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鎌足の首は七百年割れつづけた――多武峰改葬伝承の空白と、御破裂山が国家の異変を告げた三十七回の全記録

奈良県桜井市の多武峰。談山神社の朱塗りの社殿を抜けて、十三重塔の脇から山道を三十分ほど登ると、樹に囲まれた平場に出る。柵で囲われた円い塚がある。案内板には藤原鎌足公墓とある。そのすぐ上が御破裂山の山頂で、標高は六百七メートル余。

四等三角点が打たれた、どこにでもありそうな低山の頂だ。

だがこの山は、日本史上おそらく最も長期にわたって「異常を報告しつづけた山」である。九世紀の末から江戸の初めまで、およそ七百年。天下に何か起きるたびに、この山は鳴った。そして山のふもとの堂に安置された藤原鎌足の木像が、割れた。割れたという報せは奈良から京へ走り、藤原氏の氏長者のもとへ届き、朝廷は使者を仕立てて謝罪の文を読み上げに来たのだ。

読み上げると、割れ目は治った。治ったことになった。

そしてまた割れたのである。

これを迷信だと言うのは簡単だ。だが問題は、この「割れました」という報告が、単なる村の言い伝えではなく、朝廷の公式記録に、摂関家の日記に、興福寺の高僧の備忘録に、几帳面な日付つきで書き込まれつづけたという点にある。しかも回数まで数えられている。三十五回とも三十七回とも言われる破裂。鳴動に至っては五十三回。

ここまで律儀に記録された怪異は、日本の中世でもそう多くない。

そして、この山が鎌足の墓とされるようになった経緯そのものが、そもそも怪しい。鎌足は多武峰では死んでいない。多武峰に葬られたという記録も、同時代史料には一行もない。にもかかわらず、ある時期からこの山が「大織冠の廟」になり、朝廷公認の陵墓リストに載り、そして鳴りはじめた。

この記事は、その二つの謎を追いかける。鎌足の遺体はどこからどこへ運ばれたのか。そして、なぜ山は千年も鳴りつづけたのか。

天智八年十月十六日、鎌足は死んだ――ただし、どこに埋めたかは誰も書いていない

まず動かしがたい事実から確認する。中臣鎌足、のちの藤原鎌足が死んだのは天智天皇八年、西暦六六九年の十月十六日である。『日本書紀』にはっきり書いてある。享年は五十六とするのが通説だが、五十とする異伝もある。

死の直前、天智天皇は病床の鎌足を訪ねている。前日の十月十五日、天皇は弟の大海人皇子を遣わし、鎌足に大織冠と内大臣の位を授け、さらに藤原の姓を与えた。翌日に死ぬ人間に人臣最高位を贈るのだから、天智の側もこれが最後だと分かっていたわけだ。この「藤原」という一語が、その後千三百年にわたって日本の政治を支配する一族の出発点になる。

問題はここから先だ。『日本書紀』は、鎌足がどこに葬られたかを書いていない。一行もない。藤原氏が自分たちの家の歴史をまとめた『藤氏家伝』、その第一巻にあたる大織冠伝も、葬地を明記していない。八世紀に編まれた国家の正史と、藤原氏自身の家伝が、そろって始祖の墓の場所を伏せている。

これはかなり異常なことだ。

死んだ場所についても議論がある。『日本書紀』の記述の流れからすると、鎌足は淡海、つまり近江の自邸で亡くなったと読める。天智の行幸や使者派遣の間隔から逆算すると、大津宮かその近辺と考えるのが自然だ。ところが『藤氏家伝』の記述をもとに、山科の陶原の家がその場所だとする読み方もある。京都市山科区に「大塚」という地名が残っていて、これを鎌足の墓の痕跡だとする説すら出た。

つまり、鎌足がどこで死んで、どこに埋められたのか。これについて、七世紀から八世紀の一次史料はほとんど何も語らないのである。日本史最重要人物のひとりの墓が、最初から空白になっている。この空白に、後の世が次々と物語を流し込んでいくことになる。

摂津国安威山という、最初の答え

その空白に最初に入った答えが「摂津国安威」である。現在の大阪府茨木市安威。淀川の北、丘陵地帯の入り口にあたる場所だ。ここに鎌足はまず葬られた、と伝える文献がある。

この記述を持つのが『多武峯略記』という一書だ。多武峰の寺、つまり妙楽寺の由緒と縁起をまとめたもので、成立は建久八年、西暦一一九七年とされる。平安時代中頃にはすでに原形があったとする見方もある。いずれにせよ、鎌足の死からゆうに五百年は経っている。

『多武峯略記』は言う。鎌足は初め摂津国の安威山に葬られた。のちに大和国の多武峯に改葬された、と。

この一文が、その後の日本の考古学史をひとつ動かすことになる。昭和九年、一九三四年。大阪府の阿武山、まさに安威の背後にそびえるその山の中腹で、地震観測所の建設工事中に、思いもよらない墓が出た。阿武山古墳である。

出てきたものが尋常でなかった。漆で麻布を何枚も貼り重ねて固めた夾紵棺。これは当時の最高級の棺で、天皇クラスの被葬者にしか使われない。中の遺体は、銀線に青と緑のガラス玉を綴った玉枕に頭をのせ、きらびやかな錦をまとっていた。年齢は六十歳ほどの男性。

そして、その頭のそばには金糸で刺繍を施した冠帽が添えられていた。

さらに決定的だったのが骨の状態だ。この男性は、死ぬ数か月前に肋骨などを折る事故に遭っていた痕跡があった。鎌足は落馬して背中を強打し、その傷がもとで死んだという伝承がある。骨折痕と伝承が符合してしまったのだ。

戦前に撮影されたX線写真が、およそ九十年を経て再検討され、二〇一三年に関西学院大学の調査チームが金糸の冠帽の分析結果を出した。あれは大織冠そのものではないか、という説だ。大織冠は鎌足ただひとりにしか与えられていない冠位である。もしそうなら、被葬者は鎌足以外にありえない。

ただし、ここで冷静になるべきポイントがある。阿武山古墳が鎌足の墓であるという説の出発点は、あくまで『多武峯略記』の「安威山に葬った」という一文なのだ。十二世紀に書かれた寺の縁起を根拠に、二十世紀の発掘を解釈している。順番が逆転している。この点はしばしば見落とされる。

なお、鎌足の死因についても異論はある。茨木市の紀要に載った中本和氏の論考は、落馬骨折説にはっきり否定的だ。『日本書紀』にも『大織冠伝』にも落馬の記述はなく、飛鳥・奈良時代のどの史料にも見えない。それどころか史料の書きぶりは「稍」、つまり徐々に悪化したという表現になっており、突発的な外傷とは合わない。急激に痩せ衰えていく症状から、藤原氏の子孫に多発した糖尿病の可能性を挙げている。

もしこの読み方が正しければ、阿武山古墳の骨折痕と鎌足を結ぶ最大の物証は、いきなり効力を失うことになる。

多武峰が「墓」として国家に認定された日

では、多武峰の側はどうか。

多武峰を鎌足の墓とする最も古い公式記録は、『日本三代実録』にある。天安二年、西暦八五八年。この年、朝廷は「多武峰墓」を十陵四墓の例に入れた。十陵四墓というのは、国家が定期的に奉幣する対象として指定した天皇陵十基と、皇族・重臣の墓四基のことだ。ここに多武峰墓が入ったということは、平安初期の段階で、朝廷は多武峰を鎌足の墓として公式に承認していたことになる。

