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北海道・中央道路の鎖塚――囚人211人の犠牲と彷徨う影の噂

土饅頭の上に、鎖だけが残っていた

北見市端野町緋牛内。国道から旧道へ少し入ると、こんもり盛った土の山がいくつも並んでいる。

地元での呼び名は鎖塚(くさりづか)という。埋まっているのは囚人だ。明治二十四年、わずか一年足らずで切り開かれた中央道路、別名を北見道路。その突貫工事のさなかに死んでいった男たちが、この盛り土の下で眠っているという。

名前の由来が、聞いただけで胃の重くなる話だった。遺体に土をかぶせたあと、その男の足をつないでいた鎖だけが盛り土の上にぽつんと取り残される。それを見た誰かが鎖塚と呼びはじめ、その呼び名のほうが地名のように定着していった。

ネットでは、もっぱら心霊スポットとして通っている。夜になると鎖を引きずる音が聞こえる。霧の中に白い服の人影が立っていた。その人影を見た運転手がそのまま行方不明になった。先に出てくるのは、そういう話ばかり。

けどね、この場所の背後にあるのは作り話じゃない。囚人およそ千五百人が動員され、二百人以上が死んだ。それは記録に残る。

八か月で百六十三キロを切り開け

明治政府には焦りがあった。北海道内陸部の開拓と、南下してくるロシアへの備え。どちらも待ったなしの課題だった。

太政官書記官の金子堅太郎が動いたのは明治十八年。北海道を視察したあとに提出した復命書のなかで、内陸へ道路を巡らせて拓地殖民を急がなければロシアに対抗できない、と強く建議した。

ただ、肝心の人手が足りない。当時の北海道は屯田兵だけでまかなうには原野が広すぎたし、開拓へ回せる労働力もなかった。そこで政府が目をつけたのが、集治監――今でいう刑務所――に収監されていた囚人たちだ。

樺戸、空知、釧路。この三つの集治監に入っていたのは、殺人や強盗をはたらいた重罪人だけじゃない。明治十七年に埼玉県秩父地方で困窮した農民たちが蜂起した秩父事件の関係者、そして自由民権運動に連座して国事犯と呼ばれた思想犯たちも数多く含まれていた。

秩父事件は、生糸価格の暴落と重い負債に追い詰められた農民が、負債の据え置きや減税を求めて武装蜂起した事件になる。鎮圧されたあと、首謀者は死刑、関係者は各地の集治監へ送られた。政治的な理由で捕らえられた者まで、原生林の開削へ回されたわけだ。

明治二十四年四月、北海道庁長官の永山武四郎が号令をかけた。網走から北見峠を越えて上川に至る全長約百六十三キロメートルを、わずか八か月で通せという計画。正直、まともな工期じゃない。

動員された囚人の数は記録によって振れていて、千百人とも千五百人とも書かれる。機械力はほとんどなく、頼れるのは鉈と鋸だけ。その状態でエゾマツとトドマツの生い茂る原始林へ分け入り、木を倒し、根を掘り起こし、湿地には丸太を敷き詰めた。

夜が明ければ鎖の音とともに叩き起こされ、日が暮れるまで働かされる。宿営地へ戻っても、粗末な食事がわずかに出るだけ。看守は馬上から監視していて、逃げようとする者には容赦なく銃口が向けられた。

二人一組で足首をつながれたまま斜面を登り、倒木をまたぐ。その姿を想像すると、作業効率という言葉がいかに軽く響くかが分かる。

工事の出発点になった網走分監そのものが、この道路のために置かれた施設だった。明治二十三年、釧路集治監から囚人が網走へ大移動させられる。翌年から中央道路の開削が始まるので、順番としては道を通すために監獄を動かした形になる。

道の目的もはっきりしていた。網走と上川を結べば、オホーツク側から内陸へ兵と物資を運べる。開拓と防衛を一本の線で片付けようとした計画で、だからこそ工期を削れるだけ削った。

三百八十メートルに一人

食事の中身にも問題がある。白米に偏った献立が続いたせいで、ビタミンB1が決定的に不足していた。

そこへ出てくるのが脚気だ。当時は水腫性脚気と呼ばれ、手足がむくみ、やがて心臓が止まる。倒れる者が次々に出た。

犠牲が集中したのは明治二十四年九月から十二月にかけての時期になる。安国から北見峠を越えて上越へ至る約七十・八キロメートルの区間。この区間では千百十五人が出役し、そのうち百八十六人が命を落としたと記録されている。

