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⛵ 支倉常長・慶長遣欧使節の謎――鎖国前夜、なぜ日本人はローマ教皇に謁見したのか

1615年、バチカンでひざまずいた侍

舞台はバチカンだ。1615年11月3日、ローマ教皇パウロ5世の前に、東洋から来た一人の武士がひざまずいていた。髷を結って着物をまとい、腰には打刀を差したその男の名は、支倉常長(はせくら・つねなが)という。仙台藩主・伊達政宗の家臣だった。

移動距離がまずおかしい。太平洋と大西洋という二つの大洋を越え、メキシコ、スペイン、イタリアを渡り歩いてきたんだ。会った相手はスペイン国王フェリペ3世と、ローマ教皇パウロ5世。当時のヨーロッパで世俗の最高権力者と宗教の最高権威者だった二人の両方に、日本の武士が謁見した。日本史でも例がほぼない。

時期も際どかった。徳川幕府がキリスト教を完全に禁じる前とはいえ、鎖国という時代の扉はもう閉まりかけていた。その扉がまさに閉じようとしている瞬間に、仙台の侍が地球を半周するような旅をやってのけたわけだ。

話はここで終わらない。世に言う「慶長遣欧使節」は、そもそもなぜ送られたのか。徳川の天下がほぼ固まった時期に、一人の地方大名が国家も関わらない規模の外交を独断でやれた理由もよくわからない。常長自身はこの旅の果てに何を得て、何を失ったのか。

陰謀論もにぎやかだ。史料の余白では、通商目的の裏に隠れた軍事同盟説や、政宗が東北に独立勢力を築こうとした野望説まで、今も渦巻いているんだ。栄光と悲劇が背中合わせのこの物語を、史実と異説を並べながら掘っていこう。

始まりは房総の海岸に打ち上げられた船だった

起点は1609年(慶長14年)までさかのぼる。スペイン領フィリピンの前総督、ドン・ロドリゴ・デ・ビベロが乗った「サン・フランシスコ号」が台風に巻き込まれた。流れ着いた先は上総国の岩和田村で、今でいう千葉県御宿町のあたりだ。船はそこで座礁した。

ここで家康が動く。徳川家康は一行を保護し、伊豆で建造したガレオン船を与えて帰国の便まで図ってやった。この一件が、日本とスペイン(当時のノビスパニア、つまりメキシコ)が直接つながるきっかけになる。太平洋越しの通商が、急に夢物語ではなくなった。

これを見逃さなかったのが伊達政宗だ。東北の雄として名は知られていたものの、天下はほぼ徳川で決まっていて、政宗に残された選択肢は多くなかった。ところが政宗の目は、もっと外側を向いていた。見ていたのは太平洋の向こうだ。

相棒は宣教師だった。政宗が手を組んだのは、フランシスコ会のルイス・ソテロだ。片や貿易を広げたい大名、片や布教を広げたい宣教師で、狙いはまるで違うのに利害だけが妙な形で噛み合ってしまった。こうしてスペインとローマへ独自に使節を送る、前例のない大仕事が動き出す。

一度しくじっても政宗はあきらめなかった

最初の試みは失敗した。1612年(慶長17年)、常長とソテロは「サン・セバスチャン」という船で浦賀を出た。ところが途中で暴風に遭って船は座礁し、遭難した一行はそのまま仙台へ引き返すはめになってしまう。出だしから散々だ。

それでも政宗は折れなかった。今の宮城県石巻市の雄勝の地で、本格的な洋式のガレオン船を造らせたんだ。当時の日本人が持っていた技術に、漂流してきたスペイン人航海士セバスティアン・ビスカイノの協力を組み合わせた。できあがった船の名は「サン・フアン・バウティスタ号」。

全長はおよそ55メートル。当時の日本人にとっては、異界からやってきた巨獣みたいな代物だった。こんな船を自前で仕立ててまで西洋へ人を送り出すなんて、鎖国前夜の日本では前例のない賭けだった。