鎌足の死から百八十九年後である。この百八十九年の間に何が起きたのか、記録は語らない。

そしてもうひとつ押さえておきたい。九世紀の朝廷が承認したのは「多武峰墓」であって、「改葬された墓」ではない。遺体を安威から運んできましたという説明は、この段階ではまだ出てこない。改葬という筋書きが文献に現れるのは、さらに数百年後、『多武峯略記』を待たねばならないのだ。

つまり順序はこうなる。まず多武峰に鎌足の墓があることになった。次に、では最初はどこにあったのかという疑問が生じた。そこに安威という答えと、改葬という物語が接続されたのだ。少なくとも文献の出現順だけを見れば、そう読める。

改葬の主役・定恵は、父より四年早く死んでいる

改葬伝承の主役は、鎌足の長男である僧・定恵だ。定慧、貞慧とも書く。唐に留学し、帰国後に父の遺骨を多武峰に移して十三重塔を建てた。談山神社が現在も公式に掲げる由緒がこれである。

ところが、この筋書きには致命的な穴がある。

『日本書紀』にもとづく定恵の生涯を並べてみよう。生まれたのは皇極天皇二年、六四三年。白雉四年、六五三年の五月、まだ十一歳で遣唐使船に乗り、留学僧として唐に渡った。長安の懐徳坊にあった慧日道場に住み、玄奘三蔵の弟子である神泰法師に師事したという。そして天智天皇四年、六六五年の九月、唐の使節劉徳高ら二百五十余人の大使節団に混じって、朝鮮半島の百済経由で帰国する。

帰国した、その年の十二月二十三日。定恵は大和の大原、いまの明日香村で死んだ。西暦に直せば六六六年二月二日。帰国からわずか三か月である。享年二十三。

もう一度、父の没年を確認しよう。鎌足が死んだのは六六九年である。

定恵は、父の死の四年前に死んでいる。

死んだ人間が、四年後に死ぬ父親の遺骨を掘り返して山に運び、塔を建てることはできない。談山神社の公式由緒は「白鳳七年、六七八年に唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬した」とする。だが六七八年に定恵が帰国したという記録は、『日本書紀』のどこにもない。六六五年に帰って六六六年に死んでいるのだ。

この矛盾は昔から知られている。逃げ道はいくつか用意されてきた。ひとつは、そもそも『日本書紀』の定恵没年が間違っているという説。ひとつは、定恵は死んでおらず唐に戻っていたという説。ひとつは、多武峰の縁起が「定恵」の名を後から借りてきただけで、実際の改葬者は別人だという説だ。

どれも決定打にはならない。

さらに面白いのは、定恵の出自そのものに異説があることだ。角田文衛は、定恵が孝徳天皇の落胤ではないかと指摘した。根拠は『多武峯略記』が伝える車持夫人の話である。孝徳天皇が寵愛していた車持夫人を鎌足に下賜した、その時点で夫人はすでに身ごもっていた、というのだ。もしそれが本当なら、定恵は鎌足の子ではなく天皇の子で、藤原氏の長男ではない。

つまり『多武峯略記』は、鎌足の改葬という物語を提供すると同時に、その改葬を実行した人物が鎌足の実子ではないかもしれないという爆弾まで、同じ一冊の中に抱え込んでいるのである。この本、なかなか業が深い。

十三重塔は何を模したのか

改葬伝承のもう一つの主役が、十三重塔だ。

現在、談山神社の境内にそびえる十三重塔は、享禄五年、一五三二年の再建である。木造の十三重塔としては世界に現存する唯一の遺構とされる。屋根は檜皮葺きで、一番下の層が大きく、二層目から上は層間が極端に詰まっていく。あの独特の、竹の節を積み上げたようなシルエットは、日本の他のどんな塔とも似ていない。塔内には文殊菩薩像が安置されていた。

定恵がこの塔を建てたとき、唐で見てきた清涼山、すなわち五台山の塔を模したのだという伝えがある。十三という層数も、単なる装飾ではなく、密教的な意味を担わされている。ただし現存する塔は室町期の建築であって、七世紀の姿がどうであったかは分からない。

十三重塔の下、正確にはその周辺が、鎌足の遺骨を納めた神廟だとされてきた。塔そのものが墓標であり、寺の中心であり、藤原氏の始祖が眠る場所だった。多武峰という寺社が持っていた最大の権威の源泉が、この塔である。

そして、この塔から少し離れた場所に、大宝元年、七〇一年に建てられたと伝える方三丈の堂があった。ここに鎌足の木像が安置された。塔の東に方三丈の聖霊院を建てて鎌足の木像を安置した、というのが『多武峯縁起』系の記述だ。

この木像こそが、その後七百年にわたって割れつづけることになる、あの像である。

「談い山」から「妙楽寺」へ――多武峰が寺になっていく過程

多武峰という山は、鎌足以前から特別な場所だった。『日本書紀』は、斉明天皇が田身嶺、つまり多武峰の頂上付近に石塁を築き、高殿を建てて両槻宮としたと記す。斉明は狂心渠と揶揄されるほどの大土木工事をやった天皇で、この山上の宮も道教的な祭祀施設ではなかったかと言われる。飛鳥の都を見下ろす位置に、天皇が宮を築いた山なのだ。

そこに鎌足の廟が置かれ、寺が立った。塔の南に三間四面の堂を建てて妙楽寺と号したという。妙楽寺という寺号が定着し、多武峰は寺として運営されていく。

九世紀に入ると記録が増えてくる。承和八年、八四一年には十月十日から十六日までの七日間、維摩八講が始修されている。嘉祥元年、八四八年には賢基という僧が多武峰に来住した。延喜十六年、九一六年には講堂の修理が『多武峯略記』に記録されている。地味な記録の積み重ねだが、これは多武峰が実体を持った寺院として動いていた証拠だ。

そして延長四年、九二六年、多武峰に大きな転機が来る。この年、鎌足に「談峯権現」の神号が贈られた。のちに談山明神と呼ばれる神格である。同時に、天神地祇と八百万の神を合わせ祀る惣社が建てられ、そこに鎌足の神像も合祀された。

この惣社は日本最古の総社ともいわれる。

なぜ惣社を建てたのか。理由が生々しい。妙楽寺という仏教施設の側と、聖霊院という鎌足の霊を祀る側とが対立するのを防ぐため、というのだ。ひとつの山の中で、仏を拝む勢力と、始祖の霊を拝む勢力が、はやくも緊張関係にあった。両者の上に立つ場として惣社が用意された。

多武峰は、最初から一枚岩の聖地ではなかったのだ。寺であり、廟であり、神社でもある。この分裂した性格が、後の破裂騒動の底流にずっと流れることになる。

天台の飛び地――藤原氏の聖地に比叡山が入り込んだ

多武峰の歴史でいちばん奇妙なのが、宗派の問題だ。

延喜十八年、九一八年。實性という僧が岑分阿闍梨に任じられた。『多武峯略記』によれば、この頃に多武峰は延暦寺無動寺の別院となる。つまり天台宗の寺になったのだ。

考えてみてほしい。多武峰は藤原氏の始祖・鎌足の墓を抱えた寺である。ところが藤原氏の氏寺は興福寺で、興福寺は法相宗。奈良仏教の総本山のような存在だ。その興福寺と真正面から対立していたのが、比叡山延暦寺である。