一キロメートルあたり二・七人。三百八十メートル進むごとに一人が死んだ計算になった。

外役は朝から日没まで続く。夏場なら十二時間を超える日もあった。休みらしい休みは無く、雨でも作業は止まらない。倒れた者は宿営地へ運ばれるが、そこに医者が常駐していたわけでもなかった。

冬が近づくほど条件は悪くなる。雪が積もれば作業は鈍り、それでも工期は縮まない。弱った体に寒気が追い打ちをかけ、脚気で浮腫んだ足が言うことを聞かなくなる。

工事前半の死者二十五人を加えた二百十一人という数字が、この道路建設全体の犠牲者としてよく引かれる。ただ、この数字は確定していない。『遠軽町史』には二百七十一名とあり、東本願寺に残る法名記では二百三十八名。上川側の犠牲者まで含めれば二百六十五人を超えるという研究者の推計もある。

数え方がここまで揺れている時点で、当時この工事で人がどう扱われていたかが透けて見える。名簿がきちんと残る種類の労働ではなかった、というより残す気がなかったのだろう。

死者の数え方が資料ごとに違うのは、死亡届や埋葬記録を残す担当が現場に置かれておらず、工区を移動しながらその場で埋めてしまう運用が続いたためだと考えられている。数字が揺れる。それ自体が記録なのだ。

足かせのついた骨が、畑から出てくる

当時の監獄則では、外役に出る囚人は二人一組で足首を鎖につながれる決まりだった。連鎖と呼ばれた措置になる。

片方が倒れれば、もう片方も引きずられる。片方が逃げようとすれば、もう片方も共犯として扱われる。逃走防止としてはよくできた仕組みで、働かされる側からすれば地獄だった。

看守部長だった丸田俊夫の回想録『網走監獄沿革史』には、読むと背筋の冷える記述が残る。逃走を図って看守に射殺された囚人は、足の鎖をつけたまま道端に埋められることもあったというのだ。

開拓が進み、緋牛内周辺の土地を農民が鍬で起こすようになってから、それが表に出てきた。足かせをつけたままの人骨が、耕すたびに次から次へと土の中から現れたと伝わる。

昭和三十年代以降、北見道路の沿線だけで六十一体の遺骨が発掘され、改葬された。ただ二百人を超えるとされる犠牲者全体からすれば、これはほんの一部でしかない。

掘り出したのは研究機関ではなく、地元の人たちだ。畑から骨が出るたびに集め、寺へ運び、供養してから埋め直す。行政の調査が入る前から、そういう作業が何十年も続いてきた。

原野のどこかに、名前も分からないまま眠り続けている骨がまだある。そう考えると落ち着かない。ここが単なる歴史遺構として処理されず、どこか居心地の悪い場所として語られ続けてきた理由は、たぶんそのあたりにある。

テレビが石北峠と混ぜた

鎖塚が心霊スポットとして広まった経緯については、テレビの影響を指摘する声がある。

過去にオカルト系のバラエティ番組が、北見峠周辺の怪異を取り上げた回がある。その際に隣接する石北峠のエピソードと鎖塚の史実を一緒くたにして紹介していた、という書き込みが掲示板のまとめサイトに残る。峠の麓に鎖塚があるみたいな紹介の仕方をしていた記憶がある、と振り返るコメントを今も読める。

史実としての鎖塚と、峠道につきものの交通事故や濃霧にまつわる怪談。この二つが混ざり合い、元の記録とは別物の都市伝説へ肥大化していった可能性は高いだろうね。

番組が流れたあと、同じ話がオカルト系のまとめサイトへ転載され、そこから個人ブログへ広がる。孫引きが重なるたびに出典は遠のき、最後には誰が最初に言い出したかも辿れなくなる。よくある経路だ。孫引きの三代目あたりから、鎖塚は北見峠の麓にある扱いになっていた。

石北峠は石北峠で、冬の視界不良と急カーブで知られる難所になる。そこで起きた事故の記憶が、六十キロ以上離れた緋牛内の土饅頭へ吸い寄せられていった。地図を広げれば別の場所だと分かるのに、テレビの画面では隣り合って見えてしまう。

