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支倉常長・慶長遣欧使節の謎――鎖国前夜、なぜ日本人はローマ教皇に謁見したのか

支倉常長は、仙台藩から太平洋を渡り、スペイン国王とローマ教皇に会った武士だ。旅の規模だけでも十分すごいのに、伊達政宗が徳川幕府を倒すための軍事同盟を求めた、という説までついて回る。まず押さえたいのは、使節の航路と外交文書から確認できること。そして、政宗の胸の内を推測した後世の物語は分けて読むことだ。

月浦からローマまでの長い旅

日本とスペインの交流が動き出すきっかけの一つは、1609年、フィリピン前総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロの船が上総国で座礁したことだった。徳川家康は一行を保護し、帰国のための船も用意した。太平洋を挟んだ通商が、机上の話ではなくなりつつあった時期である。

伊達政宗はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロと組み、スペインとローマへ使節を送る。常長とソテロは1612年にも出航を試みたが、船が暴風に遭って戻った。次に用意されたのが、洋式帆船サン・フアン・バウティスタ号だった。

1613年10月28日、一行は現在の石巻市にあたる月浦を出た。船は太平洋を横断してアカプルコへ着き、メキシコを陸路で横断したあと、大西洋を渡ってスペインへ向かった。常長は1615年1月に国王フェリペ3世へ謁見し、2月には洗礼を受ける。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラだった。

同年秋にはローマへ入り、11月3日に教皇パウロ5世へ謁見した。11月20日にはローマ市公民権証書も授与される。この証書や常長の肖像、使節の来訪記録は今も残っており、日本の武士がヨーロッパの宮廷と教皇庁へ到達したことは、伝説ではない。

使節の目的は通商だったのか

もっとも現実的な目的として挙げられるのは、仙台藩とノビスパニア、現在のメキシコとの直接貿易だ。常長が携えた書状には、貿易船の往来や宣教師派遣の要請が記されていたとされる。政宗は、太平洋側から海外交易へ入り、仙台藩の経済を強くしようとしたと考えられている。

ソテロにとっては、布教の拡大が大きな目的だった。通商を望む政宗と、キリスト教を広めたいソテロ。両者の利害が重なったことで、大規模な使節が実現したと見ると筋が通る。

一方、政宗がスペインの軍事力を借り、徳川の支配へ対抗しようとしたという「軍事同盟説」もある。東北に独自の外交圏を築き、「もう一つの日本」を作ろうとしたという、さらに大きな説も語られてきた。ただ、その根拠とされるのは、ソテロが伝えたとされる口頭の内容や、政宗が将来の受洗に触れた書状などだ。政宗が実際にキリスト教を信仰した形跡は乏しいとされ、貿易交渉のための表現だった可能性もある。

船はもともと、スペイン人航海士ビスカイノを帰国させるため、家康が政宗に建造を命じたものだったという見方もある。その機会へ仙台藩の使節を乗せたのなら、計画は政宗単独の反幕府外交というより、幕府の対外政策に便乗したものになる。軍事同盟や独立構想を示す決定的な材料は確認できていない。

華やかな歓迎と、成立しなかった通商

スペインとローマで常長は丁重に迎えられた。ローマでは入市式が行われ、来訪を記録した書物や肖像も作られた。ただ、歓迎されたことと、外交目的が達成されたことは別だ。

常長が旅を続けている間、日本ではキリスト教への取り締まりが強まっていた。仙台藩が望んだ通商協約は成立しないまま、常長は1620年に帰国する。ヨーロッパで受けた洗礼や公民権は、日本では政治的な危険を伴うものになっていた。

帰国後の常長について、細かな記録は多くない。1622年に亡くなったとされ、ソテロはのちの手紙で、常長が信仰を保って死去したという趣旨を記している。失意のうちに冷遇されたという人物像はよく語られるが、その晩年を詳しく再現できるだけの材料は残っていない。

常長の死後、支倉家の家臣にキリシタンがいたことが問題となり、家は一時断絶の処分を受けた。その後、常長の孫の代に家名再興が認められたとされる。使節の成果は通商として残らなかったが、受洗と禁教の緊張は次の世代にも続いた。

生存説とスペインの「ハポン姓」

常長の墓と伝わる場所は、仙台市の光明寺、川崎町の円福寺、大郷町など複数ある。大郷町には、常長が公式の没年より長く生きたという説も残る。ただし、隠れキリシタンとして84歳まで生きたという話を裏づける確かな証拠は確認されていない。複数の墓があることも、それだけで生存説の証明にはならない。

スペインのコリア・デル・リオには、「ハポン」と読まれる姓を持つ人々が暮らし、使節団の一部が現地に残った子孫だという伝承がある。町に常長の像が建ち、日本との交流が続いていることは、旅の記憶が地域に根づいた証しだ。

ただし、ハポン姓の人々が使節団員の直系子孫だという話は、口伝と姓の由来に基づく。DNAによる結論も確定していないとされる。歴史的な交流の記憶と、血筋の証明は別だ。

慶長遣欧使節で確かなのは、常長たちが二つの大洋を越え、国王と教皇に会い、通商と布教を交渉したことだ。政宗の野望、生存説、ハポン姓の由来は、その旅の余白から生まれた説や伝承になる。事実だけでも十分に大きな航海だからこそ、余計な陰謀を確定事項にせず読んだほうが、常長の仕事の重さは伝わる。

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