ、小せえ、万両、万々両と膨らんだ。関西の芝居には、万両を何度も重ねる型まであったという。八代目坂東三津五郎は、金額が膨らむ様子をいかにも商都らしいと評したそうだ。

この芝居で五右衛門は、明国の高官、宋蘇卿の忘れ形見という設定になっている。宋蘇卿は、実在した貿易商の宋素卿をもじった名前。育ての親の武智光秀は明智光秀のもじりで、宿敵の真柴久吉は秀吉のもじりだ。本当の歴史とはまるで違う生まれを、芝居の都合でぽんと与えられてしまった。

おもしろいのはここからだ。最初の南禅寺の三門は、永仁3年、1295年に西園寺実兼の寄進で建った。それが文安4年、1447年の大火で焼けている。今ある三門が建て直されたのは寛永5年、1628年。津藩主の藤堂高虎が、大坂夏の陣で死んだ一門の武士たちの冥福を祈って寄進したもので、別名を天下竜門という。

三門のない時期が180年ほども続いた。処刑から30年以上も後の話になる。ということは、五右衛門が生きていたころ、あの山門はそもそも無かった計算になる。これだけでも、今出回っている五右衛門像がどれだけ後の創作で塗り固められているか、よくわかる。笑ってしまうくらいだ。

江戸での初演は寛政12年、1800年。二代目嵐雛助が豪快な五右衛門を見せ、これが当たり役になった。この二代目の型は、後の歌舞伎の五右衛門像に長く響く。京都の南座は、長いあいだ山門のせり上げができなかった。大道具を上げ下げする大迫りが無かったからだ。

大改修を経て、南禅寺の山門が南座の舞台に初めて姿を現したのは、平成3年、1991年の顔見世だった。五右衛門は十三代目片岡仁左衛門。京都の寺の山門なのに、京都の劇場で出せなかった。皮肉な話。

浜松の武士、真田八郎

丹後石川氏説、伊賀忍者説と並んで出てくるのが、遠江国の出だという説だ。今でいう静岡県浜松市にあたる。この説では、五右衛門はもともと真田八郎と名乗る武士だった。それが河内国石川郡の山内古底という医家の手で、石川五右衛門と改められたという。

伊賀、遠江、河内、丹後。出身地だけで、4つの国が名乗りを上げている。各地を渡り歩いた素性の知れない盗賊団の頭にすぎなかった、という見方も根強い。説が多すぎる。こんなに並んでいること自体が、ひとつのヒントだ。

五右衛門は特定のひとりじゃなかったのかもしれない。当時はびこっていた盗賊団や、その頭たちの話が、石川五右衛門という一つの名前に寄せ集められていった。そう考えると、伝説の合成人格だった線は濃い。

実在した、と考える研究者たち

研究者のなかには、五右衛門をただの伝説で片づけることに異を唱える人も多い。渡邊大門氏をはじめとする人たちは、宣教師の記録や言経卿記を根拠に挙げる。文禄3年に釜茹での刑に処された盗賊集団の首魁が実在し、それが後に石川五右衛門という名で伝説になった。そういう立場だ。

講談の主人公というだけじゃない。豊臣政権を本気で震え上がらせた盗賊団が、実際にいた。その怖さと痛快さが混ざり合った記憶が、後の作り手たちの想像力を強く刺激した、という見方になる。

京都の町に残る五右衛門の足あと

地元の伝承も山ほどある。京都伏見の藤森神社には、五右衛門が寄進したと伝わる手水鉢の台石がある。前田玄以の配下に追われた五右衛門が神社へ逃げ込んだとき、神社は管轄が違うと言って、引き渡しにすぐ応じなかった。おかげで五右衛門は、まんまと逃げおおせたらしい。

そのお礼が、宇治の浮島にある石の十三重塔の石だった、という。塔の笠石を一つ盗み出して、台石として寄進した。塔の笠石が一つだけ新しいのは、そのせいだという話まである。大泥棒が神社へ石を奉納するなんて矛盾めいているけれど、義賊ならば社寺には手厚く納めたはずだ、という庶民の願いが形になったと読むこともできる。

京都にはほかにも話が残る。方広寺の大仏殿の門前にあった大仏餅屋を、五右衛門が隠れ家にしていたという伝承だ。そこから鴨川の河原へ抜ける穴まであったらしい。最期にちなむ地名もある。鴨川の七条あたりの釜が淵は、処刑に使った釜が流れ着いた場所だという。

釜そのものにも後日談がある。五右衛門の処刑に使われたといわれる釜は、江戸時代以降、長く法務関係の役所に保管された。昭和10年、1935年には、築地本願寺で開かれた司法保護デーの催しで公開されている。最後は名古屋刑務所にあったが、戦後の混乱のなかで行方が分からなくなった。