藤原氏の始祖の墓が、藤原氏の氏寺のライバルの傘下に入った。

これがどれほど異常な事態か。しかも多武峰は、比叡山の守護神である山王を勧請して山内に祀っていた。いまも談山神社の境内に比叡神社が残っているのは、その名残だ。藤原氏の聖地のど真ん中に、比叡山の神が座っている。

興福寺が黙っているわけがない。永保元年、一〇八一年三月、興福寺の衆徒が多武峰を襲撃した。これが記録に残る最初の焼き討ちだ。以後、両者の衝突は数百年にわたって断続的に続く。

天仁元年、一一〇八年九月の襲撃では、浄土院、食堂、経蔵、惣社、大温室、多宝塔、灌頂堂、五大堂、浄土堂が焼けた。名前が並ぶだけで、山の中にどれだけの建築群があったかが分かる。それが一晩で灰になった。安貞元年、一二二七年八月にも焼かれ、翌安貞二年、一二二八年四月にも焼かれた。二年連続である。

興福寺だけではない。承元二年、一二〇八年二月には金峰山寺の衆徒が多武峰を焼いている。吉野の勢力からも狙われていた。

多武峰は、中世を通じて焼かれつづけた山である。そしてそのたびに再建された。焼かれるほどの富と権威があり、再建できるだけの資力があった。この山は霊場であると同時に、大和国の武装勢力のひとつだったのだ。

昌泰元年十一月、像が割れた

さて、本題である。

破裂の初出は、昌泰元年、西暦八九八年の十一月とされる。醍醐天皇の治世だ。多武峰の聖霊院に安置された鎌足の木像に、亀裂が入った。

まず誤解を解いておこう。「破裂」といっても、像が粉々に爆発するわけではない。木に亀裂が走ることを、当時は破裂と呼んだ。木彫像に干割れが入るのは、乾燥と湿気の繰り返しで起きるごく自然な現象だ。奈良の古仏を見れば、ひび割れていない木像のほうが少ない。

だが多武峰では、それは自然現象ではなかった。始祖の像が割れるのは、始祖が怒っている証拠だ。天下に凶事が起きようとしている、あるいはすでに起きている。その前兆として、鎌足公が身を割いて知らせてくださっている――そう解釈された。

破裂が確認されると、多武峰は動く。まず藤氏長者、つまり藤原氏の氏長者である摂関家の当主に注進が飛ぶ。氏長者はこれを重大事として受け止め、朝廷に諮り、告文使という使者を選んで多武峰に派遣する。告文使は神像の前で告文を読み上げる。内容はおおむね、政道に至らぬところがあったことを詫び、鎮まってくださいと願うものだ。

読み上げると、破裂は平癒する。平癒したと報告される。

このサイクルが、九世紀末から十七世紀初頭まで、七百年間まわりつづけた。回数の数え方は資料によって揺れるが、破裂は三十五回とも三十七回とも数えられ、告文使の派遣は三十三回に及んだとされる。鳴動のほうはもっと多く、昌泰元年から慶長十九年、一六一四年までに五十三回という数字が伝わる。

考えてほしい。日本の中世において、一介の山寺が「天下の異変」を宣言し、摂関家がそれに応答して国家として謝罪の儀式を行う。この回路が七百年間、正式な手続きとして機能していたのだ。多武峰は、国家に対して定期的にクレームを入れる権利を持っていたことになる。

右面四寸余――御破裂山という名前の起源

では、像はどう割れたのか。

大正四年、一九一五年に刊行された『奈良県磯城郡史』は、御破裂山という山名の由来をこう説明している。永承六年、一〇五一年の正月二十四日、神像の右面が四寸余りにわたって破裂した。この出来事から、山が御破裂山と呼ばれるようになった、と。

右の顔面に、四寸あまり。一寸は約三センチだから、十二センチ以上の亀裂が、鎌足の顔の右半分に走ったということになる。

これは相当に生々しい。抽象的な「凶兆」ではなく、始祖の顔が縦に裂けているのだ。堂の扉を開けて、暗がりに座す木像の右頬に走った亀裂を見つけたときの、僧たちの空気を想像してみてほしい。しかも永承六年といえば、東北で前九年の役が始まった年である。

破裂の記録は、割れた場所と長さを几帳面に書き留める。顔面、胸、肩、縦に割れたのか横に割れたのか。長さは何寸何分か。まるで診断書だ。

この計測へのこだわりが、破裂を単なる噂ではなく「事実」として流通させた。誰かが見て、測って、書いた。だから報告できる。だから朝廷も動かざるをえない。

御破裂山という名前は、だからこの山が鳴ることから来たのではない。ふもとの像が割れたから、その山が御破裂山になったのである。順番を間違えてはいけない。

鳴動には方角の読み方があった

破裂と対をなすのが、山の鳴動だ。地鳴り、山鳴り。これも凶兆として報告された。

そして驚くべきことに、鳴動には解読の体系があった。どの方角から鳴ったかによって、誰が咎められているのかが分かるというのだ。

東から鳴れば、咎めの対象は国王、つまり天皇である。南から鳴れば、藤原の長者、すなわち摂関家の当主。北から鳴れば、藤原の氏人一般、西から鳴れば、万民だ。そして山の中心から鳴った場合は、多武峰の寺人、つまり自分たち自身に問題があるという意味になる。

この体系のできのよさに注目してほしい。五方位すべてに責任者が割り当てられていて、どの方角から鳴っても「誰かが悪い」という結論になる。しかも一番きつい東は天皇に、二番目の南は摂関家に振られている。多武峰から見て天皇と摂関家を名指しできる仕組みが、方角というだけの理由で正当化されている。

さらに巧妙なのは、中心から鳴った場合の解釈だ。自分たちのせいだと認める余地を残してある。これがあるから、この体系は「多武峰が一方的に他人を責めるための道具」に見えなくなる。公平そうに見える。だが実際に中心の鳴動が報告された例はほとんど聞かない。

立聞きの芝――鳴動を「聞く」ための四つの場所

もっと面白いのは、この鳴動を誰がどこで聞いていたかだ。

多武峰の周囲には、鳴動を聞くために定められた場所があった。「立聞きの芝」という。文字通り、立って聞く芝地である。

『奈良県磯城郡史』は、その場所を粟殿の四ッ川、高市村の阪田、多武峰の北山の三か所と記す。昭和三十二年、一九五七年に出た『桜井町史』はもう少し細かく、北山字菖蒲一番地、粟殿の大灯籠のあたりで字を四ッ川、針道字茶屋垣内、と挙げている。現在の理解では、桜井市の粟殿、北山、針道と、明日香村の阪田の四か所ということになる。

この四か所には共通点がある。全部、多武峰へ向かう街道の要所なのだ。北山は旧道沿いで、敵の接近を見張るのにも都合のよい戦略的な位置にある。針道には茶屋向、茶之前という字が今も残っていて、大宇陀へ抜ける街道筋にあたる。粟殿は用水が三本に分かれる地形で、四の字に見えることから四ッ川と呼ばれた。