小樽のホテルで、ユニットバスの水が鳴った

訪れた人の体験談も、ネットにはいくつも上がっている。

あるバイク旅行者は、日没後の十八時ごろに鎖塚へ立ち寄った。記念に写真を撮ってから旭川方面へ走り出したというから、そこまでは何ごともなかったらしい。

ところが途中から、それまで何の異常もなかったのに突然ひどい頭痛に襲われ、悪寒まで出てきた。走り続けられず予定を変更して、小樽のホテルへ緊急で泊まることになった。

その夜、誰も入っていないはずのユニットバスから水が流れるような大きな音が響いたという。さらに部屋のドアノブがガチャガチャと音を立てて動いたとも書き残している。それまで霊的な体験など一度もしたことがなかったので、とても不思議だった。それが本人の弁になる。

翌朝になると頭痛も悪寒も嘘のように消えていて、風邪の症状すら残らなかった。写真を撮ったことが何かの引き金になったのではないか、と投稿者自身は推測している。

同じ型の話は他にもある。訪問したあとに体調が急変したという報告が、地元の心霊スポットまとめサイトや個人ブログに複数上がっている。

ただし断っておくと、これらの出典はいずれも口伝えとネット投稿で、一次資料による裏付けは取れていない。上川から網走までの単調な直線道路が延々と続く区間は、疲労した運転者が視覚的な錯覚を起こしやすい環境でもある。

先に知っている物語のほうが知覚を引っ張っていく現象を、心理学ではプライミング効果と呼ぶ。鎖塚の史実を頭に入れてから走れば、路肩の白い標識が人影に見えても不思議はない。体調の変化にしても、日没後の峠道を走ったあとの疲労と冷えで説明のつく範囲に収まる。

六地蔵と観音像の前で

地元である端野町の住民たちの受け止め方は、ネット上の盛り上がりとだいぶ違っている。

彼らにとって鎖塚は、恐怖を娯楽として消費する場所じゃない。開拓の礎を築いて死んでいった先人たちを弔う場所であり、地域の記憶そのものが刻まれた土地として扱われてきた。

夏。草を刈った直後の塚は、思っていたより小さく見える。案内板の前に立って数字を読み、それから土饅頭を見下ろすと、この下に人が入っているのだと、急に手触りをともなって分かる。鎖を引きずる音を期待して来た人ほど、そこで拍子抜けするらしい。

昭和五十一年には鎖塚慰霊奉賛会の手で供養碑と六地蔵が建てられ、今も鎖塚保存会が丁寧に維持管理を続けている。北見峠の山頂付近にも、昭和四十九年に中央道路開削殉職者慰霊の碑が建立された。毎年そこで慰霊祭が営まれる。

旅行口コミサイトに並ぶ感想も、意外なほど穏やかだった。三十九体の観音像が立ち並ぶ様子に歴史の重みを感じた。観光バスも立ち寄るスポットで、子供連れでも訪れやすい。そういう声が寄せられている。

保存会の仕事は地味で途切れない。草を刈り、倒れた石を起こし、案内板の文字が薄くなれば書き直す。誰かが手を入れ続けなければ、土饅頭は十年で藪へ沈む。塚が今も見える形で残っているのは、その繰り返しの結果だった。

恐怖の対象としてだけでなく、静かに手を合わせる場所として親しまれている面が、確かにある。

鎖の音より先に

網走監獄の歴史をひもとくと、数字がまた重くのしかかってくる。

明治二十三年、釧路集治監から網走へ大移動させられた囚人はおよそ千二百人。その後は最大で千三百九十二人にまで膨れ上がり、そのうち三割以上が無期懲役の重罪人だったという記録も残る。

厳寒の地で、脱獄すら難しい原生林を切り開かせる。その発想そのものが、当時の刑罰観と開拓政策がどれだけ近い場所にあったかを表している。

鎖塚にまつわる怪談は、幽霊譚として消費される以前に、まず近代史の記録として読まれるべきものだろう。約千五百人の囚人が動員され、二百人以上が過酷な労働の末に死んだ。

心霊現象の真偽を確かめる手立ては無い。ただ、この土地に刻まれた犠牲の重さのほうが、どんな都市伝説よりも遥かに重い。

北海道の観光案内で鎖塚の名を見かけることは少ない。網走監獄も層雲峡も、もっと分かりやすい目的地として並んでいる。峠を越える車の大半は、緋牛内の旧道へ入らないまま通り過ぎていく。

北見峠を越える機会があったら、慰霊碑に寄ってみてほしい。鎖の音を探すより先に、手を合わせる場所がそこにある。

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