墓は、京都の大雲院にある。引き回しの途中で貞安が引導を渡した縁だ。寺は昭和48年、1973年に四条から東山へ移った。

戒名は融仙院良岳寿感禅定門。処刑された盗賊としては、破格に立派な戒名だという。ふだんは非公開の寺だが、期間を限って公開される年には、墓に参れる。

風呂の名になった男

五右衛門の名は、風呂にまで残った。五右衛門風呂だ。江戸時代の守貞漫稿は、京坂の風呂を説明するなかで、この名の由来にも触れる。

昔の五右衛門という者が、油煮の刑、俗にいう釜煮にされた。その釜に似ているから、五右衛門風呂と呼ぶ。そういう言い伝えだという。

東海道中膝栗毛にも、小田原の宿屋で弥次さん喜多さんが、上方ふうの五右衛門風呂に入って大騒ぎをする話がある。土の釜の上に風呂桶を据え、底板が湯に浮いている。入るときは、その底板を足で沈めて乗る仕組みだ。薪が少なくて済むのが売りだった。

ところが弥次さんと喜多さんは、入り方を知らなかった。底板をのけて入ろうとして、釜の底に触れて足をやけどする。大惨事だ。悩んだ末に便所の下駄を履いて入ったものの、喜多さんは下駄で踏みつけて釜を壊し、大恥をかいた。

今は、縁が木の桶で底だけが鉄のものを五右衛門風呂と呼ぶ。全部が鉄でできたものは、長州風呂と呼び分けるのが厳密なところだ。厚い鋳鉄の釜は、湯が冷めにくい。釜茹での刑の名残を、毎日の暮らしの湯に変えてしまった。

作り手たちが放っておかない

江戸の昔から、五右衛門は作り手の格好の的だった。浄瑠璃には、近松門左衛門の傾城吉岡染がある。井原西鶴の本朝二十不孝にも、五右衛門が出てくる巻がある。歌舞伎では楼門五三桐のあとも、高麗大和皇白浪が1809年に、楼門詠千本が1838年に初演された。落語には、お血脈や釜泥がある。

明治以降は、小説や映画で何度も蘇った。檀一雄の真説石川五右衛門は、第24回直木賞に選ばれている。司馬遼太郎には梟の城があり、城山三郎の黄金の日日は昭和53年、1978年に大河ドラマになって、根津甚八が五右衛門を演じた。

漫画のルパン三世に出てくる侍、石川五ェ門は、安土桃山の五右衛門から数えて13代目の末裔という設定だ。居合の達人で、先祖の名を背負って走り回る。釜の中の大泥棒は、時代ごとに別の顔で蘇ってくる。

ネットの住人も放っておかない

ネット上の考察好きのあいだでも、五右衛門は定番の人気ネタらしい。個人ブログや投稿サイトでよく語られるのは、合成人格説のほうだ。実在した盗賊団のリーダー何人ものエピソードが混ざって、五右衛門というキャラが生まれたんじゃないか、という見立てになる。

時代考証系のまとめサイトや動画サイトのコメント欄も負けていない。南禅寺の山門はまだ無かったのに、なぜあの名場面が定着したのか。この矛盾そのものを面白がる書き込みが、何度も出てくる。

歴史系の匿名掲示板の過去ログでは、五右衛門は本当に忍者だったのか、というスレッドが定期的に立ってきた。百地三太夫との師弟関係は史実か創作か、という話題も同じだ。忍者史や伊賀者の歴史とつなげて、独自の考察を広げる流れができている。

ネットの議論は、史実のかけらを丹念に拾い集める。それでも最後は、わからないからこそロマンがある、という結論に落ち着きがちだ。実在か作り話かの二択では割り切れない。史実と伝説が溶け合ったその曖昧さが、四百年以上たった今もこの大泥棒が人を引きつける理由なのかもしれない。

学問の目は冷めている

学問の側から見ると、景色はずいぶん冷めている。五右衛門本人の生涯や盗みの手口、盗賊団の組織の実態について、確かな一次史料はほとんど残っていない。名前と処刑の事実なら、同じ時代の記録がいくつも裏づけてくれる。

ところが生まれや修行の話になると、途端に怪しくなる。丹後石川氏の遺児という出自も、百地三太夫の弟子としての忍者修行も同じだ。秀吉暗殺未遂という派手な山場まで含めて、江戸時代の実録本や歌舞伎が肉付けした創作が混じっている公算が大きい、と見る向きが強い。

研究者のあいだでは、こんな指摘も繰り返されてきた。史料が乏しいからこそ作り手たちの想像力に火がつき、数えきれないフィクションが生まれる土壌になった、というものだ。皮肉な話。

石川五右衛門というひとりの人物が、寸分たがわず実在した証拠は乏しい。けれど文禄3年8月、京都の三条河原で盗賊の一団が見せしめに釜茹でにされた。このこと自体は、互いに独立した同じ時代の史料がいくつも裏づけている。

その核のまわりに、話が次々と積み重なっていった。丹後の没落武家の悲劇、伊賀忍者の裏切り、秀吉暗殺未遂の緊迫。辞世の句の反骨ぶりも、その上に乗っかった。そうやって出来上がったのが、今に伝わる石川五右衛門という男だ。

釜茹でか、釜炒りか

処刑の方法も、実は定まっていない。一般には釜茹でと言うけれど、日本の文字史料には煎ると書かれている。この煎るを、油で揚げる意味に取る学者もいる。宣教師の記録は油で煮たと書き、母親は熱湯で煮られたという話も別に伝わる。

三条河原の釜の中身が、湯だったのか油だったのか。そこからして決まっていない。言経卿記に残る文字は、煎らる、のひとことだけだ。

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