つまり立聞きの芝は、山の音がよく響くから選ばれたのではない。人と情報が集まる場所だから選ばれたのだ。

これは決定的に重要な指摘だと思う。鳴動という現象は、山が鳴ることそのものではなく、「鳴った」という情報が街道に乗って流れ出す仕組みとセットで成立していた。多武峰から見て、粟殿は奈良盆地へ、針道は宇陀へ、阪田は飛鳥へ。四方の街道の入り口に「聞く人」を配置しておけば、鳴動の報せは同時に四方向へ広がる。しかも複数地点で「聞いた」と言えば、それは目撃者複数の証言になる。

証言の信頼性を担保する装置が、地形と街道網を使って作られている。中世の情報インフラとして、これはかなり洗練されている。

破裂記録その一・明応七年九月十二日

ここからは、実際に記録された破裂を三件、具体的に見ていく。

一件目は明応七年、一四九八年の九月十二日である。この日の記録は、複数の史料に残っている。

朝廷の記録を編年でまとめた『続史愚抄』は、明応七年九月十二日乙巳の条にこう記す。「十二日乙巳、多武峯神像又破裂」。たった十文字、「又」の一字がいい。またか、という感じが出ている。

同じ事件を、東京大学史料編纂所が編んだ『史料綜覧』巻九はこう記す。「十二日、多武峰大織冠像破裂ス、十二月ニ至リテ、告文使ヲ発遣ス」。破裂から告文使の派遣まで、三か月かかっている。

この年が何の年だったかを思い出してほしい。明応七年八月二十五日、破裂のわずか十八日前に、東海道全域を巨大地震が襲っている。明応地震だ。津波によって浜名湖と外海をへだてていた砂州が破られ、湖は海とつながった。今切という地名はその時にできた。

東海道の地形そのものが書き換わるレベルの災害である。

そして政治のほうも荒れていた。天皇は後土御門天皇、室町幕府の将軍は足利義澄。この義澄は、明応の政変で細川政元に擁立された将軍で、正統な将軍だった足利義材、のちの義稙は幽閉から逃げ出して各地を転々としていた。将軍が二人いる状態である。

幕府の権威は事実上崩壊していた。

未曾有の地震があり、将軍位が割れている。そのタイミングで、鎌足の像が割れた。当時の人間がこれをどう受け取ったかは、想像に難くない。天下は今、根本的に狂っている。始祖がそれを告げている、と。

破裂記録その二・永正七年――霊験が政治に食われた年

二件目はもっと生臭い。永正七年、西暦一五一〇年前後の一連の騒動だ。

三月四日、破裂が起きた。多武峰は例によって注進する。だが今回、話が普通には進まなかった。

興福寺が横槍を入れたのだ。

興福寺の言い分はこうである。多武峰は興福寺に納めるべき年貢を横領している。そんな連中の言うことを聞いて告文使を送るのはおかしい。もし送ってくるなら、その告文使を逮捕する。

さらに興福寺は、とんでもない要求を摂関家に突きつけた。多武峰の大織冠像を放氏せよ、というのだ。

放氏というのは、氏長者が氏人を藤原氏から除名する処分である。氏の一員としての資格を剥奪する。中世において、これは社会的な死に等しい重い処分だった。興福寺の大衆はこれを政治的な武器として頻繁に使った。

興福寺はそれを、人間ではなく木像に対して要求したのだ。鎌足の神像を藤原氏から追放しろ、と。

冷静に考えてほしい。放氏される対象は藤原鎌足である。藤原氏の始祖だ。その始祖の像を藤原氏から除名する。論理として完全に破綻している。

にもかかわらず、興福寺は本気でそれを訴えた。そして摂関家はそれを一笑に付すこともできなかった。

なぜかというと、この時点で「破裂」はもはや宗教現象ではなく、完全に政治的な交渉カードになっていたからだ。多武峰は破裂を報告することで朝廷を動かし、自分たちの立場を有利にできる。興福寺はそれを潰したい。だから神像そのものを訴訟の対象にする。神聖なものをめぐる争いが、神聖さを一切前提としない形で行われている。

結局、告文使は十月十八日に派遣され、破裂は平癒したことになった。だが十一月二十五日、また破裂した。一年のうちに二度である。

この頃から、破裂の霊験は明らかに劣化しはじめる。ある記録では、破裂の平癒が確認された翌日に、多武峰自身が争乱を起こしている。天下の安寧を祈って告文を読ませておいて、その翌日に自分が暴れる。誰がこれを信じるのか。

破裂記録その三・慶長十二年、最後の破裂

三件目にして最後、慶長十二年、一六〇七年の破裂である。これが記録に残る最後の破裂となった。

談山神社に伝わる『御破裂之覚』という文書に、この時の経緯が書かれている。読むと、破裂の認定がどういう手続きで行われていたかがよく分かる。

まず、異変が起きた。御破裂山が鳴動した。そして神光が四海に輝き、国々に光が飛んだという。地鳴りだけでなく、発光現象まで報告されている。

異変があった。では破裂したのか。それを確かめるために、占いが行われる。

最初に、明日香の冬野八幡宮で御湯、つまり湯立神事による占いが立てられた。結果は「御破裂である」という神託。次に、同じく明日香の大原の宮でも占った。こちらも同様に御破裂との神託が出た。

ところが、旧例に従って三輪市で辻占を立てたところ、結果が違ったのだ。御破裂ではない、と出たのである。

二対一、神託が割れた。

そこで、実際に神像を拝んで確認することになった。すると、確かに破裂していたのだ。そして、京へ報告された。

この一連の流れが異様に手続き的なのが分かるだろうか。まず異変の観測、次に複数箇所での卜占、判定が割れた場合の現物確認、そして中央への報告。神秘的な出来事を、行政手続きのような段階を踏んで認定している。逆に言えば、この時代にはもう「神像が割れました」という一言では通らなくなっていたということだ。証拠を積み上げないと信じてもらえない。

しかもこの慶長十二年という年には、微妙な背景がある。豊臣家による大織冠像の郡山への遷座をめぐるいざこざの記憶が、まだ生々しかった時期なのだ。多武峰の側が主体的に破裂を「発見」しに行ったのではないか、という疑いを完全には拭えない。

結局、この件は徳川家康の威光のもとで収束した。そして、多武峰に伝わる『多武峯大織冠尊像御破裂目録』という記録は、この慶長十二年を最後の破裂として記し、こう結んでいる。天下泰平になったため、以後破裂は起こらなくなった、と。

七百年続いた怪異が、たった一行で幕を引かれた。天下が泰平になったから、もう割れない。逆に読めば、それまでの七百年間、この国は一度も泰平ではなかったということになる。

白蛇が十五匹――末期の破裂は演出が過剰になっていく

破裂という現象の信用が落ちていく過程を、記録は正直に映している。

最も派手だったのは明応五年から八年、一四九六年から一四九九年にかけての四年間だ。この間、破裂と平癒が立て続けに五度も繰り返された。明応の政変で大和国が大混乱に陥っていた時期にあたる。

さすがにこれは異常だった。興福寺のある高僧は、記録の中でこう漏らしている。こんなに破裂がいつまでも続くというのは稀代のことだ、と。

稀代、つまり前代未聞、感心しているのではない。呆れている。あまりに頻繁だと、ありがたみが消える。破裂が政治日程の一部になってしまう。

そこから先、多武峰の報告は明らかに盛られていく。縦の亀裂だけでは足りなくなったのか、横にも亀裂が走ったと書くようになる。そして極めつけが、白蛇が十五匹現れたという報告だ。