月浦を出た巨船は、太平洋を一気に渡った

いよいよ出帆だ。慶長18年9月15日、西暦でいえば1613年10月28日に、船は牡鹿半島の月浦(今の石巻市)から太平洋へ船首を向けた。乗り込んだのは180人あまりで、正使はルイス・ソテロ、副使が常長という顔ぶれだった。

見送る人たちの目に、あの巨大な黒い船体はどう映ったんだろうな。船は太平洋を真っすぐ横断し、翌1614年の1月28日には、今のメキシコにあるアカプルコへとたどり着いた。同じ年の3月24日にはメキシコシティ入り。旅はまだ序盤だ。

ここから先は陸路になる。常長たちはメキシコを横切って大西洋側の港ベラクルスまで移動し、そこで船に乗り込んで、やっとヨーロッパへの海路に入った。地図を広げてみると、その遠さに目まいがする。

スペイン国王の前で、常長はキリシタンになった

ついにヨーロッパだ。1614年10月、船はスペイン南部を流れるグアダルキビール川の河口あたりに着き、一行はそこから川をさかのぼっていった。途中で上陸したのが、コリア・デル・リオという小さな町だ。当時はたぶん誰も気づかなかったろうけど、この一時の寄港が、400年後の今まで続く不思議な縁を生んでしまうんだ。詳しくは後で話す。

使節団はセビリアを経て、同じ年の12月20日にマドリードへ入った。年が明けた慶長20年1月2日、西暦だと1615年1月30日に、常長はスペイン国王フェリペ3世との謁見を果たしている。相手が相手だ。当時ヨーロッパ最大級の帝国を治める王の前に東洋の使者が立つ光景は、宮廷の内外で大きな話題になった。

驚くのはこの先だ。同じ年の2月17日、常長は王立修道院付属の教会で洗礼を受けた。洗礼名は「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラ」。国王が立ち会う場での洗礼なんて異例の厚遇で、これで常長は名実ともにキリシタンの仲間入りをした。ただ、国王のもとで授かったこの洗礼こそが、のちの常長の運命を大きく縛っていくことになるんだよな。

ローマは東洋の侍に熱狂した

次はいよいよローマだ。スペインでの謁見を終えた一行は、さらに地中海を渡り、1615年10月25日にローマへ到着した。待っていたのは、想像をはるかに超える熱狂だった。10月29日には「入市式」という盛大な行事が開かれ、常長ら日本人使節は貴族や市民の大歓声に包まれて市内を行進している。

当時のヨーロッパでは、極東の島国から侍がやってきたというだけで大ニュースだった。常長の肖像画が描かれ、イタリア人スキピオーネ・アマーティによる『伊達政宗遣使記』という来訪の記録まで出版された。ちょっとしたお祭り騒ぎだ。

本番は11月3日。この日、常長はついにローマ教皇パウロ5世との謁見を果たし、当時のカトリック世界の頂点にいる人物と向き合った。東北の一武士にとっては、とんでもない大舞台だ。

ローマの厚遇はまだ続く。同じ年の11月20日、ローマ市議会は常長に「ローマ市公民権証書」を授け、市民権と貴族の位まで認めてしまった。この文書は今もローマのカピトリーノ古文書館に保管されている。東北の一介の武士がヨーロッパの都で貴族として認められた記録なんて、日本史全体を見渡しても相当に珍しい。

笑える話もある。バチカンの博物館には、教皇に拝謁したとき常長が使った和紙、つまり懐紙が展示されていたとも伝わるんだ。西洋には鼻をかむための紙を使う習慣がなかった。そのせいで、たった一枚の和紙まで珍重されたというから、彼らが見世物めいた珍しさ込みで歓待されていたのがよくわかる。