白蛇十五匹、数が具体的すぎる。十匹でも二十匹でもなく十五匹。この妙な精確さが、かえって創作くささを漂わせる。

破裂の説得力を補強するために、周辺の奇瑞を足していく。この構造は、現代のオカルト情報の劣化過程とまったく同じだ。最初の核になる現象があり、それが繰り返されて陳腐化し、陳腐化を補うために付属現象が増殖していく。そして増殖したぶんだけ、全体の信頼度が落ちる。

永正三年、一五〇六年には三度の連続破裂。永正七年から八年にかけても三度。数だけ見ると、多武峰は室町後期に破裂を乱発している。そして乱発すればするほど、誰も真剣に受け取らなくなっていった。

焼かれつづけた山――多武峰という武装勢力

ここで、破裂を起こしていた側の実像を見ておきたい。多武峰は静かな山寺ではない。

観応二年、一三五一年十一月、失火によって全山が焼けた。南北朝の動乱のただ中である。永享元年、一四二九年には、大和の国人である筒井党と越智党の抗争に巻き込まれ、越智維通らが多武峰に逃げ込んでいる。

そして永享十年、一四三八年八月、幕府が本気を出した。細川、斯波、山名という幕府の主力軍が多武峰を攻撃し、全山を焼き払った。

このとき、大織冠の尊像は事前に橘寺へ避難させられていたのである。像が焼けるかもしれないと分かっていたのだ。像が多武峰に戻ってきたのは、三年後の嘉吉元年、一四四一年九月である。

嘉吉元年といえば、その年の六月に赤松満祐が将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱が起きている。将軍が家臣に殺されるという前代未聞の事件の三か月後に、鎌足の像は焼け跡の山へ帰ってきたことになる。

その後も止まらない。応仁三年、一四六九年二月には寺内の紛争で焼失。永正三年、一五〇六年の七月から九月にかけては、細川政元の配下の赤沢朝経が攻め込んで本殿が焼けた。永正十七年、一五二〇年に本殿を再建して正遷宮。永禄二年、一五五九年にまた本殿を造り替えている。

十四世紀から十六世紀にかけて、多武峰はほぼ数十年おきに焼かれている。にもかかわらず、そのたびに再建されている。三千石を超える寺領、四十を超える寺坊、多数の僧兵。多武峰は大和国の政治情勢に深く関与する軍事的・経済的な実体だった。

破裂は、こういう組織が発信していた情報なのだ。純朴な山寺が神秘体験を報告していたのではない。焼かれても焼かれても立ち上がる、したたかな寺社勢力が、中央政界に向けて放っていたシグナルである。

義経が隠れ、秀吉が像を動かした

多武峰にまつわる逸話をもう二つ拾っておく。

『吾妻鏡』は文治元年、一一八五年十一月二十二日から二十九日にかけての記事で、源義経が吉野山を離れて多武峰の南院に潜伏したことを伝えている。かくまったのは十字坊という悪僧で、のちに八人の悪僧が義経を遠津河のあたりまで送り出したという。悪僧というのは仏罰を恐れない乱暴者という意味で、要するに僧兵だ。頼朝に追われた義経を、多武峰の僧兵たちは一週間かくまい、そして逃がした。

国家権力に真っ向から逆らっている。

もうひとつは天正の事件である。天正十三年、一五八五年、豊臣秀長が大和郡山に入城した。秀長は多武峰の僧徒に武器の提出を命じる。事実上の刀狩りだ。武装を解かれた多武峰から衆徒は離散し、老衆や行人と呼ばれる僧だけが残った。

さらに秀長は、六千石の寺領と引き換えに、多武峰そのものを郡山城下へ移転させると言い出す。山を捨てて城下町に来い、というわけだ。天正十五年、一五八七年には郡山城下に社殿が完成した。この新しい妙楽寺は「新多武峰」「新峰」「新寺」と呼ばれた。

そして天正十六年、一五八八年四月、ついに大織冠の尊像が郡山へ遷されたのだ。鎌足の像が、九百年ぶりに山を下りたのである。

ここから怪異が始まる。

秀長の体調が悪化した。郡山城中で奇怪な現象が起きるようになった、と伝わる。何が起きたのかを具体的に書き残した記録は乏しいが、当時の人々が「大織冠の祟り」だと理解したことは間違いない。始祖の像を故地から引き剥がした報いだ、と。

結局、天正十八年、一五九〇年十二月二十八日、大織冠の霊像は多武峰への帰座を許された。年の瀬も押し詰まった日である。そして秀長は、その翌々年の初めに世を去っている。

破裂という現象が、この時期に一度リセットされたことも見逃せない。武装解除され、寺領を削られ、像まで動かされた多武峰は、それでも像の帰還を勝ち取った。そして帰ってきた像は、慶長十二年に最後の一回を割ってみせるのである。

明治二年、寺が消えた日

多武峰妙楽寺の終わりは、あっけない。

慶長八年、一六〇三年、徳川家康は多武峰に三千石余の寺領と山林百石を認めた。江戸期を通じて、多武峰は安定した宗教都市として存続する。幕末の時点で子院は三十三坊、雑役などを担う承仕坊が六坊、寺領は六千石に達していた。

建築も次々に整備された。元和五年、一六一九年に本殿が造営され、閼伽井屋が建てられたのだ。寛文八年、一六六八年には本殿が造り替えられ、旧本殿は末社の惣社本殿へと転用された。享保十九年、一七三四年には別の旧本殿が百済寺の本堂へ移築され、寛政八年、一七九六年には東大寺東南院の持仏堂になった。そして嘉永三年、一八五〇年の造替で、現在の本殿になる。

三間社隅木入春日造という形式で、日光東照宮を建てるときの手本にされたという伝えもある。

享和三年、一八〇三年には東大門が再建され、享保九年、一七二四年には高さ約八メートル半、長さ約十一メートル半の大鳥居が立てられた。

そこへ明治が来た。

明治二年、一八六九年二月、神仏分離令が多武峰に及ぶ。僧侶たちは還俗して神職になった。廃仏毀釈が実行され、妙楽寺という寺は廃止された。そして同年六月三十日、大祓の日をもって、この場所は談山神社と改称されたのだ。

千二百年近く続いた寺が、半年で消えた。

明治七年、一八七四年十二月二十二日、談山神社は別格官幣社に列格する。国家によって格付けされた神社になった。仏像の多くは山を出た。阿弥陀三尊像は明治十六年、一八八三年に安倍文殊院へ移され、のちに釈迦三尊像と呼び名を改められている。山に残った仏像は、如意輪観音像ただ一躯。

いまも秘仏として公開されていない。

現在、談山神社には本殿、拝殿、東西の透廊、楼門、東西の宝庫、十三重塔、権殿、神廟拝所、閼伽井屋、摂社の東殿、末社惣社本殿と拝殿、比叡神社本殿、摩尼輪塔と、あわせて十三棟の国指定重要文化財が建つ。神廟拝所は寛文八年の旧講堂で、権殿は永正年間、一五〇四年から一五二一年の間に再建された旧常行堂だ。名前だけが神社になり、建物は寺のままである。

そして文書が二千八百六十七点。この中に、あの破裂の記録たちが眠っている。

研究者たちはこれをどう読んだか

この破裂・鳴動という現象を、学問はどう扱ってきたか。

長らくこれは、民俗学的な奇談として片づけられてきた。山鳴りは地震か地滑りだろう。木像の亀裂は乾燥収縮だろう。それを凶兆と結びつけたのは前近代人の心性だ、と。

だがこの説明は、決定的なことを取りこぼす。なぜ多武峰だけなのか、という問題だ。

木彫像が割れる寺は日本中にある。山が鳴る地域も無数にある。にもかかわらず、それが七百年間にわたって国家の公式儀礼を発動させつづけた例は、他に思い当たらない。自然現象の説明では、この制度化された持続をまったく説明できない。

近年、この現象を政治史・法制史の側から捉えなおす研究が進んでいる。京都大学の高谷知佳による中世の怪異研究がその代表格で、『「怪異」の政治社会学』という書物では、室町期の人々にとって怪異がどのような機能を果たしていたかが論じられている。多武峰の破裂は、その格好の材料だ。

この視点で見ると、破裂の正体がはっきりしてくる。あれは訴えである。

中世の寺社勢力が中央に要求を通す手段はいくつかあった。強訴がその代表で、興福寺なら春日社の神木を担いで京へ押し寄せ、延暦寺なら日吉社の神輿を担いで大内裏に迫った。実力行使である。だが多武峰にはそのカードがなかった。興福寺の下に置かれた存在であり、独自に神木を担いで上洛する権威も動員力も、十分ではなかった。

そこで多武峰が使ったのが、始祖の像だったのだ。動かす必要はない。運ぶ必要もない。山に座ったまま、割れればいい。

割れれば、藤氏長者が動かざるをえない。なぜなら、割れているのは藤原氏の始祖なのだ。無視すれば、氏長者が始祖の警告を握りつぶしたことになる。藤原氏の氏長者にとって、これは政治的に極めて危険だ。だから告文使を送る。

送ることで、多武峰は「国家が自分たちに応答した」という実績を毎回積み上げる。

そして応答が積み上がるほど、多武峰の格は上がる。興福寺の末寺のような扱いを受けながら、朝廷とは直接パイプを持つ。実際、破裂のたびに藤氏長者に対して圧力がかかり、多武峰は藤原氏や朝廷に対して独立的な立場を確保していったという評価もある。

破裂は、武力を持たない者が発明した、最も効率のよい強訴だったのだ。

この読み方の説得力は、終わり方にも表れる。慶長十二年を最後に破裂は止まった。理由を「天下泰平になったから」と目録は書くが、実際にはもっと即物的だろう。徳川という圧倒的な権力が成立し、寺社の所領も身分も幕府が一元的に決めるようになった時点で、破裂は交渉カードとして機能しなくなった。訴えても、聞く側の回路が消えたのだ。

怪異が消えたのではない。怪異を受理する窓口が閉じた。

反証と、この説の弱いところ

とはいえ、この政治的機能説にも突っ込みどころはある。

まず、多武峰が意図的に像を割っていたという直接的な証拠はない。誰かが鑿を入れた記録は出てこない。木像が自然に割れて、それを解釈する側が政治的に利用したのだ、というのがおそらく実態に近い。全部が謀略だったと言うと行きすぎる。

次に、破裂の頻度と政治的緊張が本当に相関しているかは、実は厳密に検証しきれていない。明応期の集中は確かに大和の混乱と重なるが、逆に大事件があったのに破裂していない年も多い。承久の乱、南北朝の分裂、応仁の乱の勃発そのもの。国家的な大異変に必ず反応していたわけではないのだ。事後的に「あの破裂はあの事件の前兆だった」と紐づけられた例も少なくないはずである。

さらに、初期の破裂については記録そのものが薄い。昌泰元年の初出も、後世の目録に載っている数字であって、同時代文書で確認できるわけではない。九世紀から十二世紀の破裂は、室町期に整理されたリストとして遡及的に構成された可能性がある。

つまり、七百年間三十七回という数字そのものが、多武峰という組織が自分の権威を証明するために編集した「歴史」かもしれない。過去に長く続いてきた由緒ある現象だということにしたほうが、いま起きた破裂の重みが増す。目録の存在自体が、宣伝資料としての性格を帯びている。

このあたりは、伝承を扱うときの基本的な注意点だ。記録があること自体は、その記録の内容が事実であることを保証しない。だが記録が作られたこと自体は事実であり、そこには作った側の動機が必ず刻まれている。

鎌足の墓はどこにあるのか――異説を一つずつ

話を最初の問いに戻そう。結局、鎌足はどこに眠っているのか。候補は大きく四つある。

第一に、摂津国安威の阿武山古墳。『多武峯略記』の記述と、夾紵棺・玉枕・金糸冠帽という破格の副葬品、そして骨折痕が根拠だ。強い説だが、弱点もある。この古墳は文献に一切登場しない。誰の墓とも伝わっていなかった。

もし本当に大織冠の墓なら、九世紀の朝廷が多武峰墓を陵墓リストに入れたとき、なぜ摂津のこちらが候補にならなかったのか。伝承がすでに切れていたということになるが、それはそれで不自然だ。

加えて、被葬者の年齢六十歳ほどというのは、享年五十六とも五十とも伝わる鎌足と、ぴたりとは合わない。

第二に、大和国多武峰。天安二年に国家が公認し、以後千二百年にわたって鎌足の墓として祀られてきた。ただし考古学的な調査は行われていない。宮内庁の管理下にあり、発掘はできない。中に何があるのか、あるいは何もないのか、誰も知らない。

第三に、山城国山科。『藤氏家伝』の記述から、山科の陶原あたりに鎌足の邸宅があったとされ、京都市山科区に残る「大塚」の地名がその墓の痕跡ではないかという説がある。鎌足が興福寺の前身である山階寺を建てたのもこの地だ。故地に葬られた可能性は否定できない。

第四に、そもそも改葬などなかった、という説。多武峰の墓は最初から遺骨を伴わない霊廟であり、遺骨の一部を運んだという話は、聖地としての正統性を主張するために後から作られた縁起だ、という見方である。談山神社の公式由緒ですら「遺骨の一部を改葬」と書いている点に注目したい。全部ではなく、一部。この「一部」という表現に、分骨という便利な逃げ道が用意されている。

そして忘れてはいけないのが、この四つの説を成立させている根拠が、ほとんど全部『多武峯略記』一冊にぶら下がっているという事実だ。安威という地名を出したのも、改葬という筋書きを出したのも、定恵という実行者を出したのも、車持夫人の話を伝えたのも、同じ本である。十二世紀末の寺の縁起が、日本の古代史のこの一角をまるごと支えている。

なぜこの伝承は千年生き延びたのか

最後に、この記事全体の問いに答えておきたい。なぜ多武峰の破裂と鳴動は、千年も語り継がれたのか。

理由は三つあると思う。

ひとつ目は、対象が「藤原鎌足」だったこと。これが大きい。日本の中世において、藤原氏は例外的に長寿な権力集団だった。摂関家は形を変えながら千年生き延びた。その始祖を祀るということは、千年ぶんの利用者が確保されているということだ。