政宗は何のために侍を海の向こうへ送ったのか

ここからが本題だ。伊達政宗はなぜ、空前の規模とコストをかけてまで、ヨーロッパの果てにまで使節団をわざわざ送り込んだのか。動機については説がいくつも乱れ飛んでいて、今もすっきり片づいていない。

一番よく知られているのが通商目的説だ。九州の大名や豪商がやっていた朱印船貿易に、東北の太平洋岸から割って入ろうとしたという見方になる。ノビスパニア、つまりメキシコとの直接貿易を開いて、仙台藩の懐を太くする狙いがあったという。裏付けもある。常長がフェリペ3世やローマ教皇に宛てた書状には、貿易船の往来許可や宣教師の派遣要請が書かれているんだ。

二つ目は軍事同盟説で、こっちは一気にきな臭くなる。政宗がソテロに託した口頭のメッセージとして、ある逸話がまことしやかに語られているんだ。「仙台藩主はキリスト教に改宗し、教皇のもとで戦う覚悟だから、日本統一のために力を貸してほしい」。そんな中身だったという。

これが本当なら話は大きい。政宗は当時最強の海洋帝国スペインの軍事力を借りて、徳川の天下をひっくり返すつもりだったのかもしれない。もちろん伝聞をもとにした推測の域は出ない。それでも野心家っぽい政宗の人物像と合わさって、後世の歴史ファンや作家をがっちりつかんで離さない説になっている。

三つ目は政宗野望説。幕府の全国統一と鎖国体制の強化に対抗して、政宗は東北に独自の外交と軍事のルートを築こうとしていた、と見る過激な説だ。いわば「もう一つの日本」を作る気だったんじゃないか、という陰謀論めいた読み方になる。

根拠にされるのは当時の状況だ。徳川幕府はキリスト教の統制を強め、全国の大名の外交権も絞ろうとしていた。その中で政宗だけが独断で大がかりな使節を出せたこと自体、幕府の目の届かない所で勢力圏を作ろうとした証拠だという見方だ。

後押しする材料もある。政宗が国王と教皇に宛てた書状には、「自らも洗礼を受け、奥州領内にキリスト教を広める意向がある」と明記されていた。ところが実際の政宗は、領内の神社仏閣を手厚く保護し続けている。キリスト教を自分で信じようとした形跡は、ほとんど見当たらないんだ。

この食い違いは何なのか。貿易を有利に運ぶための外交上の方便だったのか。それともソテロが書いたスペイン語の文書の中身を、政宗自身が正確につかんでいなかったのか、今も議論の的になっている。どっちにしても、政宗は結果として嘘を含んだ国際文書を出してしまった形になる。

四つ目はソテロの野心説。少し視点を変えて、布教を広げたいフランシスコ会の宣教師ソテロが、政宗という大大名の権威と資金を利用したと見るんだ。狙いは自分の宗教的な使命を果たすことにあった、という読みになる。この場合の政宗は主役というより、ソテロの個人的な野心に利用された側だ。

現実派の解釈もある。当時、太平洋横断航路を探検するためにスペイン人航海士のビスカイノが日本に滞在していて、彼が帰るための船が必要だった。その建造を徳川家康が政宗に命じたというんだ。石巻の地形がたまたま船の建造や出航に向いていたので、政宗はその機会に便乗して自分の使節を乗せた、という説になる。

この立場に立つと景色が変わる。遣欧使節は政宗が仕組んだ壮大な陰謀というより、幕府主導の対外政策の副産物だったのかも、という指摘まで出てくる。どの説が当たっているにせよ、はっきりしていることが一つだけある。常長が持ち帰った成果は、日本国内の情勢の変化で見事に水の泡になった。

7年ぶりの故郷は、もう別の国になっていた

常長が日本へ戻ったのは1620年(元和6年)の8月24日、西暦では9月20日だ。実に7年に及ぶ旅だった。待っていたのは栄光じゃなく冷たい現実で、彼がヨーロッパを回っている間に、幕府のキリスト教弾圧が本格化していた。禁教令は強まる一方だ。