もしこの像が名もない神の像であれば、寺が焼かれた時点で消えていた。始祖の像だから、焼き討ちの前に橘寺へ避難させられ、秀長に運び去られても呼び戻された。

像を守るインセンティブが、常に誰かにあったのだ。

ふたつ目は、この現象が「検証可能な形式」を持っていたこと。山が鳴るだけなら、聞き間違いで終わる。だが多武峰の破裂は、割れた場所と長さを記録する。右面四寸余、と書く。四か所の立聞きの芝で複数の証言を取る。

三つの社で占って結果を突き合わせる。判定が割れたら現物を確認する。この一連の手続きは、近代的な意味では科学的でないにせよ、当時の基準では十分に「手続き的」だった。手続きがあるから、記録が残る。

記録が残るから、次の世代も参照できる。

みっつ目は、これが誰にとっても使い勝手がよかったこと。多武峰にとっては中央への交渉手段になり、朝廷にとっては政治の失敗を「始祖の警告」という形で受け止めて修正のポーズを取る機会になり、興福寺にとっては攻撃材料になり、地元の村々にとっては自分たちの土地が国家の一大事とつながっているという誇りになった。誰も損をしない。だから誰も止めなかった。

伝承が長生きするのは、それが本当だからではない。それを必要とする人間が途切れなかったからだ。多武峰の破裂は、その原理をこれ以上ないほど純粋な形で見せてくれる。

そして七百年目、必要とする人間がいなくなった瞬間に、あっさり止まった。天下泰平になったため以後破裂は起こらなくなった、というあの一行は、だから嘘でもごまかしでもない。まったくその通りなのだ。訴える相手がいなくなったから、訴えるのをやめた。それだけの話である。

いま御破裂山の頂に登っても、当然だが何も鳴らない。柵に囲まれた塚があり、風が木を鳴らし、遠くに大和三山が見える。ここに鎌足の骨があるのかどうかは、誰にも分からない。ただ、この山が七百年間「異常です」と言いつづけ、そのたびに国家が謝りに来たという事実だけは、二千八百六十七点の文書の中に、いまも残っている。

ここからは、記事本体で触れきれなかった論点をさらに掘っていく。

まず、破裂の回数をめぐる数字の揺れについて整理しておきたい。多武峰の破裂について、三十五回という数字と三十七回という数字が並存している。談山神社側の説明や、それを引く事典類は三十七回とする。一方、江戸期の目録を直接参照した記述では三十五回、告文使の派遣が三十三回となっている。鳴動については、昌泰元年から慶長十九年までに五十三回という別系統の数字がある。

この揺れは単なる誤記ではない。何を一回と数えるか、という定義の問題だ。ひとつの年に破裂と再破裂が起きた場合、それを二回と数えるか一回の事件と数えるか。鳴動だけあって破裂の確認に至らなかった件を含めるか。告文使が派遣されなかった破裂を回数に入れるか。

数え方の基準が違えば、数字は当然ずれる。

そしてもっと効くのは、これらの数字がどれも江戸期以降に作成されたリストに由来するという点だ。同時代文書を全部集めて数え直した結果ではない。つまり我々が今「三十七回」と言うとき、それは中世を通じて累積した実測値ではなく、近世に編集された正典の数字を引用しているにすぎない。多武峰は自分の歴史を、自分で確定させたのである。

次に、破裂の物理的な側面をもう少し考えてみたい。木彫仏や神像に亀裂が入るのは、材の性質からして避けられない。ヒノキやカヤの一木造りなら、乾燥が進むにつれて木口方向に干割れが走る。寄木造りであれば、接合部の膠が湿度変化で緩み、継ぎ目が開く。奈良や京都の古像を調査すると、割れのない像を探すほうが難しい。

問題は、その割れが「新しく生じたもの」だと誰がどうやって判定したか、である。前回の破裂で入った亀裂は平癒したことになっている。平癒とは、実際には仏師による修理だ。木屎漆を詰めるなり、木片を埋めるなり、漆で押さえるなりして、割れ目を塞ぐ。塞いだ上から彩色を直す。

すると外見上は「治った」ことになる。

そしてしばらくすると、埋めた部分が痩せて、また筋が出てくる。これは修理を施した木彫にほぼ必然的に起きることだ。つまり、修理をすればするほど、次の破裂が出やすくなる。破裂と平癒を繰り返すシステムは、物理的にも自己再生産的だったことになる。修理痕は新しい弱点になるからだ。

この循環を七百年続ければ、像は修理痕の集合体になる。実際、多武峰の大織冠像がどれほどの補修を受けてきたかを考えると、いま伝わる像がどこまで創建当初の姿を残しているかは相当あやしい。破裂という信仰そのものが、像の物理的な形を変形させつづけたのである。

三点目。方角による解釈体系について、もう一歩踏み込みたい。東は国王、南は藤氏長者、北は藤原氏人、西は万民、中央は多武峰の寺人。この配当は、単なる思いつきではなく、多武峰から見た実際の地理と対応している可能性がある。

多武峰から真北へ向かえば、奈良の興福寺と春日社があり、その先に平城京跡が広がる。藤原氏人の本拠地だ。北の鳴動が藤原氏人への警告というのは、地理的に筋が通る。西へ向かえば大和盆地の平野部が開け、無数の村と民が住む。西が万民というのも合う。

南は宇陀から吉野の山中へ。ここに藤氏長者を割り当てる地理的必然性は薄いが、南が最も格の高い方位とされる古代以来の観念を踏まえたのかもしれない。

東は伊勢へ向かう方角で、伊勢は天皇家の神域だ。東が国王というのは、伊勢神宮との連想で説明できる。

そう考えると、この解釈体系は伝統的な五行や方位観と、多武峰の実地理をハイブリッドで組み合わせたものに見えてくる。適当に振り分けたのではなく、聞いた人間が納得できるだけの説明の筋道が用意されていた。

四点目。立聞きの芝という制度について、もう少し考えたい。鳴動を聞くための場所が定められていたという事実は、この現象が「多武峰の内部で完結していなかった」ことを意味する。

もし山の中の僧だけが鳴動を聞いて報告するなら、外部からは検証しようがない。多武峰の自作自演を疑われる。だが粟殿、北山、針道、阪田という山外の四か所に聞き役を置けば、報告は多武峰以外の人間からも上がる。麓の村人が「確かに鳴った」と言えば、それは独立した証言になる。

しかもこの四か所は街道の要衝だから、そこには旅人や商人が絶えず行き来している。彼らは「今朝、多武峰が鳴った」という情報を持って各地へ散っていく。奈良へ、宇陀へ、飛鳥へ、大坂方面へ。噂が半日で広域に拡散する。

つまり立聞きの芝は、証言の複数化と情報の即時拡散という二つの機能を同時に果たしていた。これを意図的に設計したのだとすれば、中世の多武峰はメディア戦略においてかなり先進的だったことになる。仮に意図的でなかったとしても、街道沿いの村々が自然にその役割を担ったという事実自体が、この伝承の広がり方を説明してくれる。

五点目、放氏の話に戻る。永正七年に興福寺が大織冠像の放氏を要求した件は、突拍子もない話に見えるが、中世の氏という概念を考えると案外に理屈が通っている。

放氏は、氏長者が氏の構成員から氏人としての資格を剥奪する処分だ。放氏されると、氏社への参拝も、氏寺での法会への参加も、氏を通じた官職推挙も断たれる。当時の貴族社会において、これは実質的な社会的抹殺だった。