ひどい話だよな。命がけで手に入れたローマ市公民権も、貴族の位も、教皇からの信頼も、鎖国へ向かう日本ではもう何の値打ちもなかった。それどころか、危ない「キリシタンの証拠」でしかなくなっていたんだ。

通商協約は結局まとまらなかった。政宗自身も幕府の禁教方針には逆らえず、常長を積極的にかばうことはなかったと見られている。主君も守ってくれない。かつてローマ教皇の前でひざまずいた男は、帰国後の仙台藩で冷遇され、ひっそりと暮らすことになった。

最期はそれから2年後だ。元和8年7月1日、西暦でいう1622年8月7日に、常長は享年51で、失意のうちに世を去っている。宣教師ソテロが1624年に書き残した手紙には、常長が「敬虔のうちに死去した」とある。それ以外の詳細は、史料にほとんど残っていない。

墓が三つある男、84歳まで生きていた説

最期も謎だらけ。公式には、帰国から2年で病死したことになっている。ところがその記録自体が、時の権力者に都合よく書き換えられたんじゃないかと疑う郷土史研究者もいるんだ。宮城県大郷町に伝わる研究資料の中には、常長は本当は84歳まで生きていたのでは、という説まで出ている。

もしそうなら筋書きはこうだ。表向きは死んだことにされ、ひそかに隠れキリシタンとして生涯を終えたのかもしれない。いかにも歴史ミステリーらしい仮説だけど、しっかりした証拠はないし、あくまで地方に残る伝承の域を出ない。

気になるのは墓の数だ。常長の墓と伝わる場所は、仙台市青葉区北山の光明寺、川崎町支倉の円福寺、そして大郷町東成田と、複数に分かれている。一人の人間の墓があちこちにあること自体が、彼の最期がどれだけあいまいだったかをよく表している。

悲劇は次の世代にも及んだ。常長の嫡男・常頼の代、寛永17年(1640年)に、支倉家の家臣にキリシタンがいたことが発覚する。その責任を問われて、支倉家は一時「お家断絶」の処分を受けてしまった。一部の家臣が処刑されたと語る伝承まで伝わる。

この件は、常長が生涯キリスト教の信仰を捨てず、その信仰が家中にも根強く伝わっていた証拠だとされる。命がけで手にした洗礼という栄誉が、結局は家族や家臣を破滅の淵へ追いやる呪いみたいなものに変わってしまったわけだ。やりきれない話。

救いもあった。支倉家は完全には取り潰されず、寛文8年(1668年)、常頼の子・常信の代になってようやく家名の再興が許されたんだ。その後は大郷町を拠点に第10代まで続き、第11代からは仙台市に移って今に至るという。

スペインの川べりに暮らす「ハポンさん」たち

後日談がすごい。スペインへの航路の途中、使節団はグアダルキビール川沿いのコリア・デル・リオという町に立ち寄っていた。実はこのとき、日本へ帰らずにこの地へ残った者たちがいたというんだ。キリシタンになった仙台藩士や、使節に同行した水夫たちが、そのままスペインに住みついたと伝わっている。

その子孫が面白い。彼らは今、「ハポン」あるいは「ハション(Xapón)」という姓を名乗っているらしい。コリア・デル・リオには、この姓を持つ人たちが今も数百人規模で暮らしているというから、なかなかの驚きだ。

1996年のこと。当時の駐スペイン日本大使だった坂本重太郎という人が、現地のラジオでハポン姓の人々に呼びかけたんだ。するとハポン姓を持つ約650人がセビリアに集まり、「ハポン・パーティー」が開かれたという。約650人だ。ちょっとした同窓会どころの規模じゃない。

縁はさらに続く。2013年には、当時の皇太子、今の天皇陛下が、慶長遣欧使節の出帆400周年を記念してコリア・デル・リオを公式に訪れた。現地の「サムライの末裔」たちとも交流している。町には支倉常長の像が建ち、石巻市とは姉妹都市になっているんだ。

見た目はどうか。今のハポン姓の人たちは、400年にわたる混血の歴史を経て、すっかりスペイン人そのものの外見をしている。日本人っぽい顔立ちというわけでもない。それでも彼らの多くが、自分の家系にはサムライの血が流れているという言い伝えを大事に受け継いでいるんだ。

地元のニュースや観光案内でも、彼らは「日本とスペインを結ぶ生きた歴史の証人」として紹介されている。肝心の裏付けはどうか。DNAの面から確かめた学術的な結論は、まだ出ていないんだ。あくまで口伝と姓の由来にもとづく物語になる。

それでも十分だ。400年前のたった一度の航海が、今のヨーロッパの片隅にくっきりと爪痕を残し、歴史ロマンとして大勢の人を惹きつけている。ハポンという姓そのものが、あの旅の生き証人みたいなものだ。

月浦から仙台、そしてローマへ残る足跡

旅の痕跡は今も各地にある。出帆の地とされる宮城県石巻市の月浦には記念碑が建ち、近くには「サン・ファン館」がある。正式名は宮城県慶長使節船ミュージアムで、サン・フアン・バウティスタ号を実物大で再現した復元船が展示されていた。

この復元船の運命がまた切ない。2011年の東日本大震災で被害を受け、老朽化も進んだことから、後になって解体されてしまったんだ。どこか本家の船がたどった運命を思わせる巡り合わせだ。

墓は各地に散らばる。仙台市の光明寺、川崎町の円福寺、それに大郷町と、常長の墓と伝わる場所はいくつもある。どれも、はるばるローマまで行って帰ってきた一人の侍の足跡を今に伝える場所として、大切にされているんだ。

史料の扱いも破格だ。「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館が所蔵していて、2001年に国宝に指定された。2013年にはユネスコの「世界の記憶」にも選ばれている。常長の油絵の肖像画は、日本人を描いた現存の油絵として最古のものとされ、和装で腰に刀を差した姿が描かれている。

絵一枚でも雄弁だ。400年前に東と西の文明がぶつかって混ざり合った、その瞬間の空気みたいなものが、この肖像には閉じ込められているんだ。ローマでは、カピトリーノの古文書館に常長のローマ市公民権証書が眠っている。一行の来訪を記録した本や版画も、ヨーロッパ各地の図書館や美術館にある。

野心と使命と忠誠が一度だけ打ち上げた花火

突き詰めれば、この使節は三つのまるで違う欲望がたまたま噴き出して生まれた、一度きりの花火みたいなものだった。一人の地方大名の野心、一人の宣教師の使命感、そして一人の武士の忠誠心。それが同じ船に乗ったんだ。

政宗の本当の狙いは通商だったのか、軍事同盟だったのか、それとも幕府の目の届かない場所での独自勢力づくりだったのか。決定的な証拠が出てこない限り、どれも説のままだ。ただ一つ言える。政宗が東北の地から世界地図を見据えていたこと自体、鎖国へ向かう時代の空気の中では異様なほど突き抜けていた。

常長の人生は落差がすごい。ローマ教皇の前にひざまずいて貴族に列せられた栄光の絶頂と、帰国後に誰にも顧みられずひっそり世を去った晩年がある。極端な二つが一人の人生に同居しているあたり、歴史ミステリーの主人公にぴったりの人物だ。

旅の記憶は消えていない。日本の博物館の中だけじゃなく、スペインの小さな町で暮らすハポンさんたちの姓の中にも、ひっそり息づいている。史実の空白を埋めようとする陰謀論や生存説がいまだに語られ続けているのも、この話が過去の外交記録で終わっていないからだ。

船出の海は今もある。いつか石巻の月浦に立ったり、コリア・デル・リオの街角でハポンという表札を見かけたりしたら、思い出してほしい。400年前、一人のサムライが本当にこの海を渡って、あの町までたどり着いたんだ。

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