ここで効いてくるのが、放氏の対象になるのは「氏に属する者」だという一点である。興福寺が大織冠像の放氏を求めたということは、興福寺が神像を氏の構成員として扱っていたことを意味する。像は物ではなく、法的な人格を持つ存在だったのだ。

そう考えると、破裂という現象の意味もはっきりしてくる。像が意思表示できる存在であるからこそ、その意思表示は政治的な効力を持つ。そして意思表示できる存在であるからこそ、処分の対象にもなりうる。多武峰は像に発言権を与えることで力を得たが、同時に像を訴訟の被告席に座らせるリスクも背負った。興福寺はそこを正確に突いてきた。

実に嫌らしい、そして極めて論理的な一手である。

六点目。慶長十二年の最後の破裂について、もう少し踏み込みたい。あの時、卜占の結果が二対一に割れた。冬野八幡宮と大原の宮は「破裂あり」、三輪市の辻占は「破裂なし」。

辻占というのは、辻に立って通行人の言葉を聞き、それを神託とみなす占いだ。人為が入りにくく、素朴で古い方式である。一方、湯立神事は釜で湯を沸かし、笹の葉で湯をはねて託宣を得るもので、神職が主導する。人為が入りやすい。

破裂ありと出た二つは湯立系、破裂なしと出た一つは辻占系。この対比は偶然だろうか。多武峰と関係の深い社での神事は破裂を認め、街の辻での偶然に委ねた占いは否定した。この構図は、当時の人々にも見えていたはずだ。にもかかわらず、多数決で破裂ありとされ、現物確認を経て京へ報告された。

これは信仰の勝利というより、手続きの勝利である。三つのうち二つ、そして現物確認。この形式さえ整っていれば、報告は通った。逆に言えば、江戸初期の時点でもう、破裂は形式を整えないと通らないところまで来ていた。かつては像が割れたという一報だけで摂関家が動いたのだ。

それが、複数の卜占と現物確認を経ないと報告できなくなっている。権威の落ち方が手続きの重さに表れている。

七点目。定恵の年代矛盾について、もうひとつ視点を足したい。談山神社が「白鳳七年に唐より帰国した定慧」と言い、『日本書紀』が「天智四年に帰国、同年十二月に死去」と言う。両者の差は十三年ある。

ここで注目したいのが、白鳳という年号の性質だ。白鳳は正史に見えない私年号、いわゆる逸年号のひとつである。寺社の縁起や地方の伝承では頻繁に使われるが、朝廷の公式年号ではない。白鳳七年という表記が出てくること自体が、この由緒が正史とは別系統の伝承に依拠していることを示している。

つまり談山神社の由緒は、『日本書紀』と突き合わせて矛盾しているのではなく、そもそも『日本書紀』とは違う暦の体系で語られている。矛盾を指摘して終わりにするのではなく、なぜ別系統の年代が採用されたのかを問うべきだろう。寺社縁起における白鳳年号の多用は、奈良仏教の正統性を主張する文脈でしばしば現れる。多武峰も、自らの創建を白鳳期に置くことで、飛鳥仏教の直系だと主張したかったのかもしれない。

八点目。多武峰が天台宗に組み込まれたことの意味を、もう一度考えたい。延喜十八年の頃、多武峰は延暦寺無動寺の別院になった。以後、多武峰は天台の寺として、法相宗の興福寺と対立する。

これを「藤原氏の内輪もめ」と見ると本質を外す。むしろ、多武峰が生き延びるための選択だったと見るべきだろう。藤原氏の氏寺である興福寺の傘下に入れば、多武峰は興福寺の一部門になる。始祖の墓を持ちながら、意思決定権のない末寺になってしまう。

そこで比叡山と手を組んだ。比叡山は興福寺と対等以上に渡り合える唯一の勢力だ。その傘下に入れば、興福寺の直接支配を免れられる。代わりに焼き討ちを食らうが、独立は保てる。

そして多武峰には、比叡山が持っていないものがあった。藤原氏の始祖の墓と像である。比叡山にとっても、藤原氏の聖地を押さえておくことには政治的な価値があった。互いに利用し合う関係だ。

破裂という現象は、この宙吊りの立場から生まれている。藤原氏の始祖を祀りながら藤原氏の氏寺には属さない。だから氏長者に直接ものを言える。もし多武峰が興福寺の完全な末寺だったら、破裂の報告は興福寺を経由することになり、途中で握りつぶされていただろう。天台に属したからこそ、多武峰は独自の回路で摂関家に届く声を持てた。

九点目、地元に残る痕跡について。談山神社の背後の山中には、いまも破不動と呼ばれる岩がある。慶長期の破裂の際に割れたと伝わる大岩で、その割れ面に不動明王が刻まれている。山が鳴り、岩が割れ、その割れ目に仏を彫る。

破裂という出来事が、地形そのものに刻み込まれて信仰対象になっている例だ。

こういう物証は、伝承の持続にとって決定的に重要である。文書は失われるが、岩は残る。岩に彫られた不動を拝む人がいる限り、なぜここに不動があるのかという問いが繰り返され、そのたびに破裂の話が語り直される。伝承を運ぶのは書物ではなく、しばしば風景の側だ。

なお、多武峰周辺には増賀上人の墓も残っている。天禄年間に藤原高光を追って多武峰に入った天台僧で、奇行で知られた聖だ。高光は藤原師輔の子で、天徳五年に父の死をきっかけに比叡山横川の良源のもとで出家し、多武峰に草庵を営んだ。摂関家の中枢にいた若い貴公子の突然の出家は当時の都に衝撃を与え、その顛末は『多武峯少将物語』として書かれた。

この二人の存在が、多武峰の性格をよく表している。藤原氏の中枢から離脱した貴族と、奇矯なふるまいで権威を拒んだ聖。彼らが選んだのが多武峰だった。都の秩序から降りた人間が来る山であり、同時に都の秩序に向かって「異常あり」と叫びつづける山でもある。この二重性が、多武峰という場所の本質かもしれない。

最後に、この話をいま読む意味について書いておきたい。

多武峰の破裂は、要するに「システムの内部から異常を通報する仕組み」だった。通報者は権力を持たない。武力もない。だが通報のルートだけは確保していて、通報が上がると上位機関が必ず応答しなければならない。そして応答が積み重なることで、通報者自身の地位が守られる。

このモデルは、実は現代でも見覚えがある。異常を検知して報告する権利を持つこと。その報告を無視できない仕組みを作っておくこと。報告の形式を整え、複数の証言で裏づけ、記録として残すこと。多武峰がやっていたのは、宗教の衣をまとった、極めて実務的な情報統治の技術である。

そして、その仕組みは天下泰平とともに終わった。強大で安定した権力が成立すると、下からの異常通報は不要になる。あるいは、受理されなくなる。多武峰の破裂が慶長十二年で止まったという事実は、江戸幕府の統治能力の高さを示すと同時に、それまで機能していた声の回路がひとつ閉じたことも意味している。

御破裂山はいまも桜井市の南に静かに立っている。標高六百七メートル余、四等三角点。登山地図には短いハイキングコースとして載っている。山頂の少し手前、鎌足の墓とされる塚のまわりだけ、木立が妙に整っている。あそこが七百年間、この国の異常を告げつづけた場所だ。

いま鳴らないのは、天下が泰平だからか。それとも、鳴っても聞く者がいないからか。答えは、たぶん後者だろう。

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